【442】 呉越同舟相合傘  (くにぃ 2005-08-29 19:14:12)


まえがき
このお話は『パラソルをさして』で弓子さんがリリアン女子大学にやってきてから蓉子さまがリリアン女学園に祐巳を迎えに来るまでの間、という設定でかかれています。





「まだちょっとパラついているね」
 仕事の後片づけを終えて祐巳が薔薇の館の扉を開けた時は、既に夜の七時を三十分ほど回っていて、リリアン女学園の中は外灯の周りを除いて夜のとばりが落ちていた。



 梅雨の明ける数日前のある日の放課後、今日は都合が付かなくて薔薇の館に集まれないメンバーが多かったので、集まれた者だけでたまっていた事務処理をしていた。
集まれた者、とは志摩子さん、乃梨子ちゃん、瞳子ちゃん、そして祐巳の四人。令さまと由乃さんは部活の都合。お姉さまは……、祐巳の知らない理由で、今日もいなかった。

「後片づけは私がやっておくから、みんな先に帰って」
「いえ、大勢でやった方が早いからみんなでやってしまいましょう」
 すっかり遅くなってしまったので、一番通学時間の長い志摩子さんをなるべく早く帰してあげようとさりげなく言ったつもりだったが、志摩子さんにはそんな祐巳の気遣いはお見通しのようだった。
「うん、でも私このところずっとサボってたから今日は罰ゲームって事で。乃梨子ちゃんも志摩子さんと二人っきりで毎日遅くまでお仕事しててくれたから、たまには後片づけぐらいは私が変わってやらないとバチが当たっちゃう。だから、ね」
そう言って微笑む祐巳に、一呼吸ついて志摩子さんも笑い返して言う。
「そうね。じゃあ今日だけは祐巳さんのお言葉に甘えようかしら。ね、乃梨子」
「はい。お姉さま」
祐巳の心遣いがうれしくて、だからこそその気持ちを無にしないように、志摩子さんは祐巳の申し出に同意してくれた。そしてそんな志摩子さんの思いを察して乃梨子ちゃんも志摩子さんに従う。
こんな風に自然に相手を思いやれる仲間のいる薔薇の館へ帰ってこれたことを、祐巳は心からうれしく思うのだった。

「では、瞳子も後片づけをお手伝い致しますわ」
「え? いいよ。瞳子ちゃんも二人と一緒に帰って」
 瞳子ちゃんがそんなことを言おうとは思っていなかった祐巳はあわてて首を横に振るが、瞳子ちゃんは続ける。
「さっきの祐巳さまの論理ですと、あまりお役に立っていない瞳子も祐巳さまと一緒に罰ゲームを受ける必要があるでしょうから」
「そういうつもりで言ったんじゃないんだけど……。それに瞳子ちゃんは臨時のお手伝いで来てもらってるんだからあまり遅くまでやってもらうわけにはいかないよ」
「ですけど」

「祐巳さま」
 そんな二人の押し問答に割って入ったのは乃梨子ちゃんだった。
「祐巳さまお一人でここに残ると帰りもお一人になってしまって少し物騒だと思います。だから瞳子を使ってやってください」
乃梨子ちゃんが言外に言おうとしたことを察して、志摩子さんも続ける。
「乃梨子の言う通りね。瞳子ちゃん、悪いけどお願いできるかしら」
「はい、白薔薇さま」
祐巳と話していた時の仏頂面はどこへやら、瞳子ちゃんは祐巳に対しては決して見せない笑顔で志摩子さんに応える。その様子に少し複雑な祐巳だったが、この三人を相手に議論して勝てる自信はなかったから、素直に瞳子ちゃんの申し出を受けることにした。

「ごきげんよう。お先に失礼します」
「ごきげんよう。お疲れさま」
 ビスケット扉を出て行く志摩子さんと乃梨子ちゃんを見送ると、祐巳は水屋でティーカップとポットを洗う瞳子ちゃんに言った。
「ごめんね。瞳子ちゃんにまで残ってもらうことになっちゃって」
「別にかまいませんわ。演劇部の練習ではもっと遅くなることもありますし」
祐巳に背中を向けたまま、瞳子ちゃんはいつものように愛想のない口調で返事をする。
「それよりも祐巳さま、お手が止まってますよ。早く済ませてしまいましょう」
「う、うん。そうだね」
手伝いに来てもらっている瞳子ちゃんに祐巳がこんな風に言われてしまうのは、このところの薔薇の館ではもう日常になっていた。
 祐巳はテーブルの上にある仕掛かりの書類を片づけ、ふきんでデーブルを拭き、床を簡単に掃いて掃除を終えた。そのころには瞳子ちゃんも洗い上げた食器類を拭き終わり、棚の中に納めていた。
「やっぱり瞳子ちゃんに手伝ってもらって助かっちゃった。さ、私たちも帰ろう」
「そうですね」
二人は交代で手を洗いながらそう言った。



「あれ、どうしたの? 瞳子ちゃん」
 水色の傘を差して薔薇の館を出たところで待っていた祐巳は、なかなか出てこない瞳子ちゃんに声を掛けた。
「いえ、何でもありません。祐巳さまは先に行っててください」
見れば瞳子ちゃんは鞄を開けて中を探っている。おそらく折りたたみの傘を探しているのだろう。
「傘、ないの?」
「確か鞄に入れてあったと思ったんですが……」
放課後、薔薇の館にやってくる時には降っていなかったが、今は濡れながらバス停まで行くには少し強めの雨粒が落ちてきている。
「じゃあ一緒に行こ」
そう言って傘を差し掛ける祐巳に、瞳子ちゃんはいつもの勝ち気な顔で応える。
「いえ、瞳子はバス停まで走っていきますから」
「それじゃあ意味ないよ」
「えっ、意味って?」
祐巳の言葉の意味を理解しかねたのか、少し驚いたように聞き返す瞳子ちゃん。
「一人では物騒だって乃梨子ちゃんが言ってたじゃない。だから一緒に行こ」
「ああ、そういう意味ですか。……それでは失礼して入れて頂きます」
そう言う瞳子ちゃんが少しがっかりしたように見えたのは祐巳の気のせいだろうか。でも他にどんな意味があるのか、祐巳には思いつかなかった。

「瞳子が持ちますわ」
「いいよ。私が持つから」
「この場合入れてもらった方が持つのが普通です。祐巳さまも少しはその辺を察してください」
「そ、そうなのかな。じゃあお願いね」
そんなやりとりを経て、二人は一つの傘で薔薇の館を出た。



 銀杏並木を正門へと向かって歩く祐巳は、少し気まずかった。
瞳子ちゃんと二人、雨の降る暗い中を一つの傘に身を寄せ合って歩く日が来るなんて、ついこの間まではとても考えられることではなかったのだから。
 瞳子ちゃんとは祥子さまを挟んでライバルだったはず。いや、今でもそうかもしれない。それなのに祐巳はいつの間にかごく自然に瞳子ちゃんに笑いかけることができるようになっていた。
 自分は瞳子ちゃんとの間の垣根を取り払うことが出来たのだろうか。そう自問してみるが答は分からない。
ふと気づけば、瞳子ちゃんもやっぱり気まずいのか、さっきから黙り込んでいる。だから祐巳は思いきって言ってみた。

「雨もたまにはいいものだよね」
「えっ?」
言葉の真意を計りかねたのか、思わず祐巳の顔をのぞき込む瞳子ちゃんに、前を向いたまま祐巳は続ける。
「だってほら、こんなふうに瞳子ちゃんと二人で歩けるんだから」
どう応えていいのか分からないらしい瞳子ちゃんは、うつむき加減でそのまま黙って聞いている。
「私ね、この間まで瞳子ちゃんのことちょっと苦手だった。瞳子ちゃんもそうでしょ。でも今ではこうして二人で一つの傘に入って歩くことができる。お互い少しずつ歩み寄れている。それってなんだか素敵なことだよね」
「瞳子にはよく分かりません」
心なしかいつもより勢いのない瞳子ちゃんの答に、かまわず祐巳は続けて言う。
「だからきっと私たち、この先もっと仲良くなれるよ。そうなれたらいいよね。……あっ、雨、もうあがってるみたい」
傘の外に手を差し出した祐巳は、雨粒が落ちてこないのを確かめると瞳子ちゃんから傘を受け取り、そっと閉じた。

「ほら見て。きれい」
 祐巳が指さす先には、雲の切れ間から白く輝く月がのぞいている。
「本当。きれいですね」
外灯の薄明かりに照らされて月を見上げる瞳子ちゃんの横顔は、いつもより軟らかい表情に見えた。


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