【453】 ラストチャンス旅の恥はかきすて  (柊雅史 2005-08-31 00:12:51)


草津の温泉宿へ、二泊三日の卒業旅行。
車を出すと言い張る聖を、必死の説得で説き伏せて、往復は快適な特急列車で悠々自適。のんびりと流れる風景など見ながら、駅弁に舌鼓を打つ。
忙しかった学園生活を思えば、卒業旅行くらいはそんな風にのんびり過ごしたいものだ。
「――って、遅い。遅すぎるっ!」
腕時計を30秒おきに確認しながら、蓉子はとんとんと地面をつま先で叩きながら、何度目かも分からない文句を口にした。
「もう10時。待ち合わせは9時よ!? なんで聖は来ないのよっ!」
「寝坊じゃないの?」
特急への乗り換え時間を考えて、切羽詰った様子の蓉子の隣で、鞄に腰を下ろした江利子が欠伸交じりに応えてくれた。
「それはないわ。今朝、7時に電話で起こしたもの」
「じゃ、二度寝だ」
「そんな馬鹿な!」
断言する江利子に蓉子は首を振る。
「だって、卒業旅行に行こうって言ったのは聖じゃないの! なんでそれで二度寝するのよ!?」
「聖だからねー」
江利子がピコピコと携帯を弄りながら気のない相槌を返す。
「蓉子も学習しないわねー。それで遅れるのが聖じゃないの」
「達観しないでっ!」
蓉子が睨むけれど、江利子は涼しい顔だ。リリアン女学園の生徒であれば、確実に震え上がるであろう元・紅薔薇さまの一喝だけど、それを意に介さない人物が二人だけいる。その一人である江利子はちらりと蓉子を一瞥しただけで、再び携帯に視線を落とした。
「全く、特急に遅れたらどうするのよ。せっかくの卒業旅行が最初からめちゃくちゃだわ。せっかく早目に待ち合わせたのに」
「聖もそれを見越してるんじゃないの? 私も30分遅れてきたし」
「遅れないでよ! ギリギリの時間指定だったらどうするつもりよ!」
「ありえないし」
断言する江利子が憎らしい。そりゃ確かに、この二人と待ち合わせする時は、いつも早目の時間を告げてきたけれど。それを見越してそれ以上に遅れるんだから、本当にどうしようもない。一度痛い目に合えば良いと思っていたけれど、何も自分が巻き込まれる今日、その痛い目が巡ってこなくても良いではないか。
しかも、きっと痛がるのは蓉子一人なのだ。
「あぁ……もうダメ。もう間に合わない。特急が行っちゃう。計画が全部パーだわ」
ついに時刻がリミットの10時15分を指し、蓉子はがっくりと項垂れた。特急列車の快適な旅も、美味しい駅弁も、温泉巡り前の観光も、これで全て白紙撤回である。
「なんでよ……どうして、最後の最後まで」
「蓉子蓉子、ホラ。これ見なさいよ」
脱力する蓉子に、江利子が携帯を蓉子に見せる。
「なによ……?」
「各停の路線図。安心して、私の計算だと夜の10時には現地に到着するから!」
えっへん、と胸を張る江利子に、蓉子の頭のどこかがぷちん、と切れた。
「あんたはー! なんで最初から諦めてんのよー!」
「あっはっはー! 蓉子、こわーい!」
携帯を叩き落とそうとした蓉子の攻撃をひょいとかわしながら、江利子が心底楽しそうに笑っている。


草津の温泉宿へ、二泊三日の卒業旅行。
同行者に江利子と聖を選んだ時点で、優雅な旅など期待したのが間違いだったのだろう。


のっけから人災に次ぐ人災で、二泊三日の卒業旅行の初日は、移動だけで潰れてしまった。
宿に着いたのは深夜2時。既に各駅停車の電車もなく、かなりの長距離をタクシーに頼るという、甚だコストパフォーマンスの悪い方法ながら、それでもどうにか宿の姿が見えて来た時、蓉子は危うく涙を流しそうになった。
とりあえずタクシーの支払いは江利子が持っていたお父様のカードに頼る。今度絶対に返さなくては、と思いながら、蓉子は後部座席で寝息を立てていた聖をよっこいしょ、と背負った。
「うぅ……なんで私が、こんなことまで」
「まぁまぁ。じゃ、私は先に行ってチェックインしてくるから」
「よろしく。――なんかもう、江利子がとても頼りに思えてくるわ……」
もっとも、到着がこんな時間になってしまった原因の半分は、その江利子にあるのだけど。ちなみに残りの半分は、蓉子の背中で健やかな寝息を立てている聖が作ってくれた。
旅行中の女の子を聖がナンパして乗車時間に遅れるわ、江利子が駅の売店で見付けたミニゲームにハマって2時間ロスするわ、聖が迷子になるわ、江利子がふらふらと逆方向の電車に乗るわ――これが名高い薔薇さまの取る行動かと、蓉子は何度マリア様にお伺いを立てただろう。
詳しく思い出すと背中の聖を地面に叩き落したくなるので思い出さないよう努力して、蓉子は宿の玄関をくぐった。
「部屋は203だって」
江利子がチャラチャラと鍵を回しながら言う。
「残念ながら、夕飯は終わっちゃったそうよ」
「当たり前でしょ! ああ……雅コースのお夕飯だったのに」
「まぁまぁ。とりあえず今日はもう寝ましょ。疲れちゃったわよ、私」
「誰のせいだと思ってるのよ!」
まるっきり他人事のように言う江利子に一応怒鳴っておく。どうせ効果はないのだろうけど。
「203だから、二階ね」
案の定、江利子は完全に蓉子を無視して鞄をよいしょと背負う。
「江利子、せめて交代して。意外に、重くて」
「イヤよ、なんで私が。それに聖だって、蓉子ならともかく私に背負われたなんて知ったら、絶対怒るわよ」
「まさか。そんなことで怒るわけないじゃない」
「怒るってば。聖は蓉子ほど私に懐いてないからね」
ひらひらと手を振って先に階段を上がって行く江利子に、蓉子はちょっと背中の聖を振り返った。
ぐっすりと、安心しきった顔で眠っている聖。
江利子の言うことを額面通りに受け取るつもりはないけれど――確かに、こんな風に無防備な聖を見れるようになったのは、ごく最近のことだ。
「――仕方ないわね」
よっと聖を背負い直して、蓉子は階段を上った。階段を上りきったところで待っていた江利子が、にこりと笑う。
「ここで一句。蓉子もおだてりゃ階段を上る」
「江利子ー!」
「蓉子、近所迷惑よー」
けらけらと笑って部屋に向かう江利子を追いかけた蓉子の背中で、聖が少し身じろぎした。


翌日もしっかり寝坊した聖のお陰で、立て直した計画を再修正しつつ、それでも蓉子たちはそれなりに観光を楽しむことが出来た。
温泉は気持ちよかったし、リベンジの雅コースは美味しかったし、それなりに満足な一日だったのだけど――その辺りの話はまた別の機会にして。
事件はその夜。食後の温泉を楽しんだ蓉子が、部屋に戻ったところで起こったのだ。


「あ、蓉子、お帰りー」
すっかりリラックスして戻ってきた蓉子を出迎えたのは、僅かに頬を紅潮させて、上機嫌に手にした缶をひらひら振る聖だった。
「ただい……ま?」
反射的に返事を返した蓉子の視線が、聖の手にした缶に注がれる。
『えびちゅビール』
缶のロゴを読み取った蓉子の顔から、一気に温泉のほてりが吹き飛ぶ。
「聖! あんた、何飲んでるのよ!」
「へ?」
きょとん、とする聖から缶を奪い、蓉子はじっくりと缶を観察する。
『えびちゅビール アルコール分・6%』
じっくり見ても、缶の銘柄は変わらなかった。
「聖! 私たちはまだリリアンの生徒なのよ!? 今月末まで!」
「まぁまぁ、固いこと言わないの」
目を吊り上げる蓉子に、横手から江利子が言う。
「良いじゃない、少しくらい。美味しいわよ〜?」
「江利子まで!」
蓉子は目眩を感じて思わず顔を手で覆った。
そりゃ、卒業旅行なのだし、多少のハメを外したくなる気持ちは分かる。
でもまさか、幼稚舎からリリアン女学園に通っている聖と江利子が、こうもあっさりアルコールに手を出すとは思わなかった。
「信じられないわ……あなたたち、仮にも元・薔薇さまでしょう」
「そうよ。元・薔薇さまよ。今はもう、薔薇さまじゃないわ」
江利子が笑ってぐいっと缶を煽る。
「優等生はもうおしまい。元々、私も江利子もい〜加減な性格だしね」
聖が傍らのビニール袋から新たな缶を取り出してにしし、と笑う。
「だからって、ビールなんて」
「蓉子ってホント、固いわよね。大丈夫よ、ちょっと悲しくなるけど、私たち、どう見ても大学生くらいに見えるって」
「変な貫禄身についちゃったしなぁ〜」
苦笑して、ぐいぐい缶に口をつける江利子と聖。
確かに江利子の言うとおり、十分大学生で通るとは思うけれど、それでもお酒は二十歳からだ。そして蓉子たちはまだ18である。
「でも……」
「あのさ、蓉子。蓉子って一度でも良いから、校則破ったことってある?」
やっぱりダメ、と言おうとした蓉子に、江利子が聞いてくる。
「……ないけど」
「私はあるわよ。破りまくり。しかもみんなの前でプロポーズまでしちゃったわ」
「それなら私は、駆け落ち未遂だ」
軽い口調で言う聖に、蓉子は思わず目を丸くする。
そんな蓉子を見上げて、聖は笑った。
「そーゆう思い出もさ、あっても良いんじゃない? 蓉子にも」
「まぁ卒業旅行でビール、なんてちっちゃい思い出だけど。蓉子にはそのくらいでちょうど良いんじゃないの?」
江利子が立ち上がって、手にした缶を蓉子に差し出す。
続いて聖が、同じく手にした缶を江利子の横に伸ばす。
「乾杯しよう。私たちの友情に!」
聖がにやにや笑いながら言う。
明らかに本気じゃない表情――だけど。
そんな風に言われたら、断れないのが蓉子の性格だ。
「――全く。バレて学校に通報されても知らないわよ?」
「その時は蓉子が守ってくれるから大丈夫」
「誰が守るもんですか」
蓉子は聖を睨んでから、聖から取り上げた缶を、江利子と聖の差し出した缶に触れさせた。
ぼこん、とちょっと情けない音がする。
「乾杯」
渋々ながら缶に口をつけた蓉子に、聖と江利子が満面の笑みを浮かべる。
「勝った!」と言わんばかりの表情に、ちょっと腹が立ったけれど――温泉上がりのビールは思ったよりも美味しかったので、二人を怒鳴るのは止めておいてあげた。


意外にも最初に潰れたのは江利子で、布団に潜り込んだ江利子のために電気を消して、蓉子と聖は窓際の壁に背中を預け、二人で並んで座ってグラスを傾けていた。
「ビールどころか、ワインと日本酒まで。いつの間に手に入れたのよ」
「実は昨日、家から送ったのよ。それで遅刻したってワケ」
「――最悪だわ」
得意げな聖に蓉子は溜息を吐く。
「でも蓉子がこんなに強いとは思わなかった。案外、イケル口じゃないの。本当は結構飲んでるんじゃないの?」
「せいぜいおとそくらいよ。むしろ江利子が弱いのに驚いたわ」
「言えてる。一気にヒートアップしてばったり。まぁ江利子らしいと言えば、江利子らしいけど」
聖が笑いながら日本酒をグラスに注いでくる。蓉子が日本酒、聖がワインって言うのも、なんとなくイメージが逆だった。
日本酒を一口飲んで、蓉子は軽く溜息を吐いた。
「卒業旅行でお酒飲んで大騒ぎ。とても祥子には言えないわね」
「祥子は潔癖だからねー。良いじゃない、私たちだけの秘密ってことで」
聖が蓉子の肩にもたれてくる。普段なら邪険に追い払うところだけど、今日くらいは良いかと、蓉子はおとなしく肩を貸してあげた。
「あー……絶対私の方が強いと思ったのに。ダメだ。蓉子、強すぎ……」
グラスに半分ほど残ったワインを持て余しながら、聖が眠そうな声で言う。
「せっかく、蓉子酔わして悪戯してやろうと思ったのに……」
「それは残念でした」
いかにも聖と江利子が考えそうなことに蓉子は苦笑した。存外にアルコール耐性が強くて助かった。朝起きたら額に『肉』とか、やりかねないから怖い。
「うん、残念。ちゅ〜してやろう、と思ったのに」
「……何バカなこと言ってるのよ」
「いや、ホントに。最後くらい、良いかなって。えっと……旅の恥はかき捨てって言うじゃない?」
「言うけど、用法として間違ってるわよ、それ」
「蓉子は最後まで固いねぇ……」
聖がのろりと体を起こして、ワインの残ったグラスを傍らのテーブルに置いた。
そのまま「ギブアップ〜」と言いながら、蓉子の膝に体を投げ出してくる。
「――もう寝る。おやすみ」
一方的に宣言して、すぐに「くー」と意外に可愛い寝息を立て始める。
散々勧めてきた二人が揃って先に撃沈という展開に、蓉子は苦笑する。この3年間――あるいはもっと前から、いつだって同じ展開だった。
聖と江利子に巻き込まれた蓉子が、結局最後まで残って後始末をするハメになる。山百合会の仕事もそうだったけど、こんな宴会まで同じ展開なのだから、もう笑うしかない。
「でも……それが楽しいのよね、結局」
グラスに残った日本酒を少しずつ飲みながら、蓉子は眠っている聖を見る。
「旅の恥はかき捨て――か」
聖の少し癖のある髪を撫でながら、蓉子は身をかがめた。
用法としては明らかに間違ってる――と思うけれど。
聖の言う通り、最後くらいは良いかな、と蓉子は思った。
「聖……」
聖と出会って6年間。一度も口にしたことのないセリフを、そっと耳元で囁いた。
「好きよ」
目を閉じたままの聖の唇が、「私も」と小さく動いた。


翌朝、目が覚めると江利子が既に起きていた。
「おはよう、蓉子、聖」
昨夜は一人だけ先に潰れてしまったと言うのに、江利子は上機嫌だった。
「もうすぐ朝ごはんだって。早く支度して行きましょうよ」
どこかハイテンションな江利子に促され、蓉子は戸惑いながら部屋を出て大広間へ向かう。
ちょっと頭が重いのは、きっと軽い二日酔いというやつだろう。
それがなければ、もっと早く江利子の様子からピンと来たはずである。
朝ごはんを食べ、最後にもう一度だけ温泉に入ろうと、大浴場の脱衣室に足を踏み入れたところで、蓉子はようやくそれに気付いたのだ。
額に描かれた『肉』の字に。
「え、江利子ーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」




旅の恥はかき捨てと言うけれど。
額に肉のまま朝ごはんを食べ、館内を歩き回ったあの旅館には、もう二度と行けないなと、蓉子は思うのだった。


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