「もう可南子さんとは一切口をききませんわっ!」
瞳子が爆発して教室に響き渡る叫びを上げたのは、何日前のことだっただろうか。
「そう、それは静かで助かるわね」
沸騰する瞳子に対して、可南子さんは冷たい視線で応じていた。
爆発した瞳子の勢いに抗することの出来る人材は、ここリリアン女学園にはそれほど存在しないのだが、可南子さんはその貴重な人材の一人である。
「そうですか! ではもう、顔を合わせても挨拶もナシですわよ!?」
「ええ、構わないわ」
冷静に頷く可南子さんに瞳子はむー、と顔を赤くした。
普通の友人ならそこで互いに歩み寄りを見せるところだけど、今回ばかりは瞳子の方が分が悪い。あいにく、そんな普通の脅しに動じるような人物ではないのだ、可南子さんという人は。
「ぜったい、ぜーったいですわ!」
「だから、分かったってば」
ムキになる瞳子に可南子さんがうんざりしたように溜息を吐く。
今回は瞳子の完敗だな、と様子を伺っていた乃梨子は判定を下した。しかし、毎日のように同じような口論を続けておいて、これで仲が悪いのだと二人揃って言うのだから、どうにも手に負えない友人たちである。
「ふん、ですわ!」
瞳子がちょっと悔しそうにそっぽを向いた。
そんな騒動があったのが――確か、乃梨子の記憶では一週間前のこと。
どうせ次の日にはまた口喧嘩というか、馴れ合いを再開するんだろうな、という乃梨子の予想は、驚いたことに見事に外れていた。
「ごきげんよう、乃梨子さん」
「あ、可南子さん。ごきげんよう」
瞳子と話していた乃梨子に挨拶をする可南子さんは、すぐ隣にいる瞳子には声を掛けようとしない。瞳子は瞳子で、負けるもんですか、みたいな顔でつん、とそっぽを向いている。
もしかしてこれは、乃梨子の想像以上にマズイ状態なんじゃなかろうかと、席に着く可南子さんの背中を眺めながら思う。
「ねぇ、瞳子。あんたまだ、可南子さんと――」
「乃梨子さん、その名前は出さないで下さいませ!」
ぷい、と横を向く瞳子に乃梨子は嘆息した。
学園祭以降、乃梨子とはまた違った友情で結ばれた――と思っていた二人の関係が、危機を迎えようとしている。
これは――めんどいけど、私が動かなくちゃダメかな、と乃梨子は真剣に考え始めるのだった。
ここのところ昼休みも放課後も、薔薇の館で過ごしていた乃梨子は気付いていなかったのだが、瞳子と可南子さんの仲は本気でマズイことになっているように見えた。
「乃梨子さんとお昼なんて久しぶりですわ」
乃梨子や美幸さんたちとテーブルを囲んだ瞳子が嬉しそうに言う。そしてこの場には可南子さんもいる――のだが、二人は全く目を合わせようとはしない。
お喋り好きの瞳子は、乃梨子にも美幸さんにも敦子さんにも話しかけるけど、可南子さんには絶対に話を振らないし、可南子さんは可南子さんで、乃梨子や美幸さんや敦子さんには話しかけるけれど、瞳子には絶対に視線を向けようとしない。
間に挟まれた乃梨子の居心地は、正に最悪だった。
「勘弁してよ……」
志摩子さんとのランチタイムを犠牲にして、こんな仕打ちなんてあんまりだ。美味しいお弁当も、全然味が分からない。
こんな状態を一週間も放置していたのかと、ほのぼのお弁当を食べている美幸さんと敦子さんに恨みがましい視線を向けてみるけれど――多分、この天然ぽわぽわ娘'sに、瞳子と可南子さんの関係修復を期待するのは、期待するだけ無駄だろう。世界の構成要素の99%が平和と慈愛だと信じているに違いないこの二人の目には、きっと瞳子と可南子さんの仲も、親密に見えているに違いない。美幸さんと敦子さんの頭の中に、友達同士で仲違いをするなんて状況は、きっとインプットされていないのだ。
さすがに乃梨子も決意した。こんな状況は、自分がなんとかしてやらなくては。意地っ張りな友人を二人持つと、本当に苦労する。
溜息を吐きながら――それでもふと、乃梨子は思うのだ。
こんな風に思える人が、志摩子さんの他にもいる。
それってちょっと――いや、かなり――幸せ、ってやつなのかもしれないな、って。
「乃梨子さん、今日は薔薇の館に行きませんの?」
放課後、ホームルームが終わっても席を立たない乃梨子に瞳子が不思議そうに聞いてきた。
「今日は行かない。瞳子と話があるから」
4限と5限の間の休み時間に、今日は薔薇の館に行けないことを志摩子さんには伝えておいた。事情も簡単に説明した。
「分かったわ、頑張ってね、乃梨子」
そう言ってぎゅっと手を握ってくれた志摩子さんのことを思い出す。
私、頑張るからね、志摩子さん――と、乃梨子は拳を握った。
「私に話ですか?」
「そう。演劇部の活動、ないよね?」
「ええ、ありませんけど」
「帰りながら、ちょっと話しよう」
「乃梨子さんがそうおっしゃるなら――考えてみれば、乃梨子さんとゆっくりお話するのも、久しぶりですものね」
ぱぁ、と花が咲いたような笑みを浮かべる瞳子は、いそいそと帰り支度を始める。そんな瞳子を見ながら、乃梨子は改めて思うのだ。
瞳子と可南子さんが仲違いをしたまま、なんて、絶対に間違ってるって。
せっかく、衝突の末にこぎつけた、風変わりな友情――ぶつかり合いながらも、違いを認め合っているという、乃梨子でも時々羨ましくなるような関係――を築いた二人。
乃梨子は応援したいと思う。
そんな風に、思うのだ。
「――お待たせしました」
瞳子が席を立つ。よし、と乃梨子は気合いを入れた。
正直、どっちを説得しようか迷ったのだが、乃梨子の説得を聞き入れてくれる可能性が高いのは瞳子だ。可南子さんとも随分親しくなったけれど、やはり春から友人やってた分だけ、瞳子には言いたいことをストレートに言える。
なんとかして瞳子を説得するのだ。きっと二人のことだから、ちょっと瞳子が折れて声を掛けさえすれば、すぐに仲直りするだろう。
ここが乃梨子の踏ん張りどころだ。間違いない。
「じゃ、とりあえず歩きながら――」
「あ、少々お待ち下さい」
声を掛けた乃梨子に、瞳子が一言を断りを入れてくる。
「ん?」
足を止めた乃梨子が見守る中、瞳子は何を思ったかすたすたと可南子さんの席へ向かい。
バシッと音を立てて、その机を叩いた――ように、乃梨子には見えた。
「……」
「……」
無言で見詰め合う二人。乃梨子が固唾を飲んで見守る中、その視線は数秒交錯した。
何も言わずにふっと視線を逸らす二人。おいおい、そこまで深刻なのか――と、乃梨子が焦った瞬間。
可南子さんが机に置かれていたノートを手にとって開いた。
「――んん?」
乃梨子は首を捻る。ちょっと待てよ? 瞳子が近付く前、可南子さんの手元にあんなノートってあったっけ?
「乃梨子さん、お待たせしました」
にこやかに戻ってくる瞳子を無視して、乃梨子はそっと可南子さんに近付いて、可南子さんが開いたノートを覗き見た。
『可南子さんへ
昨日、可南子さんに教えて頂いたケーキ屋さんに行ってみましたわ。
中々雰囲気も良かったので、是非とも祐巳さまに教えて差し上げようと思います。
ところで、お昼に美幸さんが可南子さんとお話していた、次子ちゃんのことですけど。
私の意見としましては、美幸さんの意見も一理あるのかな、と思いますわ。
きっと夕子さんも可南子さんに対して――』
そこまで読んだところで、乃梨子はガクッと近くにあった机に突っ伏した。
これは――なんだ?
俗に言う、アレか?
「乃梨子さん、どうかしましたか?」
項垂れる乃梨子に瞳子が心配そうに声を掛けてくる。
乃梨子はちらりと、せっせとお返事を書き込んでいる可南子さんに視線を向けた。
多分――乃梨子の予想があっているならば。
この二人は、一切口をきかないという宣言を守り、交換日記で会話(?)をすることにしたのだろう。
よし、とばかりに頷いてノートを閉じ、黙ったままズイと瞳子にノートを返す可南子さんを見守って。
そのノートを「ふむふむ」と読み耽る瞳子を見守った辺りで、乃梨子の頭のどこかがブチッと切れた気がした。
「――さて。乃梨子さん、そろそろ帰りま」
「もう二度と、瞳子とも可南子さんとも口きいてやるもんかーーーーーーーーーー!!」
「「の、乃梨子さん!?」」
私の純情を返せー! と叫びながら教室を出て行った乃梨子の背中を、瞳子と可南子さんの驚いたような声が追いかけてきたけれど。
乃梨子は構わず、廊下を全速力で駆け抜けていった。
もう二度と、瞳子と可南子さんの心配なんてしてやるものか。
それからの三日間、宣言通りに一切口を開かずに、乃梨子は固〜く固〜く、決意するのだった。