【518】 我慢できないリリアンかわら版  (ますだのぶあつ 2005-09-10 23:42:51)


 No.490の続きです。

『紅薔薇のつぼみ、振られる!!』
 スポーツ新聞もかくやという巨大な見出しで彩られた号外が朝のリリアンを駆け抜けた。
 新聞部ときたらやってくれる!
 それをマリア像の脇できまり悪げに差し出した新聞部員には見向きもせず、乃梨子はスカートを翻し教室へと駆けだした。これを見たクラスメートが瞳子の周りでどんな口さがない噂を立て、それを聞いた瞳子がどれだけ傷つくのか。乃梨子はそれを思うといてもたってもいられなかったのだ。
 教室に飛び込むと、1時間目の支度をしながらお喋りしていたクラスメートが何事かとこちらを振り返る。その中から瞳子が一歩前に出て、こちらが声をかける前にいつもの少々オーバーな身振りで尋ねた。
「あら、乃梨子さん。そんなに慌ててどうしたのでしょう。ひょっとして白薔薇さまとの約束が? もしそうでしたら朝拝の時間まであまりありません。お急ぎになった方が宜しいですわ」
 そのあまりのわざとらしさに、心配した反動で怒りがこみ上げてきたが、それを懸命に抑えて瞳子の腕をとった。
「ちょっと話があるから、来て」
「でも私、一時間目の準備が」
「いいから!」
 小声だけど強い口調で言うと、案外と素直に手を引かれるまま、乃梨子に従ってくれた。ついてくるのを確認して手を離すと、そのまま古い温室に向かった。
 渡り廊下から中庭に出る途中、教室を出てからむっと黙っている瞳子の顔をそっと覗いたが、何を考えているかは窺い知れなかった。
 温室に入ると誰かが水を撒いた直後なのか湿気が感じられた。そういえばここは誰が管理しているのだろう。クラスメートに以前その疑問をふと漏らしたときには、あそこには妖精さんがいるからという、何とも乙女チックな回答をされてしまい、結局追求を諦めたのだが……。
 この状況でそんなことを考えている自分に呆れつつも、振り返って瞳子と向かいあった。
 瞳子は辛辣な視線を向けてぶっきらぼうに聞いてきた。
「乃梨子さん、なんですの?」
「この新聞、あんたも見たでしょ」
 持っていた号外をぱんと叩く。
「ええ、祐巳さまもいろいろ気が多くて大変みたいですね。お可愛そうに」
「ばかっ! これで誰が見ても瞳子が祐巳さまの妹候補ナンバーワンになったんだよ?! これまで分散していた好奇の視線や嫉妬がみんな瞳子に向いちゃうんだよ?!」
「そうだとして、それと乃梨子さんに何か関係あるんですの?!」
 瞳子は眉を吊り上げると声を荒げた。瞳子だってそのことは痛いほど判っているのだ。ぎゅっと握った拳がそれを証明している。これがもし瞳子が祐巳さまのことを嫌いなら問題ない。瞳子も妹にならないことを宣言して、そんな噂は聞き流せばいい。
 でも、瞳子にそんなことができるはずがない。そんなことができるなら、妹になりたいかという乃梨子の問いを拒絶せず、ただ否定したはずだ。
 そしてこんな時でも瞳子は素直になれないまま、祐巳さまへの想いを募らせていく。それって何て辛いんだろう、悲しいんだろう。
 理不尽な怒りと悔しさで唇をぎゅっと噛んだ。
 どうして……どうしてこんなにも瞳子が苦しまなきゃいけないのよ!! 瞳子も祐巳さまも誰も悪くないのに。
 気が付くと視界が歪んでいた。
「え、ちょ、ちょっと乃梨子さん……」
 ああ、私、泣いてるんだと理解したのは、濁った視界の中で、さっきまでの剣幕はどこへやら瞳子が慌てたように近寄ってきたからだ。ああ、こんなときでもあんたはお節介なのねと考えたら、泣いてるはずなのに、ちょっと心の中で笑ってしまった。
 どうしたら良いのか判らず、おろおろと戸惑いながら差し出されたハンカチをありがたく受け取り涙を拭く。幸い涙はすぐに止まってくれた。
「ごめん。ハンカチ汚しちゃって」
 瞳子はぶんぶんと頭を横に振った。綺麗にセットされた縦ロールが揺れる。ハンカチは洗って返そうとスカートのポケットにしまった。
 乃梨子は瞳子の手を引いて奥のベンチに並んで座らせた。今更かも知れないけど、これでぐちゃぐちゃな顔をあまり見られずに済むだろう。
「瞳子。私もおせっかいだって判ってる。結局は瞳子と祐巳さまだけの問題で私は関係ない。でも私心配なんだよ。おせっかいして瞳子に嫌われるのは嫌だけど、瞳子が傷ついてくのを見るのはもっと嫌なの。瞳子の手助けがしたいの……」
「そんな嫌うだなんて……さっきのは私が言い過ぎただけで……」
「ありがと」
「……」
 少しの静寂があたりを包む。
「志摩子さんにも言われたけど、きっと私、瞳子のことが好きなんだね」
「急になんてこと仰るんですの?!」
 耳まで真っ赤になって叫ぶ瞳子。さっきのおろおろぶりはどこへやら、いつもの素直じゃない松平瞳子だ。
「ああー、もちろん志摩子さんへの好きとは違う好きだよ」
「そ、そんなこと判ってますわ。志摩子さまは乃梨子さんにとって特別ですもの」
「うん。瞳子のことはね、何というか人として好きなんだよ」
「わ、私だって、乃梨子さんのこと、その、す……」
 私は瞳子の言いたいことが何となく判ったので、瞳子の唇に人差し指を押し当てて、無理に言わなくて良いよと首を横に振った。その勇気は祐巳さまに向けて使って欲しかったから。
「今すぐにとは言わないけど、そのうち瞳子の本当の気持ちも話してよ」
「も、もちろんですわ。……乃梨子さんは私の親友ですもの」
「うん。私もそう思ってる」
 瞳子はことあるごとに私のことを親友と言っていたけど、今の親友という言葉が一番嬉しかった。
「あー、少し目が腫れちゃったかも、ちょっと目の腫れがひくまで休んでいくから。瞳子、あんたは戻りなさい」
「で、でも……」
「2人とも朝拝に遅れたら不自然でしょ。大丈夫予鈴には戻れるだろうから」
 瞳子の背中を押しながら入り口に向かう。ふと入り口の脇にある台にさっきまで無かったものがあるのに気がついた。
 綺麗なハンドタオル。
 手を触れてみると適度に湿り気を帯び、ひんやりと冷たかった。まるでついさっき濡らしたばかりのように。
「妖精さんのおせっかい……」
 瞳子がぽつりと呟いた。それを聞いた乃梨子は思わず吹き出した。
「あんた、いいわ……くく」
「そんなに笑うこと無いんじゃありません? 皆さんがそう噂なさっているからつい口に出してしまっただけですわ」
「でも瞳子のそういうとこも嫌いじゃないよ。祐巳さまと合うかもしれないね。さて誰かに見られちゃったのかもしれないけど、ありがたく借りましょ」
 祐巳さまと合うかもという台詞を性懲りもなく反論したがっている瞳子を乃梨子は有無言わさず追い出した。
 反論の機会を失って頬を膨らませていた瞳子だったが、一瞬でいつもの澄ました表情を作り教室に向かって駆けだした。乃梨子はその後ろ姿に頑張れとエールを送った。


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