【537】 眼鏡中毒  (朝生行幸 2005-09-12 23:07:07)


「ぐああああああ!」
 ホームルームが終了し、生徒たちがバラバラと教室を出て行きかけたその時。
 突然、武嶋蔦子が叫び声を上げた。
 顔を両手で覆うようにして、仰け反ったり俯いたり、まるで激しい頭痛に苦しんでいるようだった。
「つ、蔦子さん!?」
「どうしたの?大丈夫?」
 福沢祐巳と島津由乃が、蔦子の身を案じて慌てて駆け寄った。
「あああああああ!」
 しかし蔦子は、机の上に突っ伏して、痛々しい叫び声でバタバタと暴れ続けるだけだった。
「しっかりして、蔦子さん!」
 いったいどうしたと言うのだろうか。
 蔦子は、授業中を除けば日がな一日校内を駆け回り、激写盗撮撮影と、慌しくも精力的に活動し、下手な運動部員よりも体力がある健康な人物。
 持病があるなんてことも聞いたことが無い。
 そんな人が、いきなり苦しみ出したのだ。
「どどどどどうしよう由乃さん?」
「どうしようって言われても、私達の力じゃ押さえられないわよ」
 休日になれば、キャリングケースを担いで走り回り、望遠レンズを取り付けたカメラを何十分も構え続ける蔦子の腕力は、女の子としてはかなり鍛えられている。
 黄薔薇さまと腕相撲したら、いい勝負ができるんじゃなかろうかってぐらい。
 非力な祐巳や、もっと非力な由乃に、止められるはずがない。
 尚も呻き声を出し続ける蔦子。
 どうしていいのか分からず、残っているクラスメイト達と一緒にオロオロしていたその時、
「蔦子さま!」
 二年松組の教室に、一人の少女が姿を現した。
「あ、笙子ちゃん!」
 現在のリリアンでは、蔦子にもっとも身近な人物、近々妹になるでのはないかと噂されている、写真部所属の一年生、内藤笙子だった。
「どうしよう笙子ちゃん、蔦子さんが急に苦しみ出して…」
「大丈夫です。お任せください」
 自身満々で、蔦子に駆け寄る笙子。
 蔦子のすぐ傍にしゃがみ込むと、何かを拾って、それを素早く蔦子の然るべきポジションに収めた。
 途端、苦しんでいた蔦子の動きが、ピタリと止まる。
「蔦子さま、大丈夫ですか?」
「…あー、うん、大丈夫。ありがと笙子ちゃん」
 まるで何事も無かったように、笙子に優しく微笑む蔦子。
 笙子は、真っ赤になって俯いていた。
「良い雰囲気の中悪いんだけど…」
「いったい何がどうなったわけ?」
 狐につままれたような顔で、二人に問い掛ける祐巳と由乃。
「あー。いや実はね…」
 バツが悪そうに、説明を始めた蔦子。
「今朝、眼鏡を踏んづけちゃってね、フレームが歪んでしまったの。さっき立ち上がろうとしたら、眼鏡が外れて落ちてしまって…」
「すると何?眼鏡が外れると、暴れ出すってこと?」
 ジト目で蔦子を見やる由乃。
「…あはは、なんて言うのかな。眼鏡を掛けていないと、どうも落ち着かなくて」
 それを聞いたクラスメイト達は、バカバカしいと言わんばかりに溜息を吐きつつ、ぞろぞろ教室を出て行った。
「まったく、騒がせるんじゃないわよ」
「そうよ、心配したんだから」
「…ごめんね」
 心配してくれる友人達に、謝る蔦子。
 祐巳と由乃は、鼻で息を吐くと、静かに頷いた。
「蔦子さま、行きましょう」
 笙子に促されるまま、松組を後にする蔦子と笙子。
「それにしても、眼鏡中毒なんてねぇ…」
 呆れているのか同情しているのか、イマイチ判断し難い口調の由乃。
(令さま中毒の由乃さんに、言われたくないと思うな)
 祥子中毒の祐巳は、心でこっそり呟いた。


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