【608】 コラボレーション二人秘密の  (くにぃ 2005-09-21 23:27:29)


 祥子さまの卒業が数日後に迫った三月のとある暖かい日、祐巳は放課後、久しぶりに登校した祥子さまと薔薇の館で二人きりでお茶を飲んでいた。

「あなたとここでこうしてお茶を楽しめるのも、これが最後かもしれないわね」
 祐巳と並んで座り、祥子さまは微笑んで言った。
「お姉さま」
「蓉子さまに妹にしていただいてから三年、あなたが妹になってくれてから一年と三ヶ月。思い返せばとても充実して楽しい日々だったわ」
「……」
「祐巳、私の妹になってくれてありがとう」
 窓の外は春も間近いことを思わせる柔らかな日差しにあふれている。今日の祥子さまはその日差しそのもののようだった。その暖かさは祐巳の心を優しく包み込む。

「そんな……。私、お姉さまにご迷惑をお掛けするばかりで、お姉さまのために何にも出来ませんでした」
「バカね。今私がこうして笑って卒業していけるのはあなたのおかげよ」
 祥子さまは祐巳の手をそっと握る。するとそれまで無理に笑っていた祐巳の顔からは笑顔が消え、代わりに瞳には大粒の涙が浮かんできた。
「お姉さま。私……、私、お姉さまのいない学園生活なんて考えられません。私これから一体どうしたらいいのか」
 流れ落ちる涙を拭おうともせず、祐巳は握られた手を強く握り返す。
去りゆく人に心配を掛けまいと心の中にしまっておいたものが、祥子さまの優しさに触れ、涙とともにどうしようもなくあふれ出してしまう。
「大丈夫よ。あなたには支えてくれる妹がいる。頼もしい仲間がいる。だからきっと大丈夫」
 祥子さまは白いレースのハンカチで祐巳の頬をそっと拭いてくれた。
「妹、仲間……。でも瞳子ちゃんは怒ってばかり、志摩子さんは何考えてるのかよくわからないし、由乃さんなんてブレーキのついてないF1マシン。乃梨子ちゃんに至っては志摩子さんしか見ていないんです!」
「あなたの仲間は薔薇の館の中だけではないわ」
「蔦子さんや真美さんは隙あらば人のプライベートを暴いて晒そうとするし、そんな人たちを頼るなんて……」

 思えば祐巳の周りはよく言えばユニーク、悪く言えば変人ばかりだ。そんな中でもつつがなく学園生活を送ってこれたのは、ひとえに祥子さまがいてくれるおかげだった。それなのに祥子さまは祐巳を置いて去って行こうとしている。祐巳の視界には今、茫漠たる未来だけが広がっている。

「あなたの不安、分かるわ。でもみんなそれを乗り越えてきたの。あなたにもきっと出来る。なぜならあなたは紅薔薇さまなのだから」
 祥子さまの言った最後の言葉の意味が分からず、次の言葉を待っている祐巳に祥子さまは言った。
「あなたは並薔薇さまって知っているかしら」
「並薔薇さま?」
初めて聞く言葉に祐巳が目を丸くしていると、祥子さまは続ける。
「私たち三薔薇が表とすると並薔薇さまは裏。つまり並薔薇さまは山百合会を陰で支える存在なの」
「でも私、今まで並薔薇さまとはお会いしたこともありませんが……」
「これは山百合会幹部の中でも紅薔薇さまだけが知る、リリアン女学園最大の秘事なの。白薔薇さま、黄薔薇さまでさえも並薔薇さまの存在を知らないわ。並薔薇さまは三薔薇筆頭たる紅薔薇さまと深く繋がっているの」
 余りのことに祐巳の思考は付いていけない。いつものように百面相でそれを饒舌に語る祐巳を見て、祥子さまは祐巳の頬を愛おしそうにそっと撫でてくれて、そしてまた続けた。
「説明するより実際に会った方がよく理解できるわね。出てきてください、並薔薇さま」
「ここに」
「!」

 今まで祥子さまと二人きりだと思っていた部屋の、祐巳たちから一番離れた席にその人は静かに座っていた。そしてそれは祐巳が良く知っている人物だった。
混乱の極みに達した祐巳に祥子さまは微笑んで彼の人を紹介する。
「彼女が今の並薔薇さま。名前は紹介するまでもないわね」
「ごきげんよう、祐巳さん」
その人はいつもと変わらない、これといって特徴のない平凡な笑顔で挨拶する。

「……ごきげんよう、桂さん。……お姉さま、これは一体」
「並薔薇さまは一年の時、蓉子さまと同学年だった先代並薔薇さまに見出されて並薔薇のつぼみとなり、そして去年から並薔薇さまになっていたの。言ってみれば志摩子と同じね」
「でも桂さんはテニス部にお姉さまが」
「並薔薇さまは通常の姉妹制度とは無縁の存在。だからテニス部のお姉さまも桂さんのお姉さまよ」
「何で桂さんが並薔薇さまに?」
 その問いに、桂さんが自ら答える。
「並薔薇さまは陰の存在。誰にも知られてはいけないの。そうでなければ情報の収集や操作は出来ないわ。だから並薔薇さまは一般生徒の中に溶け込むことが何より大事なの。私は先代並薔薇さまにその能力を買われて並薔薇のつぼみになったのよ」
「そうか。なら桂さん、適任だよね」
何気に失礼なことを言う祐巳に、祥子さまと桂さんは顔を見合わせて苦笑する。
「ごめんなさいね、桂さん。祐巳はこういう子だから」
「お気になさらず。祐巳さんのことはよく存じてますから」
そんな二人の様子を見て祐巳はあわてて言う。
「ご、ごめんなさい。私ったら」
「いいのよ。お褒めの言葉と受け取っておくわ」
 桂さんは祐巳よりずっと大人だった。祥子さまが「桂」でも「桂ちゃん」でもなく、「桂さん」と呼んでいることからもそれを伺い知ることが出来る。祥子さまでさえ並薔薇さまには一目置いているという訳である。

 祐巳がそのことを聞いてみると、祥子さまは当然といった様子で教えてくれた。
「そうよ。並薔薇さまあっての紅薔薇さまなんですもの」
それを聞いた桂さんはククッと小さく笑って言う。
「持ち上げ過ぎですよ。紅薔薇さま」
しかし祥子さまは真顔で続ける。
「いいえ、大事なことだから祐巳もよく覚えておいてちょうだい。例えば蓉子さまたちの世代の三薔薇さまは明らかに蓉子さまが中心だったでしょう。そして今年度は私が中心だった。なぜだと思う?」
「それは江利子さまは怠け者で聖さまはガチ、令さまはヘタレで志摩子さんは不思議ちゃんだから、かな?」
「あなたも言うようになったわね。でも毎年黄薔薇さまと白薔薇さまが使えない人ばかりなんて、なんだかそれって出来過ぎだと思わなくって? 仮にも選挙で選ばれた人たちなのよ」
「そう言えば……」
「実は黄薔薇さま、白薔薇さま本人達にも気づかれず、そうし向けていたのが並薔薇さまなのよ。思い出してご覧なさい。令は去年からあんなにヘタレていたかしら? 志摩子は去年から不思議ちゃんだったか……もしれないわね。とにかく山百合会は三薔薇さま同格が原則だけど、やっぱりリーダーは一人の方が何かと都合がいいのよ。いつの世代の紅薔薇さまか今では分からないけどそう考えた人がいて、その人が並薔薇さまを秘密裏に創設して今に至るの。どう? これこそが山百合会の真の姿よ」
「じゃあもしかして、由乃さんの壊れた青信号や乃梨子ちゃんのガチは並薔薇さまが仕組んだってこと? でも一体どうやって?」
 驚愕の表情を隠そうともせず、いや、元々隠せないが、祐巳が言うと、桂さんはにっこり平凡に微笑んで答える。
「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず。紅薔薇さまの祐巳さんは知らなくていいことよ」

「四月からは祐巳、あなたが山百合会の中心よ。でも大丈夫。あなたには並薔薇さまがついているわ」
「祐巳さん、これからもよろしくね」
 桂さんは祐巳に右手を差し出してくる。それを強く握り返して祐巳は答える。
「こちらこそよろしくお願いします。並薔薇さま」
「でも祐巳さん、人前でうっかり並薔薇さまって呼ばないでよね」
「うっ。ちょっと自信ないかも」
 そう言って笑い合う二人。こうして二人は誰にも知られることのない莫逆の友となったのであった。

「これで全ての引継ぎは済んだわ。どう、祐巳。少しは自信が持てたかしら」
「ありがとうございます。なんだか力が湧いてきました」
「よかった。これで私も思い残すことなく学園を後に出来るわ。それといいこと? 来年瞳子ちゃんが紅薔薇さまになる日のために、一年掛けてじっくりと瞳子ちゃん中心体制を築いてあげるのがあなたの役目よ」
「任せてください、お姉さま」
「乃梨子ちゃんはもう骨抜きだから、あと気掛かりは由乃ちゃんの妹候補、有馬菜々ちゃんっていったかしら? この子だけだけど、令から聞いた話によると江利子さまと令と由乃ちゃんを足して、足しっぱなしにしたような子だっていうじゃない。つまり凸でヘタレでイケイケってことよね。それなら恐るるに足らないわ」
 祥子さまの話に祐巳は一瞬眉をひそめそうになったが、すんでの所で笑顔を保つことができた。これも紅薔薇さまになることへの自覚の現れか。

 お姉さま、それはおそらく令さまが仕掛けた欺瞞情報です。私が由乃さんから聞いた菜々ちゃんは頭の回転が速く面白いこと好きで、剣道が強く、行く時は躊躇せず行くという、正に黄薔薇一族のいいとこ取りをしたような子です。しかも乃梨子ちゃんのように必要以上に姉に溺れることも無さそうという、おそらく瞳子ちゃん体制を築く上で最大の障害になりそうな子なのです。
 だが祐巳がその言葉を口にすることはついになかった。

 祐巳は祥子さまに気づかれないように桂さんに一瞬視線を送ったが、おそらく既に菜々ちゃんの情報をつかんでいるであろう桂さんは目をそらす。それはつまり祥子さまには菜々ちゃんの情報を流すつもりはないということだ。
 来年度のことに、祥子さまはもう関係ない。それは厳然たる事実。だから祥子さまにも情報を与えない。
祐巳は情報戦の非情さを垣間見る思いがした。



 かくして紅薔薇一族一子相伝の奥秘は受け継がれ、紅薔薇、並薔薇表裏一体の関係はこれからも人知れず連綿と続いてゆくのであった。


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