【634】 マリア様のお庭で騒がしき日々  (篠原 2005-09-24 21:30:12)


 その噂はいつのまにかリリアン中に広まっていた。
 ビスケット扉を開けた時、すでに中に居た二人はその話題で盛り上がっていたらしく、挨拶もそこそこに話をふってきた。
「志摩子さん。聞いた?」
「何のこと?」
 いきなりの由乃さんの問いかけに、当然だが志摩子はその内容がわからずに問い返した。
「だから吸血鬼が出たって話」
「そんなのいるわけないよね?」
 祐巳さんが少し怯えたように言葉を被せる。今日は2年生3人だけの集まりだった。そんな話題で盛り上がっていたのも、3年生が居ない気楽さからだろう。
「吸血鬼? リリアンに?」
 志摩子は訝しそうに首を傾げた。
「だってここは吸血鬼が好きそうな乙女がよりどりみどりじゃない」
「そういうものかしら?」
 リリアン女学園はカトリック系お嬢様学校である。純真無垢な乙女の園と言われているが、十字架にもたぶん事欠かない。祐巳さんのその指摘に、由乃さんが苦笑する。
「まあ、実際に居たとしたら変質者か何かだと思うけどね」
「そうだよね」
 ほっとしたように祐巳さんも相槌を打つ。
「…それはそれで怖いんじゃないかしら」
「「あ…」」
 二人の声が見事にハモった。


 概ね同時刻。1年椿組の教室。

「かしらかしら」
「ハンターかしら」

 自分の席で、ふむふむと気楽に頬杖をつきながら『河童の覗いたヨーロッパ』を読んでいた乃梨子の前に、敦子と美幸は何故か十字架をかざしながら、ふわふわとくるくると舞いおりたのであった。

「かしらかしら」
「ハンターかしら」
「…どこがだよ」

 視線は本の中のノイシュバンシュタイン城のスケッチに向けたまま、少しうんざりした口調で乃梨子は言った。

「一大事ですわ、乃梨子さん」
「あの噂をお聞きになりましたか」
「……あんたらはあいかわらず人の話聞いてないよな」
「何って吸血鬼のことですわ」
「決まっているではありませんか」
「いや、何も聞いてないし、いつ決まったよ。てかハンターはどうした」

 あいかわらず全く噛み合わない会話に眩暈をおぼえつつ、乃梨子はようやく仕方無しに本から視線を外し、心底うんざりした顔を二人に向けた。まあとりあえず十字架を持ってる理由はわかったが。できればかかわりたくないと思うのだが、ほっておいても乃梨子のまわりをふわふわくるくる舞いながら、ひたすら一方的に話し続けるに違いないのだ。

「ですから吸血鬼を倒すのですわ」
「ですわですわ、倒すのですわ」
「あーそりゃ大変だ。頑張ってね」
「もちろん頑張りますわ」
「乃梨子さんの応援ですもの」
「……いや」

 どうでもよさげな乃梨子の言葉に、何故かかえって勢いを増したりする二人である。

「ただ、大変申し訳ありませんけれども、今回ばかりは残念ながら」
「乃梨子さんをお連れするわけにはまいりませんの」
「いや、最初からこれっぽっちも参加する気無いので」
「ヘタに関わるとこちら側に戻って来れなくなりますもの」
「むこう側のことは知らない方がよいのですわ」

 ちょっと意外には思ったが、乃梨子にしてみればこれ幸いである。しきりに残念ですわと繰り返す二人に、初めて爽やかな笑顔を返す。

「それじゃすぐにでも探しに出かけた方が良いんじゃない?」
「私達のことはご心配には及びませんわ」
「伊達に聖書朗読クラブに在籍しているわけではありませんから」
「聖書朗読は関係ないだろ! 別に心配もしてないしっ」
「そこまで信頼されたからには」
「応えないわけにはまいりませんわ」
「だから人の話を……」
「というわけでこれを受け取ってくださいませ」
「私達からのプレゼントですわ」
「何がというわけなんだか……」

 有無を言わせず突き出されたのは二人が先程から手に持っていた十字架と同じ物だ。続いてどさどさと机の上に置かれるにんにくの山。独特の香りが教室中に蔓延する。

「吸血鬼の弱点と言えばこれですわ」
「これさえ持っていれば乃梨子さんも安心ですわ」
「教室ににんにくなんか持ち込むなー!」


 そんな感じで乃梨子がいつものようににぎやかな休み時間を満喫している頃、薔薇の館でもちょっとだけ話に進展があったようだ。

「というわけでこれよ」
「十字架、と……?」
 志摩子は転がった缶に目を向けて声の調子だけで由乃さんに問いかける。
「痴漢撃退用スプレー。しかもにんにく成分が入ってるから変質者だけでなく吸血鬼にも効くという優れものよ」
「そんなものどこから……」
 祐巳さんの疑問ももっともだ。
「発明部から、山百合会権限でみんなのぶんも貰ってきたわ。今、結構需要があって大変だったのよ」
「由乃さん、職権濫用はいけないわ」
「志摩子さん、突っ込むところはそこなの?」
「つっこむ?」
「えーと……」
 祐巳さんは困ったように言葉を濁すと、突然笑いだした。 
「あははは、やだなーみんな。吸血鬼なんているわけないじゃない。ねえ?」
 祐巳さんの乾いた笑いがこだまする。
 ここはリリアン女学園。純真無垢な乙女の園。
 吸血鬼の噂なんてものを真に受ける、お子様な生徒などいようはずも………ない?


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