【681】 みたこともない志摩子さんの怒り  (いぬいぬ 2005-10-02 11:58:18)


「乃梨子、ご飯はこれくらいで良い?」
「うん、そのくらいで」
「足りなかったらオカワリしてね?」
「はーい」
 二条乃梨子は幸せであった。
 今日は待ちに待った初めてのお泊り。小寓寺には何度も来ていたが、一泊するのはこれが初めてである。本堂で住職(志摩子の父)の説法を聞いたのも楽しかったが、メインは何と言っても志摩子の部屋で一緒に寝るという一大イベントだ。今はその前菜とでも言うべき夕食の真っ最中である。
 メニューはカレーライス、だが肝心なのはメニューではなく志摩子直々に給仕をしてくれるという行為である。志摩子が自分のために何かしてくれるだけで胸がいっぱいになりそうな乃梨子だった。
(ああ・・・良いなぁ、志摩子さんの割烹着。洋風な外見とのギャップがまた・・・)
 乃梨子は脳みそが溶けそうだった。それはもう祥子への思いを語る祐巳と「リリアン脳みそ液化選手権」を戦い抜けるほどに。
 一緒に食卓に座っている志摩子の両親は、すでに眼中に無かった。
(和服に合わせてアップにした髪のうなじがまた・・・)
 溶けていると言うより煮えていると言ったほうがより正確かも知れない。
(食事の後は当然お風呂よね。志摩子さんの白い肌を・・・)
「乃梨子?」
「私が洗ってあげるからね?」
「・・・? 何を?」
 思わず妄想が口に出ていた。
「!・・・いや!・・・その・・・・・・そう、お皿!お皿洗う!食後の片付けは私がやるから!」
「・・・そう?じゃあお願いしようかしら」
「うん、まかせて」
 どうやら寸でのところで誤魔化せたようだ。
(・・・危ない危ない。迂闊な事を口走ったら警戒されちゃうからね・・・)
 無警戒な志摩子をどうしようというのだろうか?
(何気なく『志摩子さん、背中流そうか?』とか持ちかけて・・・)
 どうやら乃梨子の中ではすでに志摩子との入浴は決定事項らしい。
(その後はほっかほかの志摩子さんを・・・)
「熱いうちに食べてね?」
「もちろん!」
 元気良く返事をする乃梨子を見て微笑む志摩子。妹が何を『熱いうちに食べる』つもりなのかには気付くはずも無かった。
 おもいきり返事をしてから現実と妄想がごっちゃになりかけていた事に気付いた乃梨子は、とりあえず食事をする事にした。
 何と言っても志摩子の手料理なのだ。これを熱いうちに頂かなければバチが当たるというものだ。まあ、すでにバチ当たりな煩悩に毒されてはいるが。
 乃梨子は「いただきます」と手を合わせ、スプーンを取る。そして普段からの習慣で、醤油さしを手に取り、カレーにかけようとした時・・・

 がっし!!

 突然、醤油さしを持った右手を掴まれた。
 驚いた乃梨子が自分の右手を掴んでいる手を見ると、それは志摩子の手だった。
「・・・どうしたの?志摩子さん」
 乃梨子の問いかけに、志摩子は厳しい表情でこう呟いた。
「邪道よ」
「・・・はい?」
 志摩子の言葉の意味が判らずに、乃梨子が間の抜けた声をあげると、志摩子は雄弁に語り出した。
「そもそもカレーライスとは、インド発祥のスパイスをふんだんに使ったカレーがシルクロードを渡り、イギリスでライスと出会い、今の形、いわゆる日本式の『カレーライス』の原型ができたと言われているわ。そんな永い旅路の果てに完成されたカレーライスに、アナタは醤油という異分子を加えようというの?」
 どうやら志摩子はカレーにはこだわりがあるらしい。それも並々ならぬモノが。
 乃梨子は志摩子の真剣な表情を見て、ここは逆らわないほうが得策だと判断し、醤油さしを置いた。
「判ったよ志摩子さん。私が間違ってた」
「良かった。判ってくれたのね乃梨子」
 志摩子が本当に嬉しそうな顔をする。それを見た乃梨子もほっと息を吐いた。
(良かった・・・お風呂までイヤな雰囲気を引きずらないで済んだみたい)
 いまだ乃梨子の中では「志摩子と入浴」は確定事項らしい。
 その後、乃梨子はおとなしく醤油無しでカレーを食べた。いつもの味がしないカレーに物足りなさを感じながらも、志摩子との入浴+αのためなら苦にはならなかった。
 もぐもぐとカレーを咀嚼しながら、乃梨子は切り分けられたトマトに手を伸ばす。取り皿に数切れのトマトを取り、食卓のスミに置かれたマヨネーズを取ろうと右手を伸ばし・・・

 がっし!!

(また?!)
 そう、また志摩子に右手を掴まれたのだ。
 乃梨子が恐る恐る志摩子を見ると、またもや険しい表情の志摩子が呟いた。
「・・・邪道よ」
 さっきよりも迫力を増したような志摩子にたじろぐ乃梨子に、志摩子は再び雄弁に語り出す。
「そもそもトマトは南米のアンデス高原が原産地と言われているわ。一説には紀元前1000年にはすでに栽培が行われていたとも言われているけれど、一般には10世紀頃メキシコに持ち込まれたトマトの野生種が栽培され始めた説が有力よ。そんな永い歴史を持つトマトに、アナタはたかだか2世紀程度の歴史しか無いマヨネーズをかけようと言うの?それは1000年以上の歴史を持つトマトに対する冒涜ではなくて?」
 どうやら志摩子はこだわりを語り出すと止まらない性格のようだ。
「いや・・・そんな事言われても・・・」
 乃梨子の戸惑いももっともである。
「トマトを真に味わおうと言うのならば、素材のままで。もしくは同じように永い歴史を持つ塩で頂くのが礼儀だと思うわ」
「・・・・・・・・・判りました」
 志摩子の瞳に何か異様な光を見た乃梨子は、素直に従う事にした。
 ・・・まだ志摩子との入浴をあきらめていなかったから。
「良かった。判ってくれたのね乃梨子」
 先程と同じように、志摩子は嬉しそうに微笑む。
(良し!まだお風呂はイケる!)
 志摩子のこだわりと乃梨子の執念。姉妹のイヤなせめぎ合いに何やら不穏なモノを感じ取った志摩子の両親は、無言で夕食を続けるのであった。



 妙な緊張感の漂う夕食を終え、一息ついていると、志摩子のお母さまが食後のデザートを運んできてくれた。
(・・・さて困ったぞ)
 乃梨子はデザートを見て悩み始めてしまった。デザートは西瓜だった。
(ここはやはり、何もかけずにそのまま食べるべきか・・・いやでも、さっき志摩子さんは塩には一目置いているような発言をしたし・・・)
 綺麗な半月を描く西瓜を前に、乃梨子は脳細胞をフル回転させていた。素直に志摩子に聞けば良いのかも知れないが、ここまでに二回、志摩子にたしなめられている身としては、ここで一つ名誉挽回と行きたいところだった。
(そう、楽しい入浴のために!)
 結局はそれしか頭に無い乃梨子だった。
 乃梨子は拙速を否とし、ここは志摩子の出方を探ることにする。全神経を動員して志摩子の一挙動に全てをかける。
 乃梨子が注目していると、志摩子が塩の入った瓶に視線を送るのが判った。
(見切った!!)
 乃梨子はここが勝機とばかりに塩の瓶を掴み取る。そして志摩子の反応を伺ってみると、志摩子がニッコリと微笑むのが見えた。
(勝った!私は勝ったんだ!勝利は我が手に!ついでに志摩子さんの柔肌も我が手に!!)
 煩悩をスパークさせた乃梨子は意気揚々と西瓜に塩を振る。そしてゆっくりとスプーンに手をのばし・・・

 がっし!!

「・・・・・・え?」
 己の勝利を確信していた乃梨子は、呆然と志摩子を見た。
(あれ?だってさっき塩を取るの見て微笑んで・・・)
 乃梨子が戸惑っていると、志摩子はこう呟いた。
「・・・スプーンを使うなんて邪道よ」
「そっちかよ!!」

 この後、事態を重く見た乃梨子は、泣く泣く「志摩子とのめくるめく入浴タイム」をあきらめ、志摩子のご両親による「志摩子のこだわり講座VOL.1 入門編」を受講したのであった。


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