【69】 猫が幻の右アッパー世露死苦  (うみ 2005-06-20 20:40:39)



お昼時の校庭。晴れ渡った空と初秋の清々しい空気に誘い出されたかのように、沢山の乙女たちが昼食を楽しんでいた。

私こと福沢祐巳もまた同じ。黄薔薇のつぼみこと島津由乃さん、白薔薇さまこと藤堂志摩子さんの二人と一緒に、お弁当を食べる場所を探しているところで。



そんな中、“それ”を最初に見つけたのは、由乃さんでした。

「ねえ、あれってランチ……よね?」

そう言って指を差したその先には、そろそろ葉の色が変わり始めようとしている、銀杏の木が見て取れる。
すぐに視線をそちらへと向けた志摩子さんは、一瞬何かを探すような仕草をして。
「ええと――あら、本当」
「え、ゴロンタ? どこどこ?」
多少遅れての探索開始。でも、二人の視線の先を探す私へと向けられたのは、どうしたことか不思議そうな表情。

「ゴロンタ……って? ランチのこと?」
「だと思うわ、私もお姉さまがそうお呼びしているのを何度かお聞きしたことがあるし」
「あ、うん。聖さまにゴロンタって名前を聞いて以来、そっちの印象のほうが強くなっちゃって」
とりあえずそう返しながら、依然視線はゴロンタを捜索中……って、いた!
「ゴロンタ――木に登ったまま、降りられなくなったとか?」
ぱっと見た瞬間の感想はそれ。ただ一つ違うと思えるのは、別段焦っている様子が見られないこと。
そう、強いて言うなら。

「――というより、くつろいで眠っているようにしか見えないわね」
由乃さんのその見解、きっと大正解。隣の志摩子さんも同意しているみたいだし。
なにはともあれ、これなら大丈夫そうかな……なんて思っていたら、やはり由乃さんは一筋縄では行かなかったようで。

「なんかさ、ああやって気持ちよさそうに眠っているのを見ると、悪戯心がムクムクと湧き上がってこない?」
ああ、さすが由乃さん。嬉々としたその表情が、これ以上ない程に危険な空気を伝えてくるよ。
志摩子さんもそれを鋭敏に察知したようで、すかさず釘をさしてくれる。
「気持ちは分かるけれど、あんなにも気持ちよさそうに眠っているのを邪魔するのは、気が引けてしまうわね」
「私も同感。そもそも木の上にいるっていうのに、どうやって――」
しまった! そう思ったときには時既に遅し。あわてて自分の口を手で押さえるものの、一度口にした言葉が戻ることなどありえない訳で。
「そうねぇ、やっぱり基本は呼びかけてみることかな……でも、餌でおびき寄せるという手段もあるか。志摩子さんはどう思う?」
「え、ええと……」
ああ、ごめんなさい志摩子さん! 私が余計なことを口走りさえしなければ、そのままスルーして事無きを得たというのに。
この思考に入ってしまったからには、もう実践せずにいられないのが『島津由乃』という人物だから。
そうなると、残された道は一つしかない訳で。
「とりあえず、両方試してみては? 近くに場所を確保して、ご飯を食べながらとか」
志摩子さんナイスフォロー!
とりあえず、由乃さんが第三・第四の案を考え付く前に場所だけでも――って、ちょうどすぐ近くのベンチが空いているし。
「それじゃあ、あそこに空いているベンチがあるから、まずはご飯にしちゃわない?」
そう言った瞬間、ゴロンタがチラッとこちらを見たような気がしたけれど。

まぁ、触らぬ神に祟り無しかな……なんて。



「それじゃあ、いただきます」
私がそう言うのと殆ど同時に、二人からも『いただきます』の声が聞こえてくる。
ちなみに、いくらカトリックの学校とはいえ食事前にお祈りをしたりはしない――ううん、志摩子さんはきちんとお祈りを捧げてから食べ始めていた気もするけれど、まあその辺は気にしないことにして。

え? お弁当の中身?
えっと……ミニハンバーグとウインナーとミニトマトと玉子焼き。あとはそう、今日はアスパラのベーコン巻きかな?
ちなみに、祥子さまとお昼をご一緒するときは『おかずの交換』なんて場合もあるから、祥子さまが食べられるものも最低一品は含めるなんてルールもあったりするんだけど……まあそれはそれということで。

「を、祐巳さんのお弁当も美味しそうだね。どれか一品取り替えて――と言いたいところだけど、今日はランチ捕獲作戦が先ね」
「ほ、捕獲って……あの、由乃さん?」
「大丈夫よ、本気で捕獲しようって訳じゃないから。言ってみれば、景気付けみたいなものよ」
言葉とは裏腹に、明らかにやる気満々なご様子で。
それにしても、由乃さんが言うと本気としか聞こえないのだから不思議。思わず『本当に違うの?』って聞いてみたくなりそうなほどに。
まあ、本当にそんなことをすると、かえって逆効果になりそうだからあえて聞いたりはしないんだけど。

「それじゃあ、まずは私のお弁当のおかずで試してみるわね。で、次は祐巳さん。最後は志摩子さんね」
「うん」
「ええ、頑張って」
まあ、何だかんだと言いながら私たち二人も案外やる気だったりもするわけで。
「私は何にしようかな……」
「そうね、猫の好きそうなものというと……」
なんて、案外真剣に考えていたりもしたのです。

「一番手、島津由乃行きまーす。という訳で、まず私が選んだのは……これです!」
そう言って自信満々に取り出されたのは、焼き魚の切り身――って、猫相手にそれは反則じゃ?
「由乃さん、それじゃあすぐに終わっちゃうと思うんだけど」
「でもまあ、やっぱり最初は王道から行かないとね」
そんな由乃さんの意見に、意外なことに志摩子さんはあっさりと賛同。耳元で『成功したなら成功したで面白そう』なんて囁きながら。

「ランチ、ほら魚だよー、美味しいから降りておいでー」
ベンチに座ったままだけど、魚を手にした由乃さんが木の上にいるランチに呼びかける。でも、肝心のランチは一瞬こっちに視線を向けるだけで、一向に降りてこようとはしないまま。
暫くの間『ランチー…ご飯だよー…美味しいお魚さんだよー………ほーら』なんてやってみたものの、目を見開こうとさえしない。

「意外。ランチってば猫なのに、魚に見向きもしないんだ」
「みたいだね。チラッとこっちを見たかと思ったら、興味なさそうに目をつぶっちゃったし」
「ええ、お腹は空いている筈なんだけれど……木の上が余程気持ちいいのかしら」
諦め切れないご様子の由乃さん。それからもう暫く粘ってみたものの、やはりランチが反応を示す様子は見られないまま。
どうにも動く様子が見られないと判断したらしく、魚の切り身をお弁当の蓋に戻すと。
「これだけやってもダメとは――さすがに意外だったなぁ。仕方ない、次は祐巳さんの番ね」
軽く手と手を合わせ、私に順番が移行。さて、私はどうしようかな……って、それはさっき決めておいたんだったっけ。
「了解。それじゃあ私はこれで行きます」
そう言って取り出したのは、厚焼き玉子の切れ端。もちろん猫に食べ易くちぎって食べさせる予定。

「おーい、ランチー……ご飯だよー」
玉子焼きを手に、そう声をかける。でも肝心のランチの反応は先程と変わりなし。
チラッとこちらを伺い見たかと思ったら、興味なさそうにプイッと視線を戻してしまう
「ランチー、いらないのー? ……甘くて美味しいよー?」
うーん、やっぱり反応は無し。
それにしても、魚も卵も食べないようだし、もしかすると以前聖さまが食べさせていたキャットフードしか……って、いくらなんでもそれはないか。
仮にもノラとして生き抜いている訳だから、そんなふうに好き嫌いをするとは到底思えないし。

でも、そうなると――


「それじゃあ、最後は私ね」
そう言った志摩子さんが、お弁当箱から取り出したのは。
「えっと、志摩子さんもお魚? でも魚はさっき私が試してみて……」
「ええ。でも、やっぱりこれが一番だと思うから」
「なるほど。そういうイメージが定着しているってことは、何かしら理由がある筈だもんね。ほら、諺にもあるじゃない。『火のないところに煙は立たない』って」
私がそう続けると、志摩子さんはそっと頷いて。
「ランチ、お魚があるのだけど……食べる?」
静かな口調で、問いかけるように。
ああ、志摩子さんらしいな――って。そう思えるような、とても優しい口調。
でも、ランチには何の反応もみられないままに……

「ダメ……かしらね」
「う〜ん、ダメかぁ。ここまでくると、意外を通り越してちょっとだけ不思議かも」
「だね、まさか近寄っても来ないなんて……さすがに予想外だったかも」
蓋の上に乗せたままの玉子焼きが、ちょっと寂しい。かといって、今更食べる気はどうにも起きてくれそうになくて。



「――あ、もしかして」

ふと何か思い浮かんだ様子の志摩子さんは、そう呟くと再び魚を手に取った。
そして――

「おいで、“ゴロンタ”。お魚……好きでしょう?」

“ゴロンタ”って、その言葉を聞いただけだというのに、まるで魔法のようにするすると木を伝い降りてくる。そのまま私達の足元まできたかと思うと――
「はい、召し上がれ」
目の前に差し出された手の上に乗せられた魚を、美味しそうに頬張るゴロンタ。見るからに幸せそうな表情で。
「どお、美味しい?」
そう優しく声をかける志摩子さんに、『にゃあ』って返事を返してきた。
言葉が通じているんじゃないかって思えてしまうような、絶妙のタイミングと声音で。

「美味しそうに食べてるわねー。でも意外だった、呼び方のほうがネックだったなんて」
「ホントに。“ゴロンタ”で呼び掛けたら、さっきまでの反応が嘘だったかのようにするするっと降りてきちゃったもんね」
すぐに食べ終わり、前足や顔を舐めているゴロンタを見守りつつ、そんなふうに言葉を交わす。そこで私もふと思いつく。

「ゴロンタ、私の玉子焼きも食べる?」
そっと手を差し出すと、すぐにくすぐったいような感触が掌の上に。
ゆっくりと、味を確かめるかのように――それこそ、さっき見せた幸せそうな顔で。
「猫って、玉子焼きも食べるんだね」
「そうみたい――それに、とっても美味しそう」
そうして全部食べ終わると、さっきと同じように前足や顔を舐める仕草。どこか満ち足りたような表情で。
それが一段楽するのを見計らったかのように――ううん、きっと実際にタイミングを計っていたに違いないのだけど。
とにかく、最後にゴロンタの前に手を差し出したのは、やはりと言うかなんというか……とても嬉々とした表情をした由乃さんでした。

「ゴロンタ、お魚だよー」
そう声を掛ける由乃さんの前へ、ゴロンタは静に歩み寄っていった――かと思うと。

パクッ

「って、へ!?」
「あら……」
「なっ! ……ご、ゴロンタ!?」
掌から魚を掻っ攫うかのように咥えると、そのまま走り去ってしまう。そしてさきほどの木に登ったかと思うと。

ンナァ……

なんてひと泣きしつつ、確保した魚にかぶりついたのだった。


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