前回【No:634】までのあらすじ
リリアンに吸血鬼の噂が流れていた。志摩子は薔薇の館で、乃梨子は教室で、その話を聞かされたのだった。
うさんくさい噂や吸血鬼に関する通り一遍な説明、聞いたことのない解釈など、乃梨子が聞いた話はさまざまだった。
例えば、となりのクラスのA子さんが襲われて今日は登校していないとか。もう名前も忘れたが、昨日から風邪で欠席届が出ていたのは確認した。
例えば、聞いたことのない吸血鬼の説明。吸血鬼に襲われたものは、その時点でほぼ死ぬ。だが(矛盾した言い方だが)一部の死者は甦り、知性もなく人を襲う食屍鬼(グール)となる。それらの中には、人を襲いエネルギーを採り続けるうちに稀に自我を取り戻すものがいる。それが俗に言う吸血鬼だが、ここまで至るのに普通は何年もの時を要する。だが自我も知性もなくただ人を襲う存在が、数年にわたり放置されることはまずありえない。大抵はその前に処分されるから吸血鬼が意図せず生まれてくることはほとんどないと言っていい、とか。だったら吸血鬼なんて出てこないのでは?
例えば、単に変質者がこのあたりをうろついているのでは、という説………すでに吸血鬼でもなんでもねえ!
等々、さまざまな噂が流れていたのだ。
………いや、前回はここまでの内容は無かったけれども。
「そういえば、乃梨子は吸血鬼の噂というのを聞いている?」
それはいつもの帰り道、いつもとは違う志摩子さんの言葉だった。
「ああ、うん。結構広まってるみたいだよ」
志摩子さんの問いに、乃梨子は教室ににんにくまで持ち込んだ二人のクラスメイトのことを話して聞かせる。
「結局十字架の方は押し付けられちゃったんだけどね」
「ふふふ、そうなの。そういえば、由乃さんも……」
志摩子さんが足を止めて鞄の中を探り出したのに気付いて、乃梨子は振り返った。
その瞬間、空気が澱んだ。そして「それ」が目に入る。木の後ろから現れ、志摩子さんに近づく人影。志摩子さんは鞄の中から何かを取り出そうとしていて、気付いた様子も見えなかった。
「志摩子さん! 後ろ!!」
「え?」
叫びながら走り出す。わずか数歩の距離が、とてつもなく遠く感じられた。
振り向いて手をかざした志摩子さんと、後ろから伸びてきた手が……
バチィッ
白い火花が散った、ように見えた。弾き飛ばされたそれが、慌てて離れて行くが、それを追う余裕はさすがに無かった。
「し、志摩子さん!」
うわずった声を上げる乃梨子に、志摩子さんはいつもと変わらぬ穏やかな声で、見当違いな言葉を紡ぐ。
「乃梨子、真っ青よ。大丈夫?」
「私じゃなくてっ!」
乃梨子は癇癪を起こした子供のようにダンと足を踏み鳴らした。
「志摩子さんは大丈夫なの!?」
「ええ。本当に効いたのかしらね」
「え?」
少しおどけたように言う志摩子さんの手には、鞄の中から取り出した物、由乃さまから渡されたという十字架が光っていた。
「乃梨子も、貰った十字架は身に付けておいたほうが良いわね」
「う、うん」
………でもそれって、本物の吸血鬼だったってこと?
「それ」がここにいるのは、単なる偶然だった。狩る者の存在を感じて本能的にその場から離れ、迷い込んだ先がたまたまここだったというだけのことだ。
そして今、「それ」は餓えていた。怯えてもいた。
ここには糧となるものがたくさんいたが、そのほとんどは「それ」にとっての活動時間外に行動していた。
日の光の下では活動できない「それ」にとってその少女は、獲物を狩る貴重なチャンスのはずだった。だが襲いかかった少女からは、狩る者と似た力を感じた。実際に、弾きとばされてダメージを受けていた。
「それ」は今、餓えて、怯えていた。
「!?」
「それ」は違和感にふと動きを止めた。
白き清浄なる空気があたりを覆う。その不快感に、もがき暴れ出そうとして、それすら自由に任せぬことに気付く。
その目の前に。
「かしらかしら」
「お覚悟かしら」
待ちかまえていたかのように、影絵のような二人の人影がふわふわくるくる舞いおりる。
「かしらかしら」
「お覚悟かしら」
まわりをふわふわくるくる舞いながら、二人は既に結界で動きの鈍ったそれに、にんにくやら十字架やら聖水やらを容赦なく次から次へと降り注ぐ。戦い方も何もない、単純な物量戦だったが、それの動きを止めるのにさして時間はかからなかった。ちなみに、二人が惜しげもなくばらまいているのは教会で対魔処理を施されたれっきとしたマジックアイテムだったりするが、それはさておき。
「頃合ですわね」
「そうですわね」
二人はそろって前に出る。
くるりと回って杭をかざし
「灰は灰に」
くるりと回って槌をかざし
「塵は塵に」
振り下ろされる杭と槌
軋む肉の音と断末魔が月夜に響き、そして消えた。
「今宵、この月、光のもとで」
「闇へ還れ。風に散れ」
ふわふわくるくる舞う二人。
人の形をしたものが、灰となって散っていく。
そこに、もうひとつの人影があらわれる。
「お疲れさまです」
「あらあらあらあら」
「まあまあまあまあ」
「白薔薇さまも、お疲れさまです」
「これくらいのこと、私達にはなんでもありませんわ」
嬉しそうに浮かれまくる二人に、志摩子は穏やかな笑みを向ける。
「二人は乃梨子と同じクラスだったわね」
「そうですわそうですわ」
「乃梨子さんとはとてもなかよしですわ」
「そう、これからも乃梨子をよろしくね」
「もちろんですわ」
「そうですわ」
自分が何気なく言った一言が乃梨子の苦労に拍車をかけるだろうとは思いもしない志摩子である。
「………」
ふと見上げた月は眩しいほどに白く明るく、志摩子自身を冴え冴えと照らす。志摩子は祈るように目を閉じた。それはマリア様のお庭に集う乙女達への加護の祈りか、それとも灰となったものへの祈りか。
月の光の下で、二人の少女は言葉も忘れてそれに見惚れていたのだった。