【738】 加東さんに小説を書いてみる  (一読者2 2005-10-17 21:03:19)


 今日も加東景の家には友人が来ている。
 景より一つ年の若い友人、佐藤聖は、ここ二三日景の家で課題などを読んですごしている。
「家でやれば?」と聞くと、「ここでやるほうが落ち着く」だそうだ。
 景は本を読む友人をしばらく眺めていたが、窓のほうに目を移した。
 ……やまないな。雨。
 課題のレポートは進まない。シャーペンを持った手を止めながら。雨の叩く窓を眺めていた。
 雨の日は憂鬱だ。そういえば父が逝った日の朝も雨が降っていたっけ。
 景の頭にはぼんやりとそんな考えが浮かんだ。別に雨が嫌いなわけでもなく、雨の降った後の晴れ上がった空を見るのも好きだっだ。雨の音に耳を傾けるのも心地よいと思う事が多い。でも時たま、憂鬱になる日もあるのだ。
「あれ、加東さん、レポート進んでないね」
 いつの間にか、佐藤さんは本を閉じ景の方を見ていた。
「朝から元気ないけど。大丈夫?」
「……別に大丈夫だけど…… 少し憂鬱な気分かも」
「ふーん。ま、そんな時もあるよね」
 佐藤さんは大きく伸びをしてしてからあくびをした。
 どうやら本を読むのも飽きたようで、流しに向かってお茶を飲み始めた。勝手知ったる我が家のようだ。
「あっそうそう」
 台所から振り返り佐藤さんが声をかけてきた。
「昨日調子が乗らなくて小説を書いてみたんだ。しかも加東さんが主役。加東さんの魅力を余すところなく書いてみた」
 この友人はたまに突拍子のないことをしてくる。
 調子が載らないから小説? 何故私が主役? などという一般的な疑問は役に立たない。
 たぶん本人がやりたかったのだろうなと言う答えを、景は佐藤さんと知り合って日が経つにつれて分かってきた。
「元気のない加東さんにプレゼントふぉーゆー。ねえ、読んでみてよ」
 佐藤さんは鞄をガサゴソとあさり始めた。
 受け取った原稿用紙の表紙には『めがねの詩(うた)』の文字。
 五秒で内容がわかる題名だ。
「書いてるうちに乗ってきちゃって気がついたら夜明けだよ。なに? 創作意欲って言うの? いやー、すごっ……てなにやってるの! 加東さん!!」
 景は無言で破り捨てた。
 原稿は三秒で屑に変わった。
 周りで「私の意欲作が〜」と言う声が聞こえるが無視する。……よけい憂鬱さが増えたような気がする。
 窓に目を向ける。
 少しするとまた静かになり雨の音だけが聞こえてきた。
 雨の音は落ち着く。確か昔は憂鬱な気分になることはなかったと思う。いつの日からたまに憂鬱な気分を感じるようになったのだろうか。
 ……と、こんなことをしてる場合じゃない。はやくレポートに戻ろう。
 さて取り掛かろうと目を移すと佐藤さんは再び本を読んでいた。
 普段おちゃらけている佐藤さんも本を読んでいるときは物静かな顔に変わる。何故だかこんな顔をどこかで見たような気がした。
 佐藤さんの様子を見ていると、ふと、景の口からは疑問に思っていたことがついて出た。
「なんで英文なんだろう……」
「えっ?」
 聞いてないと思っていた佐藤さんが返事を返してきた。
「あっ、いや、何でもないんだけど」
「そう言われると気になるじゃん」
「ふと佐藤さんって何で英文科選んだのかなって思っただけ。ただそれだけだから」
「そんなこと気になる? 学科なんかテキトーに決めてる人多いよ」
「ふと思っただけだから。でも前から気になってたは確か。やっぱり英語に興味があったからとか」
「そうじゃないけど。私はむしろ加東さんのほうが何で選んだのか気になってる。いや、雰囲気的にはバッチし合ってるんだけど」
 質問に質問で返された。
 そういえば私が英文科を選んだのはどうしてだろう。
 景は思い返してみたが、ごく自然に英文科を選んでいたような気がした。
「私の場合は家に本があったからだと思う。父が文学好きだったから蔵書がたくさんあったの。それで自然に読んでいるうちに英文に進もうって」
 父は物静かな人だった。雨の日は二人でめいめい本を読んでいたような気がする。そういえば逝く前の朝も本を読んでいたっけ。いつも通りの物静かな横顔だったのを覚えている。
「ふーん。加東さんらしいね。昔から文学少女だったのか」
「それで佐藤さんはどうなの?」
「なにが?」
「佐藤さんが英文科に進んだ理由」
「えー? 言うのー?」
「私の番終わったんだから、ほら」
 佐藤さんは露骨にいやそうな顔をした。
 そこまでいやそうな顔をしなくてもいいのに。
「しょうがないなー。元気がなかったりおしやべりだったりする加東さんのために、今日は特別だよ?」
 佐藤さんは勿体つけるようにたっぷり間を取ってから話し始めた。
「決めたのは去年の冬だけど、漠然と思ってたのは一昨年の冬以降。図書館で本を読んだから。終わり」
「ちょっと、それしゃあ理由がわからないわよ……」
「でも詳しくっていってもなあ……」
「佐藤さんじゃないけど逆に気になるわよ」
「でも聞いてもつまらないよ?」
 佐藤さんはしぶしぶといった感じで話し始めた。
「一昨年冬から去年始めぐらいの頃、聖書を読んでみようと思ったの。英文で」
「英文で?」
「そう。本当は原文で読みたかったけどそれは無理だから。辞書片手に読んでみたけど何がいいのかさっぱり」
 景は佐藤さんの行動のほうがわからなかったが、いつもの突拍子もない行動だろうと思い、聞き流した。
「その本の隣に英文の小説があって、そっちのほうが面白かったし、気づかされることも多いなあなんてね」
「その時本が好きになったの?」
「ん、ま、そうだけど、オチの方が気にかかってて。そっちの方が大きいかも」
 佐藤さんは苦笑いを浮かべた。
「実はその三ヶ月前にも本を読み漁ってた時期があって全く同じものを読んでたんだよね。図書カードに自分の名前が載っているの見てはじめて気づいたってオチ」
「あなたねえ……」
「結局神様の良さは分からなかったけど、色々な人がいて、色々な考えがあって、反発することも、分かることも分からないことも、戻ってきたとき分かることもやっぱり違うということも。ごちゃ混ぜになってたけど色々あるって分かったから。その印象が強かったから、冬に英文科に行こうって、思ったのだと思う」
 佐藤さんが話している顔は何を思っているのか静かな穏やかさがあった。
 ああ、この顔は見たことがある。
 物静かな父が、たまに本のことを――文学に限らずだが――話すときにこのような顔をしていた。そして父は口癖のように加えていた。「これは本に限らず、人間についても少しだけ、言えるかも知れないな」と。
 そんな本好きだった父と重なる佐藤さんの姿に、景は意外な一面を見たような気がした。
 同時に雨が憂鬱な理由も分かった気がした。
 雨がまた、好きになれそうな気がした。

 今日も今日とて景の家には友人が来ている。
 景より一つ年の若い友人、佐藤さんは、ここ一週間ばかり景の家にいついている。
「いいかけん家でやりなさいよ」と言うと、「やっぱりここでやるほうが落ち着く」だそうだ。
 景が雑誌をめくっていると「あっ、そうそう」と佐藤さんは言った。
「やっと新作できたよ。今度も自信作」
「新作?」
 新作とは何だろう。
 景が疑問に思っていると、佐藤さんは続けた。
「小説だよ。小説。加東さんも期待して待ってたよね?」
 また訳のわからない事をと思っていると、佐藤さんはがさごそと鞄をあさり始めた。
 ……まあ、読むのもいいか。
 どんなに突拍子もない話でも、佐藤さんの考えの片鱗が見えるかもしれない。たとえそれが違う考えだとしても、付き合ってみるのもいいかも知れない。
 期待に満ちた顔で差し出す佐藤さんの原稿を受けとった。そこには大きく題字が書かれていた。
『めがね白書』
 景は無言で破り捨てた。


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