某月某日――
瞳子がグレた。
「またまたぁ〜、乃梨子ちゃんってば冗談ばかり」
「それが冗談じゃないから、こうして相談してるんです!」
けたけたと笑う祐巳さまに、乃梨子は必死になって説明した。
「私もいつも通り、どうせマンガかテレビの影響でも受けて遊んでるだけだろうと思って放っておいたんですけど、どうも今回はマジみたいでして」
「私、今朝ちょっと肩がぶつかっただけで、トイレに連れ込まれましたわ」
くすん、と涙声で訴えるのは、瞳子の友達代表として同行してくれた美幸さんである。
「そこで殴る蹴るの暴行を――」
「えぇえ!?」
「してやりますわ、と脅されました」
「――あ、実行したわけじゃないのね」
ほっと安堵の息を吐く祐巳さまに、美幸さんはふるふると震えながら身を乗り出した。
「いいえ、いいえ紅薔薇のつぼみ! あの時の瞳子さんの目は本気でしたわ! 私、あまりの恐怖で危うくお漏らしをしてしまいそうに――」
「そ、そうなんだ……それは災難だったね。えっと、コンビニにもパンツって売ってるよ?」
美幸さんの訴えに祐巳さまが慌てて美幸さんの肩を叩いて慰めてから、ちょっと考え込んだ。
「でも――確かに瞳子ちゃんが本気で凄んだら、ちょっと怖いかもね」
「そこなのです、祐巳さま」
祐巳さまの感想に乃梨子は頷く。
「瞳子のヤツ、変に演技力だけは図抜けてるじゃないですか。ですから、どうすれば相手を怖がらせられるかとか、知り尽くしてるんですよ。実際の暴力に訴えないだけに、余計に性質が悪くて」
実際、乃梨子も廊下で敦子さんに絡んでいる瞳子を目撃したが、あのやさぐれた感じは筋金入りのヤンキーって感じだった。
しかも瞳子は乃梨子に気付くと、一目散に逃げている。絡む相手を選んでいる辺り、いつになく厄介だ。
「――とにかく椿組を中心に、瞳子の被害者が増えています。このままではいつ、先生方や山百合会の方の耳に届くかと思いまして。まずは先に、祐巳さまに相談しようと思ったんです」
「そっか。――ありがとう、乃梨子ちゃん」
お礼を言う祐巳さまに、乃梨子は少し安堵した。
瞳子のことを相談するのに、祐巳さま以上の適任者はいないと乃梨子は思っている。学園祭の時もそうだけど、案外この人は頼れる人なのだ。瞳子と祥子さま絡み限定で。
「近い内に話をしてみるよ」
力強く頷く祐巳さまに、乃梨子はよろしくお願いしますと頭を下げた。
瞳子の傍若無人ぶりは加速していた。
「瞳子あんた、このタイはなんなのよ!?」
大きめにカスタマイズされたタイを見て乃梨子が注意をしても、瞳子はふんっとそっぽを向くだけだ。
「放っておいて下さいませ。別に校則違反をしているわけではありませんわよ? 校則ではタイを結ばないことを禁止しているだけですもの。それでも何か文句があるのかしら?」
「く……」
確かにリリアン女学園の校則は厳しくないから、瞳子の言う通り、多少制服を着崩したところで校則違反にはならない。
そんなことは明記するまでもなく、リリアン女学園の生徒なら秩序を守ってしかるべきだし、実際に制服を着崩し、放課後に寄り道しまくるなんて生徒は、これまで出てこなかったのだ。もちろん、姉妹制度がその一役を買っていたというのもある。
だから校則も本当にないに等しかった。瞳子はそれを良いことに、やりたい放題である。
「……こんな時、瞳子にお姉さまがいれば」
そう思わずにはいられない。最近はついに瞳子のことは山百合会の一部でまで話題に上がるようになったのだけど、結局のところ「校則違反はしていない」と言われてしまえば、それ以上強くは言えないのが現実なのだ。
それはお姉さまの仕事であり、瞳子はそのお姉さまがいない。
理論武装して巧みに立ち回る不良少女のなんて厄介なことだろう。最近ではリリアン女学園にもごく少数存在している、不良グループ(ただし他の学校に行けば十分『優等生』で通用するような不良っぷり)が瞳子に接触しつつある、という噂を聞いた。
これはそろそろ本気でヤバイ。祐巳さまは何をしているのかと、思わず詰め寄った乃梨子だが。
「それが、瞳子ちゃんに全然会えないのよ。すぐに逃げられちゃうの」
困ったように言われてさもありなん、と納得した。
初期には乃梨子からも逃げていた瞳子である。どこまで増長しようとも、祐巳さまや祥子さまなどの、頭が上がらない相手からはしっかり逃げ続けることだろう。自己分析の出来ている、頭の良い不良少女は本当に厄介だ。
「――分かりました。なんとかして瞳子をとっ捕まえます」
「うん、そうしてくれると助かる。私の足じゃ瞳子ちゃんに追いつけないんだよね」
「それでは明日の放課後――椿組まで来てくださいますか?」
「うん、分かった」
祐巳さまがちょっと緊張した面持ちで頷く。
決戦は明日の放課後――
祐巳さまと瞳子の、直接対決である。
† † †
「それでは本日の授業はここまでにしましょう」
シスターがそう言って、その日の最後の授業が終わった。
「起立、礼!」
当番の子が声をかける。軽く頭を下げながら、乃梨子はちらりと教室の後方へ視線を投じた。
最近の瞳子はついに掃除当番をサボリ始め、授業が終わると同時に教室を出て行ってしまう。だからこそ、祐巳さまも瞳子に中々会えないでいるのだ。
まずはそれを阻止する。今の瞳子に対抗できる子はそうそういない。鋭い眼光で睨まれて「おどきなさい!」と一喝されれば、ぶるぶる震えてお漏らししそうになる、美幸さんみたいな子ばかりなのだ。一年椿組は。
乃梨子はそんなことないのだが、一人では教室の前後にあるドアの両方をカバーすることは出来ない。それでこれまでは取り逃がしていたわけだが、今日ばかりは違う。強力な助っ人がいるのだ。
「――瞳子、待ちな。今日こそは話を聞いてもらうよ」
案の定鞄を手に帰ろうとした瞳子の前に、乃梨子は立ち塞がる。
「乃梨子さんと話をすることなんてありませんわ」
「そうはいかない。こんなこと、良くないわよ」
「――ふん。うるさいですわ」
くるっと瞳子が背中を向けて、教室の後ろに向かう。そっちのドアから出ようというのだろうが、甘い。
「――可南子さん!」
「!!!」
乃梨子の掛け声に瞳子が驚愕の表情で振り返り。
教室後方のドアの前に、可南子さんが立ち塞がる。
「く――可南子さん、あなたまで私の邪魔をするんですの?」
「私個人はあなたのことなんてどうでも良いのだけど」
ぐっと腰を落とし、両足を肩幅に開いて、可南子さんは両手を大きく広げる。
「祐巳さまに頼まれた以上――私は私の役割を果たす……」
きゅっきゅっきゅっと可南子さんがサイドステップを開始した。
右に、左に。低い体勢を保ったまま素早く往復する。右手は頭の上に、左手は体の横に。瞳子の行く手を塞ぐようにしてゆらゆらと揺れている。
「あ、あれは――!」
成り行きを見守っていた敦子さんが驚愕の声を上げる。
「伝説の――バスケ部のお姉さま方とのワン・オン・ワン100連戦を完封した、サイドステップディフェンス! まさかこの目で見られるなんて思いませんでしたわ!」
「ぅわ意味ねー」
別にドアの前に立っていれば良いだけなのに、きゅっきゅっと音を響かせながら、瞳子の周りを回っている可南子さんに、乃梨子はツッコミを呟いていた。
今日の可南子さんは、上履きではなくてバスケシューズである。
凄い気合いだ。空回りしてるけど。
「――祐巳さま、ですか。イヤな方の名前を聞きましたわ」
瞳子が不機嫌そうに呟き、腰を落として可南子さんをにらみつけた。
「上等ですわ。――そこを通していただきます」
「させない……」
かつて天敵同士として冷戦を繰り広げていた二人が、今正に正面からぶつかろうとしている。
ごくり、と一同が喉を鳴らした。
「――行きますわ!」
「ふっ!」
ダッシュする瞳子の前に可南子さんが素早く移動する。可南子さんナイス、と乃梨子が拳を握った瞬間。
「オフェンスチャージング!」
「――っ!?」
瞳子が叫ぶと同時に、可南子さんがビクッと両手を挙げて一歩後退する。
その瞬間、瞳子はするりと可南子さんの横をすり抜けた。
「さ、触ってないわ!」
「イヤ駄目じゃんそれじゃ!」
焦って言い訳する可南子さんにとりあえずツッコミを入れて、乃梨子は廊下に出た。今や廊下を走ることすら躊躇わない瞳子が相手では、既に手遅れかもしれないが――
「ハイ、そこまで」
乃梨子とは反対方向へ走っていた瞳子の前に、ふわりと人影が立ち塞がった。
「――志摩子さん!?」
「白薔薇さま!?」
乃梨子と同時に瞳子も驚きの声を上げる。それでも勢いを止めずに駆け抜けようとした瞳子に志摩子さんが手を伸ばし――
「えいっ」
すんごい気の抜けた掛け声と共に、瞳子の体をどうやったのか、くるりとその場で180度回転させた。
「!?」
いきなり視界がくるっと回ったからだろうか。瞳子が驚きの表情で2・3歩たたらを踏む。
「志摩子さん、ナイス!」
その隙に駆け寄った乃梨子が瞳子の手を掴んだ。
「くっ――離して!」
「ダメ! 今日こそは逃がさないんだから!」
「この――っ! いくら乃梨子さんと言っても、容赦はしませんわよ!?」
ぐっと瞳子が鋭い目を向けてくる。
「今すぐに離さないと――殴りますわよ? これはどう見ても正当防衛よね?」
にやり、と笑みを浮かべて拳を握る瞳子に、乃梨子の背中にちょっと冷や汗がにじむ。
そんなのは嘘だと分かる。そもそも瞳子は乃梨子より遥かに運動神経も悪いのだから、本気で取っ組み合えば乃梨子が勝つのは間違いないのだ。それに瞳子は暴力だけは振るっていない。
「私がそんなことをしないとでも? 甘いわね、乃梨子さん。それは単に必要がなかったからだけよ。でも乃梨子さんは違う。なら、私は躊躇ったりはしないわ」
いつものお嬢様言葉をやめた瞳子は中々の迫力だし、その視線も握った拳も、本気でそう言っているんじゃないか、と乃梨子に思わせるに十分である。
けれど乃梨子は手を離さなかった。
瞳子はそこまで――他人に暴力を振るうまでは悪くなっていないって思う。
それに――もしここで瞳子に殴られても、それでも良いと乃梨子は思った。痛いのはイヤだけど、それで瞳子を祐巳さまに会わせられるなら。祐巳さまが瞳子を元通りにしてくれるのなら――
(そうよ……私はイヤなのよ! 元の瞳子の方が、好きなのよ!)
だから乃梨子はいつでもその小さな拳が飛んできても良いように、体を硬くした。
「私は、本気よ!」
「私だって本気だ!」
睨んでくる瞳子を乃梨子も睨み返す。
瞳子は全く視線を動かさない。ちょっと冷たい、視線。例え演技でも、これは確かに美幸さんならお漏らしするかも、と乃梨子は思った。
「――仕方ありませんわね」
瞳子が溜息を吐いて、ぐっと拳を握る。
本気か、と乃梨子がもう一度体を硬直させたところで――
「ハイ、そこまでー」
再び、志摩子さんがほわほわとした感じで割って入ってくれた。
「残念だけど、その続きはまた今度どこかの海辺で夕方にしてちょうだい。さすがに手を上げれば、山百合会でも庇いきれないわ。それに――」
にこっと志摩子さんが笑みを浮かべた。
「間に合ったみたいだから」
「――!」
志摩子さんの言葉に瞳子が背後を振り返る。乃梨子もその視線を追って、ほっと安堵の息を吐き出した。
「――瞳子ちゃん!」
祐巳さまが、そこにいた。
廊下には緊張が満ちていた。
一年生の間では、豹変した瞳子のことは有名だったし、その瞳子と祐巳さまの微妙な関係も周知の事実である。
「瞳子ちゃん、ようやく会えたね」
「……ふん!」
声を掛ける祐巳さまに、瞳子がそっぽを向く。
祐巳さまはゆっくりと瞳子に近付いていく。
その様子を見守りながら、乃梨子は祈るように両手を握っていた。
祐巳さまが以前、演劇部と問題を起こした瞳子を諌めた話は聞いている。そのやり取りまでは分からないけれど、今は祐巳さまの手腕にすがる思いである。
祐巳さまならきっと、瞳子を説得してくれる――そう思いながら、乃梨子は祈っていた。
「……瞳子ちゃん」
祐巳さまが瞳子の目の前に立ち、片手をゆっくりと上げる。
まさか、叩くつもりか――!?
乃梨子が息を飲んだその瞬間。
「ダメじゃない、こんなことしちゃ」
つん、と祐巳さまが瞳子のオデコを指で突っつき――
「……ごめんなさい」
瞳子がしおらしく、謝った。
そ れ だ け か よ !?
にこにこ微笑む祐巳さまに、廊下中から無言のツッコミが聞こえたような気がした。
† † †
それで瞳子がどうなったかと言えば、すっかりと更生していた。
「乃梨子さん、本日は一緒に帰りません?」
にこにこと話しかけてくる瞳子に、乃梨子は溜息を吐く。
あの苦労と恐怖の日々はなんだったんだろう――と。
あれだけクラスを巻き込んで、美幸さんを危うくお漏らしさせそうにしておいて、オデコつんで終了、である。多分、乃梨子じゃなくても溜息を吐きたくなるだろう。クラスメートは純粋に喜んでいたように見えたが、多分陰で溜息を吐いているに違いない。そうであって欲しいとも思う。あれで素直に瞳子の更生と祐巳さまの手腕(?)に感動できる感覚の持ち主とは、正直やっていけない。
「今日は薔薇の館に行くから無理」
「まぁ、そうですの? では、瞳子もご一緒しますわ。お手伝いいたします」
「へいへい」
それが最初から目的だったんじゃないのか、と乃梨子は半眼で瞳子を睨んだ。
「まぁ乃梨子さん、お顔が怖いですわ」
とか言う瞳子に、ちょっと腹が立つ。
もうこうなったら、今度は乃梨子がグレてやろうか。すっかりリリアン女学園に馴染んだ乃梨子だが、一応中学までは普通の学校に通っていたのだ。瞳子よりよっぽど派手にグレてやる自信がある。
そうなったら瞳子はどうするだろうか。今回の乃梨子のように、奔走してくれるだろうか。
多分、心配はいらないだろう、と乃梨子は思う。
瞳子は基本的にお節介なところがあるし、根はやはり真面目な生粋のリリアン生だし。
それに一応、親友だし。
「――ま、そしたらあれかな。私もオデコつん、で陥落だろうなー」
志摩子さんにオデコつん、をされることを想像してみる。多分それで乃梨子の反乱もゲームオーバーだ。
「オデコつん? 何の話ですの?」
「んー、私と瞳子が似てるって話」
乃梨子はちょっと笑いながら、鞄を手に立ち上がった。
「じゃ、行こうか」
「はいですわ♪」
かくして、リリアン女学園には平和が戻った。
だが、瞳子の反乱はこれで最後とは限らない。
けれど、例えまた同じようなことがあっても、きっと大丈夫だろう。
どうせまた、祐巳さまが瞳子を秒殺ノックアウトしてくれるだろうから――