私はとても日本が好きだった。
「トードー先生、こんちは〜」
「オウ、ユウキくん。コンニチハ」
花寺学院の生徒たちには裕福な家庭の子供が多いからか、外国人を見ても身構えたりはしない。恐らくパーティなどで青い目を見慣れているのだろう。私にもとてもフレンドリーに話しかけてくれた。
もちろん、中にはごく普通の家庭に育ち、少し外国人コンプレックスを持っている生徒もいるのだけど、例えばこのフクザワユウキくんのように、人種の違いなど物ともせずに話しかけてくれる子も多い。
「先生、荷物持とうか? それ、結構重そうだし」
「オウ、ソレハタスカリマス」
花寺学院は私にとって天国のような職場だった。興味のある日本文化的にも、多くの古い資料を抱えているし、何よりも生徒たちが賢く、優しく、そして文武に熱心である。
私の受け持つロシア民俗学など、受験には全く関係のない科目だが、大学までの一貫教育である花寺学院なので、興味を抱いて熱心に授業を聴いてくれる子も多い。このユウキくんもその一人である。
ユウキくんもそうだが、総じてここの生徒たちは度量が大きい。余程伸び伸びと育てられたのだろう、外国には外国の文化・歴史があり、そこに根付いた生活や習慣があることを素直に受け入れられる。私はかつてアメリカやヨーロッパ、そして母国であるロシアでも教鞭をとったことがあるのだが、この学院での生活が一番楽しかった。やはり私も一教師、優秀な子達に物を伝えることに楽しみを覚えてしまう。
「そういえば、先生の名前ってなんでしたっけ? ちょっとリリアンに送る書類に書く必要があるんですけど」
廊下を歩きながら、ふとユウキくんが聞いてきた。
私の名前はロシアでもちょっと珍しいのだが、日本人には少々発音し難いものである。トードーとユウキくんは言っているけれど、正確には「トードゥ」だし、ファーストネームも一度で正しく発音できた日本人はいない。
「ワタシノナマエデスカ? ワタシノナマエハ――」
ロシアに生まれ、いくつかの国を渡り歩いた民俗学教師である私は、それこそ、この地に骨を埋めても良いとさえ、思っていた。
そう……ある年の、秋半ばを過ぎるまでは。
「先生、ごきげんよう」
「オウ? ゴキ……?」
「ごきげんよう。挨拶の一つだよ」
「オウ、ナルホド。ニホンゴニハイロイロナアイサツガアルノデシタネ」
ある日、私は突然珍しい挨拶で生徒から声を掛けられた。日本語はとても難しい。挨拶一つ取っても、英語とは比べ物にならない数である。
「ごきげんようっていうのは、まぁ、丁寧な挨拶ですね」
初めて聞いた挨拶について尋ねると、ヤマノベ先生がちょっと笑いながら教えてくれた。
「あまり使われない挨拶ですが、とても綺麗な日本語だと私は思いますね」
「ソウデスネ。ゴキゲンヨウ……トテモヤサシイヒビキデス」
私はちょっと嬉しかった。その日以降、何人かの生徒たちが私に「ごきげんよう」と挨拶してくれるようになったのだ。
それが――これから起こることの、予兆だとは知らずに。
「ごきげんよう、ロサ・ギガンティア」
「ゴキゲンヨウ……ロサ……?」
「先生のことですよ〜」
「ワタシノコトデスカ? エート、ロサ……?」
「ギガンティア」
ある日、私は妙な呼び名で呼ばれるようになった。
「ロサ・ギガンティアというのは、えっと……確か、白薔薇さまのことですよ」
「シロバラサマ……?」
「ええ。ただちょっと、どうしてトードゥ先生がそう呼ばれるようになったのかは分かりませんけど」
「ソウデスカ……」
ヤマノベ先生に言われて、私も首を傾げた。
私が白薔薇、というのはどういう意味だろうか。
「それよりも、トードゥ先生。今度、リリアン女学園から臨時講師の依頼が来たそうで」
「エエ、ソノトオリデス。ライゲツニ。トテモユウシュウナガッコウトキイテイマス」
「そうですね。あそこはお嬢様学校でもありますし」
「トテモタノシミデス」
私はヤマノベ先生にリリアン女学園のことを教えてもらった。
花寺学院とは姉妹校的存在であること。
この辺りでは有名なお嬢様学校であること。
そこの山百合会というところが、花寺学院での私の授業の評判を聞いて、臨時講師を依頼してきたということ。
何故かヤマノベ先生はその辺りの事情にも詳しかった。とても頼りになる先生だ。
「ソウデスカ、ワタシノヒョウバンヲ。トテモウレシイデス……」
私は危うく涙を零すところだった。遠く海を渡って教師をしていて良かったと思う。
お陰で、しばらくの間は私が急に変な呼び名で呼ばれるようなことなど、すっかり忘れてしまっていた。
それを思い出したのは、帰り道でコンビニエンスストアに寄った時のことだ。
『薔薇族』
ふと、そんな雑誌が視界に飛び込んできたのだ。
「ソウイエバ、ロサ・ギガンティアハバラノコトデシタッケ」
呟いて、その雑誌を手にし――私は、その場で凍りついた。
薔薇族という雑誌は――いわゆる、ホモ・セクシャルの雑誌だった。
「ごきげんよう、ロサ・ギガンティア」
「ウ……ゴキゲンヨウ……」
「ごきげんよう、ロサ・ギガンティア」
「ゴキゲンヨウ……」
今日もまた、皆が私をロサ・ギガンティアと呼ぶ。
私は声を大にして叫びたかった。
私には男色の気などない、と。
どうしてこんなことになったのだろう。何が私の、楽園のような学院生活を狂わせたのだろう。
ヤマノベ先生と仲が良いのが悪いのだろうか。
しかし私は、ヤマノベ先生を尊敬しているだけである。それだけで男色疑惑なんてあんまりじゃないだろうか。
「トードゥ先生、最近元気がないようですが……」
「ヤマノベ先生……」
「今日はリリアン女学園での臨時講義の打ち合わせでしょう? 少しのんびりと気晴らしをしてくると良いですよ」
「ハイ、ソウデスネ……」
私はヤマノベ先生に見送られながら、学院を出た。その道中も、生徒たちが少し笑いながら私に声を掛けてくる。
ごきげんよう、ロサ・ギガンティアと。
私は泣きたくなった。
どうして私がこんな目に合わなくてはならないのだろう。
楽しかったはずの学院。天国のようだと思った職場、だったのに。
「ママン……モウカエリタイヨ……」
遠く、ロシアの地に残してきた母の顔が浮かんだ。
厳しい冬が近付いている。母は元気だろうか。
「コトシデ……カエリマショウカ……」
ふと、そんな呟きが口をついて出て来る。
そして、突如私を襲った原因の分からない変化に、沈み込んだ気持ちのまま、私はリリアン女学園の門をくぐったのだった。
「ごきげんよう、トードゥ先生。本日はようこそおいでくださいました」
丁寧な物腰で私を迎えてくれたのは、ふわふわな髪を腰まで垂らした少女だった。
僅かな物腰だけで、この子が淑女であることが分かる。横に控えているショートカットの少女も、非常に知的な光を目に宿していて、私はこの二人の出迎えに非常に感心した。
礼儀正しく、優雅で知的な物腰。ヤマノベ先生の言っていた「お嬢様学校」というのも納得である。
「先生の授業はとても面白いと聞いています。不躾なお願いを快く受けていただいたことを、皆とても感謝していますわ」
来客用のスリッパを揃えながら、その少女が柔らかな笑みを浮かべる。
「イエ、コチラコソトテモコウエイナコトデス。エエト――」
「あ、申し訳ありません。私ったら、挨拶もしないで」
私に名乗っていなかったのを思い出したのか、その少女は慌てて居住まいを正した。
「私、ロサ・ギガンティアをしています」
「ロサ……?」
「はい。生徒会の役職のようなものですわ。ロサ・ギガンティアをしています、藤堂志摩子です。よろしくお願いします」
ぺこり、と丁寧に頭を下げる少女に。
私は、思わず叫んでいた。
「お、お前が原因か――――――――――――――――――――っ!!!(ロシア語)」
私の名前はシマコフ・トードゥ。
日本人は「h」の語が呼びにくく、聞き取り難いのか、大抵の日本人は最初にこう、私の名前を間違える。
『シマコ・トードー』
かくして、花寺学院学園祭より始まった、私を取り巻く不条理な出来事の原因は判明し。
私は、来年故郷に帰ることにした。