【764】 夕焼け占い  (沙貴 2005-10-24 00:20:44)


「真っ赤な夕焼けの翌日は、良いことがあるのよね」

 銀杏並木で隣を歩く最愛の姉にして従姉妹、そんなちょっと特殊な関係の支倉令こと令ちゃんは唐突にそんなことを言った。
 正確にはその前まで、もう秋深しで日が落ちるのが早いわね、うん、夕焼けが凄く綺麗、とか天気に関する会話をしていたのでそこまで唐突と言う訳では無いのかも知れないけど。
 少なくともそれは由乃に取って全く予想出来ない角度から打ち込まれた一言だった。思わず眉が寄るのを自覚する。
 そのお陰で余程不審な眼差しを向けてしまったのか、令ちゃんは慌てて訂正するように顔の前で何度も手を振った。
「根拠は何もないんだけど」
 そう言って苦笑する令ちゃんの顔に何処か陰りを感じて、由乃は足を止める。
 澄んで鮮やかに夕焼けを浮かび上がらせる秋の空気が一陣の風を呼び、ざぁっと紅葉した銀杏の枝条を鳴らした。
「由乃?」
 足を止めた由乃に気付いて、振り返って歩みを止めた令ちゃんが問うた。
「嘘。根拠、あるんでしょう」
 力強く断言した由乃の言葉に、令ちゃんの目が丸くなる。
 由乃は風に揺れる二本のお下げが鬱陶しくて、右手で左肩を抱くようにして髪を押さえた。
 すると図らずも、鞄を握っているから真っ直ぐ下に下りている左腕を抱え込むような演技掛かった仕草――言い換えれば気障な仕草になってちょっと照れる。
 でも令ちゃんはそう言う事を気にしないし、それどころか逆に結構好きなことも由乃は勿論知っていた。
 
 令ちゃんは何回か由乃の目、地面、空、また由乃の目、と言う風に視線をループさせてから漸く、はぁって息を吐く。
 「改めて言うとちょっと恥ずかしいんだけどな」って漏らしてから令ちゃんは少し先に有る脇道への分岐路を指した。
 直進すればマリアさまの庭(マリアさまの像がある分かれ道の通称)を通って正門に出る、由乃と令ちゃんがいつも辿る道程。勿論今日も辿ると思う。
 右折すれば運動場・武道場方面。今日は山百合会の仕事があるからと二人とも剣道部をお休みしている以上、ちょっと行き辛い方向だ。
 左折すれば校舎に通じる小径に出る。中途には本道には無いベンチも幾つかあるし、向かうとしたらそこかな。
 案の定令ちゃんは先導するように半歩だけ由乃に先行して、分岐路で左に進路を取った。
 予想通りになったことがちょっとだけ誇らしい。
 予想通りになったことがちょっとだけ面白い。
 総じて、やっぱり令ちゃんは単純だなぁってことだろうか。
 多分それで、やっぱり由乃は令ちゃんが大好きってことなんだろう。
 
 進行方向を変えたお陰で、それまで視線を上げた正面にあった夕焼けは、今や由乃達を右側面方向から煌々と照らしている。
 林立する銀杏をすり抜けて差し込む斜光は、煉瓦敷きの小径と令ちゃんに複雑な陰影を落としていた。
 秋だなぁって、思う。
 視線を右に飛ばして眺めた夕焼けは気持ちが良いくらいに真っ赤で、何故だか令ちゃんの言葉をそのまま鵜呑みにしても納得できそうな気がした。
 
 
 小径に入って一番初めのベンチに令ちゃんは座った。
 由乃も当然それに習って隣に腰掛けると、さっきまで側面だけを照らしていた夕焼けが真正面から鮮やかに突き刺さってくる。
 偶然なんだろうけど、夕焼けについてじっくり話すには良いロケーションだ。
 令ちゃんは由乃の鞄も纏めてベンチの脇に置くと、こんな事を言った。
「由乃は夕焼け占いって、知ってる?」
 出ました、乙女の重要単語。
 女の子なら小さな時から大好きで、周りの印象からして見ると大人になってもやっぱり大好きな”占い”。
 ミスターリリアンとまで称されたボーイッシュな見た目に何故か比例して、現山百合会幹部内で夢見る乙女指数が抜群に高い令ちゃんがそれを嫌いな訳がない。
(やれやれ、またか)
 そうは思ったものの、流石にそれをそのまま口に出すほど由乃は姉不幸者ではない。
「知らないけど、令ちゃんは知ってるの?」
 だから努めて普通に受け答えする。
 でも相手は由乃の令ちゃん、言葉に微塵も載せなかった筈の胸中もしっかり受け取ったみたいで、やっぱり少し陰の掛かった苦笑を見せた。
 
「簡単なの。夕焼けの次の日は、良いことがある。夕焼けじゃない次の日は、良いことはない」
 夕日に顔を向けてそういう令ちゃんの横顔は格好良かったけど。
 端正な顔立ちに、辺り一面を幻想的なくらい朱色に染める陽光が当たって上気したように見える横顔はいつものように格好良かったけど。
 口から出た言葉は途方も無く馬鹿らしかった。
「何、それ。占いでも何でもないじゃない」
 夕焼けの有無が、次の日に起こる良い事の有無。
 意味の判らない二元論だし、そもそも最悪でも”良いことはない”なんて自分に都合が良過ぎるんじゃなかろーか。
 血液型、星座、動物占いは勿論六星占術とか零占いと言う小難しい占いも手掛ける令ちゃんにしては、随分陳腐で曖昧な占いを口にしたものだと思う。
「うん、占いでも何でもないんだよ」
 そして令ちゃんはあっさりそんな事も言ってのけた。
 自分で”夕焼け占い”と言っておきながら「占いじゃない」なんて酷過ぎる。
「何、それ」
 だから抗議の意味も込めて、ちょっと前と全く同じ言葉を言ってみる。
 勿論、中に込める怒りのオーラは五割増し(当社比)で。
 
 すると令ちゃんはもう一度由乃の方を向いた。
 今日三度目になる陰りを帯びた笑み、それはどこか遠い日の記憶を撫で付ける。
 ああ、見覚えの有る笑みだと由乃は思った。
 それは由乃がまだ手術を受ける前、病室で何度も見た顔だ。
「覚えてる、由乃。昔さ」
「私がまだ病弱だった頃?」
「良く入院、って、そう。そうそう。何で判ったの?」
「判るわよそれくらい。そんなことで勝手に話の腰を折らないで」
 全く由乃を何だと思ってるんだ。
 世界で一番令ちゃんのことを理解しているのは由乃なのに、令ちゃんはまだまだ由乃のことを理解していない。
 でもまぁ、それでも世界で一番由乃のことを理解しているのは令ちゃんなんだろうけど。
 
「もう。それでね、ずっと昔の話よ。本当に昔、私が小学校に入った頃じゃなかったかな」
 令ちゃんが小学校に入る頃――と言うと、九年前。ああ、それは本当に昔の話だ。
 九年前と言えば、高々十七年程度しか生きていない由乃達に取って半生以上前の話なのだから。
(しかしまた随分古い話を持ち出そうとしてるな)
 中途半端な相槌は話の腰をまた折りかねないので、由乃は敢えて口には出さずに居た。
「小さかったから由乃は良く体調を崩してさ。ううん、多分本当に体調が悪かったんじゃなくて、ちょっと熱があるとか、ちょっと風邪気味かな、くらいで大騒ぎして病院行き、入院ってなってた」
「まぁ、過保護だったわよね」
 令ちゃんも含めてって由乃は言おうと思ったけど、言わなくても通じると思い直したから止めた。
 勿論通じた令ちゃんは、今度は陰がある苦笑ではなくて純粋に”参ったな”って笑う。
(うん、令ちゃんはそっちの方が似合ってるよ)
 それが嬉しくて由乃も少し笑った。
 
 「その頃の」まで言った令ちゃんは夕日に向き直って、続けた。
「秋の日だったと思う。季節の変わり目は本当に由乃、弱かったから。春秋の思い出は病室から始まる気がするよ」
「そりゃすみませんねーだ」
 何だ何だ、愚痴っぽい。
 こっちだって倒れたくて倒れてた訳じゃないし、熱が出るのは体が勝手に出してただけだ。今更そんなこと言われたって何も言える訳ないじゃないか。
 だから、いーって歯を見せて反抗したけど、令ちゃんはでもそれを無視して言った。
「今みたいな夕焼けの真っ赤な病室とか、雨が降って薄暗い病室でさ。由乃が泣くんだよ。おうちにかえりたい、ここはやだ、さみしい、かえりたい、って」
 その時の事を思い出しているんだろうか、令ちゃんの目が正面の夕焼けじゃなくて何処か遠いところを見ているような気がした。
 同じ風景が見えるかと思って目を凝らしてみたけど、由乃の目に写るのは沈みゆく真っ赤な夕日だけだった。
 覚えていない。
 それが途方もなく悔しかった。
「私も子供だったから、基本的には一緒に泣いてた。かえりたいね、さみしいね、って。でもやっぱり”よしののれいちゃん”としては何とか元気付けたかったんだ。泣いている由乃は見たくなかった」
 そこまで聞いて、由乃は何となく話の矛先が見えて来た。
 でもそれを言おうとしてくれる令ちゃんを遮りたくなかったし、何より予想じゃなくて正確に事実を知りたかったから。
 だから素直に。
「それで、令ちゃんは何て言って元気付けてくれたの?」
 って、聞いた。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
『よしの、だいじょうぶだよ。きっともうすぐかえれるよ』
『いつ? いつ、よしのかえれるの?』
『えっと、うんと、ほら、きょうはあめだから。あめだからきょうはちょっとだめかもしれない』
『あめだとだめなの?』
『うん、あめだとおそとであそべないでしょ?』
『でもれいちゃんのおへやであそべるよ?』
『うん、でもいっかいおうちにかえらないとあそべないから。だから、おそらがはれないとだめなんだよ』
『いつ? いつ、おそらはれるの?』
 
『えっと――あそうだ! ゆうやけだよ!』
『ゆうやけ?』
『うん。ほら、ゆうがたになるとおへやがまっかになるでしょ? あれがゆうやけっていうんだ』
『うん』
『ゆうやけのつぎのひはおそらがはれるんだよ。おかあさんがいってたんだもん、ぜったいだよ!』
『おへやがまっかになったら、かえれるの?』
『うん、そうだよ。きっとかえれるよ』
 
『でもきょうはゆうやけじゃないよ……?』
『うん、ごめんねよしの。でもきっとあしたはゆうやけになるよ。だからあしたのあしたはおうちにかえれるよ』
『あしたの、あした』
『きっとすぐだよ! あしたもくるから、あしたのあしたはいっしょにかえろう!』
『うん……うん、いっしょにかえろう!』
 
 
 〜 〜 〜
 
 
 それは由乃の予想通りと言うか、有り触れた幼児期の勘違いと言うか。
 少なくとも別に令ちゃん好みの乙女チックエピソードとは言えないような気がする、中途半端な問答だった。
 聞いた由乃は何故かちょっとがっかりしたけど、まだ話は終わっていなかったようで、耳馴染みの有る令ちゃんの声は尚も聞こえてくる。
「それでね、本当に次の日は綺麗な夕焼けになって、その次の日に一緒に帰ったの。手を繋いでね、笑いながら」
「でもそれって偶然でしょ?」
「うん、偶然。雨の日に退院することもあったし、夕焼けの翌日に退院できるどころか精密検査が追加されたり、入院延長のお告げがあったり、色々あったよ」
 そう言って笑う令ちゃんは嬉しそうで、でもやっぱりちょっとだけ影が差していて。
 きっとこの思い出を完全無欠に忘れ去っている由乃を無言で責めてるんだろう、ってちょっとネガティブに考えてみたりもした。
 でもそんな昔の事を覚えてる令ちゃんの方が変だと思ったから、由乃はそれについて謝ることはしなかった。
 忘れちゃってるものは忘れちゃってるんだし、今更取り繕いようがない。
 無くした昔を掻き集めるくらいなら、今からその夕焼け占いとやらを知って理解すれば良いのだ。
(ま、そんな大仰なものでもなさそうだけど)
 
「それが何で、夕焼けの次の日は良いことがある、に繋がる訳?」
 由乃がそう言うと、今度は令ちゃん「さぁね」なんてはぐらした。
「ちょっとちょっと、さぁね、はないんじゃないの。それじゃ判んない」
「そう言われてもね、私だって判らないんだもの。子供の考えなんだから仕方ないじゃない」
 そう言って肩を竦めた令ちゃんはまた夕日に視線を向けて、少し笑う。
 その微笑からはさっきまでとはちょっと違って、何か吹っ切ったような達観したような――そんな笑顔に見えた。
「でもね、その後から私と由乃……と言うより、昔の”わたし”と”よしの”にとって夕焼けって特別になったの」
 令ちゃんが途中で言い直したのが辛くて、思わず顔を背けてしまった。
 でもそれは事実だ。
 令ちゃんの言う通り、そのエピソードを忘れ去っていた由乃にとって夕焼けは”特別”なんかじゃなかった。
 それこそ、”秋だなぁ”って思うくらいのものでしかない。間違いなく、令ちゃんの夕焼けと由乃の夕焼けは重みが違う。
 言い直されたのも当然だ。
 
 そんな由乃の葛藤に気付かず、令ちゃんは続けた。
「今日は夕焼けだから、明日はきっと退院できる。今日は夕焼けだから、明日はきっと由乃の好きなハンバーグだ、って。ふふ、後者は結構私も努力して実現させてたのよ。まだ頼めばどうにかできるレベルだったからね」
 それらを言い直せば、”夕焼けの次の日は、良いことがある。夕焼けじゃない次の日は、良いことはない”になる訳だ。
 それを”占い”と言い切ってしまう辺りが、高い令ちゃんの乙女指数面目躍如というところだけど、占い結果の実現に奮闘する令ちゃんの姿が微笑ましくて由乃はくすくす笑った。
「でもそれを何で急に思い出したの? 令ちゃん、今まで一言もそんなこと言わなかったじゃない」
 言ってから、由乃は自分が最悪の失敗をした事を理解した。
(って、言ってから理解したって遅いんだってば島津由乃!)
 令ちゃんは、またあの顔――陰のある苦笑を浮かべて、眺めていた夕日から無理矢理視線を剥がすようにして由乃に向いた。
「言うまでもないかな、って思ってたんだ」
 それは。
 敢えて言うまでもないくらいに下らない占いに過ぎないって意味か。
 敢えて言うまでもないくらいに由乃も同じことを考えていると思ってたって意味か。
 由乃の胸が、手術をしてからは動作良好オールグリーンな胸が、軋むように痛んだ。
 
「そっか」
 急に泣きたくなった自分を隠すように、由乃はそれだけ言って夕日を見る。令ちゃんと見詰めあう資格がないと思った。
 由乃が世界で一番令ちゃんを理解しているなんておこがましかった。
 ”令ちゃんの由乃”が聞いて呆れる。
 馬鹿なんじゃないか。
 今まで由乃は色んな人に馬鹿、って言ってきた、令ちゃん、祐巳さん、志摩子さん。
 でもその言葉は今こそ、由乃に向けるべきだと思う。
 令ちゃんの思い出を勝手に忘れ去ってしまっていた由乃にこそ向けるべきだと思う。
 由乃の馬鹿。
 由乃の、馬鹿。
 
 
「まあ、古い話だから」
 そう言って令ちゃんはベンチから立ち上がった。
 鞄を二つ持って、由乃の前に立つ長身から落ちる影が由乃をすっぽり包む。
 無理矢理にでも話を途中で切ったのは令ちゃんの優しさだ。
 でも話を続けさせてくれないのはその裏側、残酷な思いやりだ。
 由乃は令ちゃんを見上げた。
 涙で目は潤んでいるだろうけど、そんなこと何の意味もなかった。
 
「古くない。全然古くないよ、令ちゃん」
 由乃は言って立ち上がる、それでも背の高い令ちゃんと身長は割と一般的な由乃だと、一歳の年齢差にも関わらず約頭一つ分の差が出来る。
 構わない。由乃は令ちゃんの胸倉を掴んだ。
「夕焼けの次の日は良いことがあるのよ。そうでしょう、ねえ令ちゃん」
 鬼気迫る由乃に押されて、令ちゃんが半歩後退る。
 構わない。由乃は半歩前に出た。
「期待しちゃうんだから。今日位に綺麗な夕焼けなら、明日。明日絶対良いことあるんだから」
 そこまで言って。
 そこまで言って、令ちゃんはやっと。
 
「うん、良いことあるよ。明日は絶対良いことあるよ。令さんのお墨付きだから」
 
 そう言って笑ってくれたから。
 だから、由乃は。
「うん、うん、明日、明日きっとね」
 って。
 ちょっと零れた涙を誤魔化すようにして、令ちゃんの胸に顔を押し付ける。
 これで良いんだ。
 これで”夕焼け”は再び由乃と令ちゃんの間で”特別”になった。
 無くした昔を掻き集めるんじゃなくて、今を作ればそれで良い。それがきっと将来の昔になってくれる筈だから。
 由乃はそう思った。
 
 令ちゃんは何も言わないで一回だけ、ぽんって背中を叩いてくれた。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
 お祈りを済ませた”マリアさまの庭”を通って、改めて帰路に着いた頃にはもう夕焼けなんて言っていられる時間帯じゃなくなっていた。
 切れ掛かった街灯がちかちか。
 仕事も部活も関係ない、単なる寄り道が原因で招いた帰路時間としてはリリアン的に結構アウトな気もする。でもそれをするのが当代生徒会長と次代生徒会長(予定)だから大丈夫――何が、と言われても凄く返答に困るけど。
 
 学校の正門から、島津・支倉両家玄関まで約八分。
 薄暗い夜道とは言え高々そんな短時間を怖がるような肝っ玉の持ち方はしていない由乃は、再開した令ちゃんとの雑談に興じながら、頭の別の部分ではある事を考えていた。
 それは”明日の何をもって良いこととするか”。
 由乃は令ちゃんほどロマンチストではない。夕焼けだから明日に良いことが有るとは盲信出来ない、でも折角令ちゃんのお墨付きまで貰ったのだから何かしらの良いことがないと我慢ならない。
 令ちゃんだって昔は由乃のハンバーグの為に帆走したのだから、それくらいの努力と言うか下積みと言うか根回しと言うか――ぶっちゃけ裏工作? は許されると思うのだ。
 
 それを考えること約八分。
 勿論そんな短い時間でどうこう出来る訳もなく、由乃はそのまま自宅前で令ちゃんと別れた。
 さぁどうしたものかなーと考えながら玄関を開けると。
「あ、おかえり由乃」
 玄関先で何やら怪しげな大袋を抱えたお母さんと遭遇した。
「お母さん、それ何?」
「それ何、ってこれは由乃が買っておいた花火じゃない。今年こそ家族ぐるみじゃなくって令ちゃんとやるんだーって張り切ってたの忘れたの?」
 
 ああ、そう言えばそんな事もあったような。
 と言うかここまで物忘れが酷いとなるとちょっと病気なんじゃなかろーか。
 と。
「それだ!」
「はぁ?」
 思わず大声を上げた由乃にお母さんは訝しげに眉を寄せたけど、そんな事は関係ない。
 鞄は玄関に放り投げて奪い取るようにしてその花火セットを抱える。
「これ、やる! まだ湿気てる訳じゃないよね?」
 言いながら袋を引っ張ったり、透明の中身を覗いてみたりしたけど、当然それで中身が湿気てるかどうかなんてわからない。
 お母さんは呆れたように言った。
「大丈夫よ、そういうものは大体一年は持つようになってるから。でも今からだとちょっと急ね」
「違うわ、明日よ! 明日やるの、花火! ああ、もう絶対やる! 決定決定!」
 
 
 半狂乱に浮かれて由乃は花火を抱き締める。
 がさがさした感触は全然気持ちの良いものじゃなかったけれど。
 
 由乃と令ちゃんの夕焼け占いは、中々好調な滑り出しなようだった。
 だってその翌日の花火大会は――令ちゃんだけでなく、現山百合会幹部総出のとても思い出深いものになってくれたのだから。
 これを良いことと言わずして何と言う。
 
 
 だから由乃は今日も空を見上げて言うのだ。
「真っ赤な夕焼けの翌日は、良いことがあるのよね」
 
 
「へ? 夕焼けの次の日って晴れるだけなんじゃないの?」
 
 とりあえず、場の空気を読まない祐巳さんは折檻決定。


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