見上げた夜空は雲ひとつなく晴れ渡り、その端っこで上弦過ぎの半月が煌々と輝いていた。
辺りに響くのはりぃりぃ聞こえる虫の声と、それに覆い被さる火薬の音。それに乙女達の歓声。
ススキは生えていないし月も満月では無いけれど、時折吹き抜ける風の冷たさが秋の到来を告げていた。
現在二条乃梨子らは親しき仲間で連れ合って、宵闇に紛れて花火を楽しんでいる。
でも一言で花火とは言っても、カラフルに彩られた家族用の花火セットがメインだから、秋の風情があると言うにはちょっと現代的過ぎた。衣装だって皆思い思いの私服だし、”日本の花火”を象徴する浴衣で現れたのは小笠原祥子さまただお一人だった。
花火の明かりが明滅するのは、別に蛍飛び交う野原でなければ水音が涼しい河原でもない。
どこにでも有る――と言うと少し失礼だけど、郊外の一般的な一軒家のそれよりは幾分広いとは言え極普通の、支倉令さまと島津由乃さまのお宅のお庭だ。
名実共に住宅街のど真ん中なので、少し視線を飛ばせば家々の窓から漏れる人工の光が目に付く。
街灯は辺りに何本もあるし、少し歩いて街道に出ればコンビニも傍だ。車の駆動音は少し歩くまでもなく聞こえてくる。
でも花火と夜闇の合わせ持つ空気はそんな現代パワーをものともせず、”和”と言う独特の風情溢れる空間を現代家屋の合間に形成してくれていた。
少し時期外れなのはご愛嬌。
いくら純正カトリックのお嬢様学校に通っている女子高生とは言え、日本人たるもの”和”の心を忘れてはいけない。
自他共に認める仏像愛好家である乃梨子は、辺りから滲み出る心地良い雰囲気を感じながらそんな事を思って頷いていた。
そんな乃梨子の正面には一つの人影。
乃梨子がきょろきょろと辺りに散らしていた視線を戻すと、目の前にはその”和”と対極にありそうな容姿と信仰を持ちながらも、”和”に最も近い住居と生まれを持つ藤堂志摩子さま――志摩子さんが居た。
蹲って向かい合う二人の間、ちろちろと地面で燃える灯りに照らされた志摩子さんの横顔は、今更言うべきことでもないかも知れないけれど、美人だった。
曖昧な風に揺れる赤い小さな炎が、それに見惚れる志摩子さんの顔を夜の闇から柔らかく浮かび上がらせている。
それはまるで下方からライトアップされた一枚の絵画。
日本人離れした顔つきと幻想的な淡い光源のお陰で、そのイメージがより強固なものになって乃梨子の目に焼きついた。
今日の志摩子さんは長袖の白いTシャツとベージュ色のスラックス。全体的に淡い色彩のコーディネイトが志摩子さんらしいな、って思う。
そして元々闇の中でぼんやりとは浮かぶ白色系の衣装と、絹のような志摩子さんの肌、微風に揺れるふわふわの巻き毛が小さな炎に照らされて微かな陰影に揺れている。
これはもう、例えそれが100%妹馬鹿であろうと断言しなければならない。
今、この瞬間、あらゆる意味で世界で一番綺麗なのは志摩子さんなのだと。
今の志摩子さんに比べればマリアさまは勿論、どんな美人も色褪せてしまうだろう。
まぁ勿論、それを実際に口にしようものなら、現在少し離れた場所でラブラブ空間を展開し始めた福沢祐巳さまや、通りの向こうで大はしゃぎする声が聞こえる由乃さまから猛烈な反感を食らうだろうから声には出さない。
でも、それでも思ってしまうのが、それでも(胸中とは言え)断言してしまうのが、妹と言うものなのだ。うん。
そんな馬鹿なことを思ってしまうくらい、志摩子さんと夜と花火の合わせ技は破壊力が絶大だった。
とは言え。
志摩子さんを華麗にライトアップする炎の出所がヘビ花火と言うのは正直どーか、ということに関して乃梨子は否定の言葉を持たないのだけれど。
「志摩子さん……面白い?」
「ええ、とっても」
実は乃梨子は、未だに志摩子さんのことが掴みきれていない。
〜 〜 〜
実は志摩子は、未だに乃梨子のことが掴みきれていない。
もっとも、山百合会幹部内に限らずリリアン女学園内で最も乃梨子のことを理解しているのは志摩子であろう。
その自覚はあるし自信もあった。もしそれが覆されようものなら、志摩子は間違いなく寝込んでしまう。
とは言え、幸運にも今のところリリアンかわら版に「激白! これが白薔薇のつぼみの全てだ!」なんて見出しが躍る計画はないようなので、当分その地位が揺るがされることはない筈だ。
乃梨子を庇護し、導き、覆い包むのは姉である志摩子の特権。
それは絶対に揺るがない事実だが、でも、それと乃梨子の全てを知って理解しているのかと言えばそうでもない。
乃梨子はそんなに底の浅い人間ではないのだから。
その全ては乃梨子は頭が良いと言う事実に集約された。
古い話だが、新入生代表で挨拶をしたと言うことからもそれは推し量れる。それに学力が高いということは勿論だが、それ以上に乃梨子の”頭の良さ”は別のところに出ていると志摩子は踏んでいた。
仏教を信仰している訳ではない、けれど古き造詣の込められた仏像に美と素晴らしさを見出していると明言する乃梨子は、それを口にするだけの知識と経験を持っている。
それは天性の才などでは決してない、乃梨子が自分の意思で努力をして勝ち取った功績だ。苦心して手に入れた何物にも換えがたい、それこそ志摩子の信仰心に匹敵するほど尊く形のない何かだ。
それを手にしている。更に新しいものを、良いものを手にしようと努力し、実践している。
即ち、乃梨子は自分にとって何が価値があるものなのか、何が必要なものなのかを考え、しっかりと理解しているに他ならない。
それを一言で表現する場合に、志摩子は”頭が良い”以外の言葉を知らなかった。
その分乃梨子は早すぎる思考の回転が災いするのか、時々暴走するように考えを迷走させる事がある。
そんな時は決まって大仰な身振り手振りと共に早口になるのですぐ判った。
いつもはすっと心の奥底まで染み込むような視線を投げてくるのに、その時ばかりはまともに志摩子の目を見ることが無いし、上気した頬はああ、やっぱり乃梨子は一つ年下なのだなと知らず思えてしまうくらいに可愛い。
姉馬鹿だと詰られても良いから、頭が良くて可愛くて、それで志摩子を好きでいてくれる乃梨子は最高の妹なのだと大手を振って自慢したい。
しかしそんな事をすれば姉馬鹿の年季が違う令さまや、梅雨を越えて以降薔薇の館やそれ以外の場所で度々祐巳さんと衝突しながらも、最後には必ず微笑んで締め括られている祥子さまから烈火の如き反論を受けるだろう。
だからそんな命知らずなことはしないけれど。
そこまで考えて、ふと思った。
見詰める柔らかな炎の中に、薔薇の館でエキサイトする祐巳さんと祥子さまの姿がおぼろげに浮かび上がる。
考えてみれば、志摩子は乃梨子とただの一度でも、そのような口論らしきものをしたことがあっただろうか?
だからこそ、乃梨子の深い思考や奥底の考えに手が届いていないのではないか――?
「志摩子さん……面白い?」
地味に燃える花火を見詰め続ける志摩子に、困ったような顔の乃梨子が問う。
「ええ、とっても」
志摩子が答えると、やっぱり乃梨子は困った顔のままだったけれど、それ以上言葉は続くことは無かった。
決してその沈黙が不快だった訳じゃない。一緒に居られるというその事が志摩子にとって最大に重要なことだから。
でも、その少し前にぶつかり合いながらも絆をより強くしてゆくお二人の幻視を見てしまった志摩子は、ほんの少しだけ。
踏み込んでこない乃梨子に寂しいと思う気持ちを隠せなかった。
〜 〜 〜
皆で花火を行った翌日、土曜日の放課後。
薔薇の館で偶然にも二人きりになった祐巳さんに相談すると、祐巳さんは人懐っこく笑った。
「コツなんて、私の方が知りたいよ。志摩子さん、言っておくけどお姉さまと言いあうのって気力も体力も結構いるんだから」
そう言って心底疲れた風に肩を落とす祐巳さんのお気持ちはごもっとも。
でもその理由の半分くらいはお姉さまが祥子さまであるという事実に端を発している気がするけれど、志摩子は敢えてそこには突っ込まないでいた。
「けれど由乃さんが言っていたのだけれど、祐巳さんと祥子さまの掛け合いはじゃれ合っているだけなんだって。それなら本当に嫌だ、とか。悩みながら喧嘩しているわけでは無いのでしょう?」
志摩子がそういうと、祐巳さんは判りやすく顔を顰めて「それは、そうだけど」と呟いた。
他の人が来るまでの小休止。志摩子と祐巳さんの間におかれた紅茶が立てる湯気が、残暑の厳しいサロンで緩やかに立ち上る。
「確かに、本当に心から嫌だって思いながら言い合ってる訳じゃないよ。何て言うのかな、私が何を言っても大丈夫だって思ってるから、思いついた事をそのまま言ってるって部分があるの」
志摩子が無言で頷くと、祐巳さんはカップに指を掛けながら続けた。
「だからね、多分それだけなんだと思うよ」
しかし祐巳さんのその一言は、中々に難題だった。
何度か自分の中で咀嚼して消化しようとするものの、その言葉は受け取った志摩子の胸の内で燻るだけで、一向に形を変えようとはしない。
苦しむ志摩子に気付いてくれたのか、祐巳さんが慌てたように言う。
「そ、そんなに難しく考えないで。単純に思った事を言っているだけなんだ、ってば。ただ私達の場合はお姉さまが”ああ”だから」
祐巳さんの言いたいことはそれで大体判った。
喧嘩腰になりたくてなっている訳じゃないけれど、祥子さまの気性が激しいから自然とヒートアップしてしまう、ということだ。
でもそれなら。
「じゃあ私達の場合は、どう転んでも”ああ”はならないということなのかしら」
志摩子が漏らすようにそう呟くと、祐巳さんは言った。
「”ああ”なる必要があるなら、なるんじゃないかな。必要がないならならないよ。だって必要ないんだもの」
単純で当たり前の事を言ってくれたその言葉は、だからこそ志摩子の胸に突き刺さる。
必要かそうで無いか。
単純で簡単なようなその二択は、言葉とは裏腹に酷く深く難解なものに思えた。
〜 〜 〜
艶やかに色づいた銀杏並木を行く陰が二つ。
人肌に漸う感じられる程度の微風に振り落ちる銀杏の中を、乃梨子は由乃さまと共に歩いていた。
目指すは薔薇の館、学園祭を控えた今では部活で忙しい由乃さまも可能な限り山百合会の活動に参加する事を余儀なくされている。
令さまは三年生で引退試合も近い。
山百合会の雑務は少しでも多く由乃さまが引き受けるから令さまには練習に専念して欲しい、と言う意志が無言のうちに働いているのだろうか、最近の令さまと由乃さまでは薔薇の館への顔出し頻度が明らかに後者へ偏っていた。
山百合会幹部内で最も感情的な由乃さまが不満顔を一切しないところを見ると、やはりそう言った意志が介在している可能性は高い。
その結果一年生だから欠かさず山百合会の活動に参加し、お姉さま方が来られる前にお茶の準備をしようと張り切る乃梨子と、由乃さまが単独でエンカウントする確率はここ最近で飛躍的に高まっていた。
掃除当番で少し遅れてしまった今日は、もう志摩子さんも薔薇の館に居るだろうなぁ。
お茶が用意できなくて残念だなぁ、と割と真剣に悔やむ乃梨子が昇降口を出るのを見計らったように、偶然にも見覚えのあるお下げ髪が眼前を通過する。
「由乃さま」
乃梨子がそう声を掛けると、由乃さまはゆっくり振り返って「乃梨子ちゃん。ごきげんよう」といって微笑んだ。
下校時間なので昇降口には多くの生徒がごった返していたが、黄薔薇のつぼみの微笑にその半数以上が動きを止める。乃梨子の背後では露骨に「きゃあ」なんて悲鳴まで聞こえた。
「ごきげんよう」
軽やかに挨拶を交わし、乃梨子は由乃さまに連れ添うようにして薔薇の館に向かう。
歩き始めて十歩以上経ってから、やっと昇降口付近の空気が解凍されたのを乃梨子は背中で感じ取った。
この辺りが同じつぼみでありながらも、自分と由乃さまの違いだなぁと乃梨子はふと思う。
そもそも今でこそ同格のつぼみだが、来年になれば由乃さまは黄薔薇さま。乃梨子はそのまま白薔薇のつぼみ。
生徒の人気に格差があることはある意味で当然だ。
乃梨子が誰かに挨拶してもこんな反応には先ずならない。
悔しいとかそう言う事では全く無くて、単純に、由乃さまはやはり上級生なのだなと再確認する。
再確認したところで薔薇の館への道すがら、乃梨子は聞いてみた。
「姉妹関係のコツって何だと思われますか?」
って。
由乃さまは笑った。
それは笑った。
ほんの数秒前に”やっぱり由乃さまは上級生だ”とか、砕いて言うと”凄いなぁ”とか、思った事を全部無かったことにしたくなるくらい笑った。
「乃梨子ちゃん、何の冗談? 一番聞かれる筈のない質問を一番聞く筈のない人間から聞いた気がするわ」
そう、大口を開けて笑った由乃さまには流石に腹が立ち、乃梨子は「何も笑うことは無いじゃないですか」と不快感を露に抗議すると、由乃さまは不意に笑うのを止めて仰った。
「何が切っ掛けで悩んでいるのかは知らないけどそれは意味の無い質問よ、コツなんてある訳がないわ。ああ、もしかして去年のベスト・スール賞?」
隣(半歩先)を歩きながら振り返って言う由乃さまは楽しげに笑っていたけれど、公私を問わず長く妹の由乃さまから”コツなんてある訳ない”と断言されるとは予想していなかった乃梨子は驚いた。
返答に窮していると由乃さまはそれを肯定と受け取ったのか、話を続ける。
「あれはね、というより他人から与えられる賞全般に言えると思うんだけれど。ただのまやかしよ、他人は外側からしか本人を見れないんだし、姉妹とかの人付き合いって外側からじゃ殆ど何も見えないもの」
乃梨子は額に皺を寄せて、由乃さまの言葉を少し考えて、更に噛み砕いて言いなおした。
「つまり、姉妹関係のコツは当事者の二人にしか判らないと?」
由乃さまは振り返りもせずに「と言うより」と前置きして仰る。
「姉妹関係といっても結局は一対一。聞いたこと無いかしら、姉妹の契りは結婚と同じ。姉妹の破局は離婚と同じ」
それは乃梨子にとって聞いた事のない例えだった。
結婚、破局って。正しくリリアンかわら版が喜んでつけそうな煽り文句だ。
しかしそれは、乃梨子も人伝程度に知っているリリアン高等部で昨年巻き起こった一大センセーション、黄薔薇革命の張本人が口にするには重みがあるのだか無いのだか判らない言葉だった。
額面通りに受け取るなら、由乃さまは令さまに離婚届と結婚届と叩きつけたことになるのだし。
「結婚するのも離婚するのも、結局は本人の問題でしょう? 子供が居るなら話は別だけど、姉妹関係にそれはないし。本人同士が”良い”と思うことが正解だし、そうでない部分は相談したり喧嘩したりしてルールを決めていけば良いの」
「もっとも」、と付け加えた由乃さまは笑う。
「私とお姉さまは特殊だから。何にせよ参考にはならないわね」
それこそ、ごもっともだと乃梨子は思った。
〜 〜 〜
その日の晩。土曜日だと言うのに遅くまで仕事をしていた白薔薇姉妹が薔薇の館に施錠をして、銀杏並木に足を踏み入れた時には辺りはどっぷりと夜の闇に包まれていた。
たわわに茂った銀杏の枝条から差し込む月明りが綺麗で、煉瓦造りの並木道に落ちる月影が幻想的。
閉校時間を大きく過ごした時間帯のリリアン敷地内に人の気配は殆どない。
勿論シスターや警備の方々は居られるのだろうけれど、志摩子が乃梨子と二人きりと言う空間に思いを馳せられるくらいには辺りは静寂に満ちていた。
すぐ隣を歩く乃梨子の横顔はいつもの通り凛々しい。
乃梨子の顔なれば見ずともほぼ完璧に脳裏で再現できる志摩子だが、しかしその横顔は志摩子の知る限り、何かに悩んでいる顔だった。
小さな悩み、大きな悩みとあるだろうけれどそこまでは当然志摩子には判らない。
そしてそれを無理矢理にまで聞き出す、ような真似は志摩子に出来ない。
かと言って無為に看過することもまた、出来ない。
気になるけれど、どこまで踏み込んで良いのかが志摩子に判定出来なかった。
志摩子は溜息を一つ落とした。
この葛藤が。
一歩踏み出せない悩みこそが、祐巳さんの言っていた”必要か否か”の境目なのに。
祐巳さんは、本当に必要ならそう願わなくても勝手に一歩踏み出すものだと言った。
にも関わらず今もって志摩子は乃梨子に対して踏み出せないでいるなら、それは必要でない踏み込みなのだろうか。
胸を突く寂しいと言う感情は不要なそれなのだろうか。
「志摩子さん、今日ね、由乃さまと話した」
そんな志摩子を見透かしたように、不意に乃梨子は口を開いた。
薔薇の館で作業している際に、「ブラスバンド部の演目は何だっけ?」「来週頭に申請書を提出する、と言うことで先延ばしになっています」と言った感じのやりとりが数度あったことは志摩子も知っているが、今更改まって言うということでは無いだろう。
恐らく、それ以外の何かを、乃梨子は由乃さんと薔薇の館以外の場所で話したのだ。
乃梨子は謳うように呟いた。
「難しいね、姉妹って」
志摩子は言葉を失う。
その悩みは。
その言葉は。
何故、乃梨子が。
頭の中をそんなぶつ切りの疑問が飛び交う中、乃梨子は続ける。
「いや、って言っても志摩子さんとの姉妹関係がわからなくなったとかそんなのじゃなくて。そんなのじゃ全然なくて。何て言うのかな、私、志摩子さんともう半年近く一緒にいるのに志摩子さんのことがまだまだ判ってないなって思ってさ。ううん、そんな簡単に判っちゃうくらい志摩子さんが単純な訳はないんだけど」
あ、拙い、と志摩子が思った時には乃梨子の口はもう滑らかに動き始めていた。
「志摩子さんのことをちゃんと判ってるのかな、って。私。ちゃんと判らないと姉妹関係が成り立たないってまでは思わないけど、でもそれでも、志摩子さんの例えば好きなこととか、好きなものとか。まだまだ知らないんじゃないかなって思って。私本当に、志摩子さんの全部を好きで居られているのかなって」
「乃梨子!」
こういう場合は早めに止めないといけない。
止めるには大声で名前を呼べばいい、と言うことを志摩子は知っている。そして思惑通り、呼んだ瞬間乃梨子は口を噤んだ。
もうそれだけで、志摩子は殆ど全てを理解してしまった。
自分の迷い。乃梨子の悩み。祐巳さんの言葉。由乃さんの多分助言。
姉妹関係はきっと、お互いを分かり合うだけが全てではないのだ。
例えば今の志摩子と乃梨子のように、馬鹿らしくも全く同じ悩みで頭を抱えることも十二分に”繋がり”と言えるのではないか。
その証拠に、今なら志摩子は乃梨子の胸中が手に取るように判る。
そしてこれから話せばきっと乃梨子も志摩子の胸の内をイヤと言うほど知れるだろう。
それはきっと世界で志摩子と乃梨子だけが結びつく強固な一本の糸だ。
『”ああ”なる必要があるなら、なるんじゃないかな。必要がないならならないよ。だって必要ないんだもの』
祐巳さんの言葉が脳裏で木霊する。
志摩子は思った。
(つまり、私達にはやっぱり必要ではなかったのね)
それはとても幸せな結論に思えた。
〜 〜 〜
大声で名前を呼んだ志摩子さんは、喋りを止めた乃梨子を満足そうな目で見詰めた。
月明りに照らされたその姿はいつぞやの花火の時に勝るとも劣らない美しさだったけれど、それよりも、柔らかく――それこそ幸せそうに笑う志摩子さんの笑みが胸に刺さる。
何故、そんな嬉しそうに笑えるのだろう、って。
乃梨子は本当に悩んで、志摩子さんの事をもっと知りたいって思っているのに。
志摩子さんと乃梨子は同じ考えじゃなかったのだろうか。そう考えるだけで、胸が締められるように痛んだ。
でも志摩子さんは再びゆっくり歩き始めながら言った。
いつの間にか足を止めていた乃梨子もそれに続く。
「私もね、同じ事を考えていたわ。乃梨子のことをもっと知りたいって。私は乃梨子のことをまだまだ、本当は知っていないんじゃないかって」
月影の落ちる銀杏並木に志摩子さんの声が響いた。
でもそれは意味がない悩みだ、と乃梨子は自分の事を棚に上げて思う。
乃梨子は結構我が強い方だと自覚しているし、思ったことは割とそのまま口に出る。その結果”あの”祥子さまと衝突することすらあるのだから、結構判りやすい性格なんじゃないかと思っているから。
そこまで考えて。
「ああ」
そこまで考えて、乃梨子は理解した。
それはきっと、乃梨子のことではなくて。乃梨子だけのことではなくて。
「私は春以来、悩みでも何でも余り溜め込もうとはしていないつもりなのだけれど、乃梨子は頭が良いから私の知らないところで色々考えていたり、私とは違うことを感じ取っていたりするんじゃないか、ってね」
自分は判りやすい筈だけど、相手のことが良く判らない。
どこかエゴ染みたそんな考えを二人揃って持っていたのだ。
同じ悩みを同じタイミングで抱えていたのだ。
それは多分に偶然なのだろうけど、何故だか乃梨子は急に可笑しくなって苦笑う。
志摩子さんもそれを見越していたかのように笑って、言った。
「だからね、私達はきっと一緒なのよ。悩むことも。考えることも」
それは不思議なほど心に染み入る言葉だった。
思わず泣きたくなるくらいに自信満々に言い切られた確信だった。
勿論普通に考えればそんな事は有り得ない。
私、二条乃梨子と藤堂志摩子は別の人間だから。悩むことも考えることも全くの別物だ。
でも。
「うん。そうだね、志摩子さん。きっとそうだよ」
それを何の根拠も無く信じることが出来るくらい、月影に躍る志摩子さんの笑みは綺麗だったし。
月明りをすり抜けるように届いた志摩子さんの声は澄んでいたから。
乃梨子はそれを何の根拠も無く信じた。胸を包んでいたもやもやした何かが、一陣の風に吹かれるようにして消えるのを感じた。
それはきっと、月光に包まれた銀杏並木で掛けられた志摩子さんの魔法で。
そしてきっと、月影に彩られた煉瓦並木で掛けた乃梨子の魔法だった。
世界で只一人、乃梨子と志摩子さんにだけ掛かる。
目先の迷いに気を取られて見えなくなるところだった乃梨子らの目を覚ましてくれた、不思議な魔法。
乃梨子は一歩進んで、空いていた志摩子さんとの隙間を埋めた。
それだけでこんなにも近くに居る事を感じられる。
志摩子さんの言う通り、悩むことも考えることも一切の打ち合わせ無しで同じになるのなら。
後はこうして、物理的に一歩踏み出すだけで良かったのだ。
心はもうとっくに繋がっていたのだから。
不満があるなら近寄れば良い。たったそれだけのことだったのだ。
「さあ、早くマリアさまにお祈りして帰りましょう」
そう言ってくるりと踵を返す志摩子さんに、乃梨子は「うん!」と元気良く返事をすると同時に、胸中で『ありがとう志摩子さん』って思った。
不安を拭ってくれて。
優しい言葉を掛けてくれて。
振り返った志摩子さんはもう一度はっきり笑ってくれたから。
月影に照らされたその微笑みは本当に神秘的で、乃梨子にとって見えない絆を再確認する最高の微笑だった。
降り頻る月明りの中を歩く二人を、遠くマリアさまが見詰めていた。