「いくらなんでも、一線を越えるのはマズイと思いますわ」
放課後、薔薇の館にやって来た乃梨子は、扉の向こうから聞こえてきたそんなセリフに、ノブに伸ばした手を止めていた。
声の主には心当たりがありすぎる程にある。演劇部の性なのか、普段から複式呼吸がデフォルトで、人一倍声の響く親友、瞳子の声だった。
「良いのよ、祐巳さんにはこのくらいがちょうど良いわ。少しは焦らせないとダメよ。それには既成事実が一番だわ」
答えているのは由乃さまだった。瞳子と由乃さま。なんとも微妙な組み合わせである。
「そうかもしれませんけど……でも、やはり私は祐巳さまを裏切ることは……」
「瞳子ちゃんの気持ちは分かるけど、時には荒療治も必要なのよ、祐巳さんみたいなタイプには。――大丈夫、祐巳さんが怒った時は、私がなんとかするわ」
「ですけど……」
瞳子にしては煮え切らない受け答え。乃梨子は思わずドアに耳をつけながら、今聞いた会話を反芻してみた。
「……一線を越えるって、どういうこと……?」
瞳子と由乃さまが、一線を越える。口に出してみて、乃梨子は頬が熱くなるのを感じた。一線を越えるなんて、普通に生活をしていて口にするセリフじゃない。
もちろん『一線を越える』という表現には、ソレ以外の意味もあるのだけど。薔薇の館のような人気の少ない場所で、密やかに口にするとなると、その意味するところは一つに絞られてくる。
しかも、祐巳さまを裏切るだとか、荒療治だとか、既成事実だとか……。
「ちょっと、瞳子……あんた、何考えてるのよ……?」
季節は既に新年を迎え、そろそろ次期薔薇さまを決める選挙の季節になっても、未だに祐巳さまと瞳子の仲は進展していなかった。全ては祐巳さまが最後の決断を下せずにいるからではあるのだが――だからといって、その祐巳さまに決断をさせるために選ぶ手段としては、ソレは最悪の選択肢ではなかろうか。
(確かに瞳子が由乃さまのものになってしまうと言う危機感があれば、祐巳さまも動くかも知れない。けど……けど……!)
そんなのは間違ってる、と乃梨子は思う。
「――良いから瞳子ちゃん、私に任せなさい」
「由乃さま……やっぱりダメ。ダメですわ……」
「ここまで来て何を言うつもり? 瞳子ちゃんだってその覚悟があったからこそ、ここに来たのでしょう?」
「最初は、そう思っていました。でも……」
迫る由乃さまに、渋る瞳子。二人のやり取りを聞きながら、乃梨子は拳を握って瞳子を応援していた。
(そうよ、瞳子! 安易な方法に頼っちゃダメ! 頑張って!)
乃梨子は声にならない応援を送りながら、再びゆっくりとノブに手を伸ばした。
瞳子なら、きっとこんなことは突っぱねてくれると思う。いくら瞳子が不器用でも、こんな最悪な選択はしないと信じている。
でも――乃梨子は知っているのだ。どんなにしっかりしているように見えても、瞳子だって普通の高校一年生である。時には弱気にもなるし、道を間違えることもある。
(その時は――私が止めてあげなくちゃ)
口には出さないけれど、乃梨子は志摩子さんとのことで瞳子に感謝していた。
だから、もし瞳子が間違った選択をしてしまったなら、それを腕ずくでも止めようと思う。例え先輩である由乃さまと衝突しようとも。
「――瞳子ちゃん。瞳子ちゃんは祐巳さんがこのままで良いと思ってるの?」
「そ、それは……」
一転して優しく語り掛ける由乃さまに、瞳子の口調に迷いが生じた。
(バカ、瞳子! しっかりしなさいよ!)
乃梨子が必死に声にならないエールを送るが、扉の向こうでは由乃さまが更に優しい口調で瞳子を口説きにかかる。
「瞳子ちゃん、私は祐巳さんのことが好きよ。大好きなの。令ちゃんと同じくらい――ううん、もしかしたら令ちゃんよりも。瞳子ちゃんだって、祐巳さんのことが好きでしょう?」
「そ、それは……」
「ううん、言わなくても良いわ、私には分かってるから。だから、ね。私は祐巳さんのことが好きだから――だから、今は祐巳さんを裏切ることになるとしても、私は一線を越えるべきだと思う」
「……」
重苦しい沈黙が続いた。
乃梨子もノブに手をかけたまま、ジッと扉の向こうに耳を澄ます。
「――瞳子ちゃん。私に、任せてくれる……?」
(瞳子、断って!)
由乃さまの最後の一押しに、僅かな間を置いて。
「……分かりました……由乃さまに、お任せします……」
瞳子の、ギリギリ聞こえるような答えが耳に届いた瞬間。
乃梨子は、扉を大きく引き開けていた。
「バカなことはやめてください、由乃さま!」
飛び込んだ乃梨子に、由乃さまと瞳子がハッと振り返る。マズイところを見られたという表情――そして、乃梨子はその背後に置かれた物に気付く。
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┃ ☆ 選挙アンケート ☆
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┃ Q.次期薔薇さまになって欲しいのは誰ですか?
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┃ 福沢祐巳 730票
┃ 藤堂志摩子 750票
┃ 島津由乃 730票
┃ その他 75票
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ホワイトボードに書かれたアンケート結果を、由乃さまが今まさに、改ざんしようとしていた。
『福沢祐巳 1001票』
「いくらなんでも、一千を越えるのはマズイと思いますわ」
文字にすれば、納得だった。