【798】 どこへ向かってゆく異邦人  (朝生行幸 2005-11-03 00:51:53)


 昼休みのことだった。
 前日、予習が間に合わなかった紅薔薇のつぼみこと福沢祐巳は、一人図書館で勉強していた。
「祐巳さま?」
「あ、乃梨子ちゃん」
 声をかけてきたのは、たまたま居合わせたと思われる、白薔薇のつぼみ二条乃梨子。
「めずらしいですね、こんな所でお会いするなんて」
「お互いさまだよ。成績優秀な乃梨子ちゃんが、図書館に用があるなんて」
「私だって、本ぐらい読みますよ。で、何をお読みになってるんです?」
「これ」
 本のタイトルを乃梨子に見せた祐巳。
 “種の起源”だった。
「生物の予習が出来なかったから、目を通しておこうと思って」
「へー、予習にしては、結構ディープなモノを…」
 はっきり言ってこの本、あまり読書をしない祐巳では、集中しても、読破に早くて半月はかかる。
 昼休みでは、序文すら全て読めないだろう。
 もっとも、いくら祐巳でも最初から読んだりはしないだろうが。
「そうかな?」
「ええ、“グレートブリテン及び北アイルランド連合王国”出身の“チャールズ・ロバート・ダーウィン”が著述した、“自然選択の方途における種の起源、あるいは生存競争による優越種の保存”を読むには、かなりの時間を必要としますから」
「…はい?」
 いきなりペラペラとワケのわからんことを口にした乃梨子に、思わず訝しげな表情をする祐巳。
「簡単に言えば、“イギリス生まれのダーウィンが書いた種の起源”です」
「…なんだか、早口言葉みたいだね」
「正式な名称で言うと、やたらと長くなります」
「もう一度言ってくれるかな?」
「イギリスの正式名称は“グレートブリテン及び北アイルランド連合王国”、ダーウィンのフルネームは“チャールズ・ロバート・ダーウィン”、種の起源の正しいタイトルは“自然選択の方途における種の起源、あるいは生存競争による優越種の保存”です」
「へー…」
 呆然とする祐巳。
「まぁ、こんなこと覚えるぐらいなら、それこそ種の起源の内容を覚える方が、よっぽどためになりますが」
「でも、なんか格好良いよ」
「そうですか?覚えて同じクラスの方々に教えて差し上げます?」
「あ、それいいね。教えて教えて?」
「いいですけど…」
 予習はどうした、とは言えない乃梨子だった。

「キリスト教系の学校なのに、ちゃんと進化論を教えてるのねー」
 生物の授業が終わり、祐巳と由乃、蔦子と真美が雑談していた。
 ちなみに祐巳は、せっかくの昼休み、例の早口言葉を覚えるのに必死で、予習なんか出来たわけがなく、先生の質問に答えられず、若干へこみ気味だった。
「そういえばそうね、創造論を教えられても不思議はないんだけど」
「ま、日本にはファンダメンタリストなんてそんなにいないとは思うけどね」
「ファンダメンタリストって何?」
 祐巳が問い掛ける。
「“聖書根本主義者”のこと。人間は、“創世記”の記述どおりに作られたって盲信している人たちね」
 やれやれといった風情で、肩をすくめる蔦子。
「あーなるほど。人が猿から進化したってことを認めたがらないわけね」
「その人が猿から進化したって主張自体誤解なんだけど、ま、そう言うこと。現実に目を瞑って、理想の中で生きたいって困った方々なわけよ。バカバカしい例として、スコープス裁判があるわね」
「スコープス裁判?」
 祐巳が疑問の声をあげた。
「アメリカでの話なんだけど、テネシー州で、スコープスという生物学教師が、進化論を教えたが故に訴えられたのよ。進化論を教えるのを禁止する法律があったばかりにね」
「なにそれ?」
「キリスト教の人が多いアメリカだからこその話なのよ。日本じゃ、少なくはないけど多くもないしね」
 確かに、熱心なキリスト教信者なんて、日本では滅多に見かけない。
「なんにせよ、バチカンで一番偉かった人だって進化論を認めてたんだから、片が付いたと言えば付いたんだけど、納得しない人間の方が多いんだなぁ」
「大抵の宗教って、生活に根付いているもんね」
「そうね。まぁ、我々は信仰してるって言うほど熱心ではないわけだ。食事する前に手を合わせ、寺に参ってクリスマスを喜び、神社で拍手を打つ。道教に仏教にキリスト教に神道、まったく無節操な民族だわ日本人ってのは」
 なかなか深い会話を続ける一同。
 おかげで祐巳は、例の早口言葉を切り出すことが出来なかった。
「確かに無節操ね。クリスマスやバレンタインやら。どっちも大元はキリスト教に行き着くけど、直接は関係ない話だし」
「そうなの?」
 祐巳が問う。
「そうよ。サンタクロースってのは、もともとトルコの司教、聖ニクラウスの逸話に基づいているの。娘を売ろうとしていた隣家の窮状を救うため、金貨を投げ入れたのが始まりらしいわ。それがどうしてキリストの誕生日に結びついたのかはサッパリだけど。セントニクラウスが訛って、サンタクロースになったのは有名な話ね」
「そう言えば、聞いたことがあるわね」
「バレンタインだってそう。3世紀のころ、時のローマ皇帝が若い兵士達の結婚を禁じたため、哀れに思った聖バレンチノが密かに祝福してあげたらしいの。でも皇帝に知られてしまい、処刑されてしまったのが2月14日。それが始まりらしいわ」
「それでその日なのね」
「そそ。もっとも、日本で女性が男性にチョコレートをプレゼントするという風習は、某製菓メーカーによる陰謀ってもっぱらの噂…と言うより、ほぼ真実に近いそうよ」
「結局、日本人が踊らされているのには変わりないってわけね…」
「政教分離がなされてるのは、大いに結構なんだけどね。国是に宗教が絡むと、某中近東の国々みたいになっちゃうわけ。お陰で話が進まない進まない」
 腕を組んで、うんうんと頷く、由乃、蔦子、真美。
 なんだかよく分からずついて行けないまま、祐巳は首を傾げるばかりだった。

 そして、当然ながら、放課後には殆どを忘れてしまったわけで…。
「ごめん、乃梨子ちゃん。もう一回教えて?」
「はぁ…」
 昼休みの時間を返せ、とは言えない乃梨子だった。



注)「種の起源」の原題は「On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life」です。
訳者によって、和名に若干の違いが表れますが、大意は作中の通りです。
また、後半の談義については、一応調べた上で書きましたが、もし間違いがあればご指摘ください。


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