先日行われた花寺の学園祭は、大成功の内に幕を閉じた。
花寺リリアン両生徒会の奮闘の甲斐あって準備や進行に大きな問題は無かったし、中々足を踏み入れる機会の無い花寺での経験は中々に新鮮で。
脇役だったとは言え、それらは祐巳や由乃さんに取っても総じて楽しく有意義なものには違いなかった。
ただまぁ。
とある一点において大問題が発生したことを無視すれば、と言う注釈が付くのだが。
でも、一歩間違えれば本当に警察沙汰になったかも知れないその大問題も、花寺前生徒会長である柏木優さんの奔走と祐巳自身の嘆願で事無きを得た。
元々が勘違いだし、動機も最終的な狙いも悪戯染みている。
反省もしているようだし、柏木さんに「けじめ」もつけられた。
祐巳からしてみれば、そんな彼らをそれ以上責め立てるのはあんまりにも可哀想だったのだ。
本音としては、何から何まで馬鹿らしくて怒る気になれなかったというのも、あるにはある。
勿論、部の存続を賭けていた彼らにとっては悪戯でも何でもない本気の大一番だったのだろうけれど。
しかしそれが結果的には良い方向に転がり、”あの”シーンが生まれたのだから祐巳にとっては寧ろ幸いなくらいだった。
颯爽と櫓を降りて、その麗しくも長い緑の黒髪を振り乱して駆け寄ってくる祥子さま。
汗だくの上から抱き締められる感触。
着ぐるみを通じて聞こえた、くぐもった祥子さまの声。
それらを思い出すだけでも顔がにやけてくる。
祥子さまの祐巳への愛情とか、二人の絆とか、幸せとか、本当に色々痛感できたシーンだった。
昨年のリリアン学園祭とかヴァレンタインデート、梅雨のすれ違いに夏の別荘での一時。最近では身内での花火大会も祐巳の心には残っているけど、あのシーンはその中でもトップクラスだ。
祥子さまに見られたら間違いなく注意されそうにだらしなく緩んだ頬を何度か叩いて修正しつつ、祐巳は今日も平穏無事にマリアさまの庭(マリアさまの像がある分かれ道の通称)まで辿り着いた。
マリアさまへのお祈りをさくっと済ませ、校舎に向けて歩き出した祐巳はふと鞄と一緒に持っていた一枚の紙を反対の手に持ち替える。
それは、リリアン女学園の数ある文化系部活動の中でも群を抜いてバイタリティ溢れる新聞部による、学園新聞”リリアンかわら版”の最新号。
正門前で一年生が盛んに配っていたので受け取った。
時事のネタやスクープ(主に山百合会幹部か、各部活動のエース級絡みの限定だけど)なんかを写真部と結託して学園高等部中に流布し続けているかわら版は、高等部の生徒にとって事実上流行の最先端だ。
時に面白おかしく時に真面目に、様々な話題を提供してくれるそれは、昨年築山三奈子さまが部長になった頃から大きく様変わりしたらしい。もっとも、祐巳にはその様変わり後のかわら版しか印象に無いので余り実感は無いけれど。
でもその所為で何度か山百合会――と言うより薔薇の館の住人と新聞部は揉め事を起こしている。
ほとんど新聞部側からの一方的な揉め事ではあるけど、それが後々にも禍根として薔薇の館と新聞部の間で見えない亀裂になっていたことは間違いない。
それも年度が変わり、新聞部の実権を祐巳らの同級生山口真美さんが握るようになってまた少し変わった。
初版の試し刷りは大体薔薇の館に回ってくるし、急な発刊になる場合でも記事の対象本人には必ず承諾の意志を問うようになっている。
勿論真美さんは口が上手いから拒否なんて出来ないように言い包めてくるのだけど、確認に来るのと来ないのでは印象が全く違った。
だから、なまじ自分が狙われる立場にいるという自覚から、去年は結構読むのに勇気が必要だったけど、今ではもうそんな事は無い。
素直に楽しんで読めるし、次号が毎回楽しみだ。
祐巳も今では結構なかわら版のファンだったりする。
ファンだったりする、のだが。
最近は大きなイベントもなく、リリアンの体育祭や学園祭までまだ少し時間もある。
祐巳たちにとって花寺の学園祭は大きなイベントだったが、それは山百合会幹部限定。
他の生徒の場合、自分が全く参加しない学園祭の話なんて聞いても面白くないだろう。
だから最近のリリアンかわら版にはパワーがちょっと欠けている。詰まらないとは言わないが、こう、パワーが足りない。
多分それはもう少し、体育祭の順位予想が出来るくらいになるまでは続くのかな、と祐巳は漠然と思いながら一面を観た。
今朝は先の妄想に取り付かれていたからほとんど機械的に受け取って、一面も何も読んでいなかったから。
幸運にも。
「うわーーーっ!!」
マリアさまの庭を抜けて銀杏並木の中程まで進んでいた祐巳のあげたそんな絶叫は、新聞を受け取った正門近辺であげるよりは人目を引かなかったに違いない。
〜 〜 〜
それはほとんど奇跡に近かった。
まるで世界がそこだけ完全に切り取られたかのような――写真だから実際に切り取られているんだろうけど――美しさ、儚さ、そして夢があった。
そう、写真である。
祐巳の声帯を朝一から活発に働かせてくれたのは、リリアンかわら版の一面をでかでかと飾った一枚の写真にある。
「しっかし凄いでしょう? アングル、タイミング、背景のぼかし方まで完璧」
差し込む朝の光の中で、令さまは紅茶を片手に呵呵と笑った。
場所は毎度おなじみ薔薇の館二階サロン。
明確な決まりがあるわけでは無いけれど、早期登校者が多い山百合会幹部の間ではHR前に集まって紅茶と余りものの茶請けで雑談を行うことが頻繁にあった。
特にリリアンかわら版の発刊日は話題に事欠かないこともあって、集まり方は良い。
今日も祐巳が薔薇の館に着いた時には、令さま、由乃さん、志摩子さんの三人が既にお茶を前にゆったりと寛いでいた。
そして各々の正面には件の一枚、リリアンかわら版最新号。
一面には、目が潰れんばかりにお美しい祥子さまの写真が大きく載っている。
写真の中で煌く祥子さまの表情を一言で表すなら”慈愛”か。
祐巳でも余り見たことは無いけれど、祐巳以外が目にするのは恐らくこれが初めてになるだろう。
優しさと暖かさと慈しみを、視線と頬の緩みから全開で発散させている祥子さまの横顔は、集会などで前に立つ時の凛々しさからすればまるで別人のようだ。
少し潤んだ瞳がきらきら輝いて、端正な顔の作りに微かな幼さを乗せている。そして、それがまた上手い具合に写真の幻想度を上げていた。
背景は完全にぼけて、人物像にだけピントがピタリと合っている。
装飾とも取れるその手法が示すように、写真の提供者は”有志”になっていた。蔦子さんの写真ではないと判って祐巳はほっとする。
だって。
だって、あの場所に蔦子さんが居るはずはなかったのだから。
「でも侮れないわよね。この分だと祥子さまだけじゃなくて、令ちゃんとか志摩子さんも隠し撮り結構されているんじゃない?」
集まっている面子が面子だからか、口調の砕けた由乃さんが腕を組んでテーブルの上のかわら版を睨んでいる。
でもそれは由々しき自体だ。
志摩子さんは困った風に首を傾げていたけど、こういう場合は多分に激写対象が自分以外の方が危機感とか嫌悪感は持ちやすい。
大好きなお姉さまの写真が勝手に撮られて、それが目に見えない場所で流通しているなんて想像するだけでも気持ちが悪い。
同じことはリリアンの学内でも起きているのだけれど、そこはそこ、女子の中で回るか男子の中で回るかの違いだ。
後者の方が圧倒的に嫌なのは言うまでも無い。
だから祐巳はそれに同調して頷こうとした――が、頷けない。
と言うよりも、写真から目を逸らすことが出来ない。
銀杏並木ではしたなくも大声をあげてから、写真を観ていない時間の方が間違いなく短いのだ。
薔薇の館に着いて自分の分の紅茶を入れた時間くらいじゃないだろうか、アレから離れられることが出来たのは。
そして紅茶が手元にある以上もう離れられない。視線が外れない。
「どうだかね。私はあんまり気にしてなかったけど、祥子は確かに結構撮られていたよ。祐麒くんが良く追い払っていたけど、とてもとても」
「なあに、それじゃ令ちゃん黙認してたの?」
「あんまり口煩く言ってもね。それに何て言うのかな、いやらしい視線は感じなかったから」
祐巳の耳に、どこか遠い世界から聞こえてくるような由乃さんと令さまの会話が届いた。
不穏な事を話している気がするけど、それに突っ込むことはやはり出来ない。
写真に写っているのは祥子さまだ。
でも祥子さまだけではない。
祥子さまが慈愛の瞳で見詰めて、全身から愛情を注いでいる対象もはっきりとその反対側に写っている。
そして、そんな限られた寵愛を一身に受ける対象と言えば世界で福沢祐巳ただ一人だ。
そう、祐巳もその写真に写っている。
但し問題は。
大きな問題は、そのシーンが花寺学園祭のクライマックスであることだ。
つまり祐巳が大いに感動して泣きに泣いて、衆目も気にせず祥子さまと抱き合った某シーンであることだ。
だから、祥子さまが優しく愛しそうに見詰める祐巳は祐巳でなく、人ですらなく、パンダだった。
祐巳がやんごとなき事情から着ざるを得なかったパンダの着ぐるみだったのだ。
祥子さまの普段からは想像も出来ないほど緩み、愛に満ちた表情 + 愛くるしいパンダの着ぐるみ + ピントをズラして意図的にぼかした幻想的な背景。
その相乗効果が齎す写真の微笑ましさ、祥子さまの可愛らしさ、そして夢見る乙女指数たるや空前絶後。
”あの”紅薔薇さまの小笠原祥子さまがパンダの着ぐるみに全力で愛情を注いでいるようにしか観えないその写真は、正に奇跡の一瞬を切り取っている。
勿論、祥子さまにそんなご趣味がある訳は決して無いのだが、写真にはそんな内部事情なんてこれっぽっちも写りこみはしないから。
誰がどう観ても、それは大きなパンタのぬいぐるみに心を奪われた麗しき紅薔薇さまの姿でしかないのだ。
一言で言うと可愛い。
二言で言うとメチャクチャ可愛い。
こんな事を言うと失礼に当たるのだけれど、祥子さまがもう本当可愛い。
記事にはちゃんと花寺学園祭のことが書かれて、パンダの中身が祐巳だとはっきり書かれているのだけれど、この写真の前ではどんな文章も記号の羅列でしかなかった。
写真のインパクトがあり過ぎるのだ。
インパクトのあるかわら版の写真と言えば真っ先に思い浮かぶのは真っ二つに裂かれた由乃さんと令さまのツーショットだけど、それでもこの見詰め合う祥子さまとパンダのコンボには及ばない。
「けれど、これを良く祥子さまが納得されましたね? これは流石にちょっと、試し刷りの時点で何か仰いそうなものですけれど」
絵になる仕草で優雅にカップを口元に運ぶ志摩子さんがそう言うと、祐巳も漸く会話に復帰できるくらいに気が戻った。
と言うより、言われて初めて気が付いた。
「そ、そうだよね。お姉さま、何考えてるんだろう」
普通に考えれば、祥子さまがこんな写真をお許しになるとは思えない。
いくら真美さんと言えども、頭が良くて弁も立つ上に、美人で詰め寄ると迫力のある祥子さまを言い包めることは並大抵ではないはずだ。
「ああ、祥子は知らないからね。これに許可を出したのは私の独断」
すると、令さまはさらりととんでもない事を仰った。
「ど、どどどど」
突然の道路工事で薔薇の館に穴を開けてしまった祐巳に、令さまは「まぁ、落ち着いて」と優しく宥めてから言われる。
「これも一環なんだな。私の考える、開かれた生徒会への」
自信満々に言い切られたその表情と言葉はミスターリリアンの面目躍如で格好良いのだけれど、残念ながら祐巳には令さまの言葉の意味が掴めなかった。
現国の成績も予定調和的に平均点だし、令さまの科白には「皆まで言わなくても判るでしょう?」なニュアンスが込められている。
判るでしょう、と言われてもなぁと祐巳が困り果てていると、こちらははっきり判ったらしい由乃さんが頷いた。
「ああ、そう言えば去年も前薔薇さま方が良く仰っていたわね」
するとそれに志摩子さんが添えるように言う。
「蓉子さまの仰っていた、薔薇の館が生徒で一杯になれば良い――のこと?」
それは質問と言うよりも判りきっている事を確認する、断言に近い問い掛けだった。
自意識過剰でなければ、それはきっと一人理解の追いついていない祐巳への助け舟。お陰で令さまの仰っていたことがはっきりと判った。
志摩子さんに視線で「ありがとう」と言うと、志摩子さんからも仕草だけで「どういたしまして」って返って来る。
「別格視されている薔薇さま方に親近感を持たせる。手始めにお姉さまから、と言うことですか」
祐巳がそう言うと、令さまは「そ」なーんて軽く答えて気楽そうに笑われた。
「でもこれは……確かにパワーありそうよね。祥子さまの何て言うのかな、鎧を剥ぎ取るには良い感じかも」
パワーとか鎧とか、どうにも物騒な例えを用いて由乃さんが唸る。
そりゃあパンダにこの表情を向けていれば、誰だって現生徒会長にして厳しくも美しい祥子さまに対する見方が変わってくるだろう。
祐巳は事情を知っているから、その写真には意外性だとか可愛らしさだとか言う以前に、”物凄いベストタイミングで撮られたなぁ”と言う感動だか呆れだかが先行する。でも事情を知らない、例えば一年前の祐巳なら間違いなく三部は貰って観賞用(学内)・観賞用(自宅)・保存用で使い分けたに違いない。
ん? 事情?
そうだ、事情だ。おかしいぞ、この写真がリリアンかわら版に載るはずが無い。
「でもこの写真って、一体何処から出たんでしょう? 花寺の学園祭にリリアンの関係者なんて私たち以外には――」
「蛇の道は蛇と言ってね」
物凄い事を発見した! と言わんばかりに興奮しながら言葉を綴る祐巳を遮って室内に投げられた言葉。
ああ、登場の仕方と良い第一声といい、悪の大ボスっぽい仕草が似合うようになってきたなぁ。もしかして新聞部の伝統?
なんて馬鹿な事を考えながらゆっくり振り向いたビスケット扉の傍には、ヘアピンで分けられている綺麗な七三がトレードマークの少女。
リリアンかわら版の発行責任者にして現編集長、山口真美さんがそこに居た。
「ジャーナリズムに国境は無いのよ。それこそ、性別の違いも宗教の違いも関係ない」
そんな科白を格好よく決めた真美さんが改めて「ごきげんよう、皆さん」と言って室内に足を踏み入れると、瞬間冷凍されていた館の住人たちは各々「ご、ごきげんよう」なんて慌てふためいた。
令さまだけは登場を予期していたように一人落ち着いて。
「薔薇の館へようこそ」
なんて貫禄の違いを祐巳たちに見せつけていた。
真美さんが朝も早くから薔薇の館に足を向けたのは単純な理由だった。
「どうせ呼ばれるのが判っているんだから、初めから談判した方が良いわ」
とのこと。
どうやら真美さん、問題がある写真だと理解しておきながらも令さまを懐柔して押し切る算段の様子。
いや、懐柔と言うよりも利害が一致したから協力関係になった令さまと一緒に、かな。
それは兎も角、祥子さまと全面対決の心構えなのは間違いがないようで。
「あんまり肩に力を張らないで良いよ。祥子も蓉子さまの意志は良く知っているはずだし、新聞部に全面的な非がある訳でもない。まぁ肖像権云々はあるかも知れないけどね」
そう言って楽しそうに笑う令さまの姿はちょっと意外で、実は結構イベント――と言うより悪役側が好きなんじゃないだろうかと思う。
確かに思い起こしてみれば、春から梅雨にかけて乃梨子ちゃんと志摩子さんの仲を取り持つ為に一芝居打った時は、結構生き生きと悪役を演じられていたような気もするし。
だん!
その時突然、決して優雅ではない大きな音が薔薇の館に響いた。
真美さんは驚いたように体をびくりと震わせただけだったけれど、それ以外の二年生三人組はその音が薔薇の館の正面玄関の音だと知っている。
そしてその扉を力強く閉められた方が烈火のごとく怒っておられることも良く判っている。
由乃さんと志摩子さんが顔を青ざめさせているのを横目で見る祐巳の顔色は、多分青を通り越して真っ白。
開始時点からかなりの危険レベルにまでお怒りゲージは上昇しているようだ。
それを知ってか知らんでか、令さまの顔から笑みが消えた。
真美さんも雰囲気から全てを察したようで、膝の上に乗せた掌をぎゅっと握る。
そして、怪獣の行進を思わせる階段を上る足音が猛々しく聞こえたかと思うと。
だん!
「何なの、アレは!」
低血圧で朝が弱いはずの祥子さまが、がなるような大声と共にいらっしゃった。
その夜叉のようなお顔は、写真のそれとはやっぱり別人なんじゃないかと祐巳をして思ってしまうほど恐ろしかった。
〜 〜 〜
結論から言うと、祥子さまは惨敗した。
令さま曰くの”開かれた生徒会”は本当に昨年からの懸念事項であり、それを最も阻害しているのが祥子さまのお嬢様オーラであることは間違いがなくて。
ほとんど四面楚歌だった祥子さまは、山百合会幹部はフォローする必要なし、新聞部もこれ以上煽らない代わりに放置すると言う条件に収束する話の流れを止められなかった。
祐巳は消極的ながらも「不満」の意志を表明することは出来たけど、それだけ。
可愛いお姉さまの姿が色んな人に観られるなんてちょっとヤだ。
くらいの気持ちで既に何十枚も流通している学園新聞の回収なんて申請出来るはずも無い。
話が意と反してかわら版の肯定に進む中、机の下で誰にも見られないようにハンカチを握り絞る祥子さまの御手がただただ恐ろしい。
真美さんが居るからヒステリックな声を上げることだけは堪えられているようだけど、それも何時まで持つか。
そんな風に内心冷や冷やしながらちらちらと祥子さまの様子を伺っていた祐巳は、ばん! と両手で机を叩いて祥子さまが立ち上がると「うひゃあ」なんて間抜けな声を出してしまった。
「結構。もう結構よ。これ以上話すだけ無駄ね、好きになさい」
祥子さまはそうびしっと言い放つと、ご自分の鞄を取ってビスケット扉に向かう。
ぷりぷり肩を怒らせて突き進む祥子さまの背を一瞬追いかけた祐巳は、でも掛ける言葉を見失って中途半端に立ち上がったままそれを見送った。
祥子さまを飲み込んだビスケット扉が閉じられる時、だん! と、三度薔薇の館がリリアンに有るまじき轟音を立てた。
〜 〜 〜
「はあ」
放課後。
薔薇の館での事務作業を切り上げた紅薔薇姉妹は、祥子さまの重苦しい溜息と共に銀杏並木を歩いていた。
溜息の理由は、遅々として進まないリリアン学園祭の出店・演目調整では勿論ない。
寧ろ、館では祥子さまは楽しげに書類整理などの仕事をされていたのだ。
「”パンダ”の単語が聞こえない環境は素晴らしいわね」
中途で嫌味ったらしく漏らしたその一言に、令さまだけが苦笑で返した。
聞くところによると、祥子さまは本日見事にパンダフィーバーだったらしい。
まぁあの写真を観て祥子さま=パンダ好き、と言うイメージが付くのは判る。
そして不満たらたらだったとは言え一応は流通の承諾をした祥子さま、言い寄ってくる同級生下級生を無下にすることも出来ずにそれなりに対応された。
それが拙かった。
祥子さまは元来、ヴァレンタインとかの乙女イベントの特別なプレゼントですら「貰う理由が無い」と突っぱねてしまう程厳しいお方なのだ。
それでも祐巳からのチョコレートは貰ってくれるし、ささやかなプレゼントもちゃんと通るのだけど。えへへ。
兎も角、パンダ好きの祥子さま(その見解からして大間違いなのだけど)には、同種の趣味を持つお姉さま方が殺到した。
そしてリリアンは女学園で、パンダと言えば愛玩動物の世界代表に選ばれるくらいの実力者だ。
可愛いもの大好き女の子がパンダを嫌いな訳はなくて、必然的に祥子さまは休み時間の度にパンダの話題を振られ続けた。やがてパンダに飽き足らず愛玩動物全般、遂にはヌイグルミの方にまで話が飛躍したそうだ。
それらに耐え切ったのは偏に、有言実行の祥子さまらしいプライドの賜物だろう。
「はあ」
とは言え、それが途方も無い心労を伴ったことは連発される溜息に表されている。
気を張っていると言う訳では無いけれど、祐巳の前では結構”お姉さまらしく”在ろうとする祥子さまがそうなのだから、余程のストレスだったのだ。
「お姉さま」
花寺学園祭を終えてめっきり肌寒く感じるようになった秋の風が吹き抜ける銀杏並木の下で、祐巳はそっと祥子さまの手を握った。
それでストレスが完璧に取れるなんて祐巳も思わないけど、少しでも気が楽になってくれたらなって思う。
力無く微笑み返してくれた祥子さまは、少し歩くペースを落として話し始める。
「今日は本当に災難だったわよ。これが明日以降も続くと思うと気が滅入るわ」
「……もしかしてお姉さま、パンダはお嫌いですか?」
首を振ってさもうんざり、と仰る祥子さまに、祐巳は幾分悩んだ後に恐る恐る聞いてみた。
もしそれが本当なら、これは祐巳とて静観している訳にはいかない。
確かに開かれた生徒会の実現は山百合会幹部内の夢であって大事なことだとは思うけど、それで祥子さまが心底に嫌な思いをするのは間違っている。
「しょうがないわね」って軽く苦笑うくらいならまだしも、傷付いたり、苦痛を感じたりするのは駄目だ。
他の誰が対象でもそうだけど、こと祥子さまに関しては祐巳だって断固戦う決意はある。
某写真は芸術的に美しくて犯罪的に可愛くて、結局祐巳はあの後かわら版を二部、追加で貰ったりもしたのだけど。
それはそれ。これはこれ、だ。
すると祥子さまは少し驚いたように目を丸くされたけど、すぐにくすくす笑って「いいえ」と首を振った。
「パンダ自体は嫌いでは無いわ。嫌うほど良く知らないし、純粋に可愛いと思えるものね。でも」
そこでぎゅっ、と祥子さまは繋いだ手に力を込めた。
それは祐巳へのメッセージと言うよりは――自然と力が篭ったように。
え? もしかして私の手、ハンカチの代わりですか?
「記事にはちゃんとあのパンダの中には祐巳が入っている、と書かれているのに私がパンダを観ていると判断されているのが気に食わないわ」
ぎゅっ、はぎゅぅっ、に変わった。
痛い痛い。痛いです、お姉さま。
「しかもそれが新聞部の扇動によるものではない、と言うのがまたね。文句の言いようも無い」
ぎゅぅっ、はもうどっちかって言うとぎりぎり、に変わっている気がする。
お姉さま。お姉さま。痛い痛い痛いです。痛いんです。いや本当。
「全く――」
そこまで言った祥子さまの手から、煙がかき消えるようにふっと力が抜ける。
万力に挟まれたように締め上げられていた祐巳の手が、取り戻した開放感に満ちる。
そして。
「私はあの時、パンダなんてこれっぽちも観ていなかったと言うのにね」
なんて。
あの写真と同じ、慈愛に満ちた祥子さま本来の微笑を浮かべて。
物凄い殺し文句をさらりと言ってくださった。
誰がどう観てもパンダだった、写真にも祐巳の姿は全く映っていない。完全無欠にパンダだったのに。
それでも祥子さまはパンダなんて観ていないって仰ったのだ。
あくまでも、祐巳を。着ぐるみの中の祐巳だけを観ていたって。
祐巳はもうあの時の感動がまざまざと蘇って、感極まって、言葉をなくして。
ただ無言で繋いだ祥子さまの手にぎゅって力を込める。
祥子さまも今度は優しく、ぎゅって握り返してくれた。
花寺の歓声が、耳の奥で聞こえたような気がした。