【823】 押しボタンスイッチ確信犯  (柊雅史 2005-11-09 03:14:14)


 リリアン女学園の敷地を出て、目の前の歩道を右に曲がって徒歩2分。
 最寄り駅へ向かうバスに乗るには、もう2分ほど歩いて歩道橋を渡るか、信号を待って道路を横断する必要がある。体力のあり余っている高校生とは言え、人間というのは楽な方へ楽な方へと流されがちで、歩道橋をわざわざ渡る、なんて生徒はほとんどいない。信号待ちだって、ちょっとした立ち話タイム。車の往来は少ないけれど、信号無視なんてはしたないことはせず、ゆっくりとお喋りをしながら信号が青になるのを待つのが、淑女としての嗜みだ。
 一見、どこにでもある横断歩道。
 けれどそこは、知る人ぞ知る重要スポットだったりするのだ。


「――瞳子ちゃん、瞳子ちゃん」
「な、なんですか?」
 久し振りに帰りが一緒になった瞳子ちゃんと並んで歩いていた祐巳は、瞳子ちゃんが難しい顔をして、すたすたと先に行こうとするのを慌てて呼び止めた。
「あ、うん。もしかして瞳子ちゃん、何か用事でもあるの?」
「用事ですか? いえ! 何もありませんわ」
 もしかして急いでるのかな、と思って尋ねた祐巳だけど、瞳子ちゃんはぶんぶんと首を振った。ふぷるぷると震える縦ロールをぼんやり目で追いながら、祐巳は少し首を傾げる。
「そう? なんだか今日、早足だし。用事があるなら、遠慮しなくて良いんだよ?」
「ですから、用事などありませんから。きっと祐巳さまの気のせいですわ」
「んん……なら、良いんだけど」
 あくまでも首を振る瞳子ちゃんに、祐巳は半信半疑ながらも頷いた。だって普段、瞳子ちゃんは祐巳よりもゆっくり歩くから。遠くから見ると普通に見えるんだけど、隣で歩いてみると、気を抜けば瞳子ちゃんを置いていってしまいそうになるくらい。瞳子ちゃんのゆっくりした歩みに合わせるのが癖になっている祐巳だからこそ、今日の瞳子ちゃんは何か変だぞ、って分かる。
「見当違いなことをおっしゃっていないで、早く参りましょう」
「う、うん……」
 そうやって祐巳を促す瞳子ちゃんは、果たして急いでいるのか、急いでいないのか。全く、今日の瞳子ちゃんはどっちなのか分からない。用事はないと言うくせに、早く早くと祐巳を急かすし、早足だし。かと言って、祐巳を置いて先に帰るつもりはないみたいだし。
 瞳子ちゃんは気紛れだからなぁ、なんて呟きつつ、祐巳は瞳子ちゃんと肩を並べて歩き始めた。
「祐巳さま、今日はバスですか?」
「うん、そうだね。瞳子ちゃんは?」
「私もバスですわ。最近は日も落ちるのが早いですし……」
 言いながら、瞳子ちゃんは先にある横断歩道の様子を伺っている。バス停に行くにはあそこの横断歩道を渡らなくちゃいけないんだけど、あそこの横断歩道は通りの幅と車の量に対して、やけに赤信号が長いことで有名だ。
 祐巳もちょっと視線を延ばして、信号を確認する。ちょうど信号が青に変わったところで、ちょっと急げば渡れるかもしれない。瞳子ちゃんも急いでいるようだし、祐巳は足を速めようとしたけれど、瞳子ちゃんは逆にぐっと歩く速度を落としてきた。
「……あれ?」
「どうかしましたか?」
「ううん、別に、大したことじゃない、んだけど……」
 祐巳は首を傾げる。てっきり瞳子ちゃんは、この青信号で渡りたいのかな、と思ったのだけど。どうやら瞳子ちゃんには、今回の青信号で通りを渡る意思はないらしい。
 案の定、のんびりと歩いた祐巳たちが到着すると、信号はとっくに赤信号に切り替わっていた。瞳子ちゃんと信号を待つ間立ち話をするのは全然構わないのだけど、どうにも瞳子ちゃんの考えていることが分からなくて落ち着かない。
「――赤ですね。ボタンを押さないと」
「あ、そうだね」
 確かめるように言った瞳子ちゃんに、祐巳は慌てて指を伸ばした。
 同時に、瞳子ちゃんがスッと指を伸ばして、信号の押しボタンを押す。
「――あ」
 瞳子ちゃんがポチッと信号を押した瞬間、祐巳の指がその上からボタンを押していた。
 思わず祐巳は動きを止める。瞳子ちゃんの指も、ボタンを押したまましばらくの間、動かなかった。
「――あの」
「な、なに?」
 思わず互いに視線を合わせてから、瞳子ちゃんが困ったように口を開いた。
「祐巳さまがどけて下さらないと、離せませんわ」
「あ、そうだね。ご、ごめん……」
 慌てて祐巳は手を引っ込める。
 ボタンを押す指先が、ちょっと重なっただけなのに。なんでこんなにドキッとしたのだろう。
 不意の接触に少し狼狽しながら、祐巳は瞳子ちゃんをチラリと見て。
 なんとなく、気恥ずかしくて視線を逸らした。


「はい、ご注文の写真」
「あ、ありがとうございます!」
 差し出された封筒を慌てて胸元に受け取って、瞳子はぺこりと頭を下げた。
 それからそっと封筒を開いて中身を確認し、ほんのりと頬を赤く染める。
「でも、分からないなぁ。なんでそんな写真が人気なのかしら?」
「蔦子さまにはロマンがありませんわ。こういう、日常の触れ合いにこそ、ロマンがあるというものです」
「……やっぱり私には分からないけど、こんな風に頼られるのは悪い気はしないしね。また何かご入用の時は、遠慮なくどうぞ。瞳子ちゃんといると、祐巳さんも良い表情するからね」
 蔦子さまはそう言って立ち去りかけ――そこで思い出したように振り返った。
「あ、そうだ。その写真、タイトルは『初めての共同作業』なんてどう?」
「……それはまた、無粋なタイトルですわね」
 言うだけ言って返事を待たずに行ってしまう蔦子さまの背中に、瞳子は少し落胆したように呟く。
 それから気を取り直したように、再び封筒を開けると、中に収められていた写真をじっくりと眺めた。
 二人で信号のボタンを押して、思わず顔を見合わせているツーショット写真。
 日常のようで、少しだけ日常とは違うその瞬間は、なんとなく心の吟線をつま弾いてくれる。例えそれが、多少意図された偶然だったとしても。
「家に帰ったら、どこに飾りましょう?」
 口元を緩ませながら写真をしまい、瞳子は踊るような足取りで教室へ戻っていった。


 そこは一見、どこにでもある横断歩道。
 けれど今日もまた、お姉さまや親しい上級生と共に、赤信号に変わった直後の押しボタンを押す権利を獲得すべく、リリアン女学園の生徒たちは、足を速めたり緩めたりしながら、学園前の通りを歩いて行くのだった。


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