【852】 誘惑に負ける快眠推進倶楽部  (柊雅史 2005-11-14 01:50:49)


 春。
 平均気温がぐんぐん上がって、ひらひらと桜の花が舞い始めると、どうしたって逃れられない魔の手が襲い掛かってくる。
「くぁ……ふ……」
 紅薔薇さまの称号を無事継承した祐巳は、少々その偉大な称号には不釣合いな大きな欠伸を漏らしていた。
「はぁー……ぬくぬくだねぇ……」
 薔薇の館の窓際に椅子を寄せて、窓枠に顎を乗っけて目を細める。
 眼下を歩いていた一年生たちが、きゃあきゃあ騒ぎながら手を振って来たので、祐巳はふらふらと力なく手を振り返してあげた。
 一年生たちは黄色い歓声を上げると、ぱたぱたと駆けて行った。その背中を見送って、祐巳はもう一度「くあ〜」と欠伸を漏らす。
 春の使者、春の魔の手。
 それは他でもない、眠気である。
「気持ち良いなぁ……これはのんびりしないとバチが当たるよ。うん」
 むにゃむにゃと呟いて、軽く目なんて閉じてみる。瞼の裏側に桃源郷が見えた。
 ――と。
「お姉さまっ!」
 バタン、と物凄い音を立てて扉を開けながら、とてつもなくお怒りモードの瞳子ちゃんが入ってきた。
「あ、瞳子。ごきげんよう〜」
「ごきげんよう、じゃありませんわ! 何をしてらっしゃるのですか!」
 ひらひらと手を振った祐巳に、瞳子ちゃんは眉を逆立ててズンズンズンと接近し、祐巳の頭の上から手を伸ばして窓を閉めてしまう。
 祐巳はちょっと口を尖らせた。
「ああ、せっかく気持ちよかったのに」
「気持ち良いのは結構ですが、腑抜けた間抜け面を全校生徒に披露しないで下さいましっ! 私、お姉さまが窓から身を乗り出して大欠伸している姿をみて、穴があったら入りたい気分でしたわ!」
「やぁ、瞳子は今日も元気だね」
「お姉さま!」
 このぬくぬくした陽気の中、ハイテンションに身振り手振りを交えて注意してくる瞳子ちゃんに、祐巳としては素直に感心したのだけど、この反応はあまりお気に召さなかったらしい。
「良いですか、私はこれから演劇部に戻りますけれど、今度同じことをしたら問答無用に天誅ですわ!」
「なんだ、今日は演劇部なんだ?」
「そうですわ。部室に行こうと思ったら……あの腑抜けた顔! とてもまっすぐ部室になど向かえませんでした! 後生ですから、紅薔薇さまとしての自覚をもう少し持ってくださいませ!」
「はいはい。分かったから、部活頑張ってね」
「……本当に分かりましたの?」
 疑いの目を向けてくる瞳子ちゃんの背中を押し出すようにして、祐巳は瞳子ちゃんを送り出した。まぁ確かに、さっきのは少々紅薔薇さまとしての品位に欠けてたかな、なんて反省しつつ、瞳子ちゃんに閉められてしまった窓を全開にする。
 そよそよと暖かい春風が吹いてきて、祐巳は一瞬で『反省』の単語を忘れた。
「はぁ……これでのんびりしないのは、神様への冒涜だよねー」
 組んだ腕に顎を乗せ、そよ風を頬に感じながら、祐巳はうっとりと目を閉じるのだった。


 階段を駆け上がる瞳子の足取りは、常日頃のおしとやかさを忘れて荒々しい物になっていた。
 普段なら、ギシギシ鳴ることで有名なこの階段でさえ、ほとんど音を立てずにしっとりと歩くのが瞳子の密かな日課なのだけど、今日ばかりはそんなことに構っている暇はない。部活を終えて薔薇の館に戻ってきた瞳子が見てしまった光景。あれを見て、のんびり歩いていられるほど、瞳子はのんびり屋さんではないのだ。
「お姉さまったら、あれほど言いましたのに!」
 薔薇の館の前まで来て、瞳子は思わず唖然としてしまった。
 開いた薔薇の館の二階の窓。
 そこに連なるは、紅薔薇さまと黄薔薇さま、更には白薔薇さまの気の抜けた寝顔がズラリ。
「全くもう! 乃梨子さんと菜々は何をしているのですか!」
 いくらお姉さまでも、黄薔薇さまや白薔薇さまがいれば、春眠に身を委ねたりはしないだろう、と思ったけど甘かった。
 そもそも黄薔薇さまもいい加減な性格の持ち主だし、白薔薇さまものんびり屋だ。お姉さまの誘惑と春の魔手に陥落してしまったのだろう。
 けれど、それを止めるのが乃梨子さんであり、菜々なのではないだろうか。今年の薔薇さまを助け、時にはフォローするのに、中々頼もしいつぼみの仲間が揃ったと、瞳子なんかはかなり期待していたのだけど。
「お姉さま方の寝顔を晒すなんて、なんたること! どうして乃梨子さんは注意しないのですか、日和見の菜々はともかく!」
 バタン、と扉を勢い良く開き、瞳子は大きく息を吸い込んだ。
「お姉さま!」
「あ、瞳子、お帰り〜」
 むっくり体を起こして、お姉さまが朗らかに笑う。
「待ってたんだよ。なんか私一人寂しくて」
 言いながらお姉さまが指し示した両脇――黄薔薇さまと白薔薇さまを見て、瞳子は思わず絶句する。
 そこには、窓に寄りかかってくつろぐ薔薇さま方の膝に頭を乗せて、くーくーと安らかな寝息を立てるつぼみが二人。
 正に『堕落』を絵に描いたような光景だった。
「瞳子もおいでよ。一緒にお昼寝しよ〜」
 笑みを浮かびながら手招くお姉さまに、瞳子は日頃鍛え上げた肺活量を120%活用して、大きく息を吸い込んだ。




「はい、お姉さま!!」




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