【915】 身が持たない正々堂々  (沙貴 2005-11-26 13:05:38)


 藤堂志摩子にとって島津由乃は特別だ。
 
 志摩子ら現二年生の中では薔薇の館の最古参である由乃さんは、薔薇の館の空気を誰よりも知っている。
 それはきっと紅薔薇さまの小笠原祥子さまや、由乃さんの姉にして黄薔薇さまの支倉令さまよりも。
 二年生の半分も過ぎようとしている今、高等部進学と同時に薔薇の館入りした由乃さんの薔薇の館歴は一年半超。
 祥子さまや令さまが薔薇の館入りした正確な時期を志摩子は知らないが、相当に早くでなければ由乃さんの記録を乗り越えることは出来ないだろう。
 
 そして意外にも、その記録と志摩子の記録はかなり密接に関連している。
 志摩子もかなり早い時期、昨年の五月頃から薔薇の館には出入りしていたからだ。勿論、その頃は単なるお手伝いとしてではあったけれど。
 前白薔薇さま、愛する永遠なるお姉さま、佐藤聖さま。
 その手に引かれて薔薇の館へ、薔薇ファミリーと称されるお姉さま方の中に引き込まれた志摩子は、そこで多くのものを得た。
 両手に抱えて尚余りある、大きくて尊いものを得た。
 そしてそれは、由乃さんに取っても同じである筈のことだった。
 
 この繋がりはきっと、志摩子と由乃さん限定のものだ。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
「あ、コーヒーはそっちよ」
 給湯室にある小さなテーブルの上に放置されていたインスタントコーヒーの瓶を手にしたは良いものの、どの棚に何が入っているかなどをまだまだ覚え切れてはいない志摩子が右往左往しながら棚の中身を確認していると、そんな声が背後から聞こえた。
 振り返れば、そこには棚の中身とは逆に十分見慣れて覚え切った二本のおさげ髪を垂らした少女が一人。
 給湯室の扉に手を掛け、反対の手で志摩子の対面にある棚を指差して立っていた。
「ごきげんよう、志摩子さん」
「由乃さん。ごきげんよう」
 手を腰の前で組み、二人揃ってぺこりと頭を下げる。
 上げた顔には、二人ともに笑みが浮かんでいた。
 
 
 季節は初夏、時間は放課後。
 マリア祭などの行事がある割には祝日の多い五月末のことで、志摩子は急場のヘルプを頼まれていた。
 とは言えそれも慣れたもので、志摩子はもう館の扉を叩いて延々三十分待つような真似はしない(手伝い二度目の時にあった。既に中に居られた前紅薔薇さまや祥子さまが仕事に集中される余りノックに気付かず、遅れた前黄薔薇さまがのんびり来られた正式な時間の三十二分後まで志摩子は玄関で待機していた)。
 勝手知ったる他人の家、ノックに反応が無いとわかると志摩子は躊躇もなくその扉を開けた。
 
 冷え切った館内の空気と、扉を開けた志摩子自身が突き崩した静謐から鑑みるに、今日は本当に人が居ないようだ。
 そう判断した志摩子は知らず張っていた肩の力を抜いて、ぎしぎし鳴る階段を登ってサロンを目指す。
 人が居なくて久しい館内の気温は五月末と言う季節を考えるとやや過ぎるくらいに低く肌寒かったが、ステンドグラスを通過して差し込む日の光に当てられた階段の手すりは仄かに温まっていた。
 愛しむように志摩子が撫でると、その掌を優しく柔らかく温め返してくれる。
 物理的に暖かい屋敷に志摩子の頬が緩んだ。
 本当に、ここは。
 
 
 そして会議室に入った志摩子が鞄を置いて、何の気なしに給湯室へ入った際に見つけた。
 それは蓋こそ閉まっていたものの、置かれっぱなしになっているコーヒーの瓶。
 聖さまが好んで飲まれるものの、逆に聖さま以外は殆どお召しにならないインスタントコーヒーだ。誰が出してそのままにしたのかなどは、余り考えるまでもない。
 くすくす笑って手に取ったものの、戻す場所がわからず途方に暮れた。
 そんな志摩子に助け舟を出してくれたのが、いつの間にか入ってきていた由乃さんだったのだ。
 
「白薔薇さまったら。朝にでも来られたのかしら」
 ぱたん、と小さな音を立てて棚の扉を閉めた志摩子に、由乃さんは笑いながらそう言った。
 両手に抱えていたから瓶自体がコーヒーのそれだとはわかり辛かったはずだ。
 けれど的確にそれをコーヒーだと理解して、且つ、その置き場所を指示し、出しっぱなしにした人を言い当てた。
 志摩子と同じ、いいやそれ以上に館とその住人を理解している由乃さんが眩しくて、志摩子は少し目を細める。
「なあに、志摩子さんたら」
 そう言ってくすぐったそうに笑った由乃さんは本当に可愛らしくて、志摩子は仄かに令さまを羨ましく思った。
 けれど勿論、そんな心積もりは隠して志摩子は首を振る。
「いいえ、何でも。それより由乃さん、お一人?」
 それは何の気なしに言った一言だったのだが、由乃さんは一瞬驚いて、それから目に見えて落胆した。
 
「ご、ごめんなさい。気に障ったかしら」
 何が悪かったのかはさっぱりわからなかったが、志摩子に台詞に原因があることは間違いがない。
 慌てて謝った志摩子を片手で制した由乃さんは、「大丈夫よ」とはっきりと告げて給湯室の中に入ってきた。
 志摩子がしまったコーヒーの棚とは反対方向。
 紅茶の缶が並んだ棚に向かいながら由乃さんは言う。
「わかってることなんだけど、ね。私は黄薔薇のつぼみの、妹なんだなって」
「」
 何か言おうとして、言えなかった。
 由乃さんが言いたいのは「私の隣にお姉さまが居ないのはそんなに変なの」と言うことだ。
 そして志摩子は、確かに、一人で薔薇の館に居る由乃さんに違和感を覚えてしまった。
 だからこそ「お一人?」なんて聞いてしまったのだ。
 
 取り返しの付かない失言に志摩子が二の句を告げないで居ると、その一切を気に留めないように由乃さんは手際よく紅茶を用意していく。
 ソーサーを並べて、カップを置く。それぞれ二人分だ。
 館で人の動く気配は給湯室にしかない。
 由乃さんに気付けなかった志摩子の感覚は当てにはならないかも知れないが、でも由乃さんが今用意しているカップは高い確率で由乃さんと志摩子のものだろう。
 一応常時沸いたお湯が用意されているポットを志摩子がシンク脇から机に移動させると、さも当然のように由乃さんはその前に葉を入れたサーバーを置いた。
 ポットのお湯を注ぎながら由乃さんが呟く。
「志摩子さんて意外にわかりやすいのね」
「え?」
 聞き慣れない表現をされたようで問い返すと、由乃さんはしっかり「志摩子さんはわかりやすいわ」と繰り返して肯定してくれた。
 わかりやすい。
 わかりやすい、と来た。
 志摩子は自慢では無いが、これまでに「何を考えているかわかりにくい」「ミステリアスだ」と言う評価を受けることは多かったが、「わかりやすい」と評されたのは由乃さんが初めてだった。
 
「さっきちょっと私のこと羨ましそうに見たでしょ。私が白薔薇さまの飲み物とその置き場所がすぐにわかったから。それに、一度した失敗を自分で勝手に根に持って落ち込んじゃうタイプだ」
 (何故か)少し楽しそうに、そう言ってカップの立てる湯気を眺める由乃さん。
 お盆にソーサーごと移しながら、志摩子はでも首を振った。
「羨ましかったのはそうだけれど、白薔薇さまの飲み物、と言うよりはここ、薔薇の館に関してかしらね。やっぱり一日の長があるから、手際が良いもの」
 志摩子はそう言いながらも自分でちょっと嘘っぽいなと思う。
 言ったことは事実だが、由乃さんが言う通り白薔薇さまの云々が全く無いかといわれればそうでもないのだ。
 ちょっと悔しかったのは事実だから。
 でも由乃さんはそこに言及しないで、ただ「わかったわかった」って言うように声もなく笑った。
 
 
 サロンに戻って、対面に座って。
 お互い紅茶を一口飲んで、ほうと溜息。
 人が足を踏み入れてからそんなに時間はたって居ない筈なのだが、サロンは志摩子が来た時に比べて随分と温まっているように思えた。
 肌寒さなどどこにもない。
 それは勿論陽射しと紅茶の所為であるのだろうけれど、それら以上に由乃さんのお陰に違いなかった。
 誰かが居る場所は、ただそれだけで温かくなる。
 薔薇の館で志摩子が知ったことの一つだ。
 
「ごめんなさい」
「は?」
 苦ではない沈黙の中で紅茶を二口三口飲んだ後、志摩子は言った。
 悪意ある言い方をするなら、由乃さんを令さまのオマケのように考えていたことを黙っているのに耐えられなかった。
 それはアイデンティティの否定だから。
 人は一人で生きてはいけないものだけど、だからと言って誰かの傍でしか生きられない訳じゃない。
 由乃さんは由乃さんで、令さまは令さまだ。
 例え姉妹であったとしても――志摩子は未だに姉妹のシステムをはっきりとは理解していないけれど――それは変わらない事実。
 
 けれど由乃さんは言葉の意味がわからなかったらしく、眼をぱちくりさせて志摩子を見ていた。
「ほら、さっき給湯室で」
 けれど志摩子がそう言うと、由乃さんは「えっ、あっ、ああ」と言葉にならない相打ちを打った後。
「あははははは!」
 と淑女らしからぬ大声で笑った。
 それで言葉を失ったのは志摩子だ。
 笑われるようなことを言った覚えは無いし、こちらとしては誠意ある謝罪をしているつもりなのだが、それに対する返答が爆笑とは。
 箸が転んでも可笑しい年頃であることはおたがいさまだが、それはこんな場面で適用される言葉ではない。
 志摩子の言葉など真面目には受け取って貰えないのだろうか。
 そう思うと無性に悲しくて、紅茶も陽射しも暖かいのに急に肌寒くなって、目の奥が熱くなる。
 
「あーおかしい」
 そう言いながら志摩子とは別の理由で浮かんだ涙を人差し指で拭った由乃さんは、改めて佇まいを正した。
 眼を脇を掻く様な仕草で志摩子も零れかけていた涙を掬う。
「本当、気を使うんだから」
 紅茶を一口飲んで、続けた。
「大丈夫よ、って言ったでしょ。それに実際、教室以外だと殆どお姉さまと一緒だもの」
「でも」
 少し体を前に倒して志摩子が言い縋ると、由乃さんは「それに」って。
「そんなイメージも直に無くなるわよ。今は私も高等部に上がったばかりでお姉さまも過保護気味だけど、そのうち構っていられなくなるでしょうし。山百合会の雑務なんかは私達一年生に任せっぱなしになったりもするんじゃないの」
 由乃さんはまたそこでちょっと、紅茶を飲んだ。
 
 私達。
 誰も妹でもない、単なるお手伝いの志摩子がそれに含まれているのだろうか。
 普通に考えれば入っているわけは無いのだけれど、由乃さんの口振りは由乃さん自身と志摩子の二人を指しているように聞こえた。
 返答に窮していると由乃さんはカップを置いて笑う。
「逃げられないわよ」
 その笑顔はにこり、と言うよりもにやり、であったけれど。
「今志摩子さんが来てくれているのはただのお手伝いだって、わかってる。でも、もう私と志摩子さんは出会っちゃったんだから。こうやって薔薇の館でお茶を飲むくらいに親しくなったんだから。逃がさないわ。これからも忙しくなったら真っ先にお声が掛かる事を理解しておいてね」
 逃がさない、逃げられない。
 どこかで聞いたようなその単語は酷く心地良く志摩子の心に染み入った。
 
 でも。
 咎人である志摩子には枷こそが相応しいと言う思いはある。
 あるけれど、同時にそれすらも許されざる罪だと知っている。
 枷は嵌められた人だけを捕らえるものではない。嵌めた人をもそこに縛り付けてしまうものだ。
 もし由乃さんが志摩子に枷を、薔薇の館の安寧と言う枷を嵌めるなら。
 いざ、もし、志摩子がリリアンを離れることになったら。
 リリアンから逃げ出してしまうようなことになったら。
 由乃さんは安寧の中で独りになってしまうのだろうか。
 それは罪だ。
 イエズス様を欺くことと同じくらいに大きな、大きな罪。
 
「でも私は」
「でもは無し」
 そう思って否定しようとした志摩子を、由乃さんは一刀両断した。
「良い場所よ、ここは。さっき志摩子さんも言ったけれど、私は志摩子さんよりも長くここに居るからそれが良くわかる。黄薔薇さまも、白薔薇さまも、紅薔薇さまも。お姉さまも祥子さまも、皆居る。ここはきっとね、誰だってそう思える場所なんだって思う」
「誰だって――?」
 問い返すと、由乃さんは頷いた。
「私のように薄弱な少女も。志摩子さんのように憂い顔が似合う美少女も」
 突っ込みたい部分は言葉の前半にも大いにあったが、敢えてそこは飲み込んで志摩子は言う。
「私は美少女なんかじゃないわ。有り触れてる顔よ」
「そういう敵を増やす発言は止めなさい」
 大笑いしながらそう言う”薄弱な”由乃さんこそ美少女の形容にはぴったりだと、志摩子は唇を尖らせて思った。
 
「とにかく」
 こほん、とわざとらしく咳払いをしてから、由乃さんは言う。
「私はそう言うの良いな、って思っているの。そうなれば良いな、かな。志摩子さんはまだお客さまかも知れないけど、いつか、薔薇の館の一員として。正々堂々と、志摩子さんとこうやってまたお茶を飲めたら良いなって。それだけ覚えておいて」
 薔薇の館の一員。
 それは白薔薇さまの――白薔薇さまに限った話ではないけれど――妹になって館に残ること、のようには聞こえなかった。
 ただ館を構成するパズルのピースとして、そこに居られたら良いと。
 姉妹制度の盛んなリリアン高等部でそれは非常に困難なことだとわかっている。
 懇意にしてくださっている薔薇のお姉さま方には申し訳ないけれど、姉妹に関する見えない圧力は何も薔薇ファミリーからだけ受けているのではない。
 薔薇ファミリーの注目度にしろ姉妹制度にしろ、知識量は志摩子の比ではない由乃さんにだってそれは十分に判っている筈だ。
 
 なのに由乃さんは言ってくれた。また、お茶を飲みたいって。志摩子とお茶を飲みたいって。
 その心遣いへの感謝と、想われる幸せへの感激に胸が詰まる。
 でも。
 ああ、でも。
「そうなったらどんなに良いか」
 漏らすように、由乃さんに聞こえないような小声で、そうとしか答えられない自分はやはり咎人なんだ。志摩子は泣きたくなった。
 踏み出せない。
 あと一歩、踏み出せない。
 由乃さんが折角歩み寄ってくれているのに、諸手を広げて待ち構えてくれているのに。
 飛び込めばきっと心地良いだろう。
 白薔薇さまはどんな顔をされるか想像できないけれど、拒絶するようなことは……ないと信じたい。
 どちらにしろ、由乃さんを含めた皆さんは暖かく迎え入れてくれるに違いない。
 誰の妹でなくとも。薔薇の称号なんて無くても、ここは志摩子の居場所になってくれるだろう。
 でも。
 それは。
 
「だから、それだけ覚えておいて。それ以外は今は、良い」
 思考の袋小路に蹲った志摩子を引っ張り上げるように、由乃さんはそれだけ言って紅茶をぐいと飲み干した。
 そして今度こそにこりと笑ってくれた由乃さんに、でも志摩子はまだ笑い返すことは出来なかったのだった。
 
 
 〜 〜 〜
 
 
 それからもう一年と少しが経つ。
 その間に色々なことがあった。本当に色々なことが。
 
 結局志摩子は由乃さんの言う通り、薔薇の館は本当に良い所だと理解したし、正々堂々と館に居座ってお茶を飲むことも当然になった。
 館に導き、そこに留めてくれたのは聖さま。
 胸に抱えた咎を(半ば無理矢理)取り払ってくれたのは祥子さま、令さま。
 そして今、しっかりとリリアンの大地を踏み締めてここに居られるようにしてくれたのは乃梨子だ。
 それらの殆ど全てを傍で見てくれていたのは由乃さん。
 去年の後半から館入りしたにも関わらず、今や色んな意味での館の顔になった祐巳さん。
 
 沢山の人に囲まれて、愛しい方に支えられて、志摩子は今胸を張ってリリアンに立っている。
 志摩子は薔薇の館を愛している。その住人を愛している。
 そして由乃さんもまた同様である事を志摩子は知っていた。
 長く時を過ごせば過ごすだけ果てしなく良さの判る場所だから、居る時間の長い二人が最も館とその住人を知っている。
 
 威圧感すら伴って迎えてくれる格調高い玄関の扉も。
 柔らかな陽射しの溢れる階段も。
 季節ごとに空気の装いを変えるサロンも。
 いつも変わらなく埃っぽい一階の物置も。
 何もかもが、愛しい。
 在るだけで幸せになる、とても稀少な存在だ。
 
 山百合会の総本部と言う肩書きのお陰で一般生徒は中々来れないけれど、それは本当に勿体無いことだと志摩子は思う。
 でも足を踏み入れる人が厳選されているからこそ、今の薔薇の館があるということも知っているから。
 難しい。一言では言い切れない。
 ただ少なくとも、今の薔薇の館を志摩子も由乃さんも愛しているし。
 今後館で何かが変わったとしても、それは変わらず愛し続けられるだろう。
 
 だから志摩子はもう悩んだりしない。
 リリアンに自分の居場所は確かにあるのだ。
 乃梨子の隣。由乃さんの隣。祐巳さんの隣。聖さまの後ろ。祥子さまの後ろ。令さまの後ろ、そして。
 薔薇の館。
 そこが志摩子の居場所。
 しっかりと前を向いて生きていける場所。
 志摩子はもう悩まない。
 もう決して俯かない。
 顔を前に向けて、誇りをもって歩んでゆけるのだ。
 
 
 そして今、誇らしげに顔を上げる志摩子の前に。
 馴染んだ体操服を身に纏い、籠を背負って正面を向く志摩子の前に。
 
 これから必殺の魔球を投げる球児のように、スポンジボールを右手で掴んで前に持ち、炎を背負って立ち塞がる彼女が居た。
「本気になったこの私から逃げられるとは思わないことね! 志摩子さん!」
 リリアン体育祭。二年生競技、『玉逃げ』。
 どういう訳だか、志摩子は由乃さんと限りなく一方的な決闘状態になっていた。
 
 アーメン、アーメン。
 主よ、私を平穏と安寧へお導き下さい――
 
 そんな志摩子の祈りは、渾身の力で投げられた由乃さんの第一球で打ち砕かれる。
 
 
「きゃっ、痛い、きゃぁっ!」
 逃げる志摩子に投げ付けられるのはスポンジボールなのだから、当たっても決して痛くなんてない。
 でも、ぽこぽこぽこぽこ当てられ続けていると条件反射的に口が勝手に痛いっ、なんて言ってしまうのだ。
 すると如何に競技とは言え、そこで攻撃の手は一瞬止んでしまう。これは志摩子だけに言えたことではなかったが、志摩子の場合は現白薔薇さまと言う威光も合間って顕著だった。
 唯一つの例外を除いて。
「ええい! それっ!」
 志摩子の悲鳴を掻き消す威勢の良い掛け声と共に、どんどん飛んでくるカラフルなスポンジボール。
 そのうち幾つが籠に入っているのか志摩子にはさっぱりわからない。
 わからないけれど――
 飛んでくるボールの半分くらいは後頭部で受けていることはわかっていた。
 と言うか由乃さん、籠に入れる気ある……?
 
「あははは! そらそらっ!」
 追う由乃さんから飛んでくるボールの数は、時間が経っても一向に減る気配が無い。
 それどころか、疲れが足に来た志摩子の動きの方が鈍って、今では殆ど由乃さんの独壇場だ。
「ん、もうっ!」
 それでも、志摩子は悲鳴を上げて走り続ける。
 図らずも公衆の面前で行われていた白薔薇さまと黄薔薇のつぼみのじゃれあいに、茶々を入れるような輩はもう殆ど居なくて。
 追う由乃さん、逃げる志摩子。
 一年も前に行われた二人のお茶会の時には確かにあった、見えない確執なんてそこには無い。
 遠慮も苦悩も、そんなものはこの一年で色んなところに置いてきてしまったから。
 
 由乃さんは正々堂々とお茶を飲みたいと言った。
 志摩子もそれを願っていた。
 
 でも。でもだからって。
 
「足が止まってきたわよー! 志摩子さん!」
 人の後頭部目掛けて嬉々としてボールを振り被るのは、果たして正々堂々なのか。
 確か逃げる相手を背後から切り付けるのは武士道不覚悟が云々だと以前に由乃さん自身が言っていた気がするけれど。
 そうしてちょっとだけ振り返った志摩子の顔面に。
 ぽこっ、と。
 スポンジボールが直撃した。
 
 
 由乃さんの事は好きだし、愛しているけれど。
 正々堂々と向かい合うのは体力勝負だ。
 『玉逃げ』終了のピストル音と同時にくず折れた志摩子は、荒れた息を必死で整えながらそんな事を思っていた。
「お姉さまーっ! 大丈夫ですかーっ!」
 遠いところから聞こえた乃梨子のそんな声に、どれだけ救われたかわからない。
 志摩子は乃梨子に顔だけ向けて、何とか笑みを作り上げた。
 そして籠を下ろしてふうと一息。
 
 体力勝負でも良いのだ。
 今の由乃さんにとって体を動かすことは一種のステイタスなのだから。
「だらしが無いわね、ほら」
 ちゃんと、こうやって手を差し伸べてくれる由乃さんと向かい合うことが出来るなら。


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