放課後、乃梨子が薔薇の館に行くと、まだ誰も来ていなかった。
いや、ビスケットと形容される扉から会議室に入った時は誰も居ないと思っていたのだけど。
テーブルを拭いておこうかなと流しの方に視線を向けてドキッとした。
なぜならそこに黒とアイボリーのコントラスト。要はリリアンの制服だが、誰やら生徒の後姿があったからだ。
「あ、ごきげんよう……どちら様?」
肩で切りそろえられたストレートの黒髪は、該当する人が思い浮かばなかった。
いや、なんか見覚えだけはあるんだけど。
「あの?」
その生徒は声をかけたのに振り返らずそこに立っていた。
まさか立ったまま寝てるわけじゃあるまいし。
乃梨子が近寄っていくと、足音に気づいたのか彼女は振り返った。
「もしかして、私に言ったの?」
「え?」
振り返ったその顔を見て乃梨子は固まった。
というか、その心情を一言で表すとこうだ。
『またか』
後姿に見覚えがあって当然だ。
「あら、ごきげんよう」
そう言って笑う顔は毎日鏡で見慣れた乃梨子の顔そのもの。
「あ、あのね……」
「ごめんなさい。ちょっとボーっとしてたから」
「いや、そういう問題じゃなくて」
なんでこの子はこんなに落ち着いてるんだ。
今度はどういう世界から来たのやら。
「とりあえず、名前を聞いておくわ。 まあ判ってるけど」
「え? 私の名前知ってるの?」
と、彼女は目を瞬かせた。
「そ、そりゃね……」
なんか、調子が狂う受け答えだ。
私がものすごい天然な世界から来たってところか。
「……あなた、私があなたと同じ顔してるのになんとも思わないの?」
乃梨子がそう言うと、彼女はじっと乃梨子の顔を、乃梨子がいらいらし始めるほど見つめた後、こんどは顎に手をやって首を傾げて考えるポーズをしたまま、またこんどは乃梨子が地団駄を踏みたくなるほど考え込んだ。
「・………ああ、もう、あんたも乃梨子なんでしょ!」
とうとう切れそうになった乃梨子がそう叫ぶと彼女は乃梨子の方を見てまた一瞬の間。
「……ああ」
そう言ってぽんと手を打った。
「そういえばそうかも」
「そうかもって、あんた自分の名前も忘れちゃってたの?」
「んー、結構長いこと人と話してなかったし」
「って、引きこもりかよ」
「あー、それそれ。最近はそういうのよね。なんだっけポッ○ー?」
「ヒッキーだろ!!」
だめだ。
こんどのは完全にボケ役にはまってる。
自分とドツキ漫才なんて痛々しくて見てられないじゃないの。
「とりあえず判ったから大人しくしててくれる?」
乃梨子は頭を抑えつつそう言った。
「えー、もっとお話しましょうよ」
彼女はそう言った。
「人と話すの苦手じゃないの?」
だって引き篭りって言ったらそういうものでは。
「というか、誰も相手にしてくれないから」
天然過ぎて相手にされなくなってそれで外に出なくなった?
どういうパラレルワールドなんだ。
あまりに違いすぎるので乃梨子はちょっとだけ興味が出てきた。
「じゃあ今日はどうして薔薇の館に居るの?」
とりあえず、彼女と自分の分の紅茶をいれ、二人でテーブルに落ち着いた。
「……ここのこと薔薇の館って呼んでるの? 素敵な名前ね」
彼女は紅茶を一口味わって「おいしい」本当に嬉しそうに微笑んだあと、質問には答えず、目を輝かせてそう聞いてきた。
まあ、知らないよね。学校に殆ど来てなかったんだろうな。
「そうよ。ってもしかして今日ずっとここに居たとか?」
「そうだけど」
「あなたね」
なにを思ったか、きっと学校に来る気になって、でも教室に行く気になれずに、いや教室がわからなかったのかも。
「授業くらい出なさいよ。教室判らなかったら職員室行って聞くとかできるでしょ?」
乃梨子がそう言ったとき、彼女は悲しそうな顔をした。
「できないわ」
「なんでよ?」
「だって……」
そう言って彼女は部屋の中に視線を彷徨わせた。
まあ、想像はつくけど、せっかく学校に来る気になったんだからもう少し頑張れば良いのに。
話をしてみて彼女は外見はそっくりだが中身はまったく違う人間だって気がした。
「心配しなくてもここってお嬢さま学校だし、引き篭もりだったからっていじめるような人はいないよ?」
「そうかな?」
「そうよ。まあ、今日はもう放課後だから仕方が無いけど、明日はちゃんと教室行ってみな」
「うん、そうね。となりの校舎なら……」
そう言って彼女は校舎のある方向、そこは会議室の壁だが、に視線を向けてから続けた。
「……何とかなるかも」
「何とかって、そんなに難しく考えること無いと思うけど」
思案している彼女の横顔に向かって乃梨子がそういうと、彼女は再び振り返って乃梨子の顔を見つめた。
そして、『合点がいった』というサインだろうか、瞬きを一回してから言った。
「わかったわ。私、頑張ってみる」
その瞳に力がこもったのを見て乃梨子はなんだか嬉しくなった。
乃梨子の目をまっすぐ見詰めて彼女は言った。
「あなたっていい人なんですね」
その天然らしい直球な言葉に乃梨子はおもわず顔を赤らめた。
「な、なに言ってるのよ。私はあなたなのよ。あなたの一つの可能性なんだから」
「よく分からないけど、あなたには感謝するわ。 そうよね。一つのところに引き篭もってちゃ今の時代やってけないものね」
「そうそう」
ずいぶん違った世界もあったもんだと思いつつも、なんだか綺麗にまとまったので乃梨子はいい気分だった。
後どれくらいこの世界に留まるのか判らないけど、何も知らない彼女にはもっといろいろ教えてあげたいと思った。
ちょっと不思議なこの学校の習慣のこととか。
根っからの善人でお節介なクラスメイトのこととか。
銀杏のなかに一本だけ生えている桜の木のこととか。
そして、彼女の世界にも居るであろう志摩子さんのこと――。
話が一段落したところで乃梨子は、ちょっと冷めてしまった紅茶をすすった。
そして、彼女の為に入れた紅茶のカップに視線を向けて、紅茶に手を付けてないなぁ、と思ったそのときだった。
「乃梨子?」
後ろから志摩子さんの声が聞こえた。
どうやら話に夢中になってて階段を上る足音に気づかなかったようだ。
「あ、ごきげんよう、志摩子さん」
乃梨子は椅子から振り返って志摩子さんに挨拶した。
「ごきげんよう、乃梨子」
「今、お茶の用意しますね。ちょっと彼女と話し込んじゃって……」
そう言うと、志摩子さんは可愛らしく首を傾げて言った。
「乃梨子、彼女って誰のこと?」
「え? だれって・……」
志摩子さんならきっと『またなのね』と即、理解してくれるであろうもう一人の別の世界からやってきた私がそこに……
「……あれ?」
乃梨子の向かいの席には手をつけられていない紅茶のカップが置いてあるだけだった。
さっきまで自分と同じ顔をした彼女と話をしていたはずなのに、そこはまるで最初から誰も居なかったように椅子も引かれる事が無く……
「なんか話し声がしたから誰かお客さんが来てるのかと思ったのだけど」
そういって志摩子さんは部屋の中を見回した。
「そ、そんな……」
「乃梨子?」
「うそっ! だって今確かにここに」
乃梨子は席を立って流しの方に走った。
「なんて隠れちゃうのよ!」
「乃梨子っ! 落ち着いて!」
「だ、だって……」
そんなはずは無い。
だって、元の世界に帰ったのなら、なんで座っていた椅子まで元に戻っちゃうのよ。
消えたんなら痕跡が残ってるはずでしょ?
ここで、乃梨子は彼女は紅茶を一口飲んでいたことを思い出した。
なのに最後に彼女から視線を外した時、紅茶は手がつけられていなかったのだ。
そんなことはありえない。
いままで別世界からやってきた乃梨子達はそれはもう嫌というほど痕跡というか傷跡を残して去っていったのだから。
「……そう、そんな子がいたのね」
意気消沈した乃梨子はなぐさめてくれる志摩子さんに消えてしまった彼女の話をした。
「志摩子さん、信じてくれる?」
「ええ、乃梨子が嘘をつくなんて思わないわ」
志摩子さんはそう言ってくれたけど。
「……私、夢見てたのかな?」
「でも乃梨子はそう思わないのでしょう?」
「うん」
確かに彼女は居たのだ。
だって、彼女の分の紅茶を入れたのは事実なんだから。
いや乃梨子がそう思いたいだけなのかもしれないけど。
乃梨子の抱えた謎は意外に早く解明されることになった。
薔薇の館のサロンには続々と他のメンバーがやってきて、いつも通りのお茶会の風景に変わっていた。
話の流れで乃梨子がついさっき体験したことを披露するハメになったのだが、そのとき、祥子さまが言ったのだ。
「それは、座敷わらしだわ」
「ええ!?」
祥子さまは続けた。
「先々代の紅薔薇さま、お姉さまのお姉さまがそういう話をしていたのを思い出したわ」
「そうね、座敷わらしということなら乃梨子の話とも符合するわ」
志摩子さんもそう言った。
そういえば、と志摩子さんの言葉に乃梨子も考えた。
確かに薔薇の館に憑いていて、誰にでも見えるわけじゃないって考えればあの彼女の言葉も納得がいく。
でも、乃梨子には一つだけ納得がいかないことがあった。
乃梨子はみんなの会話が一通り収まってから言った。
「じゃあなんで私とそっくりだったのかしら……」
そう言ったときの、みんなの納得したような顔と、その直後のなんともいえない気まずい雰囲気はしばらく忘れられないであろう。
座敷わらし ― 小児の姿をした妖怪もしくは家神。黒髪のおかっぱ頭で和服を着た童子の姿で描写されることも多い。座敷わらしがとどまる家は栄えるという。