「怖いだなんて、そんな事は有り得ないわ」
小笠原祥子はさも馬鹿馬鹿しいと首を振った。
「初めての方が異国情緒に浮かれる気持ちは判らないでもないけれど、私はそれなりに訪れているから」
同じように残ったあなたもそうでしょう? と祥子が反論を認めない視線で問うと、楽しげに場を離れた一団を彼女の隣で見送っていたクラスメイトの一人が硬化する。
彼女はちなみに、海外旅行は初めてではなかったがイタリアは初めてだった。
恥ずかしげもなく告白してしまうと、異国情緒に浮かれている。
最早その時点で祥子とは致命的なテンションの格差が生じているのだが、当の本人はそれに気付かないまま話を進めた。
「それに一応、と言ってしまうと不信仰だけれど、私達はリリアンの女学生。修学旅行と言う名目で来ているなら尚更、聖堂や宗教画を観に行って信仰を新たにすべきでは無いのかしら」
それこそ”一応”だ、と隣で顔を引き攣らせる彼女は小さく口ずさんだ。
リリアンは確かにカトリックの女学園、しかもお嬢様学校として名高いことは通学している彼女らも良く知るところではある。
しかし信仰と学校は別なのだ。
カトリックの学校に通う生徒イコールクリスチャンではないし、カトリックの学校に通う生徒は自動的にクリスチャンに成ってしまうと言うことも無い。
祥子の隣で空を見上げる彼女も実は、リリアンにおいては割と稀有な理系の思考回路を持っており、それが故に無神論者だった。
高度な物理学者や数学者の大半はクリスチャンだが、彼女は未だ物理的な概念に囚われて信仰を告白することは出来ていない。
とは言え態々「無神論者です」と明言する意味も価値も無いと(損得勘定的に)判断して、学内では他の迷える子羊達同様に求道者を振舞っている。
そんな彼女だからこそ、「信仰を新たにすべき」な意見にはどうしても賛同出来なかった。
「旧世代の創造物、と言う意味では触れ合う価値は十分にあると思うわよ? 勿論、イエズス様の時代を伝えてくれる訳でもマリア様の慈愛を教えて下さることもないでしょうけれど」
そこで彼女がそう反論すると、祥子は再び首を横に降る。
「古くてもただの石よ? それに触れると言っても結局はただ登るだけじゃないの。せめて娯楽性があるならまだ譲歩できるかも知れないけれど、私には何が楽しいのか理解出来ないわね」
「何とかと煙は高いところが好き、らしいわよ」
何の気なしに彼女がそう言うと、祥子はくすりと笑って「馬鹿ね」と返した。
それは彼女の引用で濁した部分を言い当てたのか、それとも言葉通りに高いところへ好んで向かった彼女ら――今見える背中は随分小さくなった一団を形成する彼女らを指したのか。
前者である事を彼女は祈らずに居られない。
彼女はそれから後の未来で、級友と思い出を語る時、或いは旧交を温める際に幾度となくこのシーンを回想することになる。
しかし、どうしてあの時、更に祥子へ食い下がったのか。それは如何に過去を振り返っても彼女には見つからない答えだった。
その場で別れた班員を多少棘交じりに揶揄する彼女に、どこか反感を覚えてしまったのか。
それとも珍しく子供染みた言い訳をする彼女の、更に先を聞き出したくなったのか。
判らない。判らないけれど、更に言葉を続けたことは事実として残っている。
「でも例え興味が無いとしても、付き合いと言うこともあるでしょうに。紅薔薇のつぼみにして小笠原の祥子さんともあろうお方がこんな我侭を通すなんて珍しいと思うわよ」
すこしだけ邪に笑みを浮かべて多少無礼な程慇懃に彼女は言った。
挑発する気持ちも確かに混ざっていた。
しかしそれが功を奏し、微かに眉を寄せた祥子は「まぁ、そう、敢えて言うなら」と前置きをして。
「傾いている所が気に食わないのよ」
鎧袖一触、言い切った。
それがピサの斜塔を前に登る事を渋った祥子最後の台詞で、リリアンの後世に残る(とは言え祥子らの世代限定だが)屈指の名言だ。
あらゆる反論を切り捨てる、それは素晴らしい一言だった。
唯一直接にそれを耳に出来た彼女は、帰国前、そして帰国後に友人達へそう述べ伝えたのだった。
〜 〜 〜
静かな放課を迎えたリリアンの片隅、更に静かな薔薇の館のサロンで当の祥子と二人仕事をしていた支倉令は、不意にそんなエピソードを思い出して声を殺した。
その発言と威風堂々たる断言っぷりは最早彼女らの内では伝説で、一時期当時の二年生の間では相当話題になったものだ。
当時は新聞部も築山三奈子が主導権を握る前でそれなりに大人しかったとは言え、当時の紅薔薇さまである水野蓉子さまが睨みを効かせなければリリアンかわら版の一面を飾っただろうことは想像に難くない。
意味不明すぎる指摘と、それに一切の反論を許さない気概。己はほんの微かにも間違ってなどはいないと声高に主張する態度、それに自信満々の表情。後者二つは令の想像だが、先ず間違いなく祥子は胸を張って含み笑いすら浮かべていた。
「なあに、令。思い出し笑いは気味が悪いわ」
すると、正面からそんな声が飛ぶ。
顔を上げると、先程までは詰まらなそうな表情を浮かべながら書類にペンを走らせていた筈の祥子が手を止め、訝しげな目付きで令を見て――睨んでいた。
仕事にならないのはお互い様か、とこちらもそれに先んじる事数分から完全に仕事のやる気が殺がれていた令は、ペンを机に放って背筋を伸ばす。
「いやね。ちょーっとイタリアの楽しかった思い出を思い出してさ」
にやにや笑いながらそう言ってみたが、祥子はふん、と鼻を鳴らしただけで終わってしまった。
とは言えそれは祥子が言葉の裏を聞き取れなかったのではなく、しっかりそれを汲み取った上で戦略的撤退を取ったに過ぎないだろう。
イタリアにおける祥子の武勇伝は先の名言以外にも数多ある、それは令は勿論祥子も十分に自覚している事実だから。
「由乃ちゃんが居ないからってだらしが無いのではなくて? 薔薇の館に居るのならイタリアに思いを馳せる前にしっかり仕事なさい」
しかし、祥子なら例えどんなに不利でも背中を向けてただ逃げるなんてことはしない。当然のようにそんな嫌味を投げてきた。
そう言いながらも、ペンを握ったままの祥子の手は一向に動き出そうとはしないのだが。
令同様イタリアに意識を飛ばしていたかどうかは判らないが、少なくとも祥子も余り仕事が続けられそうな気配ではなかった。
「まあまあ、元々今日だって偶然書類チェックが発生したから仕事してるんだしさ。今日だけで終わる量でもないし。良いんじゃない、今日くらいのんびりしようよ」
「今日くらい、ってあなたね」
そう言って祥子は苦笑する。
祥子に突っ込まれるまでもなく、現在薔薇の館は開店休業状態。それもその筈、現在薔薇の館で最も重要且つ大きな行事はリリアン学園祭であるが、恒例として行われる山百合会の出し物は今年も演劇。二年生がごっそり居ない修学旅行の期間中は、練習するにも打ち合わせをするにも主役が欠けてしまう為、殆ど何も出来ないからだ。
一年生にもその旨言い渡してあるが、薔薇の館に馴染み深い令は放課後部活がないと何とはなく足が向いてしまった。
しかし一人でのんびりするのも悪くないなとビスケット扉を開けた彼女は、思い掛けない先客と積まれていた書類の存在にその思惑が砕かれた事を知った。
紅茶を啜りながらのんびりするどころか、数値の並んだ書類を上から順番に見直すと言う非常に肩の凝る上に詰まらないルーティンワークに励まざるを得なくなった令は己が不運を呪ったが――結局はそれも続くことはなく。
やがて令らの前に並ぶものは、書類とペンケースからカップとオレンジペコの立てる湯気に入れ替わった。
「別に由乃のことを考えていた訳じゃないのよ。私が考えていたのは去年の修学旅行。私達の代のこと」
眼前から書類が無くなってすっきりしたのか、額に刻まれていた皺の無くなった祥子がカップに指を掛けると同時に令は言った。
けれど私達の代、の一言で再び祥子の眉が寄る。
「私には余り良い思い出は無いのだけれど」
飛行機は乗り慣れたいつものシートに比べると酷く狭くて窮屈だった記憶しかないし、何度も訪れているイタリアだからクラスメイトとのテンション差には辟易した。
祥子がやや不機嫌にそう漏らすと、さもありなんと令は頷いた。
苦し紛れの言い訳が飛び出さざるを得ないような旅行の道程が楽しいものだとは思えないし、そもそも乗り物に弱い祥子のこと、飛行機どころか地下鉄やバスの中でも無意味な睡眠時間は多かったはずだ。
「ローマ饅頭もフィレンツェ煎餅も見つからなかったしね?」
しかし、それが判っていながらも突っついてしまうのが親友の気安さと言うものだ。
「傾いているところが〜」並に懐かしいネタを持ち出して令は笑う。
もしかすれば祥子はもう忘れているかなと少しだけ危惧したものの、破顔した彼女を見るとどうやらそれは杞憂だったようで。
「さすがに本気で探していた訳じゃないわ。白薔薇さまの冗談だって判っていたし、逆に見つけてやれば鼻を明かせる、くらいの意味よ」
「ことあるごとに衝突してたもんね。ちなみに当代白薔薇さまは志摩子よ」
令が素直に突っ込むと祥子は一瞬口を尖らせたが、すぐにくすくす笑い出した。
「けれど、あの時の祐巳の顔ったら」
「祐巳ちゃん?」
はて。
どうして令らの修学旅行の話からその名前が出てくるのだろう。
首を傾げた令に祥子は笑いながら答えた。
「先日同じ言葉を言ってあげたの。”お土産はローマ饅頭かフィレンツェ煎餅が良いわ。昨年は買いそびれちゃったから場所は判らないのだけれど”ってね。目を白黒させて、口をぽかあんと開けて。可愛らしいのはそうだけれど、あの気の抜けた顔は頂けなかったわ」
さっくりと惚気られたことに令は気付いていたが、それ以上に危険な可能性に気付いて視線を落とす。
祥子。それ、多分、祐巳ちゃんは冗談だって判ってないよ――?
「そう言えば」
一頻り笑って、祥子は思いついたように言った。
「昨日は可南子ちゃんが来たわ。意外に義理堅い子ね」
可南子。薔薇の館でその名を聞けば一年椿組の細川可南子ちゃんを置いて他に無い。
祐巳ちゃんが体育祭の賭けに勝って引き込んだお手伝いさんにして、祐巳ちゃんの妹候補その2。その1は可南子ちゃんの天敵にして祥子の遠戚松平瞳子ちゃんだ。
こう並べてみると中々面白い符合性だが、双方共にかなり特殊な接点であるとも言える。
しかし、祥子の可南子ちゃん評は意外な単語を含んでいた。
「義理堅い?」
「ええ。昨日も私はここで台本を読んでいたのだけれど、その時可南子ちゃんが忘れ物を取りに来たの。で、私が居たことに驚いて、そのまま帰るに帰れなくなったらしいのよ。私はもう少し傍若無人な子を想像していたけれど」
傍若無人。義理堅い、の正しく対極に位置する言葉だ。
そして令もその言葉こそが可南子ちゃんにはしっくり合うと思っていた。
言葉通りに勝手気ままな態度を取っている訳ではないが、本心から迎合している訳ではないのだ、と言う雰囲気を常に発散している。
人の話を聞いているようで、聞き流していると言うか。
猫(それはそれは盛大且つ可愛らしい猫)を被っていた頃は兎も角、豹変後は少なくとも社交的ではなかった。
祥子が一人で薔薇の館に居ても、そのまま「ごきげんよう」とでも言い捨てて帰ってしまいそうなものだが。
「確かに意外ね。祥子に気を使って帰れなくなるなんて、それこそ」
豹変前、豹変後共に可南子が祥子に対して敵意――或いは苦手意識を持っているのは傍から見ていても明白だった。
令も詳しくは知らないが、何かしらイベントはあったのだろう。可南子ちゃんの豹変を契機にしたのかそれが契機になって豹変した、何かが。
そしてそれは間違いなく祐巳ちゃん絡みで。
多分、祥子も一枚噛んでいる。
「でしょう? でもね……中々興味深い話が出来たわ。きっと私と可南子ちゃんの相性自体は悪くないんだと判るくらい」
お、と。
珍しい事を言い始めた祥子に令が口を挟もうとしたが、その機先を制して祥子は続けた。
「でもそれは私と祐巳とも、私とあなたとも、全く違う意味での相性でしょうけれどね。世間一般的に”仲良く”はなれないわ」
姉妹とも。
友人とも違う。しかも”仲良く”はなれない。
「相性が良いんじゃないの?」
混乱した令がそう問うと、祥子は頷く。
「気兼ねなく言い合える、と言う意味よ。全部を言わなくても相手は理解して反論してくるでしょうし、私も同じことが出来る」
そんな相性の良さは願い下げだ。しかも反論が前提になっている時点で口論しているではないか。
令はげんなりと顔を顰めた。
可南子ちゃんの話題が出たことで丁度良い機会だと思った令は、カップに残っていたオレンジペコをぐいと飲み干して聞く。
「そんな微妙な相性の可南子ちゃんは一応祐巳ちゃんの妹候補だけど。そこのところ、どう?」
祥子は眉根を少しだけ寄せて、けれど予想の範囲内だったようですぐに表情を戻して言った。
「なるほど、そう繋がる訳ね。祐巳を心配するより先に由乃ちゃんを心配してあげたら?」
「祐巳ちゃんを心配してる訳じゃないよ。いや、勿論良い妹を見つけて欲しいと思う。由乃も勿論。ただ私が聞きたいのは、祥子はどうなのってこと」
かちゃり、と微かな音を立てて祥子はカップを取る。
「どう、ね」と漏らしてから一口煽ると、令を見て少しだけ首を傾げた。
「私は何も。祐巳が選んだ妹が妹だから、私は例えそれが誰でも受け入れるつもりよ。ちなみに可南子ちゃんは有り得ないそうだけれど」
「でも判らないよ?」
「まぁ、確かに未来の話は誰にもね。でも私はきっと無いと思うわ。本人の口から直接無い、と聞いたこともあるけれど……可南子ちゃんは妹にはなれない子だと思うの。妹を導く姉にはなれるでしょうけれど、姉を支える妹には難しいのではないかしら」
再び飛び出た祥子の可南子ちゃん評に、令はふむと頷く。
令は可南子ちゃんの事を詳しく知っている訳ではないので、祥子がそう言うなら反論する術は無い。反論が必要な話題でも無いだろう。
正直なところ、可南子ちゃん評は会話の主題では無いのだし。
「でも立派ね、そうはっきり言えるなんて。私は無理だなー」
空になったカップをぴんと爪弾き、令は愚痴るように呟いた。
祥子は言葉無く静かにカップを傾けるところを見る限り、言葉の続きを待っている。
令は溜息をついて続けた。
「妹作れ妹作れって言ってるけど。まぁ実際今の次期になって影も形も無いってことは問題だとは思うんだけど。いきなり「この子妹にしたから」なんて言われたら、私は冷静で居られる自信が無いわ」
「まあ、無理でしょうね。しかも由乃ちゃんならやりかねないわ」
くすくす笑って祥子は、カップをソーサーに置いた。
そして机に両肘を突いて、組んだ手の甲に顎を乗せる。
「でも勘違いしないで。私だってそろそろ祐巳に妹が出来ても良いかなとは思っているけど、「この子を妹にしました」「そうなの、宜しくね」なんて初めから寛大に振舞えるとは自惚れていないわ。妹を選ぶのは祐巳の自由。それなら孫をいびるのも私の自由よね?」
「いびるって」
令が苦笑しながら繰り返すと、祥子はにこりと笑って(ああ、物凄い、笑みだ)言った。
「祐巳の所有権なんてものは存在しないけど、もし存在するならリリアンに割り振られたそれは現在殆ど私が牛耳ってることになるわ。それを半分ほどごっそり持っていくんだから多少のオマケは我慢してもらわないと」
「口うるさい小姑とか?」
「あるいは、山積みされた雑用」
祥子はすぐに「冗談よ」とは自己フォローしたものの。
割と本気の目だった。
〜 〜 〜
結局さっぱり仕事にならなくなった二人は、それから早々に後片付けをして薔薇の館を後にした。
多少の雑用と雑談をこなしたくらいの残業時間では、まだまだ元気な夕焼けが銀杏並木を照らしている。
しかし、吹く風の肌寒さが秋も深まりつつあることを静かに告げていた。
「時間が経つのは早いね」
二人並んで歩く真っ赤な歩道の上で、令の口を付いて出たのはそんな有り触れた一言だった。
沈み往く太陽を見ているとそんな感慨が襲ってきたのだ。
由乃と夕焼け並木を歩いたのはつい最近のことだと思っていたが、それから花寺の学園祭を超えて修学旅行を迎えて。
その時の話題は令と由乃の関係性。
今の話題は由乃とその妹の関係性。勿論祥子的には祐巳ちゃんとその妹の関係性なんだろうけれど。
時間が経つのは早い。本当に。
令はそう思った。素直にそう思った、だからこそそんな言葉が唇を割って飛び出たのだ。
「そうね」
数秒の間を持って、隣から返答があった。
続いた。
「早いわ」
短い、とても短い二つの言葉。
だけどそれ故に、その二語にとてもとてもたくさんのことが込められているような気がした。
「妹、出来るんだろうね」
由乃に。祐巳ちゃんに。
それは必然、薔薇の称号を冠する彼女らに取っては絶対の義務だから。
勿論本当は義務なんて無いけれど、それを一切に無視出来るほどに彼女らは無責任じゃない。
自分達の立場が判っていないこともない。
だから妹は必ず出来るだろう。近いうちか、それとも遠い先かに。
「そうね」
またしても祥子からの返答は短い。
横顔を覗き見ると、燃えるような夕焼けを漠然と見詰めているような、それで並木道の先を強かに見据えているような、微妙な目でただ前を向いていた。
ただ前を向いていた。
その意志が余りにも祥子らしい。
令も習って前を向く。
辺りを焼き尽くすかのような真っ赤な斜陽は鮮やかに色付いた銀杏を照らして、時折拭く木枯らしがその葉を揺らした。
ざあとなる梢達の囁きが何処か物悲しい。
隣に由乃が居ない。それは勿論寂しいことだけど、それ以上に。
由乃の隣に、自分でない誰かが並ぶこと。
ちょっとだけ想像してみたそんな未来予想図が胸中の空虚さを後押しした。
現段階ではそれは余りにも不自然に思えたけれど、それはいずれ何の違和感も無い普遍な光景になってしまうんだろう。
微笑ましい。
なんて、思えない。今はただ寂しい。
切ないと言い換えても良いだろうか。
令はそこまで由乃に依存しているつもりは無いけれど、秋特有のセンチメンタルな感傷として切り捨てるにはやや具体性に過ぎる。
燃え盛る真っ赤な夕日の真中に、由乃の顔が浮かんだ。
今頃イタリアで何をしているのだろうか。
〜 〜 〜
「祐巳に妹が出来る。由乃ちゃんに妹が出来る。そうなった時点で、祐巳達は妹から姉になるわ」
正門で分かれる際、祥子は言った。
「私達の妹であることは代わらないけれど、私達が今お姉さま方に頼らないように、祐巳達も私達を頼らなくなる」
長い髪を棚引かせて、くるりと半回転。
背中を向けた祥子はぽつりと漏らす。
「いろんなものが移り変わってゆく。スライドしてゆく。妹になって巻き込まれて、妹に妹が出来て取り残されて。姉妹制度は、そういうものなのかも知れないわね」
ごきげんよう、と。
更に小さな声で告げて祥子は歩き出した。令が背中に告げた「ごきげんよう」と紅い夕日を背負って。
〜 〜 〜
いろんなものが移り変わってゆく。スライドしてゆく。
姉から妹へ。更にその妹へと。
それはロザリオだったり、一緒に過ごす時間だったり、生活で占める相手の割合だったり。その中に”愛情”なんて要素も含まれているなんて思いたくはないけど。
きっと姉妹制度の絶頂期なんてものもスライドするのだろう。事実、半分はスライドしていることを自覚している。お姉さまだった鳥居江利子が卒業してしまったから。
現在令と由乃は一緒に絶頂期を分け合って楽しんでいる、でも由乃に妹が出来ればそれは由乃一人のものになる。
姉に甘えて、妹を導いて。
それは散々去年の令が感じた幸せだ。
だから由乃にもその幸せを受ける権利がある。そんな事は判っている。
でも――。
「お姉さまが羨ましい、かな」
令は立ち尽くした家の玄関の前で、らしくも無く一人呟いた。
妹の妹とのじゃれ合いを心底に面白がっていた江利子さまは、きっと最高に楽しい一年を過ごせた筈だ。
先代の薔薇さま方の中で、姉を最も良く楽しんだのは間違いなく江利子さまだろう。
余裕がある、なんて簡単な言葉で言い切れる方ではなかったけれど、基本的にはもう令も同じ立場に居る。
だと言うのにこの落差。さすがにげんなりする。
でもいつまでもこのままでは居られない。
由乃には由乃の立場があるし、令が高等部を卒業するのはもう半年先にまで迫っているのだから。
令と由乃と、その妹。
さすがに去年の令達と同じような関係を築き上げることは出来ないだろうけれど、その必要は無い。
新たな三人なら新たな関係を築けば良いだけだから。
あの頃の令達とは違う、けれどあの頃の令達と同じように笑いあえる三人の姿。
それは色々な意味で夢のような光景だった。
出来るのかな、私?
出来るのかな、由乃?
呟いただけの問いに答えは当然無くて、何となく振り返って見た夕日の中に由乃の顔はもう見えない。
今頃、イタリアで何をしているのだろうか。
少し前に考えたことと全く同じことだったけれど、胸を掠める寂しさはほんの少しだけ和らいだ気がした。
それはきっと、微かにだけ予想して期待した夢のような光景のお陰に他ならなかった。