【98】 理想と現実タヌ・キネンシス  (柊雅史 2005-06-25 03:39:31)


何度舞台に上がっても、どれだけ練習を重ねても、誰だって本番直前は緊張するもので。
いやもしかしたら、それは舞台に上がった経験が多い者ほど、真剣に練習を重ねてきた者ほど、余計に緊張するものなのかもしれない。
学園祭、山百合会の演劇舞台。
これで3度目となる舞台になるわけだけど、祐巳は去年や一昨年と変わらない緊張感を感じていた。
すーはー、すーはー、と深呼吸。それで少しは心が落ち着いた。
「……?」
少し落ち着いたことで余裕が出来たからか、そこで祐巳はおかしなことに気付く。
これだけ祐巳が緊張しているのに、普段であればすかさず話しかけてくれて、緊張を解いてくれる相手が話しかけてこない。
おかしいな、と思って視線を巡らせた祐巳は、きゅっと唇をかみ締めたまま、じっと舞台を睨んでいる彼女の姿を発見した。
「――瞳子」
呼びかけてみるけれど、祐巳の声は瞳子に届いていない様子だった。
「瞳子、瞳子ってば」
ぽんぽん、と祐巳が歩み寄って肩を叩くと、瞳子はビクッと体を震わせて振り向いた。
「お、お姉さま……驚かさないで下さい」
「何度も呼んだわよ」
祐巳が苦笑すると、瞳子は「そうですか……」とバツが悪そうに視線を逸らした。
「……もしかして、緊張してる?」
「当たり前ですわ。舞台の前はいつだって緊張するものです」
「瞳子ほどの女優でも?」
「女優だから、ですわ。――舞台では、絶対に失敗できませんもの」
瞳子が少し青い顔で毅然と答える。
去年の瞳子もこんな感じだったのだろうか。去年、演劇部の舞台に遅刻してしまった祐巳を待ちながら、瞳子はこんな風に緊張と戦っていたのだろうか。
そう考えると、少し申し訳ないような気がして――祐巳はそっと、瞳子を後ろから抱きしめた。
「大丈夫。私、瞳子の演技、好きよ。瞳子なら、絶対に上手くできる」
「……そんなの、当たり前ですわ」
少し口を尖らせて答えながら、瞳子は祐巳の腕にそっと手を重ねる。
「だって、お姉さまと一緒ですもの……」
舞台の開始までの数分間。
祐巳と瞳子はそのまま、お互いの温もりを感じ合っていた――




――と、なるハズだったのだ。





「う、うわ〜ん、どうしよう、瞳子! 頭の中真っ白だよぅ!」
「落ち着いてください、お姉さま。昨日の練習では完璧だったではありませんか。ほら、深呼吸してくださいませ」
「う、うん。……す〜は〜、す〜は〜……」
「いかがです?」
「だ、だめぇ……心臓、飛び出ちゃいそう……」
「な、情けない……情けないですわ! これで3度目ではないですか」
「そ、そうだけど……」

最初の誤算は3度目を迎えて下手に余裕が出来てしまった祐巳が、失敗を恐れるだけの余裕を獲得してしまって、一向に落ち着けなかったこと。
そしてもう一つの誤算は、普段は繊細で実は脆いところもある妹が、こと演劇のこととなると物凄く頼もしかった、ってことだ。
祐巳がちょっと描いていた、妹を励ますお姉さま、なんて甘い幻想は、現実を前に儚く散ってしまった。おろおろする姉と、そんな姉を必死に励ます妹。それが厳しい現実の光景である。
「全く、もう……」
おろおろする祐巳の手を、瞳子がぎゅっと握ってくる。
「大丈夫ですから、落ち着いてくださいませ。落ち着くまで、こうしていますから……」
握った手から伝わる瞳子の温もりに、祐巳はほんの少しだけ、落ち着きを取り戻すのだった。





現実は、理想のように甘くはない。
それを実感した祐巳だったけれど。
(いや、やっぱり……甘い、かな。違う意味で)
本番までの数分間。
祐巳と瞳子は、ずっと手を握り合っていた。


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