『がちゃSレイニー』
† † †
「お待ちください。祐巳さまっ!」
突然背後から声がかかり、瞳子は祐巳さまと繋いでいた手を慌てて離す。
祐巳さまはどう思っているのかわからないけれど。ああ、あの表情は単に驚いているだけですわね。
「祐巳さま、ごきげんよう」
どこかで聞いたことがある声色だと思い振り向くと、果たしてそれは可南子だった。
細川可南子。お昼休みに教室で少し険悪になってしまった。あの時は悪いことをしたとは思うけれど。自棄になっていたけれど。しかし瞳子の謝罪しようという気を削ぐこの雰囲気。
それに、一緒にいる敦子さんと美幸さんも、心なしか緊張している様子。
「「ご、ごきげんよう、祐巳さま」」
「可南子、ちゃん? それに皆さんも。あっ、ごきげんよう。あの――」
「いったい何なんですの。そんなに大きな声を出さなくても聞こえますわ」
祐巳さまが驚きから回復して、可南子たちと挨拶を交わす。
祐巳さまは気付いていないのだろうか。彼女達の雰囲気は変わらない。
だから瞳子は、祐巳さまの挨拶に続けて疑問をぶつけてみたのだ。
「ごあいさつね。暴れて教室を飛び出すよりも、まだかわいいと思いますけれど」
「……」
「少し、瞳子さんにお聞きしたいことがあるんです。祐巳さまは、どうぞ手出し無用に願います」
「えっ?!」
祐巳さまの発言を封じたと言うことは、祐巳さまに聞いていてほしい瞳子の話。
祐巳さまは何故なのかわからない、と言った様子だが、構わず可南子が話し始める。
「瞳子さんは以前から薔薇さまの妹になりたいって言ってたのよね。薔薇さまにもなりたいと」
「そのために祐巳さまの妹になるおつもりなのかしら?」
美幸さんが続ける。これで可南子たちの雰囲気の理由がはっきりした。瞳子へのこれは、詰問。
昼の騒ぎで飛び出した後、放課後に祐巳さまと姉妹になった。その瞳子の真意を問い質しにきたのだろうか。
確かに、かつて瞳子は薔薇さまになることを夢見た。高等部に入り、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)となった祥子お姉さまと姉妹になり、後を継いで薔薇さまになるのだと。瞳子の望みは祥子お姉さまの妹だった。
それは否定しない。だが現実は、祥子お姉さまが選んだのは、瞳子ではなく祐巳さまなのだ。
そして、今までずっと祐巳さまを見てきた瞳子が出した結論。祥子お姉さまの妹は祐巳さま以外考えられない、ということ。
どうして?
祥子お姉さまを前向きにさせる祐巳さまのことが気になって、いつも観察していた。そして瞳子自身、予想もしていなかった事態となった。
そんな祐巳さまを瞳子が好きになってしまったこと。祐巳さまに惹かれる自分に気が付いてしまったこと。そのことが原因で、ずいぶんと悩んできた。
「違います。そんなことのために祐巳さまと姉妹になるわけではありませんわ」
薔薇さまになるために、薔薇さまの妹になるなんてことはしない。それこそ瞳子のプライドが許さない。そんな理由で姉妹になることは、相手を侮辱しているのと同じ。
だから今の言葉は可南子たちに答えたのではない。
「じゃあ紅薔薇さまのことは? 紅薔薇さまに近づくために、祐巳さまを遠ざけたと聞いたけれど」
「あの梅雨の下校時間、祐巳さまが傘もささずに雨に濡れていらっしゃった。その時瞳子さんは、紅薔薇さまと寄り添うように車に乗って去ってしまわれたとか」
三人の詰問の手は止まらない。このついでに洗いざらい聞くつもりなんだろう。
「確か瞳子さんは紅薔薇さまとご親戚の間柄でしたわよね。紅薔薇さまのことで、瞳子さんが祐巳さまを罵っていたこともありましたわ」
「あの時の瞳子さんは、それはすごい剣幕で。祐巳さまを一方的に責めていたのに……」
瞳子と祐巳さま、古い温室で互いの理由は打ち明けられたからいい。だけど周りは何も知らないのだ。自身の軽率な行動の結果だった。自業自得、そういう言葉たちが頭を過る。
だけど、いまさら言い訳をするつもりも無い。祐巳さまにわかってもらえれば、それで良いと思った。
「それとも……紅薔薇さまの替わりに祐巳さまなのかしら?」
「違うっ!」
瞳子の考えは、可南子の言葉で打ち消された。もちろんその答えはノーだ。
それに。祐巳さまが瞳子を選んだ。その選択を否定されるのは、祐巳さまが愚かだと言われているようで嫌だ。
(そこまで仰るのなら、私は全力でお相手します)
「み、みんな落ち着いて。ね? それは誤――」
「祐巳さまっ!」
祐巳さまの手を取り、祐巳さまが口を出そうとするのを制止する。これは可南子たちと瞳子の戦い。祐巳さまの力を借りることはしたくない。
「申し開きがあるなら、どうぞ仰ったらどうなんですか?」
「……」
それに、あの時のことを説明するわけにはいかない。彩子お祖母さま、祥子お姉さまの不幸を理由にしてはいけない。だから瞳子には、他に言える言葉が見つからなかった。
否。一つだけある。今まで誰にも言わなかった想い。言えなくなってしまった言葉は、いつから口に、声に出せなくなってしまったのだろう。
瞳子は両手をぎゅっと握り締めた。そして今なら言えると思った。
「私はずっと祐巳さまを見てきました。私は祐巳さまが好きなんですっ! たとえ祐巳さまが紅薔薇さまと姉妹を解消しようとも、たとえ祐巳さまが薔薇さまになれなくても、私と祐巳さまは姉妹ですっ!!」
叫んでしまった。
「瞳子ちゃん。あの、嬉しいんだけれど、それはちょっ――」
「祐巳さまは黙っててくださいっ!!」
祐巳さまは不服そうだけれど、この場は仕方がありません。
(あとで謝りますので、どうぞこの場はお許しください。祐巳さま)
「迷いは無いの?」
「ありません。薔薇さまになるとか、紅薔薇さまは関係ありません。私が姉と決めた方は祐巳さま、それだけです。ですが、他人に信じてもらおうとは思っていません。祐巳さまにさえ信じていただければ、それでいいんです」
そう。薔薇さまの妹だから薔薇さまになれるというわけでもないのだ。山百合会の会員である生徒に、認められなくてはならない。
(今の私では到底無理ですわね。嫌われていますもの)
「瞳子ちゃん。それは本当なのね?」
「「ロ、紅薔薇さまっ!! ごっ、ご、ごきげんようっ!!」」
「お、お姉さま!! あの、えっと……」
「ごきげんよう皆さん。祐巳、少し騒がしかったので見に来ただけよ」
いつの間にいらっしゃったのか、祥子お姉さまが立っていた。そして、かなり焦っている祐巳さま。
かくいう私も驚いているが、そんなことは無視して祥子さまは瞳子に訊ねる。
「で、どうなのかしら?」
「……嘘は申しません。何が起ころうとも、私の姉は祐巳さまただお一人。それを疑い咎めるというのなら、たとえ紅薔薇さまが相手でも戦いますわ」
「そう、たいした自身ね」
と周りを見る祥子お姉さま。いつのまにか人だかりが出来ていた。部活の帰りだろう、先ほどよりも人通りが多い。この騒動で立ち止まって成り行きを見守っている人。リリアン女子大の学生もいるし、見知ったクラスメイトもいる。ここはマリア様の前なのだ、当然と言えば当然だった。
そんなことを考えていると、急に恥ずかしくなってきた。前代未聞。人前でなんてことを……。
(と、瞳子は女優なのです。こんなことで、あがってどうするんですのっ)
「でも瞳子ちゃん。カナダ行きはどうなったのかしら? それに、二学期から転校すると聞いていたのだけれど、日本に残ったのはどうして? なぜ今になって行こうと思ったのかしら」
夏休み、日本に残ると決めたのは瞳子。ビザ申請の手続きを始めたのも瞳子。
「それは……私が」
「だったら、どうするか決めるのは貴女、よく考えなさい。私たちは何も言わなくてよ。良いわね、可南子さんたちも」
「……」
「「は、はいっ」」
「私はまだ用事があるから。祐巳、先にお帰りなさい」
祥子お姉さまは、いつものように祐巳さまのタイを直す。その手が止まる。
「渡したのね」
「……はい」
「そう……」
それだけ呟くと、祥子お姉さまは踵を返して校舎の方へ歩いていった。
「瞳子さん。あなたの想い、確かに聞いたわよ。覚えておくわ」
「「ごきげんよう。祐巳さま、瞳子さん」」
「ごきげんよう……」
可南子たちも祥子さまの後に続く。上履きのままなのだから当然だろう。
周りを取り囲んで見ていた他の生徒たちも散り散りとなっていった。
瞳子と祐巳さまも正門をくぐりバス停へと向かう。
「はー、びっくりした。瞳子ちゃんと可南子ちゃんたちが喧嘩になりそうなんだもん」
「はぁ……」
祐巳さまはそう言うが、みんなも溜まっていたのだろう。この数ヶ月間、ずっと嫌な雰囲気だった。
おまけに昼間の暴走。この機会にそれが爆発しても不思議はない。可南子が先頭に立ってきたのは解せないけれど。
今日はとても疲れる一日だった。あと、カナダのことを何とかしないと……。
「祥子さま、明日は少し早く薔薇の館に来なさいって言ってらしたけど。瞳子ちゃんも行かなきゃ、だよね。やっぱり」
「ええ……」
カナダのこと。『どうするか決めるのは貴女』
さっきから祥子お姉さまの言葉が、頭の中でこだましている。
「まだ聞きたいことがあるから、私の家に来て。今日はお泊りね」
「じゃあ僕が送ろう。松平家に寄ってから祐巳ちゃんの家だね」
「えっ。か、柏木さん……もしかして昼からずっと待っていたんですか?」
「いやぁ、待ちくたびれたよ。瞳子がなかなか出てこないからね」
「あ、でも――」
「気にしなくていいよ」
祐巳さまと優お兄さまの微妙な会話が聞こえる。
オトマリとは何か? 確か、宿泊すること。また、泊まる所。
「…………はあ?」
「何、変な声を出してるんだい、瞳子。さぁどうぞ祐巳ちゃん」
後部座席のドアを開けて待っている、優お兄さま。
おかげで祥子お姉さまの言葉。見えそうだった答えが霧散してしまった。
瞳子はどうしたいの? 瞳子はどうすれば良いの? 瞳子は……どうするの?
車の外を流れる光の帯を、ぼんやり眺めながら答えを探す。
そんな瞳子の手を、祐巳さまが上から包んでくれた。