もちもちぽんぽんしりーず
【No:1878】―【No:1868】―【No:1875】―【No:1883】―【No:1892】―これ
「ねぇ、シンデレラ、あなたも舞踏会に行きたい?」
「えーと、まぁ、からかわないでくださいな。私なんかいけるはずないじゃありませんか?」
「オッケー。」
桂さんの言葉に、私は「よしっ。」と声を漏らした。
隣とそのまた隣に座る志摩子さんと蔦子さんからぱちぱちという拍手の音が聞こえる。
「とりあえずほとんど覚えてるじゃない。」
「きっと大丈夫だと思うわ。」
土曜日曜と二日休みを挟んで月曜日
私と桂さん、蔦子さんそして志摩子さんの4人は、講堂の裏でお弁当を食べつつ文化祭に向けて練習をしていた。
「でも、聞いたときは本当に驚いたわ。まさか祐巳さんがシンデレラだなんて。」
桂さんは台本をぺらぺらとめくっている。
「でも、祐巳さんらしいって言えばらしいわね。」
「ずいぶん待ったのよ。」
蓉子さまの言葉に、私の体は歓喜で溢れそうだった。
「申し訳ありません。」
謝っているはずなのに顔がにやける。
「まったく。」
それを咎めるはずの蓉子さまも、どことなくに嬉しそうだからお相子ってやつだろう。
「蓉子、嬉しいには分かったから、その子を紹介してもらえない?」
紅薔薇さまの言葉にここがどこであるかを思い出す。
蓉子さまも同様のご様子で、一瞬はっとした顔をした。
「あ、はい、えー・・・」
少し考えた後、蓉子さまは私の横に移動して右手を背中にまわすと軽く押した。
どうやら私が言え。ということらしい。
「い、一年桃組35番福沢祐巳です。」
頭を下げてクラスと名前を言う。
「フクザワユミさんね。漢字でどう書くの?」
紅薔薇さまは腕を組んで聞いてきた。
「福沢諭吉の福沢、しめす偏に右で祐、巳年の巳です。」
「目出度そうで良いお名前。ねぇ?」
白薔薇さまは聖さまに話しかけている。
勢いでここまで来たものの、蓉子さまにあった後のことを一切考えていなかった、どうしよう。
「それで、蓉子は祐巳さんをスールにするつもりなのね。」
「はい。」
お二人のはっきりとした声に、今の事態をゆっくりと理解し始める。
「ロザリオはいつ渡すの?」
「別に今でもかまいませんが。」
「そう。」
私が事態を認識している間にも事態はどんどん進む。
「じゃあ、お願いするわ。」
「はい、祐巳ちゃん。」
蓉子さまは私の肩に手を載せた後くるっと回転させ、蓉子さまと私が向かい合うようにたった。
「じっとしててね。」
言葉とともにセーラー服の襟のところに指を入れると、『ちゃら。』と金属音がする。
「わぁ。」
何故かとっさに体が動き蓉子さまの腕をつかんだ。
「な、何?」
いきなりの行動に少し驚かれた様子。
「い、いえ、なんとなく。」
そう、なんとなく。
「祐巳ちゃんは蓉子の妹になりたくないの?」
「いえ、とてもなりたいです。」
紅薔薇さまの問いに間髪あけず答えた。
「じゃあ、この手は何?」
「あー、そのー・・・私なんかが紅薔薇の蕾の妹になってよろしいんでしょうか?」
そう思っちゃうのだ。
「だって、私、蓉子さまみたいに頭良いわけでもないし、志摩子さんや由乃さんみたいにかわいいわけじゃないし。」
しりつぼみで、かつ言ってることは情けないけど、だって思っちゃうんだもん。
「別にそんなの気にしなくて良いのよ。」
蓉子さまは優しく言ってくれる。
「そうなんですか?」
不安。
私が此処にいて良いんだという
私が蓉子さまの隣にいて良いんだという確固たるものが私には無い。
「くすっ、祐巳さんは不安なわけね。」
白薔薇さまが笑いながら。
「ねぇ、提案があるんだけど良い?」
紅薔薇様と黄薔薇さまが何も言わず白薔薇さまを見た。
「今度の文化祭、山百合会はシンデレラをやるのだけど、貴女シンデレラをやらない?」
「は?」
私の口から出た言葉を無視して話を先に進める。
「要は資格があるかどうかが不安なんでしょう?だからテストするのよ。
そして、その出来を紅薔薇さま、つまり祥子ね、が審査するの。どうかしら?」
「私は構わないわ。」
「私も構わないけど。」
白薔薇さまが目でそれぞれの薔薇さまに問うと、了承が2つ。
「蓉子ちゃんは?」
私は蓉子さまを見た。
蓉子さまも私を見た。
「・・・祐巳ちゃんが良いと言うなら。」
「祐巳さんは?」
白薔薇さまの声が遠くから聞こえてくるみたいに感じる。
私は蓉子さまの目を見たまま答えた。
「はい、やらせてください。」
「さすが主人公、ずいぶんな量ね。」
蛍光ペンで印のしてあるところを桂さんは指でなぞっている。
「志摩子さんは全部覚えたんでしょう?」
「ええ、でもシンデレラって初等部でも中等部でもやったから。」
蔦子さんの質問に答えた志摩子さん。
確かにシンデレラをやる場合、間違いなく志摩子さんが選ばれる気がする。
「はー。」
それに比べて私ときたら。
「でも祐巳さん、今やったら結構出来たじゃない。」
「ありがとう、桂さん。」
お褒めの言葉が疲れた脳に沁みる。
『とりあえず練習は来週から始まるから、週末に一通りは覚えてきてね。』
蓉子さまに言われてしまったものだから、週末は常に台本を手にしていた。
「文化祭まで2週間か。私も写真部で大忙し。」
「ちゃんとお姉さまと見に行くわよ。」
「あら、それじゃ祐巳さんとの浮気写真でも出しておこうかしら。」
「それは止めて、蔦子さん。」
2人のやり取りに志摩子さんとクスクスと笑う。
(お姉さま・・・か)
その日の放課後、私は掃除場所の音楽室にいた。
此処は他のところに比べて楽なので嫌いではない。
「もう、終わりにしましょう。」
クラスメイトの一人の呼びかけで後片付けを始めていると、ガラガラという音とともに入り口のドアが開いた。
「ごきげんよう。」
「ご、ごきげんよう、紅薔薇の蕾。」
突然の登場に皆が口々に挨拶をする。
それら一つ一つに微笑みを返す蓉子さま。
「福沢祐巳さんに用事があるの。」
その言葉に、言った本人を含め全員の視線が私に集まる。
「な、なんでしょう?」
「練習場所へ案内するのよ。・・・皆さん、今度の文化祭で山百合会でシンデレラをやるの。」
私以外が、大なり小なり「キャー。」と声を上げた。
「配役は、まだ秘密だけどね。それで、祐巳さんを山百合会に居ないタイプということで是非とお誘いしたの。楽しみにしててね。」
「はい。」
クラスメイトは、頬を赤くさせながら(頭の中で劇を想像しているのだろう)返事をすると、「鍵は閉めていくからお帰りになって良いわよ。」と言う蓉子さまに、「頑張って下さい。」「必ず見に行きます。」と言って、部屋を出て行く。
私も、「羨ましい。」とか「羨ましい。」とか言われたけど、どこか納得しているようだった。
誰も居なくなって2人。
「・・・まるで私がピエロみたいじゃないですか。」
ちょっとだけ頬を膨らまして怒ってる感じにする。
「私は褒め言葉で言ったのよ。もっとも。」
蓉子さまは、口を少しだけ上げて笑う。
「相手がどう取るかは自由だけど。」
・・・それで分かった。
「それと、新聞部にも言っといたわ。ただ、劇が終わった後にコメントを載せるって条件だけどね。」
私のために色々やってくれたんだ。
「蓉子さま。」
「祐巳ちゃんを妹にするためだもの。」
そう言ってなんでもないことの様に笑う蓉子さまをやっぱり大好きだと思った。
「ダンスですか?」
「そう。」
隣に立つ紅薔薇さまの問いに首を横に振って「いいえ、無いです。」と答える。
「そうなの?黄薔薇さま。」
「何?」
黄薔薇さまはCDラジカセにCDを入れていた。
「ダンスって2年生からだったかしら?」
「多分そうだったと思うけど。」
答えながらスイッチを入れると、体育館中に音楽が響き始める。
目の前では、ダンス部が円状になって踊り始め、その中心で蓉子さまは聖様と、志摩子さんは江利子さまと踊っている。
「うわー。」
これこそ贔屓目が山ほど入ってるかも知らないけど、ステップを踏む蓉子さまは誰よりも綺麗だと思った。
蓉子さまはなんとなくダンスよりも日本舞踊が似合いそうな気がしていたけど、澱むことなく緩やかに鮮やかに舞う姿に目を引かれる。
「まぁまぁかしらね。」
「これでですか?」
紅薔薇さまは意外と辛口なんだろうか。
「そんなに厳しいわけじゃないわよ。」
「えっ?」
「くすくす、貴女って顔に出やすいタイプなのね。」
「うーあー。」
何にも言い返せない。
「体育で初歩はやってるし、聖ちゃんも江利子ちゃんもかなり器用だからそこそここなしてるんだけど、細かいところで合ってないわね。」
「蓉子さまと志摩子さんは?」
「蓉子はきちんと予習してきたようね。それと志摩子ちゃんは、日舞をやってたらしいから覚えが早いわ。」
そこまで分かるってことは、やっぱり紅薔薇さまの腕前は相当なものなんだろうか。さすがお嬢様。
「でも、真面目過ぎる蓉子がどうなるか楽しみね。」
横目でこっちを見てくる。
「祐巳ちゃんがどう絡んでくるかしらね。」
「あ・・・はい。頑張ります。」
その言葉に、今から目の前で行われていることを自分がしないといけないことに気付き、ちょっと落ち込む。
音楽が止まると、紅薔薇さまは立ち位置や足の運びの指導で隣を離れた。
「どう?慣れそう?」
紅薔薇さまの代わりか、少し離れた位置に居た白薔薇さまが近づいてきた。
「見てるだけで挫折しそうです。」
正直な感想を言う。
「祐巳ちゃん、スリッパ脱いで。」
「え?はい。」
言葉に従ってスリッパを脱いだ途端、白薔薇さまに手をとられた。
「さ、行くわよ。」
「何処にですか?」なんて言う間もなく、ダンス部の間をすり抜けて円の真ん中へ連れて行かれる。
「実際にやってみたほうが早いわよ。手を出して。」
「はい」
「ワルツだから3拍子ね。123、123。」
「・・・はい」
「顔を上げて。」
「・・・はい。」
そうは仰いますが白薔薇さま、視線が痛いんですよ。
ダンス部の方も紅薔薇さまの隣に居たときからちらちら見ていたし、ましてや円の中。
そして、お相手が白薔薇さまなんですよ。
360度全ての角度から、びりびりと音がしそうな視線を感じる。
もし心が読めたなら、「あんた何様!?」の大合唱が聞けること間違いなしだと思う。
「ねぇ祐巳ちゃん、蓉子ちゃんの妹になりたくないの?」
耳元でそっと囁かれる。
「なりたいです。」
「じゃあ顔を上げて。」
「はい。」
下げていた顔を上げると白薔薇さまの顔が「良く出来ました。」とでも言っているように笑っていた。
音楽が流れ出す。
(123,123・・・)
視線はまったく衰えないけど、私には気にしてる余裕なんて無かったんだ。
頭の中のリズムだけを頼りに足を運ぶ。
「上手上手、少しくらい足を踏んだって良いから。」
白薔薇さまの声にほっとする。
そんな気の抜けた瞬間、視界の端に蓉子さまが入った。
(蓉子さまだ。)
「余所見をしないの。」
注意の声に、慌てて頭の中から蓉子さまを押し出そうとする。
(123、123,123、・・・)
結局、一時間半の練習で両手の指の数以上余所見をして注意された。
かちこちになった体を精一杯伸ばす。
「ふふっ、そんなに疲れたの?」
「だって、ダンスなんて初めてなんですもん。」
口ではそう言っても、蓉子さまと2人での帰り道、心の中はうきうきしていた。
「それにしては上手だったわよ。」
「本当ですか?」
「でも、何回も注意されていたようだったけど?」
「・・・あはははは。」
笑って誤魔化した。
まさか、貴女に見惚れてましたなんて、本人の前で言えるわけない。
「そういえば、文化祭のとき花寺から何人位いらっしゃるんですか?」
話題を変えた。
「生徒会長一人よ。」
「お一人ですか?」
もっと来るものだと思っていた。
「大きな声じゃ言えないんだけどね。」
蓉子さまは立ち止まるとそっと私の耳に顔を近づけてきた。
(キャーーーーーーーーーーーーー!?)
口から出そうになる声を慌ててふさぐ。
「お姉さまって、男嫌いなの。」
「紅薔薇様が?」
「そう。」
蓉子さまは、顔を離してまた歩き出した。
精神衛生上良かったような、残念なような、複雑な心境で後を追う。
「らしいと言えば、らしいでしょ?」
「言われれば、そうですね。」
「ひとつ前の紅薔薇さまにも言われているの。「祥子のためにもお願い。」って。」
「・・・出来るんでしょうか?」
「さぁね。」
そんなことを言いながらも、蓉子さまの顔は出来ないなんて思ってないって感じだった。
蓉子さまがそう思うなら、きっと大丈夫なんだ。
その日の夜
「ねー祐麒、高等部の生徒会長って知らない?」
とりあえず弟の『祐麒』に情報を求めてみる。
「祐巳、俺中等部なんですけど?」
「中等部でも、来年は高等部でしょ。興味とかないの?」
「・・・どんな理屈だよ。まぁ良いや。俺が知ってるのは。」
「うんうん。」
「確か、名字が『柏木』で2年で生徒会長ってことと、」
「ち、ちょっと待って。2年生?生徒会長って2年生でなれるの?」
「なれたんだからなれるんじゃない?それと、成績優秀で格好良くて、家がすごいらしいね。・・・どうした?変な顔して。」
「いや、別になんでもないよ。」
「しかし何でまた急に?」
「今度文化祭の手伝いで来るから知っとこうかな〜って。」
「ふーん。」
王子様がそんなすごい人だなんて。
明日からもっと頑張らないと。
なんとしても紅薔薇さまに認めてもらうんだから。
でも、眠りに落ちる瞬間いつも思うんだ。
思うだけだった今までに比べて
頑張れば妹になれるんだ。
なんて幸せなんだろう。
今回は説明に費やしてしまいました。ある意味前編後編の前編なので仕方ないのですが山場を作れなかったな。ピアノ入れようと思ったんですが、なんか無理やりな感があったので諦めました。それとくま一号さん、残念でしたね。(オキ)
今回は本当に難しかったです。ほんとに山場が無かった気がする。(ハル)
設定
令を蓉子に、由乃を祐巳に。
性格はいじらない。
「でね、桂さんったら・・・」
先日、リリアン中等部を卒業した私、福沢祐巳は数週間後に始まる高等部の生活に胸躍らせながら春休みを過ごしていた。
「じゃ、またね。」
「うん、じゃあね。」
別に宿題があるわけじゃないから、今日も蔦子さんとK街に行ってきた帰りだった。
日ももう落ちかけていて門限が近いことを知らせる。
駆け足気味で家の門を通り抜けると玄関のドアノブを掴む。
(今日の夕飯は何かな?)
「ただいまー。」
玄関に入ると
「あれ?」
見慣れているけど、本来此処にあるべきではない靴がある。
「おかえり、祐巳ちゃん。」
何故かいつもならしないのに、今日に限ってお母さんが出迎えてくれた。
「あ、うん、ただいま。よーちゃん来てるの?」
土間にある靴は、隣に住む従姉妹の水野蓉子の靴だった。
同じ靴なんていくらでも出回っているけど、そこは血の力とでも言うのかなんとなく分かる。
「そうなのよ、ほら、早く。随分と待ってもらったんだから。」
私を追い立てるお母さんは、言ってることとは裏腹に何故か笑っていた。
「何かあったの?」
疑問に思ってたずねても笑うだけで「秘密。」と言うばかり。
「ちょっと祐巳ちゃん、何処行くの?」
「どこって、荷物を置きに2階に。」
普通帰ってきたら、荷物くらい置きに行くでしょう?
何故かお母さんはそんな常識ぶっ飛ばして、私の手を引いてリビングに向かう。
「今日は良いの。早く早く。」
「わっ、行くから。だから、引っ張らないで。」
どたどたしながらもリビングのドアを開けると
「おかえりー。」
よーちゃんがソファでお茶を飲んでいた。
「ただいまー。なんかあったの?」
お母さんのほうを見ながら言うと、お母さんは「用事がある。」と言って部屋を出て行った。
「んー、正確に言うとこれから起きるのかな?」
ますますもって意味が分からない。
因みに、よーちゃんというのは小さい頃よーちゃんのお母さんが「蓉子の蓉は芙蓉の蓉なのよ。」と言ったのをよーちゃんがそのまま私に言ったので、ただ音だけでよーちゃんと呼び始めた。・・・らしい。
「?どーゆーこと?」
「まぁいいから、祐巳も座ってよ。」
自分の座っていたところから少しずれた。
隣に座れと言うことだろうか。
とりあえず、そこに腰を落とす。
「でね、話なんだけど、祐巳高等部にあがるでしょう?」
「うん。」
「それで、
祐巳をスールに誘いに来たの。」
「え?」
―――パーン、パパーン―――
私の声と何かの破裂音が重なった。
びっくりして周囲を見ると、何処に隠れていたのか、それぞれの両親、私の祖母に弟、よーちゃんの祖父母が出てきた。
何故か皆の手にはクラッカーが握られている。
「祐巳ちゃん、今日はお祝いよ。中華屋さん予約してあるから急いで車に乗ってね。」
「母さん、急いで準備しなよ。」
「はいはい。」
なんだこれは?
「祐巳おめでとう。」
そう言って弟に肩をたたかれた。
と思えば、何故か父親同士が、涙目でカメラを回している。
しかも、何故か両方とも最新式のやつなんだけど、わざわざ買ってきたんだろうか?
なんなんだこれは?
しかも、祖母達は口々に
「おめでとう。」
「蓉子をよろしくね。」
「長生きして良かった。」
「冥土の土産が出来た。」
そう言って、かわるがわる握手を求めてくる。
許されるなら、昔の某ドラマのGパンを穿いた刑事のように叫びたかったが流れで何も言えない。
とりあえず、「ありがとうございます。」「頑張ります。」と返事を繰り返す。
ちらりと横のよーちゃんを見ると、こっちに気付いてちらりと舌を出した。
ここでやっと気付く。
外堀が完全に埋められたどころか、山になっていることに。
向こうでは、父親同士が泣きながら、私とよーちゃんの昔の思い出を語り合っている。
とりあえず、誰か私が何も言ってないことに気付こーよ。
結局、そのままに中華を食べに行ったのだけど、店の人はさぞ驚いたことだろう。
一番年下の私たちが上座に座り、一番年上の人が泣きながらジュースを注いでいるのだから。
「ねえ、お母さん、帰りは祐巳と歩いて帰りたいんだけど良い?」
食事も終わり、男性陣は、一人残らず生きる屍と化してタクシーに投げ込んである。
普段お酒を飲むとこなんて見たことが無いお婆ちゃんですら飲んでいた。
「ほら、防犯ブザーも持ってるし。」
よーちゃんはポケットから紐のついたおもちゃみたいなものを取り出した。
「まぁ、近いから良いかしら?」
お母さん同士で話し合うと、どうやら了承らしい。
「その代わり、真っ直ぐ帰ってくるのよ。」
釘をさすのも忘れずに。
「解ってるわよ。ねぇ?」
「あ、うん。」
突然の振りに慌てて首を縦に振った。
「・・・よーちゃん、ずるい」
時間はまだ8時くらい。
今まで熱狂的な場所に居たから、外の風が気持ち良い。
私は前を行くよーちゃんに不満を言った。
「あんなのずるい。」
「嫌なら言えば良かったじゃない。」
少しだけこちらを向いて答えた。
「だって、完全に私が受けたの前提だったじゃない。私何も言ってないよ。」
「・・・。」
私が話したっきり沈黙。
だんだん不安になっていく。
怒らせちゃったかな?
(妹になりたくないかと言われればそりゃなりたいけど、いくらなんでもあんなやり方はないと思うわけよ。だけどさーいや、悪いのはよーちゃんだよ。完全に完璧に。
でも、もうちょっと私も言い方に気を使っても良かったんじゃない。だって、もしかしたらよーちゃんにも事情があったりなかったり・・・)
「祐巳。」
そう言うと、家に行くには真っ直ぐなはずなところを曲がった。
「よーちゃん、何処行くの?」
私も慌てて角を曲がる。
「よーちゃん。」
「もうちょっとよ。」
その言葉を信じて黙って後をついていく。
着いた先は公園。
住宅街の中にひっそりと結構分かり辛いところにある公園。
「此処がどうしたの?」
「小さい頃ここでよく遊んだでしょう?」
「うん。」
ブランコ、滑り台、ままごと、鬼ごっこ
「ずっと羨ましかったわ。」
「何を?」
「姉妹って同じ家に帰れるでしょう?」
「・・・うん。」
言っていることがなんとなく解った。
私たちは他人じゃない。
でも、家族でもない。
だから、最初から持っていた温かさでは物足りなくなってもどうすることも出来ない。
「もし、祐巳のことを妹だって言えるならこんな嬉しいことはないわ。初等部にこの制度を知ってから、ずっとこの日を待っていたの。」
「でも、あんなことしなくたって。」
よーちゃんはかぶりを振った。
「私は、臆病なの。」
「そんなことないよ。いつだってよーちゃんはかっこよかった。成績優秀で、生徒会長で。私の憧れだったもの。」
「くすっ、見て。」
そう言うと、よーちゃんは手のひらを私に見せた。
それは、細かく震えていた。
「ここ一週間くらい、まともに眠れなかったわ。
私はいつだって、
祐巳にかっこいいところを見せたくて虚勢を張っていたのよ
そばに居なくたっていい
ねぇ祐巳
私の妹になって」
月の光の中に立つよーちゃんはとても弱弱しく見えた。
私は無言でよーちゃんの手を握る。
きっと私は笑っていた。
「帰ろう、『お姉さま』」
「ええ。」
月の下
公園から家に帰る私たちは
確かに姉妹だった。
今回のもちもちぽんぽんがなんか不完全燃焼だったので。思い付きですね。(オキ)
もっと、伏線とか入れたかったな。ただ、最初のほうは楽しかったです。(ハル)
冴子には、一つ年上の幼馴染がいる。
名前は鈴白椿花。
リリアン女学園高等部の二年生で、下級生たちからは尊敬と親愛の念を込めて「紅薔薇のつぼみ」
と呼ばれている。
冴子と椿花は、小さい頃から本当の姉妹のように育てられてきた。
実際、冴子は今でも学校以外の場所では椿花のことを「お姉ちゃん」と呼んで慕っている。
別に家が近所同士という訳ではないのだが、二人の母親は共に学園の卒業生で、しかも在学中
は姉妹という間柄だった為、今でもとても親交が厚く、冴子の両親が仕事で家を留守にする時
などは、冴子はよく椿花の家に預けられていた。
冴子は、いつも優しい椿花のことが大好きだった。
独りぼっちで寂しい時に、そっと頭を撫でて慰めてくれる、そんな椿花が大好きだった。
そして椿花は、冴子を実の妹のように可愛がっていた。
寂しがる冴子を膝枕して、そっと頭を撫でてやるのが大好きだった。
だから冴子が高等部に上がった時、すぐに二人は姉妹になった。
入学式の日の夕方に、茜色に染まるマリア像の前で。
某月某日、私は椿花お姉ちゃんの後ろにくっ付いて、薔薇の館に向かっている。
子供の頃から、私はお姉ちゃんとこうして一緒に歩くのが大好きだった。
もちろん手を繋いで歩くのが一番好きだったけど、先を歩くお姉ちゃんの後ろ姿を眺めながら
歩くのも大好きだった。目の前で左右にぴょこぴょこ揺れるポニーテールのシッポを見ている
のはとても楽しかったし、何よりも、背中越しにでも自分を気にかけてくれている、そんな優
しいお姉ちゃんを見ているのがとても嬉しかったからだ。
あれから時を経て高等部に入った今、真っ直ぐ前を見据えて歩くお姉ちゃんの後ろ姿は、あの
頃よりもずっと凛々しく見える。背は決して高い方ではないのだけれど、細身な上に頭が小さ
いから、姿勢が良いのと相まって、実際よりもずっと長身に感じられるのだ。ただし、後ろか
らでは見えないけれど、その顔立ちは中性的でやや童顔(と言うと怒る)。でも、近眼のお姉ち
ゃんはいつもフレーム無しのシンプルな眼鏡をかけていて、そのせいかとても知的で大人びて
見える。髪の毛はこげ茶色で、昔から少しクセっ毛。密かにクセ毛を気にしているお姉ちゃん
は、最近ポニーテールをやめて、毛先を遊ばせたショートボブにした。
淡々と先を行くお姉ちゃんが、ちょっと辛そうに息をついた。お姉ちゃんは、両手に重そうな
鞄を抱えている。片方には教科書や文房具が詰まっているんだろうけど、多分もう片方には分
厚い本が何冊か入っている。恐らく、お昼休みに図書館で借りていた古典文学シリーズだ。
「お姉ちゃん、荷物片方持ってあげようか?」
「いらないわ。それと冴子、学校では『お姉さま』って呼びなさいって言ってるでしょ。」
「うん、ごめんなさい…『お姉さま』。」
怒られてしまった。二人だけの時とは違って、少し怖い声でたしなめられる。
お姉さまは学校では決して人に弱みを見せない。まあ学校でなくても、お姉さまは私に荷物を
持たせたりはしないのだが。お姉さまはとても優しくて、そしてとても真面目なのだ。
薔薇の館に着くと、そこにはまだ誰も来ていなかった。
私は早速お茶の用意を始め、お姉さまはいつもの席について、鞄から取り出した本を読み始め
た。読書が趣味のお姉さまは、こうしてちょっとした暇を見つけては、辞書みたいな厚さの文
学書を一心不乱に読まれるのだ。私もよくお母さまに「本をたくさん読みなさい」と言われる
し、実際かなりの量を読んでいるけれど、それでもお姉さまには敵わない。ここだけの話、お
姉さまに薦められた難解なロシア文学書を読んだ時などは、数分と待たずに枕にしてしまった。
お茶を飲みながら、読書に没頭するお姉さま。私は読書の邪魔にならないように、キッチンの
すぐ近くの椅子に腰掛けた。時間がゆっくりと過ぎていく。
本を読むお姉さまの横顔を眺めていたら、なんだか眠たくなってきてしまい、ついつい小さく
欠伸をしてしまう。
「冴子。」
見られてしまった。また怒られてしまう。そう思っていると、お姉さまが優しい顔で私を手招
きした。あれは紅薔薇のつぼみの顔ではなくて、二人で居る時のお姉ちゃんの顔だ。
「私に寄りかかって、少し休んだら?」
私はすぐに隣の席に移動して、お姉ちゃんの肩によりかかった。
お姉ちゃんが私の頭を撫でてくれる。
その手はとても優しくて、あったかくて、ちょっとだけくすぐったい。
「はあ、いつ見ても冴子の髪は綺麗ねえ。」
お姉ちゃんが優しく頭を撫でてくれている。
お姉ちゃんの手は魔法の手だ。
昔、お父さまやお母さまが忙しくて、独りぼっちで寂しくて泣いてばかりいた頃、この手が私
を慰めてくれた。この手で頭を撫でられると、その日は怖い夢を見なくて済んだ。夜の闇だっ
て平気になった。
どれ位そうしていたのだろう。
私が目を覚ました時には、外は既に薄暗くなっていた。
「起きた?」
「うん。どれくらい寝ちゃってた?」
「1時間くらいかな。」
私が眠っている間に、紅薔薇さま方がいらっしゃって、今日は休みにすると告げられたらしい。
起こしてくれても良かったのに、お姉ちゃんはずっと私に肩を貸したまま待っていてくれたの
だ。
「さ、帰りましょうか。」
学校を出て、バス停へ向かう途中で携帯電話のスリープを解除する。
復帰中の表示から待ち受け画面に移り、セキュリティソフトの起動完了を伝えるメッセージが
消えると、すぐに軽快な着信音と共に一通のメールが舞い込んだ。
「電話しなさい。 母」
相変わらず簡潔なメールだ。せめてボイスメールなりムービーメールなり使えば良いのに。
早速電話をかけると、どうやら急な用事が入ってしまって、いま成田空港に向かっている最中
らしい。お母さまは今とても忙しいらしくて、私は要件だけを伝えられた。
「今日は鈴白さんのお宅に泊めてもらいなさい。もうあちらには連絡してあるから。」
…だそうだ。なるほど、今日は久しぶりにお姉ちゃんの家にお泊りな訳だ。その事を隣を歩
いているお姉ちゃんに伝えると、頭をよしよしされた。お母さま、ナイスです。
明日は日曜日だし、帰りのバスの中では今晩何をして遊ぶかで大いに話が盛り上がった。
お姉ちゃんの家に着いて玄関の扉をくぐると、お夕飯の美味しそうな匂いが漂ってきた。
この匂いは間違いない、小母さまの得意料理の一つ「秘伝のカレーライス」だ。
スパイスの調合から完全オリジナルなこのカレーは半日をかけて熟成されており、それが絶妙
に配合された玄米ライスと合わさって、思わず三杯目のおかわりをしてしまう程の逸品なのだ。
靴を脱いでいると、居間の方からスリッパをパタパタ鳴らして小母さまが出てきた。
「おかえり椿花、冴子ちゃん。さて、今日のお夕食は何でしょう?」
「カレーライスでしょ。ただいま母さん。」
「カレーライスですね。お邪魔します、祐巳小母さま。」
水野祐巳第七弾。
【No:1497】―【No:1507】―【No:1521】―【No:1532】―【No:1552】―【No:1606】―今回
騙された!!
騙された!!
騙された!!!!!!
リリアン女学園中等部二年、将来薔薇さま志望の松平瞳子さんは怒っていた。
薔薇さまを目指しながら、淑女らしからぬ蟹股で中等部の廊下を進んでいく。
多少の服の乱れなど気にしていない。
それ以上に怒っていたから!!
瞳子さんは卒業を控えた三年の教室の扉を開く。
「祐巳さま!!!」
「うぉ?」
扉を開きおもいっきり目的の相手の名を叫ぶが、呼ばれた当人である祐巳は間の抜けた返事を返してきた。
一斉に教室にいた三年生が瞳子さんを注目していた。
そんなことには動じず、瞳子さんは「失礼します」と言って教室に入ってくる。
……あ〜、怒っているなぁ。
それが瞳子さんを見た祐巳の感想だった。
「祐巳さま!!」
瞳子さんが怒っている理由はだいたい理解していた。
周囲の友人がどうしたのと言うように祐巳を見ている。
「ごきげんよう、瞳子さん」
「ごきげんよう、祐巳さま。本日はご卒業おめでとうございますわ」
祐巳が挨拶すると瞳子さんは怒った顔から一転、笑顔で応えてくれるが、何だかこっちの方が怖い気がする。
「私がこちらに来た理由はお分かりでしょうか?」
「うん、高等部への進学のことだね」
「はい、そうです……リリアン高等部への進学とは本当のことですか?」
瞳子さんがそう言ったとき何故かクラスメイト達がざわめいた。
そういえばずっとクラスメイト達にも黙っていたような……。
「う、うん」
戸惑いながら頷く、少し嫌な予感がする。
「「「「「「えぇぇぇぇ!!!!!!」」」」」
案の定、その瞬間クラス全体が淑女らしからぬ大声に包まれ、クラスメイト達は瞳子さんを押しのけ祐巳に迫ってくる。
「ちょ、ちょっとお姉さま方!!」
あれよあれよと言う間に瞳子さんは後ろに下がっていく。
「あぁ、皆、少し待ってよ!!」
祐巳は慌てて迫ってくるクラスメイトたちを押し止め、瞳子さんを呼ぶが声は届かない。
クラスメイトの隙間から見えた瞳子さんの表情は少し呆れ顔だったが笑っていた。
だから、祐巳も瞳子さんを呼ぶのを止め、クラスメイトに説明することにした。
もう、卒業の感傷などまったく無いって感じだった。
まぁ、今年度の卒業生はまずそのまま高等部に進学するので感傷など持ちようが無いのかもしれないが。
そんなクラスメイトに揉まれる祐巳を見ながら、瞳子さんは微笑み祐巳のクラスを後にした。
卒業式が始る。
クラスに来た二年の生徒達が祐巳たちに「ご卒業おめでとうございます」と言いながら、造花を制服に取り付けていく。
何だか卒業式が始るのだなぁと漠然と思ってしまう。
皆、さっきまでの喧騒は無い。
自分の胸元につけられた造花に触ってみる。
卒業の実感は湧いてこない。
もし、リリアンではなくミアトルにしていたらもう少し実感はあったのだろうか?
そんな事を考えていると体育館に移動してくださいと二年生らしい生徒が呼びに来たので祐巳たちは移動する。
三年間、見てきた校舎だったがもうすぐ見る事はなくなるだろう。これからは外から眺めるくらいだ。
この三年間は本当に色々合った気がする。
特に、この一年は今までのリリアンでの生活の中で本当に目まぐるしく過ぎていった。
その原因を思い返してみるとどうしても最後には自分自身に繋がっていく。
きっかけは祥子さまや瞳子さん、ミアトルの静馬さまだった気もするが、祐巳自身が動かなければ何も起きない穏やかな一年を過ごしたかも知れないのだ。
そう思うと、高等部に上がっても色々やってみたい気分に成る。
「祐巳さん」
「あっ、ごめんなさい」
つい考え事に夢中になり歩くスピードが遅くなったようで前の方と間が空いてしまっていた。慌てて、その隙間を埋める。
もう少しで卒業式の会場である体育館だ。
在校生が奏でる音楽が流れる中、卒業式が始る。
「とは言ってもなぁ」
変に予行練習なんかやったものだから感動とかが少ない気がする。
そういえば初等部の卒業式も皆笑っていた記憶がある。ただでさえ、顔ぶれなど殆ど変わらないまま高等部に上がるのだから感動とか別れとか実感できない。
せっかくの卒業式なのだから感動とかしたいのだが、予行練習どうりに進んでいけば感動も無く終わりそうだ。
……などと思っていたら、先頭の方でざわめきが起こっていた。
「どうしたの?」
祐巳の前にいるクラスメイトに聞いてみるが、よく分からないという。
なんだろうと思いながら、式場である体育館に行進しながら入っていくとざわめきの理由が分かった。
「お姉ちゃん!!」
思わず叫びそうになり自分で口を押さえて行進の列に加わる。
来賓の父兄の中に、それも何時番目立つ行進側の席にお姉ちゃんが座っていた。それだけならまだ良かったのだが、その横には祥子さまに江利子さまと令さま、そして聖さままでいたのだ。
新山百合会が全員揃っているなんて、確かに騒がしくなるはずだ。
祐巳はお姉ちゃんに来なくてもいいと言ったのに、祥子さままで連れて来るなんて……。
江利子さまと令さまは由乃さんの方だろうが、聖さまは良く分からない。暇つぶしにこんな行事に来られるような人ではないはずだが……謎だ。
なんて考えていると、横を通ったときに。
「よ!!祐巳ちゃん、素敵だよ!!」
なんて信じられない言葉をかけてきた。一瞬、この人本当に聖さまかと疑ってしまう。
聖さまに驚きながらお姉ちゃんと祥子さまの横を過ぎる。
お姉ちゃんと祥子さまはニッコリと笑っていた。
何だか妙に気恥ずかしい。
「祐巳さん、顔が真っ赤よ」
指定の席に座るとき、隣に座ったクラスメイトにそんなことを指摘された。
ちなみに祐麒の姿は見えなかった。数日前の花寺の卒業式にはお姉ちゃんと一緒に行ってやったというのに、なんてヤツだろう。
卒業生の入場が終わり。
『一同、皆さま、ご起立お願いいたします』
アナウンスが流れ、卒業式が始った。
……何だろうこの緊張感は。
最初のうちこそ、予行練習のような感じだった卒業式本番だったのだが、祐巳は徐々に緊張をしてきていた。
「うわぁ、まずい」
祐巳はそっと誰にも聞こえないように、そう呟く。
何が不味いって、祐巳は最後に答辞を読むことに成っているのだ。
何故自分かと思った。
祐巳よりも成績優秀な生徒は多いし、部活で活躍したわけでもない。
生徒会は手伝ってはいたが、生徒会長でもなかった。
考えられる要素は、二つ。
一つは、お姉ちゃんだろうか?だとすれば、高等部の入学式で嫌な予感が働く。
もう一つは、祐巳が外部に出る気が合ったことくらいか?
どちらにしろ、どうしてと先生に聞いても、明確な答えは返ってこなかった。
それでも、まぁ、いいかと何時ものノリで受けたのだが、本番が近づいてきてこんなに緊張するとは思っても見なかった。
歌や先生方の挨拶、そして、卒業証書を貰い。
いよいよ送辞と答辞になる。
『送辞!!』
「はい!!」
在校生の代表が壇上に上がり送辞を読む。
内容は、まぁ、よくある言葉だったがそれが逆に良かった。
『答辞!!』
「はい!!」
祐巳は緊張を隠すように元気よく立ち上がった。
これが水野祐巳、中等部での最後の大仕事だ。
卒業式と言う大仕事が終わって、皆、校庭で騒いでいた。
祐巳も桂さんたちと両親が持ってきたカメラなどで写真を撮ったりしていたが、高等部に成っても見知った顔はそのままだ。
「祐巳、お疲れさま」
「祐巳ちゃん、卒業おめでとう」
そこにお姉ちゃんたちと祥子さまがやってくる。当然、周囲にいた同級生達は騒ぎ始める。
「ありがとうございます、紅薔薇さま、祥子さま」
何時もはお姉ちゃんなのだが、これだけの人の面前でそう呼ぶのは不味そうなのでリリアンのシキタリに従って呼ぶことにした。
「もう、祐巳たら固いわね……お姉ちゃん!!て甘えていいのに……あっ、なんだったら祥子でもいいわよ」
「お、お姉さま!!」
お姉ちゃんの言葉に祥子さまが抗議する。
一方の祐巳は呆れていた。
「お〜、いたいた」
そこに江利子さまと令さまが由乃さんと一緒にやってくる。
「三人とも来たわね……あら、聖は?」
「あら、こっちにいないから、そっちの紅薔薇一家にいると思っていたのだけど?」
紅薔薇一家って、祐巳も入っているのだろうか?
だとすれば、由乃さんを加えた向こう三人は黄薔薇一家に成るのだろうが、祐巳としてはそんな気持ちは無いので訂正しておくべきか?
「お〜い」
そんな事を考えていると、聖さまが、頭つるつるの厳ついおじさんと一緒にやってきた。
「聖、何していたのよ?それにそちらの方は?」
「いや、何でも娘さんを迎えに来たとかで探しているようだったからさ」
「いやー、娘には来る成って言われていたんですが、迎えの予定をしていた母親に用事が出来まして急遽ワシが来ることに成ったんですが、こんな綺麗な方々に会えるなんて――ぱっちん――いや、来て良かったですわい。ははははははは」
つるつる頭のおじさんは自分の頭をパチンパチンと叩きながら豪快に笑っていた。
その様子を見ながら、このおじさんの娘さんが来ないでといった意味が良く分かる。どうやらこの場にいる皆も分かったようで、何処かにいるであろう、このおじさんの娘さんに同情した。
おじさんは祐巳たちが一緒に探しましょうかと言う提案を笑いながら(娘さんに怒られると)辞退して、そのまま娘さんを探しに行くが、その先々で何やら笑いを振りまいているようだった。
「娘さん、この辺に居ないといいのにね」
ボソッと誰かが呟いた言葉が聞こえ、祐巳は心底同意した。
「さて、それじゃ、記念写真を撮ろうか?」
おじさんを見送った後、お姉ちゃんが鞄からお父さんから借りてきたデジカメを取り出す。
お父さんがお母さんをどうにか説得して買ったお気に入りのデジカメ。お父さんは祐巳には触らせてもくれなかったのにお姉ちゃんには簡単に貸し出したようだ。
「え〜と」
お姉ちゃんはデジカメを持って、周囲を見る。写真を撮ってくれそうな人を探しているのだろう。これはお父さんは予測していなかったと思う。
「あっ、あの!!」
そこにお姉ちゃんの様子を察したのか、一人の生徒が手を上げてやってくる。
……あれは確か、そうだ、蔦子さんだ。
蔦子さんは大きな鞄を持ってお姉ちゃんの側により何かを話してから、嬉しそうにデジカメを受け取った。
蔦子さんがカメラを構えている中、お姉ちゃんが戻ってくる。
「なに、話していたの?」
「写真を撮る代わり自分のカメラでも撮らせて欲しいって」
「へぇ、一緒に写りたいじゃなくって?」
「えぇ、そうみたいね」
お姉ちゃんと江利子さまの話を聞いて、祐巳も珍しいと思っていた。
「それでは撮りますよ!!」
蔦子さんの声に合わせて笑顔を作る。
まぁ、わざわざ笑顔にしなくてもと言う人がいるかもしれないが、せっかく写るのだから後で見るなら笑顔の方が祐巳はいいと思っている。
何枚か全員で写真を撮る。
「ありがとう、おかげで助かったわ」
全員で写真を撮り、後は個別に撮ろうと言う事に成って、お姉ちゃんは蔦子さんからカメラを返してもらう。
「いえいえ、それでですが……」
蔦子さんは、お姉ちゃんにカメラを返しながら何だか言いよどむ。
祐巳と由乃さんと顔を見合わせる。
蔦子さんとはクラスが違うので余り話したことはなかったが、こんなに積極的に人に話しかけているのを見るのは初めてだ。
蔦子さんはお姉ちゃんから了承を得ると大きな鞄を下ろし、中から一眼レフのカメラを取り出してきた。
「蔦子さん、それ、自分の?」
余りに場違いなカメラを持ち出してきたので、祐巳は聞いてみる。
「そうよ、私、以前からカメラが好きでね。高等部になったら絶対に写真部に入るときめているの」
「そ、そう」
なんだか嬉しそうな蔦子さんを見て、祐巳はそれ以上聞くのを止めた。こういった趣味の人は迂闊に話を聞くと絶対に話がついていけないほど長くなるからだ。
蔦子さんはカメラを取り出すと嬉しそうに祐巳たちを撮り始めた。
「まさかこういう子だったとは」
お姉ちゃんは少し呆れ顔で蔦子さんを見ていたが、聖さまや江利子さまは「楽しい子ね」と笑っている。
そういえば何度か蔦子さんが絵なんかを描く時にする両手で四角を作るポーズをしていたのを見たことがあるが、どうやらカメラが持ち込めない初等部や中等部でのカメラの代わりだったのだろう。
その後は中等部の校舎前や、教室に戻って在校生が書いてくれたメッセージの前、音楽室に授業で使った特別教室。果ては職員室で記念写真を撮って回った。
祐巳一人だったり、由乃さんだけだったり。
祐巳と由乃さんで並んでみたり。
祐巳は、お姉ちゃんと祥子さま。
由乃さんは、江利子さまと令さま。
時々、聖さまも混ざって色々な場所で写真を撮る。
ちなみに蔦子さんは常に同行し、記念写真意外にもお姉ちゃんたちの何気ない様子まで撮っていた。
「さて、それじゃ、祐巳、由乃ちゃん、帰りに何か」
「あの!!」
そろそろ終わりにしようかと思った頃、突然声をかけてきた生徒達がいた。
見れば祐巳や由乃さんと一緒に中等部を今日卒業した同級生達だった。
「どうしたの?」
お姉ちゃんが声をかけてきた人たちを見るが、彼女達は黙ったまま祐巳と由乃さんの方をチラチラ見ている。
「どうかした?」
何度も祐巳の方を見るので、仕方なく祐巳が声をかけてみる。
「あの!!私たちも薔薇さま方と一緒に写真を撮ってもらえないかと……」
一瞬、なんでそんな事を祐巳に言うのかと聞こうと思ってやめた。最後の方は、祐巳に言っているのにぼそぼそと聞こえにくいような言葉に成ったのに、お姉ちゃんたちに頼むなんて怖いのだろう。
まっ、ここで一肌脱ぐのも悪くは無い。
「お姉ちゃん!!」
その後、お姉ちゃんに彼女達が写真を撮りたいことを話した。これに意外にも聖さまが了承してくれ、江利子さままでが同意し、一番この手のことに同意するお姉ちゃんが渋っていたが最後には賛成し、祥子さま、令さままで巻き込んで彼女達と写真を撮ったのだが……それを見ていた他の生徒たちまで参加したいと言って来て、気がつけば順番待ちの人だかりが出来ていた。
……。
…………。
「あらら、どうしよう?」
「どうしようって、祐巳さんが紅薔薇さまに頼んだのでしょう?」
由乃さんが言った紅薔薇さまが、お姉ちゃんのことを指しているんだなぁと改めて祐巳は感じていた。
「……そうだけどさぁ、こんなことに成るなんて予想もしていなかったから、あはは」
「笑い事ではないような気もするのだけど……でも、もう少しいいかな」
由乃さんはそう言って笑った。
何だか線の細い由乃さんが笑うと、薄幸の美少女って感じだ。
「どうして?」
「うん、祐巳さんとこうして話が出来たから」
そういえば何回かこうして一緒になったがまともに話したことはなかった気がする。
「そうだね」
「ねっ、祐巳さんは高等部に上がったら祥子さまの妹に成られるの?」
あぁ、やっぱりその話題か。
「う〜ん、どうだろう?祥子さまのことは好き、でも、それで妹に成るのかと聞かれても分からないかな?」
「えっ?そうなの」
「うん、そう言う由乃さんは令さまのロザリオを受け取るの?」
「……多分」
由乃さんは何故か少し考えてからそう呟いた。何か、由乃さんの中でもあるのかも知れないが。それは祐巳が聞いて良いものではないように思えた。
「あっ」
「どうしたの?」
祐巳は不意に人だかりの横を、友人達と一緒に抜けていく瞳子さんを見つけた。
「お〜い!!」
祐巳は瞳子さんに向かって手を振るが、瞳子さんは祐巳を見つけても何時ものように向かっては来なかった。
その代わりのように、ただ、一礼だけして友人達と去っていった。
「なに?知り合い」
「うん、少しね」
「来なかったわね?」
「そうだね、でも、今はこれでいいのかもね」
祐巳の言葉に由乃さんは『?』を飛ばして頭を傾けていた。
そう、今はこれでいい。
卒業のお別れはもう済ませてあるから。
多分、今度会うときは怒った顔か笑った顔がまた見れる気がする。
「ふぅ〜、終わったぁ〜」
聖さまが先頭に祐巳たちの方に戻ってくる。
「お疲れ様です」
どうやら薔薇さまたちとの撮影会は終わったようだ。
「本当に疲れたよ〜、祐巳ちゃん、肩揉んで〜」
「うわぎゃう!!」
聖さまはイキナリ祐巳に抱きついてくる。いったい誰だ?!この人!!
「聖さま!!」
祥子さまがそれを見て怒って迫ってくる。
「おぉ!!祐巳ちゃん、まるで怪獣の子供のような泣き声だね〜」
だが、聖さまは気にする様子は無い。
「聖さま!!」
「だって、祐巳ちゃんて抱き心地がいいんだもん」
いいんだもんってこんな人だったか?聖さまって……。
「聖」
「へいへい」
結局、聖さまは祥子さまではなく、お姉ちゃんに窘められ祐巳を放してくれたが、祐巳が思っていた聖さまのイメージが180度変わった。
「大丈夫だった?祐巳ちゃん」
「は、はい」
聖さまが離れると、何故か祥子さまが祐巳を覗き込む。そこに、お姉ちゃんまで加わってくる。
「もう、祐巳、もう少ししっかりなさい」
「う〜、お姉ちゃんの意地悪」
「はいはい、今はお姉ちゃんでも良いけど、高等部に入学したら呼び方のケジメはつけるのよ」
「はい、分かっておりますわ。紅薔薇さま」
お姉ちゃんと何気ない話で笑う。
その様子を、祥子さまは少し離れて眺めていたが、祐巳もお姉ちゃんも気がつかなかった。
「それでは帰りましょうか?」
「あ、あの!!」
帰ろうとしてまた声をかけてくる卒業生がいた。見れば、どうやら彼女達が最後らしい。
「仕方ないわね」
お姉ちゃんの言葉に、聖さまと江利子さまがやれやれと言った感じで後に続き。祥子さまと令さまもお姉ちゃんたちの横に並ぶ。
「それではいきますよ〜」
いつの間にか写真を撮る係りに成っていた蔦子さんがカメラを構える。
「あ、あの!!」
それなのに彼女達は蔦子さんを止める。
「どうしたの?」
お姉ちゃんが彼女達を見ると、彼女達は何か話し合い、眺めていた祐巳と由乃さんの方を見る。
「ん?」
「どうかしたのかしら?」
祐巳と由乃さんは顔を見合わせる。
「あの、出来れば、祐巳さんと由乃さんにも加わって欲しいのですが」
「えっ」
「へ?」
せっかくの新山百合会メンバーとの写真なのだから、祐巳たちは邪魔だろうと思うのだが?
「理由、聞いていい?」
理由を聞こうとした祐巳よりも早く、由乃さんが聞いた。彼女達は確かに同じ卒業生だが祐巳はそれほど親しくは無い。由乃さんもどうやら同じようだ。
「えっ、だって、祐巳さんは紅薔薇のつぼみのプティ・スールに、由乃さんは黄薔薇のつぼみのプティ・スールに決まっているって聞いたので」
その言葉に、祐巳と由乃さんはもう一度顔を見合わせた。
「て、言われても、決まっていないわよ?」
それが祐巳の答えだった。
そして、由乃さんの答えは、令さまの横に立つ事だった。
最後の彼女達の写真撮影の後、蔦子さんと別れ……と、言うよりもずっと写真の撮り役だったので、お姉ちゃんたちと記念撮影をするように進めたら、断りながら逃げていった……その後、ようやく祐巳たちは中等部の校門を出た。
「それでは私たちはここで」
令さまと由乃さんが校門前で別れると江利子さまも一緒に着いて行くと言って別れ、聖さまも用事があるとかで、その場で別れた。
「ごきげんよう」の挨拶の後、祐巳とお姉ちゃんに祥子さまで駅までバスに乗った。
祐巳はそのままお別れかと思っていたのだが、帰ろうとする祥子さまをお姉ちゃんが呼び止めこの後の予定を聞き。
何も用事はないと、祥子さまが言うと祐巳と祥子さまを連れ制服のまま駅前の喫茶店に入った。
「小腹が空いたのよ。奢るから、付き合いなさい」
そう言って、お姉ちゃんはウエイトレスさんにキノコスパとトースト、紅茶にデザートまで頼んでいた。
「お姉さま、やはり制服では」
祥子さまはここは注意すべきと考えたのか、お姉ちゃんに意見する。
「そう言っても、お腹が空くのは仕方ないわ。今日は、祐巳の卒業式と言うことであまり朝食べられなかったから、それにね祥子」
「はい?」
「貴女もお腹が空いているでしょう?」
お姉ちゃんの言葉に祥子さまは顔を赤らめる。もしかして図星なのだろうか?
「お、お姉さま?」
「いいから何か注文しなさい、祐巳もよ」
結局、祐巳は蜂蜜トーストと紅茶。祥子さまはサンドイッチに紅茶を頼まれた。
お姉ちゃんが言うのが正しかったのか、祐巳も祥子さまも注文した簡単な料理をすぐに食べ終えてしまった。お腹に何か入ると、さっきまでお腹が空いているとは思っていなかったのに、何だか物足りなさを感じてしまう。
一方、しっかりと注文したお姉ちゃんはゆっくりと静かに食事を続けている。
どうしても手持ち無沙汰な祐巳は紅茶に口をつけながら横目でチラッと祥子さまを見る。
「!!」
祥子さまと目が合ってしまった。
祥子さまも祐巳と目が合って慌てて視線を逸らした。何だか、空気が重い。
お姉ちゃんを見ると何だか妙にゆっくりと食べている。
もしかして、お姉ちゃんお得意のお節介?
それは話題とかあればいいけど、そんなもの今無いのに〜!!
見れば祥子さまも話題が無いのか、黙って紅茶に口をつけている。でも、そんな姿も祥子さまは優雅で見惚れてしまう。
本当に、この人の妹に成れたらどんなに素敵だろう。
そうは思う。
でもとも思う。
本当に、優柔不断だなとも感じるけど。
「祐巳ちゃん?」
「は、はい!!」
「もう、祐巳ちゃんたら」
突然、祥子さまに呼ばれ驚いた祐巳は手に持ったカップの紅茶で口を濡らしてしまった。
「あ、祥子さま!?」
「ほら、動かないの」
祥子さまは白いハンカチを取り出し、祐巳の口元を拭く。
「あぁ、これでいいわ」
「あの、すみません」
「いいのよ。それよりもどうしたの?」
「なんでしょう?」
「私の顔をジッと見ていたみたいだけれど?」
「あっ……いえ」
どうやら祐巳が祥子さまを見ていたので声をかけてきたらしい。
「なんでも……何でもありません」
そう、なんでもないこと、ただ、祥子さまに見惚れていただけのこと。
祐巳は祥子さまから視線を逸らし呟いた、だから、気がつかなかった祥子さまが祐巳を見つめ少し悲しそうな顔に成ったことなど。
「はぁ〜、美味しかった」
そんな事をしているうちに、お姉ちゃんが食事を終える。
お姉ちゃんの食事が終わりお店を出る。
「祐巳」
「何?お姉ちゃん」
「申し訳ないけど、ここから一人で帰れる?」
「それは帰れるけど、お姉ちゃんは?」
祐巳の言葉にお姉ちゃんは祥子さまを見る。
「少し用事があるから」
「……うん、いいよ」
何だか少し仲間はずれのような気がしたが、お姉ちゃんと祥子さまは姉妹(スール)。お姉ちゃんのことだけならいざ知らず、祥子さまのことまで詮索する権利は祐巳にはない。
祐巳は祥子さまの姉妹(スール)ではないのだから。
「お姉さま……」
「祥子、貴女もいいわね?」
「はい……それでは祐巳ちゃん、ごきげんよう」
「ごきげんよう、祥子さま、お姉ちゃん」
祐巳はそこでお姉ちゃんと別れ、一人家路に着く。
何だか急に寂しく成る。
周囲には人が溢れているのに、何だか祐巳しかいないような寂しさ。
その寂しさをもたらしたのは、お姉ちゃんか……それとも、祥子さまか。
「はぁ」
小さな溜め息をつく。
「あら、何だか寂しそうね」
「えっ?」
不意に声をかけられ振り向く。
「ごきげんよう、祐巳」
お姉ちゃん意外で今ただ一人、祐巳を呼び捨てにする人物。
「静馬さま」
「ふふ、迎えに着たわ祐巳」
「迎えですか?」
「そう、ミアトルでは無くリリアンを選んだ貴女を、私の家で開く個人的なパーティへのご招待」
「進学のことは自分に必要な方を選ぶと申したはずです、それとパー……」
祐巳が断ろうとしたとき、静馬さま不意に祐巳を抱きしめる。
「逃がさない、そう言ったと思ったけど言うのを忘れていたかしら?」
抱きしめられた静馬さまからは甘い花の香りがした。
「あ、あの!!静馬さま!!」
「何かしら」
「恥ずかしいですし、目立っています」
「あら、私は構わないのだけど、そうねせっかくのお客さまに恥ずかしい思いをさせるのは招待するものとしてはいけない作法よね」
そう言って静馬さまは祐巳を放してくれる。
「ど、どうも」
祐巳は顔を真っ赤にしながら小さく頭を下げる。別に頭を下げる必要はないのだが……。
「それでは行きましょうか?」
「えっ?」
いつの間にか静馬さまの後ろには黒塗りの高級車が止まっていた。
「いえ、お断り……」
「祐巳は一人なのでしょう?」
「えっ?」
「今、貴女は一人。ここにはお姉さんも友人もいない」
「少し前までは居ました」
そう、少し前までは皆で楽しく過ごしていた。
「でも、貴女は今は一人」
だが、静馬さまは覚めた目で祐巳に言葉を繰り返す。
「入学式まで一人なのかしら?」
「友人達と遊びに行きます」
「そう、それは楽しそうね。それだったら私の招待もただの遊びで着てもらっても良いのではないかしら」
静馬さまは不意に楽しそうな笑顔を見せる。
その笑顔に祐巳はフッと緊張を緩めてしまった。
「だめ、かしら?」
「いえ、そう言うことなら」
緊張を緩めた祐巳の中に静馬さまが入り込んでくる。
「よかった」
静馬さまは手を合わせ楽しそうに笑っていた。
「あっ、ですが荷物とか、両親に連絡も」
「そうね、それなら貴女の家によって行きましょう」
祐巳は静馬さまの車に乗り込むと、黒塗りの高級車はゆっくりと道路に出て行く。
「あっ」
「ふふ」
静馬さまの車が道路に出ると共に反対側から来た同じような高級車とすれ違う。
そこにはお姉ちゃんと祥子さまが乗っておられ、四人の視線が車の中から交差して、二台の車は別方向へと走っていった。
静馬さま以外の部分を書いてほったらかし十日あまり……反省。
と、言うことで久々の水野祐巳です。
過去のコメントでストパニをもっと絡めてとの意見があり正直困りました(笑)
だって、ただお話上、祐巳の進学先にオリジナルよりはと思って出しただけでしたので……これ以上絡めるかどうか迷った挙句絡める方向へ向けました(その方が面白そうなので)
と、言うことで、ココまで呼んでくだされた皆さまに感謝。
『クゥ〜』
私には、妹にしたい一年生がいた。
その生徒とはほんの偶然であっただけ。
それは、そう桜がまだ残っている頃のこと。
入学したばかりのように見えるその生徒は大きな荷物も持って職員室に向かうところだった。
私は、その頃はクラスメイトたちや同じ部活の同級生達と妹のことで良く話していた。
大抵、部活をしていれば同じ部活から姉妹の相手を見つけるのが普通だが、それでも部活以外で運命的な出会いとかを夢見ている。
せっかく妹を持つのだ。
運命的な出会いとか。
思い出に残るようなロザリオの授受とか。
そんな事を夢見ていたときだった。
少し荷物が多いのか、その生徒は少しふらついていた。
「危ないなぁ」
私はそう思いながら、その生徒に声をかけ。お手伝いをしてあげた。
その生徒は部活やよく見る一般的な下級生達と何も変わらない普通の一年生だった。
彼女の名は福沢祐巳。
少し話しただけだったが、よく変わる表情豊かな一年生。
そのときはその程度しか思っていなかった。
困っている生徒を見つけたら手伝うのは当たり前のことで、劇的な出会いとは程遠かったし。
彼女は普通の生徒に見えたから、だから運命的な出会いとかまったく考えていなかった。
それから、彼女とは時々出会った。
出会うといっても廊下ですれ違うとかその程度。
そのうち同じ部活のお姉さまから妹を作らないのかと聞かれて困り、同じ部活で残っている一年生の中から選ぼうとして不意に祐巳さんの顔が浮かんだ。
私は戸惑った。
どうせなら同じ部活の生徒の方が妹にするなら良いのは分かっている。
それにたまに出会うことはあっても、話などしたことはなかった。
だから、どうして彼女のことが頭に浮かんだのか分からなかった。
この時、私は祐巳さんの名前もクラスも知らなかったから、彼女に姉が出来たのかさえも知らず。
ただ、戸惑っていた。
そして、私は妹を作る機会を逃してしまった。
残っていた一年生達も夏になるころには姉妹の授受を済ませてしまっていた。元々、部員の少ない弱小部だから仕方がない。
だが、そんなことはその頃の私には関係なかった。
私は祐巳さんを妹にしたいと思うように成っていたから、でも、私は夏休みが明けてもなお祐巳さんに姉妹の申し込みはしていなかった。
いや、出来なかった。
私はこの時姉妹のことに怖く成っていた。
原因は、同じ部活の浅香さんとそのお姉さまの異常な関係。
あれほど騒がれたというのに、あの二人を見ていて思うのは姉妹とは運命ではないのだと思わされる事実だけ。
聞いた話では、浅香さんのお姉さまは、浅香さんに隠れて誰かもっと大事な生徒がいるらしいということ。しかも、それでも浅香さんと姉妹であろうとして奇妙な優しさを見せていること。
私のお姉さまもそのことに気がつきながら今は黙っているが、それが私には逆に祐巳さんを妹にと望むことへの恐怖に繋がっていく。
私とお姉さまは良くも悪くも普通の姉妹だ。
だが、私が祐巳さんに求めているのは……。
だから、怖くなる。
だから、祐巳さんのクラスを知っても、名前を知っても。
お姉さまが居ないのを知っても、祐巳さんに声をかけることは無かった。
祐巳さんとの出会いは、まだ桜の残るただ一度の出会いだけだった。
それでも妹にしたいと思う心はだんだん大きくなってきたが、それが不意に打ち砕かれるときが来る。
曰く、紅薔薇のつぼみである小笠原祥子さんが福沢祐巳さんに姉妹の申し込みをして断られた。
どうしてと思った。
彼女はごく普通の生徒。
祥子さんのように真性のお嬢様でも、黄薔薇のつぼみのように運動部で活躍しているわけでもないのだ。
ただ、明るく。
笑顔の可愛い生徒。
その祐巳さんに、祥子さんが申し込んだ。
しかも、全体的に祐巳さんを応援する空気の方が強い。
祐巳さんは、祥子さんのファンだとも聞く。
だが、まだ祐巳さんは祥子さんのロザリオを受け取ってはいない。
今ならまだ間に合うのだろうか……。
だが、結局、何もしなかった私はただ祐巳さんが学園祭後に、祥子さんの妹に成ったことを知っただけだった。
「ごきげんよう」
「あら、ごきげんよう。紅薔薇のつぼみの妹」
「おや、祐巳さんだ」
少し戸惑いながら上級生の教室に顔を出したのは、祐巳さんだった。
少し緊張しているみたいだ。
「あぁ、祐巳。迎えに来てくれたのね」
祐巳さんが顔を出すと、帰宅する準備をしていた祥子さんに笑顔が浮かぶ。
まだ、姉妹に成って一月も経たない二人は、側で見ていて恥ずかしくなるほど初々しい。
「ごきげんよう、祥子さま」
「もう、祐巳たら、お姉さまでしょう?いいかげんに呼び方を改めなさい」
祥子さんはまだ祐巳さんにお姉さまとは呼ばれていないのか、注意するがその様子もまたどこか初々しい。
「それでは、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
そして、祥子さんは祐巳さんを連れ教室を出て行った。
いつか祐巳さんにお姉さまと呼ばれるのだろう。
でも、もしもと言えるのなら。
あの桜が残る季節の偶然のときに、祐巳さんに姉妹の申し込みをしていたのなら、私は祐巳さんに「お姉さま」と呼ばれたのだろうか。
涙が落ちる。
「あっ、ど、どうしたの?」
「な、なんでもないわ」
私の涙に気がついたクラスメイトが慌てている。
涙を止めなくてはと思いながら、涙は止まってくれなかった。
『お姉さま』
祐巳さんの声が聞こえた気がした。
思いつき……あははは、ごめんなさい。
『クゥ〜』
※この記事は削除されました。
色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
【No:1893】→【No:1895】→【No:1897】→【No:これ】→【No:1908】→【No:1911】→【No:1913】→【No:1921】→【No:1926】→【No:1933】→【No:1941】→【No:1943】→【No:1945】
そこでは誰もが戦っていた。子供だから。戦った事なんてないから。そんな言い訳は許されなかった。戦わなければ自分たちが死ぬ。
私の力が皆に比べて劣っているのは分かっている。なにしろ、まともに力を使えないのだから当然だ。それが原因で、戦闘の度に私は傷を負っていた。
生まれ持った力をまともに使えないから、他の人よりも多く傷を負ってしまう。味方であるはずの人たちに、「足手纏い」と蔑まれる。戦場には私の味方なんて一人もいなかった。
怪我を負えば痛くて。一人でいるのが辛くて。馬鹿にされても何一つ言い返せない自分が惨めで。そんな自分の無力さが歯痒くて。自殺だって考えた。
けれど、それでも私は戦場に立ち続けた。私には、どうしても投げ出す事のできない戦う理由があったから。その理由とは、この世界が好きだったから、というこれ以上ないくらいに単純なものだ。母の母校で、彼女が愛した学園を守りたかった。設計事務所を経営していた父が設計した自宅を守りたかった。家族を失う前の、優しい世界を取り戻したかった。
勿論私一人が頑張ったからといって、どうにかなるようなものではないと理解している。現実はそんなに甘くない。けれど、いずれ訪れるであろう未来に絶望しか残されていないなんて、そんな事は認めたくなかった。
だから、私は諦めなかった。どんなに蔑まれても、どんなに傷付いても、絶対に諦めなかった。そうやって我慢して、諦めないでずっと頑張っていたから、きっと神様がご褒美を与えてくれたのだ。
十月の半ば。濃厚な血の匂いと人々の怨嗟の声に包まれた戦場で、
「あなたはどうして戦い続けているの?」
私は、私のお姉さまとなる人と出会った。
「福沢祐巳は壊れている」
皆が皆、口を揃えてそう言った。私自身そう思う。
他人の痛みを感じない。自分の痛みも感じない。心も身体も、何の痛みも感じなくなった。
一年前のクリスマス。
その日は雪が降っていた。
有り得ない力で捻じ曲げられたガードレールや陥没したアスファルト。倒壊した電柱の下では、切れた電線が降り積もった雪の上を狂ったように跳ねながら火花を散らしている。視線を少し先に向けると、崩れて鉄骨が剥き出しになった歩道橋が見えた。その手前には光を失い、機能を果たしていない信号機。車道には煙を上げている車両があり、運転席と助手席の部分には親子だったものらしい人の形をした炭が残っていた。あちこちに無造作に転がっている蟲共の食べ残しである亡骸を除けば、ここに私たち以外に人の姿はない。
それらの破壊の爪跡と前方二百メートルほどの地点に集まっている蟲の群れを眺めていると、
「どう思う?」
私の隣で同じようにそれらの光景を眺めていたお姉さまに尋ねられた。
「報告では三百程度とありましたけれど、被害状況と照らし合わせてみると数が少ない気がします」
この地区に現れた蟲は三百匹程度、と偵察と観測を兼ねた部隊からの報告にあったのだけれど、それにしては被害が大きく思える。あちこちで無惨な亡骸を晒している人たちの中には戦える人だっていたはずだから、三百匹程度でここまで被害が大きくなるとは考え難い。
「そうね、私もそう思うわ。ひょっとして、どこかに隠れているのかしら? 合わせて五百程度なら戦えない事もないのだけれど。……何にせよ、しばらく様子を見た方が良さそうね。少し離れた所に移動しましょうか」
私の返答に頷きながらお姉さまが指示を出す。その指示は慎重過ぎるものなのかもしれないけれど、不確定要素がある以上そうせざるを得ない。はっきりと言ってしまえば蟲の一匹一匹は大した相手ではないのだが、油断して痛い目に遭うのは私たちの方なのだ。
けれど、その指示に従おうとしない人たちがいた。
「敵が目の前にいるのに、様子を見ろ、と? 紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)は悠長な事をおっしゃいますね」
彼女たちは元々、私のお姉さまに強く憧れていた人たちだ。だからこそ彼女たちは、直接的な戦闘では殆ど役に立たない私をお姉さまが妹(スール)に選んだ事が気に食わなかった。
「こちらには八十人もの精鋭が揃っているんです。確かに、何の取り得もない方がお一人混ざっているせいで慎重に行動せざるを得ない、という紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)のお考えは分かりますが、あの程度の蟲相手にそんな心配は無用です。ね、祐巳さんもそう思うでしょう?」
私よりも強い人たちが、私を見下しながら嘲笑う。
お姉さまはそれを咎めたが、私は何も言い返せなかった。なにしろ彼女たちが言っている事は真実で、実際に彼女たちが強いからだ。お姉さまの指揮するこの部隊は、リリアン女学園の中等部と高等部の生徒たちで組織されただけの部隊にも関わらず恐ろしいほどの強さを誇っていた。
自分たちが負けるはずがないという過信か。それとも、大して強くないはずの蟲相手に一対一でしか戦う事のできない私に対する当て付けか。彼女たちはお姉さまの静止の声を振り切って、目の前に見える敵を相手に戦闘を開始した。
こう言っては刺があるように聞こえるかもしれないが、彼女たちは貴重な戦力だ。一つや二つの命令に従わなかったからといって、切り捨てる事も罰を与える事もできない。この区域で言えばそうでもないが、世界規模の戦闘状況では人類側が圧倒的に不利なのだ。戦う事ができる者は、一人でも多いに越した事はない。
その事をよく理解しているからだろう。お姉さまは指示を無視された事に文句など言わず、ただ「参ったわね」と肩を竦めると「私たちも行くわよ」と残っていた人たちに声をかけて、鞘に収めていた愛用の長剣を引き抜いた。
その化け物たちは、成人男性と同程度の体長と鋼鉄の皮膚を持っている事を除けば、そこらの家の庭先でも見る事のできる昆虫――蟷螂の集団だった。けれど、この場所にいる蟷螂は普通の昆虫とは違って人を殺す事ができる化け物なのだ。その前脚は、たしか切断するためのものではなかったような気がするのだが、残念な事に奴らに常識は通用しない。鋼鉄の身体を持つ蟷螂の前脚には、刃物と同じ鋭さがある。
それでも、数人の人たちの勝手な行動によって開始された今回の戦闘は、突然開始された事により多少困惑している人もいたが、私たちの方が圧倒的に有利だった。
一刀のもとに蟲を斬り伏せていくお姉さま。複数で互いの死角を補う事により、隙なく敵を倒していく前衛の剣士たち。そんな前衛を後方から支援しながら、効率よく次々と敵を屠っていく魔法使いの皆。この世界の住人の殆どは、特殊な能力や技能を持っていて個々の能力は驚くほど高いのだ。今回の敵は三百匹程度のようだが、それがたとえ五百匹だったとしても、皆ほどの強さがあれば問題なく殲滅する事ができるだろう――そう思っていた。
異変が起こったのは、戦闘が開始されてから五分ほど過ぎた頃だ。それは、悲鳴が始まりの合図だった。
後方から聞こえてきた甲高い悲鳴に何事かと振り返ってみると、そこでは魔法使いの少女が苦悶の表情を浮かべながら足首を押さえて蹲っていた。彼女は、部隊の後方から前衛の人たちを支援していた魔法使いのうちの一人だ。基本的に遠距離攻撃を得意とする魔法使いは、前衛を支援・援護する役割となるので後衛である彼女の周囲に蟲の姿はない。
(足を捻った? とりあえず、誰かを救護に向かわせないと)
そう思いながら彼女の足首へと視線を移動させて、私は絶句した。なぜなら額に脂汗を滲ませている彼女には、足首から先が存在していなかったからだ。
(どっ、どういう事!?)
それまで優勢だった私たちの間に動揺が広がる。どうして彼女がそんな怪我を負ったのか、全く分からない。彼女のいる場所は見通しがよく、近くで異変があれば一目で分かるからだ。
「とにかく、早く手当てしないと」
そう言いながら嗚咽を漏らしている少女へと駆け寄った私のクラスメイトだった人が、次の犠牲者だった。彼女は少女に駆け寄っている途中、私や皆が見ている前で履いていた靴の片方を雪の上に残して転倒した。
「――っ!」
その残された靴の中には、彼女の足首が入っていた。
肉と骨が剥き出しとなり血を滴らせている自分の足を見て、彼女が悲鳴を上げ始める。けれど、私たちは誰も動けなかった。既に、私も含めて皆の視線は彼女に向けられていない。皆が見ているのは、自分たちの足元の一点のみ。彼女が転倒する直前、私たちは見てしまったのだ。降り積もった雪の中から飛び出してきた刃物のようなものが、まるで鋏のように彼女の足首を切断するのを。
『被害状況と照らし合わせてみると数が少ない気がします』
『ひょっとして、どこかに隠れているのかしら?』
(地面の下に――)
自身とお姉さまの言葉を思い出し、全身から血の気が引く。
「っ!!」
足下の地面が僅かに沈んだのを感じてその場から咄嗟に飛び退くと、そこから飛び出してきた金属の光沢を放つ鋭い刃が私という獲物を失って耳障りな音を立てた。
「下に何かいるっ! 皆っ避けてぇっ!」
悲鳴のような私の声と、それに反応して自分たちの立っていた場所から皆が一斉に飛び退くのと、雪に覆われた大地から強靭に発達した顎を持つ蟲が獲物を捕らえようと現れたのは同時だった。
それは、鋼鉄の蟻だった。
体長五十センチほどの鋼鉄の蟻による不意打ち。それを、避ける事のできた人がいた。残念ながら、回避が間に合わなかった人もいた。
犠牲となったのは多数。それでも無様に取り乱したりしないで地面のあちこちに穴を開けながら出現してくる蟻の迎撃をすぐに開始したのは、今までに何度も戦闘を繰り返してきた賜物だろう。
(でも、分が悪い)
乱戦となれば蟲たちの方が有利だ。なにしろ奴らは同士討ちを恐れず、敵を前にすれば仲間が密集している場所であろうと渾身の力を以って攻撃してくる。そういう理由から蟲と直接戦える人たち以外は距離を置きながら戦っていたのだが、蟻の出現によってそうもいかなくなってしまった。
「できるだけ引き付けて一発で仕留める事! ……まだ……まだ……まだよ…………今っ!」
魔法使いたちの生み出した数千度にも上る炎が、己が皮膚を鋼鉄へと変えた蟻を数十匹纏めて呑み込む。
(ふうん。さすがに自分たちの命が懸かっていると、気に食わない私の指示でも従ってくれるんだ? もっとも、今の状況でそういう事を気にする余裕がないだけなのかもしれないけど)
今のように前衛と後衛が分断された場合――より正確に言うと、お姉さまが指示を出せるような状況ではない場合、お姉さまの代わりに紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)である私が指示を出す事になっていた。問題は、目障りでしかないはずの私の指示に皆が素直に従ってくれるかどうかだったのだけれど、この様子ならそれほど心配する必要はないようだ。
(そうだ、あの二人は――)
無駄だとは分かっているけれど、皆よりも先に襲われた二人の少女がいた場所へと視線を向ける。思っていた通り、そこには既に鋼の蟻が群がっていて二人の姿を確認する事はできなかった。
「……」
小さく首を振り、視線を戻す。彼女たちの事を悔やむのは後だ。今は他にやるべき事がある。
「そっち! 援護して!」
私の指示によって、蟻に囲まれて孤立しそうになった二人の魔法使いを他の魔法使いたちが援護する。自分たちの足下から蟻が出現した事によって大人数で一箇所に固まっている事ができなくなった魔法使いたちは、今の所二人一組など少人数で纏まり、お互いを援護する事で自分たちの危機を回避していた。
その一方で、魔法使いの援護を失った前衛のお姉さまたちは苦戦を強いられていた。また一人、仲間を失ってしまう。二、三度しか話をした事はないけれど、彼女はまだ中等部の三年生だったはずだ。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁ――」
群がっている蟲たちの間から悲鳴が聞こえていたが、ものの数秒で途絶える。
(……ごめん)
彼女が前に出過ぎて孤立してしまっていた事には気付いていた。先ほどの二人と違って、救おうと思えば救う事ができただろう。でも私は、蟲に囲まれているのを見た瞬間に彼女を切り捨てた。彼女を救おうとするならば、魔法使いの力が必要だった。けれどその魔法使いたちは、蟻の相手をする事で手一杯なのだ。彼女たちの身を今以上の危険に晒してまで、たった一人を救え、なんて指示は出せなかった。
まだ耳に残っている少女の悲鳴に奥歯が砕けそうになるほど強く歯を噛み締めながら、どうする事もできなかった、と自分に言い聞かせる。たったそれだけで落ち着きを取り戻す事ができる私は、きっと心のどこかが壊れているのだろう。
(こんな私が優しい世界を取り戻したいなんて、笑えるよね。たとえ取り戻せたとしても、そこで生きる資格を私は既に失って――)
自嘲する私の思考を中断させたのは、
「全ての魔法使いは熱光線魔法の詠唱を開始」
凛とした落ち着いた声だった。
その声を聞いて、どうやらお姉さまの代行という私の役目は終わってしまったらしい、と理解する。
「私の右手側にいる者は半歩前に移動。それ以外の者はその場から動かず――」
聞こえてきた声は、私の大好きなお姉さまのものだった。
「真っ直ぐ前に向けて撃ちなさい」
狭い範囲に敵味方が入り乱れている状況で、ふざけているとしか思えない命令。けれど、皆は従う。お姉さまの状況判断能力は、他の薔薇さま方と同じく非常に高い。しかもそれだけではなく、お姉さまは他の薔薇さま方以上の、その場所に存在している者たち全てを対象とした空間把握能力を持っているのだ。
それは、空から見下ろしていれば奇跡とでも呼べるような光景だっただろう。
魔法使いの少女たちによって放たれた数十条に及ぶ熱光線魔法は、半径二十メートルという狭い空間内に敵味方が入り乱れており、またその全てが違う方向へと向けて放たれたにも関わらず、一つとして味方に当たる事なく蟲だけを撃ち貫いた。
(一瞬で戦況がひっくり返った……)
これが、私のお姉さま。紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)と呼ばれる、学園――いや、この地区でも屈指の実力者。直接戦う事ができないのなら他の方法で戦えば良い、と私に、私の進むべき道を示してくれた人。
(私には勿体ないくらいのお姉さまよね。……でも、いつかきっと追い着いてみせる)
思いを新たにしながら皆の様子を探るべく周囲を見回す。
少女たちの顔には疲労の色が濃く浮かんでいた。けれど、もう先は見えている。先ほどの魔法攻撃であらかたの蟻は片付いたし、それによって手の空いた魔法使いたちが前衛の人たちの支援を再開し始めたから。この戦闘における勝者は私たちだ。ここで諦めてしまうような愚か者はいないだろう。
私は懸命に剣を振るっているお姉さまへと視線を向けた。お姉さまの端正な顔には他の皆と同じように疲労の色が濃く浮かんでいたが、その瞳には強い輝きが灯されている。
(お姉さまも大丈夫)
そう安心して、お姉さまから視線を外した瞬間だった。槍のように細長い影が、爆音を鳴り響かせながらとんでもない速度で私たちの間を駆け抜けたのは……。
まるで紙のように吹き飛ばされる少女たち。一秒にも満たない時間で彼女たちから今までの努力と十数年分の思い出を奪ったその影は、金属の身体を持つ蟲さえも文字通り粉砕して私から三十メートルほど離れた雪の大地に突き刺さり、轟音と共に降り積もっていた雪を舞い上がらせて停止した。
「……」
皆が皆、戦闘中だというのに動きを止めてそちらへと目を向ける。
覆っていた雪ごと抉り取られたアスファルト。その周囲には人や蟲の千切れた手足が、玩具箱をひっくり返したように散らばっていた。けれど、それらは特に気にするようなものではない。蟲との戦闘では、よく目にする光景だ。
問題は、皆の視線の先にある、まるで墓標のように大地に突き刺さっている槍のような影にあった。それは勿論、槍などではない。そこに突き刺さり絶命しているのは、大きなマッチ棒に四枚の長くて薄い羽根をくっ付けた、まるで飛行機のような形状をしている生物。
(そんなっ)
皆よりも近い場所にいた私は逸早くそれの正体に気付き、慌てて空を見上げて言葉を失った。私に続いて空を見上げた人たちも、一様に表情を強張らせる。
灰色に濁った空には、私たちに死を告げる幾つもの小さな点が存在していた。
「嫌よ……」
引き攣った顔で空を見上げていた少女たちのうちの一人が、「死にたくない」と悲痛な声を上げた。それが引き金となり、その言葉はまるで伝染病のように少女たちの間で広がっていく。
顔を蒼白にして怯え始めた彼女たちを見て、私は「ふざけるな」と吐き捨てた。
耳を澄ませば、薄い羽根を震わせている耳障りな音が聞こえてくる。空に浮かんでいる幾つもの小さな点の正体は、鋼鉄の身体に加えて人間と同程度の大きさを持つトンボだ。彼らの攻撃手段は原始的且つ単純で、己の身体を使った体当たりのみである。けれど、それを避ける事のできる人なんて存在しないだろう。なぜなら、彼らの最高速度は音速に達するのだ。
そんな彼らが、この場所を目標に攻撃を仕掛けてくる。直撃すれば、私たちなど一瞬で肉片に変えられてしまうだろう。たとえ直撃は免れても、近くを通り過ぎただけで、その速度が生み出す衝撃によって身体を引き裂かれてしまうだろう。敵味方など関係なく、ここに存在している全ての生物がそうなるはずだ。
(死にたくない? 今更何言ってるのよ。覚悟、決めていたんでしょう? 私よりずっと強いんじゃなかったの?)
場が混乱を極める中、生き残っていた蟻に向けてだろう――私の近くで魔法使いが魔法を放った。けれど、眩いばかりの輝きを放つ灼熱のそれは、あろう事か味方である他の少女に直撃してしまう。
(何なのよっ、あなたたちはっ!)
火達磨になった少女は、悲鳴を上げる事すらできずに雪の上をのた打ち回った。彼女もまさか、仲間にそんな目に遭わされる思ってなかった事だろう。炎自体はすぐに消えたが、彼女の頭髪は焼けて失くなり、身体の大部分は炭と化していた。
(私の事、ずっとお荷物って呼んでたくせにっ)
私を蔑み、直接そう呼ぶ人がいた。そうでない人も、私を見る目にはいつも侮蔑が込められていた。それでも、私と違って彼女たちには戦えるだけの力がある。そう認めていたから、今まで何を言われても耐えてきた。
(私がまともに戦えなくなったのは、全部あなたたちのせいじゃないっ!)
それなのにこの有様では、私は今まで何の為に耐えてきたのだろう。
逃げる場所なんて存在しないのに、どこかへ逃げようとする少女たち。蟷螂や蟻たちは、完全に恐慌状態に陥った彼女たちへと容赦なく襲いかかっている。
「落ち着きなさいっ!」
お姉さまが皆に向かって叫んでいるが効果は得られない。一度パニックに陥った人々を落ち着かせるのは、容易な事ではないのだ。
目の前に迫った死に少女たちが絶叫する。その中には、誰かの名を叫ぶ声もあった。きっと大切な人の名前なのだろう。
激しい土煙が上がって、あれほど強かった少女たちが木の葉のように吹き飛ぶのが見えた。引き千切られた身体の一部が雪に紛れて降ってくる。どうやらトンボが攻撃を開始したらしい。
爆音が鳴り響き、その度に爆風が巻き起こり、積もっていた雪が舞い上がる。それでも少女たちに襲いかかる蟲たち。彼らは死を恐れない。雨のような爆撃の中を躊躇する事なく前進してくる。こんな奴らに、覚悟のできていない彼女たちが勝てるはずもなかった。
「お姉さま……」
そんな中、皆を落ち着かせる事を諦めたらしいお姉さまは、たった一人で剣を振るっていた。間違いなくここで死ぬ事になるだろうに、それでも懸命に戦っていた。自分の命が尽きる直前まで、一匹でも多くの蟲を屠るつもりなのだろう。
その姿を見て、思い出した事がある。
「あなたには、私のせいで辛い思いをさせるわね」
それは、お姉さまの妹(スール)になった事によって、以前よりも口汚く罵られていたり嫌がらせを受けていた私が、お姉さまに謝罪された時の事。
「いいえ。私は、お姉さまの妹(プティ・スール)で幸せです」
お姉さまが私のお姉さまで、私は幸せだった。どんなに嫌がらせを受けても、どんなに罵られようと、私はお姉さまから受け取ったロザリオを返そうとは決して思わなかった。
「それに、謝らなければならないのは私の方です。私のせいでお姉さままで……」
姉妹(スール)になった事によって一番苦しんでいるのは、私ではなくお姉さまだろう。お姉さまは私以上に、私に対するに嘲りに耐えていた。私を妹(プティ・スール)に選んだ事によって、自分まで蔑まれていた。
それでも、
「ねえ、祐巳。私はね、どんなに状況が酷くても諦めた事がないの。どうしてなのか分かる?」
「……お姉さまが強いから、じゃないんですか?」
「いいえ、違うわ。それはね、祐巳が傍にいてくれるからよ。あなたが私に力を与えてくれるの」
「それなら、私も同じです」
「ふふっ、だったら――」
どんな時も傍にいて欲しいの、とお姉さまは言ってくれたのだ。
ああ、そうだ。私はお姉さまの傍にいなければならないんだった。お姉さまだけは、この身を盾にしてでも守ろうって決めたんだった。
その事を思い出して、お姉さまの元へと向かい始める。
少女たちの悲鳴や鳴り響く爆音なんて、私には雑音でしかなかった。身体のあちこちを撒き散らしながら次々と死んでいく仲間や蟲の事なんて、全く目に入ってなかった。
(お姉さまを守らなきゃ……)
私はお姉さまの背中だけを見ていた。お姉さまの姿しか目に入っていなかった。
(命に代えても守らなきゃ……)
だから私は、自分に近付いてくる存在に全く気付いていなかった。
「痛っ」
突然背中に強い衝撃を受けて、冷たい雪の上を転がる。転倒する直前に一瞬だけ見えたのは、半狂乱になって何事か喚いていた少女の横顔。彼女は、私よりも強くて、私を嘲笑っていた少女たちのうちの一人だった。どうやら私は、錯乱状態に陥っている彼女に突き飛ばされてしまったらしい。
(そんな有様で、今までよく私を笑えていたものね)
私を蔑んでいた彼女と同じように、遠ざかっていく背中を睨み付けながら彼女を見下す。それは、ほんの僅かな時間の出来事。けれど、そのほんの僅かな時間が私の――そして、お姉さまの運命を決めた。
少女の背中を睨み付けていた私のすぐ後ろから聞こえてきた物音。それは、何か重いものが雪を踏み締めるような音だった。
(なっ!?)
冷水を浴びせられたような感覚。全身を襲ったとてつもない悪寒に息を呑み込むよりも早く背後へと振り返り、そこに存在していた生物を見上げて悟る。
先ほどの彼女は、私を身代わりにしたのだ、と。
「あ……」
私の目の前には、走り去って行った彼女を追っていたのだろう蟷螂が、私という新たな獲物を前にして刃と化している強靭な前脚を大きく振り上げている姿があった。
(嘘でしょう?)
その前脚に、真新しい血液と鮮やかな色をした肉の欠片がへばり付いているのが見えた。
避けなければ、と考えるよりも早く、生きようとする本能が身体を突き動かす。けれど、まだ立ち上がってすらいなかった私は、それから逃れられるような状態ではなかった。
(こんな終わり方だなんて……)
ずっと馬鹿にされ続けていたが、今まで一緒に戦ってきた。彼女の事は好きではなかったけれど、それでも味方だと思っていた。戦ったり守ったりして死ぬのならともかく、身代わりにされて死ぬなんて考えた事すらなかった。
(お姉さま……私、悔しいよ……)
幾人もの仲間の命を奪った化け物の前脚が、自分に向かって振り下ろされるのをどうする事もできずに見つめていた私は、
「祐巳っ!」
私の名を叫ぶ声と共に横合いから突き飛ばされた。
鼻先を掠めるように、化け物の刃のような前脚が空気を切り裂きながら通り過ぎていく。という事は、その刃はもう私に当たる事はない。私は、眼前に突き付けられていた死から逃れられたのだ。
でも、それを喜ぶ事なんてできなかった。
(今の声――)
通り過ぎていく刃を目で追い、その先に存在する人の姿を視界に入れた時、私は悲鳴を上げていた。
「やめてぇっ!」
化け物の刃の向かう先には、私の大好きな人の姿があった。
(お願いだから――)
必死に手を伸ばしながら乞い願う。
(その人だけは殺さないでっ!)
けれど、その願いは届かなかった。私の身体は突き飛ばされた勢いで強制的に地面へと向かっていて、伸ばした手は空を切っただけだった。
「お姉さまっ」
夥しい量の血液が雨のように降り注いだ。生暖かな飛沫に視界が紅一色に染まる。
「あ……あぁっ……」
私の目の前には、首から噴水のように血を噴き出しながら力なく揺らめいているお姉さまの身体があった。その手に握られていた愛用の長剣が地面へと滑り落ちる。
「ああっ、そんな……」
私の足元に、刎ね飛ばされたお姉さまの頭部が転がってきた。凛とした笑顔の似合っていたその顔は、血と雪に塗れてしまっている。
「…………る」
お姉さまの首を刎ねた化け物が身体を反転させた。先ほど逃してしまった獲物である私の命を刈り取ろうと、お姉さまを殺した時と同じようにその前脚を大きく振り上げる。
「……てやる」
それを目にした瞬間、私の中で湧き上がったものは、
(殺してやるっっ!)
己の身を焦がすほどに熱く、研ぎ澄まされた刃のように鋭く、闇よりも昏い感情だった。生まれて初めて抱いた明確な殺意と呼ぶ事のできるそれが、私の身体を突き動かす。
振り下ろされる刃を回避する事なんて考えない。身体を起こしながら体当たりするように蟲に向かって踏み込んだ。
攫われた前髪が数本、羽毛が舞い散るように落ちていく。振り下ろされた刃は私の頬を掠めて、防寒用のコートをその下に着込んでいた制服ごと切り裂いて地面へと突き刺さった。
「うあ゛あ゛あ゛あああああぁぁぁぁあああっっっ」
裂かれた頬の灼け付くような痛みに悲鳴を上げながら、伸ばした手を蟲の顔面へと突き付ける。
(今の私でも――)
感じる、僅かな世界のざわつき。
(一対一なら、お前くらい十分殺せるっ!)
私に力を貸してくれる存在が、ここに集う。
蟷螂の顔面がプチプチと音を立てて、沸騰したように幾つもの気泡を作って醜く歪んだ。私という死から逃れようと、狩人から獲物と成り下がってしまった蟲は身を捩り、鋭い前脚を滅茶苦茶に振って抵抗する。
(痛い? 苦しい? でも、絶対に許さない)
振り下ろされた刃が私の肩に突き刺さる。けれどその一撃は、着込んでいる服を裂いただけに終わった。私に与えられる苦痛からか、蟷螂の前脚にはそこから先を切断できる力なんて残されてなかった。それは、今までに何人もの人間を殺し、お姉さまの首を刎ねた蟲とは思えないほど弱々しくて哀れな抵抗だった。
(……今、楽にしてあげる)
歪んでいた蟲の頭部が耐久力の限界を超えて、青い体液を撒き散らしながら四方に弾け飛んだ。
肺に溜まっていた空気を一気に吐き出しながら、弾け飛んだ肉の破片を目で追う。粉々になりあちこちへと散らばった銀に輝く蟲の欠片は、残されていた身体ごと溶けるように崩れて綺麗さっぱり消え失せた。後に残ったのは、蟲の血液である青い染みだけだ。
(どうしてあなたたちには……)
綺麗に死ぬ事が許されているのだろう? 彼らに殺された人たちは皆、無惨な屍を晒しているというのに。
頬から流れる血が、泥と雪の混ざった大地へと落ちる。白く濁った吐息は、灰色の空へと昇っていく。
静かだった。
現在も爆音が鳴り響き、少女たちが悲鳴を上げながら死んでいるはずなのに、私の周囲だけ音が失われてしまったかのように静かだった。
足元に視線を落とす。
そこには、もう私の名を呼ぶ事はない、私を好きだと言ってくれた世界で一番大切な人の亡骸が転がっていた。
(お姉さま……)
この身を盾にしてでも守るって決めていたのに、ずっと守られているだけだった。誰に何を言われても、耐えて、耐えて、耐え続けてきた結果がこれだ。お姉さまにとって、私は最期まで足手纏いでしかなかった。私がもっと強ければ、お姉さまが死ぬ事はなかっただろう。私がお姉さまの妹(スール)として皆に認められていれば、こんな事にはならなかっただろう。私のせいだ。私がお姉さまを殺したのだ。
冷たくなったお姉さまの頭部を胸に抱いて、私は私を呪った。
いつの間にか、あれほど鳴り響いていた音が聞こえなくなっていた。舞い上がっていた雪も今はもう晴れている。
私の身体は降り続ける雪によって芯まで冷えていた。感覚の鈍くなった身体に鞭打って、未だ流れる涙を拭い積もっていた雪を払いながら立ち上がった私が目にした光景は、生きている限り忘れる事はできないであろうものだった。
動く者の気配のない、見渡す限り瓦礫の山。いったいどこの部位なのか判別できないほどに破壊された少女たちだったもの。絶え間なく降り続ける雪は彼女たちの血を吸って、まるで赤い絨毯でも敷いたように真っ赤に染まっている。
私は一人でその光景を見ていた。性質の悪い冗談か、さもなければ神様の嫌がらせとしか思えない。この戦闘での生存者は、私一人だけだった。
燃え盛る炎。空へと昇っていく煙。
私は皆の亡骸を包む炎を見つめていた。
あちこちに散らばっていた皆の身体の欠片を拾い集めながら、何度死にたいと思った事か。何度、自殺を考えた事か。でも私は、お姉さまに救われたこの命を自分の手で絶つ事なんてできなかった。
赤々と燃える炎の中には、私を身代わりにしようとした人の亡骸もある。彼女は、私がお姉さまを失った場所から少し離れた所で見つかった。
この手で殺してやりたかったほど憎かったはずなのに、彼女の亡骸を見つけた時の私は、内臓を引き摺り出された上に顔の半ばまでを断ち割られているという惨い死に様を前にして言葉を失い、ただ立ち尽くす事しかできなかった。
彼女たちの亡骸を焼いていた炎が小さくなって全てが燃え尽きた時、帰ろう、と思った。私たちの帰還を待っているはずの、優しい友人たちのいる場所に帰ろう、と。
お姉さまを失った事は辛くて悲しい。未だに涙は止まらなくて、心は悲鳴を上げ続けている。それでも、ここで立ち止まる事は許されない。だって、まだ戦いは終わっていない。この世界は今も存在している。そして、私はまだ生きているのだから。
(何で笑っているの?)
学園に戻った時、皆が私を遠巻きに見ていた。何がおかしいのか、彼女たちは皆、私を見て笑っていた。
(どうして笑えるの?)
見ていて吐き気を催すほどの笑みを浮かべたまま、少女たちが近付いて来る。
「ごきげんよう、紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)。ああ、違ったわね。今のあなたは紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)になるのよね。あなたが一人で帰ってきたって事は、そういう事なんでしょう?」
彼女たちのうちの一人が、歪んでいる笑みを益々歪ませながら言った。
(私がお姉さまを失った事がそんなに嬉しいの? そこまであなたたちは壊れていたの?)
今すぐこいつを黙らせろ、と誰かが叫んだような気がした。その声が自分の声に似ているように思えたのは、果たして気のせいなのだろうか。
「蓉子さまが亡くなられて良かったわね。そんな実力も持ってないくせに、薔薇さまになれるのだから。……うん? ひょっとして」
何かを思い付いたらしい少女が、口元に厭らしい笑みを貼り付けたまま目を細める。
「蓉子さまを殺したのは、あなたなんじゃない? ねぇ、紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)。そうなんでしょう? そんなにまでして薔薇さまの称号が欲しかっ――」
全てを言い終える前に、彼女の腕が肘の所で弾けた。
「ぎゃあああぁぁあああっ」
千切れた腕が何かの冗談のように宙に舞う。一呼吸遅れて、彼女が悲鳴を上げながら地面へと倒れ込んだ。
「痛いっ! 痛いっ! 痛いぃ!」
「痛い? あんな事を言えるあなたにも、痛みなんてものがあったんだ?」
今までの自分からは信じられないような言葉が、私の口から出た。
少女がのた打つごとに千切れた腕から溢れた血液が飛び散り、真っ白な雪を朱に染め上げた。
「でも、もう壊れているあなたに、そんな大層なものは必要ないよね」
短くなった腕を押さえながら悲鳴を上げ続けている少女の顔を、手加減なしに蹴飛ばしてやる。鼻の潰れる音がして、血の付いた歯が降り積もった雪の上に数本転がり――少女の悲鳴がやんだ。
「好きで姉妹(スール)になって何が悪い?」
それでも私は止まらなかった。
「私たちが姉妹(スール)になって、それであなたに何か迷惑かけた?」
彼女を許すつもりなんてなかった。私は何度も何度も彼女を嬲り続けた。
皮が剥がれて肉が剥き出しになる。飛び出した目玉が潰れて瞼からぶら下がる。私が足を振り抜く毎に彼女の頭が弾けるように後方に仰け反り、その度に真っ白な雪が彼女の血に染まった。
誰も私を止めなかった。だからきっと、私の行動は正しいんだ、ってそう思った。
「ほら、これでもう痛みなんてなくなった」
ピクリとも動かなくなった彼女の顔を踏み付けながら、「そういえば」と滑稽なほどに顔を引き攣らせている少女たちへと視線を向ける。
「あなたたちも笑っていたよね?」
優しく微笑みながら言ってやると、彼女たちは一斉に悲鳴を上げながら私の前から逃げ出した。
「……ぷっ……くくっ」
遠ざかっていく少女たちの背中を見つめながら、堪え切れずに吹き出してしまう。
「ははははっ、ばっかじゃないの?」
だって彼女たちは、私程度の相手なら一瞬で殺してしまえるほどの力を持っているのだ。それなのに逃げた。「足手纏い」と蔑んでいたはずの私の前から、我先にと逃げ出したのだ。これを我慢するなんて、そんな事できるはずがない。
「あははははは、くふふふははははは」
おかしくておかしくて堪らなかった。腹を抱えて、はしたなく笑い続ける。さすがに雪の上を転げ回ったりはしなかったけれど、笑い過ぎて涙まで出てくる始末。
そうやって息も絶え絶えに、まるで気が狂ったように笑っていると、
「祐巳さんっ!」
私の名を呼ぶ、聞き覚えのある声が耳に届いてきた。
「ははは……はぁ、はぁ。はぁ――――あ。ふぅ、苦しかった」
目尻に溜まっていた涙を拭い、乱れに乱れていた呼吸を整えてから声の聞こえてきた方へと身体を向ける。そこには、白薔薇のつぼみ(ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン)にしてクラスメイトでもあり、また友人でもある藤堂志摩子さんが苦しそうに肩を上下させている姿があった。おそらく、私が一人で帰ってきた、と誰かから報せを受けてここまで急いで来たのだろう。
「ただいま、志摩子さん。見れば分かると思うけど、生き残ったのは私だけなんだ。お姉さまも他の人たちも、皆死んじゃったの」
淡々と告げた私に志摩子さんが眉根を寄せる。お姉さまを失ったとは思えないほどの落ち着きを見せる私に対して、何かしらの疑問を抱いたらしい。
私の顔をじっと見つめながら、
「祐巳さん……よね?」
真顔でとても不可思議な事を尋ねてくる。
「あはっ、おかしな志摩子さん。私が他の誰かに見えるの?」
逆に尋ねてやると、志摩子さんの視線が私から、私の足元に転がっている少女へと向けられた。
「その子は……?」
「これの事?」
血塗れの少女を指差しながら簡潔に答えてやる。
「悪い子だから躾けてあげたの」
少しやり過ぎちゃったみたいだけど、と苦笑いすると、志摩子さんの瞳が大きく揺らいだ。
「いったい……どうしてしまったの? あなたに何があったの? お願い祐巳さん。きちんと話して」
戦場で私が体験した事を知りたいという志摩子さんの言葉に、「別に」と顔を俯ける。
「私が弱かったからお姉さまを失った。それだけよ」
視線の先には赤黒く汚れた皮靴。黒一色だったはずの私の靴が、なぜ赤黒い?
口元に三日月形の笑みが浮ぶ。
「でもね、そのお陰で気付く事ができたんだ」
元がどんな顔だったのか、すっかり分からなくなってしまった少女を見下ろしながら嗤う。
「どいつもこいつも壊れているから、言葉だけじゃ届かないんだって」
しんしんと降り続ける雪を手のひらで受け止めながら嗤う。
「力尽くで従えるしか方法はないんだって」
煙となったお姉さまたちが昇って消えた空を見上げる。
(でも)
たくさんの雪が私に落ちてくる。降ってくる雪の向こうには灰色の空があって。
(本当にそうなのかな……)
どうしてだろう。私にはその灰色が幾重にも滲んで見えた。
きっと、正して欲しかったんだと思う。お姉さま以外の心を許していた友人に。自分ではもう、何が正しくて何が間違っているのか、分からなくなってしまっていたから。
「ねえ、志摩子さん」
縋るように志摩子さんへと視線を向ける。
「他に方法があるのなら、私に――」
教えて欲しい、と続けようとしたのに言葉にならなかった。代わりに、「何で……」という力のない言葉が震える唇から出てくる。
「何よ、それ」
気付かなければ良かったのに、気付いてしまった。志摩子さんが、まるで化け物でも見ているかのような目をして私を見ている事に。それは、私を前にして逃げ出した、あの少女たちと同じ目だった。
「やめて……よ」
彼女はその美しい瞳に血で汚れた私を映して、身体を小さく震わせながら怯えていた。
「やめてよっ! どうしてそんな目で私を見るの!」
数少ない友人の一人である彼女に、そんな目を向けられたくなかった。きっと何かの間違いだって、そう信じたかった。
けれど――。
私の叫び声に、自分が何をしてしまったのか、ようやく気付いた志摩子さんが慌てて取り繕う。
「違うのっ! 私は、その……」
私から目を逸らしながら。私という化け物から目を背けながら。
こんな人に縋ろうとしたのかと思うと、悔しくて堪らなかった。こんな人を今まで信じていたのか、と自分の愚かさに吐き気まで催した。彼女と私を繋ぐ大切な何かがプツリと切れてしまった。
「もういい……」
溢れる涙を見せまいと顔を俯かせる私に、「待って」と志摩子さんが手を伸ばしてくる。
「言い訳なんて聞きたくないっ」
「あっ」
その手を強く払い除けると、よろけた志摩子さんが体勢を崩して地面に倒れ込んだ。
真っ白な雪は静かに降り続ける。私と志摩子さんの上にも落ちてきて積もっていく。罪も同じだ。まるで雪のように重なり積もっていく。
子供が親に縋るように、私を見上げてくる志摩子さんを見下ろす。
「あなたなんて友達じゃない」
「――」
私の言葉によって、志摩子さんの表情に深い絶望の色が刻まれた。
それを目にしても私の心はちっとも痛まなかった。それどころか、余計に腹が立つ。どうして彼女がそんな表情を浮かべる? その表情を浮かべる事が許されるのは、私の方のはずだ。
「でもね、志摩子さんには感謝しているんだよ?」
ぼんやりと、どこか遠くを見ているような彼女に近付き、凍えて赤くなっているその耳元で囁いてやる。
「他人なんて信じるだけ無駄なんだって、私に教えてくれたんだから」
彼女の美しい双眸が大きく見開かれ、そこから零れる涙を見た私は昏い笑みを深めた。
お姉さまと出会い、短い間ながらも至福の時を過ごしたこの学園には、たくさんの思い出が残っていた。
薔薇の館。古びた温室。音楽室や図書館。体育館もそうだ。お姉さまと母が愛していたこの学園は、どんな事をしてでも守ろうと思う。けれど、この学園に存在する、他人の足を引っ張る事しかできない蟲以下の奴らはどうでもいい。
あの忌々しい虫ケラ共も、私の邪魔する人たちも、私やお姉さまを蔑んでいた糞みたいな奴らも、その全てが私の敵だ。しかし、残念ながら生まれた時から備わっていた特殊な力は殆ど使えない。あの戦闘で私が生き残れたのは奇跡だ。今の私は誰よりも弱い。だから、強くなろう。お姉さまのように。何十回も何百回も戦闘を繰り返せば、こんな私でもきっと強くなれるはずだ。
いつしか皆が私を「化け物」と呼ぶようになった。
それで良い。私は化け物だもの。
皆が私を「壊れている」と指差す。
それでも良い。本当の事だもの。
弱さなんていらない。
痛みなんていらない。
優しさなんていらない。
誰も信じない。
そうすれば――。
私の心は痛まない。
傷付けられても傷付かない。
ねえ、お姉さま。
私はもう大丈夫だよ。
痛みなんてなくなったから平気だよ。
どんなに傷付いても平気だよ。
お姉さまを失ってから一年が経った。私は今日も戦場へと向かう。
この身に死が訪れるその瞬間まで、私は私の敵を壊し続けてやる――いつものように、そう心に誓いながら。
*
「この私が、お姉さまを殺したのよ」
「祐巳さまが……殺した?」
歪んだロザリオを見て目を見開いている瞳子ちゃんに、祐巳は「ぷっ」と吹き出した。
「なーんてね。冗談に決まってるでしょ」
「え? 冗談って……なっ、何ですか、それは!」
眼光鋭く祐巳を睨み付けながら瞳子ちゃんが怒鳴る。おそらく今の瞳子ちゃんが浮かべている表情は、彼女の持っている幾多の表情の中でも最も怖いものに分類されているものだと思われる。
私じゃなかったら泣いてるかもね、と祐巳は苦笑いを浮かべた。
「まさか本気で信じてくれるとは思わなかったよ。瞳子ちゃんって純粋なんだね」
「くっ、少しでもあなたを信じた私が馬鹿でした」
では、今日から密かに馬鹿と呼ぶ事にしよう、と瞳子ちゃんを生温かな眼差しで見つめる。
「不快な視線を感じます」
「それはきっと、私じゃないと思うよ」
「へえ、そうですか」
睨むのはやめようね。可愛い顔が台無しだよ。ほら、笑って笑って。笑え! と念力を送ってみると瞳子ちゃんが眉を顰めた。
「何をしていらっしゃるんです?」
「いや、瞳子ちゃんを笑わせてみようかと思って」
「確かにおかしな顔をされていますが、普段とあまり変わりませんね」
意地悪そうに唇の端を吊り上げながら瞳子ちゃんが言う。
非常に腹が立った。言い返せない自分に。
*
「ちょっといい?」
放課後になったと同時に由乃さんから声をかけられる。話を聞くと、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)が祐巳を呼んでいるらしい。
何でも、志摩子さんを除く山百合会のメンバーが薔薇の館に集まって昼食を食べている所に、真美さんが写真の件で訪ねてきたとか。という事は、祐巳に写真を返した後、彼女はすぐに薔薇の館へ向かったのだろう。さすがは真美さん仕事が早い、と感心するついでに三奈子さまのしょんぼりしている顔が思い浮かんだ。
それから美人で朝に弱い人としか認識していなかった祥子さまについても、いつかは呼び出されるだろうな、と考えてはいたのだけれど、こんなに早いとは思ってなかったので、なかなかのやり手のようね、と少しだけ感心した。
由乃さんに案内されながら、見慣れたレンガ道を通って薔薇の館へと向かう。そういえば、初日の探索時にはこちらへと足を進めなかった。校舎から見えるのに、わざわざ足を運ぶ事もないだろう、と思ったからだ。それに、用もないの尋ねるには少し気が引ける場所でもある。
「写真、見付かって良かったわね」
「だからといって、すぐに騒ぎが収まるわけじゃないと思うんだけど」
由乃さんに話しかけられて、祐巳は溜息混じりにそう返した。でも、悲観はしていない。その事については、かわら版で訂正される事によってある程度は鎮静されるだろうから。
「そういえば、由乃さんってお昼はいつも薔薇の館で摂ってるの?」
祐巳がこの世界に来て三日経つが、由乃さんが教室で昼食を摂っている姿を見た事がない。彼女はいつも昼休みを告げるチャイムが鳴ると、お弁当片手に教室から出て行くのだ。
「いつも、ってわけじゃないわ。今は生徒会役員選挙が間近だから、そうなる事が多いだけ」
立ち会い演説会での演説内容を考えているそうだ。確かに、薔薇の館なら静かだし、そういった考え事に適した場所だと言える。また、お姉さま(グラン・スール)の黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)にアドバイスをもらったりもしているらしい。
「素晴らしい演説を期待しておくね」
「余計なプレッシャーかけるのはやめてよね」
祐巳の一言に由乃さんが心底嫌そうな顔をした。
その後も適当に会話しながら歩いていると、ようやく薔薇の館が見えてきた。
薔薇の館とは、高等部校舎の中庭の隅にある、教室の半分ほどの建坪を持つ古ぼけた木造二階建ての建物の事だ。この建物は山百合会が管理していて、幹部である薔薇さま方が生徒会の仕事をしている場所でもある。
「祐巳さんは、ここに来るのは初めてよね」
「うん。だから、凄く緊張してる」
「……そうは見えないんだけれど」
そりゃ、緊張なんてしてないし。由乃さんってば結構鋭いね。そんな失礼な事を思っていると、由乃さんが扉の前で立ち止まって咳払いをした。
「ようこそ薔薇の館へ」
それ、同じような事を真美さんが言ってたんだけど流行っているの? とは聞かないであげた方が良いのだろうか、と密かに悩む。別に悩まなくても良いのかもしれないが。
「さ、入って入って」
「入るのは良いんだけど、何で手を握るの?」
僅かに戸惑いながら視線を落とす。祐巳の手は、由乃さんの手によってガッチリとロックされていた。
「いいからいいから、そんな事は気にしない」
強引に手を引かれて足を踏み入れる事になった館の内部は、外観と同じくやっぱり古ぼけていた。一階は小さな吹き抜けのフロアで、入り口から見て右側には扉があり、左側にはやや急勾配な階段がある。
(やっぱり構造も向こうの世界と同じなんだね)
という事は、そこの階段を上り切って右手側にある部屋が会議室のはずだ。
手を引かれたまま階段を上り、思っていた通りの場所にある扉の前に来た所で、由乃さんがようやく祐巳から手を離した。そのまま、なぜか祐巳を見つめてくる。
「どうしたの?」
「祥子さまに呼び出されたのを怖がって逃げ出すかな、って思っていたんだけれど、そんな心配は必要なかったみたいね」
「ああ、それで手を握っていたんだ? てっきり私に気があるのかと思ってた」
「どうしてそうなるのよ」
疲れたように溜息を吐きながら、由乃さんがビスケットに似た扉をノックする。返事はなかったけれど、由乃さんは構わずに扉を開けた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
由乃さんに続いて祐巳も挨拶をしてから部屋へと足を踏み入れる。
階段や廊下と同様に板張りの壁や床。廊下側を除く三方の壁に一つずつ木枠の出窓があり、そこには清潔そうなコットンのカーテンがかけられていた。
部屋の中央には割と大きな楕円テーブルがあり、そのテーブルの横に昨日見た美女が一人で立っていた。その美女が紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)――つまり、瞳子ちゃんのお姉さま(グラン・スール)になるかもしれない小笠原祥子さまだ。ただそこに立っているだけなのに気品が溢れて見えるのは、持って生まれた資質か。それとも、努力によって身に付けたものなのだろうか。どちらにせよ羨ましいものだ。
「ごきげんよう。あなたが福沢祐巳さんね」
「はい」
祐巳の返事を聞いて祥子さまが頷き、椅子に座るように促してきた。素直に従って綺麗に並べてある椅子の一つに座る。机を挟んで祥子さまの対面にある椅子だ。わざわざ端の方にある椅子に座るとか、出窓に腰掛けるとか、妙な捻りは入れない。
祐巳が座ると、部屋の隅に控えていた由乃さんがお茶を淹れる準備を始めた。と言っても、電気ポットからお湯を注ぐだけ。どうやら祐巳たちが来るよりも先に、祥子さまが水を足していたらしい。これには驚いた。見た目お嬢様然としていて、そんな事をするような人には見えなかったから。
祐巳が妙な感心をしていると、
「祐巳さんも紅茶で良い?」
カップを片手に由乃さんが尋ねてきた。『祐巳さんも』という事は、祥子さまも紅茶なのだろう。
「うん。でも、お砂糖を少し多めにもらえる?」
「分かった」
祐巳と祥子さまの前に、由乃さんが紅茶の入ったカップを置いた。祐巳の所には袋入りの砂糖が二つとスプーンが一緒に置かれる。祥子さまは、どうやら砂糖を入れないらしい。そういう主義なのか、たまたまなのかは知らないが、机の上にはカップしか置かれていない。
そんなどうでもいいような事を観察をしていると、祐巳の隣にある椅子に由乃さんが腰を下ろして、それが合図だったかのように祥子さまが口を開いた。
「こうして、まともに話すのは初めてね」
あの時あなたは寝惚けていたそうですからね、とは言わない方が良いだろう。この美女が、怒るとどんな顔になるのか興味があったりするのだけれど、話を円滑に進めるためにここはぐっと我慢しておく。
「そうですね。まさか紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)だとは思ってなかったので、後で知って驚きました」
「驚いたのは私も同じよ。まさか写真に撮られていたなんて思いも寄らなかったんだもの」
「写真を撮られていた事については私も祥子さまと同じなんですけど、その写真がかわら版に使われたのは私が落としてしまったせいです。ご迷惑をおかけしました」
祐巳は座ったまま深々と頭を下げた。今回の場合、間違いなく祥子さまは被害者である。もっとも、今回の騒ぎの原因の一人でもあるのだが。なぜなら、祥子さまが祐巳のタイを直したりしなければ、こんな騒ぎが起こったりはしなかっただろうから。でも、その事を指摘したりはしない。悪気があったわけではないんだろうし。
「気にしなくても良いわ。記事にされた事についても、嫌な気分ではなかったから」
「え?」
嫌味の一つでも言われるかと思っていた祐巳は、祥子さまの言葉に驚いてしまう。
「本当に、気分を害されてはいないんですか?」
「ええ」
頷く祥子さまを見つめながら、甘い人ね、と表情には欠片も出さずに思った。だって、祥子さまは紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)。今回の騒ぎを引き起こした祐巳に対して、もっと厳しくしても良いはずだ。
「祥子さまは、いつも昨日みたいに下級生のタイを直しているんですか?」
「いいえ、普段はあんな事はしないのよ。あの時は……」
祥子さまが言葉を区切り、迷いの表情を浮かべる。それを見て、祐巳はピンときた。おそらく瞳子ちゃんが言っていたあの事だ、と。
(告げ口するみたいで嫌なんだけど、この程度じゃ怒らない、って言ってたし……)
祥子さまの妹(スール)候補である瞳子ちゃんのお墨付きだ。祐巳がここでその事を喋っても、後で彼女が叱られるような事にはならないだろう。ここは瞳子ちゃんを信じてそれを口にする。
「朝に弱い、と聞きましたけど」
「……どうしてその事を?」
祥子さまのキョトンとした顔。きっとレアな表情だ。蔦子さんがこの場にいれば、泣いて喜びながらカメラのシャッターを切ったに違いない。
「瞳子ちゃんから聞きました」
「瞳子ちゃん? それって、松平瞳子ちゃんの事かしら」
名前を聞いて、すぐに自分の妹(スール)候補の事だと分かったらしい。というか、分からなかったら姉(スール)になる資格などないだろう。
「そうです。実は一昨日、ちょっとした事から知り合いまして、それから仲良くさせてもらっています。と言っても、瞳子ちゃんの方がどう思っているのかは私には分かりませんが」
祐巳がそこまで言った時、祥子さまが元の穏やかな笑顔を浮かべた。
「私が朝に弱い、と言ったのは瞳子ちゃんなのよね?」
「はい」
「それだけあなたに気を許している、という事ではないかしら。そういう事を誰にでも話すような子ではないもの」
そうなのだろうか。嫌われているとは思わないのだけれど、よく分からない。
「瞳子ちゃんの事、叱らないでくださいね」
「この程度の事でいちいち叱ったりしないわよ」
「それは良かった」
後で瞳子ちゃんに文句を言われなくて済みそうだ、と祐巳が胸を撫で下ろしていると、祥子さまが不意に表情を引き締めた。何か大切な事を話すみたいね、と雰囲気を読んだ祐巳も背筋を伸ばす。
「その瞳子ちゃんの事なのだけれど」
「何か?」
遂に姉妹(スール)になったとか? それなら「おめでとうございます」くらいは言ってあげなければ、と思っていたのだけれど、祥子さまの口から出てきたのはそれとは全く逆方向の言葉だった。
「私とは姉妹(スール)にならないと思うわ」
「は?」
祐巳は呆気に取られた。隣で祐巳たちの話を聞いていた由乃さんは、ちょうど紅茶に口を付けていた所だったらしくて激しく噎せいでいる。さすがに今の祥子さまの発言は、由乃さんにも予想外だったらしい。
鼻からは出てないから乙女としてはセーフよ! と由乃さんを応援していると、
「ケホッ。それは……ケホッ、今ここでおっしゃるような事ではないと思います」
無理やり自身を復活させた由乃さんがケホケホ咳き込みながら祥子さまに言った。
(うんうん、そうよね)
祥子さまが何を考えてあんな事を口にしたのかは知らないが、由乃さんの言う通りだと思う。だって、ここには祐巳がいる。もしかすると、今ここで聞いた事を誰かに言いふらすかもしれないのだ。
(でも、もう聞いちゃったし。今更だよね)
それに、面倒事に巻き込まれるのは嫌いなのだけれど、今の祐巳は好奇心の方が勝っていた。
「姉妹(スール)にならない、というのは、瞳子ちゃんを妹(スール)にする気がない、という事ですか?」
「逆よ。瞳子ちゃんが私の申し込みを断るの」
祥子さまが答えた所で、由乃さんから刺すような視線を感じた。これ以上余計な事は聞くな、という事だろう。悪いんだけれど無視する。
「って事は、もう瞳子ちゃんに申し込みはされているという事ですよね?」
聞かなくても知っているし、先ほどの『瞳子ちゃんが私の申し込みを断るの』という祥子さまの言葉は、既に瞳子ちゃんに申し込みをしている、と言ったも同然なのだが、瞳子ちゃんとの約束を守るために祥子さまの口からはっきりと聞く必要がある。
「ええ、申し込んでいるわ」
一昨日の瞳子ちゃんとは違って、あっさりと頷く祥子さま。これで、瞳子ちゃんとの約束を破る事なく会話を続けられる。
「どうして断られるなんておっしゃったのかは分かりませんが、それにしては平然とされていますね」
普通、妹(スール)に、と選んだ相手が自分の申し出を断ると分かっているなら気落ちしたりするものだと思っていたのだけれど、祥子さまからはそういうものが全く感じられない。
「それは瞳子ちゃんに申し込んだ理由が、私が山百合会の幹部だから、というものだからだと思うわ」
「申し訳ありませんが、意味がよく分かりません」
祐巳が告げると、自分でも説明が不十分だと感じていたのだろう祥子さまが「私としては妹(スール)なんて作る気はなかったのだけれど、山百合会の幹部としては瞳子ちゃんに薔薇さまを継いでもらいたい、という事よ」と付け足した。
確かに、一年生とは思えないほどしっかりしていて非常に好感の持てる少女だ。山百合会が彼女を欲しがるのも分かる。
「なるほど。それで、まだ妹(スール)を持たれていなかった祥子さまが申し込まれた、というわけですか」
「そういう事よ」
それならば、祥子さまが平然としているのも頷ける。小笠原祥子個人としては瞳子ちゃんの事を必要としていないから、断られても痛くも痒くもないのだ。
「瞳子ちゃんにはその事を?」
「申し込んだ時に伝えたから、知っているわ」
瞳子ちゃんが答えを保留しているのは、間違いなくそれが原因だと思う。自分の好きな人にそんな理由で申し込まれても、素直に「はい」なんて言えるはずがない。
「だから瞳子ちゃんは答えを先延ばしにしているの。このまま私の妹(スール)になるべきなのか、と」
祥子さまもそれは分かっているらしい。
「どうして妹(スール)を作る気がなかったんですか?」
祐巳の質問に祥子さまは神妙な顔つきで瞼を閉じ、一呼吸置いてから答えた。
「いない、と感じたからよ」
「はい?」
何を言ってるんだこの人は、と祐巳は眉を顰めた。
「ここには私が妹(スール)にしたいと思える相手がいない。そう感じたから妹(スール)を作る気がなかったの。ただ、それだけよ。おかしいかしら?」
クスリと笑う祥子さま。
ええ、おかしいです。そう思いながら、自分と同じ事を聞いて驚いているはずの由乃さんを盗み見る。ところが祐巳を止める事を諦めて静観を決め込んだらしい由乃さんの表情に、面白い変化は見られなかった。おそらく以前に聞いた事があるのだろう。その時は、どんな顔をしたのだろうか? 見たかったな、と残念に思った。
(それにしても、妹(スール)にしたいと思える相手がいない、ねぇ)
ここがこんなにも優しい世界だから、そんな事が言えるのだろう。もし可能であれば、あの滅ぶ事しか残されていない世界へと招待してやりたい。自分がどれだけ恵まれているのか、思い知らせてやる事ができるだろう。
「そんな事を私に話しても良いんですか。誰かに言いふらすかもしれませんよ」
「その事については心配してないわ。あなたはここでの事を誰にも話したりはしない。違う?」
「どうしてそんな事が言えるんです?」
祐巳の視線と祥子さまの視線が正面からぶつかり合う。
勘とか、それに似た根拠のない理由を述べるようなら馬鹿にしてやろうと思っていたのだけれど、
「あなたが、私に対して借りがあるから」
この朝に弱いお嬢様は、美人なだけではなく頭も相当切れるらしい。意地悪く微笑んでいる祥子さまに、祐巳は舌を巻いた。
祥子さまの言った「借り」とは、祐巳が写真を落とした事によって起きた今回の騒動に祥子さまを巻き込んでしまった事だ。しかも、それによるお咎めも一切なかった。
(今の状況を見越していたって事? もしそうなら評価を変えた方が良いわね)
それから、今は大人しくしているけれど、由乃さんという存在にも注意したい。同じクラスで行動を共にする事の多い彼女は、もしも祐巳があれこれと言いふらしたとしても、すぐにフォローできる立場にいるのだ。
(抜け目がないわね、祥子さま。まるで、お姉さまを相手にしているみたいだわ……)
何食わぬ顔で祐巳を困らせていた人を思い出しながら、嘆息すると同時に肩の力を抜く。
「もう一つ。言いふらすと瞳子ちゃんを巻き込むから、と付け加えておいてください」
個人的な妹(スール)としては全く必要とされていない妹(スール)候補、なんて噂になったら、瞳子ちゃんは良い気がしないだろう。案外ムキになって祥子さまの妹(スール)になろうとするかもしれないけれど。
「優しいのね」
「他人に迷惑をかけるのが嫌いなだけです。ですから、ここでの話を言いふらすつもりはありません。借りもありますし、好き好んで余計な騒ぎを起こす趣味もありませんから。約束しても良いです」
「良い返答だわ」
満足したように微笑む祥子さま。
なーんだ。せっかく見直してあげたのに最後の最後で甘いのか、と呆れる。他人なんて口ではどう言っていても、心の中では何を考えているのか分からないのに。信じていても、裏切られるかもしれないのに。
(でも……)
微笑んでいる祥子さまを見て、こんな風にも思う。
この優しい世界であれば、甘くても良いのかもしれない、と。
「あんな祥子さま、初めて見た」
祥子さまとの会話を終えて見送ってくれるらしい由乃さんと一緒に部屋を出ると、不思議そうな顔をしながら彼女が言った。
「どういう事?」
「いつもは、もっとピリピリしているのよ。というか、そうではない日はないわね」
由乃さんはそう言うが、今日初めて祥子さまとまともに会話をした祐巳にはピリピリしている彼女の姿なんて全く想像付かなかった。というか、あんなに甘い人が普段はピリピリしているっていう方が信じられない。
「それなのに今日の祥子さま、凄く穏やかな顔してた」
「ふうん」
穏やかだろうがピリピリしていようが祐巳にとってはどうでもいい事なので適当に流していると、由乃さんが急に真顔になる。これにはちょっぴり驚いた。ここ数日行動を共にしている由乃さんの、こんなに真面目な表情なんて見た事がなかったから。
いったいどうしたのだろう、と身構えてみるが、
「祥子さまと話している時、私が祐巳さんを止めようとしていた事に気付かなかった?」
そう尋ねられて「ああ、その事か」と脱力してしまう。身構えていた自分が馬鹿みたいだ。
「余計な事は聞くなって、私を睨んでいた事なら気付いてたよ」
あそこまであからさまな視線を向けられて気付かないはずがない。さも当然のように答えてあげると、由乃さんが非常に分かり易く不満顔になった。
「それってつまり、無視したって事よね。どうして?」
「気になったから」
「は?」
美少女らしからぬ間の抜けた顔を披露してくれた由乃さんに、それでこそ由乃さんだわ、と心の中で賞賛を贈る。
「それだけ?」
それ以上に何があるというのだろう。もしも何かあるというのなら教えて欲しい。びっくりしてあげるから。
「何事も気になったらはっきりさせておかないと気が済まない性格なんだよね」
「……」
由乃さん、俯いて何事かを思案中――と、何か思い付いたらしい。急に顔を上げる。
「本当に祥子さまとは偶然会っただけなの? 何か隠している事があったりしない?」
残念ながら期待されるような事は本当に何もないのだ。
「実は、私の身体からは絶えず癒しの効果が溢れ出ているの。祥子さまはその虜だったりするんだ。由乃さんも私と一緒にいて癒されているような気がしない?」
「館の外まで案内するわ。そこからなら帰れるわよね?」
「酷いっ」
私の渾身のボケを流すなんて。それと、どこからでも帰れますぅ。
由乃さんと別れの挨拶を交わし、帰宅するために中庭を歩いていた祐巳は不意に違和感を覚えて立ち止まった。キョロキョロと首を動かして周囲を見回してみるが、おかしなものは見当たらない。
(気のせい? でも……)
確かに違和感を覚えた。そして、こういう時の自分の勘はよく当たるのだ。つい先日この世界に飛ばされてきた時もそうだった。もっともあの時は、異世界に飛ばされたという事に気付けなかったのだけれど。
今一度、自分を信じて注意深く周囲の様子を探ってみる。一定の間隔を空けて並んでいる棕櫚の木。その棕櫚の木の後ろに見える校舎。それらには不審な点は全く見当たらない。
振り返ると薔薇の館が見える。祥子さまたちとつい先ほどまで一緒にいた場所だ。当然のように、そちらにも不審なものは何一つとして見当たらなかった。
一見、普段と何の変わりもないリリアン女学園。けれど、祐巳はおかしな所を見付けていた。
(やけに静かだ。おまけに人の姿が全く見当たらない)
いくら放課後になって時間が経っているとはいえ、人の姿が全く見当たらないのはおかしい。この時刻なら、まだ部活動をしている生徒だっているはずなのだ。
(どうやらまた何か厄介事に巻き込まれたみたいね。これ以上の不思議体験はもう遠慮しておきたい所なんだけど)
現在進行形で体験中なんだし、と耳鳴りがしてくるほどの静寂の中で一人嘆いていた祐巳は、
「祐巳さん、久しぶりっ」
と背後から突然声をかけられた。
本来なら飛び上がりながら「☆×■◎※△――!?」なんて意味不明な悲鳴を上げても良い所なのだけれど、祐巳は微動だにせず、そればかりか振り返ろうとすらしなかった。
無論、驚いていないわけではない。全く気配を感じなかった上に、いつの間にか背後を取られていたのだ。驚かない方がおかしい。それでも悲鳴を上げたり振り返ったりしなかったのは、聞こえてきた声に祐巳に対する敵意というものが全く感じられなかったから。
そして何よりも、
「なーんだ、つまんない。祐巳さんの事だから、飛び上がって驚いていてくれるものだと期待してたのに」
その敵意はなくても悪意はあったらしい声が知っている人のものだったから、祐巳は背後を取られても慌てる必要がなかったのだ。
「期待を裏切ってごめんね。それから、てっきり冗談だと思っていたんだけど本当に神様だったんだ?」
「そう言ったじゃない。祐巳さんって顔に似合わず疑り深いんだから」
彼女の声と『久しぶりっ』という言葉から、背後にいる人物が誰なのかを特定するのは容易だった。なにしろ彼女は祐巳が一年生の頃のクラスメイトで、短い間だったけれど交流のあった人だから。
「確かに聞いた覚えはあるけど」
あちらの世界がまだ平和だった頃、「実は私、神様だったりするのよ。どう? 凄い?」とお弁当を食べながら言っていた元・クラスメイトの姿を思い浮かべる。
「食事中に突然あんな事を言われても、普通は誰も信じないと思うよ? というか、信じると思う方がどうかしてると思う」
実際に祐巳も、変わった人だな、今度からあまり近寄らないようにしよう、としか思わなかった。
「あの時の鳩が豆鉄砲食らったような祐巳さんの顔は最高に面白かったわ」
「でも残念ながら、私の背後にいる人以上の面白い顔はできないんだよね」
「……言ってくれるじゃない」
声のトーンを一段下げて不快感を露わに言ってくる。でも、声だけだ。彼女はきっと笑っている。以前と同じように、何を考えているのか分からない笑顔を浮かべているはずだ。
できる事なら相手なんてしたくないんだけどなぁ、と長い溜息を吐き出しながら祐巳は背後へと振り返った。
「ごきげんよう、桂さん。相変わらず冴えない顔してるね」
そこには、祐巳の記憶にある通りの同級生の姿があった。
「ごきげんよう。そういう祐巳さんこそ代わり映えのしない狸顔してるわよ」
桂さんは、祐巳の余計な一言に言い返しつつも満面の笑みを浮かべている。それは以前と変わらない笑顔で、そこからはやはり何を考えているのか全く読み取る事ができなかった。
「どうしてここにいるの?」
「祐巳さんに会いたかったから」
ふざけているのか、真面目に答えているのか、判断に苦しむ。別に真面目に苦しまなくても良いような返答ではあったのだけれど。
「ふうん、そうなんだ。会えて良かったね、おめでとう」
「ツレナイわね。友達なのに」
「友達? いつから?」
確かに交流はあったのだが、そんなに親しくしていた覚えはない。会話をしたのが数回で、一緒に食事したのが一度だけだ。他に何かあったかな? と祐巳が記憶を遡っていると桂さんが口を挟んできた。
「言い直すわ。余所の世界では友達なのよ」
「そうなの?」
「段々と忘れられていく程度の仲だけど」
「は?」
「私は祐巳さんの事が大好きだから、祐巳さんが困っていると必要以上に手助けしちゃいそうになるのよね。だから殆どの世界に於いて、できるだけ祐巳さんと顔を合わせないようにしているの。と説明してみた所で――」
祐巳さんは何の事か理解できないんだろうなぁ、と続ける桂さん。確かに、祐巳には全く理解できなかった。だからといって、理解できるように努力しようなどとは全く思わなかったが。
「えっと、何が何だかよく分からないんだけど、とりあえず」
自分では到底辿り着けないであろう遥かな高みに辿り着いているらしい桂さんを、眩いものを見るように目を細めて眺める。
「私が思っていた以上に、桂さんが変人だという事は分かった」
「酷いわね。いくら私でも面と向かって変人なんて言われると傷付くわよ」
言葉とは裏腹に桂さんは笑顔のままだ。その笑顔からはやはり、思考や感情といったものを読み取る事はできなかった。
「ごめんね。まさか桂さんに、傷付くような繊細な心があるとは思ってなかったんだ」
本当に厄介な人ね。そう思いながらも皮肉を交えた軽口は忘れない。
「それなら仕方がないわね。本来なら許してあげない所なんだけど、祐巳さんの事愛しているから特別に許してあげる」
「優しいね桂さん。今まで黙っていたけど、実は私もあなたの事愛していたの。だからさ、下らないお喋りはここまでにして、そろそろ用件を話してもらえる?」
本当に神様なのかどうかは別として、明らかに只者ではない彼女が人の姿の見当たらないこの不思議な空間でわざわざ接触を図ってきたのだ。何かしらの用件があると考えるのが妥当だろう。
「さすがは祐巳さん。頭の回転が早いと話も早くて助かるわ。でも、さすがにこれは知らないんじゃない?」
「何を?」
ちゃんと何の事か話してから尋ねてよ、と思うのは祐巳だけではないはずだ。
「第二世界を滅ぼしたのが、神様って事」
「へ?」
どこから話が繋がったのか。或いは飛んだのか、曲がったのか、逸れたのか。若しくは、まともに会話をする気がないのか。全く予想してなかった言葉に祐巳は一瞬呆けてしまう。
「……あ、えっと、神様が滅ぼした?」
「そうよ。第二世界は、あなたたちが軸と呼んでいる世界は勿論の事、そこから枝分かれして存在していた数多の世界も、一つ残らず神様によって滅ぼされたの」
「ふうん、あっそ。で? それがどうしたって言うのよ。そんな事、私には全く関係――」
ない、と言いかけた所で気付いてしまう。今まさに滅びようとしている世界を祐巳は知っていた。
「まさか……」
本当に笑っているのか、そうではないのか。桂さんは最初に姿を現した時と同じ笑顔で祐巳を見つめている。
「あの世界も?」
「ええ、その通りよ」
桂さんが満足したように頷き、ざわり、と世界がざわついた。
「ふ……ふふふふっ、桂さんったら。冗談を言っちゃ駄目な所で言っちゃったりすると、長生きできなくなるよ?」
ごく自然に険しくなった眼差しで桂さんを見る。祐巳の握った両の拳は小さく震え、皮膚が裂けてしまいそうなほどに突っ張っていた。
「冗談? ここで冗談を言う必要がないわ。あなたのいた世界も神様が滅ぼそうとしている。これは事実よ」
祐巳の刺し貫くような視線を受けながらも、動揺する事なく淡々と告げる桂さん。その口元がここにきて初めて、とても分かり易く愉しそうに釣り上がった。
「そして、あなたの大切なお姉さまも、それに伴う犠牲者の一人に過ぎなかったというわけ」
「あなたが本当に神様かどうか、私が試してあげる」
告げると同時に、祐巳の足元から巻き起こった突風が桂さんを呑み込んだ。進行方向にあった幾つかの木を巻き添えに、十メートルほど離れた校舎に到達するまでにかかった時間は限りなく零に近く、防御する事はおろか悲鳴すら上げる事のできなかった桂さんを確実に死に至らしめる速度で外壁へと叩き付けた。そのあまりの衝撃に校舎の一角は崩れ、中庭に面していた全ての窓ガラスが砕け散る。
けれど、
「参ったわね」
未だ崩れ落ちる外壁の上げる灰色の砂埃の中から、相変わらずの笑みを浮かべたまま桂さんが姿を現した。
彼女は無傷ではなかった。その証拠に左腕が力なく垂れ下がっており、指先から落ちた血液が地面に赤い染みを作っている。
「制服が汚れちゃったわ。でもまあ、それなりに収穫はあったから良しとするか」
そう言いながら、普通であれば痛みで動かせるはずのないその腕を桂さんは全く表情を変える事なく振った。すると、その一振りで彼女の腕は完全に治癒してしまったようだ。何度か拳を握ったり開いたりして感触を確かめるようにした後、何事もなかったかのように平然と祐巳に向かって歩いてくる。
その馬鹿げた光景を目の当たりにしても祐巳は全く動じなかった。別世界であるこの場所に自力で、しかも生身で来たらしい桂さんが普通の人間であるはずがないと思っていたからだ。
「士気は高く、統率も完璧。祐巳さんは彼らに愛されているのね」
桂さんの言った「彼ら」とは、祐巳に力を貸してくれる存在の事だ。そんなに珍しいものではなく大抵の場所で見かける事ができるが、場所によっては多かったり少なかったり、稀に全く存在していない時もある。
「でも、棕櫚の木まで破壊するのは感心しないな。限りある自然は大切にすべきだと私は思うわよ。ところで、確認はできた?」
一歩、また一歩、とゆっくりと祐巳に近付きながら尋ねてくる。どうやら自分が本物の神様だという事を確認させるために、先ほどの攻撃をわざと受けたらしい。
「うん、桂さんの協力のお陰で。信じたくないけど、本当に神様なんだね」
彼女は腕の傷を治すのに魔法を使用しなかった。あの腕の傷を振っただけで治してしまったのだ。それも、一瞬で。そんな事ができる人間なんて、見た事も聞いた事もない。
「一言余計だけど、信じてくれて嬉しいわ」
祐巳から五歩ほど離れた所で、桂さんがピタリと歩みを止める。そこは、あと半歩でも近付かれていれば、たとえ無駄になると分かっていても攻撃を開始する事に決めていた、そんな絶妙な位置だった。
「私としては厄介事が増えたような気がしてちっとも嬉しくないんだけど……あ、そうだ。厄介事と言えば、ここっていったいどうなっているの? 生き物の気配が全く感じられないんだけど」
人間も、その他の動物も存在していない、というのは気配を一切感じられない事から分かる。だから、桂さんに攻撃する事や、それによって校舎まで破壊してしまう事を躊躇わなかった。なにしろ祐巳が力を振るっても、それを目撃する人間や巻き込まれる動物が存在しないから。でも、どうして存在していないのかまでは分からない。
目の前に都合良く、彼女の仕業としか思えない神様がいるので疑問をぶつけてみると、
「感じ取れないのも当然ね。何たってここは、祐巳さんと会話するという目的のためだけに世界情報をコピーして作った場所だもの」
などとぶっ飛んだ答えを返してくれた。
「だから、人間とか動物とか、話をするのに邪魔となるものが存在していないわけ。ついでに言うと、祐巳さんが力を使い易くするためでもあったわ」
「ふーん」
何でもないように頷いて見せながら、神様ってデタラメも良い所だね、と内心で呆れ果てる。
(全部、お膳立てされていたって事か。で、そんな神様相手に私は喧嘩を吹っかけたってわけだ。勝てる見込みも自信も全くない上に、今更逃げるのも無理そう、と。いきなり手詰まり状態なんだけど)
世界を滅ぼしているそうだし、やっぱり殺されるんだろうな、と考えながら桂さんを睨み付ける。せめて虚勢を張る事くらいは許してもらいたい。
(神様なんだから寛大なんでしょ? できるなら、苦しまないように殺して欲しいな。慈悲って言葉を知ってるなら)
それでも、殺されるのを大人しく待つなんて真っ平御免なので、最後まで抵抗させてもらうつもりなのけれど。
「そんなに睨まないでよ。さすがの私も怖くなっちゃうから」
ちっとも怖がってない笑顔で桂さんが言ってくる。
「自分を殺しにきた相手を前にして、ニコニコしていられるほどの豪胆さは残念ながら持ち合わせていないんだ」
「何をどう面白おかしく勘違いしたのかは敢えて聞かないけど、殺したりなんかしないわよ。言ったでしょ、『祐巳さんの事愛している』って」
「……そういえば言ってたね。本気だったんだ?」
「勿論本気よ。そうじゃなきゃ、私に軽口叩いた時点で殺していたわ。愛の力って偉大よね。いきなり吹っ飛ばされた時は、さすがにムカッとしたけど。それから今言ってて思い付いたんだけど、今度からあの速度で人を吹き飛ばすのはやめた方が良いわ。私じゃなかったら確実に死んでいたわよ」
「そりゃ、敵な上に人間じゃないって判断したから殺すつもりだったし」
でも、ここの所の会話から、彼女が本当に敵であるのかどうかちょっと分からなくなってきたので確認してみる。
「桂さんは敵なの?」
「祐巳さんの言う『敵』が、あなたの世界を滅ぼそうとしている神様を指すのであれば、答えは間違いなくNOよ」
信じて良いのか分からないけれど、とりあえず信じてみても良いだろう。彼女が祐巳を殺す気であれば、回りくどい会話なんて抜きにしてさっさと殺していただろうから。
「それならそうと先に言ってよ。早とちりしちゃったじゃない。ごめんなさい、痛かったよね」
「怒らせるような事を言ったのは私だし、私は寛大な神様だから気にしなくて良いわよ」
「……他人の思考、読めるんだ?」
そうでなくては、このタイミングで『寛大な神様だから』なんて言葉は出てこないだろう。
「神様だもの。それくらい出来て当然でしょ」
当然なのかどうかは知らないが、どうやら先程の情けない思考は完全に読まれていたらしい。悔しくはあるが相手は神様。祐巳としてはどうする事もできない。
「まあ良いや。それじゃ、わざわざ口にする必要なんてないかもしれないけど、私を第五世界に戻せる?」
この場所は桂さんによって作られたらしい世界だ。という事は、この世界に祐巳を招待したのが桂さんであれば、彼女は望んだ場所に人を転移させる事ができる、そう考えての質問だった。
それに対して桂さんは、「戻せるわよ」と胡散臭い笑みを顔に貼り付けたまま頷いた。それは、祐巳が今一番期待していた答えだった。
「だったら戻してよ」
「嫌よ。祐巳さんが私をどう思っているのかはともかく、私にとって祐巳さんは大切な友人なんだもの。確実に死ぬと分かっている所に友人を送り返すだなんて冗談じゃないわ」
ようやく帰る手段を見付けた、と思った矢先に断られて、思わずカッとなってしまった祐巳をいったい誰が責められるだろうか。文句を口に出すより先に、祐巳の手は桂さんの胸倉を掴んでいた。
「あなたがどう思っていようと、そんな事は私に関係ないわ。私は帰りたいの。どうしても帰さないって言うのなら、力尽くでも――」
「そして祐巳さんを送り返した私は、どうしてあの時に送り返してしまったのか、って後悔し続ける事になるわけね? お姉さまを失ったあなたのように」
その言葉を聞いて、頭に上っていた血が一気に下がった。同時に、彼女の胸倉を掴んでいた手から力が抜ける。
桂さんの言った通りだったからだ。お姉さまと姉妹(スール)だった事を誇りに思っているのと同じくらい、自分と姉妹(スール)でなければお姉さまは今も生きていたはずだ、と後悔し続けている。おそらく自分は、これから先もずっと後悔し続けるだろう。
「……分かった。桂さんには頼まない。帰る方法は自分で見付けてみせるわ」
自分と同じような思いを、進んで他人にさせるような趣味はない。たとえその相手が神様で、胡散臭い桂さんだとしてもだ。
「思い直してくれて嬉しいわ。本気で力尽くでこられたらどうしよう、って内心怯えていたのよ」
「ちっとも怖がってないくせに何言ってるんだか」
祐巳がどう脅そうとも、持っている力に差があり過ぎて脅しになっていないのだ。桂さんがその気になれば、祐巳なんて瞬時に無力化する事ができるだろう。ニヤニヤと厭らしく笑っている彼女を見て、石でも投げ付けてやろうか、なんて考えながら足元に落ちている小石を靴の先で軽く小突く。
「この際だから聞いておくけど、こっちの世界の蓉子さまは?」
「元気にしてるわよ。詳しく知りたいのなら祥子さまに聞くと良いわ」
「そう言うって事は、祥子さまのお姉さま(グラン・スール)なのね?」
「そうよ」
「そっか」
予想はしていた。あちらの世界と同じく亡くなっているという可能性もあったのだが、父や母、祐麒や由乃さんという例を目にしているので、必ずしも当て嵌まるものではないと考えていた。その上で、蓉子さまは祐巳よりも二つ年上で祥子さまは祐巳よりも一つ年上という点を考慮して、祥子さまが現紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)という事は、あちらの世界で紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)だった蓉子さまは、その祥子さまのお姉さま(グラン・スール)である可能性が極めて高いと考えるのが普通だろう。
生きている事は嬉しく思う。でも、わざわざ会いに行こうとは思わない。こちらの世界の蓉子さまは、祐巳のお姉さまではないからだ。それは、こちらの世界の家族にも言える。
こちらの世界の両親は、祐巳を生み、育ててくれた両親ではない。同様に祐麒も、一緒に育った弟ではない。祐巳にとってこちらの世界に存在している家族は、限りなく家族に近い他人でしかないのだ。とはいえ、彼らが今は亡き家族と同一の存在である事は間違いなく、彼らの事を家族だと認める気はないが無理に距離を置く必要もない。
「そういえば、こっちに私って存在していたの?」
以前に抱いた疑問を解消するべく尋ねてみる。もしかすると自分は、この世界の福沢祐巳と入れ替わったのではないか、という疑問だ。もしそうだった場合、祐巳はこの世界の福沢祐巳の居場所に収まっている事になる。という事は、あちらの世界の祐巳の居場所に、こちらの世界の福沢祐巳が収まっているという事になるはずだ。
平和な世界で育ち戦う力も術も持たないこちらの世界の福沢祐巳では、祐巳の家族とお姉さまが眠るあの世界を守る事はできないだろう。平和なこの世界はとても魅力的なのだが、この世界の家族からこの世界の福沢祐巳を奪ったみたいで申し訳なく思うし、自分の居場所を自分のいない時にあの虫ケラ共に奪われるというのも腹が立つ。
そんな祐巳の思いを知ってか知らずか、桂さんは厭らしいニヤニヤ笑いを変える事なく答えた。
「いいえ、存在していなかったわ」
「本当に?」
「祐巳さん相手に嘘なんて吐かないわよ。神様に誓ったって良いわ」
「いや、神様って自分の事でしょ? ま、わざわざ嘘を吐く必要なんてないだろうし、信じてあげる。それにしても、ふうん、そっか。存在してなかったのか」
自分たちが入れ替わったわけではないと知り、少なくともこちらの世界の家族がこちらの世界の福沢祐巳を失ったわけではないと分かって、祐巳は思わず安堵の溜息を吐いていた。それに気付いて、存外自分も甘いのかもしれない。祥子さまの事笑えないな、と苦笑いする。
「あ、そうだ。ついでにもう一つお願い。どうして」
あの世界を滅ぼそうとしているの? と祐巳が尋ねようとすると、「その質問に答える前に元の場所に戻すわね」と桂さんが口を挟んできた。
へ? と呆ける祐巳の前で桂さんがパチンと指を鳴らす。
「はい、戻ったわ」
魔方陣が浮かび上がるとか、鮮やかな光が迸るとか、そういった目に見えて分かり易い視覚効果もなしに、今の一瞬で元の場所へと戻ってきたらしい。なので当然、一部崩壊していたはずの校舎は壊れていないし、折れたはずの棕櫚の木も折れていないし、人の気配だって学園内のあちこちから感じられる。
「で、『どうしてあの世界を滅ぼそうとしているのか』だったわよね? 悪いんだけど、それは次に会った時に答える事にするわ」
「え? ちょっ、ちょっと待ってよ。次っていつの事なのよ?」
「次は次よ。その時になれば自然と分かるわ。じゃ、そういう事で、ごきげんよう」
そう言い残して、桂さんは現われたと時と同じく唐突に去って行った。というか、消えた。目の前で空間転移なんて見せてくれた。さっきの転移ではよく分からなかったのだが、これならよく分かった。まさしく、目に見えて分かった。
ああ、本当に神様なんだな、と僅かに残っていた疑念も綺麗さっぱり消え去った。生身の身体を持ったまま自分の意思で自由に空間転移ができる生物なんて、今までに見た事も聞いた事もなかったからだ。
となると、桂さんの言ってた事は全部信じても良いって事になる。なにしろ神様だし。いや、でも邪神って可能性もある。信じるのは半分くらいにしておこう。うん、そうだ。なにしろ桂さんだし。ところで、あれを『質問に答える』とは言わないと思うのだけれど……まあ、桂さんだから仕方がない。どうせ、まともに答える気がなかったのだろう。
それにしても、神様の仕業だって? いったい何のために? 理由がさっぱり分からない。世界を壊して、それで何か得るものでもあるのだろうか。それとも、あの世界の生き物が滅んでいく様を見て愉しんでいるだけなのだろうか。
何にせよ、悔しかった。どんな理由があるにせよ、許せなかった。
この世界が救われますように。
無駄だとは知っていた。神様がいたなら、あんなおかしな世界にはならなかっただろうから。それでも、あの世界を救えるとしたら、神様くらいしかいないだろうと祈っていた。
どんなに祈っても、どんなに願っても届かなかった。奇跡なんて起きなかった。無駄な事を繰り返しているうちに家族やお姉さま、友人を失ってしまった。
(神様だったなんてね……)
まさか神様があの世界を滅ぼそうとしていたなんて、これっぽっちも思ってなかった。
許せない、と思う。でも、だからといって祐巳には何もできない。あの世界の皆もそうだ。どんなに強くても、どうする事もできない。本当に、滅びる道しか残されてなかった。たとえ最初から神様の仕業だと分かっていたとしても、滅びを免れる事なんてできなかっただろう。だって、神様なんていったい誰が止められる?
沈みゆく太陽が、祐巳の嫌いな色に世界を染め上げる。校舎が、棕櫚の木が、薔薇の館が、まるで燃えているかのように赤く染まっていく。
桂さんが去った後も、祐巳は中庭に立ち尽くしていた。
分かっていた事なのだけれど、改めてそれを聞かされるとショックは大きかった。なにしろ、それを口にしたのが神様だったから。
滅びると分かっていても、認めてはいなかった。まだ私は諦めていない、そう自分に言い聞かせてきた。死ぬ覚悟はできていたけれど、その瞬間が訪れるまで諦めるつもりなんてなかった。
でも、そんな想いは打ち砕かれてしまった。あの世界は滅びる。誰がどう何をしたとしても確実に滅びる。こうして祐巳がこんな所で立ち尽くしている間も、着々と滅びに向かって突き進んでいるのだ。
(それなのに、どうして私はここにいるの?)
自ら進んで死にたいわけじゃない。でも生きていれば、いつかは必ず死を迎える事になる。早いか遅いかの違いでしかない。
家族とお姉さまが眠るあの世界で、その時を迎えたかった。生まれ育ったあの世界のために、最後まで戦いたかった。家族を失い、お姉さまを失い、友人まで失って、それでも頑張ってきたのは、こんな所で生き延びるためなんかじゃない。
(帰りたい……)
以前見たテレビ番組で、別世界からの帰還を果たした人たちは、その世界で暮らしているうちにいつの間にか元の世界に戻っていた、と言っていた。つまり、自力での帰還は不可能だが、戻る事はできるのだ。何らかの条件があるのか、それともただ単に運が良かっただけなのかは知らないが、待っていればそのうち戻れるのかもしれない。でも、それでは駄目なのだ。戻った時に、あちらの世界が滅びていては意味がない。
(帰りたいよ……)
もう失うのはたくさんだった。家族も友人もお姉さまも失っているのに、この上帰る場所まで失ってしまったら自分はいったいどうなってしまうのだろう。
不安に押し潰されそうになっていたその時、足音が聞こえてきた。小さかったその足音は徐々に大きくなり、祐巳から少し離れた場所でピタリと止まる。
「祐巳さま?」
ここ数日でお馴染みとなっている少女の声に振り返ると、薔薇の館へと続くレンガ道の真ん中で瞳子ちゃんが首を傾げていた。どうやら、祐巳がこの場所にいる事を疑問に思っているらしい。
「や、瞳子ちゃん」
笑顔を浮かべながら軽く手を上げて挨拶してやると、彼女は祐巳の元へとやってきた。
「こんな所で何をされているんです?」
「例の写真の事で祥子さまに呼び出された、その帰り。瞳子ちゃんは?」
「私は薔薇の館に用があって……」
行儀良く両手で鞄を持っている彼女は、演劇部の活動を終えて薔薇の館へと向かっている途中だったそうだ。
「おっ、ついに祥子さまのロザリオを受け取る気になったの?」
冗談めかして言ってやると、瞳子ちゃんは祐巳から目を逸らして俯き――しかし、すぐに顔を上げた。
「祥子お姉さまにお断りしてから、と考えていたのですが、せっかくの機会なので先に言っておきます」
瞳子ちゃんの真剣な表情に、思わず気圧される。
「私は答えを出しました」
「ッ!」
そこから先を聞いてはいけないような気がした。それは、瞳子ちゃんの目を見たからだ。真っ直ぐに祐巳を見つめてくる瞳子ちゃんは、とても澄んだ目をしていた。そこには、迷いなんてものは一切なかった。
「皆は、私が祥子お姉さまの妹(プティ・スール)になる事を望んでいます。私もそれを望んでいました。今だって祥子お姉さまの事は好きですし、尊敬しています。でも祥子お姉さまは、山百合会のために仕方なく私を選んだんです。祥子お姉さま自身は、私の事なんて必要としていないどころか見てすらいないんです」
瞳子ちゃんが目を伏せる。
「それを自分でも分かっているから、祥子お姉さまは私の答えを急がなかったんです。あなたと出会った時、私は祥子お姉さまと姉妹(スール)になるって決めていました。私を見てくれなくても良い。傷付けられても良い。私がそれに耐えれば良いだけだから、って。でも本当は、嫌で嫌で堪らなかった」
それは、悲鳴だった。他者によって傷付けられてきた瞳子ちゃんの、悲痛な叫び声だった。
「そんな時、あなたと出会ったんです。私を見て、言葉を交わして、祥子お姉さまの妹(スール)に相応しいと言ってくれた不思議な人。私はその言葉に救われ、あなたという人に惹かれた。あの時私は、今まで積み重ねてきたものを全て投げ捨ててでも傍にいたい、そう心から思える相手を見付けてしまったんです」
期待と不安の入り混じった瞳を祐巳に向けながら、瞳子ちゃんはその言葉を紡いだ。
私を祐巳さまの妹(スール)にしていただけませんか、と。
何よ、それ……ふざけるんじゃないわよ!
気が付いたら瞳子ちゃんの胸倉を掴んでいた。
「馬鹿な事、言わないでもらえる?」
「ゆ、祐巳……さ……ま?」
瞳子ちゃんの怯えた表情。おそらく、こんな風に乱暴に扱われたのは初めてなのだろう。
「必要とされていない? 自分を見てくれない?」
自分がどれだけ恵まれているのか知らないから、そんな甘ったれた事が言える。見てくれなくても、今は必要とされていなくても、自分も相手も生きているのだから、振り向かせるチャンスなんて幾らでもあるはずだ。
「奪われたわけでも、失ったわけでもないくせに!」
家族を失った。お姉さまを失った。友人を失った。やりたかった事、話したかった事、たくさんあったけれど、それはもう叶わない。周りにいるのは全部敵で、祐巳に残されていたのは戦う事だけだった。それ以外、何もなかった。
「生きて、そこにいるのに!」
何でだろう。自分に何もないなんて、そんな事分かっているのに。そんなの、ずっと当たり前の事だったのに。痛みなんて感じないはずなのに。そんなもの、失くしたはずなのに。
「どうしてそんな事で諦められるのよ!」
どうして胸が痛いのだろう?
「……悪かったわね」
胸元から手を離すと、瞳子ちゃんは数度咳き込んだ。
「もう私に関わらないで」
これで諦めてくれるだろう。答えを聞かないうちに、祐巳は足を進めて瞳子ちゃんの横を通り過ぎた。
けれど、
「ゃ……」
立ち去ろうとした祐巳の耳に、瞳子ちゃんの小さな声が届いた。
「ぃ……です」
「え?」
聞こえてきた言葉が信じられなくて、思わず振り返る。
瞳子ちゃんは、まだ苦しいのか喉元を押さえていた。けれど、その瞳は真っ直ぐに祐巳に向けたままだった。
「嫌だと言ったんです!」
叫んで、また咳き込む。それでも、その瞳だけは祐巳に固定されたままだ。
「仕方がないじゃないですか。祥子お姉さまよりも、あなたと姉妹(スール)になりたいって、本気でそう思ったんだから仕方がないじゃないですか……」
瞳子ちゃんは泣いていた。ぽろぽろと、大きな瞳から宝石のような大粒の涙を溢れさせていた。
「あなたになら、本当の自分を見せても良いって。あなただけに本当の私を見せたいって。ようやく、本当の自分を見せる事のできる人に出会えたって、そう思ったんだから……」
祐巳には分からなかった。瞳子ちゃんがなぜ泣いているのか、理解できなかった。
胸の奥に生まれた痛みが益々酷くなってくる。その理由さえ全く分からない。けれど、この場所から――瞳子ちゃんの前から立ち去ればこの痛みは消える。瞳子ちゃんさえ近くにいなければ、いつもの自分でいる事ができる。なぜか、そう思えた。
祐巳は一歩だけ瞳子ちゃんに近寄った。嫌われようと構いはしない。どうせ自分は瞳子ちゃんを妹(スール)にするつもりはない。
「祐巳……さ……ま?」
大きな瞳一杯に涙を貯めたまま、瞳子ちゃんが祐巳を見上げてくる。それを目にしただけで、痛みが更に激しくなった。
「あのさ、瞳子ちゃん」
手を差し伸べる事はしない。慰めの言葉をかける事もしない。それらの代わりに言える言葉がある。
それは、
「あなたがどれだけ傷付いていようが、私にはそんな事関係ないの。正直に言うと、あなたに縋られても迷惑でしかないんだよね。ね、私の言ってる事が分かる? 私はね、鬱陶しいからもう二度と私に近付くな、って言ってるの」
拒絶の言葉。
色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
【No:1893】→【No:1895】→【No:1897】→【No:1907】→【No:これ】→【No:1911】→【No:1913】→【No:1921】→【No:1926】→【No:1933】→【No:1941】→【No:1943】→【No:1945】
私の事なんて見ていない。
あの人の瞳は私を映す事なく、その心はどこか遠い所にあるようだった。
祥子お姉さまから姉妹(スール)の申し込みを受けた。私が山百合会に必要だから、という理由で。
自惚れでないのならば、おそらく私が祥子お姉さまに一番近い所にいるから、という理由をそこに付け加えても良いかもしれない。更に付け加えると、私と祥子お姉さまは親戚でもある。
幼い頃からよく知っている人だから、祥子お姉さまと姉妹(スール)になる事に抵抗は感じなかった。祥子お姉さまが、私を必要としないまま妹(スール)にしようとしている、という事を除けば。
それだけは、どうしても嫌だった。ほんの少しで良いから、祥子お姉さま個人として私を必要として欲しかった。
せめて、生徒会役員選挙の前日までは頑張ってみよう。私は答えを先延ばしにして、祥子お姉さまの目を私に向けさせようとした。姉妹(スール)の申し込みをされたのだから、少しは私に目を向けてくれるかもしれない。そんな勝手な希望を胸に抱いて。
結局の所、そんな甘い希望は叶わなかった。本当の事を言えば、無理だろうな、と思っていた。私はずっと以前から諦めていた。私では祥子お姉さまの目を自分に向けさせる事なんてできない、と思っていた。
実際、そうだった。どんなに仕事のお手伝いをしても、どれだけ傍にいても、テストで良い点を取っても、部活動を頑張っても、年下らしく甘えてみても、祥子お姉さまは優しく微笑むだけで私が本当に欲しいと思うものは何一つ与えてくれなかった。
祥子お姉さまは、初めて出会った時から私に優しく接してくれる。でも、それだけだ。話しかければ会話をしてくれる。お出かけに誘えば一緒に出かけてくれる。けれど決して私を必要としていない。それどころか、自身の家族でさえも必要としていないように見えた。
分かってはいた事だけれど、辛かった。幼い頃に両親から親戚だと紹介されて、それからずっと見てきた人だから。ほんの少しでも私を必要としてくれたなら、それだけで満足だったのに。
私に突き付けられたのは、「姉妹(スール)」としてではなく、ただの称号としての「紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)」。私にとって全く意味のないもの。けれど、他に姉妹(スール)になりたい人なんていない。今更断って、波風立てる事もないだろう。
祥子お姉さまがご卒業されるまで、あと三ヶ月。今まで以上に傷付く事になるだろう。どれだけ傷付けられるだろうか。どれだけ傷付くだろうか。
今までどれだけ私が傷付いていたか、祥子お姉さまは全く知らないだろう。私は絶対にそれを表に出さなかった。今この時でさえ、自分がどれだけ私を傷付けているのか、あの人は知らないはずだ。
これからも絶対に見せるつもりはない。それが、私の誇りだ。ささやかな抵抗と言っても良い。
耐えてみせる。自分の気持ちを押し殺して、祥子さまが卒業されるまで皆の望む姉妹(スール)を演じてみせる。私はそう決めた。そう決めたのに、生徒会役員選挙まであと十一日と迫った日の朝。
「きゃっ」
「うわっ」
私はとても不思議な人と出会ってしまった。
「大丈夫?」
その人は心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
同学年では見た事がない顔なので、私よりも一つか二つ年上だろう。祥子お姉さまの妹(スール)候補である私を前にしても態度を変える事なく、それどころか、ぶつかったのは教室へと急いでいた私が廊下の曲がり角を飛び出したのが原因で自分が怪我をする可能性すらあったのに、黒い瞳を悪戯っぽく細めながら笑って許してくれるような人だった。
放課後。朝と同じように急いでいた私は、またその人にぶつかってしまった。
部活に急いでいた事を伝えると、「あなた、私の妹(スール)にならない?」と言われる。祥子お姉さまの妹(スール)候補として有名な私の事を知らないとは思っていなかったので、随分と驚いた。
話を聞くと、この人は二年生で由乃さまのクラスメイトなのだそうだ。部活に出た後は薔薇の館に寄る予定なので、その時に由乃さまにこの人の事を尋ねてみようと思った。
それから私が名乗って、会話の内容は当然のように私と祥子お姉さまの事となる。
「ひょっとして、自分は祥子さまの妹(スール)に相応しくない、なんて思ってない?」
この人が何を考えてそこに辿り着いたのかは分からない。でも、そう思っていた事を言い当てられてしまった私は激しく動揺した。
「相応しいとか相応しくないとか、そういうのって、好きって気持ち以上に必要な事なのかな?」
そんな事を言われても、どうにもならない。だって、私は祥子お姉さまの事が大好きなのだけれど、祥子お姉さまは私の事なんて全く見てくれないのだ。
「祥子さまの事、好きなんだよね? 祥子さまだって、瞳子ちゃんの事が好きだから妹(スール)になって欲しいって、そう思って申し込んだはずだよ? それだけじゃ駄目なの?」
そうだったら、どんなに嬉しかった事か。どれほど、そうだったら良かったのに、って思った事か。
「あなたに何が分かるって言うんですか」
私の事。祥子お姉さまの事。何がどうなっているのか知りもしないくせに、と思わず突っかかっていた。
「確かに分からないよ。でもね、瞳子ちゃんが本気で悩んでいるって事くらいは分かる。その悩みの分だけ、祥子さまの事を本気で想っているって事も分かる。十分だと思うよ? 出会ったばかりの私に、こんな事を言われても瞳子ちゃんは気に入らないかもしれないけど。少なくとも私が見て、言葉を交わしたあなたは、祥子さまの妹(スール)に十分相応しいと思う」
どうしてこの人は、こんな事が言えるのだろう。私を見据え、決して揺るがなかった真っ直ぐな眼差しは、その言葉がその場限りの適当に作り上げたものではない事を物語っている。
私は、この人に心を奪われてしまった。
この人の傍にいたい。共に歩みたい。そのためなら、祥子お姉さまの妹(スール)候補として今まで積み重ねてきたものを全て捨てる事になっても構わない。本気でそう思った。
「祥子さまと上手くいくと良いね」
そう言って去ろうとしたその人を呼び止め、名前を尋ねる。
「名乗るほどの者じゃないんだけど、福沢祐巳って言うの」
ふくざわゆみ。その名前を、しっかりと心に刻み付けておく。この後、祥子お姉さまと顔を合わせても私は決めていた事を口にしないだろう。祐巳さまこそが、私の答えだ。
演劇部の活動を終えて薔薇の館に向かった私は、祐巳さまの事を由乃さまに尋ねて、祐巳さまが転入生だという事を聞かされる。こんな時期に転入? と驚いたけれど、同時に納得もできた。どうりで私の事を知らなかったわけだ。しかし、それならそれで構わない。これから私の事を知ってもらえば良いだけの話だから。
これは何の冗談なのだろう。どうしてあの二人が一緒にいるのだろう。
祐巳さまと出会った次の日の朝。祥子お姉さまと祐巳さまが、マリア像の前に二人して立っているのを見た。どうやら祐巳さまの服装が乱れていて、それを祥子お姉さまが直しているらしい。
祥子お姉さまは、何事にも無関心に見えるが他人を拒絶しているわけではない。その証拠に支倉令さまという友人がいるし、もう卒業されてしまったけれど水野蓉子さまというお姉さま(スール)もいる。そして潔癖症という事もあり、だらしない身なりが嫌いで服装の乱れた生徒を見かければ注意もする。それに加えて低血圧からか朝に弱い事もあり、目の前で行われている光景は可能性は低いものの決して有り得ない事ではないはずだ。
けれども、そう分かっているはずなのに、私は目の前の光景を認めたくなかった。それは、二人がまるで姉妹(スール)のように見えたからだ。祐巳さまのタイを直す祥子お姉さまの手付きは壊れ物を扱うかのように優しげで、直されている祐巳さまも祥子お姉さまに向かって微笑んでいた。
「身だしなみは、いつもきちんとね。マリア様が見ていらっしゃるわよ」
祥子お姉さまが去ると、祐巳さまがすぐにこちらに顔を向けた。私がずっと見ていた事に気付いていたらしい。
「ごきげんよう。機嫌悪そうだけど、どうかしたの?」
「今のはどういう事ですか」
自分でも言葉に刺があるのが分かった。ようやく見付けた私の答え。その人が、よりにもよって祥子お姉さまと出会い、まるで姉妹(スール)みたいに微笑み合っていた。その事が、嫌で嫌で堪らなかった。
決して祐巳さまが悪いわけではない。また、祥子お姉さまが悪いわけでもない。誰が悪いのかと言えば、それは勝手に祐巳さまに惹かれ、勝手に祥子お姉さまを裏切ったこの私だ。それでも私は、ようやく見付けた私の答えを誰にも渡したくなかった。
他人に触れて欲しくない。他人に触れさせて欲しくない。そんな笑顔を他人に向けないで欲しい。ようやく見付けたあなたまで私を傷付けるのか。私はまだ傷付かなければならないのか。いつまで私は傷付けば良いのか。
ドロドロとした負の感情が次から次へと湧き上がり、その全てが目の前の祐巳さまへと向けられる。私はいつから、こんなに身勝手で最低な人間になってしまったのだろう。
しかし、
「いきなり呼び止められてタイを直された。どう? 綺麗になってる?」
「え? ええ、それはもう綺麗に…………じゃなくて!」
祐巳さまの馬鹿みたいに能天気な言葉で、私の心を埋め尽くそうとしていた負の感情が綺麗さっぱりと吹き飛んでしまう。良い意味でも悪い意味でも、祐巳さまを前にすると調子を狂わされてばかりだ。
「ところで、さっきのが誰か、瞳子ちゃんは知ってるの?」
そういえば、祐巳さまは転入生。私の時と同様、祥子お姉さまの事を知らなくても不思議ではない。
「この学園に通っている以上、知っているのが常識と言っても良い方です。ですが、祐巳さまは昨日転入されてきたばかりだそうですし、知らなくても仕方がありませんね」
祐巳さまは、私が転入生だと知っている事に驚いているようだった。
どうして教えてくれなかったのか尋ねると、「つい言い忘れていたの」と返ってくる。普通は、そんな大切な事を言い忘れたりはしない。おそらく、説明が面倒臭いとか、そういう理由なのだろう。
「私の事は置いておいて。それよりも、さっきの人が誰なのか、そろそろ教えてもらえないかな?」
あんまり焦らしても仕方がないので「小笠原祥子さまです」と答えるが、祐巳さまはあまり驚かなかった。私のもったいぶった言い方から答えを予想していたのかもしれない。その言動から惚けた印象を相手に与えてしまう祐巳さまだけれど、頭の回転は相当早いようだ。
「瞳子ちゃんは良い子だね。もし祥子さまがいなければ、何が何でも妹(プティ・スール)にしていたよ」
「それは光栄ですね」
澄まし顔をしていたけれど、内心ドキドキしていた。本気の言葉ではないと分かっていても、祐巳さまにそう言われると胸が高鳴った。
それはそうと、この時の祐巳さまとのやり取りで思わず首を傾げそうになる事が多々あった。どうやら祐巳さまには何事か隠し事があるようだ。それが何なのかまでは分からないが、力になる事ができたら良いな、と思った。
祐巳さまと出会ってから三日目の朝。
銀杏並木で偶然一緒になった乃梨子と二人で、祐巳さまがマリア像の前を通り過ぎるのを見かけた。
転入してきたばかりなので、マリア様に手を合わせる事を知らないのかもしれない。そう思って声をかけるが、「悪いんだけど、お祈りはしない主義なの」と返される。神様とか、そういう類のものは一切信じていないそうだ。私も本気で信じているわけではないのだけれど、形だけでもちゃんとして欲しかった。転入してきたばかりとはいえ、祐巳さまは二年生。下級生のお手本とならなければならないのだ。
その後、「可愛い」「可愛くない」と嬉しいようなどうでもいいような会話をしていると、乃梨子が祐巳さまに話しかけた。
「瞳子と知り合いだったんですか」
祐巳さまから顔を背けたまま話を聞いていると、二人は志摩子さまを通じて知り合ったらしい。二人が親しそうに会話するので、私は面白くなかった。
そんな私に気付いて欲しくて、ずっとそっぽを向いていたが祐巳さまは気付いてくれない。だが、それが当たり前なのだ。出会って三日で、そんな事に気付いて欲しいと思う私の方がおかしいのだ。
その後、祐巳さまが約束を大切にする方で意外と頑固者だという事が分かり、そこから更に私が祥子お姉さまにいつ答えを返すのかという話に移った所で、
「早く決めないと、私が祥子さまを盗っちゃうよ」
祐巳さまが突然おかしな事を言い出した。
「実は昨日からファンになっちゃったの。すっごい美人だし、優しくしてくれたし。瞳子ちゃんも見てたでしょ? 祥子さまが私のタイを直してる所。姉妹(スール)みたいに見えなかった?」
顔が強張るのが自分でも分かった。脳裏に、昨日目にした光景が蘇る。
本気なのだろうか。本気で言っているのだろうか。私が祐巳さまに惹かれたように、祐巳さまも祥子お姉さまに惹かれたのだろうか。
今すぐ問い質してみたい。でも、答えを聞くのが怖い。
嘘だよ、と言ってくれないだろうか。冗談だよ、って笑ってくれないだろうか。そう願いながら恐る恐る祐巳さまを見ると、なぜか私以上に顔を強張らせながらゴソゴソとポケットを探っている。
「……どうされました?」
「な、何でもない」
どうも、何か不都合が生じたらしい。乾いた笑顔を浮かべた祐巳さまは、「あ、ほら、もうこんな時間だし、そろそろ教室に行かなきゃ遅刻しちゃう。じゃあねー」と早口に捲し立てると逃げるように去って行った。
いったい何だったのかしら? そう首を捻りながらも、真偽を確かめる機会を失った事に安堵して小さな小さな溜息を吐いていたその時、私の隣で同じように祐巳さまの背中を見送っていた乃梨子が口を開いた。
「引き止めなくても良かったの?」
不意を突かれた私は、一瞬呼吸を忘れてしまう。だって、そう言うって事はつまり、乃梨子が私の気持ちに気付いているって事だったから。
遠ざかっていく祐巳さまの背中に目を向けたまま、私は尋ねた。
「いつ気が付いたの?」
「最初から、かな。自分じゃ気付いてなかったかもしれないけれど、祐巳さまと話している時の瞳子が凄く活き活きとしていたから」
「……そう」
この友人にそこまで見抜かれているのなら、誤魔化すだけ無駄だろう。もっとも、乃梨子を誤魔化すつもりなんて全くないのだけれど。
「臆病者、って笑う? 祐巳さまがもし祥子お姉さまに惹かれているのなら、きっと私の事なんて目に入らなくなる。そう考えると怖くて、尋ねる事も、引き止める事もできなかったわ」
「……色々とあったからね。怖いって思うのは仕方のない事だと思う。でもさ――」
私と同じように、遠ざかっていく祐巳さまの背中に目を向けたまま乃梨子は言った。
いくら怖いからと言っても逃げ出しちゃったら、相手の事をどんなに好きでも気持ちなんてちっとも伝わらないんだよ、と。
ニ時間目の授業が終わる。なぜか周りのクラスメイトから気遣うような視線を向けられて居心地悪く感じていると、乃梨子が近付いてきて教室の外へと連れ出された。
いったいどうしたのか、と問うと、難しい顔しながら「とりあえず、これを見て」とリリアンかわら版を手渡される。
また何か厄介事かしら、と思いながら見てみると、そこに載っていたのは祥子お姉さまと祐巳さまの写真。昨日の、マリア像の前での二人の写真だった。クラスメイトたちの気遣うような視線は、これが原因だったらしい。写真でも二人は姉妹(スール)のように見えた。
『実は昨日からファンになっちゃったの。すっごい美人だし、優しくしてくれたし。瞳子ちゃんも見てたでしょ? 祥子さまが私のタイを直してる所。姉妹(スール)みたいに見えなかった?』
祐巳さまの言葉を思い出すと、まるで針でも刺さったかのようにチクリと胸が痛んだ。あの言葉は本気だったのかもしれない。そう思うと、塞ぎ込んでしまいそうになる。
「逃げ出す、ってわけにはいかないわよね」
結果がどうであろうと、どこかで覚悟を決めなければならない。それがきっと、今なのだろう。
「お昼休みになったら会いに行くわ」
「一人で大丈夫? 何だったら付いて行こうか?」
「過保護ね。そこまでしてもらわなくても平気よ。乃梨子から十分に勇気をもらったから」
もしも乃梨子がいなければ、私は今も一人で悩み続けていただろう。乃梨子という友人がいてくれたから、私はここから動き出せるのだ。
お昼休み。昼食を後回しにして、私は祐巳さまの教室へと向かった。しかし目当ての人は不在で代わりに出てきたのは、これから昼食を摂りに薔薇の館へ向かうのだという由乃さま。右手には、お弁当が入っているのだろう手提げ袋が提げられている。祐巳さまの事ばかり考えていてすっかり失念していたのだけれど、ここは由乃さまの教室でもあるのだった。
「祐巳さんに何の用? って、聞くまでもないか。かわら版の事でしょ? 祐巳さんなら誤解を解くために、志摩子さんと一緒に写真部の部室に行っている所よ」
「志摩子さまと、ですか?」
「ええ。私も付いて行きたかったんだけれど、付き添いは二人もいらないって断られちゃったのよね」
そういえば今朝祐巳さまと会った時、志摩子さまは友達なのだと言っていた事を思い出す。志摩子さまが一緒なら、かわら版の事についてそれほど心配する必要はないだろう。
それはともかく、新聞部との話となるとしばらく時間がかかると思うので、由乃さまと別れた私は昼食を摂るために一旦自分の教室へと戻った。乃梨子はここ最近薔薇の館で昼食を摂っていて、今日もそちらに向かうと言っていたので教室にはいない。騒がしい教室内で一人で摂る食事は、少し寂しく思えた。
急いで食事を終えた私は、もう一度祐巳さまの教室に行って二人がまだ帰っていない事を確認すると、新聞部のあるクラブハウスを目指す事にした。しかし十歩も歩かないうちに、志摩子さまと一緒にこちらへ向かって歩いてくる祐巳さまの姿を見付けてしまう。その手にパンとジュースが持たれていたので、ミルクホールに寄っていたようだ。新聞部との話は、意外と早くに終わっていたらしい。
志摩子さまには申し訳ないのだけれど、「祐巳さまと二人でお話がしたいんです」と伝えて二人きりにさせてもらう。
あまり目立つのはまずいだろうと階段の踊り場に行って今回のかわら版についての話を聞くと、上手く解決できた、との事。
志摩子さまが一緒とはいえ、やはり心配だったのだ。ほっと胸を撫で下ろす。いや、ほっとするのはまだ早い。私としては、これから尋ねる事の方が大切なのだ。
「祥子お姉さまの事、本当はどう思っているんです? 本当に、ただの誤解なんですか?」
「ああ、それを聞きたくて私を探してたんだ? あれは瞳子ちゃんをその気にさせるためのもので本当は何とも思ってないし、瞳子ちゃんから祥子さまを盗ったりもしないから安心して良いよ。まったく、そこまで不安に思うくらいなら早く姉妹(スール)になっちゃえば良いのに」
何だ、そうだったのか。祐巳さまの言葉を聞いて全身から力が抜けた。こんな事なら、あの時逃げずに聞いておくべきだった。
「自分の事は自分でできますので、余計な気は回していただかなくて結構です」
まったくこの人は、自分の発言がどれだけ私に影響を与えるのか知りもしないで、と睨み付けながら言ってやる。決して祐巳さまが悪いわけではないのだけれど、これくらいは許して欲しい。本当に、不安で不安で堪らなかったのだから。
「だいたい、そういう祐巳さまはどうなんですか」
「へ? わ、私っ?」
私の思わぬ反撃に慌てる祐巳さま。
「祥子お姉さま……いえ、誰でも良いんです。特定の誰かをお姉さま(スール)に、と考えたりはしないんですか」
「えっと。それってさ、昨日ちゃんと答えたような気がするんだけど」
確かに昨日、『口煩く言われたくないから』とか『今から作ったとしても、三ヶ月も経たないうちに卒業されちゃうから』とか言っていたけれども。
「あんな、その場で適当に思い付いたような理由で私を誤魔化せたと本気で思っていらっしゃったのでしたら、祐巳さまは相当おめでたいですわね」
祐巳さまは明らかに何かを隠している。その内容までは分からないが、隠すという事はあまり良くない事なのだろうと推測できる。
「何か隠している事があるのは、祐巳さまを見ていれば分かります。私では力になれませんか? その……色々とお世話になっていますし」
ほんの僅かでも祐巳さまの力になりたかった。私を救ってくれた祐巳さまに、少しでも恩返ししたかった。
「瞳子ちゃんは優しいね」
笑顔で告げられる言葉。
「でも、せっかくの申し出なのに悪いんだけど」
眉根を寄せて、困ったように微笑む祐巳さま。
どちらも笑顔なのに、どちらの笑顔にも確かな拒絶の色があった。気付かなければ良かったのに気付いてしまう。祐巳さまは、私では力になれないから断っているのではない。私に話すだけの価値がないから断っているのだ、と。
祐巳さまの力になりたい? 少しでも恩返ししたい? 祐巳さまの事、大して知りもしないくせに親しくなったつもりでいた。いったい何を以って親しくなったつもりでいたのだろう。私は祐巳さまの何を見ていたのだろう。祐巳さまと私の間に壁があるなんて、今の今まで気付かなかった。
「瞳子ちゃんじゃちょっと難しいかなー、なんて――」
不意に祐巳さまの言葉が止まる。いったいどうしたというのだろう。私を見つめる祐巳さまの瞳には、戸惑いの色が浮かんでいた。
どうして祐巳さまが戸惑っているのか、さっぱり分からない。しかし、今この時が状況を変えるチャンスだという事は理解できた。
私と祐巳さまの間に壁があるのなら、そんなもの壊してしまえば良い。祐巳さまの事を知らないのなら、知ろうと努力すれば良い。乃梨子にもらった勇気。向き合うと決めた覚悟。その二つを力に変えて、自分を奮い立たせる。
しかし、私にできたのはそこまでだった。そこから先の行動は、私よりも祐巳さまの方が早かった。
祐巳さまは小さく頭を振ると、何かを諦めるかのように溜息を吐いた。
「私がこれから話す事。信じるか信じないかは瞳子ちゃんの勝手だから」
「は?」
祐巳さまに、どんな心境の変化があったのかは分からない。だが私は、それによって機先を制された格好となってしまった。
「どうして私がお姉さま(グラン・スール)を作らないのか。その理由となる、私のお姉さまの話をしてあげる」
いきなり何を言い出すのだろう、と困惑する。だって、祐巳さまは三日前に転入してきたばかりなのだ。お姉さま(グラン・スール)なんているはずがない。
しかし、
「私のお姉さまはね。美人で、頭が良くて、少し意地悪だけど、とっても優しい人。いつでも私を守ってくれて、私の一番守りたい人。私の全て、と言っても良い」
存在するはずのないお姉さま(グラン・スール)の事を語る祐巳さまは、とても穏やかに微笑んでいた。それだけで、どれだけその人の事が好きなのか窺えた。
「お姉さまの事、大好きだった。何があっても守ろうって、本気で思ってた。あの頃の私は弱かったけど、どんなに辛い事があっても泣き言なんて言わないで頑張っていたんだよ」
守るとか、弱かったとか、いったいどういう事なのだろう。わけが分からない事ばかりだが、この話が良くない所へ行き着く事だけは何となく察する事ができた。
「でもね。私は守れなかったんだ……」
祐巳さまの声は震えていた。
「守れなかった?」
「そう、守れなかった……いいえ、それどころか」
そう言って祐巳さまは、胸元からロザリオを取り出した。それは、祐巳さまが持っているはずのない、存在してはならないはずのロザリオだった。
「この私が、お姉さまを殺したのよ」
「祐巳さまが……殺した?」
辛うじて十字の形を保っているそれを呆然と見つめる。そのロザリオは、錆びて曲がってしまっているけれど、どこか祥子お姉さまの首にかかっているロザリオに似ているように感じられた。
有り得ないはずのロザリオの出現に私が何も言えないでいると、祐巳さまが急に「ぷっ」と吹き出す。
「なーんてね。冗談に決まってるでしょ」
祐巳さまの冗談にも困ったものだ。そう思いたかった。
祐巳さまは気付いていたのだろうか。その瞳は深い悲しみに満ちていて、私にはとても話してくれた内容が冗談だとは思えなかった。
「まさか本気で信じてくれるとは思わなかったよ。瞳子ちゃんって純粋なんだね」
「くっ、少しでもあなたを信じた私が馬鹿でした」
本当に冗談だったのか。それとも、本当の話だったのか。祐巳さまの友人である志摩子さまに聞けば分かるのかもしれないが、今ここにいる私に確かめる術なんてない。だから私は、祐巳さまの言葉に乗っておく事にした。
これは冗談なんだよ。そんな風に笑う祐巳さまに合わせて、私はそこに隠されていたものに気付かなかったフリをしたのだ。
*
講堂の裏で、瞳子は桜の木を見上げていた。
その桜は、銀杏が林立する木立の中に混ざって一本だけ生えている染井吉野だ。春になれば美しい花を咲かせるだろうそれは、真冬である現在は身を隠す葉の一枚すらなく、随分と寂しいものに見えた。
「落ち着いた?」
瞳子のすぐ隣で、同じようにその桜を見上げていた乃梨子が話しかけてくる。
「ええ、乃梨子たちのお陰ね。ありがとう」
祐巳さまが去った後の中庭で、一人蹲っていた瞳子を見付けたのは乃梨子と志摩子さまだ。二人は薔薇の館に向かっている所だったらしい。
蹲っている瞳子にいったい何事かと駆け寄ってきた彼女たちは、瞳子が泣いている事に気が付くとすぐに場所を移動しようと言い出した。最初は薔薇の館に連れて行かれそうになったのだが、泣いていた事をこれ以上の人間には知られたくないと瞳子が拒否したために、目立たず落ち着ける場所としてこの講堂の裏まで移動する事となり今に至るというわけだ。
何でもここは志摩子さまのお気に入りの場所でもあるそうで、その志摩子さまはというと少し離れた所で瞳子たちを見守っている。
「何があったのか聞いても良い?」
そう言われて乃梨子を見てみれば、彼女はいつの間にか桜から瞳子へと視線を移していた。
「面白い話じゃないわよ?」
「だったら尚更聞かなきゃ」
そう言って微笑む乃梨子に、瞳子は盛大な溜息を吐く。
ああもう、この友人は。自分がどれだけ瞳子の救いとなっているのか、ほんの少しでも自覚しているのだろうか。今だってそうだ。もし彼女がいなければ、自分は未だに中庭で泣き続けていた事だろう。
世話焼きで心優しい友人に、唇を尖らせながら言ってやる。
「お節介」
「そういう瞳子だって私と同じ立場にいたなら、私と同じ事をしていたと思うな」
どうやら自分は、この友人には決して敵わないようになっているらしい。嬉しいような悔しいような、不思議な気分だ。
瞳子はもう一度溜息を吐き出すと、つい先ほどまで見ていた一人ぼっちの桜を再び見上げながら口を開いた。
「祐巳さまに姉妹(スール)の申し込みをしたわ」
「……そっか。それで?」
「断られた。『もう二度と近付くな』、だって」
言葉にすると、チクリと胸の奥が痛んだ。自分は祐巳さまに拒絶されたのだと再認識してしまう。じわりと目元が潤み、溢れ出た涙が雫となって頬を伝った。
「なッ――」
瞳子の言葉に乃梨子は絶句している。瞳子の様子からある程度の予想はしていたが、そこまで言われているとは思わなかったらしい。とはいえ、姉妹(スール)の申し込みを断るだけでそこまで言うなんて、誰にも予想できないだろう。言われた瞳子自身、今でも信じられないくらいだ。
手で涙を拭いながら、瞳子は無理やり笑顔を作った。そうでもしなければ、そのまま泣き崩れてしまいそうだったからだ。
「祐巳さまを怒らせてしまったみたいなの」
「どうして!」
「分からない」
乃梨子が詰め寄ってくるが、瞳子は首を振って答える事しかできなかった。だって、本当に分からない。どうして祐巳さまが怒ったのか。どうしてあんな事を言ったのか。
「ただ……」
拒絶の言葉を口にする直前に見た、祐巳さまの表情を思い出す。
「あの時の祐巳さまは、私には泣いているように見えたわ」
そう口にした瞬間、それまで黙って瞳子たちを見守っていた志摩子さまが急に割り込んできた。
「その時の事、詳しく聞かせて」
「志摩子さん?」
驚く乃梨子と一緒になって、志摩子さまへと目を向ける。人並外れた美しさを持つ志摩子さまは、期待と不安が入り混じったような表情を浮かべて瞳子を見ていた。
いったい何がこの人をそんな表情にさせたのだろう。それほど深い付き合いがある人ではないのでその理由なんて見当も付かないが、それでも彼女が必死なのだという事は伝わってきた。
「もしかしたら、瞳子ちゃんの力になる事ができるかもしれないわ」
志摩子さまと祐巳さまは友人関係にある。祐巳さまが怒った理由に何か心当たりがあるのかもしれない。
「だから話して。あなたと祐巳さんの間に何があったのか」
でも、理由が分かった所で何か変わるのだろうか。あれほど強く拒絶されたのに、まだ何とかなるのだろうか。ここで話した所で、変えようのない現実を突き付けられるだけになるのではないだろうか。
正直に言うと、怖い。もう傷付くのは沢山だ。これ以上傷付きたくない。
(それでも……)
背中を押してくれた乃梨子。覚悟を決めた自分。拒絶された時の、祐巳さまの表情。
(ほんの少しでも可能性があるのなら――)
そして、瞳子は深く息を吸い込んだ。
「そうして、私が泣いている所にお二人が来たんです」
瞳子が話を終えると、志摩子さまは目を伏せていた。
血が滲むほど強く唇を噛んで。血の気が失せて白くなるほど手を強く握り締めて。後悔して。たくさん後悔して。それでもまだ後悔し足りない。そんな風に見えた。
「これから私は……とても嫌な話をするわ。信じられないとは思うのだけれど、最後まで聞いてちょうだい」
そう前置きしてから、志摩子さまは話を始めた。
実際その話は到底信じられるようなものではなく、瞳子には志摩子さまが狂ってしまったとしか思えなかった。
魔法だの化け物だの、馬鹿げている。自分はそんな事を聞かされるために祐巳さまとの事を話したわけじゃない。
そう訴えたが志摩子さまは取り合わず、そのまま話を続ける。仕方なく話を聞きながら、作り話だとしても酷い話だ、と思った。
その世界には救いがない。ずっと戦っていても、世界が滅ぶのを先延ばしにしているだけだ。焼き尽くされるのが先か、蟲によって蹂躙され尽くされるのが先か、それだけの違いでしかない。どちらにせよ滅ぶ事は決まっている。
でも、所詮は作り話だ。そんな話を信じるつもりはない。
けれど、志摩子さまは言った。
あの世界は、諦める事しかできない世界だった、と。それでも、諦め切れずに戦う人たちのいた世界だった、と。
「祐巳さんもその一人だったわ」
志摩子さまは、祐巳さまが持っていた錆びて歪んだロザリオの話を始めた。戦う度に傷付き、その度に祐巳さまの血を浴びて、あのような形になったらしい。
「あのロザリオは祐巳さんのお姉さまの形見であり、祐巳さんが戦っていた証でもあるの」
信じてみよう、と思った。
『私は守れなかったんだ……』
あのロザリオは確かに存在していて、瞳子はそれを見たのだから。
『この私が、お姉さまを殺したのよ』
祐巳さまの悲しみに満ちた表情を、瞳子は確かに見たのだから。
『馬鹿な事、言わないでもらえる?』
祐巳さまは戦っていた。その世界では、それしか残されてなかったとはいえ戦っていた。
『必要とされていない? 自分を見てくれない? 奪われたわけでも、失ったわけでもないくせに!』
もう取り戻す事のできない平穏な日々。最愛のお姉さまの死。滅ぶ事が確定している世界。
『生きて、そこにいるのに!』
希望なんて一欠けらも存在しない世界。
『どうしてそんな事で諦められるのよ!』
そんな世界で、それでも祐巳さまは諦めずに戦っていたのだ。
「祐巳さんは痛みを感じないの」
志摩子さまの言葉に、いきなり何を言い出すのだろう、と思った。痛みを耐えるのならともかく、痛みを感じないなんて、そんなおかしな事があるはずがない。
「自分の痛みも、他人の痛みも感じない。祐巳さんは、そう言っていたわ」
「そんなはずはありません。だって、私は見ました。あの時――」
瞳子は確かに見た。それは、祐巳さまが瞳子を拒絶した時の事だ。あの時の祐巳さまは、涙こそ流してはいなかったが瞳子には泣いているように見えた。あんな表情をしていた人が痛みを感じないなんて、そんなはずがない。痛みを感じない人が、あんな表情を浮かべるはずがない。そして、あれは決して瞳子の見間違いなんかではないはずだ。
「瞳子ちゃんが見たという祐巳さんの表情は、あちらでは誰にも見せなかった表情なのよ」
「どういう事ですか?」
「祐巳さんは望まれた紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)ではなかったから、皆からずっと疎まれていたわ。詳しく話す事はできないけれど……集団で暴行を受けた事もあったの」
嘘だ、と思いたかった。
少なくとも瞳子の知っている祐巳さまは、そんな事をされるような人ではない。それに祐巳さまは、そんな事をされていたような素振りを少しも見せなかった。
けれど、言われてみれば不自然だった。瞳子の記憶にある祐巳さまは、いつも笑顔を浮かべているのだ。
「祐巳さんはずっと耐えていたわ。どんなに辛くても笑顔を絶やさなかった。祐巳さんは決して自分の弱さを見せなかったの。どんなに辛くても祐巳さんは一人ではなかったから。自分を愛してくれるお姉さまがいたから。だから、祐巳さんは耐えていられたのよ。けれど祐巳さんは、そのお姉さまを失ってしまったの」
つまり、瞳子が見てきた祐巳さまの笑顔は作られたもので、それは傷付いている事を隠すために作った自分を皆に見せている瞳子と同じなのだ。
「でも、祐巳さんはお姉さまを失っても、それでも諦めずに帰ってきたのよ。それなのに、たった一人で帰ってきた祐巳さんを……初めて自分の弱い所を他人に見せた祐巳さんを待っていたのは嘲笑と――」
志摩子さまが口篭った。
正直に言えば、もう続きなんて聞きたくはなかった。傷付けて、傷付けられるばかりの世界の話なんて聞きたくはなかった。しかし、どんなに酷い話だろうと瞳子は最後まで聞かなければならない。拒絶されたけれど、それでもまだ祐巳さまの妹(スール)になりたいと思っているからだ。
「何があったんです?」
瞳子が先を促すと、志摩子さまは俯いたまま続けた。
「……酷い裏切りだったの。祐巳さんは、それが原因で心が壊れてしまったのよ」
裏切り、と言うからには、裏切ったのは祐巳さまの近くにいた人なのだろう。それが誰なのか、なんて瞳子には見当が付いていた。目の前の人が浮かべていた悲痛な表情。後悔していたのは、その事なのだろうから。
「裏切ったのは……私なのよ……」
志摩子さまの双眸から零れ落ちた涙が、彼女の足元の地面に小さな染みを作った。
*
(蓉子さまは? 他の人たちは? いったい何があったの?)
祐巳さんが一人で帰ってきた、という報告を受けて急いでそこへ駆け付けた私が目にしたのは、狂ったように嗤っている彼女と、その足元に血に塗れて横たわっている少女。そして、そんな二人を遠巻きに眺めている数人の少女たちの姿だった。
ここでいったい何があったのか、状況から見当は付いた。でも信じられなかった。祐巳さんが他人を傷付けただなんて、そんな事を信じたくなかった。
「祐巳さんっ!」
思わず名前を呼んでいた。
私の声が聞こえたのだろう祐巳さんが、こちらへと身体を向けて――その顔を見た瞬間、私の足は彼女の傍まで進む事を拒んだ。自分の意思で止めたわけではない。どんなに前へ進もうとしても、私の足はその場所に根を張ったように動いてはくれなかった。
「ただいま、志摩子さん。見れば分かると思うけど、生き残ったのは私だけなんだ。お姉さまも他の人たちも、皆死んじゃったの」
感情の抜け落ちた顔で。感情と言えるものを全て失ってしまったかのような声で、彼女はそう告げた。私の目の前にいる祐巳さんは、昨日まで接してきた祐巳さんとはまるで別人だった。
「祐巳さん……よね?」
「あはっ、おかしな志摩子さん。私が他の誰かに見えるの?」
向かい合って話しているはずなのに、彼女が私の知っている祐巳さんと重ならない。まるで祐巳さんの皮を被った別人と話しているような、薄気味の悪い感覚に陥ってしまう。
祐巳さんの顔を見ていられなくなり視線を下げると、彼女の足元に横たわっている少女の姿が視界に入った。
「その子は……?」
「これの事? 悪い子だから躾けてあげたの」
躾なんて、そんな生易しいものではない事は一目瞭然だった。片腕は半ばで千切れていて、顔は皮膚が剥がれて誰なのか分からないほど酷い事になっている。彼女が受けたのは躾などではなく、ただの暴力だ。
祐巳さんが理由もなく他人を傷付けるような人ではない事は知っているが、その時ここにいなかった私には、祐巳さんと彼女のどちらが正しいのかなんて判断できない。
けれども、これだけは言える。
たとえ彼女がどんなに酷い事を祐巳さんにしていたとしても、彼女もまた被害者なのだ、と。こんな世界になってしまってから、皆おかしくなってしまった。家族が、友人が、一緒に戦っていた仲間が、親しくしていた人たちが次々と死んでいく。次は自分の番なのかもしれない。死に怯えて、全く笑わなくなった人がいる。おかしくなってから、周囲の人々を傷付けてしまうようになった人もいる。
今のこの世界は、強さだけが全てだ。ただ強ければ良い。化け物を多く殺せる人が皆に望まれる。そして、弱い者は見下され、嘲笑されるのだ。酷い時には殺される事すらあった。こんな状態になる前の世界では非難されるような事でも、今では正しい事となってしまっている。
「いったい……どうしてしまったの? あなたに何があったの? お願い祐巳さん。きちんと話して」
私は、目の前にいる祐巳さんが怖かった。人を傷付けて、平然としている祐巳さんが恐ろしかった。
「私が弱かったからお姉さまを失った。それだけよ」
足元に転がる少女の返り血か。それとも祐巳さんが流した血か。彼女は血に塗れた顔を歪めて嗤った。
「でもね、そのお陰で気付く事ができたんだ。どいつもこいつも壊れているから、言葉だけじゃ届かないんだって。力尽くで従えるしか方法はないんだって」
目の前にいる彼女は、いったい誰なのだろう。本当に、あの祐巳さんなのだろうか。
私の知っている祐巳さんは、いつも笑顔だった。辛い時も、悲しい時も、苦しい時も、笑顔を絶やさない人だった。弱音を吐いても事態は好転しない。泣き言を言っても世界は救われない。諦めて泣くくらいなら笑顔でいる方が良い。「大切な人たちの前では尚更ね」、そう言って微笑む彼女にどれほど救われた事か。
それなのに、私は気付かなかった。それどころか、祐巳さんが得体の知れない何か別のものに思えて、今すぐこの場所から立ち去りたいくらいに怯えていた。
「ねえ、志摩子さん。他に方法があるのなら、私に――」
そして、私はようやく気付く。
「何よ、それ。やめて……よ」
祐巳さんが本当は泣いていた事に。
「やめてよっ! どうしてそんな目で私を見るの!」
祐巳さんの震える声が聞こえて――私は今更にしてようやく気が付いたのだ。
その声が泣き声だという事に。
私は、嗤っていると思っていた祐巳さんが本当はずっと泣いていた事に、ようやく気が付いた。私に救いを求めていた事に、やっと気付いたのだ。
そして、気付いた時にはもう手遅れだった。
「違うのっ! 私は、その……」
必死になって誤解を解こうとした。でも、その為の言葉が思い付かない。なぜなら、私が祐巳さんに怯えた事は事実だったからだ。
「もういい……」
いつも救われていたのに。いつか恩返ししたいと思っていたのに。肝心な今この時に祐巳さんを救えない。それどころか、深く傷付けてしまった。私は最低だった。
「待って」
「言い訳なんて聞きたくないっ」
何とか縋ろうと伸ばした手を払われ、よろけた私は体制を崩して雪の上に倒れ込んだ。
制服越しにも降り積もった雪の冷たさが感じられる。頬に触れた雪は刺すように冷たかった。
祐巳さんは、たった一人でこの冷たい雪の中を帰ってきたのだ。私たちの元へと帰ってきたのだ。いったい、どんな想いだったのだろう。そんな人を私は裏切ってしまったのだ。
「あなたなんて友達じゃない」
私を見下ろす祐巳さんの目は、恐ろしく昏かった。光の届かない井戸の底のような昏い瞳の中に、私の姿がぼんやりと浮かび上がっている。
祐巳さんは、他人を傷付けるようになった人たちと同じ目をしていた。この私が祐巳さんに、そんな目をさせるようにしてしまった。
謝ろう、と思った。それで済むような事ではないけれど。許してはもらえないだろうけれど。同じように傷付けられるかもしれないけれど。たとえ殺されても文句は言えないし、言わない。それくらいの事を私はしてしまったのだから。
私にとっては、血に塗れて転がっている生きているのか死んでいるのかさえ分からない少女よりも、祐巳さんの方がずっと大切だった。
大切でないはずがなかった。だって彼女は私の友人で、私が憧れた人で、ずっと傍で見てきた人だから。
だから、謝りたかった。酷く傷付けてしまった事を謝りたかった。
「でもね、志摩子さんには感謝しているんだよ?」
謝りたかったのに……。
「他人なんて信じるだけ無駄なんだって、私に教えてくれたんだから」
祐巳さんは、それさえも許してはくれなかった。
昏い眼差しで私を射抜きながら傍を通り過ぎて行った。
傷付けられていた方が、殺されていた方が、どんなに救われていただろうか。死にたい、と思った事は今までに何度もあった。救いのないこんな世界だから、誰もが一度はそんな思いを抱いただろう。けれど、自分を殺したい、と思ったのは初めてだった。
あんなにも笑顔が素敵だった祐巳さんを。あんなにも傷付いていた祐巳さんを。たった一人で、泣きながらようやく帰ってきた祐巳さんを私が壊してしまった。
だから、祐巳さんには届かない。私の言葉は届かない。私が彼女を裏切ってしまったから。
あの世界の誰の言葉であろうと、祐巳さんには全く届かなかった。祐巳さんは、もう誰も信じなくなっていたから。
けれど、もし……。もし届かせる事ができるとしたら、それは――。
*
「祐巳さまに傷付けられた方はどうなったのですか」
まさか、と思いながら瞳子は尋ねた。
「命だけは取り留めたわ」
「……そうですか」
命だけ、という事は、その他に失ったものがあったのだろう。
祐巳さまとその人の間に何があったのかは分からないが、どんな理由があったとしても他人を傷付けた祐巳さまは最低だとも思う。そしてそれ以上に、目の前にいる志摩子さまも、その世界の人たちも最低だ。
こんな風に思ってしまうのは、この世界が祐巳さまのいた世界とは違うからだろうか。……答えは出ない。分かるはずもなかった。瞳子はその世界の住人ではないのだから。
「それからの祐巳さんは滅茶苦茶だったわ。心も身体も痛みを感じなくなっていたの。他人を傷付けても、何とも思わなくなっていたのよ」
そして、自分に従おうとしない人達を力で支配していったそうだ。とはいえ、祐巳さまよりも強い人は大勢いて、時には大怪我を負う事もあったらしい。祐巳さまはそういった敗北の経験すら更なる力に変えて、他人を従える度に、他人に傷付けられる度に強くなっていったそうだ。
「祐巳さんは、自分に逆らう人たちに全く容赦しなかったわ。殺しこそしなかったけれど、逆らおうとする気が失せるまで徹底的に痛め付けるの。そうして祐巳さんに痛め付けられた人たちの中には、もう二度と戦えなくなる人もいたわ」
「それって……」
祐巳さまたちの世界でもう二度と戦えなくなるという事は、蟲と遭遇しても対抗する手段がないという事に他ならない。
「止めなかったんですか! そんな祐巳さまも、その人たちの事も、あなたは止めなかったんですか!」
思わず声を荒げた瞳子から、志摩子さまは目を逸らした。
「……止めなかったわ」
「どうしてですか! 何で止めなかったんですか!」
「私だって止めたかったわよ!」
尚も突っかかった瞳子に、志摩子さまは目の淵に涙を浮かべながら睨み返してきた。
「でも、私の言葉は祐巳さんにはどうやっても届かないのよ! どうすれば良かったって言うの! あの世界の人たちだってそうよ! あの人たちだって、どうしようもないほどに傷付いて……おかしくならなければ生きていく事ができなかったのよ……」
誰もが誰かを傷付ける世界。誰もがおかしくなってしまう世界。何という最悪の世界だろう。
しかし、それでもやはりこの人がやった事は許せない。
志摩子さまの言葉は祐巳さまには届かない。祐巳さまを裏切ったのだから当然だ。いい気味だ、と思う。でも、それなのになぜ、そんな人が祐巳さまの事をこんなにもよく知っている?
瞳子は悔しかった。目の前の、祐巳さまを裏切った人が自分よりも遥かに祐巳さまの事を知っているから。けれど、よく知っているのも当然だ、とも思う。だって、この人は祐巳さまと同じ世界にいただけではなく――。
「祐巳さまの事、ずっと見ていたんですね」
「……そうよ。ずっと傍で見てきたわ」
祥子お姉さまを見てきた瞳子と同じように、ずっと祐巳さまを見てきた人だから。
「辛い……ですね」
「そう思う資格は、私にはないわ」
志摩子さまはそう言って目を伏せた。
瞳子は朱に染まっている空を仰いだ。冷たい空気が制服越しに肌を刺している。吐き出した息は白く、空中に溶けていった。
ここよりもずっと冷たかっただろう雪の中を、お姉さまを失った祐巳さまはどんな思いを抱きながら一人で学園まで戻ったのだろうか。辛かった、悲しかった、は当然だろう。死にたい、とまで思った事だろう。
でも祐巳さまは、それでも生きて学園まで戻った。どんな理由だったにせよ、それは強いと思う。
けれど、失ってしまったのだ。酷く傷付けられて、痛みを失くしてしまった。おそらくは、それ以上傷付かないように、自分を守るために痛みを失くしてしまったのではないだろうか。
「傷付いた姿を見せる事は――」
聞こえてきた声に、瞳子はそちらへと視線を向けた。
「弱さを見せる事」
志摩子さまはいつの間にか顔を上げていて、銀杏の中にある桜の木を見つめていた。
「祐巳さんにとって弱さを見せる事は、何よりも怖い事なの」
ゆっくりと、桜の木から瞳子へと視線を向けてくる。
「瞳子ちゃんと祐巳さんは、よく似ているわ」
ああ、そうか。
「私を拒絶したのは……」
ようやく分かった。
「ええ、そうね」
瞳子が弱さを見せてしまったからだ。
「祐巳さんがあなたを拒絶したのは――」
瞳子が隠していた姿が弱さだったから。
「きっと、あなたの姿が自分の姿に重なったからよ」
自分の弱さを見せ付けられているようだったから、祐巳さまは瞳子を拒絶したのだ。
「……でも、それならなぜ今頃になって、誰にも見せなかったような表情を見せたのでしょうか?」
たとえ、どんなに傷付けられても決して見せなかったという表情。瞳子を拒絶した時の、祐巳さまの泣いているような表情を思い出す。
「今の祐巳さんは、とても不安定になっているの」
「不安定?」
「この世界は優し過ぎて、今の祐巳さんには辛いのよ」
優し過ぎて辛い? 意味が全く分からない。優しいという単語は、どんな時でも決して悪い言葉ではないと思う。それなのに、なぜ優しくてはならないのだろうか。
「どういう事です?」
「今の祐巳さんの持つ強さは、この世界では必要ないの」
「あ……」
そうだ。確かに必要がない。この世界は、祐巳さまのいた世界のように滅ぼされようとしているわけではない。祐巳さまの持つ強さは、ここでは全く必要がない。
「それに……」
何かを言いかけて、志摩子さまが瞳子を見てきた。その顔に浮かんでいるのは迷いの色で、志摩子さまはしばらく悩んでいたようだが、結局「いいえ、何でもないわ」と首を左右に小さく振った。
気になったので尋ねようとした瞳子よりも先に、志摩子さまが口を開いて話を続ける。
「今の祐巳さんは不安定だから、自分でも知らないうちにそういう表情を見せてしまったのだと思うわ」
聞くな、という事だろう。それが何なのか分からないけれど、今聞いて良い事ではないらしい。
本当は尋ねたいのだけれど、瞳子はそれを抑えた。志摩子さまがそういう素振りをしたという事は、本当に聞いてはならない事なのだろうから。
「けれど、それがあなたの前だから、という理由もそこにはあると思うの」
「私の前だから、ですか?」
「あなたが、あちらの世界には存在していなかったから」
「え?」
「言葉通り、あちらの世界に瞳子ちゃんは存在していなかったのよ。向こうの世界では、姿を見た事も名前を聞いた事もないわ。だからこそ、瞳子ちゃんの言葉なら祐巳さんに届くかもしれない」
ああ、そういう事か、と志摩子さまの話してくれた事を思い出す。
『あの世界の誰の言葉であろうと、祐巳さんには全く届かなかった』
つまり、あの世界に存在していなかった瞳子の言葉なら届くかもしれない、という事だ。
「でも私は……もう拒絶されました」
そして、今になって不安に思う。もしかしたら自分は、自分でも気付かないうちに、祐巳さまを祥子お姉さまの身代わりにしていたのかもしれない、と。祥子お姉さまが瞳子を見てくれないから、瞳子を見てくれる祐巳さまを選んだだけなのかもしれない、と。
「諦めるの? 諦められるの? 祐巳さんは決して諦めなかったわよ。心は壊れてしまったけれど、それでもあの世界を守ろうと戦っていたわ。それに、ここで諦めたら……私のようになってしまうわよ。それでも良いいの?」
「私は……」
けれど瞳子は、祥子お姉さまよりも祐巳さまの妹(スール)になりたいと思った。祐巳さまに、自分のお姉さま(スール)になって欲しいと思った。
身代わりであろうとそうでなかろうと、祐巳さまの妹(スール)になりたい、と思ったのは本当だ。それだけは瞳子の真実であり、間違いなく本当の気持ちだ。
志摩子さまと乃梨子が見つめる中、瞳子はぎゅっと強く拳を握りながら言った。
「諦めません」
諦めたくない。もう逃げるのはたくさんだ。
一度は拒絶された。また拒絶されてしまうかもしれない。正直に言ってそれはとても怖いのだけれど、このまま何もしないで諦めるなんて、それはもっと嫌だ。
「諦めるものですかっ」
……それに、あんな事をされたのは初めてです。まさか、胸倉掴まれるわ、怒鳴られるわ、なんて思いもしませんでした。あの人は、祥子お姉さまに付けられた傷よりも深い傷を、私の心に付けてしまいました。その責任を取っていただくためにも、私は絶対に諦めません。
私だって、祥子お姉さまと一緒で負ける事が大嫌いなんです。ですから、覚悟しておいてくださいね。
必ずあなたの妹(スール)になってみせますから。
お母さんに年末のお買い物を頼まれてK駅前までやってきた。
と言っても大掃除のための洗剤だの細々した日用品なんだけど。
いつものスーパーには置いてないような、強力油落としとかお酢の力の洗剤なんてどこで聞いて来たんだろう?
そんなことを思いながら帰り道、バス停に戻ろうと歩いている時にそのお店の看板が目に飛び込んで来た。
一昨日のクリスマスのパーティに可南子ちゃんは瞳子ちゃんを連れて来てくれた。
あれはあの二人なりの友情だったんだろう。
あの二人の友情、それは多分、あの出来事から始まっていたのかもしれない・・・。
学園祭の少し前、体育館での劇の練習が終わり瞳子ちゃん、可南子ちゃんと一緒に薔薇の館に戻りビスケット扉を開けようとしたとき、中から聞こえて来た声に私達の動きが止まった。
「やっぱり、瞳子ちゃんと可南子ちゃんは絶対に相いれない存在なのよ!」
・・・また、由乃さんが暴走しているようだ。確かアリス達花寺の方々を連れて先に戻っていたはず。
おかしなことを言い出す前に止めないと、とドアノブに手をかけた時、乃梨子ちゃんの非常に間の悪い声まで。
「どういうことでしょう?由乃さまはあの二人に何か感じるところがおありなのですか?」
「二人の髪形よ!あれこそが性格の現れ!すべてのヒントだったのよ!」
「由乃さん、そのヒントとは?」
「あの二人の髪形に隠されたもの、それはラーメンだったのよ!!」
「「な、なんだってーー!!」」
いや、そこで小林くんも高田くんもMMRごっこしなくていいから。
って、なんでラーメン??
「くるくるくるねじ曲がって周りに絡み付くチリチリ麺、そう、まるで祐巳さんや乃梨子ちゃんに絡み付くような瞳子ちゃんは札幌ラーメンなのよ!真っすぐ一直線で濃厚なスープの中でも自己主張してる、一匹狼な可南子ちゃんは博多ラーメンなのよ!北と南の両端に位置する二人が互いを受け入れないのも当然だわ!!」
「「「おー!!」」」
「・・・いや、無茶苦茶で意味不明です、由乃さま」
うん、全く理解できないよ由乃さん。
「いいじゃない、なんだか劇の練習してたらお腹空いちゃってさー。瞳子ちゃんの頭見てたらラーメン食べたくなったのよ」
「なるほど、それは分かります。瞳子の髪形はクロワッサンみたいだって噂もありますからねぇ。ただのドリルなのに」
うわぁ、乃梨子ちゃんまで・・・隣で瞳子ちゃんがちっちゃな手を握り締めてブルブル怒りに震えてるんですけど。可南子ちゃんは・・・笑いをこらえて肩が震えてるよ。
「そういえば博多ラーメンではさっと茹でただけの硬麺をハリガネって言うんだって聞いたことあるよ。私、可南子ちゃんにハリガネってあだ名つけたら祐巳さんに怒られちゃったけど」
あ、アリスそれは拙いってば・・・あーぁ、今度は可南子ちゃんが怒って・・・貞子だ!貞子がTVから抜け出てますよ!
「「「「「あー、お腹空いた〜〜」」」」」
「祐巳さま、体育館に忘れ物をなさっていませんか?すぐに取りに戻られるのがよろしいかと思います」
えーっと、可南子ちゃん?私は忘れ物なんて・・・
「祐巳さま、練習中我慢をなさっていたのでは?顔色が悪いですよ、ご不浄に行かれた方がよろしいかと」
あのね、瞳子ちゃん・・・。
はい、分かりました。もう止められませんね。でも、劇が中止にならない程度に手加減してね。
二人に見送られて薔薇の館の外に出た途端に聞こえて来た声なんて聞いてないですよ。えぇ、ワタクシ、何も聞いてませんデスよ。
『こんの、暴走機関車とガチ薔薇のつぼみがぁぁああ!ミラクルドリル、シューーーーート!!』
『おカマに筋肉馬鹿に電卓お化け野郎!くらえ!超高高度からの踵落としぃぃぃぃ!!』
北風にパタパタとはためく、暖簾に書かれた「ラーメン」の文字をぼんやりと見つめつつ、取り留めのない思いが祐巳の胸に込み上げていた・・・。
「ありゃ?」
福沢祐巳が、マリア像の前でいつものようにお祈りを済ませ、振り返って歩き出そうとしたその時だ。
何かがコンと、つま先に当たる感触。
足元を見れば、そこにはメガネが落ちていた。
「誰かの落し物かな?」
拾い上げてみれば、何の変哲もないただのメガネのように見える。
今日は早めに登校して来たため、辺りを見回してみても誰もいない。
「ま、落とした人は困るだろうからね。届けてあげなきゃ」
祐巳は、そのメガネをポケットに入れた。
「ふむ」
教室で、何か手かがかりでも無いものかと、メガネを調べる祐巳。
形は、クラスメイトの武嶋蔦子がかけているメガネと良く似ているが、同じような形のフレームなぞザラにあるだろうから、決め手にはならない。
幸いレンズには傷もなく、多少汚れが付いているだけで、拭けばすぐに落ちるだろう。
チリ紙でそっと拭き取れば、当たり前のように綺麗になった。
祐巳は、ちょっとした好奇心で、そのメガネをかけてみた。
度はほとんど無いようで、以前蔦子のメガネをかけた時の身体のグラつきは皆無だ。
「ごきげんよう祐巳さん」
「うわぁ。ご、ごきげんよう蔦子さん」
「何驚いてるのよ」
「イキナリ肩を叩かれたら、私でなくても驚くと思うけど」
「そりゃそーだ。ま、私も驚かすつもりで声をかけたんだけどね。で、なんなのそのメガネ?」
似合ってるような、似合っていないような、どっちつかずの微妙な雰囲気の祐巳の顔を指差しながら、問い掛ける蔦子。
「うん、今朝マリア像の前で拾ったんだ。蔦子さんのじゃないよね?」
「ええ、私はこの通りかけてるし、落すようなヘマは、多分しないわ」
「そうだよね……え?」
レンズを通して蔦子を見ていると、視界の片隅に、『計測中』と書かれた緑色の文字が点滅していた。
「……?」
メガネを外すと見えなくなるということは、やはりレンズ面になんらかの形で投影されているということか。
再びメガネをかけ、不思議そうな顔の蔦子はとりあえずそのままにして、待つこと数秒。
『計測終了』の赤い文字に変わり、その下に、新たに何かが表示された。
『対象物の主要特性測定結果は、以下の通り。 盗撮能力:S 弁論能力:A+』
「へぇ〜……」
「ちょっと祐巳さん、一人で何納得してるのよ」
「え、あ、いや、このメガネなんだけど……」
「ごきげんよー、お二人さん」
そこに現れたのは、二人のクラスメイト、山口真美。
当然ながら彼女に目を向ける祐巳だが、案の定、再び『計測中』の文字が点滅していた。
「なんなの祐巳さん。メガネなんかかけちゃって」
「今朝、マリア像の前で拾ったんだって」
「ふーん、『紅薔薇のつぼみ新境地!』ってワケじゃないんだ、残念」
蔦子と真美が話をしている間に、計測が終了した。
そこには、
『対象物の主要特性測定結果は、以下の通り。 ゴシップ収拾能力:A 編集能力:B+』
「なんと言うか……、真美さんらしいね」
「は? 何のこと?」
怪訝そうな顔で、聞き返す真美。
そりゃそうだろう、祐巳以外にはサッパリわけが分からん話だ。
「蔦子さん、かけてみて」
「?」
言われるままに、自分のメガネを外し、祐巳から渡されたメガネにかけ換える。
「これがどう……んん? んーんー、なるほどねぇ」
流石は頭の回転が早い蔦子、それだけで大方の理由は察したようだ。
「私はどう表示されたの?」
「うん、蔦子さんの場合、盗撮能力がSで、弁論能力がA+だって」
「盗撮って表現が気に入らないけど、概ね合ってるわね。真美さんの評価も、ね」
「だから、何の話よ!?」
知りたがりぃの真美、我慢できなくなって、二人に詰め寄った。
「だから真美さんの場合、ゴシップ収拾能力がAで、編集能力がB+ってことなのよ」
「さっぱり分からないわよ!」
「まぁまぁ。ほら、これかけてみ?」
真美に、例のメガネを渡す蔦子。
「これの一体何が……?」
真美の視線の先には、祐巳が一人。
『計測中』の文字に疑問を浮かべつつも、しばらく待っていると。
計測終了と同時に、以下の表示が現れた。
『対象物の主要特性測定結果は、以下の通り。 天然:B タヌキ:S』
「はぁ?」
思わず、変な声をあげる真美。
蔦子は、呆然としている真美からメガネを奪い取り、再び自分にかけてみた。
「はぁ。これが祐巳さんの主要特性ねぇ……?」
なんなんだ、『タヌキ』って。
「見せてよ蔦子さん」
「いいけど、見ない方がいいかもよ?」
僅かに哀れみのようなものを含んだ視線の蔦子からメガネを受け取り、表示を確認してみれば。
「なんじゃこりゃ!?」
表示の内容に、往年の、今は亡き名優の名セリフを口にした祐巳。
しかし、恐らく彼女はそんなこと知らないだろう。
メガネを外して、蔦子と真美を見る祐巳だが、二人は露骨に視線を避けていた。
「えーと、まぁその……。つまり、そういうことね」
「大丈夫よ多分。私たちの未来は無限に広がっているのだから」
「何が言いたいのかわからないけれど、とにかくコレは、そういうシロモノってことなのね」
どんな構造なのかは分からないが、大した技術力ではある。
「ええ。一言で言うと、『観察対象の主要特性を測定・表示する機能を持った眼鏡』となるのかな」
「長いわよ。計測メガネでいいじゃない」
「それもどうかと思うけど」
「ごきげんよう」
『ハイごきげんよう』
唐突な、聞き覚えのありすぎる挨拶の声に、反射的に応じた三人。
そこには、クラスメイトの島津由乃がいた。
「何してるの?」
「ほら、祐巳さんが今朝メガネを拾ったって言うから、誰の物なのか手がかりを調べてたってわけ」
由乃の問いに、真美ともども祐巳を肘で突っ突きながら、説明する蔦子。
流石に弁論A+、よどみないなぁと思いながら、由乃から視線を外さず、計測終了を待つ祐巳。
「ふ〜ん。でも、メガネに名前書いたりしないだろうし、どこにでもありそうな形だから、手がかりなんて無いんじゃないかな」
気分がいろんな意味で高揚さえしていなければ、由乃は結構理論的で合理的な考えの持ち主。
彼女の意見は、至極もっともだ。
「かわら版上で、持ち主を探す……ダメだわ、時間がかかり過ぎる。聞いて回るのも非合理的だし。こうなったら、放送委員に頼んでみる?」
「そこまでしなくてもいいかもね。私、大方持ち主の見当がついているから」
「あ……」
ようやく計測が済んだのか、小さく呟いた祐巳の目に映る表示とは。
『対象物の主要特性測定結果は、以下の通り。 青信号:S 令ちゃんのバカ:S』
祐巳の頬が、ピクピクと引き攣っていた。
慌てて計測メガネをかけ、表示を見た蔦子も、同じように顔が引き攣る。
同じく真美も、頬がピクピク。
「なによ、三人揃って変な顔して」
『うえ!? いや、何でもない、何でもないですよ!?』
そりゃ誤魔化したがるのも当然だ。
『タヌキ』ってのも相当ヒドイが、なんだ『令ちゃんのバカ』って。
主要特性なのか?
「……ゴホン。まぁ何にしろ、次の休み時間にでも、返しに行きましょうか」
「そう言えば、見当ついているって言ってたね。誰なの?」
祐巳の問いに蔦子は、かなりの自信を持ってこう言った。
「つまり、発明部員じゃないかな?」
後に返却された計測メガネは、原型を止めていなかったと言う。
何故かって? そりゃ青信号だからねぇ………?
色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
【No:1893】→【No:1895】→【No:1897】→【No:1907】→【No:1908】→【No:これ】→【No:1913】→【No:1921】→【No:1926】→【No:1933】→【No:1941】→【No:1943】→【No:1945】
身体に傷を負えば、痛くて、泣きたくて、叫びたくて。
心に傷を負っても、痛くて、泣きたくて、叫びたくて。
でも、私にはお姉さまがいた。お姉さまは私の全てだった。お姉さまがいれば、どんなに傷付けられても耐えられた。お姉さまがいたから、どんなに傷付けられても私は笑顔でいられた。
けれど、そのお姉さまはもういない。
泣いている瞳子ちゃんをその場に置き去りにして、私は中庭を後にした。
途中で乃梨子ちゃんを連れた志摩子さんと擦れ違ったから、おそらく二人が瞳子ちゃんを見付ける事になる。そうなると、きっと志摩子さんは向こう世界の事を話すだろう。あの世界で私に何があったかを話してしまうだろう。今、私に最も近い場所にいるのが瞳子ちゃんだから。
瞳子ちゃんは、志摩子さんの話を聞いてどうするだろうか。諦めるだろうか? 諦めないだろうか? ……何となくだけど、あの子は諦めないような気がする。あの子は、私なんかよりずっと強い。でも、それで何かが変わるわけではない。私には届かない。
志摩子さんはきっと、あの事だけ話さない。私から話す事を望んでいるだろうから。
でもね、私は話したりはしないよ。だから届かない。たとえ瞳子ちゃんの言葉だろうと私には届かない。届くはずがない。……それなのに、どうしてだろう? 届かせて欲しいと思っている自分がいる。
そんなの有り得ない。だって、届いてしまったら私はまた弱くなる。今の強さを失ってしまう。きっと、もう二度と立ち上がれなくなる。
どうしてかな? どうして、こんな事になったのかな? だって、おかしいよ。痛い、だなんて……。そんな事あるはずがないのに。私、どうしちゃったっていうの? 何で心が痛むのよっ!
四日目、朝。
「祐巳さま」
いつもと同じようにマリア像の前を通り過ぎていると、何者かに声をかけられた。
このパターン多いな、と思いながら振り向くと、百八十センチはありそうなすらりとした長身に、長い黒髪を持つ女の子。祥子さまに似た雰囲気を持つ美少女だった。
本当にこの学園って美形揃いよね、と妙な事に感心しながら油断なく身構える。
「ごきげんよう、祐巳さま。それとも、初めまして、の方がよろしいですか?」
少女はそう言って、にっこりと微笑んだ。
彼女とよく似た人種とは違って、その表情には嫌味がなかった。だからというわけでもないのだけれど、身構えるのはやめる事にした。というか、どうせ身構えた所で無駄なのだ。
祐巳の周囲では、会話の途中なのか口を開いたままの生徒やマリア様に祈りを捧げている生徒、他にも数人の生徒たちが彫像のように固まっていた。
祐巳を除いた辺り一帯の――いや、おそらく全世界の時間が止まっていた。
正しくは、止められていた。こんな事ができるのは、アレしかいないだろう。アレだ、桂さんの同類。
「人、って表現して良いのか知らないけど、あなたで二人目よ。神様に出会ったのは」
「桂さまの事ですね。あと、人、で良いですよ。私たちもそう言っていますから」
では、今後はそう表現させてもらう事にする。桂さんとは、最低でももう一回は会わなければならないみたいだし。
それはそうと、また神様だ。運が良いのか悪いのかは知らないが、桂さんといい彼女といい、こうもポンポンと神様に出てこられると有り難味が減るような気がする。
「ひょっとして、神様って結構暇だったりするの?」
祐巳が尋ねると、彼女は口元を押さえて笑った。仕草や振る舞いが桂さんとは大違いで、目の前の彼女なら女神と呼んでも良いような気がする。
「普段は結構忙しいんですが、今は桂さまが動いてくださっているのでその分だけ暇と言えば暇ですね。私はそんな風にして空いた時間は、バスケ部の方に打ち込むようにしています。運動とか凄く得意なんですよ」
「いや、バスケ部所属の神様って……」
リリアン女学園の制服も着ている事だし、桂さんと同じようにこの学園に通っている事は間違いないだろうな、とは思っていたのだがさすがにそれは予想外だ。
「それを言ったら、桂さまだってテニス部に所属しているのですが」
良いのかそれで、と祐巳は呆れた。そもそも、神様相手に誰が勝てるというのだろう。勝つ事が最初から決まっているのでは、試合をしたって面白くないと思うのだけれど。
「バスケをやっている時に神様の力は使いませんから、その辺りは大丈夫ですよ」
ああ、やっぱり神様なんだな、と感心した。こちらの考えている事を当たり前のように読んでくる。
「では、心を読んだついでに言っておきますが、私は瞳子さんのクラスメイトでもあります」
おまけに、わざわざ瞳子ちゃんの事を付け加えるとか。まさか昨日の事も知っているのだろうか――と、これまた考えていた事を読まれたらしく、彼女が笑顔を苦笑いへと変えた。
「あんまり瞳子さんを苛めないでくださいね。彼女、ああ見えて結構脆い所もありますから」
「……別に苛めたわけじゃないわよ。瞳子ちゃんとは仲良いんだ?」
「こちらの世界ではそうでもないのですが」
って事は、別の世界では仲が良いって事か。
「それで、ここには何しに来たの?」
「特にこれと言って理由はないんですが、敢えて言うなら、せめてご挨拶だけでも、と思いまして」
「挨拶ねぇ。桂さんといいあなたといい、いったい何を企んでいるのか教えて欲しいんだけど」
「残念ですが、今回の事に私は関わっていないんです。それに、どういう目的があるのかは知っていますが、お話しするわけにはいかないので。申し訳ありません」
あっそ。じゃあ、本当に挨拶だけ?
「ええ。余所の世界では、ですけれど、祐巳さまにはお世話になっているので。本当は、少しくらいはお手伝いしたいのですが……」
「余計なお世話はして欲しくないから、いらない」
面倒事は嫌いだ。
「余計なお世話が得意なのは、余所の世界のあなたの方なんですけれどね」
彼女はそう言って苦笑した。
「でも、そのお陰で別の世界の私も救われたんです」
そんな事を言われても困る。
「そんなの私は知らないし、私には関係ないでしょ」
「それでもやっぱり、あなたとその世界の祐巳さまは同一の存在なんです」
確かに別の世界だろうと、その人物が福沢祐巳であるならば、ここにいる祐巳と同一の存在なのだけれども。でも、こうやって思考している福沢祐巳は自分しかいないわけだし、なんだかややこしい。
「まあいいわ。ところで、あなたのお名前は?」
「細川可南子って言います」
「可南子ちゃん、で良いのかな? それとも、可南子さま、の方が良い? 神様なんだし」
「確かに神様ですが、一年生なんで可南子ちゃんで良いですよ」
自分で可南子ちゃんはちょっと恥ずかしいですね、と頬を掻きながら彼女は続けた。
背が高く、やたらと大人びた雰囲気を持っているけれど、その仕草はとっても可愛いく見えた。ちょっと惹かれるものがある。
「もしかして、他所の世界では私と姉妹(スール)だったりする?」
「そういう世界も確かにありますね」
穏やかに可南子ちゃんが微笑む。
その微笑があまりにも綺麗で祐巳が見惚れていると、可南子ちゃんが申し訳なさそうに言った。
「もう行かなければならないので、これで失礼しますね」
「ん、分かった。神様のお仕事、頑張って」
「はい。祐巳さまも」
そう言い残して、まるで最初から存在してなかったように可南子ちゃんの姿が目の前から消えた。同時に、祐巳の周りにいた生徒たちが動き始める。
彼女たちは、まさか自分たちが時間を止められていたなんて思いもしないだろう。馬鹿みたいに能天気で良いわね、と彼女たちを眺めながら可南子ちゃんの言葉を思い出す。
(祐巳さまも、って何を頑張れと? いったい私に何をさせる気なのよ?)
神様には本当に隠し事が多いようだ。それが何なのか考えてもどうせ分からないし、時間の無駄なのでやめておくけれど。
教室に入ると、極度の興奮状態にある何者かが祐巳が掴みかからんばかりの勢いで迫ってきた。
「祐巳さん! できたわ! 見て!」
いやいや、いきなり何? っていうか、誰よあなた? 単語を並べただけのセリフは頭が悪く思われるよ……って、よく見れば真美さんだった。
それにしても、いったいどうしたというのだろうか。随分と酷い顔をしている。
「えっと、目の周りの隈がとても素敵だね。……ごめん、すっごく怖いから睨まないで」
謝りつつ真美さんが手にしているものを見て、どうして話しかけられたのかを理解する。
アレだ。真美さんの手にあるのは、リリアンかわら版と呼ばれるものだ。昨日の今日で本当に完成させたらしい。真美さんホントに仕事早いねー、と感心しながら彼女の面白い顔(おそらく徹夜明け)を極力見ないように受け取って読んでみる。
(ふむふむ、ふむふむ。……って何よ、これ!?)
例の写真が一面に載っているのは同じだった。ただ、その下にある文字が前とは違った。そこには、「私のタイは曲がりタイ。私はタイを直しタイ。二人合わせて、おめでタイ。とってもタイ変」と書かれてあったのだ。
怒りでフルフルと手が震えた。それと同時に脱力させてくれるとは、こちらの真美さんはとんでもないやり手らしい。とりあえず何か文句を言わなくては、と口を開きかけた祐巳よりも先に真美さんが口を開いた。
「それは冗談なんだけど」
冗談かよっ! と魂のツッコミ。勿論、淑女として失格となるので決して声には出さない。
「本物はこっち」
そう言って真美さんが差し出してきた、もう一つのかわら版を受け取る。
読んでみると、確かに昨日真美さんが言っていた通り祥子さまと祐巳のツーショット写真についてただの偶然である事と、それを事実の確認も取らずに面白おかしく掲載してしまった事に対しての謝罪文が載せられていた。
ちゃんとしたのがあって良かった。部室を粉微塵にするのって面倒臭いのよね、なんて祐巳がほっと胸を撫で下ろしていると真美さんが溜息を吐きながら言った。
「勿論、配るのはこれよ。さっきのは本当にただの冗談。徹夜すると意味不明な事をするものね」
そんなものなのかな、と思った。祐巳だって向こうの世界では何度も徹夜をした事がある。夜になると活発に動き出す、楕円形で素早くて時々滑空してくれるおぞましい奴がいたからだ。
程良く緊張していたから逆に集中できたんだよね、と当時を思い出しながら真美さんを見ると何度も欠伸を噛み殺していた。余程眠いらしい。まだ一日が始まったばかりだというのに大変そうだ。
とりあえず、「お疲れさま」とあんまり意味はないだろうけれど労ってあげた。
「本当に疲れたわ。でも、こちらもそれなりの見返りがあったから」
「見返り?」
何の事だろう? と思って聞いてみると、「今度の日曜日にお姉さまの奢りで遊びに行くのよ」と返ってきた。そもそも今回の件で真美さんには何の落ち度もなく、三奈子さまの暴走に巻き込まれただけなのだ。その後始末をするのだから、それくらいの見返りはあっても良いはずだ。
「それなら私の受けた迷惑分も合わせて、精一杯、とびっきり、ゴージャスに遊んできてね」
祐巳が言うと、口元を隠した真美さんが欠伸をしながら頷いた。
*
チャイムが鳴って、待ち侘びたお昼休み。
皆がお弁当箱を取り出したりミルクホールに向かったりする中、祐巳は教室の片隅でほっと一息吐いていた。というのも、授業の内容に付いていけないからだ。あちらの世界で祐巳が普通の授業を受けたのは高校一年生の秋までで、それ以降はあの蟲共と戦っていた。もしもこのままあちらの世界に戻れないようであれば、こちらの世界で生きていくために一年と少しの間の授業内容をどこかで取り戻さなければならない事になる。
(……まあ、その時はその時だ。とりあえず今は、売り切れてしまう前にパンを買いに行くべきよね)
昨日までの三日間の祐巳のお昼は、ミルクホールで買ったパンとジュースである。それは今日も変わらない。福沢家は引っ越ししてきて間がなく、お母さんは荷物の整理やらお父さんの仕事の手伝いやらに手一杯で、祐巳と祐麒のお弁当にまで手が回らないのだ。祐巳としてはあちらの世界では自炊していたので自分で作っても構わないのだが、面倒臭いと言えば面倒臭いしお昼ご飯を買うお金は渡されるので、無理に作る事はないか、と作らない事にした。
財布を持っている事を確認して、さて行くか、と席を立ちながら周りを見てみると、最近はいつも薔薇の館で昼食を摂っている由乃さんが珍しい事に自分の席でお弁当箱を開いている。
「今日は薔薇の館には行かないの?」
尋ねてみると、由乃さんがビクッと肩を震わせた。何を驚いているんだろう、と由乃さんの顔を見ると、良い感じに目を逸らしてくれる。
「う、うん。れっ、令ちゃんが今日は用事があって行けないって言っていたから、スピーチのアドバイスをもらう事ができないなら私も行く意味がないしっ」
悪いけど信じられない。っていうか、どもり過ぎだと思う。それから、慌て過ぎて黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)の事を人前なのに令ちゃんって呼んだ。
「そうなんだ?」
「え、ええ、そうなのよ」
怪しい。何かあったのだろうか。例えば、令さまと喧嘩したとか。
「何かあったの?」
「ううん、別に。その、大した事じゃないわ」
「それって、大した事ではないけど何かあるって事は間違いないよね? 私にも言えないような事?」
「うー……ごめんなさい。誰にも言うわけにはいかないのよ」
申し訳なさそうに頭を下げてくるが、祐巳としては別に本気で聞きたかったわけじゃない。由乃さんの反応が面白かったので、少し意地悪してみただけだ。
いやしかし、由乃さんを弄るのってすっごく楽しかった。癖になってしまいそうだ、またそのうち苛めてみよう、なんて思いつつ寂しげな表情を浮かべる。
「ううん、誰にだって言えない事ってあると思うからね。気にしてないよ」
「祐巳さん……」
感動したように、うるうるした瞳で見つめてくる由乃さん。
我ながら素晴らしい猫の被り方だ。もっとも、師匠は向こうの世界の由乃さんなんだけれども。
何というか。予期せぬ事って結構あるもので、ミルクホールからの帰り道で、反対側からこちらへと向かってくる瞳子ちゃんの姿を見付けて思わず立ち止まってしまった。
彼女もこちらに気付いたようで、同じように立ち止まって祐巳をじっと見てくる。
そんな彼女を見て、まずい、と思った。祐巳に向けられた彼女の視線からは、迷いというものが感じられなかったからだ。昨日あれだけの事をされたのに、瞳子ちゃんは全く諦めてなかった。傷付いても、またぶつかってくる気だ。
彼女は止めていた足を再び動かして一直線にこちらに向かって歩いてくると、祐巳の前でピタッと立ち止まった。何も言えずにいる祐巳を真っ直ぐに見つめながら、瞳子ちゃんが口を開く。
「話があります」
「私にはないわ」
そう言って踵を返し、瞳子ちゃんに背中を向けて一歩踏み出した途端、「逃げるんですか」と背後から声がかかる。それを聞いた瞬間、祐巳は足を止めていた。本当は逃げ出してしまいたかったのだけれど、仕方なく振り向く。
「誰が逃げるって?」
「逃げるつもりがないのなら、少しの間私とお話をしませんか」
「話、ね。良いわよ」
「ここでは目立つので場所を変えましょう。今の時間なら薔薇の館が空いています」
「ふん、そういう事か」
ここにきて、由乃さんが教室で昼食を摂っていた理由が分かった。どうりで理由を教えてくれなかったはずだ。という事は、この瞳子ちゃんも偶然ここを通りがかったわけではなく、この辺りで祐巳を待ち伏せしていたのだろう。
だって、山百合会のメンバーはここ数日昼食時には薔薇の館に集まっていて、お姉さま方から立ち会い演説会での演説内容についてアドバイスをもらったりしている、と昨日由乃さんが言っていたのだ。だから普通であれば、この時間に薔薇の館が空いているはずがない。
「何です?」
キョトンとした表情の瞳子ちゃんは、バレているとは思ってないようだ。
あなたが由乃さんたちに手を回していた事が分かったのよ、と心の中で彼女を嗤いかけて、待てよ? と考え直す。昨日のあの後、志摩子さんが瞳子ちゃんを見付けたのであれば、もしかするとこれは志摩子さんの仕業なのかもしれない。というか、その可能性は非常に高い。向こうの世界での幾つかの重要な作戦は、志摩子さんが立てたものだったし。
「あの、祐巳さま?」
呼びかけられて我に返る。知らず思考の海に潜り込んでいたようだ。この間は無防備なので今度から気を付ける事にして、とりあえず先に返事をしておこう。
「分かってるよ。行けば良いんでしょ、行けば」
「では早く行きましょう」
連行される犯人ってこんな感じかなぁ、と肩を落としつつ祐巳は瞳子ちゃんの後を追った。
薔薇の館には誰もいなかった。
しん、と静まり返った館に、祐巳と瞳子ちゃんの二人が階段を上る音だけが響く。ここに来るまでお互いに無言で、妙に落ち着かない。昨日の事で文句でも言われていた方が幾分かマシだと思えた。
階段を上り終えて瞳子ちゃんが会議室の扉を開ける。誰もいないのが分かっているので、当然ノックはしなかった。二人して部屋に入ると、持っていたパンとジュースを机の上に置いた所で祐巳が先に口を開いた。
「それで、話って?」
「祐巳さまのいた世界の話を、志摩子さまから聞きました」
やはりあの後、志摩子さんは瞳子ちゃんを見付けたらしい。しかも、あちらの世界の話までしている様子。それなら、志摩子さんには悪いのだけれど仕方がない。
「実は志摩子さんには妄想癖があるの。おかしな話をされたでしょう?」
「……ご自分では気付いていないかもしれませんが、真面目な話をしている時や自分に都合が悪い時、あなたはいつも茶化しますね」
「そう?」
そうだったかな? 言われてみればそうだったような気もする。今度から気を付けよう。そう考えながら瞳子ちゃんを見れば、冷ややかな目を祐巳に向けていた。
「あなたの世界の事、どうして話してくださらなかったんです?」
「魔法だの蟲だの、そんな事をこの世界の人間に話せるわけないじゃない。話した所で、信じてもらえるわけないわ」
下手すれば狂人扱いだ。
「でも祐巳さまは、不思議な力を持っているんですよね? それを見せていただけたら、私は間違いなく信じたと思います」
それでも祐巳は話さなかっただろう。なぜなら、祐巳の生きるべき場所はこの世界ではないのだから。
「住んでいる世界が違うから話さなかったのよ。これ以上の理由なんて必要ないでしょう?」
「ですが、あなたは今ここにいる。ここにいるじゃないですか! 現実を見てください! あなたは生きていて、今この場所にいるんです! この場所が、あなたが今置かれている現実なんです! あなたが戦っていた世界ではないんです! それに、住んでいる世界が違っても志摩子さまと乃梨子は姉妹(スール)になっているじゃありませんか!」
「そんな事っ、言われなくても分かっているわよっ!」
祐巳が叫ぶと同時に、部屋の中を風が疾った。それは不可視の刃となり、瞳子ちゃんの縦ロールを留めてあるリボンを切り裂く。
「ひっ!」
瞳子ちゃんが小さな悲鳴を漏らした頃には、風は既に収まっていた。はらり、と裂かれたリボンが床へと落ちる。
「い、今のは……」
青褪めながら、床に落ちた自分のリボンと祐巳とを交互に見てくる。
「さっきあなたが言ってた『不思議な力』ってやつよ。私は化け物なの。こんな風に他人を傷付ける事ができる化け物が、この優しい世界の人間と姉妹(スール)になる? 無理に決まってるでしょ」
祐巳に言葉に瞳子ちゃんは黙り込んだ。
「この場所にいるからこそ分かるの。私がこの世界でどんなに異質なものなのか。私はこの世界には必要ないんだって、本当によく分かるの。私はここにいてはいけないのよ」
何も言えない瞳子ちゃんを見て、ここから立ち去ろうと踵を返して扉に向かう。
「志摩子さんたちが姉妹(スール)になれたのは、志摩子さんがあちらの世界に戻る事を諦めたからよ。私はまだ諦めていないわ。これだけ話せば十分でしょう? もう帰るからね」
そう言ってドアノブに手をかけた所で、
「逃げるんですか」
瞳子ちゃんの声が聞こえた。
「そんなに私と向き合うのが怖いんですか」
その言葉が耳に入った瞬間、祐巳は思わず動きを止めてしまっていた。
「まだそういう事言うの? いい加減にしないと本気で痛め付けてやるわよ」
昨日と同じように身体のどこかが痛み始めた。何なのか分からないのだけれど、まるで小さな針で刺されているようにチクチクと痛む。
「痛い……んですね」
「っ!」
思わず振り向くと、瞳子ちゃんは祐巳をじっと見つめていた。まるで祐巳の心の裡を見るかのように、瞳子ちゃんは祐巳だけをその瞳に映していた。
「今、祐巳さまがどんな顔をされているか、ご自分で分かっていますか? 愚問でしたね。分かってないですよね。痛みを失くして、そんな事も分からなくなってしまったんですよね」
「な……にを言うかと思えば、そんな事」
祐巳は全部見透かされているような気になって、瞳子ちゃんから視線を逸らした。
「今のあなたは痛みを感じている。違いますか?」
「違うっ! そんなものはないっ!」
「本当は痛いくせに!」
瞳子ちゃんが叫んだ。
「痛くなんてないっ!」
わけが分からないけれど、ずっと痛いままだ。どんどん酷くなってくる。
「泣きたいくせに!」
再び瞳子ちゃんが叫んで、その声が部屋に響き渡る。
「やめてっ!」
瞳子ちゃんに何か言われる毎に、弱い頃の自分に戻ってしまうようで嫌だった。そして、その度に痛みが強くなる。いったい何の痛みだろう。まるで悲鳴を上げているような――。
「弱いくせに!」
瞳子ちゃんに『弱い』と言われて、頭の中が真っ白になる。次の瞬間、祐巳は反射的に叫んでいた。
「黙れっ! それ以上言ったら殺すわよ!」
「っ! ……そうですか」
この部屋に来てから初めて、瞳子ちゃんが祐巳から視線を逸らした。同時に、ズキンと今まで以上に大きな痛みが祐巳を襲った。
「あ……」
そうか、と祐巳は気が付いた。自分を襲っていた痛みの正体に、ようやく気が付いた。気付きたくなかったのに気付いてしまった。
「殺す、ですか」
瞳子ちゃんが再び祐巳に視線を向けてくる。その瞳には、強い意思が宿っていた。
「な、何よ?」
視線を逸らしてしまいそうになりながらも、祐巳はそれに耐えた。
ここで彼女の言葉を届かせてしまったら、自分は弱くなってしまう。それは、とてつもなく怖い事だから、視線を逸らすわけにはいかなかった。何としても瞳子ちゃんの言葉を跳ね除けなければならなかった。
「できるんですか? あなたに私が殺せますか? あなたに人が殺せるんですか?」
「あ、あなた自分が何を言ってるか分かってる? 私が本気で殺せないとでも思っているの?」
精一杯の虚勢だった。これで瞳子ちゃんが諦めてくれなければ、祐巳にはもう後はなかった。
「だったら、さっさと殺せば良いじゃないですか。何を躊躇っているんです? 私を殺して、それで、そうやっていつまでも強いフリをしていれば良いです。私はそんな人の妹(スール)になりたかったわけじゃありません!」
痛くて、痛くて、何でこんな事になっているのか分からなくて眩暈までしてきた。
「わっ、私は……」
「殺せないですよね。あなたに人は殺せない。お姉さまの事があったから、それだけは絶対にしない。違いますか?」
言われた通りだった。確かに他人を傷付けたけれど誰かを殺すなんて、そんな事はした事ないし、するつもりもない。
いくらこの世界よりも遥かに命というものが軽く扱われていた世界だったとはいえ、他人の命を奪う事はできない。それは許されないし、もしそれをしたら祐巳は自分を許さない。それが、その人に関わる人たちをどれだけ傷付ける事になるか、祐巳はよく知っていた。
「……そうね。あなたの言う通りよ。認めるわ。でもね、私は人を殺せなくても壊す事はできるのよ」
指示に従おうとしない人を、二度と口答えできないくらいに徹底的に痛め付けた。その結果、その人は二度と戦えなくなった。祐巳としては、そういう人たちのせいで他の人が身を危険に晒す事になるのなら、その人たちを潰した方がずっとマシだと思っている。そして、そうやって潰してきたのは一人や二人どころではない。
「そうですね。でも、今のあなたにそれができますか?」
「今まで私が何人壊してきたと思ってるの? 今更一人くらい増えても、どうって事ないわ」
諦めて欲しかった。一刻も早く諦めて欲しかった。
これ以上、瞳子ちゃんの声を聞きたくない。
これ以上、瞳子ちゃんを――。
「でも、ここはあなたの世界とは違うから、あなたにそんな事はできませんよね」
「なっ、何を言ってるの? そんな事はないわ。私は平気なんだから」
何で諦めてくれないのよっ! 早く諦めてよっ!
悲鳴を上げ続けている心の中で叫ぶ。
「痛いですか? 今あなたが感じている痛みが何の痛みなのか、もう分かっていますよね」
「知らないっ! そんなものは知らないっ!」
聞きたくないから。それを認めたくないから。祐巳は耳を塞いだ。
けれど、無駄だった。
「他人を傷付ける痛みなのではありませんか?」
瞳子ちゃんの言葉は、耳を塞いだ手を通して聞こえてきた。
「もうやめてっ! やめてよっ! 私の事なんて、あなたには関係ないでしょうっ!」
もう限界に近い。痛みで吐き気まで催してきた。
「なぜ傷付ける痛みまで失くしてしまったんです?」
「煩い! 黙れっ! もう黙って……お願いだから――」
あまりに痛みが酷くて、両膝を床についてしまう。
けれど、瞳子ちゃんは容赦がなかった。
「代わりに言ってあげましょうか? 誰かを傷付ける事さえ、あなたには痛い事だから。傷付けても、傷付けられても、あなたは傷付いてしまうんです。本当のあなたは、他人を傷付けて平気でいられるような人じゃないから。本当は、とても優しい人だから」
違うっ!
「そんな事ないっ! 他人なんていくら傷付けても私は平気よ! 私は強いの! だから……だから私は、傷付かない……」
「強さを履き違えないでください。あなたは、とても優しい。それは弱さなんかじゃないんです」
「煩い! 黙りなさいっ! 私は……」
たくさんの人を傷付けた。そんな自分のどこが優しい? 優しいはずがない。それに、優しさは弱さだ。弱さなんて不要だ。弱かったから失った。弱かったから奪われた。だから自分は強くなったのだ。
でも、それなのに、
「この世界に、今のあなたの強さは必要ないんです」
その強さは、この優しい世界では必要ないのだ。
「そんなの分かってるわよ……」
祐巳は俯いた。俯いて、泣き出してしまいそうになりながら言った。
「でも……どうすれば良いのか私には分からないのよ……」
それは、お姉さまを失った時以来、初めて他人に漏らした弱音だった。
いきなりこんな世界に飛ばされて。どんなに帰りたくても、帰る術の糸口さえ見付からなくて。由乃さんたち、よく知っていた人物が全く知らない人物として現れて。もし、このまま帰る事ができないのであれば、ここで生きていくしかなくて。
けれど、この世界では祐巳の持つ強さに意味はなく、持っている必要さえないのだ。
「もう泣いても良いんですよ」
俯いたままでいる祐巳に、目に見える距離だけではなく、目に見えない距離でも瞳子ちゃんが一歩近付いた。
「うるさい……だまれ……」
祐巳の声には力が入ってなかった。泣いても良いんだ、って思ってしまったから。
「辛かったんですね」
また一歩、瞳子ちゃんが近付いた。
でも、祐巳にはそれが酷く怖いものに感じられた。不安で押し潰されそうだった。
「おねがい……やめて……」
弱くなるから。
縋りたくなるから。
優しい言葉なんてかけないで。
「弱くなってもいいんですよ」
祐巳が顔を上げると、目の前に瞳子ちゃんの顔があった。
痛ましそうな顔ではなかった。悲しそうな顔でもなかった。辛い表情でも、苦しい表情でもなく。祐巳に同情しているとか、そんな表情でもなかった。ただ、優しい表情がそこにあった。
祐巳が寄りかかっても、何も言わずに支えてくれるだろう瞳子ちゃんがそこにいた。
「良い……の? 弱くなっても。また、何か奪われたりしない? 傷付けられたりしない?」
「この世界は優しいですから」
「でも……私が弱かったから、あんな事になったの。私のせいでお姉さまは死んだのよっ!」
祐巳が強ければ。皆に認めてもらっていれば。お姉さまは死ななかったはずだ。どれだけ後悔したか。どれだけ自分を責めたか。何度、お姉さまの後を追おうと思ったか。
「ここには、あなたを傷付けるものなんてありません。それでも誰かがあなたを傷付けようとするのなら、私が守ります。ええ、絶対に守ってみせますとも」
届いてはいけないのに。
「……私って格好悪いね」
何で瞳子ちゃんの言葉は届くのだろう? まるで、お姉さまと一緒にいるような安らぎまで感じる。
「そうですね。でも、良いんです。格好悪くても。泣いても良いんですよ。もう、弱くなっても良いんです」
妹(スール)って、いたとしたらこんな感じなのだろうか。
「私は泣かないよ。もし泣いたら、多分……その……凄いと思うし」
でも駄目だ。きっと自分では、寄りかかったら瞳子ちゃんまで傷付けてしまう。
「では、その時は私が頭でも撫でて差し上げます」
「絶対泣いてやるもんか」
「それは残念。祐巳さまの泣き顔を一度見てみたかったのですが」
「瞳子ちゃんって、意地悪な上に馬鹿だったのね」
意地悪そうに言う瞳子ちゃんに、立ち上がりながら祐巳はそう返した。
途端に真っ赤になって怒鳴り返してくる。
「意地悪な上に馬鹿!? わ、悪かったですね! あなたよりはマシです!」
「うん、そうだね。私って、本当に馬鹿だ。私……ね、あなたたちが羨ましかったんだ」
こんなにも優しい世界で、平和な日々を送っている人たちがどうしようもなく羨ましかった。
「祐巳さま……」
「でもね。私のいた世界も、元々はここと同じくらい優しい世界だったんだよ」
「ご自分の世界の事、好きだったんですね」
「うん」
大好きだった。皆、笑顔だった。祐巳も笑顔だった。平和な頃はまだ姉妹(スール)ではなかったけれど、お姉さまもきっと笑顔だったに違いない。
他愛もない事で怒ったり悲しんだり、喜んだり笑ったり。ちょっとした事件に心躍らせて。突然奪われる事になったけれど、それまでは幸せな日々を送っていた。ずっと続けば良いな、そう思うような幸せな日々を送っていた。それは本当にささやかで平凡な日常だったけれど、それだけで幸せだった。
本当に大好きだったんだ。あの世界が。自分の生まれた場所だもの。皆のいた場所だもの。
だからこそ守りたかった。あんな奴らに奪われたくなかった。
ああ、そうか。お姉さまを失った私が戦場に戻れた本当の理由は、あの世界が大好きだったからなんだ――。
不意に涙が零れそうになって、祐巳は戸惑った。
それは、お姉さまを失って以来初めての事だったから。
あの時にもう泣かないと決めてそれから本当に泣かなかったものだから、涙なんて失ったものだと思っていた。けれど、だからといってここで泣いたりはしない。誰かに見られるなんて恥ずかしい。しかも、ここにいるのは年下の瞳子ちゃんなのだ。
これ以上、瞳子ちゃんに情けない所を見せたくない。これ以上、弱さを見せるわけにはいかない。そう思って、涙を必死で堪えた。表情だってちゃんと作った。
それなのに、
「我慢なんてしなくても良いんですよ」
どうしてか瞳子ちゃんには分かってしまうらしい。
「私が何を我慢してるっていうのよ」
「意地っ張り」
「そう? そうかもね。……でも今は、少しだけ慰めてくれる?」
「え?」
瞳子ちゃんが、信じられない、というような顔をした。
まさか祐巳が、こんな事を言うとは思わなかったからだろう。実は祐巳自身も、まさか自分が他人に縋ろうとするなんて、と驚いていたくらいだ。
「少しだけで良いから……お願い」
縋るように言うと、瞳子ちゃんが無言で祐巳に近付いてきた。そのままそっと抱き締められる。
「な、何?」
目を白黒させている祐巳の背中に瞳子ちゃんが両手を回してきて、彼女は目を閉じた。そのまま祐巳に尋ねてくる。
「弱い所は見られたくないんですよね?」
「……うん」
もう充分に醜態を晒したような気もするのだけれど、一応頷いておく。
「好きなだけ慰めて差し上げます。でも終わったら、いつもの祐巳さまに戻ってくださいね」
「うん」
瞳子ちゃんの方が少し背が低いので、まるで祐巳の方が慰めているような格好なのだけれども仕方がない。そこは素直に諦めよう。
そういえばお姉さまにも悲しい時によくこうしてもらっていたな、と瞳子ちゃんの肩に顔を埋めながらまだ幸せだった頃を思い出す。
『祐巳には、いつでも笑っていて欲しいわね』
『あら、馬鹿にしているわけじゃないのよ。ただ――』
『あなたの笑顔が大好きなの』
とりあえず、しばらくの間このまま抱き締めてもらっておこう。
大好きだったお姉さまの優しい笑顔を思い出しながら、祐巳はそう思った。
「ごめんね。もう大丈夫。落ち着いたから」
あれから十分ほどして、何とか落ち着いた所で気が付けば痛みも治まっていた。どうやら瞳子ちゃんは、祐巳にとっての精神安定剤らしい。
「呆れました。意地っ張りにも程があります。泣いても良いって言ってるのに、何であんなに必死なって我慢するんですか」
「ホントに意地悪いね」
思わず苦笑いを浮かべる。
「瞳子ちゃんが妹(スール)だったら、いつも慰めてもらえたりする?」
「そんな情けないお姉さま(スール)なんていりません」
「それは残念。でもやっぱり、妹(スール)にする事はできないよ。祥子さまに悪いもの」
祐巳がそう言うと、むっと睨みながら言ってくる。
「この意地っ張り」
「うん、瞳子ちゃんとよく似てるよね」
「私は意地っ張りなどではありません」
「そう?」
「そうです!」
いや、十分意地っ張りだと思うよ? と思いながら、落ちていた瞳子ちゃんのリボンを拾う。話の途中で祐巳が切り裂いてしまったリボンだ。
それは、綺麗に切り裂かれていた。その切り口を見つめながら瞳子ちゃんに提案してみる。
「私が今付けているやつと交換」「私の一番のお気に入りだったリボンです」「なんてできないよね。あは、あははは……」
乾いた笑いが非常に悲しい。それはともかく、どうしよう? と困り果てた顔で瞳子ちゃんを見ていると、澄まし顔で言ってきた。
「せめてフリだけでも、マリア様にお祈りをする事。それで許して差し上げます」
まさかそうくるとは思わなかったので、思わず苦笑いをしてしまう。今日一日でいったい何度苦笑いしただろうか。このまま苦笑いが顔に張り付いてしまいそうだ。
「分かったよ」
「約束ですよ? どんな理由があるにせよ、この学園でお祈りをしないなんて誰かに見付かったら本当にまずいんですからね」
「分かったってば」
あんたは私の保護者か? 確か妹(プティ・スール)になりたいんだったよね? お姉さま(グラン・スール)じゃないよね? と思いながらまるで姉(グラン・スール)のような瞳子ちゃんに返事を返す。
あ、そうだ。保護者といえば。
「そういえば、祥子さまの事はどうするつもりなの?」
「断ります」
「私の妹(スール)にはなれないのに?」
「心配しなくても必ずなってみせます」
間髪入れず返ってきた言葉に、どう返せば良いのか分からなくて大きく溜息を吐く。
あなたは本当に強いわね、なんて思っていると瞳子ちゃんが躊躇いがちに話しかけてきた。
「あの……祐巳さまには痛みがある。そうですよね?」
確認のためだろうか。もう分かっているくせに変な質問ね、と思いながら答える。
「うん、あるみたい。自分でもよく分からなかったけど……凄いね、よく見抜いたね」
祐巳の返答に、なぜか瞳子ちゃんが悲しげな表情になったけれど、それはすぐに呆れ顔へと変わってしまう。
「私が自分で見抜いたなんて言ってませんよ。志摩子さまに聞いただけかもしれないのに、なぜ私が自分で見抜いたなんて思ったんです? 自意識過剰なんじゃないですか」
「何だ、私の勘違いってわけか。それは悪かったわね」
本当は凄く悔しい。でも、それを素直に表情に出してしまうのはもっと悔しい。だから表情には出さないようにしたつもりだったのだけれど、そんな祐巳をじっと見ていた瞳子ちゃんが嬉しそうに笑った。
「私の事、気にはなっているようですね」
「あ……」
瞳子ちゃんの表情と言葉で、祐巳は自分が引っかけられた事に気付いた。更に悔しい。おまけに、それが表情に出ていたらしくて悔しさが倍増だ。
「今はそれだけで充分です」
クスクスと笑いながら、「それと」と瞳子ちゃんが続けた。
「志摩子さまに聞いたからではなく、ちゃんと私が気付きましたよ。あなたの妹(プティ・スール)になりたいって言い出したのは私なんですから、それくらい気付いて当然です」
「そ、そう」
それを聞いて、祐巳は思わずニヤケそうになった。
緩む頬を何とか誤魔化そうと辺りをキョロキョロと見回してある事に気付き、「ああ――――っ!」と大声を上げてしまう。そんな祐巳の声に驚いたらしい瞳子ちゃんの肩が跳ね上がったのが見えたが、それどころではない。
「どっ、どうしました?」
「お昼、食べてない……」
机の上に置きっぱなしのパンとジュースの入った袋を指差して途方に暮れる。
腕時計を見ると、授業開始まであと十分。今から食べる余裕なんてないし、それどころかこれから急いで教室に戻らなければならない。瞳子ちゃんもお昼は摂ってないらしく、どうやら次の授業はお互いにお昼抜きで過ごさなければならないようだ。
「瞳子ちゃんにあんな所で会ったせいだ」
「祐巳さまが私を拒絶したせいです」
「……酷く苛められちゃったし」
「……酷い言葉を浴びせられましたけれど?」
「このっ――!」
「このっ――!」
と、口ゲンカになりかけた所で予鈴のチャイムが鳴った。
「ああー、私のお昼ご飯……」
がっくりと肩を落としていると、「祐巳さま、早く!」と瞳子ちゃんが手を差し伸べてくる。
その手に自分の手を伸ばしかけて、けれど祐巳は止めてしまった。
触れても良いのだろうか? 握っても良いのだろうか? また酷く傷付けてしまうかもしれない、と躊躇っていると瞳子ちゃんが言った。
「私は少し傷付いたくらいでどうにかなったりはしません」
「……うん」
瞳子ちゃんの手を握ると、ぎゅっと強く握り締められた。お返しとばかりに、祐巳もぎゅっと握り返す。
手を繋いだまま、二人で駆け出す。かなりまずい時間だ。急がないと遅刻になってしまう。
館を出た所で、足を止めないまま瞳子ちゃんが言った。
「……私のお姉さま(スール)になっていただけませんか?」
「絶対ヤだ」
それだけは譲れない。
「あなたという方は、本当にもうっ!」
そう言いながらも瞳子ちゃんは笑っていた。祐巳も負けじと笑い返す。
ちゃんと笑えているのか自信はなかったのだけれど、瞳子ちゃんがこちらを見て微笑んだのを見て、きっと自分は上手く笑えていたのだろう、と安心した。
照れからだろうか。それともただ単に、走る速度を上げるためだろうか。瞳子ちゃんが祐巳から視線を外して顔を前に向けた。
だから、瞳子ちゃんは気付かなかった。今の祐巳の様子に気付かなかった。祐巳の浮かべている表情が変わっている事に、彼女は全く気が付かなかった。
「ごめんね……」
瞳子ちゃんの背中に向かって、祐巳は小さく呟いた。
前略、まつのめです。ARIAにハマりました。
が、この分野ではすでに先駆者がいらっしゃいますので、その外伝的なパラレル世界を書くことにしましたごめんなさい。
設定をお借りしていますので、先駆者であるクゥ〜さまの以下の作品を未読の方は是非読まれてみてください。
【No:1328】 【No:1342】 【No:1346】 【No:1373】 【No:1424】 【No:1473】 【No:1670】
(ご注意:↓これは天野こずえ著『ARIA』『AQUA』とのクロスです)
≪前振り≫
「「はぁ……」」
思わずため息がダブった。
「……由乃さま。部活は良いのですか?」
「それどころじゃないわ」
「そうですよね……」
二条乃梨子は、同じ学園の先輩であり、薔薇様のつぼみ仲間である由乃さまと一緒に銀杏並木を歩いていた。
空気は穏やかで、コバルト色の空を背景に銀杏の木々が緑を湛えている。
空には刷毛で掃いたような雲が幾筋も広がっていた。
今は放課後。二人は帰宅の途についたところである。
なんでこの組み合わせなのかというと、今日は祥子さまと令さまが放課後何処かへ行くそうで、薔薇の館に来ないって話だった。それプラス、志摩子さんもお家の用事で早く帰るとの事。
あの事件以来、令さまは、沈みがちな祥子さまを何かと気にかけているようだった。
乃梨子は、それでは仕事にならないから自分も簡単に掃除だけして帰ろうと思って薔薇の館へ行ったところで、令さまに置いていかれて膨れている由乃さまに捕まってしまったのだ。「付き合いなさいよ」だそうだ。
思えばこれが、大きな運命の分かれ道だった。
≪キャー≫
「由乃さま?」
マリア様のお庭で並んで手を合わせた直後、隣に居た筈の由乃さまが見えなくなっていた。
「なにやってるのよ。こっちよ」
振り返ると、由乃さまは校門ではなく講堂の方に向かっていた。
「またあそこに行くんですか?」
「だって、あそこしか手がかりが無いじゃない」
“あそこ”とは講堂の裏。
そう、あの季節外れに咲いた桜の木の場所、それ以外、校内には何一つ手がかりは無かった。
でも何回訪れても、祐巳さまの鞄はもう回収済みで、散ってしまった花びら以外のものは(それでもこの季節に桜の花びらは異常ではあるけれど)そこには無かった。
いや、無い筈だった。
乃梨子は由乃さまを追って講堂の角から裏に出たが、
「痛っ!」
そのとたんに由乃さまの後ろ頭に鼻をぶつけてしまった。
「――どうしたんですか?」
乃梨子は鼻をさすりながら抗議がちに声を上げたが、どうしたことか、由乃さまから返事は返ってこなかった。
乃梨子は由乃さまの横に回りながらその表情を見た。
由乃さまは目を見開いて口は半分開いたまま。ちょうどこういう擬音が良く当てはまる表情をしていた。
“ぽかーん”
その見開かれた視線を乃梨子は追った。
講堂の裏手に、一本だけ、銀杏の木に混じって生えている桜の木、この季節なのに葉が一枚も無い桜の木の幹のところに寄り添うように“それ”は居た。
柔らかそうな毛で覆われた三角の耳、くりっとしてて、てかてかと輝く大きな目玉。ピンと張った長い髭が左右に数本づつ。
見ようによっては笑っているよう見える愛くるしい口元。そして、毛で覆われたグローブのような手。茶色と黒の毛並み。
それは、どう見ても直立したトラ猫だった。
乃梨子は“それ”を認識した瞬間声を上げた。
「きゃー!!」
「きっ……」
それにつられて由乃も、硬直が解け、声を上げた。
「き、き、キャー!!」
悲鳴を聞いて、その猫は耳をぴくんと動かし、木の幹から手(前足)を離して四つん這いになり、のそっ、と乃梨子達の方へ歩いてきた。
「きゃー! きゃー!」
「キャー! キャー!」
二人してしがみ付きあってキャーキャー言っているうちに、“猫”は二人の目前まで迫り、また後ろ足だけで立って、“乃梨子の視界を覆った”。
「きゃ……?」
“猫”はポン、と“二人の頭に前足を乗せた”。
「きゅぅっ」
それきり、乃梨子の意識は途絶えた。
≪はじまり≫
穏やかな風が、火照った顔に心地よい。
薄く目を開けてまず見えたのは青い空。
刷毛で伸ばしたような雲が一筋流れていた。
「……なんか、いい天気」
なんだか、さっきまで暖かいものに包まれていたような感覚が残っていた。
包まれていると、とても安心できるような何かに。
でも今は包まれている感じではなく、暖かい感触は身体の前面左よりにあるだけだった。
まどろみながら、乃梨子はその何かを求めるように、暖かい感触を抱き寄せた。
「んっ……」
息を漏らすような声が耳のすぐそばから聞こえた。
(なんだろう。なんか懐かしい感じ……)
幼い頃、母の真似をして妹を抱きしめて一緒に昼寝をしたことがあった。
妹はそれが気に入ったらしく、二人で留守番の時などは良くせがまれたものだ。
頭を撫でる時の髪の感触や、肩に近い背中を抱いた時の父や母よりずっと小さい肩甲骨の感触を思い出した。
それはほんの幼いころの記憶。妹という存在が一個の自我をもった存在であり、生意気だったり、憎らしく思ったりとか、そんなことに気がつく以前の出来事だ――。
しばらくそんな感触を楽しんでいるうちに、“妹”が身じろぎをするのを感じた。
(あ、起きたかな?)
乃梨子はもう少しこうしていたくて頭を撫でるのを止めなかった。
「……りこ……」
「んっ」
「乃梨子……ん」
「まだ、寝てていいわよ……お姉ちゃんまだ眠い」
そう言ってぎゅっと背中を抱く手に力を入れた。
その直後、腕の中で“妹”が暴れた。
「だれが、お姉ちゃんか!」
「……え?」
乃梨子は目を開けて腕の中の“妹”を見た。
「いい加減、起きなさいよ!」
「由乃……さま?」
乃梨子が抱きしめていたのは少し顔を赤くした由乃さまだった。
「まったく、何寝ぼけてるんだか」
「すみません……」
「っていうか、ここ何処?」
先に身体を起こした由乃さまは不思議そうに辺りを見回した。
「えっと、講堂の裏、……ではありませんね」
上に桜の木の枝が見えたけど、起き上がってみたら回りの景色が全然違っていた。
なだらかな起伏のある緑に覆われた丘。
丘の向こうに色濃い緑の木々が見えていた。
「うわっ」
由乃さまは後ろを振り返ってそんな声をあげた。
「なんですか? あっ!」
一瞬、細長い小屋のように見えたそれは、桜の木の寄り添うように置かれた古い列車の車両だった。
桜の木に茂る緑の葉が、古ぼけた車両の壁にまだら模様の影を落としていた。
「えーと……」
「……」
唖然と二人でその古い車両を眺めていた。
穏やかな風に草原の草がさやさやと音を立てる。
時折、ひゅんと風を切る音が聞こえるのは視界の外れに見える切れ切れになった電線であろう。
静かだった。
「あっ!」
突然、由乃さまが声を上げた。
「な、なんですか?」
「キャーは?」
「はい?」
「だから、“キャー”。さっきの大きな猫よ」
「あっ!」
唐突に思い出した。
講堂の裏の桜の木のところに立っていた巨大な影。
それは“人の背丈ほどもある直立した巨大猫”だったのだ。
『大きい』といってもトラやライオンのような猫科の肉食獣のようではなく、小さな猫のプロポーションをそのまま巨大化したような感じだ。だから、間近で見た、その顔の大きさといったら、もう「キャー」と思わず悲鳴をあげずには居られない程だった。
「なんか、会う人毎に“キャー!”って声をあげられるから名前は“キャー”なんですって」
「は?」
なにやら、由乃さまはあの不可思議生物にいつのまにか名前を付けている。いや話からするとあの生き物と話をしたのか?
「そうだわ、きっとあいつが私達をここに連れてきたんだわ」
妙に確信を持って話すので乃梨子は聞いてみた。
「というか、ここは何処なんです?」
由乃さまは妙に偉そうにキッパリ答えた。
「私が知るわけ無いじゃない」
「その“キャー”さんに聞いたんじゃないんですか?」
「聞いてないわよ。夢の中で名前教えてもらっただけだし」
夢かよ。
思わず突っ込んでしまったが、だとするとここは結局何処なんだ。
「ま、座って論議してても始まらないわ」
由乃さまはそう言って立ち上がった。
お下げにしている長い三つ編みがふわりと揺れた。
「それもそうですね」
乃梨子もそれに従って腰を上げた。
「それにしても」
「ええ」
何処までも続くかのような緑の丘。
遠くには針葉樹の森。
鮮やかな青い空。
流れる雲に明るい陽射し。
穏やかな風が髪を撫でる。
「気持ち良い場所ね」
「そうですね」
≪線路沿いに海岸線へ≫
「これを辿っていけば何かあるんじゃない?」
「……何かはあるでしょうけど」
乃梨子たちが寝ていたのと反対側、古ぼけた車両の下から、丘の向うへと錆びた線路が走っていた。
枕木は草に埋もれ、線路は酷く風化して、もう何年も何十年も使われていないようだった。
「なによ? 不満なの?」
「いいえ、最近人の手が入った形跡も無いような廃駅しか見つからないような気がしますから」
「そんなの行って見なきゃ判らないでしょ?」
「まあ、そうですね」
確かに、ここまで自然ばかりで何も無い所では、それ以外選択肢が無かった。
「じゃあ、しゅっぱーつ!!」
「元気ですね」
「いちいち突っかからないの」
突然、こんなところに放り出されたのに、妙に落ち着いて、むしろ状況を楽しんでいるのには訳があった。
互いに口には出していないが、二人にはある予感があったからだ。
しかし――。
線路沿いに所々可愛らしい黄色い花が群生していて砂色の地面と緑の草が続く道にアクセントを添えていた。
「なんかいい感じじゃない?」
「まあ、天気も良いし、これでお弁当を持っていたらピクニックですね」
「そう! それよ!」
「……そうですよね」
そう、それは二人の死活問題だった。
「……」
「……」
しばし無言になり、地面を踏む足取りが心持ち速くなる。
「あの」
「言わないで」
「でも」
「考えないようにしてるんだから」
「現実逃避しても」
「何とかなるわよ」
「野草でも食べますか?」
「生で?」
「ここがゆ「判ってるわよ!」
乃梨子の言葉を遮って由乃さまは声を荒げた。
二人は立ち止まっていた。
「ここが祐巳さんが来た世界とは限らないって言いたいんでしょ?」
「ええ。祐巳さまはあの時、誰かと一緒にいました。でもここには人っ子一人居ないし」
「判らないわ。まだ」
「そうですね。結論を出すには早いですよね」
不安と期待のせめぎ合い。
それは由乃さまも同じのようだった。
それから延々と、広い草原を走る線路を歩き、また森林を分けて走る線路を歩きつづけた。
最初に線路の二股にぶつかった時、こんな会話があった。
「これ、どっちに行ったら良いと思う?」
二股は行き先が分かれているのではなく、向うから見て二股で、乃梨子たちはその一方から出てきた格好だった。
「道なりがいいと思います」
「どうして?」
「んーと、なんとなく、ですけど」
「なんとなくなんて、乃梨子ちゃんらしくないわね」
「そうでしょうか?」
「うん、乃梨子ちゃんって、なんかいつも冷静で論理的ってイメージがあるから」
「見た目はそうかもしれませんね。でもあんまり論理的でも冷静でもないんですよ」
そういう傾向があったことは認めるが、むしろ、乃梨子は周りがそう見るからそのように演技してきたといえないこともない。
「知ってるわ。乃梨子ちゃんって実は結構熱血なのよね」
「そうですか?」
「負けず嫌いだし」
「まあ、負けず嫌いなのは認めますが、よく見てますね」
別に隠すことでは無い。熱血かどうかはともかく、そう言う風に自分をちゃんと見てくれる由乃さまには好感を感じた。
「見てるわよ。だって、一緒にやってる“仲間”だし」
「そうですね“仲間”ですもんね」
“仲間”と言う言葉が乃梨子に耳に心地よく響いた。
このあとも何回か二股の合流点に出たが、その度に道なりに進んだ。
そして、ついに、本当に行き先が二つに分かれているところに出た。
が、それは少し先で合流して元に戻っていて、その片方に最初、乃梨子が予言した通り、廃駅があった。
その廃駅は背の高い針葉樹の森の中にひっそりと佇んでいた。
「なんか、屋根もないのね」
列車のホームのなれの果てに並んで腰掛けて、足をぷらぷらさせながら、二人で休んだ。
「まあ、相当に古そうですから」
時々森を抜けて吹いてくる風が土の匂いとむせぶような濃厚な木々の匂いを運んでくる。
「でさ、駅があるって事はこの周辺に何かあるってことよね?」
「ええ、それが見つけて有意義なものかは判りませんが」
乃梨子が何気なくそう言うと、由乃さまがじろっと乃梨子を睨んで言った。
「乃梨子ちゃん」
「なんですか?」
「そういう現実的な突っ込み禁止!」
「まあ、いいですけど……」
少し休んだ後、由乃さまの提案で駅周辺の散策をする事になった。
駅の周りの森は森といっても十分に木々の間隔があり、歩きにくいということは無かった。
森に入ると湿った土の匂いと木々の香りがより一層強まった。
それと同時にそれらの匂いに、覚えのある別な匂いが僅かに混じっているのを感じた。
木漏れ日が差し込む薄暗い森の中を歩きながら由乃さまは言った。
「あのさ、お腹すかない?」
「由乃さま。今まで意図的に避けていたその話題をあっさり口にしてしまいましたね?」
「だって空いたものは仕方が無いじゃない」
「人間一日くらいなら何も食べなくたって死にはしませんよ」
「でも乃梨子ちゃんもお腹すいてるでしょ?」
「あーもう、思い出しちゃったじゃないですか! せっかく我慢できていたのに」
「ふふふ、一人だけ楽な思いはさせないわよ?」
そう。たしかここに来る前は放課後だった。
でもこっちに来てからもう何時間経ったであろうか、日がようやく傾いてきたところを見ると、時間的にたいぶ巻き戻っているような感じだった。つまり、もう十分お腹がすく程時間が経過しているのだ。
「はぁ、由乃さまは……、あれ?」
乃梨子は、立ち並ぶ木の幹の向うに明るく開けた空間が見えていることに気付いた。
「なんかあるかしら?」
「というかこの匂いと音は……」
木の根に足をとられながらも小走りに前に進んだ。
薄暗い森に慣れた目に眩しい風景が飛び込んできた。
森を抜けるとそこは――。
青い空。
霞む水平線。
波立つ水面は穏やかに。
そこには視界いっぱいに海が広がっていた。
≪海、そして街へ≫
「海だ――」
「うみ――」
雄大な海を見ると叫びたくなるのは何故だろうか?
二人で力なく、でも気もちだけは思い切り、叫んだあと、その場で互いに支えあうようにしてへたり込んだ。
そこは砂浜ではなく、ちょっと切り立って1メートル程の低い崖のようになっていた。
「魚、いるかな?」
「いるでしょうね」
互いの背中にもたれかかって足を投げ出して、二人で地べたに座りこんで話した。
「美味しい?」
「さあ?」
「乃梨子ちゃん、獲って来て」
「無理です。釣り竿も船もありませんよ」
「手づかみ」
「熊じゃないです」
「はぁ〜〜」
「ため息は幸せが逃げますよ?」
「そんなもの、とっくにどっかに飛んでっちゃったわよ〜」
「……そうですねぇ」
乃梨子は背中をずらして寝そべった。
その上に由乃さんが寝そべってきた。
「あー、疲れたわぁ……」
「私を枕にしないで下さい」
「良いじゃない。乃梨子ちゃんのお腹柔らかい」
「はぁ……」
苦しいわけじゃないので、抵抗する気も湧かずそのままにしておいた。
ウミネコだろうか? 遠くから鳥の鳴く声が小さく聞こえる。
それから、穏やかな潮騒の音。
それから、森の木々の間を風がぬけて葉が擦れる音。
乃梨子は半分葉っぱの緑が覆った青空を眺めながら、制服のポケットに手を入れた。
それは殆ど無意識だったのだけど、その手に触れたものを握って取り出し、目の前に掲げた。
その瞬間、由乃さまの手がそれを奪った。
「あっ!」
と思って身体を半分起こしたらもう由乃さまはその包みを開いて中身の口に放り込んだ後だった。
「……素早いですね」
由乃さまは「ふふん」といった満悦な表情をしていた。
「これ、のど飴?」
「ええ、でもこれで最後ですよ」
そう言いながら、乃梨子はまたポケットに手を突っ込んで最後の一個ののど飴を出した。
今度は盗られないように注意をしつつ、封を破って中身を口に入れた。
レモンの風味が口いっぱいに広がった。
「由乃さま」
乃梨子が身体を起こしたので由乃さまは頭をずらして今は膝枕になっていた。
「んー?」
「あれ、何でしょう?」
糖分を補給して落ち着いたところで、乃梨子は水平線の上になにか奇妙な形をした物体が浮かんでいるのを発見した。
方向的には海に向かって左。今いるところから地つづきなのか判らないが手前の森の陰から、ちょっと離れてせり出して見えている陸の端っこの方に“それ”はあった。
「浮いてるわね」
「うん、浮いてる。しかも凄く人工物っぽい」
それは飛行物体というより、まるで“岩”のようにその場所から動かずに浮いていた。
「あっ! 見て!」
「ほんとだ! なんか動いてる!」
その浮いている物体の近くを飛んでいる物体があった。
こちらは浮遊物より大分小さく見えたが、それは確かに空を移動していた。
「……」
「……」
乃梨子は思わず由乃さまと向き合った。
ごくっ、と由乃さまが唾を飲み込む音が聞こえた。
「たぶん、飛行機かなんか」
「……人が居るよね」
どうやら、由乃さまは舐めている途中の飴を飲んでしまったみたいだけど、そんなこと気にしている場合じゃなかった。
勢い立ち上がってその浮遊物体の方を眺めた。
動いている飛行物体の方は、一つではなく、いくつも行き来しているのが見えた。
「あそこに行くのよ!」
「はい!」
希望が見えれば元気百倍、プリーツが乱れるのも何のその。
森と海に挟まれた狭い海岸線を乃梨子は由乃さまと一緒に走った。
が、早速進めなくなって愕然とした。
森の向こうに出てみれば、そこは砂浜。
「海の向こうじゃない」
「はあ、世の中、そう上手く行かないように出来ているんですね……」
前方に遮るものがある為か打ち寄せる波は非常に穏やかで、水も透き通り砂浜はとても奇麗だった。
でも浮遊物体の方にあった陸とは完全に海で隔てられていて、こっちとは地続きになっていなかった。
「船でもあれば……」
由乃さまは呟いた。
「……」
乃梨子は砂浜の後方、森と浜の境界の方を向いていた。
そこに気になるものがあったのだ。
灰色で、細長い物体。
というかあれはグレーのシートに覆われた何か。
「由乃さま、あれ」
こちらを向いたのを見てから、乃梨子は指さした。
「あ!」
雨ざらしになっていたせいか、皺になった部分を残して白っぽく変色したシート。
それに覆われていたのは、奇妙な形をした小船だった。
流線型をした形状は確かに船だったが、前後が対称などっちが前だか判らない形をしていて両方の先端が垂直に伸びて飾りのようになっている。一方にロープが結んであるので陸に係留する時に使うのであろう。
そして乃梨子の身長より長いオールが一本。
「この船、何処かで見たことがあるわ……」
由乃さまはこの小船を見ながら腕を組んで考え込んだ。
「え? 何処かって、何処ですか?」
「うん、なんか最近、それもリリアンじゃなくて、……そう、日本じゃないわ」
「ええ!?」
「イタリアよ、修学旅行の時」
「ああ」
そういわれてみれば、乃梨子も写真で見たことがあった。
「ゴンドラよ!」
「ヴェネツィアですね?」
「そうそれよ!」
引っ掛かりが取れた喜びに、大いに盛り上がる二人。
何でそんなものがここにあるか、なんてどうでも良かった。
こんな事で手を取り合って喜ぶのはどうかしていると心の何処かで思っているのだけど、もう、なんか切羽詰った状況で既にノリがおかしくなっていたのだ。
早速、二人でそのゴンドラを押して海に浮べてみた。
船体は良好、水漏れなし。
「行けるわね」
「ばっちし」
でも、船が浮かんだからってもう万事解決かというとそうでもなかった。
「……進みませんね」
「なんか疲れるわ」
一応、砂浜から離れて対岸に向かって漕ぎ出したものの、思うようにゴンドラが進まないのだ。
乃梨子は言った。
「漕ぎ方間違ってませんか?」
「そうかしら?」
ゴンドラは両側に“屋根”というか蓋がついていて、真中の四角く空いたスペースに人が乗れるようになっていたが、由乃さまはその人が乗れるスペースに立ってオールを持って漕いでいたのだ。
「立って漕いでたのは覚えているんだけど……」
「その上に立つんじゃないですか?」
そう言って乃梨子は船の一方の端を指差した。
「……危なくない?」
確かに足場は悪そうだ。
「でも、ほら……」
船の先端に近い一方のサイドにオールを引っ掛けるのによさそうな部品が取り付けられていた。
「じゃあさ、乃梨子ちゃん漕いでみて」
「……やってみます」
最初有無を言わせずオールを取った由乃さまだが、上手くいかないからって押し付けるように「漕げ」と言い放つ由乃さまは何気に横暴だけど、乃梨子は別に逆らわなかった。
いや、これは“言い出しっぺは最初に行動すべし”、なんて信条があるわけでもなく、ただ自分でも漕いでみたかっただけだ。
乃梨子は“蓋”のところに立って、とりあえずオールの先を水中に沈め、ボートを漕ぐ要領で後ろ向きにぐっと引いた。
乃梨子の引く力に呼応してゴンドラが加速し、水上を走った。
「おお!」
由乃さまが感嘆の声を上げる。
そのまま、リズム良くオールを上げて戻し、沈めて引く、を繰り返した。
ゴンドラは軌跡を残して軽快に水上を進んで行った。
「上手いじゃない」
「まあ、ボートなら漕いだことあるし」
「どこで?」
「千葉の地元の公園」
「ふうん」
とりあえず、進めることは出来たが、一本のオールで船を操るのは意外と難しく、前に進むだけなら何とかなるのだけど方向を変えるのが難儀だった。
「あー、もっと左! 陸から遠ざかってるわ」
「う、うん」
結局、進んでは向きを直し、進んでは向きを直し、みたいに進めていくしかなかった。
ゴンドラを漕ぐのは、なかなかの重労働であった。
しかも、何時間も草原や森の中を歩いた後、ちょっと休憩して今度は延々と船を漕ぎつづけているのだ。
「乃梨子ちゃんもうすこし。確実に近づいてるよ」
由乃さまは励ますように声をかけてくれる。
「代わろうか」とも言ってくれたが断った。まだ大丈夫だし、なにより乃梨子が漕ぐ方が効率が良かったから。
乃梨子は疲れを癒すよりも、早くどこかに辿り着きたかった。
方向を直す為に振り返るたびに、あの浮遊物体に段々と近づいているのが判った。
近づくにつれ、浮遊物体から地上に向かって何本も線が繋がっているのが見えてきた。
浮遊物体は良く見ると上方に木が生えていたり家らしきものが見えたりして、近づくにつれて不思議さが増していた。
また、飛行物体も沢山見えるようになってきた。
優雅に空を移動するそれは見たことに無い形をしていて、どういう原理で飛んでいるのか判らないが、それらは明らかに人工物だった。その質感は見た感じジェット旅客機のような金属っぽい感じだった。
オールが波を掻き分ける音とゴンドラが波を切る音が絶え間なく聞こえる。
はぁ、はぁ、と自分の呼吸音がやけに耳につく。
じっとりと汗もかいて、腕だけでなく全身に疲労を感じていた。
太陽は何時しか傾き、オレンジ色に染まりかけている。
「乃梨子ちゃん! 街っ! 街よ!」
由乃さまが興奮したように叫んだ。
「えー、街?」
オールを漕ぐ手を休めて、乃梨子は振り返った。
そこには、水面に生えるように立ち並ぶ沢山の建物があった。
「水に、浮かんでるみたい……」
日の入り前の西日に照らされるその街。
それは、マリンブルーとスカイブルーに挟まれて、まるで宝物のように輝いていた。
色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
【No:1893】→【No:1895】→【No:1897】→【No:1907】→【No:1908】→【No:1911】→【No:これ】→【No:1921】→【No:1926】→【No:1933】→【No:1941】→【No:1943】→【No:1945】
チャイムが鳴って、誰もが待ち侘びていた放課後になった。祐巳としても相変わらず授業内容には付いていけてないし、さっさと家に帰りたいので随分と待ち侘びていたのだ。
最近気付いたのだが、自分ってば何気に孤独を愛しちゃっているのではないのだろうか。いや、でも一人は寂しいよね、とどうでもいいような事を考えながら鞄に荷物を詰め込む。
よし、帰宅準備完了、と祐巳が椅子を立ち上がると同時に、由乃さんが近寄ってきて話しかけてくる。
「祐巳さん、もう帰るの?」
「うん。部活に入ってるわけじゃないし、由乃さんみたいに山百合会の仕事があるわけでもないからね」
言ってから気が付いたのだけれど、由乃さんって両方やってる人だった。少しだけ尊敬してあげる。
「じゃあ、今から暇だったりする?」
「まあ、暇と言えば暇だけど。何かあるの?」
あんまり変な事には関わりたくない。というか、さっきから嫌な予感をヒシヒシと感じている。
「今から薔薇の館まで来ない?」
「行きたくない」
「そっ、即答っ!?」
由乃さんがわざとらしく大袈裟によろめきながら驚いた。
「でも、来てもらうわよ。色々と聞きたい事があるから」
「だろうね」
主に瞳子ちゃんとの事だろうけれど。
「勿論、祥子さまもいらっしゃるんだよね?」
「……やっぱり、バレてる?」
恐る恐る、といった感じで由乃さんが尋ねてくる。
「お昼休みに薔薇の館を空けてた事なら、当然バレてる。っていうか、まさかバレてないとでも思っていたの?」
「ううん。祐巳さんって妙に勘が鋭いから、瞳子ちゃんが『館へ行く』なんて言ったらそれで分かるだろうな、とは思ってた」
「その前の由乃さんの態度から、怪しいって思っていたんだけどね」
あの時のどもり具合は素晴らしかった。ウケ狙いかと思うぐらいに面白かった。
「祐巳さんに嘘を吐くんだ、って罪悪感があったのよ。もっと上手く嘘を吐くはずだったんだけど、上手くいかないものね。でも嘘を吐いていた事は事実だから、それは謝る。ごめんなさい」
ぺこり、と頭を下げる由乃さん。
「良いよ、謝らなくて」
瞳子ちゃんと仲直りできたのだから、そういう点ではむしろ感謝しているくらいだ。でも次に嘘吐いたら、針千本飲ますよりも凄い目に合わせてやろうと思っていたりする。だから、気を付けてね。
「ほら、館に行くんでしょ」
「え? 来てくれるの?」
「強引にでも連れて行くつもりだったくせに」
じとー、っと睨みながらの祐巳の言葉に、「あはは、はは」と由乃さんが乾いた笑いを零した。
薔薇の館までの道中、挨拶してくる下級生たちに挨拶を返す由乃さんの姿をぼーっと眺めながら、結構人気あるんだなぁ、と微妙に感心した。そういえば、向こうでも結構人気があった気がする。猫耳族と言えばレアな上に絶滅危惧種だったし、猫耳がもの凄く可愛かったし。
思い出しついでに自分の事も思い出してみた。
向こうの世界での自分には、まともには誰も近寄ってこなかった気がする。というか、来なかった。いつも人を傷付けていたわけではないんだけどなー、と思ったのだけれども、そういうイメージが強かっただろうし、普段から人は他人を見ているものなのだろう。まあ、それは祐巳の自業自得なのだから仕方がない。全く気にしていないので、別にどうだって良いのだけれど。
薔薇の館に着くと一階の扉を開き、中に入って左側にある階段を上る。そのまま昼休みに瞳子ちゃんと一緒に通ったルートを辿り、ノックをしてから会議室へと入る。考えてみると、館とか言う割には使う部屋はここだけだ。一応、一階に物置になっている部屋があるのだけれど、特に用もないのであんまり入った事はない。
とりあえず、そんなどうでもいいような事は置いておいて。会議室の中に入ると、折角のノックも無駄だったようで祐巳たちの他にはまだ誰も来てなかった。
「荷物は、そこの机の所にでも置いておいて。それから、お茶を淹れるけど何か欲しいものある?」
「玄米茶か鳩麦茶」
「そんなもの、ここに置いているわけないでしょ」
「冗談だって。普通の紅茶で良いよ」
「祐巳さんって冗談が多いわよね」
……由乃さんにまで言われた。今度から意識して気を付けよう、と心に決めながら机の横に鞄を置く。
祐巳が鞄を置いたと同時に、ひとりでに部屋の扉が開いた――わけではなく、扉を開けて部屋に入ってきたのは、そうと知らなければ美少年に間違えてしまいそうな美人さん。
甘いマスクにベリーショートにカットされたヘアがとっても似合っている。あちらの世界の彼女と同じく、何という王子様っぷりだろう。なんて考えていた祐巳だったが、先に挨拶だけはしておこう、と思ってぺこりとお辞儀。それからご挨拶。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう。もう来てたんだ?」
少し驚いた顔をして挨拶を返してきたのは、由乃さんのお姉さま(グラン・スール)であり黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)でもある支倉令さまだ。
「令ちゃんっ!」
由乃さんが睨むように令さまを見る。というか睨んでる。
「どうしたの、由乃?」
「どうしたの、じゃなーい! ノックぐらいしてよ! 祐巳さんがびっくりしてるじゃない! あ、ごめんね祐巳さん。これが黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)で、私のお姉さま(グラン・スール)の令ちゃん」
「これ……」
これ呼ばわりがショックだったらしく、よろめく令さま。あちらの世界と同じ力関係なんだ、と祐巳が違う意味で驚いていると、再び部屋の扉が開いた。
「ごきげんよう。令さま、由乃さん……祐巳さん」
「ごきげんよう」
入ってきたのは、ふわふわ巻き毛の西洋人形とおかっぱ黒髪の日本人形という不思議な組み合わせの二人。志摩子さんと乃梨子ちゃんだ。
志摩子さんは気まずそうに、乃梨子ちゃんは普通に挨拶してきた。
「ごきげんよう、乃梨子ちゃん。それと志摩子さん」
乃梨子ちゃんには普通に挨拶を返して、志摩子さんには冷たい眼差しを返すと共に尋ねてみた。
「昼休みのあれは、志摩子さんが考えたの?」
瞳子ちゃんの待ち伏せや、薔薇の館が空いてたりした事だ。
尋ねられた志摩子さんは、恐る恐るといった様子で頷いた。
「ええ……」
「やっぱりね。ま、余計なお世話だったけど、お礼は言っておく。ありがとう」
祐巳がそう言うと、あからさまにほっとした様子の志摩子さん。余程、祐巳が苦手なのだろう。志摩子さんとは色々とあったからこの反応も仕方がないとは思うのだけれど、いい加減慣れて欲しい。
「ところで、これから何かあるんですか?」
ここにいるメンバーの中で一番年上の令さまに尋ねてみる。実質、この中でのリーダーは令さまだろう。由乃さんには、とことん弱いみたいだけれど。
「一度あなたとお話がしてみたかったのよ。福沢祐巳さん」
「祐巳で良いです。福沢はいりません。お話って何でしょうか?」
「では祐巳ちゃん。瞳子ちゃんと姉妹(スール)になるの?」
「なぜそんな事を? 瞳子ちゃんは祥子さまの妹(スール)候補ですよね」
「だって、ねぇ?」
そう言って、意味深に由乃さんへと視線を向ける令さま。自分の隣で由乃さんが、うんうん、と頷いているのを見ると、令さまは祐巳へと視線を戻してきた。
「瞳子ちゃんと仲が良いみたいじゃない。だから気になって」
「仲が良いだけで姉妹(スール)になれとでも?」
「そうは言わないけれど」
「だったら放っておいてください。関係のない人にあれこれ言われたくはありません」
「関係ない事はないよ。瞳子ちゃんはもう山百合会の一員と言っても良いからね。だから、瞳子ちゃんや祐巳ちゃんがどうするのか、私たちも気になる」
「そんな事……」
それがどういう事か分かったから、祐巳は言葉に詰まった。
今の祐巳の状態は、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)の後継者となるはずの瞳子ちゃんを、祥子さまと山百合会から奪おうとしているように周りからは見える。もしもの話だけれど、祐巳と姉妹(スール)になれば、瞳子ちゃんはきっとここには来なくなるだろう。祐巳にはここにいる理由がなく、瞳子ちゃんは祐巳の傍にいたいから。だから彼女たちとしては、祐巳を瞳子ちゃんのお姉さま(グラン・スール)にして山百合会に引き込みたい。そうすれば、瞳子ちゃんが祥子さまの妹(スール)にならなかったとしても、瞳子ちゃんが山百合会から出て行く事はないだろうから、後継者の問題は解決する事になる。
しかし、選挙の日は目前に迫っているのだ。たしかあと八日ほどしかなく、祐巳は今すぐにでもはっきりとさせなければならない。
(はっきりさせる、か)
どうするかなんて、最初から決まっている。
(だって私は……)
視線を感じてそちらを見ると、そこには不安そうな顔の志摩子さんがいた。彼女がそんな顔をしているのは、祐巳の事をよく知っているからだろう。令さまの質問に祐巳がどう答えるのか、志摩子さんはもう分かっているのだと思う。
志摩子さんの隣にいる乃梨子ちゃんは、不思議そうに祐巳と志摩子さんを交互に見ていた。こちらは何で志摩子さんがそんな顔をしているのかよく分かっていないようだけれど、不安そうな志摩子さんを心配しているらしい。
そんな風に、妹(スール)である乃梨子ちゃんに心配される志摩子さんを羨ましく思う。
(でも、私は……)
瞳子ちゃんを妹(スール)にはできない。たとえ、それが瞳子ちゃんではなかったとしても妹(スール)にはできない。この世界の誰が相手であろうと、祐巳は妹(スール)を作れないのだ。
だから、今ここで皆に宣言しておこうと思う。ダラダラと先延ばしにするよりは、一秒でも早くはっきりさせておいた方が良いだろう。そうすれば、祥子さまにも山百合会にも迷惑がかかる事はない。唯一、傷付くとすれば、本気で祐巳を姉(スール)にしたいと考えている瞳子ちゃんだ。
しかし、例えば十人を犠牲に一人を助けるのと、一人を犠牲に十人を助けるのであれば、祐巳は間違いなく後者を選ぶ。今までだってそうしてきたし、これからだってそうする。マンガとかアニメのヒーローみたいに全員を助ける事なんて無理だ。自分にそこまでの力はない。
だから、山百合会に――祥子さまに瞳子ちゃんを返そう。瞳子ちゃんの痛みは自分が引き受ける。どんなに罵られようとも大丈夫だ。今だって、自分の痛みなんてよく分からない。どうせ自分は壊れているのだから。
「私は――」
またどこかが痛み出した。これは分かる。この痛みだけは、はっきりとその理由が分かる。
(ごめんね、瞳子ちゃん)
昨日と同じ、瞳子ちゃんを傷付けてしまう痛みだ。
「祐巳さん」
しばらく無言だった後、言葉を紡ぎ出した祐巳に何かを感じたのか、志摩子さんが小さく声をかけてきた。
(私が困っている時、いつも手助けしてくれる志摩子さんは優しいと思う。でもさ、その優しさはいったいどこから来ているの? 私の感情の変化にやたらと敏感なのはどうしてなの? なーんてね、分かってるよ。罪の意識だよね。本当に馬鹿げてる。私がいつそんなものが欲しいなんて言った? そんなもの求めてない。優しさなんていらない。償うための優しさなんてもっといらない。だから、あなたの言葉は私に届かないのよ。ねぇ、いつまで気にしているつもり? 私が許すまで? 許すも何も私がこうなったのはあなたのせいじゃないんだから、いつまでも暗い顔しないでよ鬱陶しいわねっ!)
「煩いっ!」
祐巳が怒鳴ると、志摩子さんが顔と身体を強張らせた。殆ど条件反射みたいなものなのだろう。由乃さんたち他の三人も同じように身体を強張らせていたが、こちらは単に祐巳が急に怒鳴ったからだと思われる。
それはともかく、せっかく志摩子さんを黙らせたのだからさっさと告げてしまおう。
「私は、瞳子ちゃんと姉妹(スール)には」
ならない、と祐巳が言いかけたその時、部屋の扉が開いた。
*
掃除を終えて、瞳子はようやく薔薇の館までやって来た。
この時間であれば、皆はもう揃っている事だろう。祐巳さまも、クラスメイトである由乃さまが連れてきているはずだ。
最近瞳子と仲が良く、志摩子さまや乃梨子、由乃さまとも交流があり、祥子お姉さまとすら面識がある祐巳さまを令さまだけが知らないという事で紹介する事になったのだ。
(でも、昼休みの結果によっては紹介できなかった可能性もあったのよね)
余計な事を考えて背筋をゾッとさせつつ古い木造の階段を上り、会議室の前に辿り着いた瞳子がドアノブに手をかけようとした所で、「煩いっ!」という随分と乱暴な怒鳴り声が室内から聞こえてきた。
(今の声って)
昼休みに散々聞いた覚えのある声だ。その事に気付いた瞬間、瞳子は扉を開けて部屋の中へと飛び込んでいた。
(祐巳さまは――いた!)
楕円テーブルのすぐ傍で祥子お姉さま以外の山百合会のメンバーに囲まれていた祐巳さまは、瞳子と目が合うとなぜか気まずそうに視線を逸らした。
(あっ)
視線を逸らされた事はショックだったけれど、それよりも祐巳さまの浮かべていた表情の方が問題だ。
「祐巳さまっ!? いったい何があったんですか!?」
「え?」
不思議そうな顔をする祐巳さまは、やはり自分がどんな顔をしているのか分かっていなかったらしい。
瞳子は祐巳さまを囲んでいる薔薇さま方を睨み付けた。
「祐巳さまに何をされたんです!?」
皆が瞳子を見て固まっていた。瞳子と一番親しい乃梨子でさえ目を見開いている。
自分でも驚いてしまうくらい、瞳子は皆に対して怒っていた。瞳子が自分でも驚くほどなのだから、皆はもっと驚いている事だろう。
瞳子がここに来た時に祐巳さまが浮かべていたのは、今にも泣き出してしまいそうなのにそれを必死に抑えている、そんな表情だった。それは、瞳子を拒絶した時と同じ顔だったのだ。
だから、瞳子は本気で怒っていた。祐巳さまを傷付けようとする者は、それがたとえ志摩子さまや乃梨子が相手でも許すつもりはない。
過保護、と言われるかもしれない。甘やかしている、と言われるもしれない。けれど、今の祐巳さまには必要な事なのだ。今の祐巳さまは、痛みが戻っているために不安定になっている。痛みがあるなんて本当は当たり前の事なのだけれど、傷付く事を酷く怖がっている祐巳さまは何かの拍子にその痛みを失くしてしまうかもしれない。
今の祐巳さまは、他人に傷付けられていないこの世界だから無茶な暴力を振るったりはしないけれど、もし傷付けられて痛みを失くしてしまったら、志摩子さまの話で聞いた、平気で人を傷付けて壊してしまう祐巳さまに戻ってしまうだろう。もしかすると、完全に心を閉ざしてしまって瞳子の事さえ信じなくなってしまうかもしれない。今の祐巳さまは、非常に危うい所にいるのだ。
瞳子が皆を睨み付けていると、志摩子さまが慌てながら言ってきた。
「違うのよ瞳子ちゃん。祐巳さんは誤解しているの」
「は?」
一瞬、時間の流れが止まったような気がした。勿論それは気のせいなのだけれど、その代わりと言って良いのか何だか凄く嫌な予感がする。主に祐巳さまのせいで。
「誤解、ですか?」
「ええ。祐巳さん」
志摩子さまが祐巳さまへと顔を向けて話しかける。
「何よ」
「おそらく、早とちりしてしまったのね。私たちは、瞳子ちゃんと姉妹(スール)になって欲しい、と言いたかったわけではないのよ」
「……へ?」
祐巳さま、その呆けたお顔はおやめになった方がよろしいです。その……非常に心苦しいのですが、端から見ていてみっともないですから。などと瞳子が思っていると、志摩子さまの後を令さまが引き継いだ。
「瞳子ちゃんと姉妹(スール)になるかどうかは別として、志摩子や由乃とも仲が良いみたいだからたまには遊びに来ない? って言いたかったんだけれど」
私の聞き方がまずかったせいで勘違いさせてしまったみたいね、と頬を掻く令さま。
「そういえば、確かに言われてない……」
瞳子には何の事かよく分からないのだけれど、祐巳さまは何かを思い出したようだ。
「え、ええっと、ひょっとして本当に私の早とちり?」
視線をあちこちに彷徨わせて気まずそうな顔をする祐巳さまに、令さまが笑いながら話しかけた。
「まあ、確かに姉妹(スール)の事も少しは聞きたかったんだけれど、ねえ?」
最後の『ねえ?』の所で、意味ありげに自分の妹(スール)である由乃さまを見る。視線を受けた由乃さまは、ニヤニヤ笑いを浮かべながら令さまに返した。
「何だか、もう既に姉妹(スール)みたいだったわね。立場が逆のような気もしたけれど」
楽しんでますね由乃さま。そう瞳子が思っていると、それを聞いていた祐巳さまの目が輝いたのが見えた。
何か禄でもない事を思い付いたに違いない、と身構える瞳子に向かってにこやかな笑顔を浮かべた祐巳さまが言ってくる。
「お姉さまっ。姉妹(スール)みたいですって」
「はいはい、良かったですね……って、え? お、お姉さま?」
「ふむ、なるほど。瞳子ちゃんをお姉さまって呼ぶのは、こんな感じなのか」
先ほどまでの悲痛な表情はどこへやら、今はニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべながら由乃さまと一緒に瞳子を見ている。
「ゆっ、祐巳さま――――っ!!」
薔薇の館に瞳子の叫び声が木霊した。
*
真っ赤になって怒る瞳子ちゃんを皆で宥めて、何とか落ち着かせた所で八人掛けの楕円テーブルの席に着いた。
入り口に近い方の席に、祐巳を中心に右に由乃さん、その隣に令さま。机を挟んで祐巳の向かい側に瞳子ちゃんで、その右隣に乃梨子ちゃん、志摩子さんと続く。瞳子ちゃんの左隣の席は空き。多分、祥子さまの席なのだろう。
皆してお茶を飲んでいると、「でも実際の所どうなの?」と隣の由乃さんに尋ねられた。
「姉妹(スール)になるとか、そういう話なら保留。今の所はなる気はないし」
正確には、なる気がない、ではなく、ならないだ。いや、なれない、か。
「どうして?」
「……色々とあるの」
ふと視線を感じてそちらを見れば、瞳子ちゃんが心配そうに祐巳を見ていた。どうも彼女には、祐巳の感情を微妙な表情の変化から読み取れる機能が備わっているらしい。
他の人は気付かないのに不思議なものだ。唯一、他に気付くとしたら志摩子さんなんだけれど、それでもここまでは見破れない。全く以って不思議な事この上ない。いったい瞳子ちゃんにはどんな秘密があるのだろう? なんて思いながら、じ――――っと瞳子ちゃんを見つめてみる。
すると、瞳子ちゃんも負けじと見つめ返してきた。
(む、やるわね)
(ほほほ、負けませんわ)
瞳子ちゃんの心の声が聞こえたような気がした。
じ――――。
じ――――。
しばらく見つめ合っていると、何かが芽生えそうな気がした所で由乃さんが尋ねてきた。
「さっきから瞳子ちゃんと見つめ合って何してるのよ?」
見つめ合っていたのがバレて恥ずかしかったのか、瞳子ちゃんの顔が一瞬で真っ赤になった。
「いや、愛を確かめ合っていたんだけど」
「祐巳さまっ!?」
瞳子ちゃんの顔が、今にも火でも吹いて倒れそうなくらい赤くなっている。きっと彼女の身体の中では、得体の知れない化学反応が起こっているに違いない。
何だか楽しくなって、祐巳は由乃さんに視線を送ってみる。
(どう、私の実力は?)
由乃さんはそれを受けて頷いた。
(やるわね祐巳さん)
目と目で会話していると、瞳子ちゃんが頬を膨らませた。
「お二人って、随分と仲がよろしいんですね。瞳子、全く知りませんでした」
冷たい視線でこちらを見て、口調まで他人行儀になっている瞳子ちゃん。
(あれは焼き餅よ祐巳さん)
(むむっ、ほっぺた膨らませちゃって美味しそう。食べちゃいたい)
「いつまで目で会話してるんですかっ!」
遂に瞳子ちゃんが爆発した。
「いやあ、由乃さんとは気が合っちゃって」
「そうそう、祐巳さんとは気が合っちゃって」
二人で「ねー」と声を合わせて笑顔でお互いの肩を叩き合っていると、じとーっていうか、どんよりというか、凄い目をした瞳子ちゃんに睨まれた。
「そっ、そういえば祥子さまは?」
呪いでもかけられてしまいそうなその目が怖かったようで、誤魔化すように由乃さんが隣に座る令さまに尋ねる。
「ん? 祥子ならちょっと遅れるって言ってたけれど、もうそろそろ来るんじゃないかな?」
そう返す、何となく陰の薄いような気がする令さま。もっとも、向こうの世界でも影は薄かったのだけれど。あれだ、ほら、由乃さんのキャラが良(濃)過ぎるんだよね。令さまは言うなれば、由乃さんに付いてくるオマケ? 決めるべき所ではビシッと格好良く決めてくれるのだが、それまでは出番がないような、そんな人だ。
祐巳がそんな酷い事を考えていると、ようやく祥子さまが姿を現した。扉を開けて一番最初に祐巳を見付けて、微笑みながら挨拶してくる。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう。えっと、お邪魔してます」
祥子さまが持っていた鞄を机の横に置いていると、祐巳が勝手に気が利く一年生の序列第一位だと思っている乃梨子ちゃんが「お茶をお淹れしますね」と席を立った。
こちらでも、ああいう所は変わらないらしい。それは、つまらなくもあり、嬉しくもあった。世界は違ってもやっぱり同じ人間なんだな、って安心できるからだ。
「どうしたの瞳子ちゃん?」
未だに膨れている瞳子ちゃんを見付けて、不思議そうに祥子さまが尋ねる。
瞳子ちゃんは、チャンス! とばかりに祥子さまに縋り付いた。
「聞いてください。祐巳さまったら酷いんですぅ」
瞳子ちゃんの甘える声なんて初めて聞いたし、甘える所なんて初めて見た。それは、祐巳では引き出す事のできない、祐巳の知らない瞳子ちゃんの顔だ。
ズキン、とどこかが痛んだ。
(ッ!? な、何よ今の?)
突然襲ってきた鋭い痛みに驚いて、思わず俯いてしまう。
「祐巳さん?」
そんな祐巳の顔を、隣に座る由乃さんが心配げに覗き込んできた。
「だ、大丈夫。何でもないから」
「で、でも、顔が真っ青よ?」
由乃さんの言葉を、祐巳は途中から聞いてはなかった。それどころではなかった。
(何これ? 何これ? 何なのこれ? 何なのよっ!?)
ズキズキと酷く痛む。目の前が真っ暗になって、気を失いそうなほどに痛くなってきた。
(やだ。怖い。怖いよ)
気を失わないように唇を強く噛むと、尖った犬歯が唇を切り裂いた。口の中に血の味が広がって、つぅっと唇から鮮血が零れる。
「祐巳さまっ!?」
叫んだのは誰だったのだろう。襲ってくる痛みに耐えていて、そんなの分からなかった。
「祐巳さんっ!?」
煩い、黙れ。人が必死で耐えているのに邪魔するな! そう言ったつもりだったのだが、それは声にはならなかった。
(痛い。痛いよ。消さなきゃ。消さないと。痛みなんて消してしまわないと)
「祐巳さま! 祐巳さまっ!」
誰かが祐巳の名前を呼びながら、祐巳の身体を揺すっている。
(煩いなっ。あと少しでこの痛みが消えるから、それまで静かにしていてよっ)
ぼやけた視界の中で誰かの顔が見えるけれど、誰なのか分からない。ただ、どこかで見た事があるような気がした。誰だったか思い出さなきゃいけないような気もするし、どうでもいいような気もする。
(うん、そうだ。どうでもいい。私には関係ない。ほら、痛みが消えてきた)
世界が変わる。
黒と白だけの、モノクロの世界へと変わる。他人が全部、黒く塗り潰された人型の影に見える。
そんな人だか何だか分からないものに、私は傷付けられはしない。どれだけ壊してやっても、心なんて痛まない。
私はもう二度と傷付かない。
「祐巳さまっ!」
「煩いわね」
ゆっくりと手を伸ばし、その手で目の前ある黒い影の頬に触れた。
「あんまり煩いと、あいつらみたいに壊してやるわよ?」
「祐巳さ……ま?」
(この声……さっきから私を呼ぶのはあなた? あのさ、悪いんだけど分からないのよ。ねぇ――)
「あなた、だぁれ?」
「嫌ぁぁっ!! 祐巳さまっ! 駄目ですっ! 痛みから逃げないで! 痛みを恐れないでっ! 痛みを感じるのは当たり前の事なんです! 誰だって痛みを感じるのは怖いんですっ! 私だって怖い……あなたに拒絶されるのは……あなたを失うのは怖いのっ!」
あれ? 聞いた事のある声だ。誰だったかな? とても聞き覚えのある――。
「だから、お願いです……。『誰』なんて……私にそんな事聞かないで……」
――瞳子ちゃん?
急速に祐巳の世界に色が戻り始めた。
(ああ、そんな……)
色の戻ってきた世界で、祐巳の手が触れている彼女は泣いていた。
(私――)
色の戻った祐巳の視界にあるのは、頬に当てられている祐巳の手に自分の手を重ねて、ポロポロと大粒の涙を零している瞳子ちゃんの姿だった。
(また泣かせちゃったの? ごめん……ごめんね)
泣かないで、瞳子ちゃん。
聞こえただろうか? 届いただろうか?
世界が黒く塗り潰されて完全に闇に包まれる前に、祐巳は自ら目を閉じた。
「あれ?」
目が覚めると、祐巳は硬いテーブルの上に横たわっていた。薔薇の館に設置されている楕円テーブルだ。
(何でテーブルの上?)
たしか自分は薔薇の館にいて、皆と話していて、祥子さまが来て、それで急に鋭い痛みを感じて……とそこまで思い出した所で急いで上半身を起こす。ペタペタと身体のあちこちを触ってみるが特に何もなく、例の痛みも治まっているようだ。あれは冗談ではなかった。意識を手放す前に、もう二度と目を覚ませないんじゃないかと思ったほどだ。無事に目が覚めたので、心底ほっとしている。
安心した所で辺りを見回そうとして、テーブルのすぐ横にハンカチを持ったまま固まっている少女を見付けた。祐巳が急に起き上がったから、驚いて固まっているようだ。
手に持たれたハンカチに薄っすらと赤いモノが付着しているのは、おそらく祐巳の唇から流れ出た血液だろう。どうやら、ずっと傷口に当てていてくれたらしい。祐巳的好感度が二ポイントほど上がった。ちなみにその少女は、小柄な身体に縦ロールが特徴的な、言わずと知れた瞳子ちゃんだ。
「ゆ、祐巳さま?」
ようやく硬直が解けたらしい瞳子ちゃんが恐る恐る名前を呼んできたので、祐巳はそれに応えた。
「おはよう」
「おはよう……って。ど、どこか痛い所とか、気分が悪いとか、そんな事はないですか!?」
尋ねてくるのは構わないのだが、勢いが良過ぎて祐巳の上に覆い被さるような体勢になっている。
「い、いや、大丈夫だから。ちょっと顔が近過ぎるよ」
心臓に悪いから、掴みかからんばかりの勢いで急に迫ってくるのはやめて欲しい。
「良かった……」
瞳子ちゃんが安堵の溜息を漏らす。随分と心配させちゃったみたいだ。それにしても、自分はなぜ生贄みたいにテーブルの上に寝かされていたのだろう。
「えっと、気を失う直前までの事は何となく覚えているんだけど、何でテーブルの上に寝かされているの?」
「一応毎日掃除はしていますが、寝転ぶに適しているかと言われると首を傾げたくなります。それでも床の方が良かったですか?」
足元の床を指差しながら瞳子ちゃんが言った。
「ごめん、馬鹿な事聞いた。えっと、瞳子ちゃんが私を運んでくれたの? 重くなかった?」
「いえ、皆で協力して運んだので、それほどでもありませんでした」
「それって、重くないとは言ってないよね?」
ジト目を瞳子ちゃんに向けながら何気なく切り裂いた唇を指で触れると、半渇きの血が少し付いた。という事は、気を失ってからそんなに時間は経ってないってわけだ。とりあえず、何時間も間抜けな寝顔を披露しなくて済んだと安心しておこう、と思う事にした。
そんな風に祐巳がほっとしていると、心配そうな表情を浮かべた瞳子ちゃんが尋ねてくる。
「それよりも、いったいどうしてあんな事に?」
「うん? ああ、苦しみだした時の事? それなら、瞳子ちゃんが祥子さまに甘えているの見てからかな? こう、胸の辺りがズキンって痛んだの」
祐巳が胸元を押さえながら言うと、「え? それって……」と瞳子ちゃんが小さく呟いた。何だか妙に期待しているような顔を祐巳に向けている瞳子ちゃんの反応を楽しむためにも、代わりにその続きを口にしてあげる。
「今思い返すと、あれって嫉妬だよね」
「そ、そういう事を平然と言わないでくださいっ」
怒るように言ってくるけれど全く怖くない。だって、口元が嬉しそうに綻んでいる。
「あはははは。でも、まさか嫉妬で痛みを消そうとするとは自分でも思わなかったよ。私、瞳子ちゃんに恋でもしてるのかな? あ、でも、祥子さまにかもしれないよね?」
「……」
瞳子ちゃんが沈黙と刺すような視線を返してきた。ちょっとからかい過ぎたようだ。ここまでにしておこう。
「それにしても、まさか気を失うとは思わなかった」
「……」
祐巳の言葉を聞いて、瞳子ちゃんが何事か考え始めた。おそらく、祐巳がどうして気を失ったのかを考えているのだろう。けれど、祐巳にはその原因が何となく分かっていた。痛みを消すのを無理やり抑えた反動なのだろう、と。多分、おそらく、きっと。
それにしても危なかった、と安堵の溜息を吐く。あのまま痛みを消していたら、自分は間違いなく祥子さまと瞳子ちゃんを壊していただろう。
と、ここでようやく考えが纏まったらしい瞳子ちゃんが口を開いた。
「長い間、痛みを失くしていた反動じゃないですか?」
惜しい、祐巳の考えと少し違う。でも、それもあるかもしれない。
「あー、そうかもね。だったら私ってば、かなりの重症だ」
あははー、と笑いながら言うと、瞳子ちゃんが冷たい視線を向けてきた。
「馬鹿ですね」
「馬鹿です。悪かったわね」
馬鹿と言われて、ムスッとしながら返した。
「最低ですね」
「最低ですよ。悪かったわね」
こんちくしょう、と心の中で付け加える。
「自業自得ですよね」
「そうですよ。悪かったわね」
これは言われても仕方がない。本当の事だし甘んじて受けよう。
「本当に分かってるんですか?」
「分かってますよ。悪かったわね」
これは今までの言葉の応酬の、ただの惰性。
「祐巳さまっ!」
「ごめんなさい」
瞳子ちゃんが目を吊り上げて怒ってくる。さすがに悪かったと思ったので素直に頭を下げると、怒っていた顔を悲しそうな表情に変えて瞳子ちゃんが懇願してきた。
「もう二度と、私に向かって『あなた、だぁれ』なんて言わないでくださいね。あんなのは、もう絶対に嫌ですからね」
「ごめん。二度と言わないって約束するから許して」
「約束して守れるんですか?」
瞳子ちゃんがギロリと睨んでくる。
「う、多分」
自信ないけど、と祐巳が瞳子ちゃんから目を逸らしていると、「あのう、そろそろ良いですか」と背中側から声が聞こえてきた。
振り返ると、洗剤で泡立ったスポンジと泡に塗れたティーカップを持った乃梨子ちゃんが、流しの所で困ったような顔して祐巳たちを見ている。
「私たちもいるのだけれど」
乃梨子ちゃんの隣から、洗い終わったティーカップと拭き取り用の布巾を持った志摩子さんが苦笑いしながらそう伝えてきた。
白薔薇姉妹の二人は途中で入室してきたわけではなく、最初からずっとこの部屋にいて祐巳が倒れる直前まで皆が使っていたティーカップを片付けていたらしい。
(瞳子ちゃんってば、すっかり忘れていたな)
祐巳が目を覚ました事で安心し切って、すっかり二人の存在を忘れていたようだ。顔を真っ赤にして何か言おうとしているのだけれど声にならず、その結果金魚みたいに口をパクパクさせている。やばい、凄く可愛い。
「由乃さんたちは? まさか、扉の陰に隠れていたりはしないよね?」
姿が見当たらない人達がいるので、ビスケットに似た扉へチラリと視線を飛ばしながら祐巳は尋ねてみた。
「由乃さんなら、令さまと祥子さまの三人で保健の先生を呼びに保健室へ行っているわ」
「あー。それは悪い事しちゃったな」
先生を連れてきても祐巳はもう目を覚ましてしまっているし、身体を診てもらったとしてもどこにも異常なんて見付からないだろう。
それにしても、祥子さまにとっての祐巳は瞳子ちゃんを奪おうとする敵であるはずなのに、そんな祐巳の看病を瞳子ちゃんに任せるとはいったいどういうつもりなのだろう。何を考えているのやら、どうにもよく分からない人だ。
足元を見てみると上履きは履いたまま寝かされていたようなので、祐巳はそのままテーブルから下りた。
「身体の方はもう平気?」
「うん。寝起きに瞳子ちゃんとイチャイチャするくらい元気」
「……そう。それは良かったわ」
「ちっともよくありませんっ!」
金魚から人間に戻る事ができたらしい。身体の調子を尋ねてきた志摩子さんと祐巳が会話をしていると、顔を赤くしたままの瞳子ちゃんが激しく抗議してきた。
「いっ、イチャイチャって何ですか! イチャイチャって!」
「え、してたでしょ?」
ねえ? と同意を求めるために志摩子さんと乃梨子ちゃんを見ると、二人は大きく頷いた。
「していたわね」
「瞳子のあんな姿を見る日が来るとは思いませんでした」
「乃梨子!?」
裏切られた、みたいな顔をしている瞳子ちゃん。
そうやって三人で瞳子ちゃんをからかっていると、コンコン、と扉をノックする音が聞こえてきた。誰だろう、と四人でそちらに視線を向けると同時に扉が開いて祥子さまが入って来る。
「良かったわ、気が付いたのね。具合はどう?」
「あ、はい。特に何ともありません。ご迷惑をおかけしました」
って、あれ? 祥子さま一人? 保健の先生を呼びに行ったんじゃないの? それに、由乃さんたちは一緒じゃなかったの?
部屋へ入ってくるなり扉を閉める祥子さまを不思議に思って見ていると、それが顔に出ていたらしい。「祐巳さんの様子が気になって、私だけ途中で引き帰してきたのよ」と答えてくれた。祐巳の顔を見て何を考えているのか読める人を、新たに発見した瞬間だった。
祥子さまは部屋の中にいるメンバーを見回すと、志摩子さんへと顔を向けて言う。
「志摩子」
「何でしょう」
「少しの間、祐巳さんと瞳子ちゃんの二人と話をさせてちょうだい」
その言葉に、志摩子さんが祐巳を見てきた。祐巳たち三人だけにして、また先ほどみたいな事態にならないか心配なのだろう。
大丈夫だから心配しなくて良い、という意味を込めて祐巳が小さく頷くと、志摩子さんは祥子さまへと視線を戻した。
「分かりました。乃梨子」
「はい」
瞳子ちゃんへと心配そうな顔を向けていた乃梨子ちゃんだったが、志摩子さんに名前を呼ばれて一緒に部屋から出て行く。こうして、部屋には祐巳と祥子さまと瞳子ちゃんの三人だけが残った。
「さて」
扉が閉まったのを確認した所で祥子さまが声をかけてくる。
「先ずは最初に聞いておきたい事があるのだけれど、良いかしら祐巳さん」
「何でしょう」
長くて美しい黒髪をサラリと揺らしながら振り返り、祐巳を視線の真ん中に捉えた所で祥子さまは言った。
「あなたはどこの世界から来たの?」
「へ?」
「さっ、祥子お姉さま!?」
祐巳の間の抜けた声と、瞳子ちゃんの驚いた声が重なる。祥子さまのそのお言葉は、本日最高の威力と衝撃を伴った破壊力抜群の爆弾だった。けれど、その後に続いた言葉にもっと驚かされる事となる。
「私もね、あなたと同じようにこことは別の世界から来たのよ」
懐かしむように、薄っすらと微笑みながら祥子さまはそう言ったのだった。
瞳子は変わった。
中庭で、孤独に佇む彼女に、声をかけたあの日から。
今日も一人、文庫本に目を向けるその様は、普段とほとんど変わった様子はないけれど、彼女の持つ雰囲気が、明らかに変化しているのがわかる。
今まで誰も寄せ付けようとしなかった壁が、無くなったとは言えないまでも、低くなったような、そんな感じだった。
一度心に立てた壁は、なかなか自分では壊すことは出来ない。
怪我がもうそろそろ完治しようとすると、なんとなく勿体無いような気になるのと同じように、必要ないと理解していても、壊すのが勿体無いような気がするのと似ている。
まだ怪我なら、放っておいても勝手に治ってしまう。
でも、心の壁は、自分で完全に壊せない場合、時間に頼るか、他人に壊してもらう以外、手段は無いに等しい。
彼女はずっと、その壁を壊したがっていたのだ。
壊す手段を、その手に持っていなかっただけなのだ。
壊す手伝いを、誰かに頼みたがっていた彼女が出した、ほんの小さなサイン。
それにようやく気付くことが出来た。
気付くことが出来たから、彼女の心の壁を壊してやろうと決めた。
テレビなんてどうでもいい、あの時点では、私にしか出来ないことだと、そう思ったから。
例え小さな穴が一つだけであっても、そこから向こうを垣間見ることが出来る、声を送ることが出来る。
巨大で頑丈なダムも、アリの巣ひとつで決壊することがある。
だから私は。
だから、少なくとも私は、彼女に声をかけることで、心の壁をほんの少しでも壊す手伝いが出来たと思っていた。
そしてそれは、今日の瞳子の様子から、確信へと変わった。
だけど……。
「乃梨子さん」
「可南子さん?」
教室は、ぱっと見ぃは他のクラスとそう変わらないけれど、相変らず『反瞳子』の雰囲気で包まれている。
でも、あの日以前ほど、あからさまではないようだ。
以前は私と可南子さんを除いては、瞳子とそれ以外といった、かなり極端に二分されていたが、瞳子を見直すクラスメイトも現れてから、分布が多少変化してきたのも事実。
「少しお時間よろしいかしら?」
「……うん、いいけど」
「場所を変えましょう」
そのまま可南子さんは、すたすたと歩いて行く。
コンパスに差があるので、駆け足で追いかける。
辿り着いたのは、ミルクホール。
幸いなのか人は少なく、隅っこで会話したところで、人に聞かれる心配はないだろう。
もっとも、人に聞かれて困る会話をするつもりは無いが、それは相手次第。
「彼女、少し様子が変わったわね」
ドリンクを買って、私と自分の前に置きながら、話を切り出す可南子さん。
「僅かだけど、彼女が無理して被り続けて来た仮面が剥がれ落ちたみたい。……何かあったの?」
静かな、落ち着いた目で見つめてくる。
「………」
答えられない。
いや、何から言えば良いのか、言葉が見付からないのだ。
咎めるでもなく、紙コップを両手に持って、液面をじっと見ながら、待ち続ける可南子さん。
「……可南子さん」
小首を傾げて顔を上げる彼女に、私は切り出した。
「私は、瞳子の味方よ。彼女がどんな人間であっても、ね」
紅薔薇のつぼみとの確執を乗り越え、吹っ切れ、そして今では何かの自信に溢れている彼女は、今の私よりも、よっぽど他人の心の機微に通じている部分がある。
そんな彼女と目を合わすことが出来ずに、私は俯いてしまった。
「可南子さんは……」
自分が彼女に聞こうとしていることは、瞳子は決して望んでいないだろう。
でも、瞳子のためには、心から信じられる仲間が、友人が必要なのだ。
しかしそれは、強制することも、無理矢理作り出すこともできない。
「……私、瞳子が好きよ。だから、守ってあげたい、力になってあげたい。ずっとそう思ってたし、行動もしてきたつもり」
紙コップがひしゃげ、零れた中身が手にかかる。
とても熱いはずなのに、なぜか心の痛みの方が強くて、まったく熱いとは思わない。
「でも、私一人じゃ何も出来ない。白薔薇のつぼみと言っても、所詮は一生徒でしかないのに。私だけじゃ、彼女一人も助けることが出来ない」
液面に、小さな波紋が広がる。
それが自分の涙であることに気付くのに、数秒の間を要した。
「あなたは、一人だけじゃないわ」
ティッシュペーパーで、私の手を拭く可南子さん。
そしてハンカチを、そっと私に手渡してくれた。
「大丈夫。私は『乃梨子』と、そして『瞳子』の味方よ」
その言葉に、ハッと顔を上げる。
「だから、全部とまでは言わないけど、教えて。何があったのかを」
可南子さんがそこまで明言するからには、私に躊躇う理由はない。
私は例のことを、言える範囲でぶちまけた。
「……そうだったのね」
「うん、でも私だけじゃ、そこまでだった。彼女が被ってきた仮面の、ほんの数枚しか剥がすことができなかった。それ以上のことは、私だけじゃ……」
再び、目の前が霞んで見える。
「ダメよ、それ以上自分を卑下しないで。乃梨子は、きっと誰の意見にも惑わされず、自分の意思、考えのみで行動できるはずよ」
「……うん」
「瞳子に対しては、白薔薇のつぼみなんて肩書きは必要ない。今必要なのは、彼女の親友である、二条乃梨子その人なのだから」
山百合会の手伝いとして、薔薇の館に助っ人に来ていた時を別にすれば、私は一度も瞳子に対して、白薔薇のつぼみという立場で接したことはなかった。
「あの……」
いつの間にか私たちのそばには、二人のクラスメイトが立っていた。
入学して間もないころ、瞳子と一緒に話し掛けて来た、敦子さんと美幸さんの二人。
振り向いた私を見た二人は、息を飲んで、驚いた表情を浮かべていた。
無理もない、新入生代表を務め、白薔薇さまの妹であり、何故かクールという評価をされ、椿組でも一目おかれているらしい私が、涙に濡れた顔をしているのだから。
「何?」
とりあえず、この顔のままでは拙い。
可南子さんのハンカチで、ぐしぐしと無造作に涙を拭いた。
「あの、盗み聞きするつもりはなかったのですけど……。でも、聞いてしまった以上、私たち、もう見て見ぬフリは出来ません。だから、良かったら私たちにもお手伝いさせていただけないでしょうか」
二人は、始めの方こそ瞳子と仲良くしていたが、瞳子が孤立の度合いを深めていくにつれ、自然に距離を置くようになっていた。
しかし、それで彼女たちを責めるのは筋違いと言うものだ。
彼女ら二人は、良くも悪くも害の無いお嬢様。
そのまま下手に瞳子に関れば、自分たちも孤立していくかもしれないという、危惧があったのだろうから。
だからと言って、『反瞳子』の中に入るわけにも行かず、『親瞳子』を標榜することも出来ず、中立という立場でしかいられなかったと思うのだ。
加害者になるのも嫌だけど、被害者になるのも嫌、その考えは良く分かる。
中学までは共学で、無邪気に人を見下し、差別し、侮蔑する同級生を多く見てきたのだから。
「覚悟はあるの? 今でこそ『親瞳子』は少しづつとはいえ増えているけれど、『反瞳子』は未だに多く、根強いのよ」
少々キツイ口調で、睨むような目付きで二人に尋ねる可南子さん。
瞳子の陰口を叩くクラスメイトを窘めていた生徒がいたように、瞳子を見直す者が徐々にではあるが増えては来ている。
だが、大方60%は『反瞳子』で、中立は25%、私たち『親瞳子』はせいぜい15%ってところだ。
「これまでに瞳子さんが、一人で受けてきた苦しみに比べれば」
「私たちで、その苦しみを少しでも和らげることが出来るのなら」
敦子さんと美幸さんは、はっきりと頷いた。
「……分かった。『可南子』、いいわね?」
「ええ乃梨子。『敦子』と『美幸』も、しばらく大変よ?」
「覚悟の上ですわ」
「もちろん」
二人の表情からは、今までのように臆病な陰はなく、不退転の意思が見て取れた。
まだ人数は少ないけれど、確実に『親瞳子』の生徒が増えている。
私は一人だけじゃない。
そして瞳子も一人だけじゃない。
きっと彼女は心を開く。
心の壁を、壊すことが出来るはずだ。
私たちは、全力でその手伝いをするだけだ。
私は、瞳子が紅薔薇のつぼみ(もうすぐ薔薇さまだ)の妹になって欲しいと、心底思っている。
そして、同じつぼみとして、山百合会と薔薇さま方を支えて行きたいと思っている。
さぁ瞳子、もう仮面を被って、自分じゃない自分を演じるのは終わり。
例え荒療治になったとしても、彼女の壁を壊し、その仮面を無理矢理にでも引っぺがしてやる。
決意を新たに、頷き、誓い合った私たちの声は、ミルクホールに静かに響き渡った。
もちもちぽんぽんしりーず。
【No:1878】―【No:1868】―【No:1875】―【No:1883】―【No:1892】―【No:1901】―これ
ビスケット扉を開けると既に人がいた。
「ごきげんよう、聖さま。」
「ごきげんよう、祐巳ちゃん。」
窓に腰をかけて何かを飲んでいる姿は、まるで一枚の絵のようだった。
匂いからしてコーヒー?
「そっちにあるもの適当に飲んでいいよ。」
視線で流しのほうを示すとまた外に目を向けた。
私は少し考えた末にインスタントのコーヒーにする。
がさごそと棚を漁って見つけた砂糖とミルクを入れると、部屋に満ちていた匂いと微妙に違う匂いが混ざりだす。
「ねぇ祐巳ちゃん、一つ聞いて良い?」
聖さまの方を見るとこちらを向いていた。
「はい、なんでしょう?」
「蓉子のどこが気に入って妹になりたいの?」
「え?えーと、かっこいいし、頭も良いし、うーん、でも、そういうんじゃなくて。」
腕まで組んで考えたけど、はっきり答えが出ない。
「うーーーーーーん。」
「そんなに大げさに考えなくて良いよ。」
苦笑いされてしまった。
「蓉子はいい子だからね。頼りになるし、真面目だし。・・・どうしたの?」
「あ、す、すいません。蓉子さまのことを知ってる人の言葉だったので。」
「?妹になりたいってくらいだから、祐巳ちゃんのほうがよく知ってるはずでしょ。」
「いえ、ほとんど知らないんです。」
「?初めて会ったのはいつごろ?」
「この前ここに来たので二回目です。」
「それだけ?」
「はい。」
我ながら変わってると思うけど、聖さまは驚いた顔をした後声に出して笑った。
「すごいね。」
「すごい・・・ですか?」
変わってるとは思うけど。
「だって、お互い一目惚れってやつでしょ。」
「一目惚れかぁ。そうなのかな?」
ドラマや本では見るけど、実際にその身になってみると気付かなかった。
そもそも、妹になりたいなんて最初から諦めていたかもしれない。
何の取り柄もない自分は普通に高等部を過ごすのだと、どこかで思っていた。
「それに妹になれるかも、なんて思ったことなかったですから。」
「へー、なんで?」
「何の個性もない私を必要としてくれる人なんているのかなって。」
「・・・。」
私の言葉に聖さまは変な顔をした。
「どうしました?」
おかしなことを言っただろうか?
「ん、いや、以前似たような言葉を聞いてね。それより、愛しの人が来るよ。」
「え?」
―――がちゃ―――
「ごきげんよう。」
入ってきた蓉子さまに私と聖さまは挨拶を返す。
「なんか、珍しい組み合わせね。」
「何をお飲みになられます?」
流しに向かう私に蓉子さまは驚いて、そして笑う。
「あら、出来るようになったのね。えらいわ。」
私の頭を「良い子良い子。」となでた。
聖さまの前だというのに。・・・・・・嬉しいんだけど。
「楽しそうね。蓉子サン。」
「ええ、楽しいわよ。聖サン。」
聖さまの皮肉交じりの言葉に蓉子さまはなんでもないように返す。
「・・・私ちょっと下の様子見てくるわ。祐巳ちゃん、これ洗っといてくれる。」
「あ、はい。」
少し沈黙の後、椅子を鳴らして聖さまは立ち上がった。
蓉子さまの言葉に気を悪くしたのだろうか。
おろおろする私を尻目に、聖さまは扉に向かう。
―――がちゃ―――
「良いのよ。」
蓉子さまの言葉。
「羨ましいだけなんだから。」
―――がちゃん―――
部屋を出ると、佐藤聖は髪をかきあげて天を仰いだ。
「見抜かれてる。・・・・・・か。」
その日は衣装合わせの日だった。
「可愛い可愛い。」
黄薔薇さまの言葉は嬉しいのだけど・・・
「本当ですか?」
さすがにシンデレラ、話の主人公だけあってドレスも煌びやか。
ただ唯一の問題は着ているのが私ということだろうか。
紅薔薇さまは私をくるりと一周させる。
「身長は同じくらいだったから丈は大丈夫のようだけど・・・。」
採寸は作業を考えて、夏休み前に行った。
で、夏休み前のシンデレラ役は志摩子さんだった。と、いうことは
「そうね、丈は大丈夫ね。・・・」
2人の視線は私の胸元に向けられている。
(うーーーー、しまこさん〜〜〜〜。)
腰周りはきついくらいなのに。
「タオルかなんかない?」
黄薔薇さまの言葉後ろに控えていた方々が、何かないかと動き始める。
しばらくして手渡されたタオルをくるくると丸めて押し込まれた。
「うーーん、なんか形がな〜。」
「そうね、もうちょっとあればね。」
(うーーー、しーーまーーこーーさーーんーー。)
「黄薔薇さま、これなんていかがでしょう?」
「ん?」
そう言って手渡されたのは
「肩パットなんですけど、上げ底ブラにも使われているらしいので。」
「ありがとう。」
「なんでそんなこと知ってるの?」やら「使ってないわよ。」という喧騒の中、目出度く小道具が一つ決定。
「さて、祐巳ちゃん。」
「なんでしょう?黄薔薇さま。」
黄薔薇さまは、にっこり笑った。
「蓉子ちゃんに見せに行く?」
「え、え、え、え、え?い、い、い、い、いえ結構です。」
正直に言えば見てほしかったけど「見てください。」なんて恥ずかしすぎる。
どうせ志摩子さんに似合うように作られたドレスなのだから。
「その心遣いは無用よ、令。」
紅薔薇さまはキッパリハッキリおっしゃった。
「むこうから来たわ。」
「え!?」
紅薔薇さまの視線を追うと
「あら、似合ってるわよ。」
魔法使いの格好をした蓉子さまが近づいてきた。
「あ、ありがとうございます。」
何故かお礼を言ってしまう。それも頭まで下げて。
「そんなに照れることないのに。」
そうは言ってもなってしまうものは仕方ないわけで。
照れ隠しのつもりで私は言ってしまった。
「いえ、蓉子さまが着たほうがお似合いですよ、きっと。」
時が止まった。
「ねぇ、もうちょっと時間をいただいてもいいかしら?」
優しく微笑むような紅薔薇さまの言葉に、手芸部の方々は頬を赤く染めて「ええ。」と返事をした。
それをきっかけにしてか、黄薔薇さまは私に後ろに回る。
「え?」
「静。」
「解っているわ。」
白薔薇さまが蓉子さまを後ろから抱くようにして現れた。
「えーと、お姉さま?」
怯えた声を出しながらも身動きすることは出来ない。
「蓉子、脱ぎなさい。」
「は、話せばわかりますから。」
焦っている蓉子さまの後ろから白薔薇さまが肩越しに顔を出した。
「ねぇ、祐巳ちゃん?」
「はい?」
「蓉子ちゃんのシンデレラ姿見たくない?」
笑顔でそう聞かれた。
そんなの決まっている。
「見たいです!・・・・・・あ。」
即答してから気付いた。
「ほら、愛しの祐巳ちゃんもああ言ってるわ。」
紅薔薇さまの手が伸びる。
「祐巳ちゃん!!」
「・・・ごめんなさい。」
手遅れながら謝った。
「じゃあ祐巳ちゃん、ファスナー下ろすから動かないでね。」
「はい、ありがとうございます、黄薔薇さま。」
『お姉さま、自分で出来ますから!』
『良いから、黙ってなさい。』
「あ、踏まないようにゆっくりね。」
「あ、はい。」
『あら、思ったよりはあるのね。』
『お姉さま、変なところ触らないでください!』
「祥子、ドレス。」
『ありがとう。』
『蓉子ちゃんって、肌すべすべね。』
『白薔薇さま、それは脱ぐ必要ありません!!』
「とりあえず祐巳ちゃんは蓉子ちゃんのローブを着てようね。」
「はい。」
しばらくして、蓉子さまはシンデレラのドレスを着ていた。
「わぁ、とてもよくお似合いです。」
「・・・・・・ありがと。」
蓉子さまは何故か涙目だった。
「で、蓉子着てみてどう」
「えーー、胸元がきつくて腰周りがゆるいです。・・・どうしたの、祐巳ちゃん?」
「・・・いえ、なんでもありません。」
うずくまって床にのの字を書きたくなった。
「さて、遊ぶのもこれくらいにしましょう。」
白薔薇さまの声に周囲がわたわたと動き出す。
私ももう一度来て、細かいところを直さなければならない。
びくびくしながらドレスを脱ぐ蓉子さまを薔薇さま方は笑いを押し殺した様子で見ていた。
衣装合わせが終われば、今度は薔薇の館で劇の練習。
私は隣を歩く蓉子さまを見ていた。
(もっと可愛ければよかったのに。)
別に私に非があるわけではないが、ため息が出そう。
じっと見ていた視線に気付いたのか、蓉子さまはこちらを向く。
あわてて顔をそらそうとすると、耳元に顔をそっと寄せて来て耳元でささやいた。
「とても可愛いと思ったわ。」
音が出そうな速さで首を回すと、軽く笑ってまた前を見始める。
(わ、わ。)
急にどきどきしてきた。
黄薔薇さまに言われてもこんな風にはならないのに。
少しだけ、蓉子さまに寄り添った。
文化祭まで一週間をきった。
今日は数少ない、体育館で練習できる日。
そして、花寺学院からお手伝いが来る日。
黄薔薇さまは時計を見ると少し離れたところに居た白薔薇さまに話しかけた。
「ねぇ、そろそろじゃない?」
「そうね。」
白薔薇さまに皆の視線が集まる。
「だれか校門まで迎えに行ってもらえないかしら?」
「はい。」
私は手を上げた。
優秀でないところは、こーゆーことで埋めなければならない。
「祐巳ちゃんは良いよ。お姫様は迎えるものって相場が決まってるから。」
黄薔薇さまに止められてしまった。
「じゃあ、志摩子ちゃん行ってきてくれない?」
「はい。」
白薔薇さまの言葉にうなづくと部屋を出て行く。
(・・・お姫様か。)
話によれば、頭良し、顔良し、家柄良しのすごい人らしいのに、会いに来る相手が平凡な私ってのが。
なんともおかしな話だこと。
不安になって蓉子さまの方を見れば、目だけでこっちを見ている。
表情から読み取ったのか、少しだけ笑うと声に出さずに「めっ!」と、私をたしなめた。
自信を持ちなさいということだろうか。
私は小さくファイティングポーズをとると、首を縦に振った。
「・・・私、先に行って舞台を見てくるわ。」
今まで一言も話さなかった紅薔薇さまは、返事も待たず部屋を出て行く。
黄薔薇さまは小さくため息をつくと、気を取れなおしたのか私の方を見た。
「祐巳ちゃん、茶の準備してくれる?」
「あ、はい。」
私は席を立った。
しばらく後、志摩子さんが花寺学院の方を連れて戻ってきた。
「はじめまして、『柏木優』です。今回はよろしくお願いします。」
軽く頭を下げて挨拶をする振る舞いが、まるで本当に王子様のよう。
黄薔薇さまが代表して応答をする。
「いえ、こちらこそ今回はよろしくお願いします。とりあえず、シンデレラの入れたお茶でもどうぞ。」
(ひぇ。)
椅子に座った柏木さんの前に紅茶を運ぶと、
「君がシンデレラ?今回はよろしく。」
笑いかけられてしまった。
「こちらこそ今回はよろしくお願いします。」
頭を下げて答えると、蓉子さまの隣に逃げ込む。
「どう思う?」
目でチラッと柏木さんを示しながら小声でたずねられた。
「んー、優しそうで良い人だと思いますけど?」
同じように小声で返す。
「お姉さまも大丈夫だと思うのだけど。」
心配そうな言葉にやっと意味を理解した。
男嫌いの紅薔薇さま。
あの人なら、そう悪くはないと思うのだけど・・・。
その後、お茶を飲みながら自己紹介をすると一同体育館へと向かう。
中へ入ると、紅薔薇さまは一人立っていた。
「はじめまして、小笠原祥子です。」
「・・・はじめまして、柏木優です。」
何故か柏木さんは少し変な顔をした。
今まで居なかった人が入った初めての練習も、セリフ、ダンスとも完璧だった柏木さんのおかげもあってか滞りなく終わった。
何か起きたのは、それから数日後。
文化祭の前日、最後の練習日だった。
前の数回と同じように行われていた練習の合間の休憩時間。
「外の空気を吸ってくるわ。」と言う紅薔薇さまに「僕も行こうかな。」そう言って柏木さんもついて行く。
私たちは、紅薔薇さまのための良い機会だと思って、特に止めもしなかった。
なのだけど、休憩時間が過ぎても2人は戻ってこなかった。
「どうしたんだろう。祥子は時間を守るタイプなのに。」
黄薔薇さまの言葉に誰も続かない。
ただ奇妙な沈黙が続いた。
「・・・探しましょう。もしかしたら紅薔薇さまの体調が急に悪くなってしまわれたのかも。」
沈黙に耐えられず声を上げた。
「・・・そうね。」
白薔薇さまが頷くとてきぱきと指示を出し始める。
2人一組になって振り分けられた場所を探し30分後にここに集合と決めると、各班は動き出した。
「祐巳ちゃん。」
シンデレラのドレスのまま走り出そうとしている私の後ろから白薔薇さまの声。
「ありがとう。」
振り向いたときには既には自分の担当場所へと走り出していた。
私も自分の先を行く蓉子さまを追って走り出す。
「きっと助かった。ってことよ。」
小走りのまま、先の言葉を蓉子さまに伝えた。
「さっき、妙な間があったでしょ。いくら普段頼りになったところで、私たちはたかが女子高生なのよ。」
「・・・はい。」
『いろんなこと』が浮かぶ頭を軽く振って、出来る限りに急いだ。
―――やめて、離して!―――
どこかで聞いたことがある声を聞いたのは、「見た。」と言う人の話で向かったマリア像の方へ向かう最中。
紅薔薇さまは当然目立つし、柏木さんだって今は王子様の格好をしている。
多くはなかったけど、見た人は居た。
私たちが辿り着いたときには、柏木さんが黄薔薇様たちに囲まれていた。
後ろから江利子さま達のグループも見える。
「祐巳ちゃん、守衛さん呼んできて。」
黄薔薇さまのいった言葉に紅薔薇さまが少しだけ体を振るわせた。
「・・・行けません、そうするときっと紅薔薇さまが困るから。」
一度私に集まった視線が紅薔薇さまに集まる。
「・・・良くわかったわね。」
俯いていて表情は見えない。
「はい、なんとなく。」
何故かは自分でもわからない。
でも、体を震わせた姿を見たらそう思ったのだ。
「騒がせてごめんなさい。彼、柏木さん、いえ、優さんは私の従姉弟なの。そして」
私達と柏木さんの間に立ち頭を下げると、やはり俯いたまま小さい声で話し始める。
「婚約者なの。それで、ちょっと話がこじれてしまって。」
私たちは、あまりの展開にあっけにとられていた。
その中で柏木さんは、紅薔薇さまに歩み寄る。
「そうなんだ、僕たちはお互いに愛し合っているんです。今回のことは本当にすまないと思っています。」
話しながら柏木さんは紅薔薇さまの背中に手をまわし、そっと顎に空いている手を当てる。
それはまるで愛し合う2人がキスをするかのようで・・・。
―――パシィン―――
「いい加減になさって!」
走り去る紅薔薇さま。
残されたのは、頬を押さえる柏木さんと状況の掴めない私たち、そして震えていた声。
「はっ。」
とりあえず、今の状況だけ理解すると紅薔薇さまの後を追って走り出す。
前に同じように走り出そうとする柏木さん。
「駄目なんです。柏木さんじゃ。」
根拠は無いけど、柏木さんを紅薔薇さまの元に行かせたくなかった。
走ってる勢いそのままに体当たりをすると、バランスを崩したままに柏木さんは転んだ。
私は、小さくなっていく紅薔薇さまを追いかけた。
福沢祐巳が小さくなる頃、柏木優は起き上がったのだが水野蓉子がその肩を掴んだ。
「後輩が失礼しました。ところで、その衣装に銀杏の汁がついてしまったようのなですが、明日の舞台で支障があっては困りますので、急いで染み抜きをしたいので薔薇の館までいらしてください。」
笑顔でそう言った。
紅薔薇さまは、講堂の斜め脇にある目立たない温室の中に居た。
中に入ろうとすると
「誰?」
「・・・祐巳です。」
追っては来たものの何を言えばいいのかわからない。
それが今の正直な気持ちだった。
「・・・そう。」
入っていいものだろうか?
私が悩んでいると
「良いわよ、入っても。」
腰掛けている横を少し空けて人一人分のスペースを作った。
そこに座れと言う意味だろう。
そこに腰を落とした。
「・・・」
「・・・」
ただ沈黙だった。
何を言えばいいんだろう。
ねぇ、蓉子さま。
「・・・」
「泣いて良いと思います。」
「・・・」
返事は無い。
「泣いても良いとおもいます。
私たちはたかが女子高校生なんですから。」
私はそっと紅薔薇さまの背中に手を回した。
そしてゆっくりとさすった。
紅薔薇さまは私のドレスを引っ張って、胸に顔を押付けて泣き出した。
私はゆっくりと背中をさすった。
それしか出来ることは無かった。
「彼は私のことが好きじゃないの。」
しばらく泣いた後、ポツリポツリと話し始めた。
「なんて言ったと思う?結婚はしても良い。君は君の好きな人の子を生めばいい。君の子供なら、僕は愛せると思うよ。ですって。なのに、ぬけぬけと、私たちは愛し合ってるですって。私はいったい何なの。」
まるで子供のように泣く紅薔薇さま。
(きっと、柏木さんのことが好きだったんだ。)
思いながらも口には出さない。
それは、紅薔薇さまの最後のプライドだと思うから。
日も落ちきった頃私たちは薔薇の館に戻った。
既にみんな帰ったことを蓉子さまのメモで知る。
きっと、紅薔薇さまのことを気遣ってのことだろう。
明けて文化祭
結果から言うと、劇はそれなりの成功だった。
福沢祐巳がセリフを間違えた以外は。
ぱちぱちと火がはぜる。
私は少し離れた土手のところに腰をかけて、立ち上る炎を見ていた。
「終わっちゃったな。」
2週間頑張った。
・・・・・・なのにセリフを間違えてしまった。
炎を周囲でたくさんの生徒がおしゃべりをしている。
ここからでは、誰が誰だか判別できない。
もう、蓉子さまの妹になるなんて希望を持つことも無く、私もあの一員となるんだ。
きっと、それが相応しい。
泣きたかった。
自分を責めたかった。
「探したわよ。」
声とともに肩をたたかれ、後ろを振り向けば紅薔薇さま。
きっと不合格を言い渡しに来たんだ。
出そうになる涙を袖でぬぐう。
「結果はどうなんでしょう?」
これ以上、姿を見てると泣いてしまいそうだ。
「・・・結果なら、蓉子に伝えてあるわ。本人から聞きなさい。」
「わかりました。」
「ねぇ、一ついい?」
「はい、なんでしょう?」
立ち上がると、炎を背にして対面した。
これなら、泣いている顔を見られない。
「昨日はありがとう。大変だったでしょう、泣いている人の傍に立っているのは。」
「いえ、別に。」
そんなことは思わなかった。
だって
「だって、蓉子さまのお姉さまですもの。必ず立ち直るって思ってましたから。」
「・・・そう、ありがとう。いっていいわよ。」
「あ、はい、失礼します。」
蓉子さまの所に行こうとして、その場所を聞いていないことに気付いた。
「さぁ?でも、「待ってる。」って言ってたわよ。」
礼を言うと、その場所に向かった。
思ったとおりの場所にその人は居た。
「待っていたわ。」
蓉子さまはふふっと笑った。
ちょっとだけ希望がわく。
もしかしたら。
「それで、あの?」
「?」
私の問いに、訳が解らないという顔をする蓉子さま。
恐る恐る言葉を続ける。
「紅薔薇さまに認められたらスールになれるって・・・。」
私の言葉を聞くや否や、蓉子さまは笑い出した。
「?」
今度は私の方が訳がわからない。
「あれはね、嘘なのよ。」
「嘘?」
「そう。」
蓉子さまは私の方に歩み寄ってくる。
「この2週間祐巳ちゃんは頑張っていたわ。志摩子ちゃんや由乃ちゃんにだって、劣らないわ。それは私も、お姉さまも認める。」
「でも、私今日、・・・」
「結果じゃないのよ。それとも、私達の言ってることを疑うの?」
「い、いえ。」
蓉子さまと目が合った。
「そして、水野蓉子は、福沢祐巳を妹にしたい。
福沢祐巳は水野蓉子を姉にしたい。違う?」
まるで、いつかの様だ。
なぜか、蓉子さまの目に立つととても素直になれる自分がいる。
「いえ、そのとおりです。」
蓉子さまは首からロザリオをはずした。
「受け取ってくれるわね?」
かけ易いように輪にしたロザリオ
なんて言えばいいのだろう。
秋の風が吹いた。
私は口を開いた。
「―――。」
時は遡る
小笠原祥子は福沢祐巳が去った後、そこに座って炎を見ていた。
今日の劇のダンスシーンで、何度も優さんの足が踏まれていた。
ヒールの靴はさぞ痛かったことだろう。
「くすくす。」
つい笑いがこぼれる。
「だって、蓉子さまのお姉さまですもの。」
歌いだしたい気分だった。
妹がすばらしい人と出会ったことを祝福して。
風が吹いた。
春
「会いに来てね。」
「はい。」
私は、館の中へと向かう蓉子さまを見送った。
願いと今をつなげたくて、
「―――。」
それは春風が運んでいった。
そして、秋
「受け取ってくれるわね?」
風がどこかから言葉を運んできた。
「はい。」
月の下
薔薇の館が見守る前で
2人は姉妹になった。
言い訳にもなりませんが、風邪が治りそうです。で、調子に乗りすぎてしまいました。長すぎです。これでも、結構削ったのですが。で、今回なのですが、まとめきれてるんでしょうか?でも、以前書いたとおりにします。えっと、『黄薔薇革命変』行って良いでしょうか?初めて小説なんて書く人たちなのでいつだって心配性です。平伏(オキ)
書くのだけが仕事と割り切っているのですが、今回始めてプロットに口出ししました。長すぎだよ。ここに書いた最初の話の伏線、生かしきれたかな?(ハル)
読んでくれてありがとうございます。
※この記事は削除されました。
※この記事は削除されました。
ごきげんよう
こちらには初登校(違 初投稿になります。
つい最近まで違うHNでした十六夜博師でございます。
注意:かなりダ〜〜〜ク気味です。ものすごく偏ってますゴメンナサイ。
それから、「大きな扉 小さな鍵」ネタです。ネタバレはしていないと思うのですが、読んでいなければほとんどわからない作品になってると思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
女は嫌いだ。
自分は絶対安全な場所を確保しておいて、些細な歪みを重箱の隅をつつくようにして探り、わずかな隙をついて淵に突き落とす。
致命的な傷を見つけようものなら、なおさら寄って集ってそこに取り付いて腐らせ痛めつける。
彼女はそれで自分を殺し、仮面を身につけ、すくみ怯えながら、それでも懸命に生き続けている。
僕は女でない。彼女の側にずっといることはできない。だから彼女を守りきれない。
男はもっと嫌いだ。
力と脅しでねじ伏せ、痛めつけ、破壊し、蹂躙し、不要となればあっさり切り捨てる。
危険きわまりないことを弱い者に押しつけ、悲しむふりをしながらのうのうと生き続ける。
彼女の母親はそれで死の淵に立たされ、最も大切なものをいくつも失った。それでも健気に生き続ける。
僕は男だ。だから彼女の母の苦しみも悲しみも本当の意味ではわかっていないのだろう。その上、何をどうしようと代わることもできない。
だから彼女を守りきれない。
例外はいる。思うよりも多くいるかもしれない。それでも滅多にいない。
だから、そういうものは限りなく愛おしい。
僕には多くのものが与えられた。
それでも彼女を守りきれない。
だから、
僕は、すべてを、彼女を守るために。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
スミマセンタイトルにノイズが入った模様です(何
「大きな扉 小さな鍵」ネタバレ品
「失礼します」
声とともに教室の扉が開いて、そこに瞳子ちゃんが固まっていた。
お話が、というのはもちろん祐巳に関わることだろうけれど、らしくもなく凄い顔をしている。よほど、苦情があると見えて、自慢の髪が乱れているのも気にしない、いえ気づいていないらしい。
この、何を考えているかわからない子がぶつかってくるというのなら、勝手に拗ねているよりは、よほど、いい。とはいえ、これだけ正面から感情を表している瞳子ちゃん、というのはめったに見られない。
帰り支度をして、教室を出る。話す場所を探しあぐねて中庭へ出た。肩を怒らせて、自分以外のすべてを撥ねつけているような姿がなんだか小さく見える。一皮むいた彼女は、こんなに幼かったろうか。祐巳の心配のいらいらをぶつけるには、ちょっと虚勢が透けて見える相手だ。
「祐巳さまに、しゃべったんですか?」
はあ? 何を言っているの。
なにか祐巳に話せないようなことがあったろうか。
とにかく、また祐巳となにかあったということだけはわかるけど。
「何のこと?」
「祥子お姉さまは以前おっしゃってましたよね、祐巳さまの妹に関しては一切口を出さない、みたいなことを」
確かに。言った。瞳子ちゃんが聞いているところだったかどうか覚えていないけれど。姉といっても最後のところは見守るしかない。
ふーん。だんだんわかってきた。なにか、隠していたつもりなのね、瞳子ちゃん。私に苦情を言いに来るからには、家の方のことだろうけれど、心当たりはない。ささいなことで、すれちがっているのか。
私にぶつかりに来たのを幸い、聞き出してもいいだろう。それを祐巳に話すかどうかは聞いてから考えるとして。
「はっきりおっしゃい。尋常じゃない顔をして、私に何か苦情を言いに来たみたいだけれど」
なにごとか躊躇して、間があって。
意を決したように、瞳子ちゃんは言った。
「私の出生に関わる話です」
「出生の?」
その言葉を聞いて、優さんの質問を思い出したのだけれど、それでもわからない。
「それで、祐巳さまにはいつおっしゃったのですか?」
「いったい、瞳子ちゃんの出生に関わる何を、私が祐巳に言ったというの?」
我慢できない、というように、瞳子ちゃんが向かってきた。
「とぼけないでください。私が、松平の両親の子供ではないということに決まっているじゃないですか!」
あ、そういうことが、それで優さんが。しかし。え。
「瞳子ちゃん、……松平の小父さま小母さまの間に生まれた子供じゃなかったの?」
瞬間、パズルが合いはじめた。
彩子お祖母さまの亡くなった後、避暑地のパーティー、学園祭、家出、クリスマス、そして小公女。
「まさか」
「残念ながら初耳よ」
「嘘です」
鍵が、カチリと、合った。
「あはははははは」
わかった。思わず、空を仰いで笑った。
優さんのおせっかい。また、自分ひとりで全部なんとかしようとして。
それなら、鍵だけは開けてしまおう。
扉を開けるのは、祐巳と瞳子ちゃん自身。でも、鍵は、わかった。
「まったく、見くびられたものね」
「申し訳ありません」
蒼白になった瞳子ちゃんが頭を下げる。でもね、祐巳にそうやって頭を下げられるかしら?
そう思った瞬間、自制が切れて、ふっ、と怒りが口をついて出た。
「私じゃないわ、祐巳のことよ」
「祐巳と何があったかは知らないけれど、祐巳はきっと、瞳子ちゃんの家庭の事情を知らないと思うわよ。たとえ偶然知ってしまったとしても、そんなことで瞳子ちゃんへの評価を変える子じゃない。それは、姉である私が一番知っているわ」
そして、祐巳に頼っていた瞳子ちゃんも、知っていると思っていた。
なにをやっているの、あなたは。
さらに、言いつのろうとして、ブレーキがかかった。
今ここに祐巳はいない。言うだけ言ってしまって、崩れてしまった瞳子ちゃんを包む祐巳は、今ここにはいない。
さて、どうしたものか、と、目を上げたら。
葉を落としてしまった桜の樹の向こうに、乃梨子ちゃんが、いた。
そうね……この一年、乃梨子ちゃんとは、意外にいいコンビだったわ。
志摩子がロザリオを渡しそびれて悶々としていたとき。可南子ちゃんが祐巳に妙な理想を押しつけようとしていたとき。そして、今。
私が尻を叩いて、乃梨子ちゃんが骨を拾う。最後に祐巳が包み込む。祐巳は儲け役よね。
働き者ってだけじゃない。ほんとにこの子はお買い得だった。
ひょっとすると、祐巳と同じように、乃梨子ちゃんも誰の心も開いてしまうような資質を持っているのかもしれない。
演技なんてできないけれど、仮面のかぶり方なら瞳子ちゃんより年期がはいっているわよ。
心配そうに見ている乃梨子ちゃんに目で合図をして、ためらいなく最後の仕上げをする。
「それなのに、あなたのことばかり考えている祐巳が哀れになってきたわ」
がっくり、という感じで、瞳子ちゃんが膝をついた。
思わずにらみつけてくる乃梨子ちゃんにうなずいて、手招きをする。
はっ、として厳しい目をして、でもうなずく乃梨子ちゃん。
鍵は、開けた。
あとは、私の出る幕ではない。
姉、と、親友、に任せようじゃない。この二人になら任せられる。
瞳子ちゃんが自分で扉を開くまで。
校舎に入った。
後ろから瞳子ちゃんの声が追いかけてきた。
「乃梨子! 乃梨子! 乃梨子! 乃梨子!」
ふう。優さんにお灸を据えなくては。
ほんとに、いつだって自分だけでやろうとするんだから。
ずっと思っていたんだ、ズルイって
自分の妹でもないのにどうして呼び捨てにするのって
瞳子ちゃんは「乃梨子さん」って呼んでるのにって
それじゃまるで
「乃梨子」
「志摩子さん」
の関係みたいじゃないのって
でもさっき聞いてしまったんだ
瞳子ちゃんが呼んでた
「乃梨子」って
「乃梨子」って
「乃梨子」って
「乃梨子」って
そっちの方が何故だかもっと胸に堪えた……
色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
【No:1893】→【No:1895】→【No:1897】→【No:1907】→【No:1908】→【No:1911】→【No:1913】→【No:これ】→【No:1926】→【No:1933】→【No:1941】→【No:1943】→【No:1945】
「私もね、あなたと同じようにこことは別の世界から来たのよ」
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
数秒の時を経て、ようやく祥子さまの言葉が頭の中に染み渡る。別の世界からやって来た、と祐巳の耳には聞こえた。一緒に聞いていた瞳子ちゃんも驚いた顔をしているって事は、きっと聞き間違いなどではないのだろう。
「さ、祥子お姉さま? 何をおっしゃって……」
祐巳の隣にいる瞳子ちゃんが恐る恐る尋ねようとしたのだが、祥子さまから「少しの間黙っていて」という視線を向けられて言葉が尻すぼみになり、そのまま口を噤んでしまう。
そうやって瞳子ちゃんを黙らせた所で、祥子さまは祐巳に話しかけてきた。
「あなたの持っているロザリオを、見せてもらっても良いかしら?」
呆気に取られた。なぜ祥子さまがロザリオの事を知っている? と。だって、知っているはずがない。志摩子さんは別として、瞳子ちゃん以外に話した覚えはないし、瞳子ちゃんも誰彼構わず喋ったりはしていないだろう。
(そもそも、私が他の世界からやってきた事をなぜ祥子さまが知っている?)
「見せるのは嫌?」
「え? いえ」
黙って色々と考えていると、見せるのが嫌なのだと誤解させてしまったらしい。そうではないのだけれど、確かに人に見せるのは躊躇ってしまう。なぜなら祐巳の持つロザリオは、祐巳の血と、罪と罰と、戦いの証が刻み込まれた、この世でただ一つのお姉さまの形見だからだ。
どうしようかと逡巡して、それでもこの人も同じお姉さまの妹(スール)なのだと思い出し、決心してゆっくりとそれを胸元から取り出す。しかし、首から外そうとした所で「そのままで良いわ」と止められた。
祥子さまは、祐巳の首にかかっているロザリオを見つめながら嬉しそうに口を開いた。
「やはりそうね。お姉さまにいただいた私のロザリオと同じ物だわ」
「あの?」
「ごめんなさい。あなたのお姉さまを私が取ってしまったのね」
長い睫毛を伏せて、祥子さまは呟くように言った。
「こちらに来て、もう十四年になるのね」
*
私が生まれ育った第四世界は、魔法が極端に発達した世界だ。この第六世界に来る前の私は高校三年生で、今と同じリリアン女学園に通っていた。
二年生の秋口に、私はとある一年生と出会った。制服のタイが曲がっていたのが気になって呼び止めたのだけれど、その一年生こそ後に私の妹(スール)となる福沢祐巳だった。祐巳の魔法の腕前は落ちこぼれと言われても仕方のないものだったのだけれど、明るい性格とくるくると変わる表情が微笑ましく皆の人気者だった。そんな祐巳と廊下などで顔を合わせる度に言葉を交し合っていると、いつの間にか私たちは随分と親しくなっていた。
姉(グラン・スール)も妹(プティ・スール)もいない私にとって、祐巳は特別な存在だ。祐巳と過ごす一時は、間違いなく幸せな時間だと言える。しかし同時に、もしも祐巳が誰かと姉妹(スール)になれば、こうして過ごす事はできなくなるのではないか、という不安もあった。
それを解決するために、その「誰か」に私がなれば良いのではないか、と考えた私は、祐巳に姉妹(スール)の申し込みをする事にしたのだ。
当初は頑なに「魔法は下手で頭もそんなに良くないですし、私なんかでは祥子さまの妹(スール)に相応しくありません」と私の申し込みを断り続ける頑固な祐巳に対して、「相応しいとか相応しくないとか、そういうのは関係ないの。魔法が下手だろうと気にしないわ。そういうのも全部知っている上で、あなたを妹(スール)にしたいと私は思ったのよ」と伝え続けて何とか説き伏せる事に成功する。それが、祐巳と出会って一月ほど過ぎた頃の事だ。
祐巳と姉妹(スール)となったその日から、それまで以上に幸せな日々が続いた。どんな困難な事に遭遇しても、祐巳となら乗り越えられると思っていた。
季節は巡り、梅雨の季節がやってきた。私たちが姉妹(スール)になって初めて迎えた雨の降り続く季節。以前より研究中だった消去魔法が暴走して、私は祐巳を失った。
「少しはお休みになられたらどうですか?」
「何を言っているの、発表祭までもう日にちがないのよ。発動式が完成してもそれで終りじゃないの。むしろ、そこからが始まりと言っても良いわ。このままでは何もかも消してしまうだけの魔法になってしまうでしょう? そうさせないためにも制御式はミスなく完璧に組み立てなければならないし、その後には発動式と組み合わせる作業も残っているのよ」
「ですが」
「……これが完成したら、ちゃんと休むわ。だからほら、早く手伝いなさい」
ここ最近の無理が祟ってか、体調の悪かった私を祐巳は心配していた。それなのに、発表祭(こちらの世界での学園祭と同じようなもの)まであまり時間がないから、と強引に研究を進めた結果、たった一箇所の制御式のミスによって暴走した消去魔法により私を庇った祐巳が消されてしまったのだ。消去魔法という名前の通りに跡形もなく、そこに存在していた欠片さえ残さずに、この世界から祐巳は失われてしまった。
それからの私は、自室に篭って悲嘆に泣き暮れた。
なぜ自分が生きているのか。なぜあの時に、何度も心配してくれた祐巳の言う事を聞かなかったのか。自分が死ぬべきだったのに、と何度も自分を責めた。でも、自殺だけはできない。だって、祐巳が守ってくれた命なのだ。それを自分の手で終わらせるなんて、そんな事は絶対にできない。
部屋から一歩も出ずに何日も泣いて過ごしていた私はいつの間にか気を失い、次に目を覚ました時にはこの世界にいた。
幼い頃の私の姿となって。
*
「目が覚めたら、私は子供になっていたのよ」
何だか複雑な気分だった。違う世界の出来事とはいえ、自分が死んだって聞かされるのは。
「おかしくなりそうだったわ。まさか、『私は違う世界からやってきた高校三年生の祥子です』なんて誰にも言えないし、相談もできないのだもの。でも、その日のうちに私は、自分は神様だって言う小さな女の子に会ったの。小さな、といっても私と同じくらいの年の子だったのだけれど。それはともかく、いきなり神様とか言われても普通は信じないわよね。当然私も信じなかった。いったい、どこからどうやって屋敷に忍び込んできたのかと思ったわ」
また神様か。都合の良い話だ。
祐巳と祥子さまに志摩子さん。リリアン女学園なんて狭い場所に、異世界からの来訪者が三人も存在している。まるで、何か目的があってこの場所に集められたみたいだ。いや、おそらくそうなのだろう。桂さんも可南子ちゃんも何か隠しているようだったし、やはり神様なんてあまり信用しない方が良いのかもしれない。
「でも、目の前で空間転移なんて見せられては信じるしかなかったわ」
確かに。ついでに言えば、そんなにポンポンと神様の秘術を披露してくれそうなのは、祐巳の知っている神様では一人しかいない。でも、そうそう都合よく現れるわけがないか。神様って一口に言ってもたくさん存在してそうだし、と思いかけていた所に祥子さまのこの一言。
「その子は、生きていればまた祐巳に会える、と言ったの」
どうやらその神様は祐巳の事を知ってるらしい。祐巳を知っていて神様の秘術をポンポンと見せてくれる、となるともう間違いない。
「すみません。その子はひょっとして、桂とか名乗りませんでした?」
「知っているの?」
見事に正解。どこにでも出没する神様だなぁ、余程暇なのか? と思うついでに、神様でもやっぱり子供の時代はあるんだ、とも思った。
「まあ、私にも色々とありまして。ひょっとして、私がロザリオを持っている事も桂さんに?」
「ええ、そうよ。あの方、ここに通っているのね。廊下でばったり会って凄く驚いたわ」
それは驚くだろう。その辺りをほっつき歩いてる神様を発見したら。
(それにしても、『あの方』ねぇ……)
仮にも神様なんだからそう呼ばれてもおかしくはないのだろうけれど、似合わない事この上ない。などと神様に向かってとても失礼な事を考えていると、祥子さまが祐巳を見て目を細めた。
「十四年待ったわ」
噛み締めるように祥子さまが言った。その気持ちは分かる。
「やっとあなたに会えた」
生きていれば祐巳に会える。祥子さまはそれだけを希望に今まで生きてきたのだ。でも――。
「タイを直した日もそうだったのよ。目を疑ったわ。まるで同じ。祐巳が生き返ったようで」
でも違う。ここにいる祐巳は違うのだ。
「あなたが由乃ちゃんに連れられてここに来た時もそうだったのよ。何度私の事を伝えようと思った事か」
あ! ……そうか。あの時に祥子さまが言った、『ここには私が妹(スール)にしたいと思える相手がいない』とはそういう意味だったのか。祥子さまには既に妹(スール)がいるのだ。自分の世界で失ってしまった、福沢祐巳という妹(スール)が。
「違いますよ。祥子さま」
「え?」
祐巳の言葉に、祥子さまが細めていた目を開く。
「私はあなたの知っている、あなたの福沢祐巳ではありません」
クスッ、と思わずといった感じに祥子さまが笑った。
「ええ、分かっているわ」
これには祐巳の方が驚いた。てっきり身代わりにでもされているものだと思っていたのだけれども。
「あなたは私の知っている祐巳ではない。それはよく分かっているわ。でもね、それでもやはりあなたは祐巳本人なのよ」
ああ、そういう事なのか、と思った。
祥子さまはちゃんと分かっていた。祐巳を身代わりなどにはしていなかった。だって、祥子さまは申し込まなかった。祐巳に対して、姉妹(スール)の申し込みをしなかったのだ。
祥子さまは、祐巳にだけは何があっても絶対に申し込まないだろう。ここにいる祐巳が、違う世界の祐巳だからこそ決して申し込まない。なぜなら祥子さまが心の底から求めているのは、彼女の世界の福沢祐巳ただ一人だからだ。
「そうですね。一応ですが、本人になりますね」
けれど、そのために祥子さまは瞳子ちゃんを深く傷付けてしまった。
「ですから、この際言わせていただきますが、それで瞳子ちゃんを傷付けるのは間違っていると思います」
「え? ゆっ、祐巳さま?」
背後から、急に自分の名前が出てきた事に戸惑っている瞳子ちゃんの声が聞こえてくる。
祐巳はそれには構わず、祥子さまに向かって続けた。
「あなたには、やらなければならない事がありますよね」
「ええ」
祥子さまが頷いて、祐巳の隣にいる瞳子ちゃんの方へと視線を向けた。
「あなたを……たくさん傷付けてしまったわね」
そう声をかけられた瞳子ちゃんは、祥子さまを無言で睨んでいた。
「ごめんなさい」
祥子さまが頭を下げる。瞳子ちゃんは、そんな祥子さまの後頭部を冷めた視線で見つめていた。
祥子さまは頭を下げたままだ。瞳子ちゃんが許してくれるまで、その頭を上げるような事はしないだろう。
下げられた祥子さまの頭を見下ろしたまま、瞳子ちゃんは強く拳を握った。冷めた眼差しを変える事なく、ゆっくりと口を開く。
「許しません……」
だろうね、と祐巳は思った。
許せるはずがないだろう。瞳子ちゃんにしてみれば、祥子さまの事情なんて関係ない。姉妹(スール)の申し込みをしておきながら、そんな事情で自分を蔑ろにしていた祥子さまを許せるはずがない。
けれど、
「頭を下げただけでは許しません。あなたの姉妹(スール)の申し出は断らせていただきます」
瞳子ちゃんは優しくて強いから。
「でも……嫌いにはなりません……なれません。あなたの事、ずっと見てきたから。好きだから、嫌いになんてなれません」
「ありがとう」
祥子さまが顔を上げた。おそらく、初めて瞳子ちゃんの事をまともに見たのではないだろうか。
「祥子お姉さまっ」
堪え切れなくなった瞳子ちゃんが祥子さまに抱き付いた。
「ごめんなさい瞳子ちゃん」
見ていて少しばかり胸が痛むけれど、これは仕方がないだろう。それに、このまま二人が上手くいってくれた方が祐巳にとっては都合が良い。なので、抱き合う二人を見つめながら提案してみる。
「ねえ瞳子ちゃん。祥子さまの事情も分かった事だし、姉妹(スール)になっても問題ないんじゃないの?」
こちらを振り向いた瞳子ちゃんから、涙目なのにきつい眼差しで睨まれた。
「私は必ず、あんな馬鹿な事を言う人の妹(スール)になってみせます」
指差すのはやめて欲しい。良い思い出がないから。あと、馬鹿は余計だ。
「私の世界でも祐巳は手強かったわよ。頑張りなさい」
「はい!」
なぜそうなる? こいつらの頭の中はどうなっているんだ? と思った。
今の祥子さまならきっと、瞳子ちゃんに目を向けてくれるだろう。事情も分かった事だし、好きなら無理せずに姉妹(スール)になれば良いのに、と内心で頭を抱えている祐巳の前では、祥子さまが瞳子ちゃんの頭を撫でていた。くすぐったそうに目を細める瞳子ちゃんを見て、少しだけ痛みが強くなってくる。
「祐巳さん」
「何です?」
祥子さまに呼びかけられて、そちらに意識を向ける。
「あなたに会えて、本当に良かったわ」
「私は別に何もしてませんが、祥子さまがそう思うのなら良かったです」
でも、その言葉はまだ早くありませんか? だって、それだけではないですよね? まったく、何で私が、と心の中で盛大に溜息を吐きながら祐巳は言葉を付け足した。
「でも、それだけですか? 他に、何か言いたい事があるんじゃないですか?」
瞳子ちゃんの頭を撫でている祥子さまの手がピタリと止まった。
「……困ったわ」
「は?」
「あなたは私の世界の祐巳よりも、ずっと鋭いのね」
「……」
あんたの世界の私はそんなに鈍かったのか? そう思ったけれど声に出すわけにもいかず、祐巳が何も言えずにいると祥子さまが瞼を閉じた。
「欲を言えば、謝りたかったの。あなたにそんな記憶はないでしょうけれども、それでも、あなたの命を奪ったのは私だから」
後悔はしている。当たり前だ。祥子さまは十四年経っても自分を許してはいない。ならば、祐巳にできる事は一つだ。それだけで祥子さまは救われる。たとえすぐに救われなくても、その切欠くらいにはなるだろう。
「謝る必要なんてないですよ」
「え?」
祥子さまが、閉じていた瞼を開けた。
「あなたの世界の私はあなたを庇った。あなたが無事なら、それだけで満足だと思います」
きっと、そうだと思う。祐巳のお姉さまであった蓉子さまと同じだ。残された人に悲しみを残してしまうけれど、大切な人を守れたのだから彼女たちは満足だったと思う。一番大切な人を、その手で、その身で守る事ができたのだから。
「そうかしら……?」
「そうです。一応ですが、本人が言うんだから間違いないです」
祥子さまは寂しそうに笑った後に、浮かべている表情を変えた。
「あなたは、どこの世界のあなたでも優しいのね」
初めて祥子さまの心からの笑顔を見た気がした。驚くほど綺麗で、とても素敵な笑顔だった。見ている者を包み込んでくれるようなその笑顔は確かに、妹(スール)を持っていたお姉さまの笑顔だった。
ところで、先ほどから黙ったままの瞳子ちゃん。いったいどうしたのかと思って見てみると、祥子さまの胸元でハンカチを使って涙を拭っていた。
そのハンカチって私の血を拭いたハンカチだよね? 汚れるよ、と思うと同時に、いくら何でも涙腺緩過ぎない? と呆れた。
それから程なく、由乃さんと令さまが保健の先生を連れてきたのだが、どこからどう見ても立派な健康体である祐巳が自分は大丈夫であると告げると、「あまり無茶しちゃ駄目よ」と言い残して保健室へ戻っていった。というわけで、折角来ていただいたのに無駄骨となった先生に対して皆で丁寧に頭を下げての見送りが終わると、次に見送られるのは祐巳となる。もう少しお話しましょう、と皆からは誘われたのだけれど、祐巳にはこの後ちょっとした用事があるので――というか、先ほどできたので断ったのだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
差し出された鞄を乃梨子ちゃんから受け取る。異常はないとはいえ目を覚ましてそれほど時間が経っていないから、と先生を見送るまで乃梨子ちゃんが持っていてくれたのだ。さすがは乃梨子ちゃん、気が利く一年生の序列第一位。もっとも一年生の知り合いは、可南子ちゃんと瞳子ちゃんを含めて三人しかいないのだけれど。
別れを告げる前にふと気になって瞳子ちゃんたちにこの後どうするのか尋ねてみると、まだ山百合会の仕事が残っているらしい。当然、祐巳が気を失うなどして余計な時間を取らせてしまった事が原因だ。何とも悪い事をしてしまった、と申し訳なく思った。
それもこれも、薔薇の館に祐巳を連れてきた由乃さんが悪い。だから、恨むなら由乃さんを恨んでね。と酷い冗談を浮かべてしまって心の中で由乃さんに謝る。どうも自分の頭の中身は、半分ほど冗談でできているらしい。自分で思い付いて、その事に多少の衝撃を受けながら集まっている皆に言う。
「では私も、これで失礼します」
「本当にもう大丈夫なの? 良ければ家まで付き添うわよ」
答えたのは祥子さまだ。何だか過保護に思えるのは、あちらの世界で祐巳を失ったからだろうか。
「先生にも言いましたが、本当に大丈夫です。ちゃんと一人で帰れますから」
「あんまり心配し過ぎても、祐巳ちゃんには却って迷惑なんじゃない? それに、私たちも仕事があるんだし」
祥子さまの代わりに令さまが答えた。どうやら、これ以上迷惑をかけたくない、という祐巳の気持ちを汲んでくれたらしい。さすがだ、格好良い。
でも、由乃さんが納得しなかった。ムッとした表情で令さまの言葉に反応した。
「ちょっと令ちゃん。それは冷たいんじゃない? せめて正門まで送るとか」
心配してくれるのはありがたいのだが、正門なんて人の目のある所で山百合会の幹部の人達に見送られるとか、そんな目立つ事はしたくない。
「でも、仕事があるのは本当の事よ」
「『でも』じゃなーい!」
由乃さんが熱い。けれど慣れたもので、令さまはそんな由乃さんに冷静に返す。
「由乃。祐巳ちゃんの気持ちも考えてあげて」
「何よ、令ちゃんの馬鹿」
「……」
令さまじゃ駄目っぽい。こうなったら仕方がない。これ以上、由乃さんが暴走しないうちに止めておこう。
「由乃さん、仕事があるのなら戻らないと。ほら、もう私は大丈夫だから。それに私のせいで遅れさせてしまったんだし、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないよ」
「祐巳さんがそう言うのなら仕方がないわね。今回は引き下がっておくわ」
あっさりと引き下がる由乃さんを見て、令さまが非常に微妙な表情を浮かべた。
「由乃ぉ……」
うわっ、情けない顔。ファンの人達が見たらびっくりしますよ、と心の中で苦笑。
ところで由乃さん。『今回は』って、次もあるような言い方はしないで欲しい。気を失うような事がそうそうあって堪るものか。
(さて、じゃあとっとと行くか……っと、その前に)
回れ右して、瞳子ちゃんに顔を合わせる。
「そういう事で私は帰るね」
「分かりました」
瞳子ちゃんが祐巳の荷物を持とうとする。いつからこんなに気が利くようになったのだろうか。乃梨子ちゃんに触発された?
「だから、見送りなんて必要ないってば」
「そうですか」
残念そうな瞳子ちゃん。倒れた原因も知っているし、もう大丈夫だと分かっているはずなのにまだ祐巳の事が心配なようだ。
「私は大丈夫だから。ね?」
「はい……」
しょんぼりしている瞳子ちゃんが可愛くて頭を撫でてあげようかと思ったのだけれど、嫌がって振り払われる場面が目に浮かんだのでやめておく。
「では、今日の所はこれで失礼します」
「本当に気を付けて帰るのよ? 寄り道なんかしちゃ駄目だからね」
どうも心配性な気のある由乃さんに苦笑しながら頷き返した後、祥子さまの方を向いた。
「また、そのうちにお話をしたいです」
「ええ、いつでも良いわ」
「はい。では、ごきげんよう」
皆に向かって頭を下げて、祐巳は祥子さまたちと別れた。
来る時に通ったレンガ道を戻っている途中、ふとおかしな事に気が付く。由乃さんたちは、なぜ祐巳が気を失うような事になったのか、それを全く尋ねようとしなかった。祐巳の事を知っている志摩子さんが尋ねようとしないのは分かる。乃梨子ちゃんも志摩子さんに聞いていたのかもしれない。瞳子ちゃんとは直接話した。でも令さまと由乃さん、祥子さまの三人は全く知らないはずだ。
(やっぱり、気を使われたのかな?)
他に思い浮かぶ理由もないし、そうとしか考えられない。となると、参った。優しい、と言えばそうなのだろうけれど。いや、嬉しくはあるのだけれど、由乃さんの態度が気になる。何ていうか、ひょっとして愛されちゃってたりする? 妙に優しくされているような気がするのだけれど。……いやいや、いくら何でもそれはないよね、と祐巳は頭を振った。
ここで良いだろう、と薔薇の館が完全に見えなくなってから数メートルほど進んだ所で祐巳は足を止めた。
何だか周囲が急に暗くなってきたので空を見上げてみると、灰色の雲が広がっていて今にも雨が降り出しそうだった。おいおい、傘なんて持ってきてないぞ、と焦ったが、いざとなれば校舎の中に戻れば済む事だ。それよりも、さっさと用事を済ませてしまおう。
どうせ、どこだろうと済ませる事のできる用事だ。雨など関係ないし、近くに誰かがいたとしても、それもまた関係のない事となる。ぶっちゃけると薔薇の館の中でだって、しかも皆の目前でも済ませる事が可能な用事だったのだが、そこは祐巳の気持ちの問題だ。自分の知っている人たちがピクリとも動かなくなる所なんて、祐巳は見たくなかった。
その点、この場所であれば周りにいるのは祐巳の知らない人たちばかりなので、全く気にしなくて済む。祐巳はすぅっと息を吸い込むと、用のあるその人の名を呼んだ。
「桂さんっ! ……って、いるみたいね」
さすがは神様。「桂さん」の「か」の字を口にする前に、既に世界の時間が止まっていた。今朝の可南子ちゃんと会った時と同じように、祐巳の周りにいた下校中の生徒たちが全く動かなくなっている。
この間みたいに世界情報をコピーして、そこに転移されたりはしないだろうとは思っていた。なぜなら、それだと周りにいる人たちの前から祐巳が突然消えた事になるからだ。神様だし、そんなヘマはしないだろう。やるとしたら時間を止めるくらいだろう、と思っていたのだが合っていたようだ。もっとも、この世界の時間を停止した上でコピーされた世界に転移させられている可能性もあるのだが。まあ、どちらにせよ時間を停止されている事に変わりはない。
予想が見事的中したので、ひょっとして自分は天才なのではないのだろうか、と思っていると「何か用?」と背後から声をかけられる。気が付けば、いつの間にか桂さんが祐巳の背後に立っていた。
こうも簡単に背後を取られるとは、と顔を顰めた後、身体を半回転させて桂さんを睨む。
「白々しい。祥子さまの事、何で黙っていたのよ」
何がおかしいのか、桂さんは笑っている。
「聞かれなかったもの」
「知らなかったんだから、聞く事なんてできるはずないじゃない」
「そうね」
「だいたい、祥子さまの話は本当なの? 魔力とか全然感じなかったんだけど」
第四世界は魔法が発達した世界だ。となれば、強い魔力を持っているはずなのだ。それなのに、祥子さまからは魔力が全く感じられなかった。
「ああ、やっぱり気付かなかったのね」
クスクスと笑う桂さん。
「彼女なら、祐巳さんの世界でもそう簡単に死んだりはしないわ」
「どういう事よ」
回りくどい言い方はやめて欲しい。考えるのは苦手なのだ。最初から答えを言え、答えを。
「説明してあげる」
さて、祐巳の聞いた難しくてわけの分からなかった桂さんの話を簡単に纏めると、この世界にある奇跡と呼ばれる現象の殆どのものを第四世界の人たちは起こす事ができるそうだ。そして、桂さんが言った祥子さまがそう簡単に死んだりしない理由というのは、普段から無意識のうちに自分の身体の周りに外敵・害悪から身を守る非常に高技術でデタラメに頑丈な超極薄の結界を張っているかららしい。これは祥子さまだけではなく、第四世界の住人全員に言える事なんだそうだ。
それから、祐巳が魔力を見抜けなかった理由はとても単純なもので、第四世界の人たちは魔力を使わないから。彼らの魔法と祐巳の世界の魔法は、全く異なるものなんだそうだ。
祐巳たちの世界で言う魔力とは、契約によって己の体内に取り込んだ、とある存在の事を指す。とある存在とは、竜巻や吹雪など様々な現象を生み出す者たちの事だ。魔法使いたちはそれらと契約を結ぶ事によって、その力を自分の意思で自由に扱う事ができる。
とはいえ所詮は人間なので、取り込める力には限度がある。人が体内に取り込める自然界の力なんて、高が知れているのだ。更に言うなら、それを取り込んだからといって誰でも魔法使いになれるわけではない。術者本人の才能や体力とか精神力とかその時の体調とか、様々な要素が複雑に絡み合ってくる。取り込んだとしても、全く魔法を使えない人もいる始末だ。
とりあえず、ここまでは祐巳も何とか理解したのだけれど、ここから先ははっきり言ってよく分からなかった。だって、魔法の原理自体が祐巳の世界のものとは全く違うものだったから。
聞いた事のない単語とか出てくるし、世界というシステムに刷り込まれている方程式を組み合わせて扱う、って何よ? 意味分かんない。……まあ良い。とにかく、それなら見抜けなかったのも頷ける。魔法は色々と複雑なのだ、という事にしておこう。
実は自分って馬鹿なんじゃないだろうか、と思った。
「でも、それならおかしいじゃない。そんな頑丈な結界を張ってるような祥子さまの世界の私が、何で消されるのよ?」
「祥子さまが研究中の魔法が何だったか、祐巳さんは覚えてる?」
「消去魔法……あっ!」
「そう。結界も消去されちゃったわけ。もっとも、普通ならそう簡単に消されたりはしないんだけど。きっと、祥子さまの世界の祐巳さんは弱かったのね」
どこの世界の自分も、やはり弱いらしい。いや、今の自分は強いのだけれど。
「そうかしら? 今の祐巳さんの状態では、そんなに強いとも思えないんだけど」
勝手に人の心を読まないでもらえないかな、と心の中で抗議してやる。
「私の神様としての役目は観察だからね。私が観察するものの中には人の思考も入ってる。つまり、祐巳さんの思考を観察するのも私の役目ってわけ」
だから、勝手に読まないでって言ってるのに。まったく、困った神様だ。
「っていうかさ、観察とか言いながら充分干渉してきてるじゃない」
「祐巳さんの事が好きだから、つい手助けしたくなるのよ」
どう答えろと? ついでに、それは喜んで良い事なのだろうか。だいたい、手助けなんてしてくれていただろうか。そんな覚えは全くないのだけれども。
「見えない所でしているのよ。それに、必要以上に干渉もしてないわ」
見えない所で手助けされても困る。見える所で手助けして欲しい。そうすれば素直に感謝の言葉を贈ってあげるから、次からはそうする事をお勧めする。
「そういえば、さっき観察って言ってたけど、向こうの世界もこっちの世界も桂さん一人で観察してるって事? 複数の世界をかけ持ちしているの?」
桂さん自身あっちへ行ったりこっちへ来たりしてるみたいなので、気になって尋ねてみた。
「そうよ。私の場合は四十四億九千七百七万、二千七百個の世界をかけ持ちしてるわ。ちなみに、可南子ちゃんは七億七千八百三十三万、五千二百六十二個ね」
「……いや、ごめん。今なんて言った?」
途方もない数字が聞こえた気がした。でも桂さんの事だ、きっと祐巳をびっくりさせようとしたのだろう。
「約四十五億個の世界をかけ持ちしてるって言ったのよ」
本気だったらしい。
「桂さん、大忙し?」
「ここで祐巳さんと話をしている私が、今現在あらゆる世界に存在している桂の中で最も神様に近い桂なの。一応、本体と呼んでも良いわね」
どういう事だろう? っていうか、いきなり何の話? 会話のキャッチボールができてないよ? と桂さんを見つめてみる。
「今現在、ここ以外の世界に存在している私は普通の人間なのよ」
益々分からない。
「あちこちの世界に存在する桂は端末で、その端末である桂に『降臨』と呼ばれる手段によって本体の私が降りるの。本体っていうのは神様の世界にいる私の事ね。祐巳さんに分かり易く簡単に言うと、憑依するのよ」
なるほど、自分という存在の事を説明してくれていたわけだ。
「って事は、今私の目の前にいる桂さんは、あなたに『降臨』されていない時は普通の人間って事?」
「そうよ」
「ふうん、何かややこしいね」
それにしても、確かに向こうの世界では「憑依」なんて当たり前の単語だけれど、『祐巳さんに分かり易く簡単に言うと』はとても大きなお世話だ。まるで私が馬鹿みたいに聞こえるじゃないか、と祐巳は憤慨した。
「ちなみに私たちが降臨する理由として一番多いのは、今みたいに任意の世界の誰かに干渉するためね。普段の私たちは神様の世界にいて、あちこちの世界に存在する端末から送られてくる膨大な量の情報を処理しているの」
「あれ? でも端末って、普段は普通の人間なんじゃなかった?」
さっき、確かにそう言っていた。それなのに、どうやって情報を集めたり送ったりしているのだろう。
「端末は、自分でも知らないうちにその世界の情報を集めて、それを私たち神様の下へ送るように創られているの。彼女たちは自分の事を神様の端末だと自覚していないし、その世界に存在しているだけで与えられている役目を果たせるから、特別な何かをしているわけでもないわ。学生であれば学校に行くし、会社に勤めていれば会社に行く。どこにでもいる普通の人間として生活しているの」
「何だかよく分からないけど、神様って大変なんだねぇ」
ついでに変だとも思うのだけれども。
「祐巳さんもそうなのに」
「へっ?」
それは知らなかった。いつの間に自分は神様になったのだろう。
「違うわ。神様の祐巳さんもいるって事よ」
「そうなんだ?」
何だ、そういう事か、と非常に残念に思った。というか、誤解させるような言い方をしないで欲しい。
「第五世界で生まれた祐巳さんが神様なわけないわ。そんな事すらいちいち説明されないと分からないだなんて、祐巳さんって馬鹿なの?」
やれやれ、と桂さんが肩を竦めて頭を左右に振った。おまけに、ムカつくほど大きな溜息まで吐いてくれる。
あのさ、その態度はあんまりじゃない? 非常に悔しかったので話を変えてやる。
「冗談はこれくらいにして、実際の所どうなの? この世界に私が飛ばされたのは偶然じゃないよね? 祥子さまの話を聞いていて思ったんだけど、わざわざ接触したようだし、志摩子さんの事もそう。私は、あなたたちの仕業だと思っているんだけど」
「正解よ。さすがに鋭いわね」
今まで、祐巳をこの世界に転移させたのは「世界」だと思っていた。でも、存在していないと思われていた神様が存在している。そして、その神様が別の世界に他人を転移させる事ができるのは、ついこの間祐巳自身が身を以って体験済み。こちらの世界で桂さんと初めて会った時の事だ。彼女によって、コピーされた世界に祐巳は転移させられた。
「そうね。でも、志摩子さんについては私たち神様の仕業ではないわ。あれは、『世界』の仕業よ」
「何のために?」
「知らないわよ、そんな事」
「はい?」
今、何て言った?
「『世界』の考える事なんて分からない、って言ったの。私たち神様よりも上位の存在なんだもの。そのくせ気分屋で悪戯好きなのよ。フォローする私たちがどんなに苦労しているのか、分かっているのかしら」
桂さんがうんざりしたように言う。
「またまたー、そうやってまた私を騙そうとして。桂さんって本当に人が悪いね。あ、いや神様か」
「世界」に意識があるのは、中等部の頃に習ったから知っている。でも、神様よりも上って事はないだろう。自分たちよりも、自分たちが創ったものの方が能力が上なんて、そんな事を神様がするはずがないと思う。
「勘違いしているみたいだから言っておくけど、私たち神様が『世界』を創ったのではないのよ」
「そうなの?」
「ええ。実はその逆で、『世界』が神様を創ったの」
自分たちが創ったものならともかく、そうではないものの考える事なんて分からない、と桂さんは言う。彼女に嘘を言ってるような様子はなく、どうやら本当の事らしい。
「じゃっ、じゃあ、『世界』の方が神様よりも偉いの?」
「偉いとかそういうのはないけど。そうね、神様を罰する事ができるとしたら、『世界』だけね」
神様を生み出した「世界」こそ最強、って事か。桂さんみたいなおかしな神様まで生み出しちゃったみたいだけれど。
「ついでに、今私の目の前にいるとってもおかしな祐巳さんまで生み出してしまったわけよ」
わざわざ心を読んでまで馬鹿にしないで。益々悔しくなるから、と睨む。
「いつか神様の私が降臨して、桂さんを打ち滅ぼす事を願うわ」
「面白い事を言うわね」
コロコロと笑う桂さん。けれど、残念そうに言う。
「でも、あなたの身体に神様の祐巳さんが降りる事はないわ。あなたは彼女の端末ではないから」
それを聞いて安心した。勝手に人の身体に憑依されても困る。何だか気持ち悪いし。
「でもそれなら桂さんにも、どこかの世界には端末ではない普通の人間の桂さんがいるって事?」
「そうよ。同じ人物だからといって、全員が全員神様と繋がっているわけではないわ。その代わり、一つの世界に一人以上は神様の端末が必ず存在するの。この世界に降臨できる私以外のもう一人の神様とは、もう会っているわよね」
細川可南子ちゃんの事だろう。しかし、『この世界に降臨できる私以外のもう一人』って事は、この世界には二人しか降臨できないって事だ。何かあった時にたった二人で大丈夫なのだろうか、と思ったのだが、考えてみれば時間を止めたりあちこちに転移したりできるような奴らだ。二人もいれば十分なのだろう。
「ちなみに、神様の私ってどんな神様なの?」
何となく興味から尋ねてみる。
「私よりも遥かに優秀な神様よ」
ええっ、優秀っ!? って自分で驚くのもどうかと思うのだけれども本気で驚いてしまった。
「おまけに、冗談ではなく滅茶苦茶怖いのよ」
自分の肩を抱いて、身震いしながら言う桂さん。本気で神様の祐巳を怖がっているらしい。
そ、そうなんだ? と釣られて祐巳も冷や汗を掻く。一度くらいは会ってみたいな、なんて軽い気持ちで思っていたのだが、桂さんの様子を見る限り出会わない方が良さそうだ。
「っと、そういえば」
危ない危ない。危うく忘れる所だった。聞かなければならない事があったんだった。
「ねえ、次に会った時に答えるって言ってたし、この間の質問に今日は答えてくれるんだよね?」
祐巳が言うと、へぇ、覚えてたの? みたいな顔しながら桂さんは頷いた。この間の質問とは、『どうしてあの世界を滅ぼそうとしているのか』っていう質問の事だ。
「答えるのは良いんだけど、私は下っ端だから言える事に制限がかかっているのよね。まあ簡単に言うと、神様には色々な役目があるの」
下っ端とか制限とか役目とか、神様だから何でも好き放題できる、というわけではないらしい。
「私の場合は観察。神様の祐巳さんの場合は、私たち観察している神様の纏め役。所謂、上司ね。あなたの世界を滅ぼそうとしていたのは、そういう役目を持った神様なのよ」
役目だから滅ぼそうとしているらしい。では、その役目の理由とは何だろう?
「ごめん。それ、私は言えないの。思いっきり制限に引っかかっているから」
「何で? 何か凄い理由でもあるの?」
「それを伝えたら対策されるかもしれないからよ。ま、聞いた所で対策なんて立てようがないと私は思うけどね。でも、これだけは言っておくわ。その役目の理由は、とても当たり前の事なのよ」
何だかよく分からないけれど、滅ぼそうとしている理由は、対策の立てようがない当たり前の事らしい。それなら、教えてくれても良いような気がするのは祐巳の気のせいだろうか。
「これ以上は言えない」
使えない神様ね、と思った。
「悪かったわね」
頬を膨らませながら桂さんが言ってくる。
「ところで、やっぱり私を向こうの世界に戻す気はない?」
この間は断られたが、もしかしたら気が変わっているかもしれない、と思って尋ねてみると、桂さんは祐巳の顔をじっと見つめてきた。
「死ぬって分かっているのに、そんなに帰りたいの?」
何で急に見つめられたのかは分からないが、わざわざ尋ね返すって事は帰してくれる気になったのかもしれない、そう思って祐巳は頷いた。
「当たり前でしょ」
あの世界は祐巳の生まれた世界であり、唯一の還る場所なのだ。あの世界には、家族やお姉さまが眠っている。帰る事ができるのならば帰りたい。たとえ化け物どもの手にかかって命を失う事になっても良い。
瞳子ちゃんには悪いと思う。裏切ってしまう事になる。深く傷付けてしまうだろう。それでも、祐巳はあの世界が好きなのだ。あの世界を守って……いや、たとえ守れなくても、あの世界のために死ねるのなら本望だ。
「あなたに言っておく事があるわ」
「何よ?」
桂さんは祐巳から視線を外しながら言った。
「あなたの世界は滅びたわ」
「……」
頭が理解する事を拒んでしまったらしく、祐巳は何を言われたのか分からなかった。しばらくの間キョトンとした顔で桂さんを見ていた祐巳は、『あなたのいた世界は滅びたわ』という彼女の言葉を頭の中で数度繰り返してみて、ようやくその意味を悟った。
「え? 何、急に。冗談……だよね?」
「いいえ。間違いなく、あなたの世界は滅んだわ。だから、あなたを帰す事はできないの」
滅んだって事は何もなくなった事で、何もなくなったって事は――。
「家は?」
「家も」
そこで育った。家族全員を失くした後もずっと一人で住んでいた場所だから、あの家の事は隅から隅まで知っている。亡き父が設計し、家族が笑顔で過ごしていたあの家を守るために、バスや電車などの交通手段がなくなり学園近くのマンションが寮として開放された後も祐巳は自宅から徒歩で学園に通っていた。
「皆は?」
「皆も」
力で従えた人もそうでない人も皆、命を懸けて一緒に戦っていた。
「温室は?」
お姉さまとの幸せな思い出が残る場所だった。
「温室も、よ。あなたの仲間だった人たちも、力で従えた人もそうでない人も、薔薇の館も学園も、住んでいた家も街も、人類だけでなく命あるもの全て。あなたのいた世界そのものが滅びたわ」
あの世界には、たくさんの思い出があった。
「そっか。滅びたんだ……」
目の前が真っ暗になった。
覚悟はしていた。そう遠くない未来にそうなるだろうとは思っていた。
「泣きたい?」
桂さんの言葉に遠のきかけた意識を取り戻す。
「涙なんて、もう出ないもの」
そう言った声が震えているのが自分でも分かった。強がりなんだって、そんな事分かっている。心を読まれるので強がりなんて言っても無駄だとは分かっているけれど、それでも桂さんには――神様にだけは弱い所を見せたくなかった。
「そう」
祐巳の強がりに気付いているだろう桂さんは、ただ頷いただけだった。
「桂さんは見ていただけ?」
「私の役目は観察する事だから、見ている事しかできないの」
「……役に立たない神様だね」
「そうね」
桂さんは自嘲するように薄く笑うと、「もう良いわね」と止めていた時間を元に戻した。
世界に時間が戻った時には、既に桂さんの姿は消えていた。
ぽつり、と空から雫が落ちてきて祐巳の制服に染み込む。祐巳の周りでは、先ほどまで時間を止められて固まっていた生徒が雨に気付いて校舎に戻り始めた。ぽつぽつと降り出した雨はすぐに大粒の雨となり、辺り一面を叩き付け始める。
「ふ……ふふ……あははは――」
轟音の鳴り響く中、祐巳は笑いながら歩き始めた。
どう歩いてきたのか、自分でも分からない。
気が付けば、三叉の分かれ道の所にあるマリア像の前に祐巳は立っていた。
恨み言を言うわけでもなく、願うわけでもなく、まして、祈るわけでもなく。ただ、雨に打たれるマリア像を見上げていた。
白いマリア様は、柔らかな微笑みを浮かべている。
何、笑っているの? そんなに私がおかしいの? ……そうだよね、おかしいよね。ふっ……ふふっ……笑ってよ。ねえ、マリア様。私と一緒に笑ってよ。おかしいでしょう? ねえ、おかしくって堪らないでしょう? 『帰りたい』、だって。私ったら、今頃何を言ってるんだろうね?
「あはははははははは」
帰る所なんて――。
「ははは……」
そんな所、もうないんだってさ……。
冷たい雨が身体を叩き付けて、その度に切り裂かれるような痛みが走った。
でも、冷たいとは感じなかった。心も身体も、もうこれ以上ないくらいに冷え切っていた。
大嫌いだ。滅ぼした神様も、見ている事しかできなかった神様も。
本当に何もなくなってしまった。楽しかった思い出も。悲しかった思い出も。幸せだった思い出は、殺されて、奪われて、潰されて、壊されて、本当にただの思い出になってしまった。思い出の残る場所さえ、なくなってしまった。
「神様なんて最低だ……」
降りしきる雨の中、祐巳はそう吐き捨てた。
それは何の変哲もない、とある昼休みのこと。
「ねえ、昨日のドラマ見た?」
「見ましたけど…あの俳優、演技下手ですよね。相手役の子がかわいそう」
黄薔薇さまとその妹が昨夜のドラマの話をしている。
その横では、
「あっ、純ちゃん、そのデザート新作?」
「うんそうだよ。かぼちゃとさつまいものメープルマフィン。
よかったら食べてみる?」
「食べる〜(^O^)」
白薔薇と紅薔薇の両つぼみが新しいお菓子をほおばって。
「さてと、5時間目は数学の小テストだし、予習、予習っと」
黄薔薇のつぼみの妹は教科書を広げてなにやら書き込んでいる。
すでに食事の終わった紅薔薇さまは部屋をくまなく見渡して、
床の隅にある蜘蛛の巣を見つけた。
「あらやだ、こんなところに蜘蛛の巣…放課後はお掃除決定ね」
白薔薇のつぼみの妹は黙々と読書に夢中。
そんな中、お弁当をようやく食べ終わった紅薔薇のつぼみの妹が、
なぜかお弁当箱を前に真剣に考え込んでいた。
「どうしたの美咲さん、何か悩みごとでも?」
水を向けた理沙に、美咲はこう答えた。
「行くべきか行かざるべきか…それが問題なのよ」
「ハムレットかよ」
読書中の涼子は、本から目を離さずに突っ込んだ。
「行くってどこへ?」
さゆみの問いにも答えず、なおも沈黙を守る美咲。
その沈黙は、しかしながらすぐに破られた。
「決めたわ!私、行きます」
「だから、どこ行くのって聞いてるじゃない」
おもむろに立ち上がると、カバンの中からサイフを取り出した。
「すみません、ミルクホール行ってきます」
「ミルクホール?今からだと何もないかもしれないわよ。もう昼休みも終わるし」
ちあきが止めるのも聞かず、美咲はさっさと出て行ってしまった。
「…なんなんだ、あいつは」
涼子の半ばあきれ気味な問いに、答える者は誰もいなかった。
そして放課後。
いつもながらにせわしなく掃除機を動かすちあきの耳に、美咲の声が届いた。
「ごきげんよう〜、ここ開けてもらえますか〜?」
「はいはい、ちょっと待ってて」
駆けつけたちあきが見たもの。
それは、たくさんの駄菓子やらチョコレートやら、
いろいろなお菓子やパンが入ったダンボール10箱。
美咲はこれを2台の台車を使って運んできたのだ。
「どうしたの、この駄菓子の山は」
驚くちあきに、美咲は満面の笑み。
「あのあとミルクホールに行って、自分用にとっといてもらった新作のお菓子とパン、それからデザートと駄菓子を取りに行ったんです。
2万円は痛かったけど、これでしばらくおやつには困りませんね」
それからダンボールの中に手を突っ込んで、中から「ビッグカツ」と書かれたお菓子を取り出すと、むしゃむしゃと食べ始めた。
(いくら山百合会だからって、こんなことが許されてもいいのかしら…)
ちあきは頭のてっぺんに痛みが走るのを感じた。
しかしちあきは知らない。
今年の紅薔薇のつぼみの妹は、それが許される立場にあることを。
大願寺美咲といえば、才色兼備ぞろいの今年の山百合会の中でも、
その姉である瀬戸山智子と並んで特に人気の高いメンバー。
入学当初からその美貌とカリスマ性は評判で、すでに大規模なファンクラブが
できているほど。
おまけに今でこそごく普通の庶民だが、もともとは由緒正しい名門の家柄。
そんな美咲が2万円でミルクホールを空っぽにしても、誰も文句は言わない。
むしろ生徒たちはミルクホールの品目の少なさを批判し、どれだけ食べてもスリムな体型を維持し続ける彼女に、またファンが増えるのだ。
「美咲さんと智子さまに食べていただけるなら、お弁当でもお菓子でも何でもお作り致しますわ!」
そんな声さえ生徒の間では聞かれる。
事実、ある昼休みに15人もの生徒から昼食の差し入れを受け、
そのうち10人分を美咲1人で平らげてしまった。
ちなみに残りは山百合会メンバーの間で分けられた。
「これ、おいひいでふよね。ちあきさまもおひとつどうぞ」
もぐもぐと口を動かしながら駄菓子をすすめてくる美咲だったが、
ちあきはとても食べる気にはなれなかった。
それから1週間後のある日。
美咲がまたダンボールを大量に運び込んだ。
「今度は何?」
またものすごい笑顔で美咲が答えた。
「大丈夫です、今度はお菓子じゃありませんから」
「…お菓子じゃない?」
中を覗き込むと、黒っぽいビンが大量に入っている。
首をかしげるちあきに、今度は智子が自信たっぷりに答えた。
「今年のボージョレヌーボーの新作、買い占めちゃいましたvv」
(ああ、マリア様、この大酒飲みと大食い女、何とかしてください…)
その後薔薇の館でどんなドンチャン騒ぎが繰り広げられたのかは、マリア様のみぞ知る。
まえがき。
これは『思春期未満お断り・完結編』とのクロスオーバーです。でも話のベースを借りただけなので元ネタを知らなくても読めます。
多分に女の子同士の恋愛要素を含みますので、苦手だという方は回避して下さい。
シリーズ名は『マリア様もお断り!?』です。
それではどうぞ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
『ねぇ、志摩子さん。私じゃ…ダメかな?』
真っ直ぐな瞳が志摩子を見据える。
(あぁ、これは夢だわ。あの日の…夢)
『私じゃ聖さまや乃梨子ちゃんみたいに志摩子さんを支えること、できない?』
『好き…なの…志摩子さんのことが…』
『ずっと好きだったの…』
三年生になって数日。志摩子が再び薔薇さまになって数日。乃梨子に…ロザリオを渡したい子ができたかもしれない、と聞かされたあの日。
それから…
『私も…祐巳さんのこと…ずっと好きだったわ』
志摩子と祐巳の関係も変わった…あの、春の日――
――ピピピピピピピピッ
唐突に割って入ってきたその音によって夢は掻き消された。
「ん…」
志摩子は枕元で鳴り響く目覚まし時計に手を伸ばす。
――ピピピピ、ピッ!
「……ふぁ…」
小さく欠伸をしながら窓辺に向かい、カーテンを開けて伸びをした。
「…いいお天気。快晴ね」
(あの日から…もうすぐ一年経つのね。早いものだわ)
志摩子は夢の内容を思い出し恋人の顔を思い浮かべる。自分の名前を呼ぶときの祐巳の笑顔を…
「志摩子?起きているなら早く用意なさい。朝ご飯もできていますよ」
部屋の外からの母の声にはっと我に返る。
「あ…はい。すぐに参ります」
マリア様の心のような青空に別れを告げてから志摩子は着替えに取り掛かった。
***
志摩子が二股の分かれ道、マリア像の前に差し掛かった、ちょうどその時。
「ごきげんよう、白薔薇さま」
呼ばれて振り返る。視線の先には二人の生徒が立っていた。見知った顔ではないので恐らくは下級生。
「ええ、ごきげんよう。気をつけてお帰りなさいね」
そう返すと、もうお祈りは済んでいたのか二人は立ち去っていった。志摩子から少し離れたところで、何だかきゃあきゃあ騒いでいる。
――白薔薇さま
(あと何回そう呼ばれるのかしら…?)
志摩子は遠ざかる二人の後ろ姿を眺め一人思う。そして目の前のマリア様を見てもう一度彼女たちを見て、さっと踵を返した。
向かう先は薔薇の館。選挙が終わってからというもの、志摩子たち薔薇さまはあまり薔薇の館に寄り付かなくなった。今日だって本当は寄るつもりなどなかったのだ。
(でも…久しぶりに乃梨子の顔が見たいわね)
季節は三月。卒業式はもう、目の前だった…
***
大きな明かり取りの窓、少し急でギシギシと音の鳴る階段、ビスケットのような扉…それら全てを目に焼き付けるように志摩子はゆっくり歩く。
「ごきげんよう………あら?」
扉を開けたその先には誰もいなかった。時計を見るとまだ3時半すぎ。ホームルームが長引いていたり掃除に手間取っているのかもしれない。
(乃梨子が入れてくれたお茶を飲むのもいいけれど…今日は私が入れてあげようかしら?)
懐かしい感覚に捕われて、ついポットの中身を確認していると、ふとそんなことを思い付いた。
「飛鳥ちゃんには悪いけれど…たまには、ね?」
飛鳥ちゃんとは乃梨子の妹のこと。素直で明るく、誰から見ても可愛い子だった。いつも元気いっぱいで、まるで祐巳が二人になったように思える。
(ふふっ…飛鳥ちゃん妬いちゃうかしら?今なら江利子さまのお気持ちがよくわかるわ。それから……お姉さまのお気持ちも)
志摩子は悪戯を思い付いたような楽しさに自然と笑みを零しながら一人ごちた。
その時。
『う、うわわぁっ!』
――ガタンッガタタッ!
「!?」
一階で悲鳴と何か大きな物音がした。何事かと志摩子は部屋を飛び出す。
「どうしたの!?」
そして一番最初に目に飛び込んできたのは、転んだのかして階段脇に蹲っている飛鳥。さっきの悲鳴と物音は彼女だろう。次にその側で立ち尽くしている乃梨子。最後に二人の前に立っている見知らぬ女性。
(え?…金髪?)
その女性は綺麗なブロンドの持ち主だった。長身で前黄薔薇さまの令と同じくらいに背が高いのではないかと思う。
「乃梨子?…飛鳥ちゃん、あなた大丈夫?」
「あ…志摩子さ、ん…来てたんだ…」
「いたたたたぁ〜…あ!は、はい。大丈夫ですぅ…あはは。びっくりしちゃって、つい…お騒がせしました」
階段を下りて二人に話しかけると、乃梨子は上の空で飛鳥は涙声でぺこりと頭を下げながら、それぞれの反応が返ってきた。
「....Is this "House of roses"? Wonderful!! This school is a really nice place, isn't it? It's as she was talking about....」
そんな三人に構うことなく一人で話し続ける女性(どうやら外国人らしい)を見て乃梨子は少しだけ立ち直ったようだ。
「さっきから何言ってるのかわからなくて…志摩子さんどうしよう…」
乃梨子にしては珍しく不安そうな顔をしていた。
(急に英語で話しかけられたからパニックになっているのね)
乃梨子に頼られるのは嬉しいが、はっきり言ってこれは志摩子のヒアリング力を越えている。速さも発音も全くついていけない。
しかし志摩子にだって白薔薇さまというプライドがある。何より可愛い妹と孫の前だ。少しくらいは見栄を張りたい。
「あの… Excuse me. Would you be able to speak Japanese?(すみません。日本語はお出来になられますでしょうか?)」
「....Well! That, I'm sorry.(あぁ!それはごめんなさいね)…少し、ナラ」
英語は得意な方ではないが、それでも何とか女性には通じたようだ。
「わぁ!英語をお話になられるなんて白薔薇さま凄いですっ!!」
「本当に。凄いよ、しま……お姉さま」
決して上手くもないし大した英語を使った訳でもないのに、乃梨子と飛鳥が『さすが白薔薇さま』などと囃し立ててくる。気恥ずかしくもあったが悪い気はしない。
(良かった…)
志摩子がほっと一安心していると、女性は乃梨子たちの言葉を聞いたのか志摩子の顔を覗き込みながら言った。
「…アナタが、藤堂志摩子サン?」
その女性は志摩子の名前を知っていた。当の志摩子には全くの心辺りがないというのに。
(…どうして?)
志摩子が呆然としている間にも女性はなぜか志摩子の体をじろじろ眺めている。
「…フーン」
暫く観察して何か納得したようだ。何なのかと志摩子が疑問に思っていると…
――バサッ
「B89、W57、H86」
「「「は?」」」
「フフ…私の勝ちネ」
女性はいきなりコートの前を開き何かの数字を述べた。その数字が一体何を表すのかすら考えられない。
そしてこの状況についていけない三人に追い打ちをかけるように、衝撃的な言葉を発した。
「“ユミ”ハ貰ったワ」
「「「え…」」」
さらっと爆弾発言をしたこの女性は、固まっている志摩子たちを余所に腕時計を確認して、最後に一言。
「バーイ!」
そう言い置いて颯爽と扉の外に消えていった。
後に残されたのは重い重い沈黙と。
「「……ええええっ!?」」
そして困惑。
「“ユミ”って…祐巳さま?祐巳さまなのっ!?そうなの!?…ねぇ…飛鳥!?ねぇってば!」
「お、お姉さまっ!落ち着いて下さいっ」
「何!?あの、ボンキュッボンはっ?スリーサイズなんて全く以てして言う必要ないじゃない!!」
「……ぐ、ぐる゙じい゙…で、ず…」
遠くの方で乃梨子たちが何やら騒いでる。しかし志摩子にはそんなことどうでもよかった。
ただ、先ほどの…あの女性が放った言葉だけが志摩子の頭の中をいっぱいにしていた。
『“ユミ”ハ貰ったワ』
(…祐巳)
見上げた窓の外には、どこまでも高く青く…透き通るような空が広がっていた。
To be continued...
あとがき。
やってしまいましたクロスオーバーで連載モノ。作中の飛鳥は…須藤(樋口)飛鳥です。原作とは性格が違いますが。
『思春期〜』をマリみてで、更に志祐でする必要性があるのか?という突っ込みはなしの方向で(汗)
ちなみに外人お姉さんが一人で話し続けてた内容は…
『ここが“薔薇の館”なの?素晴らしいわ!!この学校は本当に素敵なところね。あの娘が言っていた通りだわ…』
…です。この話で使った英語は会話言葉ではないかもしれませんが、実はどれもとっても簡単です(笑)
それでは早いうちに続きをお届けできることを祈りまして…
『house of a rose』→『House of roses』に修正しました(06/10/29)
※この記事は削除されました。
*宇宙人*
正直宇宙人なんかいるはずねー!!
いたらビックリ仰天だぜ、なんせ宇宙があるってこと自体が不思議でしょーがねーってのに、そんなことを考えていた俺。
不思議なことが好きな人はきっと人間誰しも好きだと思う、でなきゃこんなこと考えもしないし、思いもつかないと思う。
この文を読んでこいつ何いってんだと思うやつもいるだろーさ、くだらねーことが好きな俺から見ても、この話は無理あると思う、でもこれはすでに話が始まっているのだよ君!
さー皆で宇宙人とやらを呼んでみよーじゃないか!?
宇宙人さんいらっしゃい、宇宙人こい、宇宙人カモーン!!
宇宙人なんか来るかバカとののしられよーとも俺は呼ぶさ!もし来たときお前をビックリ仰天させて見せるさ、俺をバカと言ったことを後悔させてやるさ!!!!
でも、本当はこんなことやったってきやしない、そんな気持ちも俺にはあるさ。
誰もが俺をバカにする、でも、俺はこんなことを続けている、なぜだと思う?
俺はなんで宇宙人がいるとも確信が持てないのに宇宙人なんか呼ぼうとしているのだろう?
きっと俺はこの地球とゆー星で一人ぼっちだと思っているから、もし宇宙人が来たらそいつと友達にでもなろーとしているのかもしれない。
ほらまた俺は一人で叫ぶ、宇宙人よこいと。
光を感じた、それは上から俺を突き刺してくるようだ、それを俺はただまぶしくて、まぶしくて、目が開けられないとしか感じなかった。
光が弱まった気がした、それはただ俺の目が光に慣れただけなのかも知れない、まーそんなことはどーでもいい、この光の元はいったい何なのかが重要だ。
俺は上を見上げた、それは大きな、大きな空一面に広がるフライパンにしか見えなかった、つーかこんなでっかいフライパンがあるはずがない、これはUFOなんだと思った。
次の瞬間俺は我が目を疑った。
そこからなにやら黒い影がゆっくりと、ゆっくりと振ってくる。
地上にそれが到達したとき俺は絶句した、そこに立っているのは俺だ!俺自身だ!!
まさかそんな、宇宙人は俺だったのか…。
そこから先の記憶が無い、朝目が覚めると俺は自分のベットでちゃんと寝巻きを着て寝ている。
あれは夢だったんだ、俺は宇宙人ばかり考えていたから、あんな夢を見たんだと思った。
けれども、あんなにナマナマしく覚えているものなのだろうか?いてもたってもいられなくなった俺は外に出た、寝巻きだろーが関係ねー、いつもいた場所に、いつも叫んでいた場所に、必死で走った。
そこには何も無かった、俺は夢を見ていたんだと核心がもてた、そして、この夢のおかげで俺は宇宙人を呼ぶのをやめた。
だって、だって俺は知ったんだ、この夢のおかげで、宇宙人は存在すると・・・。
地球上にいるすべての人間は、皆宇宙人だ、この宇宙にある地球とゆー星に生きる限り、俺ら人間、人類はすべて宇宙人だと。
俺は寝巻きのまま、仕事に行く人、学校に行く人、そんなやつらなんか気にせずに叫んだ。
「お前ら皆、皆、皆宇宙人だ!!」
そして高々と笑った、笑った、笑った、泣いた。
色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
【No:1893】→【No:1895】→【No:1897】→【No:1907】→【No:1908】→【No:1911】→【No:1913】→【No:1921】→【No:これ】→【No:1933】→【No:1941】→【No:1943】→【No:1945】
こちらに来て五日目の土曜日。そう、信じられない事にまだ五日しか経っていないのだ。それなのに随分と長い間こちらにいるように感じられるのは、五日間という短い期間にも関わらず遭遇した出来事が多いせいだろう。
授業の合間の休み時間中、祐巳はボーっと窓から外の景色を眺めながら、いつものようにアホな思考を張り巡らせていた。
例えば、今日の夕食は何だろう、とか。由乃さんは百合なんだろうか、とか。あの雲の形って瞳子ちゃんの縦ロールみたいで美味しそう、とか。そんな感じの事を延々と考えていた。
それにしても、こうやって過ごしていていつも感じるのだが、呆れてしまうほどに平和な世界だ。ここまで平和だと神様なんて必要ないんじゃないかな、とまで思ってしまう。けれど、きっとどこかで誰かが神様に祈っている。だからといって、それを桂さんたちが素直に叶えるとはちっとも思えないのだけれど。
(いや、待てよ。そういう人の願い事を叶える役目を持った神様が他にいるんじゃないかな? うん、できれば、そうであって欲しいな)
祐巳としては、その神様は身近な所で言えば乃梨子ちゃんみたいなタイプが良い。気が利くので、わざわざ願わなくても色々と叶えてくれそうだ。
(サービス満点! 願わなくても願いが叶っちゃう乃梨子神! おおっ、かなり良い線いってない?)
できれば誰かに話してこの感動を分かち合いたい、と思っていると由乃さんが不思議そうな顔して話しかけてきた。
「さっきから何唸っているのよ?」
「乃梨子ちゃんの有効な活用法について」
祐巳の言葉に眉を寄せる由乃さん。
「じゃなくて、神様の有効な活用法について」
祐巳が言い直すと、心配そうな顔になって尋ねてきた。
「何か悪いものでも食べた?」
「まさか」
今日は遅刻しそうだったから朝ご飯は抜きだった。
「私のお腹はびっくりするぐらい丈夫なんだよ。どんなものを食べても平気に決まっ――」
その時、ぐーきゅるる、と狙っていたかのようなタイミングで祐巳のお腹が鳴った。そのお腹と、頬をピクピクさせながら祐巳のお腹を見ている由乃さんに向けて言ってやる。
「こら、こんな時に鳴るな。由乃さんが笑い死にしちゃうでしょ」
「ぷっ、あはは。そう、そうね。食べていれば平気なのね。ぶふっ、あははははは」
必死に笑いを堪えようしていたが祐巳の一言で思いっ切り噴き出してしまった由乃さんを眺めながら、もしも乃梨子ちゃんが神様だったらとりあえず食べ物を出してもらおう、と思った。
「飴で良かったら食べる?」
「喜んで」
鞄に入れているらしい飴を取りに自分の席へと戻っていく由乃さんの後姿を見ながら、由乃さんが神様でも良いな、と祐巳は思ったのだった。
*
「由乃には友達が少ないから」
放課後になったので探し物をしながら校内を歩いていると、偶然廊下で令さまと出会った。薔薇の館へ向かっている所だったらしいのだが何となく話の流れからミルクホールに寄って、何と令さまの奢りで苺牛乳を入手。
冷たくて美味しいっ! と心の中で叫びながら顔には驚いた表情を浮かべておく。
「友達が少ない、ですか?」
いやまあ、本当に驚いているのだけれど。だって由乃さんと言えば、祐巳の世界では大変な人気者だったから。猫族というだけで希少価値がとっても高い上に、性格はちょっとあれだが見た目は間違いなく美少女。物音に反応したりして頭の上の猫耳がピクッと動くのがお持ち帰りしたくなるくらい可愛いくて、当然友達も多かった。
「ずっと身体が弱かったからね」
気は強いみたいですが、特にあなたに対して、と祐巳は密かに心の中で付け加えた。
「少し前まで由乃は人の輪に入りたがらなかったの」
「そうなんですか?」
意外だ。あの由乃さんが? 今は放っておいても飛び込んで行っちゃいそうだけれど。あちらの世界では、実際そうだったし。
「祐巳ちゃんの事、相当気になってる、っていうか気に入ってるみたい」
「それは分かります」
そっち系の人かと疑っているくらいだ。まあ、百合でもノーマルでもどちらでも構わないのだけれど、できればどちらか一つにして欲しい。祐巳としては、両方は許せないものがある。
「うん。だからってわけじゃないんだけれど、仲良くしてやって欲しい」
「もう仲良しですよ」
「ふふっ、そうだね」
爽やかな笑顔の令さま。この笑顔を見れば、彼女に何人ものファンがいるのも納得できる。この間のヘタレ具合が嘘のようだ。実は別人とか、二重人格とかじゃないですよね?
「祐巳ちゃん」
「何です?」
心を読まれたのかと思って祐巳はドキッとした。
「ありがとう」
「お礼を言われるような事はしていませんよ」
違ったようなので、ほっとする。とはいえ、神様じゃあるまいし他人の心を読むなんて芸当ができるはずもない。もっとも、祐巳の顔を見て何を考えているのか当てる人は、何人か存在しているのだけれど。
それにしても、ありがとう、とは。それは令さまが言うような事ではないと思うのだけれど、それと同時に、仕方がないか、とも思った。令さまは由乃さんの事が本当に大切なのだ。ここまで想われている由乃さんは幸せ者だと思う。
「良いの。私が言いたかっただけだから」
「では受け取っておきます」
そう言って頭を下げると、「祐巳ちゃんって面白いね」と令さまに笑われた。あんたよりはマシだ、と心の中で笑い返しておいた。
「さて、そろそろ行かないと。皆待っているだろうし」
山百合会の仕事があるらしい。あと数日で薔薇さまではなくなるはずなのだが、それまでは現役の薔薇さまだ。そして、薔薇さまは色々と大変なのだ。それは祐巳もよく知っている。あちらの世界のように、戦闘に関する仕事はないと思うが。
「祐巳ちゃんはこの後どうするの?」
椅子から立ち上がりながら令さまが尋ねてくる。
「散歩の続きをしようかと思ってます」
「散歩?」
「まだこちらに転入してきて五日しか経ってませんから。道を覚えるために――ッ!?」
椅子から立ち上がりながら答えていると、その途中でいきなり膝から力が抜けた。ひっくり返りそうになったので、慌てて机に手を突いて身体を支える。
「だっ、大丈夫?」
わざわざ机の向こう側からこちら側に回ってきた令さまが、祐巳の腰に手を回して倒れないように支えてくれた。
しかし、支えてくれるのは良いのだが顔が近過ぎる。その相変わらずの美形っぷりと、恥ずかしい所を見られてしまった事で赤面した祐巳は思わず顔を逸らしてしまった。
「すみません。ちょっと顔が近いです」
「あ、ごめん。でも、本当に大丈夫なの?」
祐巳から顔を離しながら再度尋ねてくる。何だかお姉さまみたいだ。
「足が縺れてしまっただけです。怪我もしてませんし、大丈夫ですよ」
「でも……」
「私の事よりも、早く行かないと遅れちゃいますよ?」
ここに来てから十分ほど進んだ腕時計を見せながら言ってやる。これ以上引き止めてしまうのは、令さまにも、令さまを待っている山百合会の人たちにも悪過ぎる。
「少しくらい遅れても構わないよ。それよりも、祐巳ちゃんを置いて行く方が心配」
何という男前。しかし、祐巳からすれば余計なお世話でしかない。
「昨日の今日でまた迷惑なんてかけたくないんです。お願いですから行ってください。じゃないと私、迷惑ばかりかけている自分を許せなくなってしまいそうです」
祐巳が必死になって言うと、ようやく令さまが折れた。
「本当に大丈夫なのね?」
「はい、平気です。すみません、迷惑ばかりかけて」
「謝らなくても良いよ。それよりも、今日は話せて楽しかった」
「私も楽しかったです」
令さまは、「ここでこんな話をした事は由乃には内緒ね」と言い残して去って行った。
とりあえず、由乃さんが百合ではないと分かった事だし、探していたものはここにはなかったし。さて、次はどこへ行こうかな、と祐巳は学園の地図を頭に思い浮かべた。
お聖堂にはなかった。マリア様のお庭にある真っ白なマリア像、ここにもなかった。講堂の裏手にある桜の木、やっぱりなかった。グラウンドにもなかった。
(どこにもないのかな? きっと、そうなんだろうな……)
祐巳はフラフラと力なく歩いていた。
探しているものがあった。どうしても見付けたいものがあった。でも、きっとここでは見付ける事なんてできないだろう、と思う。
見上げると、昨日の雨が嘘のように空は晴れ渡っていた。
何だか、ふわふわして気持ち悪い。身体の方もやたらと重く感じる。一歩踏み出そうにも、足がまともに動いてくれない。単純に、体調が悪いから、というだけではないだろう。きっと、探せば探すほど探し物が見付かる場所がなくなっていくから、というのも一因となっているはずだ。
ああ、そうだ。令さまが向かったあそこなら、もしかしたら見付かるんじゃないだろうか。そう思いながら、祐巳は引き摺るように足を動かした。
薔薇の館が見えてきた。自然と足取りが早くなる。
きっとある。きっと見付かる。だって、あの館はあの人との思い出の場所だもの。だからきっと、あの館には求めているものがあるに違いない。
そう思っていた。
そう思っていたのに、あと少しで館に着くという所で祐巳は足を止めた。二階の窓の所に、こちらに背を向けている祥子さまだろう人物を見付けてしまったからだ。おそらく、祥子さまで間違いないだろう。腰まである長い黒髪をストレートにしている人物なんて、館に出入りしている人たちの中では祥子さまくらいしか思い浮かばない。
祐巳はその後ろ姿を、空っぽになった表情で見上げていた。
(何を勘違いしていたんだろう。そうだよね。ここにあるはずがないよね)
顔を俯かせて頭を左右に振る。
(ここも違う……でも、それならどこへ行けば見付かるんだろう?)
考えれば考えるほど、何も浮かんでこない。
もう駄目かも、と諦めかけた時、唐突にその場所が思い浮かんだ。
(あ! そうだ。まだ行ってない場所があった)
祐巳は薔薇の館に背を向けた。
第二体育館に行く途中に、古びた温室がある。教室よりも一回りほど小さく、今にも取り壊されそうだけれど、少数だがそれを反対する声が毎年上がる事によって何とか残っている場所。古くて、ところどころ壊れていて、生徒たちも殆ど近付かないとても静かな場所。
人気のないこの場所は、温室のくせに季節のせいかやけに寒く感じられた。
この温室には沢山の思い出があった。お姉さまとの温かな思い出が溢れていた。様々な種類の薔薇に囲まれたこの場所で、お姉さまとよく話をした。ここで一緒にお昼ご飯を食べた事もある。祐巳がロサ・キネンシスの事を知ったのもこの場所だ。
室内の一番奥に置かれていた棚に腰掛けて、祐巳は何もない空中を見つめていた。
ここも違った。そうだろうとは思っていたけれど、やっぱり違った。当たり前だ。ここは自分の世界ではなく、思い出の残る場所でもない。
あの世界とこの世界はこんなにもそっくりなのに、どうして違うのだろう。いっその事、全く違っていれば良かったのに。あの世界と同じこの場所が存在してなければ良かったのに、と思ってしまう。そうだったなら諦めも付いたし、思い出す事もなかった。
祐巳の思い出も、居場所も、全部向こうの世界にあった。何もかも全部、向こうの世界に置いてきてしまった。そして、帰れなくなってしまった。あの世界は滅ぼされて、完全になくなってしまった。思い出は、本当にただの思い出になってしまった。そして、その沢山の思い出たちが残された場所にもう帰る事すらできない。
何もかも失ってしまった。守りたかったのに、失いたくなかったのに、戦う事もできずに、こんな所にいるまま本当に何もかも失くしてしまった。
「お姉さま……」
ごめんなさい。守れなくて。
「祐麒……」
ごめんなさい。何もできなくて。
「お父さん……お母さん……」
ごめんなさい。こんな所で生きていて。
自分の生まれた世界を失う事が、こんなにも辛いものだとは思わなかった。自分の居場所を失う事が、こんなにも痛いものだとは思っていなかった。
「ぅぁ――」
見つめている景色が涙で歪んだ。
それでも、そこまでだった。祐巳は決して涙を零さなかった。ただ、視界をほんの少し滲ませただけで終わらせてしまった。
祐巳はもう泣けなかった。ここで泣いてしまったらおそらく二度と立ち上がれなくなるだろうから、自分に泣く事を許さなかった。祐巳にできるのは、引き裂かれるような痛みを必死に耐える事だけだった。
いっその事この痛みを消してしまえば――。
どんなに楽だろう? そうすれば、この痛みから解放される。
でも駄目だ。そんな事をしたら、この世界でも他人を傷付けるようになってしまう。目の前にいるのが誰なのか分からなくなって、それがたとえ瞳子ちゃんだとしても平気で傷付けてしまうだろう。あの時のように、また『あなたは誰?』なんて言ってしまうだろう。
それは駄目だ。それは嫌だ。だって、瞳子ちゃんと約束した。約束とは言えないかもしれないけれど、『二度と言わない』と確かに私は口にした。
他の誰を忘れても良い。でも、それと一緒に瞳子ちゃんの事を忘れるのだけは嫌だ。だから、耐えよう。大丈夫、今までも耐えてきた。きっと耐えられるはずだ。
でも――。
(あぁぁぁぁっ……痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いよぅ…………)
駄目かもしれない。今度こそ駄目かもしれない。本当に一人ぼっちになってしまった。
ここには家族がいない。お姉さまもいない。
それは志摩子さんも同じだけれど、あの人は違う。他の何を失っても、それだけは失う事ができないものがある。それがあるから、この違う世界でも彼女は絶対に一人ぼっちになんてならない。
私は彼女のように、この世界で皆と一緒に生きていく事なんてできない。この世界では私は化け物だ。私はこの世界の人たちとは違う。だって、私は――。
「祐巳さまっ!」
温室の扉が開かれる音と、誰かが名前を呼ぶ声が同時に耳に届いてきた。
棚の上で身体を丸めたまま顔だけを動かしてそちらを見ると、扉の前で肩を上下させている瞳子ちゃんがいた。ここまで走ってきたらしくて随分と辛そうな様子だったが、キョロキョロと室内を見回して祐巳の姿を見付けると、瞳子ちゃんは安堵の表情を浮かべた。
乱れていた制服を手早くその場で整えた瞳子ちゃんは、いつもの澄ました表情を浮かべると背筋をピンと伸ばしてゆっくりと優雅に歩み寄って来る。
けれど、それも途中までだった。祐巳まであと数歩という所で、瞳子ちゃんが息を呑んで立ち止まった。
「ど、どうされたんです?」
そこから慌てて駆け寄ってくる。せっかく整えた制服も、浮かべた澄ました表情も、何もかもが台無しだった。
瞳子ちゃんは祐巳の前で立ち止まると、心配そうに顔を覗き込んできた。
何でだろう? 何でこの子は傍にいて欲しい時にいてくれるんだろう? 不思議に思いながら、ぼんやりと瞳子ちゃんを見つめ返す。
「祐巳さま?」
不安げに揺れる瞳子ちゃんの大きな瞳。祐巳は瞳子ちゃんに向かって、ゆっくりと手を伸ばした。
いけないのに。こんな事思っちゃいけないのに。妹(スール)にする事なんてできないのに。この子の傍にいたいと思う。この子に自分の傍にいて欲しいと思う。
「あなたは――」
「っ!」
祐巳の言葉に、瞳子ちゃんがビクッと身体を震わせた。真っ青になって祐巳を見てくる。また忘れられたとでも思っているのだろうか。そんなはずないのに。
「私の傍にいてくれる?」
「え?」
祐巳の言葉が予想外のものだったからか、大きく目を見開く瞳子ちゃん。
そんな瞳子ちゃんを見て、祐巳は小さく笑った。
「何でもないよ。子供じゃあるまいし、そんなに心配しなくても良いから」
「何でもない……って、目が真っ赤じゃないですか!」
それは自分では見えないから気付かなかった。
「小さなゴミが入ったの。別に痛くはないんだけど、異物感が酷くてね。でも、もう取れたから大丈夫」
「本当ですか?」
「うん。だから、そんなに心配しないで」
安心させるように殊更微笑んで言ってやると、まだ疑っている様子だったがとりあえず納得する事にしたようだ。深く突っ込まれては面倒な事になりそうなので、話を変えてやる。
「で、どうしてここに? 私を探してたみたいだけど?」
「祥子お姉さまが、館の前から去っていく祐巳さまを見たとおっしゃっていたので」
という事は、やはりあの時に見た後ろ姿は祥子さまだったのだろう。由乃さんも祥子さまと同じくらい髪は長いんだけれど、彼女はいつも三つ編みだ。
「それだけでわざわざここまで探しにきたの?」
「その時の祐巳さまの様子がおかしかったともおっしゃっていました」
「私がおかしいのはいつもの事でしょ?」
「……」
祐巳が茶化すと、瞳子ちゃんが急に黙り込んだ。厳しい目をして、じっと祐巳を見てくる。
「どうしたの?」
祐巳が尋ねるも答えない。しかし、その代わりなのか右手を伸ばしてきた。思わずその手を払おうとすると、「動かないでください」と言われる。仕方なく言われた通りにすると、祐巳の額に手のひらを当ててきた。
瞳子ちゃんの手のひらは、ひんやりと冷たくて心地良かった。凄いな。何で分かるんだろう? そう思っていると瞳子ちゃんが眉を吊り上げた。
「痛みを感じなくても、体調が悪い事くらい自分で分かりますよね。保健室にも行かずに、こんな所で何をしているんですか」
口調こそ静かなものの、明らかに怒っている。
「体調が悪いって、よく分かったね」
「誰だって今の祐巳さまを見れば気が付きます!」
「そうかなぁ?」
瞳子ちゃんが特別なんじゃないかな? と首を傾げる。
だって、クラスメイトは誰も気付かなかった。由乃さんたちも気付かなかった。志摩子さんなら、もし今日顔を合わせていたら気付いただろうけれど、それは祐巳との付き合いが長いからだ。だからやっぱり、瞳子ちゃんが特別なんじゃないかな? と思う。まだ出会って数日しか経ってないのに不思議だ。
「そんな事よりも、保健室に行きますよ」
「昨日の今日でまた保健室の先生に会えって? そんなのヤだよ。それに、もう少し時間が経てば治るから」
そう言ってみると、向けてくる視線が厳しいものから冷たいものへと変わった。
「いい加減にしないと見捨てますよ」
そう言うけれど、それを本当に実行できるような瞳子ちゃんじゃないのはよく分かっている。瞳子ちゃんは、とても優しいから。
「えー、酷いよ」
「だったらほら、早くそこから下りてください」
「はいはい、仕方がないなぁ」
「本気で怒りますよ?」
「ごめんなさい」
頭を下げて謝った後にブラブラと遊ばせていた足を地面に下ろし、腰を浮かせて立ち上がろうとした祐巳は、
「あれ?」
「祐巳さまっ!?」
膝がカクンと折れて、そのまま地面に尻餅を突いてしまった。立ち上がろうとしたが足に全く力が入らず、ほんの少しも動いてくれない。
「あはは、立てない」
仕方なく愛想笑いを浮かべてみる。
「……笑い事じゃありません」
怒られた。いい加減、本気で謝った方が良いのかもしれない。
「あなたはいったい、どれくらい私を心配させれば気が済むんですか」
祐巳としても瞳子ちゃんにはあんまり心配をかけたくない。けれど、今の瞳子ちゃんを見て、祐巳はとても嬉しく思っていた。
心配させて、心配してくれるのを見て、嬉しいと感じる自分はどこか変なんじゃないかと思う。きっと重大な病気を患っているに違いない。
「ごめんね」
「べ、別に謝らなくても……仕方ありませんね」
そう言って瞳子ちゃんが祐巳の隣に来て、制服が汚れるのも構わず膝を突いた。
「肩に掴まってください」
どうやら、一人では立てない祐巳に肩を貸してくれるようだ。しかし、祐巳よりも小柄な瞳子ちゃんにそこまで力があるとは思えない。
「さすがにそれは無理なんじゃない?」
「でしたら、立つ努力くらいはしてください」
自分でも分かっていたのだろう。怒ったような口調で返してくる。
それを聞いて、祐巳は思わず笑みを浮かべた。
「瞳子ちゃんは優しいね」
「ですから、無駄口を叩いてないで――」
瞳子ちゃんが怒っているけれど、それには構わずに祐巳は続けた。
「優しい瞳子ちゃんは、この世界に私の居場所を作ってくれる?」
「え?」
何を言われたのか理解できなかったらしい。だから、祐巳は言い直した。
「私の居場所になってくれる?」
*
瞳子の聞き間違いでなければ、『私の居場所になってくれる?』と祐巳さまは言った。
(それって。それの意味する所って――私を妹(スール)にしたいって事ですか?)
思わず期待を込めた眼差しで祐巳さまを見つめる。けれど、次に祐巳さまが口にした言葉を聞いて瞳子は落胆した。
「なーんてね、冗談だよ。ありがとう。もう大丈夫、自分で立てるから」
そう言った後、瞳子の手を借りずに自分の力だけで立ち上がる祐巳さま。
「冗談……ですか」
同じように立ち上がりながら消え入るような声で呟くと、祐巳さまが申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんね、変な事を言っちゃって。熱のせいかなぁ?」
確かに、先ほど触れた祐巳さまの額はかなり熱かった。間違いなく、今の祐巳さまの体調は悪いと思う。けれど、本当にそれだけなのだろうか?
「保健室まで付いて来てくれるんでしょ?」
笑顔で言う祐巳さま。けれど瞳子には、祐巳さまが無理をしているのがはっきりと分かった。祐巳さまの浮かべている笑顔が、まるっきり作られたものだったからだ。
このまま放っておいたら、駄目なような気がした。このまま誤魔化されてしまうのは、非常にまずい気がする。
先ほど祐巳さまが口にした、『私の居場所になってくれる?』という言葉。あれは、瞳子に縋ろうとしたのではないだろうか。祐巳さまは、余程の事がない限り自分の弱い所を見せるような人ではない。それを他人に見せる事を何よりも怖がっている人なのだ。だとしたら、あんな事を口にしてしまうような余程の事があったに違いない。
ここに瞳子が来た時、目を真っ赤にしていたのもそれが原因だと思う。頬に涙の痕跡はなかったが、泣いてしまいそうにはなっていたのだろう。
祐巳さまが痛いと思う事なら、悲しいと思う事なら、全部取り除いてあげたいと思う。それくらい、瞳子は祐巳さまに惹かれている。
「いったい何があったんです?」
「何の事?」
ヘラヘラと笑っている祐巳さま。そうやって笑っていれば、瞳子を誤魔化せるとでも思っているのだろうか。
「私が何を聞きたいのか、あなたは分かっていますよね。誤魔化そうとしないでください」
言ってから瞳子は後悔した。祐巳さまの顔から表情が消えてしまったからだ。同時に、それまで何となく感じていた祐巳さまの感情も一切消え失せてしまった。
「あっ、あのっ、祐巳さま?」
自分は何か大変な事をしてしまったのではないか、と慌てふためく瞳子とは対照的に、静かに瞼を閉じた祐巳さまは何やら怪しげな事を口にした。
「私ね、天使なの」
「は?」
目が点になる、とはこういう事だろうか。きっと、今の自分はそんな表情をしていると思う。
「実は人間じゃないのよ」
祐巳さまが変わらず無表情のまま続けた。
これにはさすがに呆れ果てた。この期に及んで、また妙な事を言って誤魔化す気なのか、と。もうそろそろ我慢の限界を超えてしまいそうだった。
(こんなにもあなたに惹かれているのに。あなただってそうだと思ったのに)
瞳子の勘違いでなければ、祐巳さまだって瞳子に惹かれているはずだ。今までの祐巳さまの言動の節々から、それくらいは感じ取れた。自分は鈍感ではない。それなのに、なぜこの人は分かってくれないのだろう。どうして大切な事を誤魔化そうとするのだろう。
それだけはやめて欲しかった。誰よりも強く惹かれているから、目の前にいるこの人に誤魔化されるのだけは嫌だった。
「どうしてあなたは、そうやって誤魔化す――」
ふわり――純白が舞った。
「……えっ?」
思わず息を呑む。
瞳子の目の前を横切ったのは真っ白な羽根だった。それはどこまでも白く、一点の曇りも見当たらない穢れなき純白の羽根だった。
「人間じゃないから、あなたを妹(スール)にする事はできないの」
祐巳さまの背中から伸びたそれは、白く輝いていた。
純白の翼が広がり、無数の羽根が煌きながら宙に舞い、溶けるように消えていく。
「ねえ、瞳子ちゃん。この世界に私と同じような人は存在しているのかな?」
人一人が創り出せる光景とは、とても思えなかった。この世で見られるような光景とは、とても思えなかった。
そのあまりにも美しい光景に目と心を奪われている瞳子に向けて、祐巳さまが無表情のまま言った。
「私の生まれた世界、なくなっちゃったみたい」
「……え?」
それって――。
「私と同じように翼を持っている人たちも、皆死んじゃったんだって」
祐巳さまのいた世界が滅んだ?
「私一人だけになっちゃった……」
祐巳さまの表情が歪んだ。けれど祐巳さまは、決して涙を零さなかった。
「見てよ、この翼。気持ち悪いでしょう? この世界じゃ私、本当に化け物なの。ねえ、私はこれからどうすれば良いと思う? 本当に一人ぼっちになっちゃった……」
「祐巳さま……」
確かに、祐巳さまと同じような翼を持つ人なんて、この世界のどこを探したとしても決して見付からないだろう。
「志摩子さんが羨ましい……。あの人は人間だもの。ねえ、何で私は人間じゃないの? 何で私がこんな目に遭わなくちゃならないのよっ! ねえ、教えてよ。何でこんな……」
瞳子に答えられるはずがなかった。それどころか、どう慰めれば良いのかさえ分からない。ただ、何もかも失ってしまった痛みに耐え続ける祐巳さまを見ている事しかできない。
瞳子は祐巳さまとは違う。自分が持っているものを全て失った事なんてない。瞳子を生んでくれた両親は事故で失ってしまったけれど、育ての親がいる。何よりも、瞳子は普通の人間だ。たとえ他の全てを失ったとしても、それだけは決して失う事はない。
祐巳さまは、お姉さまを失い、家族も失った。元々住んでいた世界まで滅んでしまった今、人間ではない祐巳さまは居場所まで失ってしまった事になる。
瞳子も辛かった。大切な人が目の前で傷付いているのに、自分は何もしてあげる事ができない。こうやって見ている事しかできない自分に腹が立って、悔しくて、何よりも悲しかった。
「こんな世界嫌い……。大っ嫌い……全部なくなっちゃえば良いのに……」
ズキン、と祐巳さまの言葉に胸が痛んだ。
そんな事を言わないで欲しかった。そんな悲しい事は聞きたくなかった。
「やめてください」
今までは、特に何とも思っていなかった。この世界が好きかどうかなんて、考えた事もなかった。けれど、今は胸を張って言える。この世界を好きかどうか尋ねられたなら、「好きだ」と躊躇いなく答えられる。
だって、
「あなたがこの世界に来てくれたから、私はあなたに会う事ができたんです。あなたと出会えたこの世界が、私は好きなんです。だから、『嫌い』なんて言わないでください。『なくなれば良いのに』なんて、優しいあなたが言わないでください」
祐巳さまと出会った。この世界でなければ、今ここにいる自分は祐巳さまとは出会えなかっただろう。
「人間じゃない? それがどうしました。良いじゃないですか。だって、この翼……とっても綺麗ですよ」
そっと手を伸ばして、真っ白な翼に触れる。光が集まって形作られているようなのに、ちゃんと触れる事ができた。その翼は、祐巳さまの優しさを表すかのようにほんのりと温かかった。
「この世界にいるのが嫌だとおっしゃるのなら、どこかに行くと言うのなら、私も一緒に連れて行ってください。あなたが傍にいてくれるのなら、私はどんな世界でも好きになれます」
「……この世界から、どこか他の場所に行くような力なんて私にはないわよ。それに、何を馬鹿な事言っているの? あなたの居場所はここなの。ここに、ちゃんとあるじゃない」
「あなたに出会って惹かれた時から、私にとってあなたのいない場所に意味なんてありません。もしもあなたが私の前から姿を消したりすれば、私は自分の命を絶ちます」
「……何よそれ」
これで、祐巳さまは瞳子の前からいなくなったりできない。祐巳さまは優しいから、瞳子のこの言葉を聞いていなくなったりなんてできない。
自分の命を人質にして、優しい祐巳さまをこの場所に縛り付ける。こんな卑怯で最低な事をしてでも祐巳さまの傍にいたい。祐巳さまに傍にいて欲しい。
「そんなの卑怯よ……」
「あなたをここに縛り付けるためだったら、私は何だってします。あなたを失わないためなら、どんな事だってできます」
「……怖いね」
祐巳さまは困ったように微笑んだ。
「そうですね」
自分でも怖いと思う。こんなにも惹かれているとは自分でも思わなかった。祐巳さまのためなら、本気で命を投げ出したって良いと思っている。
「私があなたの居場所になります。それではいけませんか?」
「傷付けちゃうかもしれないよ?」
「あなたが妙な隠し事さえしなければ、傷付いたりしません」
「裏切っちゃうかもしれないよ?」
「あなたは決して裏切ったりしません」
「いなくなったりしない?」
「ずっと、あなたの傍にいます」
「本当に? ずっと傍にいてくれるの?」
「約束します」
はっきりと声に出して告げると、祐巳さまの翼が瞳子の背中を抱き締めるように動いた。
「きゃっ」
瞳子と祐巳さまを輝く翼が包み込み、世界が白一色に染まる。
ここは、白の世界。
祐巳さまと瞳子の、二人だけの世界。
純白の翼を持つ、天使のような祐巳さまと見つめ合う。
「私に何をして欲しいの?」
悪戯っ子のような微笑みを浮かべて問いかけてくる祐巳さま。何を求められているのか、瞬時に察した瞳子はあの時の言葉を今一度口にする。
「私を祐巳さまの妹(スール)にしていただけませんか?」
「そこまで求められたら仕方がないね」
にっこりと笑った祐巳さまが、自分の首にかかっているロザリオを外した。
曲がって、錆びて、歪んでいる、けれど、とても輝いて見えるロザリオ。そのロザリオに優しくそっと口付けを落とすと、愛しいものを包むように両手で大切に包み込んで瞳子に向かって差し出してきた。
「このロザリオは、私が戦ってきた証。お姉さまの形見にして私の居場所。必要がなくなったら、捨ててくれても構わないわ。その時は、私もあなたの前から消えるから」
祐巳さまは、自分の居場所に瞳子を選んだ。この世界でただ一人、瞳子を選んだ。瞳子のいる場所が、祐巳さまの居場所なのだ。もしもこのロザリオを捨ててしまったら、祐巳さまは本当に瞳子の前から去ってしまうだろう。だから、瞳子もこの命を以って応えようと思う。
「もしも私がそのロザリオを捨てたら、その時は私を殺してください」
瞳子の言葉に、「分かった」と祐巳さまが頷いた。
でも、きっと祐巳さまに瞳子の命を奪う事なんてできないだろう。それでも良い。これは自身への誓いだ。
(祐巳さまを裏切ったら、私はこの命を自分の手で絶つ)
祈るように跪いた瞳子の首に、祐巳さまの手によって歪な形のロザリオがかけられた。
一度は酷い言葉と共に拒絶された。それでも今、祐巳さまのロザリオは間違いなく瞳子の首にかかっている。
「瞳子ちゃん」
そのロザリオの感触を、片手で確認しながら頬を緩めていると名前を呼ばれた。
跪いたまま顔を上に向けると、そこにはトロンとした眼差しの祐巳さまがいた。その熱に浮かされたような眼差しを目にした途端、トクンと瞳子の鼓動が跳ねる。同時に、息苦しいくらいに身体が内側から熱くなってきた。
(私、どうしてしまったの?)
まるで魔法にかかったようだった。このままではまずい、とは思うものの祐巳さまの顔から目が離せない。
「あのね、我慢できないの」
瞳子の肩に手をかけながら、祐巳さまがふっくらとした柔らかそうな唇で言葉を紡ぐ。
なぜか祐巳さまの顔が、ゆっくりと瞳子の顔に近付いてきた。
「な、ななななななな何が我慢できないんですっ?」
徐々に近付きつつある祐巳さまの唇に、プルプルしてるとか、柔らかそうだとか、目と意識を奪われながら尋ねる。
けれど、祐巳さまは答えない。答えなんて必要ないでしょう? と言わんばかりに更に顔を近付けてくる。
(ええっと、これはつまり、そういう事なの? き、キス? それとも、それ以上? あ、あのっ! さすがにそこまでは望んでない……んですけれど……)
「瞳子ちゃん」
林檎のように頬を紅く染めて、祐巳さまが熱を帯びた声で名前を呼んでくる。熱い吐息が頬にかかり、瞳子の背筋をゾクゾクとした何とも言えない感覚が走った。同時に、プツン、と自分の中で何かが切れる音。
(まあ良いか……)
祐巳さまと同じくらい顔を林檎のようにして応える。
「祐巳さまぁ……」
柔らかくて温かな祐巳さまの手のひらが、肩から上ってきて瞳子の火照った頬に触れた。
されるがまま、拒む事なんてできない。いや、拒むだなんて、そんな愚かな事はほんの少しも考えない。
(あぁ、あと少しで……祐巳さまと……)
「ふふっ」
瞳子の魂まで蕩けさせてしまうような微笑みを浮かべながら、祐巳さまがその桜色に濡れた唇で、
「もう限界……」
と続けた。
「は? 限界って? あのっ、何だか傾いてません? うきゃぁっ!?」
祐巳さまに押し倒されながら、瞳子は自分ですら聞いた事のない不思議な悲鳴を上げた。
「……で? 何かおっしゃりたい事はありますか?」
「うぅ、世界がぐるぐる廻ってるぅぅ……」
瞳子の上に覆い被さって目を廻している祐巳さまが唸りながら言う。
祐巳さまの翼は倒れた拍子に無数の羽根を辺り一面に散らばせて、周囲の空間に溶けるように消えてしまった。それは恐ろしく幻想的な光景だったけれど、本当に一瞬の事だったので少し残念に思う。けれど、もし誰かがここにやってきてあの翼を見られると大変な事になるだろうから、それで良かったと思う事にした。
それにしても、まさかこんなオチが付くとは思わなかった。先ほどまでのあの神々しさは、いったいどこへ行ってしまったのだろうか。ついでに、あの……ちょっとだけえっちぽかった雰囲気も。
(あと、ほんの数センチだったのに……)
祐巳さまの下敷きになったまま先ほどの事を思い出すと、再び胸が高鳴ってきた。
(ばっ、馬鹿っ。何を考えているのよ私はっ!)
こんな変な事を考えてしまうのも、きっといつまでも祐巳さまが瞳子の上に乗っているからだ。
そう考えて、祐巳さまにさっさと自分の上から退いてもらおうと瞳子は口を開いた。
「いい加減、重いんですけれど」
「ごめ……ん。動け……ない」
とても情けない祐巳さまの返事。瞳子は大きく溜息を吐いた。
「ですから、保健室に行きましょうって言ったのに」
そう文句を言ってみたものの、途中から自分は祐巳さまの体調が悪い事なんてすっかり忘れていた。だから、押し倒された事によって制服が汚れてしまっているけれど、それは許そうと思う。
それにしても、祐巳さまからの返答が遅い。いくら何でも遅過ぎる。おかしいわね? と不思議に思いながら頭を少し浮かせて自分の上に覆い被さっている祐巳さまを見てみると、
「くー」
祐巳さまは瞳子の胸に顔を埋めて、小さな寝息を立てていた。
「……まったく」
文句の一つでも言ってやろうと口を開きかけたが、何も言わずにそのまま口を閉じる。
物音一つしない、しん、と静まり返っている古びた温室。その静かなはずの温室に、微かに聞こえる音があった。それが何の音か、どこから聞こえてくるのか、探さなくても瞳子には分かっていた。そっと、祐巳さまの頭を抱え込むように両腕を回してから目を瞑る。
そのまま動かずにじっとしていると、段々と聞こえている音が大きくなってきた。
とく、とくん、とく、とくん。
それは、鼓動の音。生命の声。生きている証。
(あなたにとっては残酷な事だと思いますが)
とく、とく、とく、とく、と少し早い瞳子の音。
(あなたの世界で、あなたの命が失われなくて良かった)
とくん、とくん、と祐巳さまの落ち着いた音。
「ここが、あなたの居場所ですからね」
確かな命の鼓動を感じながら、世界で一番愛しい人の寝顔に向かって瞳子はそう囁いた。
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もちもちぽんぽんしりーず
【No:1878】−【No:1868】−【No:1875】−【No:1883】−【No:1892】−【No:1901】−【No:1915】−これ
出会ったのは一年と少し前
貴女はベッドの上で愛しい人の優しさを受けていた。
出会ったのは一年と少し前
貴女は愛しい人に認められた存在だった。
そして今
私は貴女の横に立っている。
文化祭も終わり、振り替え休日の次の日。
まだ誰も居ない薔薇の館に私、福沢祐巳は居る。
「♪〜♪〜。」
鼻歌を歌いながらテーブルを拭いていると、藤堂志摩子さんが入ってきた。
「あら?ごきげんよう。祐巳さん早いのね。」
「ごきげんよう。だって、一年生だもの。」
私が志摩子さんの方を向くと、クスッと笑われる。
「どうしたの?」
「いえ、早く来たのはそれだけじゃないと思って。」
「?なんで?」
「祐巳さん、普通ロザリオは服の中に入れるのよ。」
指摘されて胸元を見てみると、リボンの前で揺れている金属のアクセサリー。
「うう、だって慣れてないんだもん。」
多少照れながら服の中に仕舞い込む。
「蓉子さまから受け取ったのね。」
「・・・うん。」
今度は、本当に照れて頷いた。
「照れてる祐巳さんは可愛いわね。」
「志摩子さん〜。」
花のように笑う志摩子さんに何も言い返せない。
「もう、他の方々がいらっしゃるわ。お茶の準備は私がするわね。」
外からは誰かが階段を上る音がする。
まだ早いせいで空気が澄んでいるせいか、いつもより良く聞こえた。
「ごきげんよう。」
入ってきたのは、水野蓉子さま、鳥居江利子さま、佐藤聖さま。
「ごきげんよう。」
私と志摩子さんも挨拶。
蓉子さまは私に気付くと歩み寄ってきた。
「言った通りにちゃんと早く来たのね。えらいえらい。」
そう言って私の頭をなでてくれた。
「・・・はい。」
「わー、見せつけてくれちゃって。」
江利子さまの声が聞こえるけど無視。
こうしてもらいたくて昨日お母さんから目覚ましを借りたんだから。
「蓉子、お姉さま達がもう来るよ。」
聖さまに言われて「解ってるわよ。」と言って、私から離れた。
・・・・・・解っているけど、少し名残惜しい。
しばらくすると、紅薔薇さまと白薔薇さまが入ってきた。
「ごきげんよう。」と挨拶を交わす。
「あれ?お姉さまはどうなされたのでしょう?」
江利子さまの質問に「わからない。」との返事。
さらにしばらく雑談を交わしていると、8時ぎりぎりになって黄薔薇さまが入ってきた。
「ごめん。遅くなった。」
「ぎりぎりよ、令。」
紅薔薇さまの言葉にもう一度、「ごめん。」と謝った。
やっぱり紅茶は入れたてが良いし、先に乾杯してるのも失礼だろうと言うことで待っていたんだけど。
「由乃さんがまだですね。」
「由乃は今日はお休み。いつもお祭りの後は熱を出すの。」
私の質問に黄薔薇さまが答えた。
大丈夫かな?と思いつつ、私と志摩子さんは流しに向かう。
カップが全員の手に渡ったことを確認すると
「文化祭の成功を祝って。」
紅薔薇さまの言葉に軽くカップを掲げた。
「さて、文化祭についてなのだけど。」
紅薔薇さまが続ける。
「ひとつ確認しておきたいことがあるの。祐巳ちゃん。」
「は、はい、なんでしょう?」
いつものキリッとした顔、鋭い声に少し緊張。
「姉として聞いておきたいのだけど、蓉子からどんな風にロザリオを受け取ったの?」
「ごほっ!?」
視界の端で蓉子さまが咳き込んでいる。
「あ、それは私も友人として聞いておかないと。」
「私もそれは必要だと思うわ。」
白薔薇さまも黄薔薇さまも無駄に気品溢れた振る舞いで。
(ど、ど、ど、どうしよう?)
助けを求めて蓉子さまを見ると、ハンカチで口を押さえながらこっちを見ている。
その視線は「言ったら、・・・すごいわよ。」と言っていた。
「うーあーえー。」
「どうなのかしら?」
どう切り抜けようかと思っていると、異変を感じた。
(マズいマズいマズい。)
湧き上がってくるものを堪えていると、白薔薇さまが覗き込んできた。
「祐巳ちゃん?どうしたの?」
もう駄目だ。
そう思って立ち上がろうとした瞬間。
―――ぎょろぎょろぎょろぎょろ―――
しばらく鳴った後、「ぎょ!」という音を最後にそれは鳴り止んだ。
数秒後に部屋の中に笑いが溢れた。
「斬新な返し方ね。」
そう言って白薔薇さまに褒められた。(?)
「うー。」
こんなことで褒められてもうれしくないですよ。
「祐巳ちゃん。」
「はい?」
反省会も終わり、各自ばらばらに部屋を出てゆく。
私と志摩子さんがカップを洗っている間、蓉子さまは紅薔薇さまと話しをしていた。
どうやら私を待っていてくれたようで。
志摩子さんは笑いながら「先に行くわね。」と部屋を出て行った。
今、部屋の中は2人きり。
「駄目でしょう、朝ごはんを食べてこないと。」
そういうと、軽く頭をぽん、とされた。
だって、食べていたら時間に間に合わなくて。
「手を出して。」
昔、何かで見たように手の甲を叩かれるのかな。
怯えながら恐々と手の甲を差し出す。
「違うわ、手の平を上によ。」
どうやら叩かれるわけじゃないらしい。
平を上にすると、何か置かれた。
「これは約束を守ったご褒美。祐巳ちゃんが好きそうだなと思ってもってたの。」
置かれたのはイチゴミルクの飴。
「こんなのでも無いよりはマシでしょう。」
蓉子さまはにこっと笑った。
それから数日後。
朝、教室に向かうと桂さんが私に気付くや否や
「あら、ごきげんよう、シンデレラ。」
「桂さん、ごきげんよう。」
もう、劇は終わったのに〜。
そう思っていると、机の中からリリアンかわら版を取り出した。
「これ見てよ、最新号。」
手にとって見ようとすると
「あら、蔦子さんごきげんよう。」
「ごきげんよう、桂さん、シンデレラ。」
「ごきげんよう、蔦子さんまで。」
振り向くと、カメラがあってシャッター音がした。
「わっ、いきなりはやめてよ。」
非難の声を上げても、どこ吹く風とばかりに
「それ見てみれば解るでしょう。」
改めてかわら版を見た。
―――全校アンケート結果―――
姉にしたい人1位 支倉令
妹にしたい人1位 島津由乃
ベストスール 小笠原祥子 水野蓉子
特別賞
ミスターリリアン 支倉令
ミス・クィーン 水野蓉子
ミス・プリンセス 藤堂志摩子
ミス・シンデレラ 福沢祐巳
「み、ミス・シンデレラ?」
「そう、ということで、貴女は名実ともにシンデレラなのですよ、祐巳さま。」
桂さんは、テレビに出てくる執事のような口調で頭を下げた。
「まぁ、山百合会の人が選ばれるのは妥当って感じね。それに、劇は大きかったわね。」
蔦子さんは冷静に分析する。
確かに3年生は、あんまり出ていなかったけど。
「ただねぇ〜。」
ため息というか、力無い感じで蔦子さん。
「?」
「そうね。江利子さまの立場が微妙よね。」
意味の解らない私をフォローする桂さん。
「どうゆうこと?」
桂さんに尋ねると
「考えてもみてよ、姉、妹がそれぞれ1位。
もし江利子さまがいなかったら?そう考えない?」
「ああ。」
やっと理解した。
「でも、別にわざとって訳じゃないし。」
蔦子さんは眼鏡を直すと、嘆息しながら
「そうよ、だから余計質が悪いのよ。
ああ、そういえば、新聞部からアンケートの依頼が来るそうよ。」
「アンケート?」
「そ、多分好きなもの、嫌いなもの、趣味、エトセトラエトセトラ。
あげく、身長、体重まで聞かれるかもね。」
後半は笑いながら。
「あら、大変よ祐巳さん。もしかしたら、バストのサイズまで聞かれちゃうかも。」
桂さんも笑いながら。
「もう、2人とも!」
怒る私に「ごめんごめん。」と言いながら、まだ笑っている2人だった。
その日の帰り。
私が薔薇の館へ向かうために廊下を歩いていると
「あれ?由乃さん?」
菊組のクラスに1人残る由乃さんを見かけた。
「ごきげんよう、祐巳さん。」
「ごきげんよう、体の方はもう良いの?」
由乃さんは頷くと机の上を示した。
「休みの間に溜まったこっちのほうが大変。」
国語に始まり、数学、理科、果ては家庭科まで。
手伝いたいけど、由乃さんなりのまとめ方もあるだろうから諦めた。
「もう終わるから待ってて。」
前の席に腰を落として、ノートに写す姿を眺めることにする。
『島津由乃』さん。
肌はとても白くて、小柄で華奢。
切りそろえられた前髪の下には、濃いまつげがあってまるでお姫様。
志摩子さんが桜のようなふわって感じなら、由乃さんは朝露に濡れた睡蓮って感じ。
「何?」
私の視線を感じたのか、顔を上げた。
「ん?由乃さんに見とれてた。」
一瞬驚いた顔をした後、くすくすと笑い出した。
「祐巳さんって面白い。」
「そうかな?」
「で、私のことはどう思った?」
うーん、見た目の事を聞いてるんじゃないだろうし。
「うーーん。」
腕まで組んで考えていると
「病弱で守ってあげたくなる感じ?」
「そう、それ。」
つい手を打ってしまった。
由乃さんはノートを写す作業に戻る。
「残念。私はそんな良い子じゃないのよ。」
かと言って、悪い子にも見えないんだけど。
「今日、薔薇の館に行く?」
「ちょっと今日は無理かな。もうすぐ黄薔薇さまが迎えに来るから。」
「?」
なんで黄薔薇さまが出てくるんだろう?
「あれ?知らなかった?私と黄薔薇さまは従姉妹なのよ。」
「え?そうなの?」
「本当に知らなかったのね。結構有名だと思ってたんだけどね。」
「ごめん。」
「別に謝ることじゃ無いわよ。」
由乃さんは「終わった。」とつぶやいてノートを閉じた。
「祐巳さん、蓉子さまの妹になったんでしょう?」
シャーペンを筆箱に仕舞い込む。
「・・・うん。」
やっぱり慣れない。
「うれしい、祐巳さんとは気が合いそうだし。」
「私も由乃さんと良い友達になれたらうれしい。」
そんな話をしていると
「迎えに来たよ〜。・・・あれ、祐巳ちゃんと一緒だったんだ?」
「ご、ごきげんよう。もう薔薇の館に行きますから。」
あわてて挨拶をして、2人きりにさせてあげようとすると
「ごきげんよう。別に気にしなくていいのに。」
「そうよ、小さいころからずっと一緒だもの。」
「もし祐巳ちゃんと蓉子ちゃんが一緒だったらすぐ出て行くけどね。」
笑いながら言う黄薔薇さまの言葉に由乃さんは目を輝かせた。
「2人っきりになるために、わざと祥子と話をして帰るのを遅らせたり。」
うわ、気付かれていたらしい。
「蓉子ちゃんも楽しそうだし。」
「まるで新婚さんね。」
黄薔薇さまも「そうね。」と言って笑った。
私は薄笑いを浮かべて聞いていた。
それ以外に何ができようか。
「さて、帰ろうか?」
さりげなく由乃さんのかばんを持つ動きにミスターリリアンが伊達でないことを知る。
歩き出す黄薔薇さまに付いていくべく席を立つ由乃さん。
そっと私に顔を近づけると
「ありがとう祐巳さん、おかげで決めたわ。それとミス・シンデレラおめでとう。」
言うと教室の出口に向かう。
気になるのは「決めた。」と言う言葉と、ちらりと見えた握りこぶし。
「・・・よ、由乃さん?」
私の言葉が届いたのか、下ろしている手でピースサインをした。
「由乃さん?」
何故か不安になる私だった。
次の日の放課後。
薔薇の館では会議という名のお茶会が行われていた。
参加者は、薔薇さま、蓉子さま、聖さま、私。
「そういえば蓉子ちゃん、新聞部のアンケート受け取った?」
白薔薇さまの問いに「はい。」と蓉子さま。
「良かったわね。妹はいますかの欄に大きく祐巳ちゃんに名前が書けるわよ。」
「ぶぅ。」
危うく紅茶を吐き出しそうになる。
「何を突然?」
蓉子さまのもっともな問い。
「だって、私アンケートもらってなくて悔しいんだもん。」
「だもん。」って、白薔薇さま?
「ねぇ?」と話しかけられた聖さまが「はぁ。」と返す。
―――がちゃ―――
「ごきげんよう。」
江利子さまが入ってきた。
一通り挨拶を済ますと
「お姉さま、ちょっといいですか?」
「何?」
「ちょっと話があるので外まで来てもらえませんか?」
ここじゃ言えない話のようで、いぶかしげな顔をして黄薔薇さまは部屋を出て行った。
「なんなのかしらね?」
紅薔薇さまに答えられるものは誰もいなかった。
とりあえず棚上げにして雑談を続けると、しばらくしてまた扉を開く音。
今度もまた江利子さま。
「ちょっと手を貸してほしいのですが?」
「どうしたの、江利子ちゃん?」
「ちょっとお姉さまが倒れてしまって。」
「えっ?」
あわてて窓に駆け寄ると、確かに館の前で黄薔薇さまが倒れてる。
「いったい何があったの?」
慌てる紅薔薇さまに対し、江利子さまはなんでもないように言った。
「由乃からロザリオを返されたことを報告しただけなんですけど。」
「えーーーーーーー!!」
部屋の中に驚きが満ちた。
今はまだ知る由も無かったけど
これをきっかけに
私の周りであと2組もロザリオを返すなんて
今は思いもしなかった。
はい、黄薔薇革命編です。長編で原作がある以上、毎回感動話も入れられないし、先の展開も知られているので、頑張りたいと思います。・・・最後のやつは自分の首を絞めたような気が。笑(オキ)
今回は、私の都合で一定のリズムで投稿していたのが崩れてしまいました。楽しみにしていて、あれっ?と思った方(居ないだろうけど、居たら嬉しいです。)申し訳ないです。(ハル)
もちもちぽんぽんしりーず。
【No:1901】と【No:1915】のあたりにあった話
「そう言えばさぁ。」
私の隣で昼食をとっていた桂さんの声に手を止めた。
ここは講堂の裏、食べ終わったらシンデレラのセリフを覚えているかテストをする予定。
ちなみに、志摩子さんと蔦子さんが居る。
「急遽祐巳さんがシンデレラになったんでしょう?
その前は誰だったの?」
「私だったわ。」
志摩子さんが軽く手を上げた。
「はー、まぁ、王道ってやつよね。」
その言葉に私は首を傾げる。
「じゃあ、私は?」
「それは、ねぇ?蔦子さん。」
端と端の2人が顔をあわせた。
「そうね、コメディーって感じ。」
「コメディー?」
「あら、祐巳さん悪い意味じゃないわよ。」
蔦子さんの言葉に桂さんも「そうそう。」と頷く。
「祐巳さんのシンデレラは可愛くて素敵だと思うわ。」
手を合わせて志摩子さん。
「そう、志摩子さんのシンデレラを祐巳さんは出来ないけど、逆もまた然りよ。
志摩子さんも祐巳さんのシンデレラを出来ないのよ。」
付け足す蔦子さんの言葉に
「そうなのかな?」
この2人に言われると納得しちゃうような気がするから不思議。
「で、志摩子さんは何をするの?」
桂さんが話を変えてしまうから、私が納得した流れになってしまった。
「私は姉Bよ。」
「あら。」
劇の配役を知らなかった二人が驚きの声を上げる。
「意外かしら?」
「だって、祐巳さんに命令をする志摩子さんが想像できないもの。」
話をする桂さんを見た後、志摩子さんは私を見た。
「練習のとき、変なところあった?」
練習のときを思い出すと
「うーんとね、迫力はあるよ。」
全員の視線が集まる。
「志摩子さんだから、逆にこう従っちゃうというか。」
私の言葉に、志摩子さんを除く3人が「解る解る。」と笑い合い、志摩子さんだけが首を傾げていた。
「すいませーーん。」
薔薇の館の1階の物置から出てくると、入り口に2人組みの生徒が居た。
「はい、なんですか?」
いちいち上に呼びにいくことも出来ず、正式には山百合メンバーではない私が対応する。
「あ、祐巳さん、文化祭でカレーを出すのだけど、是非薔薇様たちに食べていただいて感想を聞きたいの。」
見れば、手におかもちと言うのだろうか、そういうのを持っていた。
「薔薇さま方は全員上にいらっしゃると思うから。どうぞ。」
先導して階段を上がり始めた。
「でも良かったわ。祐巳さんで。」
「?」
「失礼だけど、もしいきなり紅薔薇さまだったらどうしよう?って言ってたの。」
隣の子と「ねぇ。」と頷きあった。
だったら、少し嬉しい。
由乃さんも言ってたけど、別にここは薔薇さま専用って訳じゃないから。
その手助けが出来るなら嬉しい。
「桜亭の方がいらっしゃいました。」
ビスケット扉をノックして開いた。
試食自体は了承してくれたのだけど、問題はカレーを出した後。
「あれ、8皿しかないわ。」
蓉子さまの言葉に持って来た2人が顔を見合わせた。
「あ、すいません。祐巳さんを数に入れ忘れてしまったようです。」
ちらりと私を見た。
「あ、私なら良いです。食べても美味しいくらいしか言えないだろうし。」
とりあえずそれで納得してもらうと、私を除く方々が食べ始める。
「緑が欲しいかな?」とか「ご飯とカレーの量が」とか適切なアドバイスを熱心にメモる2人。
しばらくして感想が出切ると、
「このカレーのお皿は、後で返しに行けば良いかしら?」
「あ、いえ、これに入れて館の前に出していただければ、帰りに回収をしますから。」
紅薔薇さまの問いに答えると2人は帰っていった。
黄薔薇さまが扉を開けてあげ、白薔薇さまの「ありがとう。」を背に受けて。
扉が完全に閉まると、白薔薇さまが提案をした。
「さて、祐巳ちゃん。部外者も居なくなったことだし、蓉子ちゃんに食べさせてもらえば?」
「え?」
白薔薇さまと蓉子さまの顔を交互に見る。
「少なくとも蓉子ちゃんはそのつもりだったと思うけど?」
黄薔薇さまの言われるままに蓉子さまのカレー皿を見ると。
「えーと。」
なるべく崩さないように半分残されている。
視線を蓉子さまに向ける。と
「・・・今、スプーンを洗ってくるから。」
流しに向かう蓉子さまの顔は見えない。
「あら、てっきり食べさせてあげると思ったのに。」
紅薔薇さまの言葉に、私と蓉子さまは動きを止めた。
「なんだったら、私たちは外に出て行ってもいいのよ?」
「結構です。」
蓉子さまは、再度動き出し流しへ向かう。
「残念ね。」
『あーん。』を想像していた私は、笑いかけてきた白薔薇さまに思わず顔を伏せた。
その後カレーを食べたけど、やっぱり「おいしい。」しか言えなかった。
・・・・・・・・・・・・・ただ、蓉子さまが口をつけたものだと思うと、少し緊張してしまったのは内緒。
「祐巳ちゃん、終わった?」
文化祭当日、蓉子さまは私の教室まで迎えに来てくれた。
これから劇が始まるまで、2人で回る約束したのだ。
「もう少ししたら、交代の子が来てくれると思うので。」
「じゃあ、それまで展示を見ているわ。」
「はい。」
蓉子さまが展示を見ている間に交代の時間。
座っていたクッションを直していると、ちょうど展示を見終わったらしい。
「ぜひ、記帳して行って下さい。」
「ええ。」
ボールペンでノートに、蓉子さまらしいきっちりとした文字で『水野蓉子』と書き込まれた。
「行きましょう。」
「はい。」
その様子に、交代したの子が
「祐巳さん、蓉子さまの妹になったの?」
と、聞いてくる。
私は、「さぁ?」と残して、蓉子さまの後を追った。
「2人とも、集合時間を聞いてなかったの!!」
紅薔薇さまの雷が落ちた。
―――ぴかぴかどっしゃーーん―――
「ごめんなさい。」
私たちは素直に謝った。
頭を下げた影でこっそりと、ぺろりと舌を出して笑いあった。
「もう良いわ。さっさと準備なさい。」
ため息交じりの許しが降りると、慌てて準備を始める。
「どこ行ってたの?」
ドレスを着せてくれるのは黄薔薇さま。
「2人でカレーを食べて、写真展を見てきました。」
「へー、余裕あるね。」
黄薔薇さまの手が髪に伸びる。
「いえ、緊張しています。蓉子さまと一緒にいたせいか、寸前まで劇のこと忘れてました。」
「へぇ、楽しかったんだね?」
「はい。」
「じゃあ、その勢いで頑張ってみようか。」
背中を強く押された。
準備を終えて舞台袖に行くと、王子様はもう既にスタンバイをしていた。
「やあ、祐巳ちゃん。」
「・・・まだ、少し腫れていますよ。」
そっけなく返してみた。
「やっぱり分かる?昨日はずっと冷やしていたんだけどな。」
頬を押さえる仕草もどこか芝居がかっているように見える。
「さっき、さっちゃんに会ったらど。こか吹っ切れているようだった。
多分君のおかげだろう。礼を言うよ。ありがとう。」
軽く頭を下げながら。
(・・・もしかして柏木さんが紅薔薇さまにあんな事言ったのは・・・。)
「そういえば、祐巳ちゃんて一人っ子?」
「?いえ、下に1人。来年、花寺学院高等部1年生ですけど?」
「そう。是非可愛がってあげないと。」
(うわっ。)
楽しそうなその顔に、何故か背筋が寒くなる。
おかげで、聞こうとしたことが頭のどこかに仕舞い込まれてしまった。
小笠原祥子は文化祭が終わり、家に帰ると制服も脱がずにベッドに倒れこんだ。
私が蓉子と出会ったのも4月だった。
みな少なからず思うのだろうけど。
蓉子との出会いは運命だと思っている。
でも、あの2人の出会いは素敵だと思った。
ちょっとだけうらやましい。
作業する手を止めると、机の上に飾ってあるものを眺めた。
この気持ちをなんと言うのか。
寂しいような
嬉しいような
そして誇らしくて、自慢したいような
でもやっぱり悲しいような
窓からさす月の光
時計の音しかしない部屋で
何かを告げている気がした。
シンデレラ編で入れられなかった話をまとめてみました。これで、きちんと終われます。原作と同じ数でまとめるという縛りはやっぱり厳しかったかな?(オキ)
今回遅れた分を取り戻そうと必死です。(笑)それはさておき、量やバランス的に入れづらかったところなので、このような形になってしまいました。まだまだです。(ハル)
「その場で百数えなさい」
「数え終わるまで動いちゃダメよ」
「……百」
瞳子は目を開けた。
辺りを見回したが、祐巳さまの姿はもうどこにもなかった。
そこにいたのは、マリア様だけだった。
瞳子ちゃんが百数え終わったみたいだ。
周りをキョロキョロ見渡している。
あっ、こっちを見てる。みつかっちゃったのかな?
違うみたい。瞳子ちゃんは三年生の校舎の方に向かった。なんで三年生校舎なんだろう?
しばらくすると、瞳子ちゃんが校舎から出てきた、お姉さまと一緒に。
瞳子ちゃん、考えたわね。お姉さまに聞くつもりなんだ。でも、さすがのお姉さまも知らないと思うけど。
瞳子ちゃんはしばらくお姉さまと話をしてたけど、案の定、お姉さまは知らなかったみたいで、がっくりと芝生の上に膝をついた。
瞳子ちゃん、大げさだよ。お姉さまが知らなかったのがそんなにショックだったの?
ん、いつの間にかお姉さまがいなくなって、乃梨子ちゃんが瞳子ちゃんの側にいるよ。
瞳子ちゃんの手をとって慰めているみたいだ。
あっ、瞳子ちゃんが立ち上がった。二人でこっちに来るみたい。
瞳子ちゃんは乃梨子ちゃんの手をしっかりと握って、「乃梨子、乃梨子」ってつぶやいている。
って、おーい、通り過ぎちゃったよ!しかも二人で校門の向こうに消えちゃった!
瞳子ちゃん、ひどいよぉ。オニが帰っちゃったら、ここに隠れている私の立場はどぉーなるの?
当然のことであるが、瞳子ちゃんは祐巳が自分とカクレンボをしている(つもりになっている)なんて、ちぃ〜〜っとも気づいていなかったのだった。
翌朝、呪いのように【No:1920】を呟いている福沢祐巳がマリア様の後で発見され、リリアンかわら版にさらされた。
初めて書いた文章を投稿するという無謀な行為……。
駄目なところたくさんありますが、許してください。
修学旅行2日目の夜の話のつもりです。
「ねえ、祐巳さん」
「なあに、由乃さん」
「初恋っていつ?」
「……えっ!」
「大きな声出さないでよ」
「だって、いきなり何なの?」
「修学旅行の夜っていったらこういう話をするものでしょ?」
「そういうもの?」
「そういうものよ。それに、大勢いるところだと話せなくても2人なら話せるんじゃないかと思って」
「うーん。私はそういうのまだないかな」
「そうね。祐巳さんの初恋は祥子さまって感じよね」
「あはは。でもそれでいいなら由乃さんの初恋だって令さまでしょ?」
「それは違うかな。令ちゃんとは本当に姉妹のように育ったから」
「あ、そっか。じゃあ由乃さんの初恋は?まだなの?」
「どうなんだろう?」
「……?どういうこと?」
「旅行前にこういう話をしようかなって考えたときに、よく考えたら私にはそういうのないかもしれないと思ったわけ。で、祐巳さんに話をふるだけで私が何も話さないのはフェアじゃないと思ったのよ」
「うん。それで?」
「それで、色々と昔のことを考えて、何かないかと思い出そうとしたのよ。そしたらね、ある男の子のことを思い出したのよ」
「男の子?」
「うん。幼稚舎の頃のことだから、恋とかそういうものではなかったと思うの。実際、この間まで忘れてたわけだし。でも、私に結構大きな影響を与えた男の子の話。祐巳さん、聞きたい?」
「うん。由乃さんがいいのなら」
「もちろん。祐巳さんは親友だもの。あれは……」
***
あれは、まだ私が幼稚舎のときの話。
生まれつき心臓が悪かった私は、その頃は本当にちょっとしたことで体調を崩していたの。
年齢を重ねるごとに少しずつではあるが丈夫になっていってはいたが、それでも1年の3分の1ちかくを病院で過ごしていたように記憶しているわ。
何が原因だったか、今となっては覚えていないが体調を崩した私は入院することになってしまったの。
最初のうちは親もつきっきりで看病してくれてるんだけど、体調が安定してくるとずっとそばにいてくれるわけじゃなくて家に帰ってしまう時間がだんだん長くなっていくわけ。
それでも日中はほとんど一緒にいてくれるんだけどね。
私は本当は夜に一緒にいて欲しかった。
病院って暗いと本当に不気味なのよ。
夜中に目が覚めて1人だと怖くて、でも頼れる人もいなくて。
しょっちゅう泣いてたかもしれない。
でも、その頃の私は我侭を言えなかったの。
病気のことで親に迷惑をかけてるって思ってたし、いつも疲れたような顔してたから。
何より迷惑をかけすぎることで、私のことを生まなければ良かったなんて思われたくなかった。
親に嫌われること、そして生まれてこなければ良かったと思われることが夜の病院より怖かった。
だから夜も一緒にいてほしいなんて言えなかった。
あの夜も怖くて泣いてたのよ。
そしたら隣のベッドで寝てた子が起きちゃったみたいで話しかけてきたの。
「どうしたの?ないてるの?」
私はそれに答えられなかった。
その当時、私は人見知りが激しかったし、幼稚舎でも体の弱い私は敬遠されてたから友達もいなかった。
令ちゃんと令ちゃんの家族、私の家族以外と積極的に話すことはなかったから、他人と話すことに慣れていなかったの。
突然の問いかけにびっくりしてたっていうのもあるかもしれない。
でもびっくりしたお陰で涙は止まってたわ。
「なんだかこわいよね。びょういんって」
私は何も答えなかったのに何故か向こうには気持ちが正しく伝わってしまったみたいだった。
きっとただの偶然だったんだろうと今なら思う。
その子がその時偶然思ったことをただ口にしただけだろう、ってそう思う。
でもその時は、きっとこの子は魔法使いなんだ、って思ったわ。
「きみもこわいんでしょ?ぼくもこわいからおはなししよう」
とても落ち着かせてくれる声だったような気がする。
今思うと、きっと気を使ってくれたんだなあと思う。
「うん」
人と話すのは苦手だったのに、なんでかそう答えてた。
それから色々なことを話したわ。
最初は自己紹介のようなものだったと思う。
年齢は私の方が1つ上だった。
向こうは誕生日が4月だって言ってたから、学年としても私が1つ上になるのかしら。
好きな食べ物とか、そんなことも話したような気がする。
次に話したのは私の不安について。
迷惑をかけて親に嫌われたらどうしよう、ってこと。
こんなこと初めて話す相手に相談されても困るわよね。普通は。
でも、その時の私はその子のことを魔法使いみたいに思ったりしてたから、もしかしたら解決してくれるかもしれない、って思ったの。
「どうしてきらわれるの?こまらせてもきっときらわれないよ」
その子はあっさりそう言ったわ。
「まえ、おかあさんがいってたんだ。こどもはおやにとってはいのちよりたいせつだから、どんなことがあってもきらいにならないしかわいいとおもえるんだって。それにこまらせられるよりも、こどもにさびしいおもいをさせるほうがつらいって」
だから、我侭を言ってもいい、って。
結局は聞き入れられなくても本当の気持ちは、さびしい気持ちは言ってもいい、って。
そう言ってくれた。
「それに、うまれてこないほうがいいっておもうはずもないよ。おやはこどもがいきててくれるだけでうれしいんだって」
優しい声でそう言った。
どうやらこれもその子の親が言った言葉らしい。
聞くと、その子はかなり危険な状態で生まれたらしい。
小さいまま生まれた、と言っていたから、おそらく未熟児だったのだろうと今では理解できる。
その子が成長して元気な様子を見せると、親がいつもその話を持ち出すらしかった。
「やさしいおかあさんとおとうさんだね」
そう私が言うと、その子は嬉しそうに答えた。
「うん。おねえちゃんもやさしいんだ。ひとりでもなかないようにヒヨコのタオルをくれたんだ」
話しているうちになんだか温かい気持ちになってきて、だんだんと眠気がおそってきた。
「おやすみ」
意識を手放す寸前にそんな声がふってきたような気がする。
翌日、その子は退院してしまった。
最後の会話はこんな感じだったと思う。
「もう、おわかれなんだ」
悲しそうに言った私にその子は笑いながら、
「だいじょうぶ。またあえるよ。だってぼくたちトモダチ
だもん」
と言った。
そして、私より一回り小さい手で握ったタオルを差し出してきた。
「ぼくはもうだいじょうぶだから。こわくならないように、なかないようにオマモリ」
それからの私は少し変わったと思う。
寂しい気持ちをしっかり親に伝えたことはじまりに、自分の気持ちをしっかり人に伝えられるようになった。
少し我侭になりすぎたような気もするけど……。
でも自分らしくなれた。
そしてそんな自分が今は大好きだ。
***
「……とまあこんな感じかな」
「ふーん。そんなことがあったんだ。そういえばその子に貰ったタオルって由乃さんが昨日も使ってたやつでしょう?」
「うん。今まで大事に使ってたのにそれをその子に貰ったって言うのもこの前まで忘れてたんだけどね」
「忘れてたってことは、まだ再会できてないんだよね?」
「それが、よく考えてみたら名前だけは聞かなかったし、教えなかったような気がするの。とりあえず、私は覚えてないわ。顔もうろ覚えだし……。会ってもお互い気づかな
いと思うわ」
「なんだか残念だね。初恋の人……かもしれないんだよね?」
「ううん。それに近いものではあったけど、やっぱり恋とは違うと思うんだよね。多分恋をするには幼すぎたんだと思うの。でも、また会いたいとは思うんだよね。会ってお礼を言いたい。私を私にしてくれてありがとう、って」
「会えるといいね」
「うん。もし会えたら、今度は……」
「今度は?」
「ううん。何でもない」
今度は……きっと恋に落ちる。
そんな気がする。
色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
【No:1893】→【No:1895】→【No:1897】→【No:1907】→【No:1908】→【No:1911】→【No:1913】→【No:1921】→【No:1926】→【No:これ】→【No:1941】→【No:1943】→【No:1945】
何とか動けるようになった所で瞳子ちゃんに支えてもらいながら保健室へとやって来た祐巳は、現在保健室に設置されているベッドの上で横になっていた。
ベッドの脇には、祐巳と瞳子ちゃんの二つの鞄が仲良く並んで置かれている。
「私はここにいるから、もし何かあったら呼んでちょうだいね」
祐巳が先生に体調不良を訴えたり体温を測ったりしている間に一旦薔薇の館へと戻った瞳子ちゃんは、まず山百合会のメンバーに祐巳の体調の事と付き添う事を伝えて自分の鞄を回収。その後、祐巳の鞄を取りにわざわざ二年松組の教室まで行ってくれたらしい。ちなみに薔薇の館に戻った際、由乃さんが「私も祐巳さんに付き添う!」とか言って令さまに引き止められていた、と聞いて祐巳は笑ってしまった。
「はい。ありがとうございました」
祐巳が横になっているベッドと瞳子ちゃんが保健の先生と話している場所はカーテンで仕切られているので、その姿はこちらからは見えない。声だけが聞こえてくる。
(それにしても……)
瞳子ちゃんが深々と保健医に頭を下げている姿を会話から想像しながら、祐巳は小さく溜息を零した。
(わざわざ付き添いなんてしてくれなくても良いのに)
どうやら瞳子ちゃんはかなりの心配性らしい。祐巳が何を言っても、頑なに「傍にいる」と言って聞こうとはしなかった。勿論嬉しくはあるのだけれど、この調子でこの先もずっと、となると、果たして瞳子ちゃんは妹(スール)を作れるのだろうか、と心配してしまう。もっとも、祐巳よりもずっとしっかりした子なので余計な心配なのかもしれない。
(私は姉離れする以前に、失ってしまったからなぁ……)
胸元に手をやりかけたが、そこにかかっているものがない事を思い出して伸ばしかけていた手を戻す。今まで祐巳がかけていたあのロザリオは、今は瞳子ちゃんの首にかかっているはずだ。体調不良から温室で押し倒してしまったからといって、まさかもう捨てられていたりはしないだろう。温室からここに来るまでに、さんざん謝った事だし。
お姉さまに私の妹(スール)を見せてあげたかったな、と思っていると、先生との話を終えた瞳子ちゃんがカーテンを開いて入ってくるなりベッドの脇に立ち、両腕を組みながら祐巳を睨んできた。
「三十九度ってどういう事です?」
体温の話だ。瞳子ちゃんが薔薇の館に戻っている間、先生に言われて測ってみたら体温計はそんな数字を示してくれた。
「どういう事だろうね? 実は私も驚いているんだ」
「『驚いているんだ』じゃありません! たかが風邪だと思っているのかもしれませんが、下手をすれば死んじゃう事だってあるんですよ!」
「分かってるってば。それより、頭に響くからあんまり大きい声しないで」
別に痛いというわけではないのだが、言葉で言い表せない気持ち悪さがあるのだ。祐巳を心配するあまり感情的になっていた瞳子ちゃんは気まずそうな顔をした後、声のトーンを下げて言ってきた。
「とにかく、安静にしていてください」
「うん」
「……やけに素直ですね」
素直に返事をしたらしたで疑いの目を向けられるのは、ひょっとして普段の行いが悪いからなのだろうか。
「あんまり心配かけたくないから、たまには素直になっても良いかな、って思って」
「それは素直とは言いません」
「ああ言えばこう言……う……」
ジト目で見てくる瞳子ちゃんに、力なく答える。今まで無理していたからか、急に眠気が襲ってきたのだ。
「祐巳さま?」
すぐに祐巳の変化に気付いて顔を覗き込んできた瞳子ちゃんに、そんなに心配そうな顔しなくても良いのに、と思った。体調が悪いのは確かだけれど、今は単に眠いだけだから。
「少し眠るね」
何も言わずに眠ってしまったら、今の瞳子ちゃんでは妙な勘違いをして先生を呼んでしまいそうだったので、重くなっている瞼を完全に閉じてしまう前にそう伝えておく。先生だって、眠っただけの生徒のために呼ばれたくはないだろう。
「はい」
まだ心配そうな表情を浮かべている瞳子ちゃんの返事を聞いてから、祐巳は瞼を閉じた。
目が覚めると、窓から夕陽が差し込んでいた。
いくら何でも重症だ、と自分に対して大いに呆れつつ、身体を起こしながらまず一番に数時間ほど前に妹(スール)となった少女の姿を探す。
探し人はすぐに見付かった。お目当ての少女は、ベッドの脇に置いてある椅子に腰かけていた。
瞳子ちゃんは組んだ両腕を枕にして、祐巳が横になっているベッドに寄りかかって眠っていた。耳を澄ませば、すーすーと規則正しい寝息が聞こえてくる。何かあってはいけない、と眠ってしまうまでずっと様子を見てくれていたのだろう瞳子ちゃんは、可愛らしい寝顔を祐巳へと向けていた。
出会った時には、まさかこの子と自分が姉妹(スール)になるとは夢にも思っていなかった。だって、別世界の普通の人間だ。あの世界の人たちみたいな特殊な力を持っているはずもなく、あの蟲共と戦う事なんて絶対にできない。それに、あんなに激しく拒絶したのに。
それが、今では姉妹(スール)なのだ。世の中には本当に、不思議な事があるものだ。そう思いながら、全く起きる気配のない瞳子ちゃんの寝顔を覗き込む。
閉じた瞼に長い睫毛、うん可愛い。顔の形も、耳や鼻の大きさもバランスが良い。唇なんて、プルンってしていて瑞々しい。肌もびっくりするくらい綺麗だし、ずっと思っていたのだけれど、やっぱりこの子は美少女だ。縦ロールについては……まあ、似合っているから良いのではないだろうか。
手を伸ばして起こさないように頭を撫でてみると、くすぐったそうに目を細めた。起きている時は生意気なんだけれど、こうやって眠っている時は非常に素直なようだ。
(あなたのお陰かな?)
あの日から、いつも見ていた夢を見なかった。何度も何度も、繰り返しお姉さまを失う夢。眠った時は必ず見ていたのに。
(ね、瞳子ちゃん?)
返事はない。当然だ。瞳子ちゃんは、今も穏やかに小さな寝息を立てて眠っているのだから。
窓から差し込んでいる夕陽が、そんな瞳子ちゃんの寝顔を朱に染めていた。
(不思議だね。あんなに嫌いだった夕焼けなのに)
瞳子ちゃんが傍にいれば、その嫌いだった夕焼けすらとても愛しいものに感じられる。
柔らかそうな頬を突付きたくなる衝動を何とか抑え込みながら壁にかかっている時計を見てみれば、針は四時二十分を示していた。
自分の額に手を当てて熱を測ってみるが、自分の手自体が温かくてよく分からない。多少は下がっているような気がするのだけれど、まだ少し頭が重いように感じるので完全には回復していないのだろう。
瞳子ちゃんの寝顔を見て、もう一度時計を見る。
(……もうちょっと寝るか)
おそらく、瞳子ちゃんの方が先に起きるだろう。その時は、まだ眠っている祐巳に呆れながらも起こしてくれるはずだ。寝顔を見られていたなんて、これっぽっちも考えないだろう。
(おやすみ、瞳子ちゃん)
また悪夢を見やしないかと少し不安なんだけれど、きっと大丈夫。だって、瞳子ちゃんが傍にいるから。
*
『ねえ、そろそろ起きないと死んでしまうわよ?』
誰かの声が聞こえて、世界の様子が変わったのが分かった。
「祐巳さまっ!!」
瞳子ちゃんの悲鳴と、祐巳が目を開けて彼女を抱えて床に転がったのは殆ど同時の事だった。そして、転がりながらもベッドの傍にいるそれからは目を離さない。
ズンッと重い音を立てて、それが先ほどまで祐巳が眠っていたベッドに前脚を突き立てたのが見えた。それは、向こうの世界で何度も対峙した事のあるものだった。
「なっ、何ですか、あれはっ!?」
怯えた表情で瞳子ちゃんが叫ぶ。
「黙ってて」
祐巳の視線の先には、巨大な蟷螂がいた。
(何でこいつがここにいるの?)
蟷螂が焼け爛れている頭を祐巳たちへと向けてくる。
どうやら、どこかの誰かとの戦闘でこの化け物はすでに傷付いているらしい。よく見ると金属の身体のあちこちがへこんでいたし、後脚が一本その半ばで折れて変な方向に曲がっていた。何より、こちらに向けた逆三角形の頭部の両端にある二つの目玉のうちの片方が潰れている。
「そんな手負いの状態で私と殺しあう?」
馬鹿にしながらも決して油断はしない。ベッドに刺さっている脚が抜けないためにその場から動けないようだが、それでも油断はできない。
だって、こいつらの中には――。
蟷螂の残っている目玉の奥で、微かに紅い光が瞬いたのが見えた。
「っ!」
先ほどと同じように、瞳子ちゃんを抱えてその場に伏せる。同時に、背後にあったカーテンが激しく燃え上がった。
そう、こいつらの中には魔法を扱える者も存在するのだ。
祐巳は未だにその場から動けずにいる蟲を、ゆっくりと立ち上がりながら見つめた。
まるで、あの世界に戻ってきたような感覚だった。漂う死の匂い、感じる死の気配。何よりも、目の前にいる蟲。お姉さまを殺して、仲間たちを殺して、祐巳の生まれた世界を滅ぼしてくれた。忌々しい化け物。
(こいつは殺しても構わないんだよね?)
それを敵と認識した瞬間、祐巳の世界が切り変わった。見ているもの全てを別の世界の出来事のように。感じている感覚の全てを他人事のように。まるで、福沢祐巳という名前の人形を操るように。
「ふふっ」
ほんの数日の間表に出さなかっただけなのに、妙に懐かしくて祐巳は笑みを零した。
(久しぶりね、『化け物』の私)
昏い眼差しで化け物を射抜きながら言葉を紡ぐ。
「弾けろ、ムシケラ」
その声が世界に溶け込むと同時に、化け物の頭部が破裂した。飛び散った銀色の肉片が天井や壁に張り付き、残された胴体が青色の体液を噴き出しながら崩れ落ちる。
「弱過ぎて話にならないわね」
頭部を失ってピクピクと痙攣している蟲の残骸を見ていると、その場でゆっくりと溶け始めて蒼い染みだけを残して消えていった。やはり、向こうの世界の奴らと全く同じらしい。
「い、今のは……?」
化け物の死骸が消えた場所を見下ろしていると、身体を起こしかけた姿勢で瞳子ちゃんが尋ねてきた。
祐巳がそちらを見ると、瞳子ちゃんはまるで悪い夢でも見ているかのような表情をしている。その顔を見ながら、本当にただの悪い夢だったら良いのにね、と思いながら答えた。
「雑魚」
「え?」
「私の世界での雑魚よ」
蟲の一匹一匹は大した事はない。奴らが真に恐ろしいのは、集団で行動する事だ。
「それよりも、いったいどうなっているの?」
「それが――」
瞳子ちゃんが目を覚ましたのは四時三十分を少し過ぎた頃だったそうだ。職員室に用があるという先生に「すぐ戻ってくるから少しの間留守番していてね」と言われて見送った後、そろそろ帰宅の準備をしておかなければ、と考えてまだ眠っている祐巳を起こそうと手を伸ばした途端辺りが急に暗くなり、あの蟷螂がこの部屋に出現したらしい。
話を聞き終えて窓の外に目を向けると、そこは薄暗かった。どうやら外は夜のようだ。その闇の中で、何者かの影が幾つも蠢いているのが見える。
明らかにおかしい。いくら一月とはいえ、四時三十分でこの暗さは有り得ない。起きる直前、頭の中で響いた誰かの声といい、いきなり変わった世界の様子といい、おかしい事だらけだ。
だが、この世界から受ける感覚に祐巳は覚えがあった。人の気配が感じられない世界。それなのに、祐巳に力を貸してくれる「彼ら」が存在している世界。
おそらくここは、作られた世界だ。とすると、この場所を作ったのは?
自分の知り合いの中では、一人しか思い浮かばなかった。おそらく桂さんだろう。でもなぜ、瞳子ちゃんや蟲までここに居るのだろう。まあ、どれ程あの蟲がいようと、今のまともに能力が使える自分の敵ではないのだけれど。
(それにしても、いくら神様だからって勝手にこんな所に転移させないで欲しいわね)
なんて心の中でここにはいない桂さんに文句を言っていると、部屋のドアが凄まじい音を立てて軋んだ。その音に驚いて、瞳子ちゃんが小さく悲鳴を上げる。
そちらを見ると、何者かがこの部屋に入ろうとドアを殴打しているようだった。
どうやら、お客さんが来たようだ。先ほどの蟷螂が放った魔法によって、炎を上げて燃えているカーテンのせいだろう。奴らは光に集まる習性がある。窓の外の闇の方にも、こちらに近付いてきている蟲たちの姿が浮かび上がっていた。
「さて、どうしよう?」
「……」
瞳子ちゃんが不安そうに祐巳を見上げてくる。祐巳はそんな瞳子ちゃんの頭を撫でながら考えた。
どうせ創られた空間だ。壊しても問題はないだろう、と瞬時に決定する。もしも違ったら、その時はその時だ。
「面倒だから、校舎ごと吹き飛ばすか」
「え?」
「煩いと思うから、耳を塞いでいた方が良いよ」
激しいノックによって、半分ほど曲がっていた扉が吹き飛んで蟲たちが部屋に雪崩込んでくる。窓の方からも同じようにガラスを砕き、それを踏み付けながら奴らが飛びかかってきた。
祐巳はそんな蟲たちに、にっこりと微笑みながら挨拶してやる。
「ごきげんよう、お元気そうで何よりだわ」
次いで、お別れの意味を込めて手を振った。
「では、さようなら」
祐巳と、その足元で耳を押さえて蹲っている瞳子ちゃんを中心に世界が揺れた。
起こったのは、爆発に次ぐ爆発。
祐巳たちを中心にドーム状に広がった破壊の奔流は、内から外へと連鎖爆発を生み出しながら校舎全体に広がっていった。その有り様は、さながら死と破壊の協奏曲。蟲たちを巻き込み、断末魔の叫び声さえ呑み込んで、そこに存在するあらゆるものを破壊し尽くす。
吹き飛んだ壁が、床が、天井が、奴らの身体が、その一部だったものが、破壊され、蹂躙され、跡形もなく消し飛ばされていく。一片の欠片さえ残さない。元より、残すつもりはない。残ったものは紅蓮の炎が喰らい尽くす。
それらの様子を特に何を思うでもなく眺めていた祐巳は、しまった、と冷や汗を浮かべた。
(まさか、私たちの他に誰かいたりなんてしなかったわよね?)
勿論、今更手遅れなのだけれど。
*
四時三十分を少し過ぎた頃。何の前触れもなく世界の様子が一変した。
つい先ほどまで隣にいた志摩子の妹(プティ・スール)である乃梨子や、一緒に仕事をしていた山百合会のメンバーの姿が消えたのだ。
その代わりというわけではないのだろうけれど、部屋の中には見覚えのある生物がいた。それは、とても見慣れた生物だった。志摩子のいた世界では、ごく当たり前に生息していたあの蟲だ。
そして、それを目にした瞬間、志摩子はすでに反応していた。「夜」を表す黒のマントに、一本の白いラインが入った赤のミニスカート。白と水色のストライプのオーバーニーソックスに、「力の円錐」とんがり帽子。
一瞬で変身を完了した志摩子は今まで座っていた椅子を踏み台にして後ろに向かって跳躍し、銀色の皮膚を持つ蟲から距離を取りながら、
「ロサロサ・ギガギガ・ギガンティア〜♪」
呪文を唱え、玩具のようでいて実は樫の木で作られている杖を一振り。
「ライトニング・アロー」
どこか一般的で単純な名前のくせに実は高等魔法でとんでもない威力を秘めているそれは矢の形をしていて、対象に突き刺さるとその対象を内部から破壊する。自然界で発生する雷の数倍の威力を誇る、志摩子が最も得意とする魔法だ。
鋼鉄の蟲は、志摩子の放った光り輝く矢を避けようともしなかった。とはいえ、それも当然の事で、放たれた矢を避ける事など不可能に近い。なぜなら志摩子の放った光の矢は、魔法によって作られたものではあるが光とほぼ等速で飛ぶ。放った瞬間には、既に対象に突き刺さっているのだ。
今回も今までと同様だった。志摩子の放った矢はその場から全く動けずにいる蟲の身体を串刺しにして、その効果を発揮した。
(なぜ、この蟲がいるの?)
仁王立ちしたままピクリとも動かない蟲を見ていると、ブスブスと銀色の身体のあちこちから焦げた匂いと煙を吐き出しながら前のめりに倒れた。矢が突き刺さった衝撃で腹部に開いた大きな穴から、倒れた拍子に大量の体液が飛び散って床に青い染みを作る。
(ここはどこなの? それに、皆は?)
蟲の姿が床に溶けて消えていくのを確認しながら、志摩子は周辺に目を向けた。辺りは、全く見えないというわけではないけれど、かなり暗い。
躓かないように足元に注意しながら薄闇の中を歩いて、志摩子は部屋に唯一ある扉へと近付いた。ドアノブを軽く握り、ゆっくりと音を立てないように開く。当然と言えば当然なのだが、あっさりと開いた。
開いた先も薄暗かった。そのまま廊下に出てみたが、静まり返っていて物音一つしない。手摺から階下を見下ろしてみたが、物陰に何かが潜んでいる気配もない。館には自分以外の誰もいないようだった。
けれど――。
志摩子は再び部屋に戻り、一番近い窓へと目を向けた。先ほどからずっと、館の外から蟲たちの気配を感じている。窓へと近付いてそこから見下ろしてみると、館の周辺をうろつく蟲たちの影が見えた。
いったい何匹いるのかしら? 五十、百……いえ、もっと多いわね。もしかしたら自分はここで――と考えかけて頭からその考えを振り払う。こんな事で諦めたりはしない。こんな所で死ねない。それは許されない。
第五世界に残してきた乃梨子の事。自分は一生、あの世界の乃梨子の事を忘れない。どんなに幸せになっても、忘れる事などできないだろう。だって、もし志摩子が忘れてしまったら、いったい誰があの世界の乃梨子の事を覚えていてあげられる?
それに、第六世界の乃梨子の事もある。第五世界の乃梨子の身代わりというわけではないけれど、それでも望む限り傍にいてやりたいと思う。
そして、最後にもう一つ。許してはもらえないかもしれないけれど、祐巳さんに謝りたい。そしてもし許されるのであれば、あのお日様のような笑顔をもう一度見せて欲しい。それが、過ぎた望みだという事は自分でも分かっているのだけれど。
ガタッ――。
「っ!」
響いた物音に咄嗟に振り返ったが、部屋には志摩子以外に誰もいない。部屋の扉は開いていないし、そもそも今のは一階から聞こえてきた。おそらく、蟲たちが扉を破って館の内部に入って来たのだろう。そして、それは正しかったようだ。蟲たちの重くて固い足音が、志摩子のいるこの部屋へと近付いてくる。
どうやら覚悟を決めなければならないようだ。蟲たちの足音が扉の前でピタリと止まった。
私はっ、
「ロサロサ・ギガギガ――」
こんな所で死ぬわけにはいかないのよっ!
杖を一振りして叫ぶ。
「ライトニング・レイン」
瞬間、志摩子の周りに出現した複数の光の矢が、横殴りの雨のように部屋の扉とその周辺の壁を撃ち貫いた。四散する扉、砕けて燃え上がる木製の壁。同時に、撃ち貫かれる鋼の蟲たち。けれど、次から次へと蟲は現れる。
キリがないわね、と思いながら杖を構え直す。
(これで決める!)
「ロサロサ・ギガギガ・ギガンティ――えっ!?」
呪文を唱えかけたその時、ガラスの砕ける音と共に窓を破って何者かが部屋に侵入してきた。それは銀色に輝く巨大な蜂で、窓を破った勢いのまま志摩子に体当たりしてくる。
「くぅっ!」
咄嗟に身を捩ったのだけれど、躱し切れずに肩を掠めてしまった。その衝撃で、志摩子はバランスを崩して床に倒れ込んでしまう。
一方で、志摩子に体当たりを躱された蜂はその勢いのまま木造の壁に激突したらしい。自分が開けた穴の中で藻掻いているが、砕けた木の破片などが邪魔をしているらしく抜け出す事ができないようだ。
ここまでならば、ピンチでも何でもなかった。立ち上がって魔法を放てば良い。それで蜂を倒せる。しかし、この場にいる蟲はその蜂だけではないのだ。
「あぁぐっ!」
床に倒れ込んでからすぐに身体を起こそうとしたが、馬乗りになってきた蟷螂によって動きを封じられてしまう。
(痛いっ! 苦しいっ!)
鋼鉄の蟲の重さで、全身の骨が軋んだ。胸が圧迫されて呼吸もできない。
「あ……」
蟷螂が、自分の上で鋭利な刃物と化している前脚を振り上げたのが見えた。
(死ぬ――? 嫌よっ! まだやり残した事があるのに――乃梨子っ! 祐巳さんっ!)
大切な人たちの名前を心の中で叫ぶと、それに応えるかのようにどこからか大きな音が轟いて薔薇の館が激しく揺れた。世界が壊れてしまったのかと思うほどの、とんでもない揺れだった。
その振動で残っていた窓ガラスが全て砕け、部屋の中にあった椅子が宙を舞い、蟲たちがよろける。何が起こっているのか全く分からなかったが、それでも志摩子はこの好機にすぐに反応した。
自分の上でバランスを崩している蟲に向かって杖を一閃。格段に威力が低くなってしまうのだけれど、それでも構わないので詠唱を飛ばして叫ぶ。
「ファイアーボール」
ソフトボール大の炎の球が顔面に炸裂した蟲が、志摩子の上から転げ落ちて苦痛にのた打ち回る。それと共に、志摩子の身体が自由になった。けれど、未だこの辺り一帯を襲っている激しい揺れのために自分も蟲たちもその場から動けない。
だが、それでも志摩子には十分だった。
「ロサロサ・ギガギガ・ギガンティア〜♪」
床に転がったまま杖を一振り、力ある名を叫ぶ。
「オリジナル・テンペスト」
瞬間、辺り一帯に静寂が訪れた。
その中心にいるのは、床に転がったままの志摩子だ。
散乱していた書類、倒れていた椅子、砕けた机にガラス片、そして部屋の中に侵入していた蟲たち。その全てが炎に包まれながら宙に浮いていた。身体を包む炎を消そうとしているのだろう。蟲たちが激しく藻掻いているが、その炎が消える気配は全くなく、それどころか益々激しく燃え上がった。
蟲の焼ける匂いが部屋に充満し始めた頃、風が吠えた。ここでようやく、世界に音が戻る。荒れ狂う風が縦横無尽に駆け抜けて、蟲たちを襲い炎が燃え広がった。吹き荒れる風は、それ自体が炎を纏っていた。その身を焼かれながら凄まじい勢いで壁や天井に叩き付けられて、蟲たちが悲鳴を上げる。同じように飛ばされた椅子や机が、そこに磔にされていた蟲たちを容赦なく押し潰す。
その光景は、まさしく嵐だった。雨の代わりに炎が舞う、炎の嵐だった。今この場所では、志摩子を除いたあらゆるものが燃え上がっていた。
ギシギシと音を立てて、館が大きく軋む。その音は会議室から始まって、すぐに館全体へと広がっていった。天井と壁の境目にできた亀裂が広がり裂けていくと、遂には雷鳴のような激しい音を立てながら天井部分が剥がれ飛び、真っ黒な空がそこに口を開けた。
まるで空に向かって落ちていくように、蟲も、机も、椅子も、壁や床に広がっていた炎さえも黒い空へと巻き上げられていく。
「……疲れたわ」
静かになった部屋で、彼方へと遠ざかっていく小さな炎を見上げながら志摩子は大きく溜息を吐いた。
*
随分と綺麗になったな、と思った。先ほどまで校舎の建っていた場所は今は更地となっていて、唯一残っているのは祐巳たちの足元の床の一部だけだ。
視線を下げると、祐巳の足元に蹲ったままの瞳子ちゃんがまだ耳を押さえているのが見えた。
「もう良いわよ」
言いながら肩に手を乗せると、ビクッと身体を震わせて瞳子ちゃんが祐巳の手から逃れた。
(……だよね。それが普通の反応なんだよね)
祐巳を見上げてくる瞳子ちゃんは、怯えた目をしていた。
ズキズキと心が痛みだす。しかし、それを表に出すわけにはいかない。こんなにも不安で怯えている瞳子ちゃんに、それを見せるわけにはいかない。
(しっかりしろ。これくらいで私は傷付いたりなんかしない。こういう目で見られるのは慣れているんだから)
自分に言い聞かせながら、いつだって作りだせる便利な微笑を瞳子ちゃんに向かって浮かべる。
(大丈夫、私は上手に笑えてる)
「私が怖い?」
尋ねると、瞳子ちゃんが目を逸らして顔を俯かせた。
「そっか……」
痛みが酷くなってきたけれど、構わずに続ける。
「それならそれで構わないよ。でもね、それでも私はあなたを守る。そう決めたから」
伝わったのだろうか。それとも、伝わらなかったのだろうか。瞳子ちゃんは、ずっと顔を俯かせたままだ。
何も答えてくれないので、伝わったかどうか判断はできない。けれど、自分の言いたかった事、伝えたかった事は声に出して言った。たとえ今は伝わってなかったとしても、いつか伝わればそれで良い。
「『彼ら』に周辺の探索をさせていたんだけど、どうやら志摩子さんを見付けたみたいなの。一人で薔薇の館にいるようだから、一緒に行こう?」
そう言って手を差し伸べると、ようやく瞳子ちゃんが顔を上げた。
「え? あ、瞳子ちゃん?」
見上げてくる瞳子ちゃんの目尻に涙が溜まっている事に気が付いて、祐巳は酷く動揺してしまう。まさか、泣くほど怖かったとは思っていなかった。
「私……」
何か言いたそうだけれど、何を言えば良いのか自分でも分からないようだ。一粒の涙が瞳子ちゃんの頬を伝って、地面へと落ちた。
「あのね、瞳子ちゃん。私を怖いと感じるのは、仕方のない事だと思うんだ。私たち、過ごしてきた世界が違うからね。優しい世界で生きてきたあなたには、私のああいう所は理解できないと思う」
というか、できればこれからも理解して欲しくない。だって、あれを理解できるという事は、瞳子ちゃんが生きている世界が優しい世界ではないという事を意味するのだから。
「それでも――」
祐巳は地面に膝を突いて、目線の高さを瞳子ちゃんに合わせた。そうして、彼女の目尻に溜まっている涙を人差し指で拭ってやる。
「今だけでも良いから私を信じて」
「ごめんなさいっ」
「へ?」
いきなり、ポロポロと涙を零しながら瞳子ちゃんが頭を下げてきた。それは、私の事が信じれないって事だろうか、と祐巳の心がどこか暗くて深い所へと沈みかける。
「あなたの事、好きなのに。それなのに、あなたが怖かったんです……」
沈みかけていた心が急浮上。何だ、そっちか。うん、それなら問題ない。
「ありがとう」
「え?」
涙が貯まっている瞳を、いっぱいに開く瞳子ちゃん。そのせいで、また溜まっていた涙が零れる。
「あなたが好きって言ってくれるのなら、私はそれだけで凄く嬉しい」
おかしくなってしまってからの自分は、周囲にいる人々の恐怖と憎悪の対象だった。怖がる人ならたくさんいた。馬鹿にする人もたくさんいた。自業自得だとは分かっているけれど、好きって言ってくれる人なんていなかった。
「だから、ありがとう」
こんな私を好きって言ってくれて。
「たとえ私の命に代えても、絶対にあなたをあの世界に戻してみせるから」
そう祐巳が口にした瞬間、瞳子ちゃんが叫んだ。
「駄目です!」
「うぇぇ? 何が駄目なの?」
まさか、自分の世界に戻りたくないとでも言うのだろうか。いやいや、そんな馬鹿な。
「今、『命に代えても』とおっしゃいましたよね。それじゃ駄目です。あなたも一緒に戻らなきゃ駄目です」
「ああ、うん。そうだね」
「もう怖くない。怖くなんてない。それ以上に好きだから、もう怖くなんてありません。約束してください。ずっと私と一緒にいるって。私の傍にいるって。あなたを怖がった私にこんな事を言う資格なんてないかもしれないけれど、私はいつまでもあなたと一緒にいたいんです」
「……分かった。約束するよ。私はずっと、あなたと一緒にいる」
立ち上がって手を伸ばすと、瞳子ちゃんがその手を強く握ってきた。
「約束ですよ? 絶対に破っちゃ駄目ですよ?」
「うん」
大きく頷いた後、強く握られている手を引いて瞳子ちゃんを立ち上がらせようとすると、どこからか視線を感じた。
何者かが見ている、とはっきりと感じる。ずっとこちらを見ている。正確には、祐巳だけを見ている。それは、桂さんのものではない。勿論、瞳子ちゃんのものでもない。
「祐巳さま?」
急に動きを止めた祐巳を瞳子ちゃんが訝しげに見てくるが、それには答えずに睨み付けるように空を見上げた。空には見慣れた丸い月が浮かんでいて、雲が出ているために数は少ないが幾つかの星も輝いている。見た感じでは特におかしな所はなく、普段通りの夜空が広がっているだけだ。
けれど、祐巳は確信を抱いていた。
雲の向こう側に奴がいる、と。
*
「はぁ、はぁ、はぁ」
最早、呼吸をするのも辛い。
「くっ!」
肩で息をしながら、志摩子は飛びかかってくる蟲から身を躱した。ギリギリの所で志摩子に避けられた蟲は、背後にいた仲間を巻き込んで地面に倒れ込み砂埃を上げる。
「はぁ、はぁ、ふぅ」
いったい何匹いるのだろう。まるで無尽蔵……いや、実際に無尽蔵なのだろう。館の影から、立ち並ぶ木々の間から、蟲たちが続々と集まってくる。
戦闘場所を会議室から館の前に移した所で、志摩子は蟲たちに囲まれてしまっていた。会議室は狭くて魔法が使い辛かったので場所を変えたのだが、それが裏目に出てしまったようだ。二、三百匹程度ならどうにかできると思っていたのだけれど、まさかここまで多いとは思わなかった。
攻撃を避ける度、魔法を撃つ度にどんどん体力を奪われて、心が折れそうになる。戦っているのは自分のはずなのに、この戦闘がいつ終わるのか分からない。もしかすると、永遠に終わらないのではないだろうか。いや、そもそも自分はまだ生きているのだろうか。本当にまだ戦っているのだろうか。実はもう死んでいて、自分の作り出した幻の蟲たちと戦っているだけではないのだろうか。あまりにも苦しくてそんな事まで考えてしまうのだけれど、身体は決して動く事をやめない。息が切れて、足が縺れて、いっそ死んでしまいたいくらいに苦しいのに勝手に動く。それもこれも、こういう事に慣れてしまっているからだ。休む間もなく戦い続ける事なんて、向こうの世界で幾度となく経験している。
「ライトニング・アロー」
こちらに飛びかろうとしていた蟲に光り輝く矢が突き刺さり、黒焦げとなって絶命する。
(今ので何匹目なのかしら? 四百六十を超えた所までは数えていたのだけれど……)
まだ終わらないのか。まだ終われないのか。
いつまで戦うのか。いつまで戦えるのか。
この身体の動きを止めてしまえば、きっと楽になれる。いっその事、もう止めてしまって楽になってしまおうか。
そう思った時、
「そこまで頑張ったのに諦めるわけ? それならそれで、助ける手間が省けて良いのだけれど」
幻聴が聞こえた。
「でもまあ、せっかくここまで来た事だし、頑張っていたみたいだから助けてあげるわ」
透き通るようなその声が聞こえた直後、志摩子を囲んでいた蟲たちがいきなり弾け飛んだ。
それに驚く間もなく、志摩子の耳に誰かの嘲笑う声が届いてくる。
「あはっ、あはははははっ! あなたたちってほんっと、世界の底辺を這いずり回っているのがお似合いね」
その場から一歩も動く事ができずに、跡形もなく焼き尽くされる者。風の刃に全身を細かく切り裂かれる者。見えない力によって、圧し潰される者。志摩子を囲んでいた蟲たちが、為す術なく大量の体液を地面に撒き散らして青い染みだけを残して消えていく。
その様を呆然と見ていると、千切れ飛んできた蟲の頭部が志摩子の前に転がってきた。
濃厚な血の匂いが、周辺に漂い始める。
「あ……あぁ……」
志摩子の背筋を冷たい汗が伝った。目の前で繰り広げられる光景に、その場にへたり込んでしまう。
こんな一方的な戦闘ができる人が、誰かいただろうか。これだけの数の蟲を相手にして、こんな戦い方ができる人なんていないはずだ。そんな人がいたのなら、あの世界はきっと救われていた。そう思ったのだけれど、たった一人だけ思い浮かんだ。そうだ。今の彼女はあの頃と違い、本来の力が使えるのだった。
彼女は使える能力に制限があったのに、どんなに酷い戦闘地区からも帰ってきた人。どれほどの数の蟲を相手にしても、必ず帰ってきた人。皆に恐れられていて、誰よりも傷付き易く、誰よりも強い人。志摩子が深く傷付けてしまった人……。
残っていた最後の一匹が、身体を捻じ切られて蒼い体液を撒き散らした。
「ふん。数が多くても、今の私の敵ではないわね」
そんな事を言っているが、彼女ならあの頃の戦い方でも勝てるだろう。彼女の戦い方はでたらめで、能力に制限があったのに有り得ないほど強かった。
蟲たちの残した青い染みを踏み付けて、その人が現れる。
彼女が姿を現した事によって、志摩子は酷い息苦しさを感じた。そんなはずはないのに、周囲の温度が急激に下がった気がする。そう感じてしまう原因に、志摩子は心当たりがあった。彼女のあの昏い瞳だ。平気で人を傷付けて、壊しても全く揺るがないあの瞳が怖くて堪らない。
ゆっくりと歩いてきた彼女が、志摩子の前で立ち止まった。志摩子は震えている肩を抱き、その場にへたり込んだまま目の前に立つ彼女を見上げた。
「無様な格好ね」
普段の彼女からは想像も付かない程の冷たい表情。そこに映されているだけで凍り付いてしまいそうなほど昏い瞳を以って、志摩子を見下ろしてくる。
「何よ、化け物でも見るような顔して。確かに私は人間ではないけれど、その顔はムカつくわよ? わざわざ助けてあげたっていうのに、そういう態度を取るわけ?」
この視線にこの口調。どうやら彼女は、まだ戦闘状態にあるらしい。
「い、いえ、私は――」
益々昏さを増す視線に呑み込まれながら、あなたを化け物だなんて思ってはいない、と震える唇で言いかけた時、彼女の隣にもう一つ人影がある事に気が付いた。
その人物は志摩子の妹(プティ・スール)である乃梨子の友人で、志摩子自身もよく知っている縦ロールがトレードマークの少女だ。血の匂いに慣れていないのだろう彼女は、口元にハンカチを当てて顔を顰めていた。
「無事で良かった、くらい素直に言えないんですか」
「瞳子ちゃんに、素直に、とか言われちゃったよ。志摩子さん、どうしよう?」
彼女の昏かった瞳に光が戻り、瞬時にとても情けない表情になった。途端に息苦しさから解放された志摩子は、安堵するよりも彼女のその急激な表情の変化に呆気に取られてしまう。
次いで、込み上げてきたものがある。それは、
「ふ、ふふふふふ、ふふふ、あっはははははっ」
おかしな笑いだった。
(あんな戦い方をする人が、あんなに冷たい表情をしていた人が――)
今はとても情けない表情を浮かべているのがおかしくて、志摩子は噴き出してしまった。すると、突然笑い始めた志摩子に対して、今度は困ったような表情を浮かべる。
「……志摩子さんが壊れた」
「祐巳さまがおかしな事をおっしゃるからです。『瞳子ちゃんに、素直に、とか言われちゃったよ』って、いったいどういう意味です?」
そう言っている瞳子ちゃんも、隣にいる祐巳さんと同じような表情を浮かべて志摩子を見ている。
しかし、それも仕方のない事だろう。こんな風に笑う自分の姿を見るのは初めてだろうから。なにしろ、自分だって初めてなのだ。こんな風に笑いが止まらないのは。
「ふふふははは、ごめっ、ごめんなさい。ふふっ、とっ、止まらないの」
「ううん、気にしなくても良いよ。志摩子さんだって、たまには壊れたい時があるよね」
そういうわけではないのだけれど、この際そう思われても構わない。
(だって、まるであの頃のように、祐巳さんの前で笑えるのだから)
自分の生まれ育った世界がまだ平和だった頃を思い浮かべながら、志摩子は笑い続けた。
*甘酸っぱいデコポンみたいな恋*
さびしい毎日、明日何が起きようとも今なら何も感じないと思う。
毎日が苦痛でしょーがない。
現実って何でこんなに厳しいのか誰か教えて、愛されるってどうすればいいの?
誰かが俺の名前を呼んだ、それはいつものメンバー、会いたくもないメンバー。
卑屈にしかなれない毎日、寂しくて、切なくて、心の中にポッカリと穴が開いたみたいだなんてよくゆーけど、そんなことあるはずがねーと馬鹿にしてた、でも今実際そーなっている俺。
昨日、放課後、学校で好きだったあの子に告白した、思い切って、勇気を出して告白した。
あの子は今は返事できないっていった、もしかして脈あり?なんて浮かれてる俺がいた。
その日の夜はテンションがバカ高くて、家族にお前は相、変わらずキモイなーと言われた、そんなことはオカマイなしでハシャイだ、もちろん夜も眠れなかった。
そして、今日俺は現実を知った、あの子が言った「今は返事できない」その言葉の意味を理解した、学校についていつもの自分の席に向かった俺、その席はなくなっていた。
なぜ?まわりは俺をみて笑っていた、そして、あの子も笑っていた。
あの子は学校でいっちゃん可愛くて、どんな男子だって見れば一発で好きになる、そんな感じの子だ。
俺はバカだった、昨日いつものメンバーに聞いた話を真に受けていなければ、こんな、こんなことにはならなかったはずだ。
いつものメンバーはこーいった。「あの子ってさーお前に気があるみたいだぜ!!今なら告白いちゃえば一発OKだぜきっと!(笑)今日の放課後呼んで告白しちまえよ!?」そんな言葉を信じた俺がブっ飛んだバカ野郎だったんだ。
今日学校で一番最初に俺の名前を呼んだ奴等はいつものメンバーだった。
「こいつ昨日あの子に告白したんだぜ!!」
クラスの皆は爆笑だった、俺は一人落ち込んだ、そんな中まだ俺を凹ませた言葉、それは好きだったあの子の言葉だった。
「お前みたいなキモイ生き物なんかと付き合うやつなんて、この地球上探したっていやしねーよ。」
第1ラウンド開始30秒相手選手の猛ラッシュによりKO、そんな感じだった、その日の学校は最低だった、悲しかった、切なかった、もー誰かを好きになんかならない、そー決めた俺。
でも、そんなのって、そんなのってあまりにも寂しすぎる、誰か、誰か、愛ってなんですか?俺は、どーしてこー…。
『マリア様もお断り!?』シリーズ
これは『思春期未満お断り・完結編』とのクロスオーバーです。元ネタを知らなくても読めます。
多分に女の子同士の恋愛要素を含みますので、苦手だという方は回避して下さい。
先に【No:1923】をどうぞ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「あ、志摩子。ごきげんよう」
教室に入ると一番に由乃が声をかけてきた。
「ごきげんよう」
由乃とは長いリリアンでの学校生活の中で――志摩子は中等部からだが――三年生になって漸く同じクラスになれた。
志摩子は自分の机に鞄を置いた。窓際の、由乃の後ろ…そこが志摩子の席。由乃と前後なのは偶然ではない。
三年生は三学期が始まると席順は自由となる。皆、思い思いに好きな相手と好きなところに座る。もちろん志摩子たちもそうだ。
「…祐巳は来てないの?」
「挨拶の次にそれですかい」
「あ…ごめんなさい」
由乃の呆れた顔を見ながら苦笑いして謝る。確かにこれは由乃に失礼だ。
「別にいいわよ。いつものことだし?どうせ来てたら朝からいちゃつこうとでも思ってたんでしょう?ごちそうさま!!でも、ざーんねんっ!祐巳はまだ来てないわよ」
「いちゃつくだなんて、そんな……由乃は今日も朝から機関銃のようね」
「…アンタねぇ…喧嘩売ってんの?」
睨んでくるが気にしない。
「嫌だわ、由乃ったら…そんなにカリカリして。カルシウム足りてないんじゃない?」
「〜〜〜っ!志摩子ーっ!!」
「ふふ…ごめんなさい。冗談よ」
(やっぱり由乃といると楽しいわね)
由乃と軽口を言い合う。志摩子が一年生だった頃には考えもつかないような光景だろう。でも今はこの関係を手にしているのだ。そのことを志摩子はとても幸せに思う。
「相変わらず仲がいいわね…ねぇ、そう思わない?」
声をかけられたと同時にフラッシュが光った。
「ふむ…『白薔薇さまと黄薔薇さま、仲良くお戯れ』ってところかしら?」
「真美さん!蔦子さん!」
「あら…」
「ごきげんよう、お二人さん」
「ごきげんよう」
その飛び入り参加者たちは志摩子たちにとっては最早お馴染みの蔦子と真美だった。
「「ごきげんよう」」
志摩子たちの挨拶を聞きながら二人は鞄を置く。
志摩子、祐巳、由乃、蔦子、真美――と、皆同じクラスだ。
そう。このクラスには偶然にも学園の有名人が五人も揃っているのだ。三年生のクラス発表時に話題になったのは言うまでもない。
「祐巳さんなら見ていないわよ」
「え?」
蔦子はそう言ったが志摩子は何も言っていない。しかし聞きたかったことに違いはないので、どうしてかと首を傾げていると、蔦子は『その顔もいい』なんて言ってシャッターを切っている。
そして更に不思議なことを言った。
「志摩子さんてさ…ますます祐巳さんに似てきたわよね」
「あーわかる!反応とか、祐巳ほど酷くはないけど表情に出やすくなったところとか…」
「あと…由乃さんのいじり方とか?」
「真美さんっ!」
由乃が蔦子の言葉に逸速く同意したが、そんな由乃を真美がからかった。
(私が…祐巳に?)
「恋人に似てくるって本当なのねぇ」
「…っ!」
そう言ってにやにや笑う由乃の言葉に志摩子は瞬時に耳まで赤くなる。
「おぉ〜そういう初な反応は志摩子さんのものよね」
「祐巳だと一拍間が空いてからだもんね」
「いい写真をありがとう。志摩子さん」
次々に言われる好き勝手なことに志摩子は二の句も継げないで、ただ顔を赤くしていることしかできなかった。
「っと!冗談は置いといて。ねぇ…志摩子さん?」
「な、何かしら?」
「あのさ…日出実からちょっと妙な話を聞いたのよ…」
「?」
真美が声を潜めたため自然と皆近寄る。
「昨日の放課後、薔薇の館に外国人が来たって…」
「 !! 」
「何それ…って志摩子?」
「その様子じゃ当たりのようね」
明らかに『外国人』の言葉に反応した志摩子に三人の視線が集まる。
「志摩子?」
由乃の促しに応じて志摩子は昨日の出来事を話し出した。
***
「金髪セクシーダイナマイツが祐巳略奪!?」
これが志摩子が話終えた後、開口一番の由乃の言葉だった。
「…由乃さん。仮にもリリアンの乙女がセクシーダイナマイツはないでしょう…」
蔦子が頭を押さえている。志摩子だってそうしたい気分だ。
(まさか由乃がそんな発言をするなんて…)
「ごめんごめん!…んーでも祐巳が?最近あんまり学校に来てないけど、毎日電話はしてるんでしょ?」
「ええ…でもここ数日は連絡取ってないわ。何だか忙しいみたいなのよ。昨日も電話してないし…」
祐巳はこの一ヶ月、あまり学校に来ていない。家の事情らしいので誰も詮索しようとはしないが、卒業も近いため高等部の生徒は皆、落胆の色が大きい。
リリアンでは受験シーズンになると三年生の登校は強制されない。だが大多数の生徒は一日でも多く友人たちと一緒に過ごしたいと思って登校するのだ。
「確かにここ最近の様子はわからないけど…でもあの祐巳さんがそんなことするかしら?」
「私にも何が何だかわからないのよ」
真美の言葉を肯定したいのは山々なのだが、本当に志摩子にも訳がわからない。
「でも、さぁ…私もそんなことは絶対にないと思ってるけど!でもね。もしかして、もしかしたら有り得るかもしれないわよ?」
由乃がとんでもないことを言い出した。志摩子は思わず由乃の顔を見る。
「由乃さん。さっきから…」
「ま、真美さん!可能性の話だから!ねっ?」
「…でも。意外に祐巳さんって面食いだし」
驚いたことに蔦子が由乃の支持をした。面食いという尾鰭をつけて。
「そうなの?」
志摩子にとって祐巳が面食いだというのは初耳だった。確かに祥子や瞳子は美人だと思うが。
「今更何言ってるのよ。祥子さまに瞳子ちゃん…それに何と言っても志摩子!あなたよ」
「わ、私!?」
「そうよー志摩子さんは誰もが認める美少女なのよ」
真美の言葉に蔦子も『うんうん』と頷いている。
「祐巳さんがねぇ『あんなにも可愛い志摩子の恋人になれた私は幸せだ』って言ってましたよ〜?」
「な、何言って…祐巳の方が私なんかよりもよっぽど可愛いわ…」
「うわっ!出たよ…惚気が」
「はいはい。真美さん、今は惚気の話してるんじゃないでしょうが」
脱線しかかった話を蔦子が元に戻す。
「ごめん。面食いだっけ?面食いに…それに祐巳さんって天然たらしなところ、あるよね」
「そうそう。たらされた人その1」
そう言って由乃が志摩子を指差す。
(何だか私と祐巳って酷い扱われようね)
志摩子は普段からこんな風に思われていたのかと、皆の認識を新たに知った。
「まぁ祐巳さんにその気はなくても相手が勝手に好きになっちゃった、とかかもしれないわよね」
「…だとしてもよ、蔦子さん?それで外国人の方と一体どこでお知り合いになる訳?」
(確かにそうよね。祐巳が外国人の方と……あ!)
「あ!」
志摩子と同じ考えに行き当たったのか由乃が声を上げた。
「真美さん!祐巳、夏休みに一度、ご家族でカナダに行ってるのよ」
「…その時に出会って祐巳さんに一目惚れ?」
「で、今になって志摩子さんに略奪宣言?」
由乃の後に蔦子と真美がまるで割り振られた台詞のように続けた。
「じゃあさ。どうして今なの?祐巳さんが旅行した夏休みの後じゃなくて」
再び真美が疑問を口にする。
「あ、待って。祐巳がカナダへ行ったのは去年の夏休みだけじゃないの」
「どういうこと?」
「皆は知らないと思うけれど、先月にも一度カナダへ行ってるのよ」
「「「えーっ」」」
志摩子の言葉に三人は同時に叫んだあと、顔を見合わせてまた仲良く同時に言った。
「「「それだ!」」」
「志摩子、どうしてその外人女に会ったときに気付かなかったのよ!そうしたら何か言い返せたのにさっ!」
「だって…まさか関係あるなんて思わないじゃない」
「祐巳、外人、カナダ……ぴったり符号は合ってるじゃないのよっ!」
気付かなかったものは気付かなかったのだ。それに終わってしまったことを今更言っても仕方がない。
「何にしても…祐巳さん本人から話を聞かない限りわからないことよね」
蔦子のその言葉に志摩子は隣の祐巳の席を見る。
「祐巳、今日は来るのかしら?」
「さぁ…どうだろう」
由乃が時計を見たところで、謀ったように朝拝の鐘が鳴った。
***
今は昼休みも終わりかけ。しかし祐巳はまだ来ていなかった。
志摩子はお弁当を食べてからぼんやり窓の外を見ていた。
(祐巳…)
いつも志摩子が物思いに耽るときは、誰にも何にも邪魔をされることはない。
だが今日は少し勝手が違っていたようだ。
『ねぇ、見て』『素敵ね』『**さん!こっち向いて』『きゃぁぁぁーっ!』
――バタバタバタッ
(何だか廊下が騒がしいわね)
志摩子が廊下の方に目を向けた瞬間、教室の扉が勢い良く開かれた。
「志摩子っ」
「ゆ、祐巳!?」
騒ぎの犯人は祐巳だった。なぜ騒がれたのかと言えば、久しぶりの登校はもちろんのこと彼女が私服姿だったからだ。上からコートを着ていたが前が全開だったため私服であることは一目瞭然だった。
祐巳は周りの視線も気にせず志摩子の方へと歩いてくる。
「…どうしたの?その恰好」
「ん…ちょっとね。先生たちには事情を話して許可は貰ってるよ。それよりさ!」
そう言って祐巳は志摩子の手をぎゅっと握った。
「前に今週は用事ないって言ってたよね?」
「ええ。そう…だけれど?」
「今日も?」
頷くと祐巳の表情がぱぁっと明るくなった。
「じゃあうちに来ない?」
「え?」
「今日は誰もいないんだよね。だからゆっくりできるよ!」
「あの…」
「決まりねっ!」
戸惑う志摩子を置いて祐巳はどんどん話を進めていく。
「4時にM駅の改札口で待っててね」
「ちょっと、ゆ…」
「あ、もう時間だ。ごめん!それじゃあ私、行くね!ごきげんようっ」
――バタバタバタッ
祐巳はそのまま走り去ってしまった。
結局、祐巳が話すだけ話して志摩子の言葉は何も聞いてもらえなかった。
「何事?祐巳ったらどうなってるのかしら?」
「さぁ…」
側に寄ってきた由乃にも何をどう説明すればいいのかわからない。
「でもまぁ…後で会うんでしょう?だったら、何もかも全部聞けるチャンスじゃない!」
「ええ」
真美と蔦子もにやにやしならが側に来る。
「是非とも今のを記事にしたいわ!――紅薔薇さまと白薔薇さま、熱愛発覚!!卒業間近に愛の炎も燃え上がる!?『今日は誰もいないの…』紅薔薇さまの妖しくも甘い誘惑――みたいな?」
「ちなみに手を握り合ってる写真付き」
蔦子が眼鏡を光らせてカメラを持ち上げた。
「真美さん、蔦子さん…やめてちょうだい。心臓に悪いわ」
「あはは!冗談だって」
「でも後でちゃんと写真はあげるわね」
少女たちが戯れる中、昼休みの終了を告げる予鈴が鳴った。
To be continued...
「その、菫子おばさん。お願いがあるんだけど。」
「どうしたんだい、あらたまって。」
「前に私、菫子おばさんの勧める武蔵野のリリアン女学園を受けたじゃない。それでさ、じ、実は千葉の県立校落ちちゃって・・・。それで、リリアン女学園に行きたいな、って。」
「へー。受験するときはいかにもお義理でって感じだったのにどういう風の吹き回しかねぇ。他の滑り止めに受けた学校には行かないのかい?」
「え? 他の滑り止めの私学? そ、それは、その、ほら、菫子おばさんもリリアン女学園っていいところだって言ってたじゃない、だから、心機一転っていうか、ほら、ついたケチをキリスト様にでも払ってもらうとかね。」
「マリア様だよ、それが本心なら嬉しいんだけどねぇ。乃梨子ちゃん。何か隠し事してない?」
「ななな、なにも隠してなんか無いよっ、やましいことなんかしてないって、菫子おばさん。」
「“してない”ねぇ・・・ところでさぁ、あんた頭いいのになんで本命の学校落ちたんだい?」
「え? そ、それはその試験の前の日に京都のお寺で20年に1回しかみれない玉虫観音のご開帳日でさ、どうしても見たくて行ったのよ、私落ちるなんて思ってなかったからね、んで夜大雪になって電車とまっちゃってさ、は、ははは、後悔先に立たずってやつよね、はは。」
「京都のお寺にねぇ。それはまたお金かかったんだろうねぇ。旅費とかどうしたんだい。」
「うぐっ、旅費・・・そそそれは、その、お、お小遣い貯めてたのよ、私」
「挙動不審だね、乃梨子ちゃん。千葉のお家に聞いてみようかね」
「え?ウチに確かめる?! ややややめてっそれだけはやめてっ、親に調べられたら私っ」
「・・・乃梨子ちゃん。リリアン行きたかったら正直に白状しな。家族にはだまっててあげるから。なにか後ろ暗いことしたんだろ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・じゃったの」
「え? 聞こえないわよ。」
「受験料使い込んじゃったのよっっ!!」
「ぶっ・・・・くっくっくっくっく、そっかそっか、それじゃリリアンいくしかないわけだ、あっはっはっはっは、よかったねぇ、リリアンは私が払い込みしてて。まぁ親には言えないよねぇそれは。」
「宿代なかったから野宿するはめになって京都の雪の中で凍死しそうになるし、ルーベンスの絵が見えかけたよもうっ」
「あっはっはっはっ、いやー悪いことはできないねぇ、マリア様はしっかり見てらしたわけだ。」
「はぁ、これで親にバレて趣味もやめさせられるか・・・パソコンも禁止されるだろーなぁ・・・おこづかいもなくなるだろーし・・・玉虫観音の写真集捨てられたらどーしよ・・・。」
「まぁ人生経験にはなったろ。安心しな、親に言ったりしないよ、私だって夢だったリリアンの後輩ができるんだからね。1つだけ約束してくれれば黙っといてあげるよ。」
「えと、菫子おばさんどういう条件で?」
「簡単なことさ。私のこと「菫子おばさん」なんて呼ばずに「菫子さん」て呼んでほしいんだよ。私も「リコ」ってあだ名で呼ぶからね。」
「それだけでいいの?」
「ははは、堅苦しいのはあたしも苦手だからね。弱みを握って思い通りに、とか絶対服従とかじゃ肩が凝っていけないからね。友人関係でいたいんだよ。」
「・・・・・・年の離れた、ね。」
「年のことは言うんじゃないよ、リコ。」
「了解、菫子さん。」
「さて、あんたの親をごまかすための作戦を立てようかい。」
「いえっさー、菫子さん。」
「いざ我ら下り、かしこにて彼等の言葉を乱し、互いに言葉を通ずることを得ざらしめん。かくして主、彼の人々を此処より全地に散らすが故、彼の人々、町を造るを止む。故にその名、バベルと呼ばる……」
パタンと聖書を閉じて、しばしの瞑目。
「では、今日はここまでにしましょう。主のご加護あらんことを。アーメン」
『アーメン』
聖書朗読クラブの、今日のお勉めはこれで終わり。
あとは、本来なら適当な休憩時間を過ごし、解散となる。
しかし。
「あ、休憩の前に、ちょっと皆さんの耳に入れておきたいことがあるの」
部長の言葉に、だらけかけていた部員が、居住まいを正した。
「皆さんも、最近良く耳にしてると思うのだけれど……」
穏やかな笑みの部長だったが、
「『魔法少女志摩子』のことよ」
その名を口にした途端、壮絶な笑みに変わった。
目の当たりにした部員たち、一様に背筋に冷たいものが走る。
「これまでも魔法を駆使して、多くの人たちを助けているって話を聞くけど、魔法を使うと言う事は、彼女は紛れも無い『魔女』。きっと人助けも、何かをやらかすための下準備、人気取りをしているに決まっている。このまま放っておけば、彼女……いえ、ヤツの思いのままに操られてしまうのも時間の問題。そんな事態、神の子たる私たちが看過すべきではないわよね……」
半数はまさかって表情をしているが、残り半数は、その通りと言わんばかりだった。
「今後私たち聖書朗読クラブの全部員は、『魔法少女志摩子』を捕らえ、神の名のもとに様々な方法で散々に玩んだ挙句、処刑するための行動に移ります。いいわね?」
有無を言わせない迫力を持った部長の視線に、思わず全員が頷いていた。
「それにしても……」
放課後、聖書朗読クラブの部員、敦子と美幸は、未だ部長の言葉に半信半疑ながらも、『魔法少女志摩子』を探して校内を徘徊していた。
「助けてもらった人に話を聞いたけど、とても魔女なんてイメージはないですわね」
「そうね、部長がおっしゃった通り人気取りなら、上辺だけなのでしょうけど」
「何にしろ、手がかりが名前だけと言うのが難点ですわ。『魔法少女志摩子』……」
「ああ、個人を特定するための、何かヒントでもあればいいのだけれど……」
頭を抱える二人。
「こうなったら、乃梨子さんにお願いして、山百合会主導で探していただくのはどうかしら?」
「乃梨子さんはともかく、薔薇さま方が動いてくれるかどうかは疑問だけれど」
「行き詰まっている以上、わずかな可能性にでもいいから、賭けてみません?」
「そうですね。では早速、白薔薇のつぼみにお願いしてみましょう」
『そんなワケで乃梨子さん』
「どんなワケよ」
振り向いた敦子と美幸は、真後にいた乃梨子に話しかけた。
何のことはない、二人は、乃梨子の席の前で会話していたのだった。
思わずジト目で二人を見やる乃梨子。
「つまり、『魔法少女志摩子』の手がかりを得るため、山百合会の皆さんの協力が得られるように、乃梨子さんに尽力していただきたいのです」
「どうして、『魔法少女志摩子』の手がかりが欲しいの?」
「口が堅い乃梨子さんにはお教えしますけど……」
部長からの指令を、こっそり耳打ちする敦子。
「本気なの?」
「ええ、部長命令ですから。一年生の私たちには、逆らえませんし」
「いやでも、流石に処刑なんて言われたら、知ってても教えられないんだけど」
「もちろん私たち自身は、処刑とまでは考えていませんわ。でも、手ぶらで帰るわけにも行きません。どんな些細なことでも良いですから、手がかりが必要なのです」
まぁ確かに、二人は狂信者ではないので、間違っても処刑まではしないだろうが。
「知ってたら教えてあげなくもなかったんだけど、残念ながら山百合会でも、全くと言っていいほど手がかりを掴んでいないのよ。新聞部や写真部の協力も得てるのに、助けられた人の体験談だけしか無くって。例えば……」
・先輩Y・Fの場合。
「うん、確かお姉さまお気に入りの花瓶を割ってしまった時に現れて、花瓶をくっ付けて直してくれたんだ。でも、テーブルまで一緒にくっ付いちゃって、大した助けにはならなかったんだけどね、ははは」
・先輩R・Hの場合。
「うん、由乃に殴られて、窓を突き破って一階に落ちたことがあるんだけど、壊れた窓を直してくれたんだ。でも、窓枠までピッタリくっ付いちゃって、開かなくなってしまったんだはっはっは……」
・先輩Y・Sの場合。
「うん、むしゃくしゃしてて、思わずティーカップを全部壊してしまったんだけど、彼女がカップを直してくれたの。でも、直ったのはいいけど、でっかいカップが一つだけって、ありゃ何だって話だったわ」
「……とまぁ、大して役立っていないのが現状なんだわ」
「そうなのですか……」
「新聞部すらも捕まえられないなんて、なんて恐ろしい……」
「いや、恐ろしくはないと思うんだけど。むしろドンくさい?」
「そのドジっぷりが、かえって底知れない恐怖を呼び覚ましますわ。流石は魔女ですわね」
「まぁ確かに、恐ろしいぐらいに冴え渡ったドンくささだけどね。もっと体験談は集めてるけど、似たり寄ったりだわ。いずれにせよ、山百合会でも『魔法少女志摩子』に関して調査はしてるんだけど、大した手がかりは無し、ってのが現状ね」
はーやれやれ、と肩をすくめる乃梨子。
「困りましたわね……」
「ええ、困りましたわ……」
「大変、名前も知らない一年生二人が大ピンチ。こんな時には、秘密の呪文で大変身」
困っている二人の背後で、唐突に声が聞こえた。
「ロサロサギガギガ、ギガンティア〜♪ 魔法少女、志摩子にお任せ♪」
そこには、いつの間にか『魔法少女志摩子』が立っていた。
「あ、魔法少女志摩子。いつの間に?」
『こ、この方が……?』
呆然と呟く敦子と美幸だったが。
「チャンスですわ。本人なら、手がかりをいくらでも知っているはず!」
「そうですわ。本人なら『魔法少女志摩子』のことを一番よく知っているはず!」
『そんなワケで、『魔法少女志摩子』の手がかりを教えて下さい』
「本人に手がかりを聞いてどうするの」
乃梨子の冷静な突っ込みには耳もくれず、魔法少女志摩子に縋る二人。
「安心して二人とも。魔法のロザリオで、『魔法少女志摩子』の手がかりを教えてあげる」
「いやその、本人が手がかりを言ってどうするの」
乃梨子の冷静な突っ込みには耳もくれず、魔法少女志摩子は、敦子と美幸相手に、なかなかにトンチンカンなやり取りを続けるのだった。
「はぁ、やっと『魔法少女志摩子』の手がかりを掴めましたわ!」
「ええ、やっぱり本人に聞くのが一番の近道でしたわ!」
「で、手がかりは掴めたの?」
もう諦めたのか乃梨子は、『魔法少女志摩子』が歩いて消えた廊下の方を見ながら、要らん事は言わずに、結果だけを聞いた。
「もちろんですわ」
「やっと実のある報告を、部長に出すことが出来ます」
「そう、良かったね」
『ええ。そんなワケで、ごきげんよう乃梨子さん』
「うん、ごきげんよう……」
今回だけで、都合三回の「そんなワケで」を残しながら、立ち去る敦子と美幸。
「なんちゅーか、天然ぶりは匹敵してるねあの三人は。でも、本当に『魔法少女志摩子』の正体って誰なんだろう……?」
目の前にしながらも、結局誰だか判別できなかった乃梨子だった。
「乃梨子」
「あ、志摩子さん。どうしたの?」
「近くに来ていたので、迎えに来たの。何か考え事でも?」
「え? あ、いや、何でもないよ。『魔法少女志摩子』の正体について考えてただけ」
「そう。それで、見当は付いたの?」
「いやぁ、それがなかなか……。志摩子さんは知ってる?」
「残念だけど、私は会ったことがないわ」
そりゃそうだ、本人が本人に会えるはずがない。
「そっか……」
「さぁ、薔薇の館に行きましょう」
「うん」
白薔薇姉妹は連れ立って、一年椿組を後にした。
『部長!』
「あら、敦子ちゃんに美幸ちゃん。どうしたの?」
部室に飛び込んだ敦子と美幸を迎える部長。
「『魔法少女志摩子』の手がかりを掴んで参りましたわ!」
「まぁ、それは素晴らしいわね」
「はい! それでですね……」
外見の特徴、声、しぐさなど、覚えている範囲で部長に報告する二人。
「……ということです」
「ふぅむ。で、その手がかりの信憑性は?」
「100%と言っても過言ではありませんわ。何故なら、本人を目の前にして、本人に教えていただいたのですから。ほら、デジタルカメラで撮影もしてきました」
「なるほど、それじゃぁ問題は無いわね。やっと、『魔法少女志摩子』に関する信頼に足る情報を得られたわ」
満足そうに頷く部長。
「二人ともお疲れ様。ご苦労だけれど、引き続き手がかりを集めて来て頂戴ね」
『了解しました!』
誉められたのが嬉しかったのか、嬉々として再び部室を後にした二人。
「ふっふっふ、もう少しで会えるかもね、『魔法少女志摩子』……」
静かにほくそえむ部長が手にするデジタルカメラのモニタには、純白の衣装に包まれ、白い薔薇を胸と髪に飾り、まるで誰かを彷彿とさせる、ふわふわ巻き毛の美少女が写っていた。
「ねぇ部長?」
「何?」
夕日が差し込むも薄暗い部室の中、副部長が部長に問い掛けた。
「気付いてる? あなた、『魔法少女志摩子』の話をしているとき、妙に嬉しそうな顔してたわよ」
「え? ほんとに? そりゃ危ないわねぇ」
手鏡を取り出し、映った自分の顔を撫でながら、ニヤリと笑みを浮かべるのだった……。
今ここに、ひとりの少年がいる。
グレーがかったブルーの瞳。
髪こそ真っ黒だが、顔の各パーツの彫りは深く、整っている。
一個人の部屋にしては広すぎるほどの自室。
ベッドやクローゼットなど、必要最低限の家具と、趣味の道具であるパソコン以外には
部屋を飾り立てるものは何もない。
その空間に、電話がおいてある。
電話は主に親しい人や、家の関係者からが多い。
ここ最近はあまり話すこともないせいか、事務的な連絡以外では鳴ることも
少なくなっていた。
ふう、と短い溜息をひとつ。
目の覚めるような美男子ではないのだが、憂いに満ちた表情がなんともいえない
味わいを出している。
その日の午後、よどんだ空気を突然動かしたベルの音に、
少年は少なからぬ驚きと、かすかな期待を感じていた。
『もしもし、康介?今何してる?』
彼の名を呼んだのは姉の声。
「どうした、真里菜」
姉の名は岡本真里菜といった。
珍しいこともあるものだ、と康介は思った。
普段用事があれば、メイドを通すかあるいは自分から部屋にやってくるかの
どちらかなのに。
そういえば電話の声が、なんとなく怒りを帯びていたような気がする。
『すぐに部屋に来て』
(俺、何か怒られるようなことしたのかな…)
会話の中で不用意なことを言ってしまったのか。
もしくは、姉に借りていた本をいまだに返していないことに怒っているのか。
康介はあらゆる可能性を考えていたが、どうしても原因らしき出来事に思い至らない。
そのかわり、なんとなく予感めいたものが脳裏をかけめぐっていた。
机の上にあるペン立ての中から、『いつもの』を取り出すと、
康介は姉の部屋へと急いだ。
「遅い」
案の定真里菜は怒っている。
しかもこちらを振り向くどころか、ベッドにうつぶせになったまま身動きもしない。
「ごめん」
短く謝罪するが、真里菜の反応はない。
(参ったな…背中に怒りが充満してるよ。こりゃ何かあったな)
「あ、あのさ…マッサージした方が…よさそうだね」
「さっさとやってちょうだい」
手にしていた『いつもの』を近くのテーブルの上におくと、康介はベッドの上に乗り、
真里菜の背中をゆっくりとさすり始めた。
こうしてまずは安心感を与えてから、それぞれの部位のマッサージに入る。
まずはふくらはぎから。
そうとう酷使しているのか、まるで鉄の棒のようになっている。
その鉄の棒を人間の足にするためには、かなりの時間と力が必要だ。
「真里菜、少し我慢してくれよ。すぐ痛みは治まるからな」
痛いのが嫌いなことは知っているが、これほど固くなってしまうと、
ある程度力を入れないとほぐれない。
それを部活(康介は水泳部所属である)で嫌というほど知っている康介は、
できる限り姉を刺激しないよう優しく話しかけた。
「い…痛…」
「ごめんごめん。ほら、これでいいだろ?」
少し力をゆるめた状態で、時間をかけてゆっくりともみほぐす。
30分ほどそうしていただろうか。
真里菜の体が、ふっと緊張を解いて、康介の手にゆだねられた。
「よしよし。もう大丈夫だからな」
その後、足の裏まで下がったあともう一回ふくらはぎをほぐして、
康介の手は背中へと移動した。
華奢な背中で両手を上下させながら、康介は思う。
(もしかしたら…淋しかったのかな?)
そう考えれば、思い当たるふしがいくつもある。
少し前の夜中に目が覚めて、トイレに行く途中のこと。
真里菜の部屋から疲れた顔で出てくるメイドとすれ違った。
「どうしたんだよ。真里菜に何かあったのか?」
メイドの返事に、康介は耳を疑った。
「真里菜さま…かなりうなされていたようで、突然目を覚まされて…
先ほどまで激しく泣いていらしたんです。
今は落ち着いて眠っていらっしゃいますけれど」
うなされて、目を覚まして激しく泣く。
リリアンの生徒会長というのは、それほどまでに激務なのか。
もしかしたら別の理由があるのか。
いずれにせよ、よほど強いストレスがかかったに違いない。
一見強気に振舞っているように見えるが、あれで意外ともろいところがある。
そのときは答えも出さずにそのまま部屋に帰ってしまったが、
その後1時間ほど心配で寝付けなかったことを覚えている。
それだけではない。
最近メイドたちが、真里菜の機嫌をとるのが大変とこぼすようになったのだ。
両親の前ではそれほどわがままは言わないのだが、
メイドや他のスタッフを相手にするととたんに不機嫌になり、言いたい放題になってしまうのだと。
康介にはなんとなく、真里菜がこれほど荒れる理由が分かるような気がした。
(あいつは極度の淋しがり屋だから)
日本陶芸界の重鎮の父親と、イタリア名門貴族出身の母親。
それぞれに自分の仕事やら付き合いやらで忙しい。
そのことを思い出していたら、知らないうちに手が止まっていたらしい。
すでに半分眠ったような声で、
「もうやめちゃうの?」
と言ってきた。
「今度は耳かきしてやるから」
すでに力の抜けた体を、そっと自分の膝に引き寄せる。
(やれやれ…俺もつくづく真里菜には甘いな)
いったいいつ、耳かきなどという技を身につけてしまったのだろうか。
記憶をたどってみても、出てくるのは空白ばかり。
その代わりに康介には、聞いてみたいことがあった。
「なあ真里菜…淋しいか?」
「今は、淋しくない」
その瞬間の真里菜の表情を、康介は忘れることができない。
(こんな…こんな、子どもみたいな顔するヤツだったか?)
それに『今は』とは何だろう。
さらに気になる。
「でも、前は淋しかった」
やはりあのとき、淋しかったから泣き叫んでいたのか。
もしそうだとしたら、なぜそんなに…?
「あのときね…夢の中で、私は暗い場所にたった一人だった。
誰を呼んでも返事もなくて、不安で仕方なくて…
だから必死にあんたの名前を呼んだのに、康介ったら近づいてきたのに、
素通りしてくんだもん…まるで私なんて見てないみたいで
目がさめて電話鳴らしたのに…何度呼んでもあんた、来てくれなくて…」
真里菜はすでに涙声。
そのとき康介の頭の中で、すべてのピースがカチッとはまった。
自分に見捨てられるのが不安で泣いていたのだ。
これではまるで、捨てられてダンボールの中で泣いている子猫みたいではないか。
康介はそっと姉を抱き寄せた。
「大丈夫だよ。俺はどこにも行かない。
ちゃんと真里菜のそばにいるから」
これほど自分を追い求めてくれる人が、果たして他にいるだろうか。
「それからもうひとつ。誰もお前のこと、見捨てたりなんてしないよ。
ちあきさんとか純子さんとかも、ちゃんといつも一緒にいてくれるだろ?
そんなに淋しがることなんてないんだよ」
いつの間にか膝枕の体勢を解き、真里菜の横に添い寝する形になっている。
自分の腕の中に体を引き寄せ、背中で穏やかなリズムを刻む。
(いつかはお前も、誰かを好きになっていくんだろうけど、
今は俺だけの姉貴でいてくれよ…)
やがて呼吸が落ち着きを取り戻し、静かに眠りについた真里菜。
(たまにはこんな夜も、あっていいさ…おやすみ、真里菜)
とぎれた雲の間から、月が青く2人を照らしていた。
!注意!
ネタバレしまくり小ネタ十番勝負です。
・ド天然
「瞳子の目的は、負けることだったんです」
そう告げた瞬間、声にはならなかったが祐巳様が「えー!?」という顔をしたのを乃梨子は見逃さなかった。
……瞳子、諦めた方がいいかもしれないよ……
・マーダキラーケース
「由乃の演説、聞いてて、『あれは落ちたな――やれやれ、あれは間違いなく落ちた。ん。いや、ぎりぎり当選したかな。でもまあ、さすがに祐巳ちゃん達には大差をつけられたな』なんて正直な感想言えるわけないじゃな――」
次の瞬間、お祝いは殺戮劇へと変貌をとげた。
どんな時でも言ってはいけない事がありますよ、令さま。
・届いてこの想い
「見ている人間が拳を上げたくなるくらいのパワーがあったもん。言われた志摩子さんが元気にならないわけないじゃないの」
「……そう、ですか」
チラリと志摩子さんをみると、
「……もちろんよ」
そう、若干の間と、柔らかい笑顔と共に返事が来た。
私で、いいんだよね……?
・フォーエバー人類最強
「優さん、ペンションのオーナーに帰してもらえなかったんですって」
そこに、茶碗を載せたお盆をもった母が、会話に参加してきた。
「どうして帰してもらえなかったの?」
捻挫した時の話なんだけどね、と母は前置きを言ったあと
「雪崩に巻き込まれた時、見知らぬ女性に助けてもらってね、その女性が『男の癖に弱すぎる! あたしが鍛え直してやる!』って言ってペンションに連れて行ったのよ」
「義叔母さま、まるで見ていたみたいだ」
優さんは、組んだ指の上に顎を載せて、力なく笑った。
・ぶらっくふぇざぁ
第一あの志摩子さんが怖い顔をして命じるところなんて、想像がつかない。なんて考えていたら、当の志摩子さんと目が合った。
「何?」
いつもと違う妖艶な微笑。「なに」というより「なぁに」って感じの。
この黒翼の天使は、令ちゃん達『古狸』より気をつけなければならないと思った。
志摩子さんは「腹黒」なのだ。
・リターンオブザESP
「私もお姉さま同様、断る理由がないって結論がでてしまったんだよね」
祐巳さんっ。黙れというのに。いや心の中で叫んだところで聞こえるわけが――
「…………」
「どうしていきなり黙るのよ。祐巳さん」
「だって由乃さんが黙れって言ったから」
祐巳……、恐ろしい子!
・その時頭に煌めく
「より近い場所を書いた人とするか……。くじ引きでも、面白い回答を書いた人を選んでも、何でもいいと思います」
その時、由乃の頭には「若乃花の染井吉野」と書かれた回答用紙を喜々としてポスト型ボックスに入れる菜々の姿が思い浮かんだ。
・その時頭に煌めく2
「より近い場所を書いた人とするか……。くじ引きでも、面白い回答を書いた人を選んでも、何でもいいと思います」
その時、祐巳の頭には「ドリル」と書かれた回答用紙を、何故か自信満々にポスト型ボックスに入れる瞳子の姿が思い浮かんだ。
・ぶらっくふぇざぁ2
由乃も、志摩子さんの顔を覗き込んで言ってみた。
「やりましょうよ?」
さっきのお返しのつもりだった。
しかし、志摩子さんはすぐには頷かなかった。顔をうつむき気味にして、ゆっくり私の方に片目を向けてくる。その目はどこぞの第一ドールを思わせる鋭い目付きで、静かに殺気を放っている。
「……やっぱりなんでもないです」
この時、志摩子さんには逆らわない方がいいと、心の中で強く思った。
・一度でいいからやってみたい
「どんや形だっていいの。部に残って、演じてちょうだい。部員たちは、演じ手としてのあなたから、いろいろなことを学べるわ。
リリアンの柱になってちょうだい
」
……テニスの王○様?
みんなが想像しただろうくだらないこと……一発ネタ一本だけ
〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜
祐巳、由乃、志摩子に似合いそうな俳句。
島津由乃
『鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス』
福沢祐巳
『鳴かぬなら 鳴かせて見せよう ホトトギス』
藤堂志摩子
『鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス』
〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜
祐巳と志摩子が微妙‥‥‥ひょっとしたら既出かもしれません。
ところで、ホームページビルダーV9の旧PCから新PCへのデータ移動の仕方、どなたかご存知ありませんか?
色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
【No:1893】→【No:1895】→【No:1897】→【No:1907】→【No:1908】→【No:1911】→【No:1913】→【No:1921】→【No:1926】→【No:1933】→【No:これ】→【No:1943】→【No:1945】
「綺麗に吹き飛んでいるね」
薔薇の館の会議室で、夜空を見上げながら祐巳さんが呟いた。確かにその通りで、会議室だけではなく館全体の天井部分が綺麗になくなっていた。
この場所で魔法を使ったのだから仕方がないのだけれど、やはり一番被害が大きかったのは会議室だ。床や壁などには焦げ跡が残っているし、机や椅子などのその場所に固定されていなかったものに関しては全てなくなっている。
「これを志摩子さまが?」
この部屋の有様が、志摩子の使った魔法によるものだと聞かされて瞳子ちゃんが驚いている。
「ええ、ここまで壊すつもりはなかったのだけれど、しばらく戦いから遠のいていたせいか加減を誤ってしまったの。それにしても、まさかあの時の揺れが祐巳さんの仕業だったとは思わなかったわ」
ここに来るまで、志摩子たちはお互いの身に起こった出来事を話していたのだけれど。その時に、志摩子の窮地を救ってくれたあのとんでもない揺れが、祐巳さんが校舎を破壊した事によって発生したものであったと分かったのだ。
「感謝してね」
そう言いつつも、そんな事はどうでも良さそうな感じの祐巳さんは、元は窓のあった場所に立ってそこから校舎があった方を眺めている。
「あんまりそっちに行くと危ないわ。怪我をするわよ」
ちょうど祐巳さんがいる場所にあった窓を蜂が割って入ってきたので、その辺りにガラスが飛び散っているはずだ。おそらくあの時の魔法によって蟲たちと一緒に空の彼方へ飛んでいったと思うのだが、一応注意しておく。もっとも、祐巳さんが志摩子の注意を素直に聞いてくれるとは思っていないのだけれど。
「怪我しても直るから平気」
「そういう問題じゃありません!」
志摩子の代わりに、眉を吊り上げて瞳子ちゃんが怒鳴った。
「天使族の自己治癒能力は凄いのよ。お陰でなかなか死なないんだから」
腕くらいなら千切れても一週間ほどで生えてくるし、と祐巳さんが志摩子たちに背を向けたまま返してくる。
「……志摩子さまからも何か言ってやってください」
祐巳さんの背中を睨み付けながら、そう言ってくる瞳子ちゃん。
「私が言っても――あ!」
無駄だと思うわ、と続くはずだった志摩子の言葉が、瞳子ちゃんの首にかかっているものを見て途切れてしまった。
「どうしました?」
志摩子が途中で言葉を止めた事によって、瞳子ちゃんが不思議そうに首を傾けた。
「その首にかかっているものは、もしかして……?」
「え? ああ。はい、そうです」
志摩子の質問に答えて、瞳子ちゃんが胸元からそれを取り出して見せてくれる。
歪に折れ曲がり、ところどころ錆びたそれは間違いなく祐巳さんの首にかかっていたものだ。祐巳さんのお姉さま(グラン・スール)である蓉子さまの残した、唯一の形見にして祐巳さんの戦っていた証。
それは、この学園における姉妹(スール)の証でもあった。それが瞳子ちゃんの首にかかっているという事は、そういう事なのだろう。
「そう……。あなたの言葉は祐巳さんに届いたのね」
「はい」
幸せそうに頷く瞳子ちゃんを、とても羨ましく思う。彼女がこんなに幸せそうなのは、きっと祐巳さんの傍にいるからだ。心と心の距離がとても近い所にあるからだろう。それは、過去に志摩子が失ってしまったものだ。
(失いたくはなかったのに……)
俯いて足下を見ると、木造の床には蟲の体液である青い染みが未だに残っていた。
(私の言葉は祐巳さんには届かない……)
もしかすると、このまま永遠に届かないままなのかもしれない。それだけは絶対に嫌なのだけれど、ではどうすれば届くのか志摩子には全く分からない。祐巳さんが一人で学園に戻ってきたあの日あの時、祐巳さんが泣いていたあの瞬間に戻れたら、なんてどれだけ願っても叶わないような事まで考えてしまう。
「祐巳さまの事を考える時、志摩子さまは下ばかり向いていますね」
「え?」
その言葉に驚いて顔を上げると、冷ややかな目をした瞳子ちゃんが志摩子を見つめていた。
「祐巳さまが、志摩子さまに対してきつく当たる理由がようやく分かりました」
「……」
「私が言えるような事ではないんですが、あなたが祐巳さまにした事は私も許せません」
何も言い返せない志摩子は唇を噛んだ。犯してしまった罪は消えない。永遠に消える事はないのだ。何処までも付いて回る。
「ですが、それでも志摩子さまは、祐巳さまに関わろうとしていますよね」
そう言って瞳子ちゃんは、ふっと表情を緩めた。
「償うために、よ」
罪は消えない。でも、償う事はできる。いや、償う事しかできない。けれど、償っただけで本当にあの頃のような関係に戻れるのだろうか。
「それだけですか? なぜ償うんですか? 傷付けたからですか? 罪の意識からですか?」
「……その全てよ。でもそれは、祐巳さんの友人でありたいと思っているからよ」
あんな罪を犯してしまう前は、彼女とは友人だった。
彼女を助けた事があれば、彼女に助けられた事もある。私のお姉さまも交えて、三人で穏やかな時間を過ごした事もある。
本当に楽しそうに笑う祐巳さんの笑顔に、自分でも気付かないうちに笑顔となっていた。お日様のような祐巳さんの笑顔が好きだった。彼女のあの笑顔を取り戻したい。もう一度あの笑顔を見せて欲しい。叶う事ならば、祐巳さんにはあの頃のように笑っていて欲しい。
祐巳さんにあの素敵な笑顔を取り戻してもらう事。それが、お姉さまや家族、乃梨子を守るという事に並んで私があの世界で戦っていた理由だった。
「志摩子さまの言葉は、祐巳さまに届いていると思いますよ」
「え?」
「本当に届かないのであれば、祐巳さまは志摩子さまに対して怒ったり怒鳴ったりしません」
「それは、私の事が嫌いだから……」
「仮にそうだとしても、志摩子さまの事を意識しているから怒るんじゃないですか? 祐巳さまにとって志摩子さまが本当に取るに足らない存在だとしたら、返事なんかしないで無視すれば良いんですから」
「そんな事、祐巳さんはしないわ。祐巳さんは絶対に他人を無視したりしない。だって……だって祐巳さんは――」
言っても良いのだろうか。自分にそれを口にする資格があるのだろうか。
志摩子が逡巡していると、その言葉を瞳子ちゃんが口にした。
「優しいから、ですよね」
「あ……」
「他人を傷付ける事もありますが、確かに祐巳さまは優しいんです。出会ってまだ間もない私が気付いたほど優しいんですから」
祐巳さんは優しかった。それは、今も同じだと思う。表面上はどんなに変わっていても、根元の部分は昔と同じで優しいままだ。
「だから、きつく当たるんじゃないですか?」
瞳子ちゃんの言う通りだ。そして、志摩子はその事を――。
「……知っているわ」
「え?」
志摩子の口から出た言葉に、瞳子ちゃんが目を丸くした。
「本当は、ずっと知っていたのよ」
志摩子にきつく当たってくるのは、祐巳さんの優しさだ。あれは、志摩子に罪の意識なんて感じて欲しくないからだ。志摩子が感じている罪の意識を少しでも軽くしようと、敢えてきつく当たってくる。
祐巳さんとは中等部の頃に出会って、それからずっと一緒にいた。その明るい人柄と優しさに触れて、彼女のようになりたい、と思った事さえある。
彼女の様々な表情をずっと傍で見てきた志摩子には、祐巳さんの感情の変化が分かる。だから、どんな気持ちを抱いて祐巳さんが怒鳴ったりしているのかなんて、ずっと分かっていた。自分の態度が、そんな祐巳さんを余計に苛立たせていたのも分かっていた。でも、それでも償いたくて、自分でそれに気付かないフリをしていたのだ。
けれど――。
「でも、どうすれば良かったの? あんな事をしてしまった以上、それまでと同じように祐巳さんと接する事なんて私には無理よ」
「それが償いではないですか?」
「……え?」
どういう事なのか、と瞳子ちゃんに目で問い返す。
「志摩子さまが悩む事を、祐巳さまは望んでないと思います。難しい事だとは思いますけれど、何も考えずに普通に接する事こそ祐巳さまに償う事になるのではないですか? もっとも祐巳さまは、償って欲しいなんて思っていないと思いますが」
祐巳さんは、もうずっと前から志摩子の事を許している。それは確かだと思う。けれど、志摩子がいつまでも下を向いて悩んでいるから、祐巳さんはあんな態度を取るのだ。
「それは……本当に難しいわね」
「ですが、友人だったんですよね?」
「だった、ではなく、今も友人のつもりよ」
少なくとも自分はそう思っている。たとえ何度拒絶されても、そうでありたいと思う。
「それなら、大丈夫だと思います。お二人とも優しいんですから」
祐巳さんはともかく自分はどうなのだろう。そう思っていると、呆れたような声が聞こえてきた。
「誰が優しいって?」
見ると、先ほどまで背を向けていた祐巳さんがいつの間にか志摩子たちを見ている。
不機嫌そうな顔して腕を組んでいる祐巳さんに向かって、志摩子の隣の瞳子ちゃんが呆れ顔で溜息を零した。志摩子と同じように彼女も気が付いたのだろう。祐巳さんの怒っているような表情の中に、怒りとは別の感情がある事に。
「勝手に人の事を話して、勝手に優しいとか言われても困るんだけど」
すぐ傍でそんな事を言われて、どう反応すれば良いのよ、と祐巳さんが視線を下げて困った顔をする。
「祐巳さんは優しいもの」
「だから、私は優しくなんか――」
「ない、なんて事はない。あなたは優しい」
志摩子はそれをよく知っている。
「あのさ」
祐巳さんが何かを言いかけた。おそらく、これまで同様に志摩子の言葉に対しての文句だろう。
志摩子はそれを口にされるよりも先に、祐巳さんに向かって頭を下げた。
「ごめんなさい」
「……いったい何に謝っているの?」
祐巳さんが目を細めた。
「あなたが蓉子さまを失って帰ってきた時の事。でも、これっきりよ。もう謝ったりしないわ」
「……ふん」
頭を上げた志摩子を見て、祐巳さんがそっぽを向いた。
届くのだろうか。それとも、やはり駄目なのだろうか。不安で心が一杯になる志摩子に、祐巳さんがそっぽを向いたまま言った。
「少しは……マシになったようね」
「え?」
小さく呟くような声だったので聞き取り難かったのだが、志摩子の聞き間違いでなければ『マシになった』と言ったような気がする。でもそれは、志摩子が自分に都合の良いようにそう聞こえた、と思いたいだけなのかもしれない。実際には、どう言ったのだろう。
悩んでいると、祐巳さんが頬を掻きながら言った。
「『少しはマシになったわね』って言ったの。同じ事を二度も言わせないで、ムカつくから」
(あ――)
相変わらず言い方は乱暴だったけれど、志摩子には分かった。
(あぁ――)
間違いなく、志摩子の想いは祐巳さんに届いていた。
「祐巳さんっ!」
嬉しくて、思わず祐巳さんに駆け寄ってそのまま抱き付いてしまう。
「ちょ、ちょっと、ここは危ないって志摩子さんが自分で――」
突然抱き付いたので、よろける祐巳さん。けれど、そのまま転んだりしないでしっかりと志摩子を受け止めてくれた。
「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ、私っ、私っ、ごめんなさいっ」
「……あのさ、また逆戻りする気? それと、鬱陶しいから離れてくれない?」
そう言いながらも、祐巳さんは志摩子を振り払おうとはしなかった。志摩子のしたいようにさせてくれている。
祐巳さんは祐巳さんだった。あの頃と同じ祐巳さんのままだった。隠されていて見付ける事が難しかったけれど、暖かくて優しい祐巳さんのままだった。
「本当に、素直じゃないですね」
志摩子たちを見ている瞳子ちゃんが、何度目かの溜息を零しながら祐巳さんに言った。
「だから、他の人ならともかく、あなたにだけには『素直に』とか言われたくないんだってば」
泣きじゃくる志摩子を胸に抱いたまま、ほんの少しだけ頬を朱色に染めた祐巳さんが瞳子ちゃんにそう返す。
「ふふっ」
そんな二人のやり取りが微笑ましくて、つい笑みを零してしまう。
そのままクスクスと笑っていると、「私の言った通りだったでしょう?」と瞳子ちゃんが声をかけてきた。祐巳さんに抱き付いたままそちらに顔を向けてみると、瞳子ちゃんは志摩子を見て微笑んでいた。
届いていましたね。
声に出してはいないけれど、表情がそう言っている。
だから、志摩子も同じように瞳子ちゃんへと微笑み返した。
ええ、届いていたわ、と。
*
抱き付いていた志摩子さんが離れた所で、パチパチパチパチと拍手の音が鳴り響いた。その音の出所へと顔を向けると、ビスケットに似た扉のあった場所に少女が立っていた。
突然現れたその少女を怪しむより先に、目を奪われてしまう。小さな笑みを浮かべているその少女が、あまりにも美しかったからだ。
「余興にしては楽しめたわ。あなたの妹(スール)とやらを連れてきた甲斐があったというものね。私に感謝しなさい」
瞳子ちゃんは、少女のそんな言葉を聞いても彼女に見惚れているままだった。志摩子さんの方はさすがで、その言葉を聞いてすぐに少女を警戒し始めた。
けれど、祐巳は警戒の必要はないと判断した。なぜなら、少女の声が少し前に聞いた声と同じだったからだ。それは保健室での、『ねえ、そろそろ起きないと死んでしまうわよ?』という祐巳を起こしてくれた声だ。
わざわざ知らせてくれた、という事は敵ではないのだろう。
それに、
「あなた誰よ?」
尋ねながらも祐巳には既に分かっていた。少女の姿を見た時に、一目で彼女が何者なのか分かってしまった。
その少女の事はよく知っているし、よく覚えている。ずっと昔に何度も見た事がある。それは、鏡の中にあった自分の姿だ。
この少女は、神様の私だ。
「一応とはいえ、自分に向かって『初めまして』というのはおかしな気分だわ」
少女が楽しそうに笑うと、肩口で切り揃えられている烏の濡れ羽色の髪が合わせて揺れた。
「でもまあ、初めまして。神様をやっている祐巳よ」
「神様……?」
神様に会うのは初めてらしい志摩子さんの驚いた表情。
瞳子ちゃんの方は、未だ彼女に見惚れたままだ。あの神様の少女と祐巳は同じ存在のはずなのだけれど、ちょっと自信がなくなってきた。って、今はそんな事よりも神様の少女の方だ。
「降臨できないんじゃなかったの?」
桂さんが嘘を吐いたのでなければ、確かそうだったはずだ。
「あの子は、私がこの世界に来る事ができない、とは言ってなかったでしょう? つまり、私がここにいるのは降臨とは別の手段を使ったという事よ」
確かに、『あなたの身体に神様の祐巳さんが降りる事はないわ。あなたは彼女の端末ではないから』とは言っていたが、来る事ができない、とは言ってなかった記憶がある。
それにしても、桂さんを『あの子』だって? よくその姿で言えたものね、と彼女を眺めながら祐巳は呆れた。
なにしろ彼女の姿が、
「どうして子供なのよ?」
六歳くらいの時の祐巳の姿だったからだ。
しかも、祐巳よりも遥かに綺麗な顔立ち。薄紅色の唇の上には小さくて可愛らしい鼻がちょこんと乗っていて、ぱっちりした大きな目に煌いて見える瞳なんて反則ものだ。穢れの一点もない透き通るような肌には、清楚な純白のワンピースがとてもよく似合っている。
もうそれだけで十分だろうと思うのだが、目の前にいる少女からは祐巳では何年経っても到底身に付ける事はできないであろう上品さと高潔さまでもが自然と滲み出ていた。
同一存在である自分が言うのも何だけど、成長すれば間違いなく絶世の美女と呼ばれるようになるだろう。神様ではない祐巳としては、腹立たしい事この上ない。
「どうしても何も、これが私の身体だからよ」
「へ?」
予想外の答えが返ってきたので、気の抜けたような妙な声が漏れてしまった。
(って事は、これが神様の私の本体って事? こんな子供が!?)
驚いて思わずじろじろと見ていると、気分を害したらしく少女の目がすっと細まった。
「子供の姿だからって馬鹿にしないで欲しいわね。あなたなんかよりも、遥かに世界に貢献しているのだから。生まれたばかりの赤ん坊みたいなあなたとは、積み重ねてきた年季が違うわ」
どうやら可愛らしい外見とは裏腹に、かなり口が悪いようだ。
「神様と比べられたくないわね。それに、年季? ふふん、外見は子供なのに中身は年増――」
いきなり、ガツンと背中に衝撃を受けた。
「ふっ、ぐぅ――」
受けた衝撃で一瞬、呼吸が止まる。肺にあった空気が残らず口から漏れてしまった。
「祐巳さまっ!?」
「祐巳さん!?」
瞳子ちゃんたちの慌てる声を聞いて、ようやく祐巳は自分の身に何が起きたのかを理解する事となった。
どうやら、凄まじい勢いで壁に叩き付けられたらしい。空中に浮くとか、そういった壁に叩き付けられるまでの過程が全て飛ばされていたので、何が起こったのかすぐに理解できなかったのだ。
「ぁ……く……」
空気を求めて呼吸をしようとしたのだけれど、それは許されなかった。
壁に磔にされたまま、胸の上に何かとてつもなく重いものを乗せられたような感覚。胸を圧迫されて呼吸ができず、おまけに指の一本ですら動かせなくなっていた。
見れば、少女が全く身動きの取れなくなっている祐巳を見て嘲笑っている。
「こ……の……」
何か一言でも良いから文句を言おうと口を動かしたけれど、それ以上は何も言えなかった。
「次に余計な事を言えば、背中の壁と同化させてやるわ」
そのままずっと、生きた壁として存在し続けるのはどうかしら? とぼやけた視界の中心で少女が愉しそうに嗤う。
こいつ、本気で言ってる――そう感じた。彼女は、やると言ったらやるだろう。おそらく、祐巳の命なんて道端に転がっている石くらいにしか思っていない。
(まずい、意識が……)
脳に酸素が足らないからか、思考が鈍ってくる。瞼もやけに重く感じられるし、本格的にまずい兆候だ。どうやら、神様の自分は慈悲深くはないらしい。
(やっぱり、神様なんて嫌いだ)
まさか、こんな事で死ぬ事になるとは思わなかった。
「やめてくださいっ!」
突然、瞳子ちゃんの大きな声が部屋に響いた。それは、悲鳴に近いものだった。飛びかけていた意識を何とか取り戻してそちらを見れば、瞳子ちゃんが身を震わせながらも神様の少女を睨んでいる。
睨まれている少女が瞳子ちゃんを一瞥して、ふん、と鼻で笑う。
「まあ、これくらいにしておいてあげるわ。そもそも、こんな事をするために来たわけではないのだし」
その言葉と共に、祐巳はようやく見えない縛めから解放された。
ズルズルと背中を壁に押し付けたまま、力無くその場にへたり込む。呼吸する事が許されたので、そのままの格好で大きく空気を吸い込むと咳き込んでしまった。
「祐巳さまっ」
ケホケホと口元に手をやって咳き込んでいると、瞳子ちゃんたちが駆け寄ってくる。それを手で制して、どうにか呼吸を普段通りに戻した所で祐巳は少女を睨み付けた。
「良い目をするわね。この私に向かってそんな目をする人は、私の世界には存在しないわよ」
床にへたり込んだままの祐巳を見下ろしながら、実に楽しそうに少女が笑う。心底楽しくてしょうがない、というような笑顔だった。
いつまでも見下ろされているのは気分が悪いので立ち上がろうとして足を伸ばし、ふらついた所で瞳子ちゃんが肩を貸してくれた。
「何の用なのよ」
瞳子ちゃんに身体を支えてもらいながら少女に尋ねる。
「あなたとお話がしたかったの。少し逸れてしまったけれど、これはこれでなかなか楽しめたわ。後は今回の事についての説明ね」
そのために、桂さんではなく彼女がここに来たそうだ。お話よりも先に説明をしてよね。その方が大切でしょうが、と思った。
「せっかちね」
そういう問題ではないと思う。それから、勝手に他人の思考を読むな。人を殺そうとするな。それと、桂さんで思い出したのだけれど。
「あなたなら、蟲たちを操っている神様をどうにかできるんじゃない? 偉いんでしょう?」
昨日桂さんと会った時に、『神様の祐巳さんの場合は、私たち観察している神様の纏め役』と言っていた。だったら、それくらいの事は簡単にできるのではないのだろうか。そう思いながら尋ねると、祐巳の期待に反して少女は首を左右に振った。
「いいえ、役目が違うから私は手を出せないわ」
「ふーん、そう」
役目が違うから、ねぇ。神様ってやっぱり変だ。あ、実はそんなに偉くないとか? そんな事を思っていると、突然腕を後ろに引っ張られた。今度は目の前の神様の仕業ではなく、背後にいる誰かに引っ張られたらしい。振り返ってみると、顔を蒼白にした志摩子さんが祐巳の制服の袖を握っていた。
「どういう事なの? 神様が操っているって……」
嘘でしょう? と縋るように祐巳を見てくる。そんな志摩子さんを見て、しまった、と祐巳は舌打ちした。
そういえば志摩子さんは、あの世界を滅ぼそうとしていたのが神様だって事を知らないのだった。しかも志摩子さんと言えば魔女っ娘のくせに敬虔なクリスチャンで、祐巳とは違って神様や奇跡を信じている人なのだ。祐巳が初めて桂さんからそれを聞いた時よりも、ずっとショックが大きかったに違いない。
参ったな、どうしようか? と悩む祐巳の代わりに神様の少女が答えた。
「言葉通りよ。蟲たちを操っているのは、そういう役目の神様なのよ。ついでに言っておくと、あなたの生まれ育った世界は滅びたわ」
「滅びた……? そんな……」
ショックを受けている最中に、止めを刺すような事を言われて呆然とする志摩子さん。どこを見ているのか、ふらふらと彷徨う視線がとても危うい。
できれば、あの世界が滅びた事を志摩子さんには知られたくなかった。そうと知らなければ、もしかしたら今も抵抗し続けている、それどころか撃退したかもしれない、と希望を持っていられるからだ。
知らさなければずっと誤魔化す事ができたのに余計な事を、と神様の少女を睨んでいると、
「しっかりしてください」
いつの間にか志摩子さんの後ろに控えていた瞳子ちゃんが、よろめく彼女を支えた。
「え、ええ」
答える志摩子さんの顔色はとても悪いのだけれど、それでもその瞳の輝きは失われてはいなかった。
(……うん、そうだよね)
志摩子さんは強い。どれだけ傷付いても、結局祐巳の事を見捨てなかった。志摩子さんなら絶対に乗り越えられるはずだ。
そう判断して祐巳が神様の少女へと視線を向けると、彼女はこちらを見てクスクスと笑っていた。
「あなたはすぐに誤魔化そうとするのね」
知らなければ良い事も世の中にはたくさんある。できる事なら余計な心配などかけたくない。
「あなたには関係ないわ」
一々煩いわね、と少女を睨むが、当然の事ながらそれで怯んだりするような神様ではなく、それどころか祐巳を見て益々笑みを深める。
「そうね。確かに関係ないわね」
嫌な奴、と思っていると、笑みを浮かべたまま少女が言った。
「私はね、人類なんて滅びても構わないと思っているの」
それって笑いながら言うような事? と祐巳は顔を顰めた。
だって、目の前の少女は仮にも神様だ。命の大切さなんて、よく知っているはずだ。それとも、神様だからこそ他者の命なんてどうでもいいのだろうか。他者の命なんて、玩具くらいにしか思っていないのだろうか。
ショックだった。自分とこの目の前の少女は違う、と思いたくても、どちらも祐巳で同一の存在のはずだから。
「あら?」
少女が祐巳を見てキョトンとした表情をした後、それを冷笑に変えて言い直した。
「言い間違えたようね。滅びた方が良いわ」
もうやめて! 命を何だと思っているの? そんな事言わないで! ……何て言えるはずがなかった。なぜなら祐巳だって、今までに沢山の人を傷付けてきたから。あの蟲たちだって数え切れないほど殺してきた。そんな自分に命をどうこう言う資格なんてない。
「そんな事はないと思います」
祐巳が何も言えないでいると、背後から志摩子さんの声が聞こえてきた。
振り向くと、まだ顔色は悪いものの、志摩子さんが瞳子ちゃんの支えなしに立っていた。
「皆、自分にできる事をして懸命に生きています。あの世界の人たちもそうでした。あの世界を守ろうと力を合わせて、必死に戦って傷付いて、命を落として……それなのに、どうしてそんな事をおっしゃるのですか? あなたは、人の命をどう思われているのですか?」
どうやら神様の言った事が信じられなくて、尋ねずにはいられなかったようだ。けれど神様の少女は、縋るような表情の志摩子さんを見ても顔色を全く変えなかった。
「なくても別に困らないもの。私の中では、そういうものに分類されてるわね」
「――」
少女のあんまりな返答に、志摩子さんが絶句した。
「あなたたちの命なんて軽いのよ。大した理由もなく騙し合い、傷付け合い、奪い合い、殺し合う。そんなあなたたちの命のどこが重いのよ? 軽いと思っているから、そんな事ができるのでしょう?」
そんな事はない。誰だって命の尊さ、大切さなんて分かっているはずだ。
「それに――」
少女が志摩子さんから、叫びたい衝動を堪えている祐巳へと視線を移した。
「力を合わせて? 面白い冗談ね。それとも本気なの? では藤堂志摩子さん。教えていただける? 私の目の前にいるあなたの世界の福沢祐巳は、なぜこんなにも傷付いているのかしら?」
「っ!」
志摩子さんが顔色を変えて俯いたのが見えた。俯いてしまったので一瞬しか見えなかったけれど、今にも泣き出してしまいそうな表情をしていた。
カッ、となって思わず叫ぶ。
「黙れっ! 私はもう許しているの!」
これ以上何か言うようなら力尽くでも止めるつもりだった。
そんな祐巳に少女が向けてきたのは、
「他者を傷付ける事しかできない愚かな生き物に、天使族のあなたは傷付けられたのね」
とても優しい眼差しだった。
「あ……」
不意に思い出す。
お姉さまを失った時の事。
どうしようもなく心が痛くて、泣き叫んでいた時の事。
あの世界の皆に裏切られた時の事。
化け物、と恐れられた時の事。
たくさん傷付いた時の事。
けれど――。
「他者を傷付ける事しかできない、なんて事はないわ。だって、お姉さまみたいな人がいた。自分の命を投げ出しても守りたいって、そう思える人がいた。実際にそうする人たちがいたわ。お姉さまもそうだった。私のために自分の命を――」
「そうは思っていない人たちに、あなたはどれだけ傷付けられたのかしら?」
「私は傷付いても痛みなんて分からないから良いのよ!」
「そんなあなたにしたのは誰なのかしらね?」
「私よ! 自分自身でそうしたのよ! 他人のせいなんかじゃない!」
「では、どうしてそうしようと思ったのかしら?」
「それは……」
誰かに傷付けられても傷付かないように――。
言えない。そんな事言えない。絶対に言いたくない。だって、傷付けてしまう。それを自分のせいだと思っている、とても優しくて大切な友人を傷付けてしまう。
「あなたは優しいのね」
少女が、口を噤んだ祐巳から視線を外して志摩子さんの方を向いた。
「どうかしら? 滅びた方が良いのではなくて?」
「……」
志摩子さんは俯いたまま何も言い返せなかった。
「でも――」
そんな志摩子さんをつまらなそうに眺めている少女に、祐巳は俯かせていた顔を上げて言った。
「あんな世界になる前の私は確かに幸せだった。傷付けられたりなんてしなかったよ」
皆、優しかった。皆、笑顔だった。種族なんて関係なかった。あの世界には優しさが満ち溢れていて、自分も自然なままの笑顔でいられた。
狂ってしまったのは、あんな世界になってからだ。
「そう。幸せだったのね」
少女が瞼を閉じて微笑を浮かべた。確かにこの世のものとは思えないほどに美形だけれど、自分の同一の存在である。それなのに、その微笑に思わず見惚れてしまう。
初めて見る少女のその表情は、深い慈愛に満ちていた。ああ、本当に神様なんだな、とあれほど嫌悪感を持っていた相手なのに、すんなりと認めてしまうほどに優しかった。今の、慈愛の微笑を浮かべている彼女を見れば、きっと誰だって認めてしまうだろう。
彼女は間違いなく神様だと。
「では、私が間違いなく神様だと分かった所で、今回の事について幾つか説明するわ」
閉じていた瞼を開いて祐巳に向かってクスリと微笑んだ後、少女が説明を開始する。
「まず、この場所は私がコピーして作ったわ。あなたたちが生きている宇宙の情報を丸ごとコピーよ。ただし生命体と呼べるものは、あなたたちと『彼ら』に蟲、私と『あれ』を除いていないわ。『あれ』が何を指すのかは、当然分かっているわよね?」
少女の言う『あれ』とは、瞳子ちゃんと二人でいる時に感じた視線の持ち主の事だろう。今は空を覆う雲が厚くて見えないけれど、月と一緒に浮いているのだろう『あれ』の事だ。
「それで合っているわ。あなたたちのいた世界を完全に滅ぼすために、『あれ』や蟲がここに来たのよ」
祐巳は、どういう事だろう? と首を傾げた。あの世界なら、もう滅びたはずだ。桂さんがそう言ってた。
「生き残りがここにいるでしょう?」
少女の言葉に、思わず志摩子さんと顔を見合わせる。
「ああ、いるね。確かに」
「そうね」
祐巳は志摩子さんと一緒に頷いた。
「それで滅ぼしにきたわけなのだけれど、そのまま現実世界に現れたら大騒ぎになるでしょう?」
それは確かに大騒ぎになる。というか、それどころでは済まないと思う。
「だから、このコピーした世界にあなたたちを連れてきたわけ」
そして、そんなあなたたち二人を追って『あれ』や蟲もここに来たの、と少女が続ける。
「感謝して欲しいわね。騒ぎにならないようにしてあげたんだから」
やたらと恩着せがましい神様だ。
「けれど、本当の事でしょう?」
「でも、当然それだけじゃないよね?」
「ええ」
当然のように首を縦に振る少女。
「だよね」
人類なんて滅んでも良いって言った神様だ。当然、何か他に理由があると思っていた。
「第六世界のこの星を、あなたたちを滅ぼすついでに、滅ぼす予定は今の所ないわ」
人類なんてどうなっても良いが星までは滅ぼしたくない、という事らしい。
「でもそれだと、滅ぼしにきた神様に手を出している事にはならないの? 『役目が違うから私は手を出せない』ってさっき言ってたよね?」
彼女が作ったこの世界に滅ぼす役目を持った神様を招き入れる事自体、手を出している事と同じだと思える。
「ならないわ」
「そうなの?」
「私はあなたたちをここに連れてきただけよ。そこに、あなたたちを滅ぼしに別の神様がやってきた。その神様は第六世界を滅ぼしにきたわけではなく、あなたたち生き残りの二人を滅ぼしにきた。そして、その二人は揃ってここにいる。ほら、私はその神様に手を出してはいないでしょう?」
そんなので良いのか? と呆れたが、どの範囲までが手を出していない事になるのか分からないので、今の話で納得するしかない。
「まあ、分かった。納得する事にする。後は、祥子さまをこちらの世界に連れてきて、更に接触した理由を聞きたいわね」
祥子さまに接触した理由とは、正しくは、なぜ桂さんがわざわざ祐巳の名前を使ってまで祥子さまに接触したのか、になる。
本当は昨日、その事について桂さん本人に尋ねようと思っていたのだけれど、その時の自分の精神状態がそれどころではなくなってしまったために聞きそびれていたのだ。本来は桂さんに聞くべき事なのだろうが、彼女の上司であるらしいこの少女なら間違いなくその理由を知っているだろう。きっと今回の事は、全てこの少女が命じた事だろうから。
それから、目の前の少女は分かっていると思うが、祐巳は「桂さんが」とは意図的に口にしなかった。普段は普通の人間らしいので、わざわざ志摩子さんの前で名前を出して迷惑をかける事もないだろう、との配慮からだ。ちなみに瞳子ちゃんは覚えているかどうかは知らないけれど、昨日の祥子さまと祐巳の会話時に桂さんの名前を聞いているはずである。
その瞳子ちゃんと言えば、彼女がなぜここにいるのか、については想像が付いている。
(おそらく、私が原因なんだよね)
誰にも気付かれないように小さく溜息を漏らしていると、祐巳の心を読んだらしい少女が頷いた。
「そうよ、あなたの考えている通りよ。松平瞳子をこの世界に連れてきたのは、あなたの問題を解決しようと思ったからよ」
そうだろうと思った。
ここに現れた時、『あなたの妹(スール)とやらを連れてきた甲斐があったというものね。私に感謝しなさい』とか言ってたし。志摩子さんとの事だろう。瞳子ちゃんのお陰で解決できたと言える。
「あなたはこれから、彼女と一緒に『あれ』や蟲と戦わなければならないの。もしかすると、死ぬ時も一緒かもしれないわ。仲直りできて本当に良かったわね」
美しい友情だわ、とわざとらしい笑顔で言ってくる少女。
見ていて、聞いていて、本気でムカついてくる。そして、同時に薄気味悪さも感じていた。だって、おかしい。この少女は祐巳の有益になる事しかしていない。
「何で私のためにそこまでするのよ?」
「あなたにやってもらいたい事があるの。そのために必要な事だったのよ。それについては後で教えるわ」
神様の言う事なんて素直に聞くとでも思っているのだろうか。馬鹿じゃないの? と祐巳が思っているとまた心を読まれたらしい。
「あなたは必ず、そうしなければならなくなるの。たとえ、それがどんなに嫌で傷付く事であっても」
そう言って、少女が酷く薄い笑みを浮かべた。何を考えているのか全く読めない上に無駄に整った顔立ちなので、薄ら寒く感じられた。
何だかとんでもなく嫌な予感がするのだが、尋ねてみた所でこの少女が素直に話すなんて思えない。仕方がないので今の所は、聞き出すのは諦めておく事にする。
「まぁ、今の所は良いわ。それで、祥子さまの方は?」
「小笠原祥子にあの子を接触させたのは、あなたに痛みを取り戻して欲しかったからよ」
「は? 何それ?」
「福沢祐巳に再び会えると思ったから、小笠原祥子はそれ以外が目に入らなくなった。松平瞳子の事を全く見なくなったわ。そうして、あなたと松平瞳子は惹かれあった」
って事はだ。祐巳と瞳子ちゃんが出会ったのも、惹かれ合ったのも、姉妹(スール)になったのも、全て神様のお膳立てによるものというわけではないだろうか。
「……いったい何様のつもりよ」
「言っておくけれど、あなたたちがお互いに惹かれ合うだろうとは思っていたけれど、姉妹(スール)になる事までは干渉していないわ。それは間違いなく、あなたたちが自分の意思で決めた事よ。私としては、あなたが痛みを取り戻してくれるのならそれだけで良かったのだもの。だから私がした事としては、小笠原祥子をこの世界に連れてきた事とあの子を接触させた事、それだけよ」
「でも、そのせいで瞳子ちゃんは傷付いた!」
桂さんが祥子さまに接触しなければ、きっと瞳子ちゃんは傷付く事なく祥子さまと姉妹(スール)になっていただろう。
「それで?」
「それで……って、あなたのせいでしょう? 他人を傷付けて、あなたは何とも思わないの?」
「先ほど言ったわよ。『私としては、あなたが痛みを取り戻してくれるのならそれだけで良かったのだもの』って。それで誰が傷付こうが、私の知った事ではないわ」
何だこいつは? 本当に神様なのか? 本当に自分と同一存在なのか?
「だいたいそれは、今までたくさんの人を傷付けてきたあなたが言えるような事なのかしら?」
「――っ!」
そうだ。言えない。言う資格なんて自分にはない。
「それに――」
少女が、黙り込んだ祐巳から瞳子ちゃんの方へと顔を向けた。それに釣られて祐巳もそちらへと顔を向ける。
そこでは、瞳子ちゃんが少女を睨んでいた。
怒って当然だ。彼女の話が真実なら、瞳子ちゃんはずっと、この神様のせいで傷付いてきた事になる。祐巳と姉妹になった事も、今となっては後悔しているのかもしれない。もしかすると、ロザリオも突き返されてしまうかもしれない。
それは酷く怖い事だけれど、こんな理由があったのなら仕方がないと思う。
それなのに、
「あなたは福沢祐巳と姉妹(スール)になった事を後悔しているのかしら?」
「してません。するわけがありません」
瞳子ちゃんは少女の問いかけに、ほんの僅かの躊躇いすら見せずに答えた。
「私の意思で祐巳さまの妹(スール)になったと、祐巳さまの意思で私を妹(スール)にしたと、あなたはおっしゃいました。それなら、それで良いんです。たとえ出会う事が決められていた事だとしても、そのせいでたくさん傷付いていたけれど、自分たちの意思で姉妹(スール)になったんですから。それに、私は祐巳さまが好きだから……今更誰に何を言われても、後悔なんて絶対にしません」
少女を睨んだまま、決してその視線を逸らさずに瞳子ちゃんはそう言い切った。
睨まれている神様の少女は、その瞳子ちゃんの言葉を聞いて満足したように瞼を閉じた。
「あなただけだったのよ」
「?」
少女の言葉に、祐巳は瞳子ちゃんと一緒になって首を傾げた。
「今ここにいる福沢祐巳を救う事。それは、無数にある平行世界の中でも、ここにいるあなたにしかできない事だったの」
「どうしてですか?」
「今まで生きてきた時間、その過程、置かれている境遇にその時々の心境。他にもたくさんの要素があるわ。それらが、少しでもずれていては駄目なの。全てが合致したのが今のあなた。勿論それは――」
言いながら、瞼を開いて祐巳を見てくる。
「あなたにも言えるわ。同じように無数にある平行世界の中で、この松平瞳子に救われるのはあなただけだったの。彼女と出会って、あなたは痛みを取り戻したでしょう? 世界も酷な事をするわね。もし、あなたたちが同じ世界に生まれていたら――」
どうしたのだろう、急に少女の表情が沈んだように見える。
「いえ、そうではなくてもこうして一緒にいる……。少し、あなたたちが羨ましいわ」
「え?」
少女がぽつりと漏らした言葉に祐巳は耳を疑った。
けれど、それについて考える間もなく、少女がすぐに表情を戻して話を変える。
「今回の事は、あなたの世界が滅ぼされそうになった事が切欠だったの」
祐巳の顔をじっと見つめながら、少女がそう言ってくる。
話を戻すのは良い。聞きたい事が新たに二つほど増えたけれど、とりあえずこちらの聞きたかった事は聞いたから。見つめるのも、まあ良いだろう。でも、無表情なのはやめて欲しい。滅茶苦茶怖いから。
「あなたの世界が滅ぼされそうになり、藤堂志摩子がここに飛ばされてきたから私はあなたを見付ける事ができた」
「私を?」
「『彼ら』を使役するあなたを見付けた」
それだけなら、別に私ではなくても良かったのではないのだろうか、と祐巳は思った。
「それって重要なの? 天使族なら誰だって、『彼ら』を使役できたけど?」
「そうね。でも、それだけでは駄目なの」
「どうして?」
尋ねた祐巳に対して、
「『彼ら』に愛されているあなたでなければ、神様を殺す事はできないのよ」
少女はそう言った。
※この記事は削除されました。
色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
【No:1893】→【No:1895】→【No:1897】→【No:1907】→【No:1908】→【No:1911】→【No:1913】→【No:1921】→【No:1926】→【No:1933】→【No:1941】→【No:これ】→【No:1945】
「『彼ら』が何者なのか、なんて今更説明する必要はないわよね?」
そう神様の少女が言ってきたのだが、勿論祐巳には不要だ。第五世界の魔法使いたちと同じく、祐巳たち天使族も「彼ら」の力を使う。
「彼ら」とは精霊や妖精と呼ばれる者たちの事で、その正体は土や風、水や火といったものの化身だ。普通の人の目には見えないけれど、彼らは世界のどこにだって存在している。逆に言えば、彼らの存在していない世界はない。彼らは世界の様々な記憶を有する者たちで、世界を構成する存在でもあり、もしも彼らを根絶やしにしてしまえばその世界は崩壊してしまうのだ。
祐巳の世界の魔法使いたちは、彼らと契約して自らの身体の内に取り入れる事によって初めて魔法を扱えるようになる。しかも契約する事によって、彼らが周囲に存在していなくても力を使える、というメリットまで生まれるのだ。もっとも、自分の体内に彼らを取り込んでいるのだから、当然と言えば当然ではあるのだけれど。
こうした事もあり、第五世界では出現した蟲に対抗するために魔法使いたちが我先にと精霊たちと契約した結果、契約を必要とせずに彼らを使役できた祐巳たち天使族は、自由に使役できる彼らの数が激減してしまい役立たずとなってしまったのだ。
それでまともに戦えないからといってずっと馬鹿にされていたのだと思うと、馬鹿にしていた人たちが全員蟲に殺されて亡くなった今でも腹が立ってくる。一発くらいぶん殴っておけば良かった。
(……まあ、今更殴れるわけでもないのに思い出しても仕方がない。それよりも、あの蟲共の事よね)
蟲の中で魔法を扱う者は、精霊たちを直接喰らった者か、契約した魔法使いごと彼らを喰らった者のどちらかだ。あの蟲共に喰われる事によって精霊たちがいなくなり、祐巳たちの世界は破滅への道を突き進んだ。
(って、待てよ? 精霊たちが減って世界が破滅? ……あ、そうか。つまり――)
精霊たちについて考えていた祐巳は、ふとその事に気付いてしまった。
「そうよ。つまり、『彼ら』は世界と繋がっているの。それがどういう事か分かる?」
分かる。昨日桂さんと会った時に、『神様を罰する事ができるとしたら、『世界』だけね』と彼女が言っていた。
「ええ、その通りよ。あなたは、仮に、とはいえ世界の力が使えるとても貴重な存在なの。あなたは私たち神様を殺す事ができるのよ」
「へぇ、そうなんだ?」
とても良い事を聞いた。少女に向かってニヤリと厭らしい笑みを向けてやる。
「あら? 私で試してみたいの?」
無表情から一転、分かり易いほどによく分かる心底楽しそうな笑顔を浮かべて少女が返してきた。
「……何か嫌な予感がするから止めとく」
「やる、と言わなくて良かったわね。嬲り殺しにしてやる所だったわ。世界の力が使えると言っても所詮は仮のもの。私くらいになると全く効かないわ」
ちょっとした嫌がらせをしようとしただけなのに、生か死かの別れ道に立たされていたらしい。何て心の狭い神様なのだろう。こんな上司を持ってしまった桂さんに、少しだけ同情してあげたくなった。
「それで、何で私じゃないと駄目なの? 彼らを使役できるのなら、他の天使族だって神様を殺す事ができるんじゃない?」
それに、それなら魔法使いでも良いはずだ。契約するか、しないかの違いはあるが、扱うのは祐巳たち天使族と同じ精霊の力なのだから。
「そうね。けれど、いくら彼らを呼べても、十万体程度しか呼べないのでは話にならないわ」
十万体も呼べたなら、天使族であればその百分の一くらいの蟲に周りを囲まれてしまっても十分戦えるのだけれど、神様はそれよりも強いらしい。ちなみに、天使族であれば通常は数万から数十万で、多くて七、八百万ほどの彼らを呼べるが、人族の魔法使いが契約できるのは多くても十万ほどだ。
しかも、百や千を超える複数の目標に対して「全て倒せ」の一言で彼らへの命令が出来てしまう天使族と違い、魔法使いは呪文を唱えた後に魔法の名前を叫ばなければならない(つまり、攻撃目標から攻撃方法まで全て指定してやらなければならない)ため、志摩子さんみたいに高速思考か分割思考の技術を持っていなければ周りを囲まれた時に対処できなくなる。
「今のあなたは、いったい何体の彼らを集められる? 千や万ではないでしょう? そうでなければ、あの子が『凄く痛かった』なんて言うはずがないわ」
少女の言った『あの子』というのは、桂さんの事だろう。そして『凄く痛かった』という言葉から、祐巳が早とちりして彼女を吹っ飛ばしてしまった時の事だと察する事ができる。祐巳の前では平然としていたくせに、実は凄く痛かったらしい。
あの時は呼び寄せた五十万近くの彼らを纏めてぶつけてやったのだけれど、まだまだ呼び寄せる事ができそうだった。向こうの世界ではどれだけ必死に呼びかけても三千ほどしか集まらなかったので、自分でも驚いたのをよく覚えている。
「愛されているから、あなたの呼びかけには多くの彼らが応えるのよ。それに、数の事だけではないわ。自分でも他に、彼らに愛されているという心当たりがあるのでしょう?」
確かにある。お姉さまを失った時の事だ。鋼鉄のトンボの群れが突撃してくる中、お姉さまの首を抱いて蹲り、無防備に泣き叫んでいた祐巳を守ってくれたのは彼らだった。
彼らは、あの場所で次々と殺されていった魔法使いの少女たちと契約していた者たちだ。術者である少女たちは死亡したが喰われてはいないため、彼らは蟲に取り込まれる事なく生き残っていたのだ。
そして、術者が亡くなった事により契約が解除された彼らは、誰からも命じられていないにも関わらずその身を盾にして祐巳を守った。
今になって思えばあれが、彼らに愛されている、という事なのだろう。
「……別に私は、彼らに対して何もしていないんだけどね」
彼らを使う事しかできない自分を、なぜ愛してくれるのだろうか。祐巳が首を捻っていると、少女が答えてくれた。
「あなたが本気で、世界を守りたい、と思っているからよ」
それは、世界を構成する存在である彼らを守る事と同じ意味を持ち、だから彼らもそんな祐巳を愛しく想い、その呼びかけに応えて力を貸してくれているのだそうだ。
「彼らにそう言われたならともかく、あなたに言われてもいまいち信じられないんだけど、まあそういう事にしておくわ。それで、彼らに愛されている私に何をさせたいのよ?」
尋ねると少女が空を指差したので、それを追うように空を見上げる。
そこにあるのは、月と星と夜空を覆っている雲だけのはずだったのだが、気付かないうちに一つ増えていた。
「今はよく見えるでしょう? まずは、あれを墜としなさい。話はそれからよ」
少女の言う通り、はっきりとよく見えた。
「相変わらず趣味の悪い形をしているわね」
吐き捨てるように祐巳が言うと、
「何ですか、あれは……」
同じように空を見上げた瞳子ちゃんが、小さく悲鳴を上げながら祐巳の制服の裾を掴んできた。
空に浮かぶそれは、祐巳たちの世界では死の象徴だった。どの世界にあったとしても、明らかに異質に感じる存在。それが、この創られた世界で当たり前のように空に浮かんで祐巳たちを見下ろしていた。
祐巳たちの世界の空を支配していた、ぼんやりと黄色く輝いている巨大な目玉だ。
(あれ? でも……)
明らかにおかしな点があって祐巳が首を捻っていると、瞳子ちゃんの隣で空を見上げている志摩子さんが言った。
「気のせいかしら? 私の記憶にあるものと比べると、随分と小さいように思えるのだけれど」
そうなのだ。あれは、もっと大きかったはずなのだ。
今、祐巳たちの頭上に浮かんでいるそれは、以前の大きさの数十分の一ほどになっていた。それに、なんだか妙に近くにいるように見える。
「あなたの世界で最後まで生き残っていたのは、数千人の魔法使いだったそうよ」
という事は、その人たちが力を合わせて、太古の魔法使いたちが開発したという究極の魔法を使ったのか。
あの目玉に、どれだけの物が焼かれただろう。何とか一矢報いてやろうと、いったいどれだけの人が犠牲になった事だろう。あれを傷付ける事は不可能だと思っていた。
(そっか、届いたんだ……)
「半分以上消し飛んだのを、残ったものを使って修復したようね」
少女の話によると、あの目玉自体の防御力は低いらしい。蟲を使って防御していたのだけれど、それごと消し飛ばされてしまったそうだ。
「あれ? でも、神様って私じゃないと殺せないんだよね? 他の人でも傷付ける事ができるのに、殺す事はできないっておかしくない?」
殺すって事は傷付ける事だ。傷付ける事ができるのなら殺す事もできるはずだ。そう思って尋ねてみたのだが、少女に鼻で笑われてしまった。
「あれが神様に見えるのなら、あなたの目は相当に曇っているわね。早急に取り替える事をお勧めするわ」
「……」
この神様って、どうしてこう一言多いのだろうか。
「じゃあ、あれって神様じゃなかったんだね。それと、ひょっとしてあれって弱いの?」
「もしも私が手出しできるとするならば、墜とすのに一秒もかからないわね」
それは全く参考にはならない。そもそも、この少女の持っている強さが分からない。
「今のあれは、あなたの世界にいた時よりも遥かに弱くなっているわ。浮かんでいる場所にしたって、今はずっと高度を下げた場所にいるの。そうしなければ、自分の攻撃が地表に届かないから」
それはそうだろう。やたらと小さいし。
とはいえ、実際に自分であれを墜とすとなると、どうなるかは分からない。もしかすると、為す術もなくやられてしまうかもしれない。
「私は手出しする事ができない。だから、あれをどうにかできるのはあなたたちだけよ。分かる? あなたたちしかいないの」
祐巳と志摩子さんを見つめながら少女が言ってくる。
「逃げる、という手段もあると思うんだけど?」
「どこまでも追いかけてくるわ。それに、あなたたちは決して逃げたりはしない。違う?」
当たり前だ。あれを前にして逃げたりはしない。志摩子さんだって、絶対に逃げたりはしない。
「逃げるくらいなら戦ったりしなかったわ」
「私も同じよ」
「ふふっ、精々頑張りなさい」
少女が他人事みたいに言ってくる。いや、確かに他人事なんだろうなぁ、と思っていると制服の袖を引っ張られた。
そちらを見ると瞳子ちゃんが不安そうな表情で祐巳を見上げていて、その不安に揺れる瞳から彼女の複雑な感情が見て取れた。
祐巳に傷付いて欲しくないのだろう。危険な事をして欲しくないのだろう。もしかすると、戦っている時の祐巳の姿を見たくないのかもしれない。あれは本当に酷いものだから。
さて、どう安心させようか、と考えかけた所で、このまま戦闘が始まれば瞳子ちゃんを巻き込んでしまう事に気付く。彼女はただの人間で、あの蟲から身を守る手段なんて持っていないのだ。しかしよく考えてみれば、そもそも今回の件は祐巳たち第五世界の住人に関わりがある事で、第六世界の人間である瞳子ちゃんには何も関係がないのだから、元の世界に帰してもらっても良いはずだ。神様の少女だって、それは分かっているだろう。きっと、頼めば瞳子ちゃんだけは戻してくれるはずだ。
そう考えて祐巳は少女に話しかけたのだけれど、
「ねえ、瞳子ちゃんだけは元の世界に」「嫌っ!」「え?」
それは瞳子ちゃん本人によって遮られた。
「絶対に嫌です!」
激しく首を振って、祐巳の腕をぎゅっと握ってくる。
「ちょっ、ちょっと瞳子ちゃん?」
「約束しましたよね? 一緒に戻るって。ずっと傍にいるって、約束しましたよね?」
「……そうだね」
正直に言えば、これから戦闘だというのに自分の身を守る術すら持たない瞳子ちゃんがいても足手纏いにしかならない。
けれども、瞳子ちゃんがいてくれるなら――。
「あなたは強くなれる。そうでしょう?」
神様の少女が祐巳の心を読んで、そう言ってきた。
「それとも、守り切る自信がないのかしら」
「それは……」
油断も過信もするつもりはないが、戦場では何が起こるか分からないのだ。百パーセント守り切れると断言できるはずもない。
もしかすると、お姉さまのようにまた失ってしまうかもしれないのだ。それは、自分が死ぬ事よりもずっと怖い。
「あなたが守れば良いだけの話よ」
「簡単に言ってくれるわね」
祐巳が睨みながら言うと、「他人事だもの」と少女が返してきた。
「姉妹なのでしょう? 可愛い妹が一緒にいたいと言っているのだから、叶えてあげれば良いじゃない。一緒にいるって、約束だってしたのでしょう? それともあなた、人を一人守り切る自信もないのに世界を守ろうなんて考えていたの?」
神様の少女のその言葉で、祐巳の覚悟は決まった。
少女から視線を外して、心配そうな顔をしている瞳子ちゃんを見る。
「神様……は何だか嫌だし。そうね、マリア様にでも祈っていてくれないかな?」
「え?」
「私があなたを守れるように、って。ね?」
悪戯っ子のような表情を作りながら祐巳が言うと、瞳子ちゃんは首を振った。
「祈ったりなんかしません。一緒に戻るって、ずっと傍にいるって、もう約束していますから。だから、祈ったりしなくても祐巳さまは絶対に私を守ってくれます」
「そうだね」
祐巳はゆっくりと瞳子ちゃんの胸元にあるロザリオに手を伸ばすと、歪に曲がっているそれに指先で軽く触れた。
「私の居場所はね、これのある所……ううん、瞳子ちゃんのいる場所なの」
こくん、と頷く瞳子ちゃん。
ロザリオから指先を離し、上へと向かわせる。その先には、祐巳を見つめている瞳子ちゃんの顔があった。
手のひらで、そっと頬に触れる。
「だから、私は必ずあなたの傍にいるわ」
「はい――」
頬に触れている祐巳の手に、瞳子ちゃんが手を重ねてくる。
「私も必ずあなたの傍にいます」
瞳子ちゃんの手は温かくて、祐巳の手だけではなく心まで温めてくれるようだった。
「これから戦闘だというのに、随分と余裕を見せてくれるのね。それでは、折角の良い雰囲気の所を邪魔して悪いのだけれど、さっそくお客さんよ」
少女の声に瞳子ちゃんから手を離し、振り向き様に「彼ら」に命じる。
「折角良い雰囲気だったのに、邪魔するなんて無粋だね」
元は扉のあった場所から、祐巳たちへと飛びかろうとしていた蜘蛛みたいな奴が爆発四散した。
それと同時に、館の中に無数の足音が響き始める。
「これはまた、たくさんいるみたいね」
気配で分かる。それに、「彼ら」が絶えず状況を教えてくれる。館の周辺は、既に蟲たちに囲まれていた。
とはいえ、こんな所で悠長に話をしていたのだから囲まれるのも当然だ。実は神様の少女の嫌がらせではないのだろうか。そんな事を考えながら視線を窓のあった方へと向けて、ああ、いるな、と祐巳は思った。向こうの世界でも何度か経験した事がある。ここからずっと遠くに、トンボの群れがいた。こちらの視界の範囲外から飛んできて、玉砕覚悟で突撃してくる奴らだ。
外は暗いし、ここから数キロ離れた場所の事なので肉眼では見えないのだけれど、「彼ら」が教えてくれる。そこに「いる」と祐巳に教えてくれる。数は四百ほどで、その全てがこちらに向かって羽ばたいていた。奴らは音速で飛べるが、その速度に到達するまでにしばらく時間がかかるのだ。
祐巳はその場で一歩も動かず、それどころか一言さえ発さずに、ただ心の中で「燃やせ」と彼らに命じた。それだけで事足りた。それだけで奴らは、その場で突然燃え上がって跡形もなく燃え尽きた。
(ふん、馬鹿なんじゃない?)
今、この場所から半径十キロ圏内で、祐巳に分からない事はない。負担が大きいために長時間は使えないのだが、祐巳は彼らを通して得た情報を複数の思考で処理する事によって、周辺の状況を全て知る事ができる。お姉さまを失ってから、強くなるために得た技術の一つだ。
(それにしても数が多い……)
ゆっくりと振り向いた祐巳の前を、
「ライトニング・アロー!」
志摩子さんの声と共に光の矢が通過した。
光の軌跡を辿ると、それが突き刺さった蟲が痙攣しながら倒れる所だった。しかし、奴らは止まらない。その後ろにいた蟲たちが、仲間の死骸を踏み付けながら次々と部屋の中へと入ってくる。
志摩子さんはそれらに向けて立て続けに魔法を放ちながら、「後ろ!」と祐巳に注意を促してきた。
「分かってるって」
天井がなくなっているために外壁を登って部屋へと侵入してきた蜘蛛が、祐巳の背後にいる瞳子ちゃんへと飛びかかろうとした瞬間、細切れになって絶命した。次いで、志摩子さんへと飛びかかろうとしていた蟲も破裂させてやる。
「あなたも色々と大変ね」
神様の少女が祐巳を見て笑っている。ついでにこいつも破裂させてやろうか、と数匹の蟲を纏めて氷付けにしながら思った。
「祐巳さまっ!」
今度は何よ? と瞳子ちゃんへと顔を向けてみると、彼女は空を見上げている。同じように見上げてみると、空に浮かんでいる巨大な目玉が祐巳たちを見下ろしていた。
(――っ!)
その目玉の奥が、ぼんやりと赤く輝いている。一瞬頭の中が真っ白になるが、すぐに我に返ると祐巳は叫んだ。
「志摩子さん、まずいっ!」
「え?」
さすがに今のでは何の事か分からなかったらしく、志摩子さんが不思議そうな顔を向けてくる。
「あれが撃ってくる!」
祐巳が言い直すと、志摩子さんが空を見て顔色を変えた。分かってくれたのなら、それで良い。
瞳子ちゃんの腕を掴みながら、彼らの力を借りて会議室の壁を根こそぎ吹き飛ばす。
「あの、祐巳さま? まさか、と思いたいんですけれど……」
先ほどまで壁があった場所を見て、瞳子ちゃんが不安そうに名前を呼んでくるが構っていられない。瞳子ちゃんの腕を掴んでそこにできた空間へ向かって走り出し、その勢いのままそこから飛び降りる。
志摩子さんが後に続いているのをチラリと見て確認した祐巳は、掴んでいた腕を頼りに瞳子ちゃんを引き寄せると決して離さないようにしっかりと抱き締めながら、彼らに命じて引き起こした突風を使って自分たちを吹き飛ばした。
荒れ狂う突風によって薔薇の館から遠ざかる祐巳の胸元では、瞳子ちゃんがぎゅっと目を瞑って凄い悲鳴を上げている。場違いにもそんな瞳子ちゃんを見て、可愛いなぁ、なんて思っていると、空から伸びてきた一条の赤い光が薔薇の館を直撃した。
圧倒的破壊力を持つ熱光線魔法が、殆ど一瞬で薔薇の館を粉砕する。けれど、その威力は以前に比べてかなり落ちているようだった。なにしろ以前のそれは、街だろうと何だろうと一撃で辺り一帯根こそぎ蒸発させていたのだから。
あの世界に最後まで残っていた魔法使いの人たちに感謝したい。その人たちのお陰で助かった。まあそれでも、死んだ、と思ったのだけれど。
いくら威力が低下していても、まともに喰らったら消し飛んでいただろう。爆風によって回転する視界の中で、抱き締めている瞳子ちゃんを放り出したりしないように祐巳は両腕に力を込めた。
十秒ほど飛ばされていただろうか。急速に地面が近付いてきたので彼らに命じて減速し、速度を完全に抑えた所で足からゆっくりと着地。あまりにも上手く着地できたので「百点!」と言ってみた所、腕の中の瞳子ちゃんに睨まれた。
「何が『百点』ですか。いきなりあんな所から飛び降りて、死ぬかと思ったじゃないですか!」
「いや、あのままあそこにいた方が確実に死んでたと思うよ?」
あまりの剣幕に怯んでいると、途中から魔法を使って優雅に飛んでいたらしい志摩子さんが祐巳たちの横に降りてきた。
「何をしているの。このままでは囲まれてしまうわ」
「知ってるよ」
志摩子さんの言う通り、祐巳たちは四方八方を蟲たちに囲まれようとしていた。
祐巳の腕の中にいる事により祐巳しか見えていなかった瞳子ちゃんが、志摩子さんの言葉で自分たちが置かれている状況に気付いて小さく悲鳴を上げる。
「どうせ戦わなきゃならないんだし、それなら纏めて潰そうと思って囲まれるのを待っていたの。その方が効率的でしょ?」
「普通これだけの数の蟲に囲まれたら生存できる可能性は極めて低いのだけれど、それを『効率的』なんて言う辺りが凄く祐巳さんらしいわ」
「それって褒めてくれているの?」
そうやって軽口を叩き合っているうちに、祐巳たちは周囲を完全に包囲されてしまった。四方八方、どこを見ても虫だらけだ。
「そろそろ良さそうね」
蟲たちが輪になって自分たちを囲んでいるのを見て、祐巳はすっと目を細めた。
「っ!」
急に雰囲気が変わった祐巳に、志摩子さんと瞳子ちゃんが同時に息を呑む。
「せっかく集まってくれたのに悪いのだけれど」
周囲を見渡しながら、祐巳は口の端を吊り上げた。
「お前たちはそこで死ね」
そう祐巳が告げると共に最前列にいた蟲たちがその場で同時に弾け飛び、それが戦闘開始の合図となった。祐巳たち三人に対して数で圧し潰すつもりなのだろう。数えるのも馬鹿らしくなるほどの蟲が、祐巳たちへと一斉に迫ってくる。
「そんなに集まっていると危ないわよ?」
急に足元の地面がぬかるみ、足を取られて転倒する鋼鉄の蟲たち。そんな仲間を踏み付けて、祐巳たちへと飛びかかってくる蟲たち。それを、こちらに到達する前に空中で焼き尽くしてやる。次いで祐巳は、背後にいた瞳子ちゃんの腕を引っ張りながら自分の身体を回転させて抱き寄せた。そうして、腕の中から祐巳を見上げてくる彼女に言う。
「怖ければ目を瞑っていても良いわよ」
瞳子ちゃんは左右に首を振った。
「いいえ、見届けます」
「そう。それなら面白いものを見せてあげる」
「え?」
微笑んだ祐巳に、不思議顔の瞳子ちゃん。けれど、その表情が瞬時に変わった。
「後ろっ!」
背後から飛んできた蟲が祐巳を狙っていた。
勿論祐巳は気付いていたが、そちらに振り向く事も、彼らに排除を命じる事もしなかった。ただ、瞳子ちゃんに向かって笑顔を浮かべて立っているだけだった。しかし、祐巳の背中に到達する前に、飛びかかってきていた蟲が突然横に弾き飛ばされる。
ふわり、と煌く羽根が宙に舞った。
「あぁ……」
祐巳の腕の中で瞳子ちゃんが溜息を零す。
「私の本気、見せてあげるわね」
闇よりも昏い瞳で蟲たちを見据える祐巳の背中で、一対の純白の翼が大きく広がった。
*
祐巳さんは無事なようね、と志摩子は思った。
どうも自分は、無意識で孤独を求めているのか、それとも、ただ単に運が悪いだけなのか、一斉に飛びかってきた蟲たちの攻撃を躱しているうちに祐巳さんたちと離れてしまったようだ。
周囲を蟲に囲まれているために祐巳さんたちがどこにいるかは見えないし分からないが、周辺に流れている空気が変わった事にはすぐに気が付いた。神々しいのに狂気を孕んでいるという、この独特の空気。祐巳さんが本気になったのだろう。という事は祐巳さんも、その祐巳さんが守っているはずの瞳子ちゃんの事も心配する必要はない。
自分は目の前の事に集中すれば良いのだ。そう考えた志摩子の前で蟲が咆哮を上げた。
(もっと――)
自ら蟲へと近付いて、その鋭い前脚の間合いへと入る。
(もっと、もっと――)
振り下ろしてきたその脚を、志摩子は素早く身体を横にして避けた。
(まだよ)
この近辺にいた蟲たちが、続々と志摩子の元へと集まりつつあった。
蟲たちの間に僅かにできた空間で身を躍らせ、集まってくる蟲を引き付ける。
(可能な限り多く集めないと)
志摩子の頭上を、頬を、肩を、腕を、背中を、足を、鋼鉄の蟲たちによる攻撃が掠めた。
もしもそれが、ほんの少しでもずれていたら? もしも、それによって動きを止めてしまったら? 志摩子の命はそこで終わっていただろう。
けれど、止まらない。足の親指に力を入れて方向転換。そこから五ミリだけ後ろに下がると、下がった志摩子の服を掠めて刃のような前脚が通り抜けていく。次いで二センチ頭を下げると、飛んできた鋼の蜂が志摩子の髪の毛を揺らして通り過ぎた。
相手の全ての動作に全神経を集中して躱す。
ある時はゆっくりと、ある時は素早く躱す。
ほんの数ミリの動きで躱す時もあれば、大きく動いて躱す時もある。
今この場にいる全ての蟲の動きを予測して躱す。
躱して、躱して、躱して、躱して、躱す躱す躱す躱す躱す躱す躱す――。
蟲たちに埋め尽くされている大地でまるで踊るように、志摩子は彼らの猛攻を紙一重で躱し続けていた。
*
「手を――」
腕の中から瞳子を解放した祐巳さまが、ゆっくりと手を差し出してくる。
「はい――」
その手のひらの上に、瞳子は自分の手を静かに重ねた。
黒の世界に白が舞う。
一歩、踏み出すと蟲が燃え上がった。
一歩、踏み出せば蟲が弾けた。
一歩、踏み出すだけで無数の命が消えた。
舞い散る無数の純白の中、無数の紅が燃え上がり、無数の蒼が咲いた。
命の華が咲き乱れる――。
それは、化け物を包む炎のはずだ。
それは、化け物が流す血液のはずだ。
それは、為す術なく散っていく命のはずだ。
それなのに、瞳子には目の前の光景がとても美しく感じられた。
ふと、隣を歩く人の横顔を見てみる。その人の瞳は闇よりも昏く、そこには何も映してはいなかった。散っていく命の華も、隣にいる瞳子の姿さえも映さず、ただどこまでも真っ直ぐに。そこに一切の感情を浮かべる事なく、その昏い眼差しを自分の前だけに向けていた。
怖い、と思った。恐ろしい、と思った。こんな人と姉妹(スール)になるんじゃなかった、と思った。
けれど、目が離せない。
惹かれる。
惹かれる……。
どこまでもこの人に惹かれてしまう。
もう、この人からは離れられない――。
昏い眼差しをした祐巳さまの横顔を見つめながら、瞳子はそう思った。
*
「ロサロサ・ギガギガ・ギガンティア〜♪」
準備は整った。
ジャリッと砂を踏み締める音を立てて、志摩子はピタリと動きを止めた。
周囲を囲む化け物に向けて、まるで挑発するかのように手の中で杖を一回転させると、蟲たちが赤い灯火を宿した目を一斉に志摩子に向けてきた。その赤い灯火は、蟲たちが魔法を行使する直前に見せるものだ。しかし、彼らが魔法を行使する事はできなかった。
「ワールド・エンド」
その言葉と共に、志摩子を中心に冷たい風が蟲たちの足元を駆け抜けた。白煙が立ち昇り、それは瞬時に猛吹雪となる。ほとんど一瞬だった。おそらく、自分たちが死んだ事にも気付かなかっただろう。
地面も、空気も、魂までも凍り付かせて、志摩子以外の時が止まる。
今までの喧騒が嘘のように辺りが、しん、と静まった。ほんの数秒前まで確かに生きていた蟲たちの鋼鉄の身体が、硬く冷たい氷の柱の中に閉ざされている。この場所には、白煙を吐き出す氷柱の群れと志摩子だけが存在していた。
(祐巳さんたちは無事かしら?)
早く合流しなければ、と歩き始めた志摩子の背後で、蟲たちを包んでいる氷柱の表面に亀裂が入る。それは、ここにある全ての氷柱に同時に見られる現象だった。亀裂は徐々に広がり、やがて自身の重さに耐え切れなくなって崩壊の音を奏で始めた。
砕けた氷の欠片が飛び散って、大地を覆い尽くす。
志摩子が去った後には、まるでダイヤモンドを敷き詰めたかのような透明に輝く大地だけが残っていた。
*
「ねえ」
ゆっくりと歩みながら祐巳さまが囁いた。
紡がれたその声は、世界へと溶けていく。
「私の声が聞こえる?」
その囁き声に呼応するかのように、ふわり、と金色に輝く小さな何かが祐巳さまの周囲を舞った。
「応えてくれる?」
それと同じものが周辺のあちこちから浮かび上がり始める。
「あ……」
瞳子の肩に、それらのうちの一つが舞い降りてきた。
それは、紫電が迸る銀の槍を持ち、水滴を象った冠を被り、冷気が立ち昇る白銀の鎧を纏った乙女だった。背中からは祐巳さまと同じように、一対の純白の翼が伸びている。
人の手のひらに乗れるほどのサイズである彼女は、愛くるしい顔立ちで瞳子を見上げて微笑んだ。
「ねえ」
祐巳さまが、まるで詠うように囁く。
「皆――」
その呼びかけに周囲がざわめき、
「私に力を貸して」
その言葉で世界が揺れた。
*
まだ残っていた蟲を屠っていると、突然夜が明けたのかと錯覚するほど周囲が急に明るくなった。
「祐巳さん?」
あまりの眩しさに目を細めた志摩子のすぐ脇を、白く輝く何かが通り抜けていく。
(これは……)
周囲を見回せば、同じような光があちこちに浮かんでいた。十万、百万、或いはもっと多いかもしれない。それらは、或いは飛び回り、或いはじっとして、そこに存在していた。
「精霊……」
祐巳さんを髣髴させる、一対の翼を持つ戦士だ。彼らは巨大な黄金の剣を持ち、炎を象った兜を被り、黄金の鎧に風を纏わせている。少し離れた所には、その戦士と同じようなデザインの鎧を纏った翼ある乙女たちもいた。
(これが祐巳さんの……)
呼びかけた人の思い描く姿を取り、様々な色の光りを放ちながら精霊たちが周囲を埋め尽くしていた。普通は見えないはずなのだが、お互いに干渉し合っているせいだろうか。肉眼でもはっきりと見えた。その姿から、彼らは間違いなく祐巳さんが呼んだのだろう。
けれど、これだけの数であの目玉を墜とせるのだろうか? そう思いながら空を見上げて、志摩子は絶句した。
(嘘……でしょう?)
夜空が色とりどりに輝く精霊に埋め尽くされていた。十万や百万どころではなかった。おそらく、数千万はいる。
(いくら何でもこんな数は有り得ない……)
たった一人の呼びかけに、これほどの数の精霊が応じるなんて事は通常有り得ない。確かに、天使族であれば人族よりもずっと多く彼らを呼び出せるとされるが、数千万だなんて数を呼ぶ事のできる天使族なんて聞いた事がない。
「凄い……まだ増えている」
思わず感嘆の声を漏らす。
彼らはまだ集まっている。次々に集まる精霊は、既に見える範囲全体に及んでいた。そこら中を飛び回り、志摩子の肩で羽根を休める者までいた。
よく見てみると、その精霊が高速で口を動かしている。何か喋っているようなのだけれど、当然何を喋っているのかは志摩子には分からない。しかし、すぐに何をしていたのか理解できた。志摩子の周りに、新たな精霊の姿が浮かんできたからだ。
(自分たちで仲間を呼んでいる?)
ゴクリ、と唾を呑み込んだ。
(祐巳さんは、本当に彼らに愛されているのね)
彼らは祐巳さんの呼びかけに応えて、自分たちで仲間を集めているのだ。
*
「祐巳さま……これは……」
空を見上げる瞳子ちゃんの声が震えていた。
「この近辺に存在する全ての精霊を集めたわ」
その数、五千七百万。
「まだ集められそうだけれど、今はこれだけいれば十分ね」
滅びかけていたあの世界では、今の祐巳の状態だとしても決して集める事のできない数だ。おそらく、この世界に彼らを使役できる者が祐巳しか存在していない事も関係しているのだろう。
「あれを墜としてやるわ」
ぼんやりと黄色く輝きながら浮かんでいる忌々しい目玉を見上げると、すぅっとそれに向かってまるで指揮者のように祐巳は右手を上げた。
「墜とせ」
それだけで良かった。その一言で彼らは祐巳の願うままに、祐巳の世界の街や人々を焼き払ってきたあの目玉を墜とすべく動いてくれる。
あちこちに散らばっていた精霊たちが、祐巳の指差すそれに一斉に意識を向けた。
それは、哀れな光景だった。空に浮かぶ目玉に、圧倒的な数の彼らが咆哮を上げながら向かっていく。
銀の槍で突き刺し、貫き、氷の礫を叩き付け、黄金の剣で切り裂き、抉り、炎を操って焼き払い、あらゆる破壊を以って空に浮かぶ目玉を蹂躙する。血液なのだろうか。ほんの僅かな時間で満身創痍となった目玉のあちこちから、まるで雨のように真っ青な体液が噴き出ていた。
「弱いわね」
あんなものに生まれ育った世界を滅ぼされたのかと思うと、悔しくて堪らなかった。けれど、それも直に終わる。そう考えて祐巳は嗤っていた。
それに触発されたわけではないとは思うのだが、巨大な目玉の瞳の奥に紅い炎が灯るのが見えた。
(ちっ、まだそんな余力が――)
目玉から地上へと向けて、紅い一本の光の筋が伸びる。
それに反応したのは、祐巳ではなかった。
(待ちなさい! 何をする気なの!)
超高々度の熱量を持つそれが地上に届く前に、飛び回っていた精霊のうちの数百万体がその身を盾にして受け止めて蒸発する。
(……何、勝手な事しているのよ。私はそんな事を命じた覚えはないわよ)
お姉さまを失った時と同じように、何も命じていないのに彼らはその身を挺して祐巳たちを守ったのだった。
(どいつもこいつも命を粗末にして……ッ!)
彼らは身を挺してまで助けてくれているのに、祐巳は彼らに対して何も返してやる事ができない。それが歯痒くて心の中で悪態を付いていると、突如として祐巳たちの周りに複数の蟲が姿を現した。どうやら転移されてきたらしい。
(鬱陶しいわねぇっ!)
途端に起こる爆発、爆風、雷鳴。風に切り裂かれ、炎に包まれ、雹に撃たれ、地面に呑み込まれ、青い体液を撒き散らしながら蟲たちが死んでいく。
視線を夜空に戻すと、精霊たちによる激しい攻撃に晒されている目玉は最早原型を留めていなかった。
傾いている目玉を眺めながら、祐巳は神様の少女の言葉を思い出す。
『あなたにやってもらいたい事があるの』
『あれを墜としなさい。話はそれからよ』
神様の少女が祐巳にさせたかった事。おそらく、あの目玉を墜とす事によって、あれを操っている神様が姿を現すのだろう。つまり、そいつを引っ張り出してその神様を――。
「そうよ。あなたの思っている通りよ」
まるで狙っていたかのようなタイミングで、少女の声が祐巳たちの背後から聞こえてくる。
「何だ、生きていたんだ?」
振り向くと、いつの間にか神様の少女がそこに立っていた。たしか、薔薇の館の崩壊に巻き込まれたはずだ。少なくとも祐巳は、彼女が逃げた所を見ていない。てっきり巻き込まれて死んだものだと思っていた。
「私があちらに手を出せないのと同じように、あちらも私には手が出せないのよ」
だからあれの攻撃は効かないの、と笑う少女。今まで何をしていたのか尋ねると、「あなたたちの戦いを見ていた」と返ってきた。
「まあ良いわ。それで私は、これから神様を殺さなきゃならないのよね?」
「そうよ。でも、あなたにできるかしら?」
「人の姿をしていても、人間じゃなくて私と同じ化け物だもの」
「そうね」
少女の言葉に祐巳は口元を歪めた。
「だったら、簡単よ」
近くにいた瞳子ちゃんが祐巳から顔を背けた。人の姿をしているものを祐巳が殺そうとしているからだろう。
けれど、瞳子ちゃんだって分かっている。だから、顔を背けただけで何も言わないのだ。なぜならば、そうしなければ祐巳たちがここで殺される事になるから。
でも……できるだろうか? 本当にそんな事が自分にできるのだろうか?
(だって、今でさえ――)
不意に、横からの視線に気付く。そこでは少女が無言で祐巳を見ていた。
「何よ?」
「別に。何でもないわ」
そう言って祐巳から視線を逸らした彼女は、きっと気が付いている。
隠しているけれど、誰にも気取らせないようにしていたけれど、本当は凄く痛い事。蟲を殺している時でさえ、奴らが哀れでずっと心が悲鳴を上げていた事。
でも、だからといって優しいわけではない。本当に優しかったら殺せるはずがない。それに、それは今ここでは甘さにしかならない。それは不要な甘さだ。今は必要がないものだ。
だから、そんな感情は捨て去る。生きたいから。こんな所で死にたくないから。
そう自分に言い聞かせていると、
「祐巳さんっ、無事だったのね!」
遠くから志摩子さんの声が聞こえてきた。
その声の方へと顔を向けると、飛び交う精霊たちを避けながらこちらに向かって志摩子さんが歩いてくる所だった。
あなたこそ無事だったのね、と言ってやりたい。いつの間にかいなくなっていたし。もっとも、志摩子さんは強いので、心配なんて全くしていなかったのだけれども。
「それにしても、蟲の数が尋常じゃないんだけど」
一箇所にこれほど集まってくるとは思わなかった。いったいこの数十分で何匹殺しただろうか。
「蟲たちは、最初からこの世界のあちこちに転移されてきているわ。彼らを操っている神様が、更にここへと転移させているのよ」
だそうだ。
「あなたは、その神様を殺せば良いの。それで全て終わるわ」
「それは良いんだけど、何であなたはその神様を」
殺して欲しいの? と続けようとした祐巳を遮って、神様の少女が祐巳たちの後方へと視線を向けた。
「来たわね」
何が? とは聞かなかった。この少女がわざわざ言うとしたら、そんなのは蟲たちを操っている神様しかいない。
どうして仲間であるはずの神様を殺して欲しいのか、そんな事はもうどうでもいい。そいつさえ倒せば全部終わるのだ。そう思って後ろに振り向こうとした瞬間、視界の隅で何かが動いたのが見えた。
どうやらまた転移されてきたみたいね、とうんざりしながら志摩子さんと一緒にそちらへ視線を向けてみると、つい先ほどまで何も存在していなかったはずの空間には百を軽く超えるほどの蟲たちの姿があった。
「嘘っ!?」
「なっ!?」
闇の中で蠢く彼らの姿を確認した祐巳が息を呑むのと、隣にいる志摩子さんが呻き声を漏らしたのはほぼ同時だった。祐巳と同じく、志摩子さんも彼らの姿を確認した瞬間にそれに気付いたのだろう。
出現した百を超える蟲たちの、その瞳の奥が紅く輝いている事に。どうやら、ここに転移される前に魔法を行使するための準備をしていたらしい。
(こんなパターン、今までなかったわよ!?)
心の中で罵声と悲鳴を上げながら背中の翼を動かして近くにいた瞳子ちゃんと志摩子さんを自分の身体ごと包むと、一瞬遅れて蟲たちの魔法によって翼が燃え上がり始めた。続けて、大砲でも撃ち込まれているような衝撃が翼を通して伝わってくる。
(ちっ)
祐巳は心中で舌打ちした。天使族の翼は、多くの精霊を呼ぶ時に必要なだけだ。光を集めて形成しているものなので傷付けられても痛くはないし、そもそも幾らでも再生可能なので傷痕なんて残らない。だから、傷付けられてもどうって事はないのだけれど、それでもやはり自分の身体の一部なので傷付けられると腹が立つ。それに、瞳子ちゃんも気に入ってくれているようだったし。
「やってくれたわね!」
蟲の攻撃が収まった所で一度だけ大きく翼を羽ばたかせると、燃え上がっていた炎は一瞬で消えた。弾けてバラバラになった羽根も、焼かれた羽根も、時間を巻き戻すように再生していく。
ついでに自分の周囲に残しておいた精霊に命じて、お返しとばかりに最前列にいた奴らを燃やしてやったが蟲は後から後から溢れんばかりに出現する。その数は、今までの比ではなかった。
あっという間に周辺を埋め尽くした蟲の動きに注意しつつ、祐巳は空を見上げた。そこに、強烈な存在感を放っていたあの目玉の姿はない。ただ、目玉だったものの一番大きな欠片が、ゆっくりと街の方へと墜ちていっているのが見えるだけだ。そして、それを成した精霊たちは攻撃をやめていない。このまま放っておけば街に墜ちる頃にはあの欠片はもっと小さくなっているはずだが周囲の蟲の事もあるし、もう攻撃はやめさせても良いだろう。
祐巳は背後にいる神様の少女に、背中を向けたまま話しかけた。
「そろそろ決着を付けようと思っているんだけど、瞳子ちゃんの事を頼んでも良い?」
「なっ!? いきなり何をおっしゃっているんですか!」
驚いた瞳子ちゃんが祐巳の腕を掴んでくるが、対照的に神様の少女は淡々としたものだった。
「私は別に構わないのだけれど、あなたはそれで良いの?」
「瞳子ちゃんが傍にいてくれたから、私はここまで戦えたわ」
心の痛みを取り戻した祐巳は、守るものがなければあの蟲たちと戦えなかった。祐巳にはもう守るべきお姉さまも、家族も、生まれ育った世界もない。守るべきものを全て失ってしまった祐巳がここまで戦えたのは、瞳子ちゃんがいたからだ。彼女を守らなければならなかったから、自分の持つ力を限界以上に引き出してここまで戦う事ができた。
「でもこの戦いは私たちの世界の事で、第六世界の人間である瞳子ちゃんには本来関係がない事だから、瞳子ちゃんを守る事を戦う理由にしては駄目だと思ったのよ」
志摩子さんは友人だが守るべき対象ではない。彼女は祐巳の隣に立って戦う事ができる。
「この戦いは、私たちの世界の住人が自分たちを守るための戦いだった。だから、ここからの私は瞳子ちゃんと一緒に生きたいと願う自分のために戦うわ」
「祐巳さま……」
瞳子ちゃんの不安そうな声に、少しでも安心させようと祐巳は彼女を抱き寄せた。
「そんなに心配しなくても大丈夫。相手が神様だろうと何だろうと絶対に勝ってみせるから」
そう耳元で囁いてから瞳子ちゃんを解放した祐巳は、周囲を囲む蟲を睨み付けながら志摩子さんへと声をかけた。
「準備は良い?」
「ええ」
志摩子さんは小さく頷くと、いつもの調子で「ロサロサ・ギガギガ・ギガンティア〜♪」と気の抜けるような呪文を唱えてから、手に持っているステッキを前面にいる奴らに向けて一振りした。
「ライトニング・レイン」
「塵と化せ」
志摩子さんから放たれた無数の光の矢が蟲たちを貫くと、続いて祐巳に呼び戻された数千の精霊たちが駆け巡り、刃のような鋭さを持った風となって切り裂いていく。殆どの蟲はそれで絶命したけれど、何体かの蟲は自分の前にいた仲間の身体が偶然盾になった事によってそれを免れたようだ。
「祐巳さんっ!」
志摩子さんの切羽詰った声が響く。
祐巳の目の前には、大きく前脚を振り上げた蟷螂が迫っていた。たった一撃で人の命を奪う事が可能なその強靭な前脚を見て、祐巳は瞼を閉じた。
そうして、
「頭上注意よ」
蟲に向かってニヤリと唇の端を歪める。
同時に、鋼鉄の脚を振り上げていた化け物が地面に向かって叩き潰された。
「生まれ変わったら、今度は上にも気を付ける事ね」
空を飛び交っていた五千万の精霊たちが標的を変えて次々と地上に降ってくる中、祐巳はチラリと神様の少女に視線を飛ばした。
瞳子ちゃんの隣で少女が頷く。
彼女なら、間違いなく守ってくれるだろう。瞳子ちゃんの事は彼女に任せておけば良い。今は目の前の事に集中しよう。
「志摩子さん」
「祐巳さん」
どちらからともなくまるで決められていた事のように頷き合い、祐巳は志摩子さんと二人して駆け出すと爆音の鳴り響く戦場へと一緒に飛び込んだ。
*
闇の空を彩る精霊たちが様々な軌道を描きながら降って来る。まるで、夜空の星々が一斉に降ってきたようだった。
色とりどりに輝く精霊たちが闇空というキャンバスに絵を描くように舞っているその光景に、瞳子は見惚れていた。絶えず鳴り響いている爆音なんて気にならない。彼らが舞い降りた先ではあの恐ろしい蟲たちが確実に殺されているというのに、それを微塵も感じさせないほどに美しい光景だった。
「これから」
隣にいて、瞳子を守ってくれているらしい神様の少女が話しかけてくる。
見上げていた空からそちらへと視線を向けると、祐巳さまに似た顔立ちの少女は瞳子を見つめていた。
「あなたの姉である福沢祐巳は、酷く傷付く事になるわ」
「……え? ど、どうしてっ」
思わず相手が神様だという事も忘れて詰め寄る。
「空に浮いていたあの目玉が、蟲たちを制御していたのよ。それを失ってしまったから、彼女はここに自ら来るしかなくなったわ。けれど、彼女自身の力はそれほど強くないの」
そのためも、空に浮いていた目玉に蟲たちを制御を任せて自分はずっと隠れていたそうだ。
「ここには、彼女の本体が来ているわ。そして」
神様の少女が目を閉じる。
「私たちはこの姿で生まれて、それから成長しないの。世界が生んだ子供だから」
「それって、まさか……」
相手は子供――?
「そうよ。あの二人は……いいえ、神様を殺せる福沢祐巳は、子供の姿をしている神様を殺さなければ生き延びる事ができないの。そして、その神様は――」
少女が真っ直ぐに瞳子を見つめてくる。
「――なのよ」
「え……」
その正体を聞いた時、どこからか祐巳さまの悲鳴が聞こえてきたような気がした。
*タイトルなんかねー*の続きの続き。
今俺は訳もわからず射撃の練習に励んでいる。
指導官らしき人物が言った、「足を肩幅ぐらい開いて、腰を軽く落とし、銃を構えたら脇をしっかりと閉めて、銃口は的に向ける、後はトリガーを思いっきり握れば弾は出る!!」
うるせーそんなことはわかってんだよ、モー何日同じこと言いやがるこの糞教官が!そんなことを思いながらここ三日間を過ごしていた俺。
三日前始めて銃を手に持った、最初はなんて重いんだと思った、そんなのは今はモーなれた。
そうだ!三日前俺は始めて銃を持ったんだ、いきなりおっさんが俺にライフルを渡した、そして俺はこんな変なとこにいすわるよーになった、漫画みたいな話だ。
あの日、俺はこの団体に違和感を感じなかった、ライフルを受け取った後、俺に部屋を案内してくれた子供、7、8歳ぐらいにしか見えなかったガキだった、そして、俺と近い年の奴はここには何十人といた、その子らはほかでおきた鳥どもの起こした爆撃の生き残りらしい…ほかにもあんな最悪なことがおきていたんだと、俺はその時初めて知った、そして、ほかの奴らもみなその被害者だってことも…。
世の中不幸なのは俺だけじゃないんだなーと思い知らされたのも覚えている。
ここの詳しいことは知らない、どっからこんな銃器、食料、燃料など、最低限生活に必要な物、そして今にも戦争ができそうな物は取り寄せられているのかなどは知らない。
まー今苦しまずにいられればそんなことはドーでもよかった、だけど俺の頭には昔先生が言っていた言葉が頭をよぎっていた、人は必ず良い事、悪い事は五分五分に起こると、どちらかと言えば悪い事のほうが多く起こる傾向にあると…不安だ。
そんなこんなでドーにか今まで過ごしてきた、これから先いったい何が起こるのだろうと上の空で休憩室で休んでいた俺に肩をたたいた奴がいた。
「なに気取ってんだよ。」
笑いながら三人組みに話しかけられた、そいつらは俺と同い年の奴らだった、今どき風な奴が一人、オタクっぽいのが一人、背の低いのが一人だ、そんで三人とも男だ、そして俺は返答した。
「なんでこー話しかけてくれる奴が女の子じゃねーかなー!!」
三人は笑った、俺も笑った、それからくだらない事をダラダラと話して時間を過ごした。
あーこんな時間がいつまでも続きならきっとまだ幸せなんだろーなーと、時折思った。
次の日の朝、眠いでもいかなきゃ殴られる…そんな事を思いながらいつもドーり飯食って、射撃場に向かっていた、すると突然、一回、二回、三回と俺の目の前に赤い光が横切った、そして今まで眠かった俺の脳味噌に染み渡る警報のサイレンが鳴り始めた。
ウゥウゥゥウゥゥゥゥウウ〜♪
何が起きたかわからず急いで射撃場に向かった、そこには昨日の三人やほかの奴らもいた。
指導官らしき奴があわてて来た、きたそうそう息を整えて言いやがった。
「これより君たちには出動してもらう、初めての実戦だが、心配はいらん、この数日間びっちりと射撃の練習をしてきたんだから大丈夫だ、さー私についてきなさい。」
そーいって教官は歩き始めた。
「ふざけんな!数日間?はぁっ!!俺は三日間しかやってねーっつの!!!」って言いたかった、だがそんな空気じゃなかった、周りの奴らは今にも悲鳴を上げて敵陣に突っ込みそうなオーラをかもし出していた。
ゆーの忘れてたがこれから俺の町を爆撃した鳥どもに会いに行く、戦争だ。
教官のあとを歩いていくと、俺が始めて来た倉庫、ライフルをはじめて握った倉庫、ココに厄介になる第一歩の倉庫に来た、そこには俺をココまで連れてきたおっさんがいた、そのおっさんが言ったこれからチームを作る、そーいって好き勝手にチームを作り、その後俺らに防弾ジョッキにライフルを渡した。
俺はおっさんと仲の良かった三人と一緒だった、それぞれ五人一組のチーム編制だった。
そしてみんなこの倉庫の奥へと向かった、始めて来た、奥は一面真っ黄色の部屋だった、なんじゃこりゃと思いながらエレベータに乗った、上に行くともともとはどっかの会社のビルだったみたいな風景だった。
それぞれ順番に外に出て行く、そろそろ俺らも出発だ、このシーンと静まり返ったところで俺は一人叫んだ、「ヨシッ!!」なんのよしだかわからないが言ってみた。
いよいよ外に出る、今までの俺とは違う、これから新しい俺になるんだ、ニュー俺になるための第一歩だそー俺に言い聞かせておっさんの後を追って外へと向かった。
なんか長ったらしくなってしまった。呼んでいただいた人には感謝感激雨アラレっスね!
色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
【No:1893】→【No:1895】→【No:1897】→【No:1907】→【No:1908】→【No:1911】→【No:1913】→【No:1921】→【No:1926】→【No:1933】→【No:1941】→【No:1943】→【No:これ】
行く手を阻むものに死を与え、爆風で舞い上がった土煙に包まれながら蟲の死骸の山と青い染みの間を駆け抜けてようやくそれを見付けた時、それは傷塗れの身体を自分の両手で抱き締めるようにして小さく丸まって地面に転がっていた。
今、自分の目の前で這い蹲って震えているこれが、あの世界を滅ぼした神様のはずだ。見下しながら嗤ってやるはずだった。無様な神様の姿を心の底から嗤ってやるはずだった。嗤って、嗤って、嗤いながら、殺せなくても、自分の心を殺してでも殺してやるつもりだった。そう決めたはずだった。それなのに嗤えなかった。殺せなかった。替わりに、自分の裡で何か大切なものが砕けたような気がした。
「嘘よ……」
「祐巳さん、しっかりしてっ!」
どこか遠くで志摩子さんの声が響いている。
夢だ、と思った。全部悪い夢で、目が覚めたらきっと笑顔のお姉さまが隣にいて、優しく頭を撫でてくれている。そうじゃなきゃ嫌だ。
「こんなの嫌よ……」
少女を見つめる祐巳の表情は凍り付いていた。
精霊が降りてきた時に巻き添えを食ったのだろうか。祐巳の瞳に映る血に塗れた少女は、その小さな身体を震わせていた。
神様は子供だった。目の前の、祐巳の世界を滅ぼした神様は子供の姿をしていた。そして、それだけではなかった。こちらに顔を向けている少女は――今、祐巳の目の前にいる地面に這い蹲って震えている少女は、自分にとって大切なあの子の面影を持つ――。
「こんなの嘘よぉっ! 嫌ぁぁぁぁぁぁぁっ!」
祐巳が悲鳴を上げると同時に、ゆっくりと高度を下げていた目玉の欠片が街に墜落した。
轟音と共に大地が激しく揺れる。墜落の衝撃で様々なものが空中に巻き上げられて、あちこちに飛び散った。祐巳たちのすぐ傍にも、拳ほどの大きさのコンクリートの塊が降ってきた。地面にぶつかってへこませた後、飛んできた勢いのまま数度跳ねてどこかに転がっていく。
けれど、祐巳はそれどころではなかった。そんな事に構っていられなかった。
「あ……ああ……」
祐巳はただ一人の少女を見ていた。血に塗れている少女の足元には、地面に染みて黒ずんだ血溜まりができている。
(私がっ! 私が傷付けた! よりによって私がっ! この私が傷付けたっ!)
お姉さまを失った時と同じくらい、心が悲鳴を上げていた。
「何で!? 何で教えてくれなかったのよ! 何で黙ってたのよっ!」
叫ぶけれど答えは返ってこない。祐巳の姿をした神様は、ここにはいない。祐巳の声は、ただ周囲に響いただけだった。
「殺せないっ! 殺せるわけないじゃないっ!」
殺すくらいなら自分が死んだ方がマシだ。
「どうして……どうして……」
見間違えるはずがない。子供の姿でも分かった。見慣れた特徴のある髪型ではないけれど、それでも分かった。彼女は目を瞑っているけれど分かった。彼女の事なら分かってしまう。だって、今の自分にとって一番大切な少女だ。第六世界の彼女とは違うけれど、それでも同じあの子だ。
「どうして……瞳子ちゃんなのよぉ……」
膝を突いた祐巳の背中で純白の翼が弾け飛んだ。
彼女だと教えてくれなかった、自分と同じ存在であるはずの少女に腹が立った。知らなかったとはいえ、瞳子ちゃんと同じ存在である彼女を傷付けてしまった自分が許せなかった。
小さな瞳子ちゃんは、傷と血に塗れた身体を起こそうとしていた。無理に立ち上がろうとするから、傷口から更に血が溢れている。
「瞳子ちゃ――っ!」
「祐巳さんっ!」
志摩子さんの静止の声。
肩にかけられた手を振り払い、少女に駆け寄りかけた祐巳は見えない何かに弾き飛ばされた。数度地面を跳ねて、ようやく止まる。意識が飛びかけていたけれど無理やり立ち上がろうと地面に手を突いて、なぜかバランスを崩して倒れてしまう。
見れば、右の手首がおかしくなっていた。皮膚の下で何かが飛び出ている。どうやら骨でも折れたようだ。けれども、そんな事を気にしてはいられない。
「その手……」
駆け寄ってきた志摩子さんが、祐巳の状態に気付いて声をかけてくる。
「こんなのどうでもいいの、痛みなんて感じないから」
そう答えながら、祐巳は立ち上がって少女を見た。
彼女は片腕を伸ばして、祐巳と同じようにこちらに顔を向けていた。けれど、その瞳は祐巳を映してはなかった。当然だ。彼女の双眸はずっと閉じられたままなのだから。そしてそこからは、真紅の涙が流れ出ている。
「自分が世界を滅ぼす様を見るのが嫌で、あの子は自らの目を抉ったわ」
その声に反応して、ピクリと祐巳の肩が震えた。
「消えていく命の悲鳴を聞きたくないから、耳も聞こえなくしたの」
少女の両方の耳からも真っ赤な血が流れていた。顎を伝って、ぽたり、ぽたり、と血溜まりの中へと紅い雫が落ちていく。
「あの子は優しいの。あなたの妹である松平瞳子と同じくらい優しいの。あの子にも端末は存在しているわ。でも、あの子はそれを使わずに本体でここにきた。どうしてだか分かる? あなたのような、神様を傷付ける事ができる『彼ら』を使役する者と戦うから。同一存在とはいえ、『降臨』して松平瞳子という人間の身体を傷付けたくないからよ」
けふっ、と瞳子ちゃんの姿をした神様が血を吐いた。
「あの子は世界を滅ぼしたくなんてないの。それでも、滅ぼさなければならないのよ」
「何よ……それは……」
祐巳は振り返った。
そこには、自分の姿をした少女の姿があった。その隣には、祐巳の妹(スール)である瞳子ちゃんの姿もある。
ここまで急いで走ってきたらしく、激しく肩を上下させていた瞳子ちゃんが祐巳に向かって駆け寄ってくる。そうして、よろめく祐巳の身体を支えようとして手首の異状に気付いたようだ。
「これ……」
それを見て、サッと顔を青褪めさせた。
そんな瞳子ちゃんに、「大丈夫だから」と言って神様の少女を睨む。
「世界を滅ぼす、という役目を与えられた以上、どんなに嫌でも遂行しなければならないわ」
「何よ、それ」
「それが神様なのよ」
「神様って、何なのよ……」
「世界に創られたもの。世界のために生きるもの。与えられた役目を遂行するもの。あの子も、他の子も、私もよ。私たちは、そう創られているの」
「……で? 何で私にあの子を殺させようとしたの? そんなに殺したいのなら、自分で殺せば良いじゃない! 私に殺させようとしないでよ! 何で私が――」
「できる事なら私がこの手で楽にしてやりたいわよ!」
強い視線で祐巳を睨み付け、少女が言い返してきた。
「でも、役目が違うから私にはどうやっても手が出せないのよ……」
そこにいるのに手が出せない。
「そもそも、どんな理由があっても私たちに同族を殺す事はできないの」
すぐ目の前にいるのに、自分の手では救う事も殺す事もできない。だから、この少女は神様を殺す事のできる祐巳をこの世界に連れてきた。
「ねえ、痛みを取り戻したあなたになら、どんなにあの子が傷付いているか分かるでしょう? 痛みが分かり、優しいあなただからこそあの子を殺せる」
だから、この少女は祐巳に痛みを取り戻させた。
「そんな……」
「あなたでなければ殺せないの。あなただけが私たちを殺せるの。私たちは、自分で自分を殺す事もできない。どんなに自分を傷付けても死ぬ事はできないの。あの子は、これからもずっと泣き叫びながら自分を傷付けて、それでも死ぬ事は許されずに世界を滅ぼしていかなくてはならないの。だから、お願い」
神様の少女が祐巳に頭を下げた。
「これ以上あの子が自分を傷付けなくても良いように――」
何でこの少女が頭を下げる? 何でこいつがここまでする?
「もう楽にさせてあげて」
この少女に、そういう感情はないと思っていた。
人類なんて滅びた方が良い、と。誰が傷付こうと知った事ではない、と。そう言ってた神様だ。まともな感情なんてないと思っていた。
「あの子は、あなたの何なのよ……」
「……『世界』によって創られた、私の妹よ」
妹? 姉妹なのに死を願うのか。最低な姉ね。そう思ったのだけれど、殺す事でしかあの少女は救われないのだ。
「あの子を殺して、ここにいる瞳子ちゃんがどうにかなったりしないでしょうね」
「それはないわ。第六世界の島津由乃は生きていたでしょう?」
確かに、祐巳の世界では亡くなっていたけれど、こちらの世界の由乃さんは生きていた。あの傷付いている瞳子ちゃんは神様で由乃さんの時とは状況が違うのだけれど、神様が言うのだから信じても良いだろう。少なくとも目の前にいる神様の彼女は、出会ってから今までに嘘は言わなかった。
「分かった」
「祐巳さんっ!」
志摩子さんが声を上げた。祐巳の決めた事が分かったからだろう。それは抗議の声だった。
「仕方がないじゃない」
祐巳の言葉に、子供がイヤイヤするように志摩子さんが首を振る。もしも志摩子さんが今の祐巳の立ち位置にいれば、おそらく彼女は死を選ぶだろう。志摩子さんに、あんなに傷付いている少女を手にかける事なんてできない。そしてまた、祐巳も志摩子さんにそんな事をして欲しいとは思わない。
祐巳は志摩子さんから視線を外して、神様の少女を見下ろした。
「後悔しない?」
「今の何もできない状態以上に後悔する事なんてないわ」
何もできない、なんて事はない。彼女は自分の妹を、死を以って救うために祐巳をここに連れてきた。それ以上の事は彼女にはできなかったけれど、彼女は彼女なりに必死だったはずだ。
「そうね」
どんな思いでここに祐巳を連れてきたのだろうか。同一の存在ではあるが、その心までは分からない。漠然と、辛いだろう、悔しいだろう、という在り来たりな事くらいしか祐巳には浮かばなかった。
「祐巳さんっ! 本気であの子を殺す気なの!?」
志摩子さんが再度抗議の声を上げる。
「煩いわね。私はもう決めたのよ。それとも何? あの子を犠牲にしてまで生きたくない、なんて言うつもり? 私は嫌よ。死にたいのなら勝手に一人で死になさいよ!」
志摩子さんが祐巳を睨んで、祐巳も志摩子さんを強く睨み返した。
「でも、絶対に死なせない。死なせてなんかやらない。何が何でも絶対に連れて帰るわ。だって、あなたには乃梨子ちゃんがいる。向こうの世界で、あなたが失踪した後の乃梨子ちゃんがどんなに傷付いていたか知らないでしょう? またあの子を傷付けるつもり? あなたには帰るべき場所があり、待ってる人がいるの! こんな所で死ぬわけにはいかないでしょう?」
「……」
乃梨子ちゃんの名前を出されて、志摩子さんが辛そうに俯いた。
「それに、私にだって今は瞳子ちゃんがいる。瞳子ちゃんと一緒に生きたいの」
だから、これから祐巳が行う事は神様の少女のためではない。血を流して傷付いているあの少女のためでもない。
自分が生き延びるためだ。瞳子ちゃんと一緒に生きていくためだ。そのために自分は、あの傷付いて血に塗れている少女を殺す。
祐巳は志摩子さんから顔を背けて、自分の身体を支えてくれている瞳子ちゃんに顔を向けた。
「瞳子ちゃん」
返事はなかった。けれども彼女は、祐巳の瞳を真っ直ぐに見ていた。
「私は生きるために、もう一人のあなたを殺すわ」
「……」
瞳子ちゃんは何も言わなかった。ただ、小さく頷いただけだった。
蟲たちの流した血液で青く染まった大地を踏み締めて、祐巳は少女と対峙していた。
祐巳の視線の先にいる少女は、痛みに耐えるように小さく震えている。
そんな少女と重なる姿があった。
(痛いよね)
過去の祐巳の姿だった。
(辛いよね)
世界を滅ぼす事が嫌で、それなのに滅ぼさなくてはならなくて、自らを傷付けている少女。おそらく、死にたいとまで思っているだろう。
それでも彼女は、第五世界の生き残りである祐巳に攻撃してきた。
『アアアああぁぁぁぁぁぁぁァァァッ』
それが、彼女の存在する理由だから。
それが、彼女に与えられた役目だから。
双眸から血を流し、泣き叫びながら祐巳に向かって手を伸ばしてくる。そこから何かが飛んでくるわけではなく、ましてや何かを呼び出したわけでもなく。けれども祐巳は、胸に強い衝撃を受けたと思った瞬間それまで立っていた場所から吹き飛ばされた。
先ほど吹き飛ばされた時と同じように身体のあちこちをぶつけながら地面を転がり、ようやく止まった所では星々が煌く美しい夜空が視界いっぱいに広がっていた。このままじっとしていたら楽にしてくれるんだろうな、なんて事を考えながら起き上がる。
ここで死ぬわけにはいかない。
生きたい、と思ったのだ。瞳子ちゃんと一緒に生きていく、と決めたのだ。だから、あの少女を殺すと決めたのだ。
立ち上がった場所で、未だに悲鳴を上げ続けている少女を見る。
(何でなのかな……)
祐巳の背中で純白の翼が広がり、輝く羽根が舞い上がった。
(何で生きるために殺さなければならないんだろう?)
祐巳が左腕を少女に向けて突き出すと、集まった数千万の彼らが敵である少女を中心にして全方位を囲んで咆哮を上げた。
『ああぁぁぁッ』
それに応えるかのように血塗れの少女が叫び、彼女の周りに黄金に輝く小さな六角形の板のようなものが幾つも浮かび上がってくる。
それは、少女を守る黄金の盾だった。少女を守るべく、黄金に輝くそれが幾重にも重なリ合いながら彼女の周囲を囲む。一枚一枚は薄くて小さいけれど、祐巳が呼んだ彼らの数に匹敵するくらいの数量だった。
それを見て、精霊たちに愛されていないと神様を倒せないわけだ、と祐巳はようやく納得できた。あの数の盾が築く防御網を、普通の天使族が集める事のできる最大数である八百万程度で抜けるとはとても思えない。
彼らと盾が一斉に行動を開始する。
祐巳の呼んだ、五千万の彼らによる全方位からの攻撃。
それを防ぐために高速で移動する、少女を守る五千万の盾。
前後左右、上下に至るまでのあらゆる角度に加え、時間差を駆使しての攻撃までもが少女を守る盾によってことごとく防がれてしまう。
精霊たちの放つ光が闇の世界を彩り、黄金に輝く盾が行く手を阻む。双方がぶつかり合い、その度に小さな光の粒を散らして消えた。
盾が消えていく。彼らが消えていく。命が消えていく。
仲間たちが次々とその命を散らしても、彼らは躊躇わずに少女へと向かっていく。祐巳がそう願い、彼らが祐巳を愛してくれているからだ。
あの少女と自分の、いったいどこが違うのだろう。だって、彼女と祐巳の違いなんて、使役しているのが蟲か精霊か、種族が神様かそうではないか、それだけでしかないのだ。
(どうして『世界』は、あの子に世界を滅ぼすなんて役目を与えたのだろう?)
少女を囲んでいた盾の幾つかが、突如として刃へと形状を変えて祐巳に向かって飛んでくる。
考え事をしていた祐巳は反応が遅れたが、指示を出すより先に彼らが反応していた。彼らは再三、その身を犠牲にして祐巳を守ろうとしたのだ。
「あぐっ」
しかし、高速で撃ち出された刃の全てを迎撃する事は叶わず、そのうちの一本が切り裂かれた彼らの隙間を抜けて祐巳へと到達した。右肩を貫かれた衝撃で祐巳の身体は宙に浮き、後方へ二メートルほど飛ばされた所で背中から地面へと打ち付けられる。咳き込みながらもすぐに立ち上がろうとしたが、頭でもぶつけてしまったのか身体のバランスを保てずに尻餅を突いてしまった。更には今まで蓄積してきた疲労が一気に噴き出したらしく、身体から急激に力が失われていく。
(くっ、まずい……)
何とか立ち上がろうとするのだけれど、手足は震えるばかりで思うように動いてくれない。
(駄目だ。身体が言う事を聞かない。私、ここで死ぬの? こんな所で殺されてしまうの? お姉さまも、家族も、世界も守れず、あの子を救う事さえできずにこんな所で…………でも、ああ、そうね。ここで死んだら――)
お姉さまや家族に会えるかもしれない。
(……案外、死ぬのも悪くはないかもしれないな)
もし会えたら、守れなくてごめんなさい、って謝ろう。そして、今までよく頑張ったね、って抱き締めてもらおう。お姉さまと家族の姿を思い浮かべて、祐巳は小さな笑みを零した。
もうこのまま諦めてしまおう。そうすれば、これ以上傷付く事はなく、あの子も殺さずに済むのだ。
そうして身体から力を抜いた祐巳は、
(あ――)
朦朧とする視界の隅に瞳子ちゃんの姿を捉えた。
祐巳の有様を見て顔を真っ青にしている彼女は、それでもこちらに駆け寄ろうとはしない。あれだけ祐巳の事を心配していた瞳子ちゃんが、こんなにも傷付いている祐巳を見てもそこから動かないのはなぜなのだろう。そんな事を考えて、祐巳は自分を殴り付けてやりたい衝動に駆られた。
(そんなの、私の事を信じているからに決まっているじゃない!)
彼女の世界に一緒に戻る、と。ずっと傍にいる、と。お姉さまと同じくらい大切な瞳子ちゃんと約束した。そして、瞳子ちゃんと一緒に生きたいと願う自分のために戦う、と祐巳は決めたはずなのだ。
(それなのに、何を諦めているのよ私はっ!)
震える膝に爪を立てて血が滲むほど力を込めると、
「うぅっぅぅぅぅぁぁああっ!!」
気力を振り絞って祐巳は一気に立ち上がった。
荒い呼吸を繰り返しながら、頭から流れ出て頬を伝っていた血を左手で拭う。
(立ち上がったは良いけど、右手は動かないし足も使えない。頼りにできるのは『彼ら』だけど、どこから攻撃してもあの盾で防がれる。正直に言って、八方塞りだわ。参ったわね)
祐巳は大雑把に指示するだけで、どこからどう攻撃するのかなどの細かい所は彼らの判断に任せている。つまりあの少女は、たった一人で祐巳と、祐巳に従う精霊たちと戦っているのだ。いったいいつから、一人ぼっちで戦い続けているのだろう。ここで祐巳たちが滅ぼされたら、あの子はその後も一人ぼっちで戦い続けるのだ。
(これ以上あの子が自分を傷付けなくても良いように、もう楽にさせてあげて……か)
少女を守る盾とぶつかり、彼らが次々と消えていく。
少女の命を奪うために。
少女の命を守るために。
黄金の光が弾け、色とりどりの命が散り、その全てがこの世界を覆っている闇へと溶けていく。
力が入らないせいで頼りなく小刻みに震えている左手を伸ばし、ゆっくりと少女へと向ける。
少女を見れば、彼女も同じように祐巳へと向けて手を伸ばしていた。
『アああぁぁッ』
少女の悲鳴と共に襲ってきた目に見えない攻撃を、自分の身を包むように背中から伸ばした煌く翼で防御する。
衝撃で純白の羽根が舞い散る中、祐巳は少女を見据えた。傷だらけで、血塗れで、一人ぼっちで、それでもまだ世界を滅ぼすという役目のために戦おうとしている少女。
終わらせたい、と思った。あれ以上、あの少女が自分を傷付けなくても良いように。精霊たちが死ななくて済むように。祐巳が瞳子ちゃんと生きていくために。
『アああぁァァァァァッ!!』
自分の攻撃が防がれた事を悟ったのだろう。一際大きく少女が悲鳴を上げると、祐巳の左腕が燃え上がり始めた。
制服の焼ける音に肉の焦げる嫌な匂い。けれど、そこに痛みはない。そんなものは感じない。
燃え上がり激痛を感じているはずのその腕を少女に向かって突き出すと、精霊たちが全方位から今まで以上に激しく彼女を攻撃し始める。
あの目玉であれば、もう四、五回は墜とせる事ができるほどの火力だ。しかし、それだけの猛攻を繰り出しているにも関わらず少女の周囲を高速で移動するあの盾は、その攻撃の全てを阻んでいる。このまま彼らをぶつけても、無意味に生命を散らせてしまう事になるだけだ。
(どうすれば良い? どうすれば――くぅっ!)
今度は少女の動きに注意していたので、彼女が黄金の刃を撃ち出すのに気付く事ができた。もっとも、気付く事ができたからといって、目で見て避けられるようなものではない。
勘に頼って咄嗟に身体を捻っただけで避ける事ができたのは、祐巳の心臓を狙ったのだろうそれが数体の精霊を切り裂いた事が原因で速度を落としていたからだ。もしも速度が落ちていなかったら、祐巳が身体を捻る前にあの刃は到達していただろう。
けれども、凶刃を避ける事はできたが祐巳の身体は既に限界を迎えていて、無理に捻った身体を力の入らない足で踏ん張る事まではできなかった。
(あぁ…………)
成す術なく斜めに傾いていく視界を、この戦いを見守っている瞳子ちゃんたちの方へと向ける。
まず最初に、神様の少女が無表情でこちらを見ているのが見えた。体勢を崩し地面に向かって倒れつつある祐巳を見ていったい何を考えているのか、その表情からは全く窺う事はできない。
次に見えた瞳子ちゃんは、先ほどと同じように真っ青な顔したまま口元を両手で押さえていた。あの様子では悲鳴でも上げているのかもしれない。
そして、その隣にいる志摩子さんは強い意志を感じさせる眼差しをしていて、祐巳と目が合うと小さく頷いた。
(……そう。決めたのね?)
祐巳と少女が戦闘を開始する前からずっと悩んでいたようだが、ようやく乃梨子ちゃんと共に生きる覚悟を決めたらしい。
「あああああっ」
傾いている身体をそのままに、祐巳は少女へと向かって焼け焦げた左手を伸ばす。
(志摩子さんっ――!)
祐巳が心の中でその名前を叫んだ瞬間、志摩子さんがその手に隠し持っていたステッキを少女目掛けて振った。
「ライトニング・アロー!」
少女に向けて放たれたそれは、闇を切り裂き一本の筋を残して光の速さで少女へと到達する。しかし――――無情にも、祐巳を愛する彼らと同じように黄金の盾に阻まれてしまった。
それは、一秒にも満たないほんの一瞬の出来事だった。自分の盾が祐巳以外の者によって破壊された事に気付いた少女が志摩子さんへと意識を向けたのが、志摩子さんが攻撃を加える寸前から少女の動向に注意を向けていた祐巳には分かった。
(そこっ!!)
その瞬間を、地面に左半身を打ち付けながらも祐巳は見逃さなかった。志摩子さんの一撃によって作られた小さな小さな――本当に小さな盾と盾の隙間を、祐巳の指示に従って精霊たちのうちの一体が駆け抜ける。
その場所には、黄金の盾の防御範囲内よりも更に内側に入られて無防備に立ち尽くしている少女の姿があった。
(……ごめんね)
呆気なく。
本当に呆気なく。
これが本当に神様なのか? と疑ってしまうくらいにあっさりと、少女の左胸を精霊の乙女が持つ銀の槍が貫いた。
少女の小さな唇から鮮血が零れる。
まるで時間が止まってしまったかのように、黄金の盾も精霊たちも一斉に動きを止めた。
その止まった時間の中で、少女だけが動いていた。血に塗れている少女の表情が変わる。
(やめてよ……)
間違いなく殺した。祐巳が彼女を殺したのだ。
それなのに、
(殺した相手に微笑まないでよっ!)
少女は祐巳に向かって微笑んだ。
嬉しそうに微笑んだまま、仰向けに倒れていく。
「ぁ……」
宙に浮かんでいた全ての盾が一斉に弾けると、黄金の光が雨のように降り注いでその粒が大地に漂った。
まるで、黄金の海原だった。
その海原に、祐巳に向かって微笑んだまま血塗れの少女が沈んでいく。
やがて少女の姿が光に紛れて見えなくなると、彼女の死に合わせたかのようにその海原から光が消え失せた。
視線の先に少女が倒れているのを確認して、祐巳はゆっくり立ち上がると左腕を振った。残っていた小さな炎――少女が遺したこの世界での最後の力がその一振りで消える。
焼け爛れ赤黒くなった皮膚には溶けた制服が張り付いていたが、そこに痛みなどない。身体の痛みなんて感じないのだ。そんなものは随分前に失ってしまった。
けれども、身体の代わりに心が痛くて。それは弱さであるはずなのに、泣き叫んでしまいそうになるほど痛くて。でも、あの少女の命を奪ったのは自分なのだ。そんな自分が絶対に泣くわけにはいかない、と祐巳は決して泣かなかった。
吹いた緩やかな風がまるで慰めるかのように祐巳の髪を撫でると、纏めていて当たるはずのない髪が頬に当たった。気が付けば、ツーテールに纏めていたお気に入りのリボンの片方がいつの間にか解けている。どこかに飛んでいったのか、周囲にそのリボンは見当たらない。
解けた髪が何度も頬に当たって鬱陶しいので掻き上げようとしたのだけれど、両腕が共に使えない事に気付いて仕方なく上げた手を下ろす。
祐巳はその場から一歩も動かなかった。
少女の死に顔を見ようとは思わなかった。少女の亡骸に近付こうとも思わなかった。
それを見て良いのは自分ではない。彼女に近付いて良いのは自分ではない。それが許されるのは、あの神様の少女だけだ。
瞳子ちゃんたちの駆け寄ってくる足音が聞こえてきて、祐巳の背後で止まる。ただ、神様の少女だけは祐巳の横を通り過ぎた。通り過ぎて、そこに倒れている少女を見下して――けれど、そこで見下ろしているだけだった。
「何やってるのよ……」
手を握ろうとも、抱き締めようともしない少女に祐巳は叫んだ。
「あなたの妹なんでしょう!?」
神様の少女は、自分の妹である少女の亡骸を見下ろしながら言った。
「触れないの」
「え?」
「役目が違うから手を出せない。それは、そういう事も含めての意味なのよ」
「そんな……」
馬鹿な事があってたまるか。触る事すら許されていないなんて、そんな……。
「私たちは『世界』にそう創られているの」
「……」
「『世界』は残酷で、とても厳しいのよ」
そんな事はないはずだ。
世界は優しかった。そうでなければ、祐巳の生まれ育った世界での出来事は全て嘘となる。そうだ、あんな世界になる前はずっと優しかったのだ。でも……それならなぜ、あんな世界になってしまった? それは、世界が優しくないからではないのか?
そう考えていた祐巳の視線の先で、
「生命とは死を以ってその尊さを伝えるもの」
少女が静かに言った。
「それが軽く扱われる世界が滅びの対象となるのよ」
(そうか、それが――)
「ええ、あなたの世界が滅ぼされた理由ね」
確かにあの世界は、生命というものがこの世界よりもずっと軽く扱われていた。
桂さんの言っていた通りだ。それは、とても当たり前の事で、対策の立てようのない事だった。命を軽く見る人は、多かれ少なかれ必ず存在する。そうでなければ誰も争ったりしない。他人を傷付けたりもしない。戦争なんて起こらないし、他人を殺す事もない。けれど……それが分かったからって、どうする事もできない。あの世界が元に戻るわけではないし、祐巳一人でどうにかできる事でもない。
「そんな事、今更どうでもいいわ。それよりも、もう帰してくれる? 早く帰りたいんだけど」
祐巳の言葉に少女が空を見上げた。
黒い空に大きな亀裂が走る。それは空一面に広がって、まるでガラスの割れるような音を立てながらバラバラに砕け散った。
割れた空の向こうには、黒く塗り潰された空間があった。光すらも呑み込んでしまいそうな、暗くて深い闇だった。砕け散った空の破片が、そこに吸い込まれていく。
「祐巳さま……」
祐巳と一緒にそれを見上げていた瞳子ちゃんが、怯えたように名前を呼んできた。
次いで、精霊たちの気配がこの世界から消える。世界が揺れ始めて、周囲に残っていた建物が次々と地面に呑み込まれ始めた。
「……あなたは、これからどうするの?」
「しばらく、ここに残るわ」
そう答えて、神様の少女がそこに座った。
まさか死ぬ気じゃないでしょうね? と祐巳が訝しんでいると、「その傷、治してあげるわね」と少女が言ってきた。腕や肩の事だろう。腕は、片方は折れて、片方は火傷。右肩には穴まで開いている。痛くはないけれど、見た目はどれもかなり酷い。もっとも、天使族は高い治癒能力を持っているので、もう治りかけているのだけれど。
「必要ないわ。どうせすぐに治るから」
「他人の好意は素直に受け取っておくものよ」
「嫌いな奴の世話にはなりたくないの」
「そう」
小さく答えて少女が祐巳を見上げてくる。
「松平瞳子の事、大切にしなさいよ」
「あなたに言われるまでもないわ。私と瞳子ちゃんは――」
姉妹(スール)なんだから、と言いかけて祐巳は口を噤んだ。けれども、読まれてしまったらしい。少女は寂しそうに微笑んだ。
その表情を見て、祐巳はそれ以上何も言う事ができなかった。
表面上はそうとは見えないように振舞っているけれど、自分がお姉さまを失った時と同じくらいこの少女は哀しんでいるだろうから。
そんな少女に、祐巳が何も言えるはずがなかった。彼女の大切な人を殺したのは自分なのだ。
「祐巳さん!」
志摩子さんが呼んできたのでそちらを見ると、祐巳が吹き飛ばした校舎のあった場所に大きな闇が口を開けていた。空と同じように、どこまでも深い漆黒の闇だ。その闇が恐ろしい速度で広がりつつあった。
あれに呑み込まれたらどうなるんだろう、と祐巳が顔を引き攣らせていると、
「この子を救ってくれてありがとう」
背後からそんな言葉が聞こえてきた。
祐巳が振り返るよりも早く、周囲が眩い光に包まれる。それは、祐巳の持つ純白の翼よりも尚白く煌く光だった。そのあまりの眩さに思わず目を閉じてしまったが、それでも入ってくる光の粒が閉じた瞼の裏で踊っている。
瞼を閉じて尚、視界を埋め尽くす白に次第に何も考えられなくなり――祐巳は意識を手離した。
*
他の姉妹たちと同じく『世界』によって創られた私の妹の一人が、自らを傷付けながら世界を滅ぼそうとしてる事を知ったのは随分と昔の事だ。あの子は生命の尊さを理解していて、それを自分が滅ぼさなければならない事に絶望していた。
その傷に塗れた姿を一目見て、私は彼女を救うと決めた。
神様には与えられた役目があり、死ぬまでその役目を遂行するように創られている。つまり、その命を奪う事でしか妹を救う事はできない。
けれども、空間転移や時間停止ができるほどの大きな力を持つのに、同じ神様であり役目の違う私の手ではあの子をその苦しみから解放する事ができないのだ。そんな私にできる事はただ一つ。
精霊が人を愛する事はごく稀で、随分と長い間生きている私でさえ八百年ほど前に六人目を見たきりだ。
過去へと飛んで連れてくる事はできるが、それが全くの無駄である事は間違いない。彼らは確かに精霊に愛されているが、その優しさ故に自らを傷付けているあの子を殺す事ができるほどの強い心と優しさまでは持ち合わせていないからだ。
となれば、新たに精霊に愛された者が生まれていないか、または、愛される可能性のある者がいないか探すしかない。
しかし、そう決めてからありとあらゆる世界を巡った私だったが、どの世界を探しても見付け出す事ができなかった。そうして見付ける事ができないまま長い年月が経ち、とある世界があの子による滅びの対象となったのだ。
その世界で私は、私と同一の存在である天使族の福沢祐巳を見付けた。けれども当時の彼女には家族がいて、彼らのために戦っていたからなのだろう、精霊たちに愛されてはいなかった。
見付けたのが天使族だったので一応気に留めておく事にはしたのだが、その時にその世界を見た限りでは住人同士が互いに足を引っ張り合っていて、今まで滅ぼされてきた幾つもの世界と同じようにただ滅ぼされるだけだろうと思っていた。
でも違った。私が別の世界を探していた時、藤堂志摩子が『世界』によってこの第六世界へ転移された、と桂から報告を受けたのだ。
それまでも気紛れで悪戯好きな『世界』が人や物を転移する事はあったのだが、その時は状況が状況なだけに引っかかるものがあった。どこへ逃れたとしても追ってきて滅ぼされる事になるのに、なぜ転移させたのだろうか、と。
そこで、何か意味があるのではないか、と藤堂志摩子が飛ばされた先といずれ滅びるだろうと思っていた世界を再度探ってみた私は、傷付いた松平瞳子と、精霊を愛し、精霊に愛されている福沢祐巳を見付けたのだ。
「姉として、私はあなたに何もしてあげられなかったわね」
崩壊していく世界の中で、横たわる妹の亡骸に手を伸ばしながら姉である少女は呟いた。
伸ばした手が妹の頬に触れる事はなかった。そこに姿はあるのに、まるで幻のように手が擦り抜けてしまう。
「こうなる事は最初から分かっていたはずなのだけれど。それでも……こんなにも悲しいだなんて思わなかったわ……」
一滴、少女の頬を雫が伝って地面に落ちた。
「……そう。そういう事だったのね。『世界』はこの私にこそ生命の尊さを伝えるために――」
直後、少女によって創られていた世界が完全に崩壊する。その世界が構築されていた空間には、闇すらも残らなかった。
*
「ううん――」
差し込む紅い光に眩しさを感じて、祐巳は薄っすらと瞼を開けた。
(あれ?)
ボーっとする頭を振り、寝起きのために霞がかった目で周囲を確認する。
どうやらここは保健室のようだ。
(夢? 全部夢だったの?)
シーツを跳ね除けて、起き上がりながら見た自分の両腕には火傷の痕も骨折した痕跡もなかった。失くなっていたはずのリボンも微妙に歪んではいるがちゃんと結ばれてあったし、焼けたはずの制服でさえ多少皺が寄っているだけで、このベッドで眠りに就く前と同じ状態だった。
けれど、
(そんなわけないか……)
まだ匂いが残っていた。自分の腕の焼けた匂いが祐巳の鼻腔に微かに残っていた。
ふと、視線を窓へと向ける。そこからは夕陽が差し込んでいて、部屋の中を茜色に染めていた。時計を見れば、四時四十分となっていた。保健の先生の気配は部屋の中にはなく、どうやらこちらの世界は先生が職員室に向かった直後から時間を止められていたようだ。
ベッドの脇には、両腕を枕にしてベッドに寄りかかり、すやすやと寝息を立てている瞳子ちゃんの姿がある。周囲に志摩子さんの姿は確認できなかった。おそらく薔薇の館に戻されたのだろう。
ベッドから降りて、祐巳は上履きを履いた。
「何が、『ありがとう』よ」
神様の少女の言葉を思い出して、祐巳は夕陽の差し込む窓へと近付いた。
死の間際に、祐巳に向けてきた少女の嬉しそうな表情を思い出す。
「どうして微笑むのよ」
空を見上げてみたが、陽の光だけで夕陽そのものは見えない。
「罵声でも浴びせられていた方がマシだわ」
吐き捨てるように言った。
視界に入ってくる茜色が、やけに気に障った。
「ふざけるんじゃないわよ」
茜、赤、朱、紅。
夕陽は、あの世界の由乃さんやお姉さま。そして、つい先ほど自分が殺した少女を思い出してしまう。
眩しくて、辛くて、目に沁みて、祐巳は視線を足元に落とした。
「強くても」
夕陽を浴びて、伸びる祐巳の影も頭を落としていた。
「結局、何一つ救えなかったじゃない……」
失ったから強くなった。たくさんのものを傷付けて、自分は強くなったはずだった。
「祐巳さま」
背後からの声に、祐巳は慌てて下げていた頭を上げる。けれど、振り返れなかった。瞳子ちゃんの姿を見るのが、今は何よりも怖かった。
背を向けたまま彼女に応える。
「ごめん。起こしちゃった?」
「夢……ではなかったんですね」
祐巳の独り言を聞いていたのだろうか。瞳子ちゃんはあの出来事が夢ではなかったと確信しているようだった。
それなら、誤魔化しても仕方がないだろう。どうせ瞳子ちゃんには見破られるのだ。
「本当、嫌になっちゃうよね。まあ、せめてもの救いは制服とかリボンが元に戻って――」
「もう泣いても良いんですよ」
「……私が泣くわけないでしょう?」
何言ってるのよ――と、そんな声を無理やりに捻り出す。けれど、瞳子ちゃんには通じなかったようだ。
「泣いても良いんです」
再度同じ事を言ってくる。
「だから、何で私が泣かないといけないのよ」
「泣く事くらい自分に許してあげてください」
「しつこいわね! 泣かないって言ってるじゃない! いい加減にしてよ!」
泣いてやるもんか。あんなふざけた連中のためになんか、絶対に泣いてやらない。一滴だって涙なんて流してやるもんか。
そう心に誓って、祐巳は両手を強く握り締めた。
*
「しつこいわね! 泣かないって言ってるじゃない! いい加減にしてよ!」
そう言ったきり口を閉ざしてしまった祐巳さまの背中は小さく震えていた。
「自分のために泣いてください」
両手を強く握って、この人はまだ我慢をしていた。もう涙を流しても良いのに、誰もそれを馬鹿にする人はいないのに、それでもこの人は我慢していた。
「出会った時から、あなたはずっと戦っていましたね」
いきなり違う世界に飛ばされて。そこに自分と同じような翼を持つ人は存在しなくて。たった一人でどんなに不安だったのだろうか。
「私と出会うよりも前から、ずっと頑張っていたんですよね」
祐巳さまはずっと戦ってきた。辛い時も、哀しい時も、この人はずっと耐えてきた。
「疲れましたよね」
夕陽が作る祐巳さまの影に足を踏み入れ、その背中に近付く。
祐巳さまは振り返らなかった。瞳子に何も返してはくれなかった。
「少し、休んでください」
もう一歩祐巳さまに近付くと、祐巳さまの作る影の中に瞳子の身体が入った。目の前には、小さく震えている祐巳さまの背中がある。
祐巳さまはそれでも振り返らなかった。けれど、ようやく口を開いてくれた。
「私……」
祐巳さまの声は、背中と同じように震えていた。
「殺したくなかったよ……」
その声には嗚咽が混ざっていた。
「あんなに傷付いていたのに……。殺す事しかできないなんて」
ゆっくりと瞳子に振り返った祐巳さまは、頬を涙で濡らしていた。透明なはずのそれは夕陽の朱に染まり、祐巳さまの顎を伝ってそのまま床に落ちて弾けた。
「そんなのってないよ……」
痛みがあるからあの少女を殺す事ができた祐巳さまは、その痛み故に大きく傷付いてしまった。
「どうしていつも救えないの?」
いつもの虚勢を張れないくらい――瞳子を誤魔化そうとできないくらいに深く傷付いてしまった。
「いつもいつもいつもっ! どうして私はっ――」
「いつも救えない、なんて事はありません。だって、祥子お姉さまとの事で酷く傷付いていた私を救ってくれたのは、あなたなんですから」
それ以上見ている事ができなくて、尚も自身を責め続ける祐巳さまを遮る。
「それに、あの子とは違いますが、それでも私とあの子は同一人物なんですよね? でしたらあなたはあの子と私、二人の私を救ってくれたんです」
瞳子の言葉に祐巳さまが膝を突いた。
「ごめん……ごめんね……。私……あなたをっ……あなたを殺して……」
子供のように泣きじゃくりながら縋り付いてくる祐巳さまは、瞳子にあの少女の姿を重ねているようだった。
それを、嫌だ、とか、情けない、とは思わなかった。そこには確かに同情もあった。するな、という方が無理だろう。
あんなに傷だらけになって、自分の心を殺してまで生き抜いたのに。生きようとするのは命ある者として当たり前の事なのに。この人は優し過ぎて、自分が傷付いただけだった。
「私が許します。だから」
瞳子は身体を傾けて、祐巳さまを覆うように上から抱き締めた。
「泣いてください。ここは、それが許される世界なんですから」
「ぅあああ――……」
大声を上げて泣き始めた祐巳さまを見て、この人はもう駄目かもしれない、と思った。本当に壊れてしまうかもしれない、と思った。
見捨ててしまえば、きっと楽なのだろう。
けれど、私はずっとこの人の傍にいる。
見捨てようなんて、この人から離れようなんて絶対に思わない。
それだけは、これからずっと未来――たとえこの命が果てたとしても、間違いなく確かな事だ。
「……ようやく泣く事ができましたね」
泣き続ける愛しい人をあやすように抱き締めながら、瞳子もそっと涙を零した。
*エピローグ*
祐巳さまはどこへ行ったのだろう?
講堂に集まった人たちによる拍手と歓声が鳴り響く中、生徒会役員選挙の結果が記されている紙を握り締めながら瞳子は祐巳さまの姿を探していた。
選挙の結果は既に確認済みだ。瞳子の名前の所に紅い花のシールが張られていた。それは当選の印で、由乃さまや志摩子さまの所にも張られてある。
瞳子が祥子お姉さまと姉妹(スール)にならない事を知った時の、生徒たちの反応は様々だった。もうとっくに姉妹(スール)になっているものだと思っていた、という言葉も幾つか聞かれたが、特に何事もなく無事に当選できたのは、懸命に山百合会の仕事を手伝っていた瞳子の姿を皆が見てくれていたからなのだろう。瞳子にしてみれば、祥子お姉さまに自分を見てもらいたいがために頑張っていただけなので、苦笑いを浮かべるしかなかったのだけれど。ついでなので付け足しておくが、今年は三人しか選挙には出なかったので、余程の事がない限り落選のしようもない。
それはともかく、瞳子は来期より紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)となる。選ばれたからには精一杯頑張るつもりだ。
「おめでとう、瞳子ちゃん」
かけられた声にそちらを見れば、そこでは祥子お姉さまが微笑んでいた。
「はい」
頷きながらも瞳子の視線は、つい祐巳さまの姿を探してしまう。そんな瞳子を見て、何を探しているのか分かってしまったようで祥子お姉さまが言ってきた。
「祐巳なら――」
(むっ!)
祐巳、と呼び捨てにした祥子お姉さまに、瞳子の頬の辺りがピクリと反応した。すると、それに気付いた祥子お姉さまが苦笑を浮かべながら、さん付けへと変えた。
「祐巳さんなら、先に薔薇に館に戻ると言っていたわよ」
「館に、ですか?」
「ええ、そう言っていたわ」
おかしい、と思った。なぜ祐巳さまは、それを祥子お姉さまに伝えて瞳子には伝えなかったのだろう。瞳子が生徒たちに囲まれていたからだろうか。いや、そもそもなぜ先に帰る必要がある? と思考を巡らせる瞳子に、祥子お姉さまが言葉を付け足した。
「あの子、何か悩んでいるようだったわ」
「悩んで……」
あれから祐巳さまは、表面上は何もなかったように振舞っている。
けれど、笑わなくなってしまった。瞳子には笑顔を見せなくなった。あの少女の事を思い出してしまうのであろう、瞳子に向けてくるのはいつも哀しそうに歪んだ表情だった。
その事に悩んでいたのか、それとも違う事を悩んでいたのかまでは瞳子にも分からない。祐巳さまの顔を見ていないので、本当に悩んでいたのかすら分からない。
しかし、
「尋ねても何も答えてはくれなかったのだけれど、そういう表情をしていたのよ」
祥子お姉さまがそう言うのであれば、祐巳さまは確かに何かに悩んでいたのだろう。二人は姉妹(スール)ではないけれど、どこかで通じ合っているようだった。それは、違う世界からやって来た者同士だからなのだろうか。それとも、別の世界の事ではあるが、お互いに水野蓉子さまという方を姉(スール)に持っていたからなのだろうか。
理由なんてないのだけれど、もしもこの世界に二人が生まれていたならば、祐巳さまと祥子お姉さまは姉妹(スール)になっていたのではないだろうか、という気がしてならない。勿論、その場合でも祐巳さまの妹(スール)は瞳子だ。
祐巳さまの事に関しては、祥子お姉さまにだって負けるつもりはない。
「行くの?」
「自分の妹(スール)が薔薇さまに選ばれたというのに、おめでとう、の一言もなく先に戻ったなんて文句の一つでも言ってやらなければ気が済みません」
「ふふっ、そうね。それが良いわね」
「はい。そういう事で申し訳ありませんが、これで失礼させていただきます」
祐巳さまの事が心配で心配で堪らない瞳子の心中なんて、お見通しなのだろう。微笑ましそうに頬を緩めている祥子お姉さまに頭を下げて、瞳子は薔薇の館へと向かって足を踏み出した。
*
「おめでとう、瞳子ちゃん」
静まり返った薔薇の館の二階にある会議室で、空いていた椅子に腰かけたまま祐巳は一人呟いた。
今は静寂が心地よかった。刺すような空気の冷たさが、ざわつく心を落ち着かせてくれた。今だけは一人きりになりたかった。
講堂で皆に囲まれて歓声を受けていた瞳子ちゃんが、祐巳には眩しく見えた。まるで、違う世界の人間のように思えた。
(……まるで、なんかじゃないよね。本当に違う世界の人間だもんね)
机に肘を立てると両腕を枕のようにして、そこに横向きに頭を乗せる。
(そろそろ潮時かな……)
瞳子ちゃんは、もう祐巳がいなくても大丈夫だろう。あの子には支えてくれる人がたくさんいる。化け物の自分なんかと一緒にいなくても良いはずだ。
それに、傍にいても祐巳では彼女を傷付ける事しかできない。だって、瞳子ちゃんに笑顔を見せてあげられない。あんなにも簡単だった、作った笑顔でさえ見せる事ができなくなってしまった。
どうしても、あの子の姿を瞳子ちゃんに見てしまうのだ。そして、その度に瞳子ちゃんを傷付けてしまう。瞳子ちゃんは気付いているのだろうか? あれから祐巳を見る時、いつも寂しそうな顔をしてる事に。
お互いに傷付け合うくらいなら、傍にいない方が良いのではないだろうか。
(私がいなければ瞳子ちゃんは立派な紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)になって、私の事なんて忘れて……それで……幸せになって……)
祐巳がいなくなれば、瞳子ちゃんにあんな顔をさせずに済むだろう。
それに――保健室で泣いた時、祐巳を包み込んでくれた瞳子ちゃんはとても優しくて温かかった。あんなにも優しい瞳子ちゃんと同一の存在を自分は殺した。あの少女も瞳子ちゃんと同じように優しかったのに、それなのに自分は殺した。
生きていく、とあの時に決めた。決めた以上、生きようと思う。でも、あの少女を殺してまで生き延びる価値が本当に自分にあったのだろうか、とも思ってしまう。
(『世界』は残酷で、とても厳しい、か)
神様の少女の言葉を思い出す。
世界はあんなにも優しい瞳子ちゃんを生んでくれた。そんな世界が、あんな酷い事をするなんて祐巳には信じられなかった。
あんな哀しい事をするなんて信じたくなかった。世界は優しい、と嘘でも良いから信じさせて欲しかった。けれど、祐巳の身に起こった現実やあの神様たちの現実では世界は優しくなんてなかった。自分の力ではどうする事もできない、哀しくて辛い現実しかそこにはなかった。
生きる、なんてずっと当たり前の事だと思っていた。何もしなくても生きていけるものだと思っていた。
けれど、違った。生きるためには代償を払わなければならなかった。あの子を殺す事でしか自分は生き延びる事ができなかった。自分のために、瞳子ちゃんと一緒に生きていくために、あの子を殺した。
けれど今は、瞳子ちゃんの顔を見るのが何よりも辛い。
「ふん、あの馬鹿の言った通りね」
「あら、馬鹿とは酷いわね」
「――っ!?」
突然背後から聞こえてきた声に驚き、祐巳は声なき叫び声を上げながら椅子から飛ぶように立ち上がった。そのせいで、座っていた椅子が音を立てて転がる。
「いっ、いくら何でも心臓に悪いわよ! 止まったらどうしてくれるのよ!?」
冗談ではなく、本当に止まるかと思ったのだ。胸に手を当ててみると、かなり動悸が激しい。
けれど、声の主はそんな祐巳の状態など知った事ではないらしい。
「あなた、ひょっとして一人でいるのが好きなの?」
と尋ねてくる。
大きなお世話だ、と思いながら祐巳は振り返った。
「お久しぶりね」
そこには、無表情で立っている口の悪い神様がいた。
*
薔薇の館へと足を進めながら瞳子は顔を顰めていた。
(ああもうっ、じれったい)
祐巳さまの事が心配で本当は走って向かいたいくらいなのだが、瞳子は薔薇さまになったのだ。皆の手本となるべき自分が、スカートを翻して走っている姿なんて見せるわけにはいかない。
しかし、そうやって逸る気持ちを抑え付けて歩いているせいで、考えたくもない事が勝手に頭に浮かんできてしまう。
それは、祐巳さまが瞳子に何も告げずに薔薇の館へ戻った理由だ。
何かしらの用事があって先に戻ったのであれば良い。瞳子に一言も告げなかった事には文句を言いたくなるかもしれないが、用事があったのなら仕方がないだろう。
何となく、そういう気分になって戻ったのであれば、それでも構わない。やはり文句の一つくらいは言いたくなると思うが、それくらいは許せる。
けれど、もしもこのまま瞳子の前から姿を消してしまうつもりなのであれば――。
(そんな馬鹿な事、絶対に許さないわ!)
自分と重なる所の多い人だから、祐巳さまを見ていれば大抵の事は分かる。
祐巳さまが笑顔を見せなくなった事で瞳子は傷付き、そして自分が瞳子を傷付けてしまっている事に祐巳さまは気付いている。
(でも、それがどうしたって言うのよ)
瞳子の足は、自然と速度を上げていた。
*
「何しに来たのよ?」
倒してしまった椅子を元通りに立ててそこに座り直した祐巳は、半眼になって突然現れた神様の少女に尋ねた。
「様子を見に来たの。あなたが泣いてやしないかと気になったから」
ケンカを売りに来た、と解釈して良いのだろうか。
「泣いてなんかないわよ」
祐巳が唇を尖らせると、やれやれ、とでも言いたげに少女は肩を竦めた。
「天地に響くようなとんでもない泣き声だったわ。私であれば恥ずかしくて、しばらくの間は人前に姿を出せないわね」
「……悪かったわね。天地に響くようなとんでもない泣き声で」
祐巳が睨み付けると少女は視線を落とし、そのまま頭を下げた。
「ごめんなさい。私たちのためにあなたを傷付けてしまって」
「なっ、何よいきなり」
傲慢で不遜なはずの少女にこんな風に謝られると、こちらの方が慌ててしまう。更には幼くも美しい外見も相まって純真無垢な少女に無理やり謝罪させているような錯覚まで起こし、罪悪感まで湧いてくるのだから始末に負えない。
「色々と言いたい事はあるけど……まあ、生き残れたんだからそれで良いわよ」
少女に頭を上げるように告げた後、祐巳はふと窓の外へと視線を向けた。そこからは曇った空と、以前祐巳が葉を吹き飛ばしてしまった裸の木々と、その木々から伸びた枝の向こうにある校舎が見える。
瞳子ちゃんは、今どこにいるのだろう。まだ講堂で皆に囲まれているのだろうか。それとも、祐巳の事が気になってこちらへ向かっている途中だろうか。
「今、幸せ?」
視線を部屋の中に戻すと、祐巳は表情のない少女の顔を見つめながら尋ねてみた。
それに対して、少女は全く躊躇わずに答える。
「ええ、幸せよ」
「無表情でそう言われてもね。どうせなら分かり易いように微笑むとか、そういう幸せそうな顔してよ」
「あなたに笑顔を見せて、私に何の得があると言うのかしら」
ああ、うん、この少女はこういう奴だった、と祐巳は溜息を吐いた。
「私の事はどうでもいいわ。それよりも、あなたはこれからどうするつもりなのかしら? あなたには世話になった事だし、望むならどこへでも連れて行ってあげるわよ。そもそも、あなたをこの世界に転移させたのは私なのだし」
「やっぱり、あなただったんだね」
「驚かないのね」
最初は桂さんだと思っていた。でも、精霊に愛されている祐巳の力を必要としていたのは目の前の少女だ。それならば、彼女が祐巳をこの世界に転移させたと考えるのが普通だろう。もっとも、その事に気付いたのはここ二、三日の事なのだけれど。
「また会ったらぶん殴ってやるつもりだったんだけど、今が幸せなら良いわ。それで水に流してあげる」
「優しいのね。ついでなので言っておくけれど、あなたに死んで欲しくない、という桂の想いは本物よ。あの子は、たとえどれだけ自分が恨まれようとあなたに生きていて欲しかった。幾つかの世界で端末を通してあなたを見ているうちに、絆されてしまったようね」
「そういう事ってあるの?」
「神様にも心はあるのだから、そういう事があってもおかしくはないわ。さて、それでどうするの? ここから去る? それとも残る?」
「……今は、残っても良いかなって思ってる」
答えて、少女の隣へと視線をずらした後、その視線を再び少女へと向けて祐巳は尋ねた。
「あなたには結末が分かっていたんじゃない?」
「どうしてそう思ったのかしら?」
表情を変えずに尋ね返してくる少女。
「志摩子さんをこの世界に飛ばしたのは、『世界』なんだよね?」
以前、桂さんがそう言っていたのを覚えている。
「そうよ」
「そのお陰で、あなたは私の事を見付けたんだよね?」
これは、目の前の少女が言っていた事だ。
祐巳がそこまで言った時、少女の表情に僅かに変化が見られた。口元が微かに笑っている。
「つまり、『世界』はあなたという存在を私に伝えるために藤堂志摩子をこの世界に転移させた、とでも言いたいのかしら?」
「違うの?」
つい先ほどまで無表情だったはずの少女は、それを見間違いだったと祐巳に思わせるほどの美しい笑顔をその顔に浮かべた。
「これも桂から聞いたと思うのだけれど、『世界』は私たち神様よりも上位の存在なのよ。そして私は、『世界』は残酷で、とても厳しい、と言ったわよね」
その笑顔に惹き込まれつつも、確かに言われた記憶があったので祐巳は無言で頷く。
「でも、母なの」
少女のその言葉で、祐巳は理解した。
「『世界』は私たちを生んでくれた母なのよ。それが、先ほどのあなたの質問に対する答えでは駄目かしら?」
そう言った後、神様の少女が自分の隣にいる「もう一人の少女」に向かって穏やかに微笑んだ。
「良いんじゃない?」
祐巳も、神様の少女が手を繋いでいる「もう一人の少女」に向かって微笑む。
「えっと。あのぅ、私が何か?」
その少女は、二人の祐巳に微笑まれて恥ずかしそうに頬を赤く染めていた。
*
(祐巳さまっ――祐巳さま祐巳さま祐巳さま祐巳さまっ! 嫌ですっ! お願いだから……お願いだから私を置いていかないでっ!)
確かに祐巳さまが傍にいなければ、瞳子がこれ以上傷付く事はないだろう。
それが分かっているから、あの人は瞳子の前から姿を消す。あの人は、それで瞳子が傷付く事が分かっていても、それが後に瞳子のためになるのであれば間違いなく実行する。そういう人だ。
けれど、
(それでは意味がないんですっ!)
祐巳さまが傍にいてくれないと意味がないのだ。
あの人のために生きる、と決めた。あの人の傍で生きていく、そう瞳子は決めた。
あの少女を殺したのは、祐巳さまだけではない。
だって、あの時に頷いた。もう一人の瞳子を殺すと祐巳さまが言った時、自分はそれに頷いた。
あの子の事は、確かに可哀相だとは思った。そうする事で救いになるのなら、とも思った。でも一番の理由は、自分が祐巳さまと一緒にいたいからだ。
奇麗事なんて言わない。
あの子と祐巳さまのどちらかを選べと言われたなら、間違いなく祐巳さまを選ぶ。何度同じ事を聞かれても、たとえそれが他の誰であろうと、その人を犠牲にしてでも自分は祐巳さまを選ぶ。
そして、瞳子は実際に選んだのだ。
*
「さてと、それではこれで帰るわね」
「え、もう?」
「私のいる世界は、私がいなければ色々と不都合が生じてしまうのよ」
本来、祐巳に会うための時間を割く余裕さえないそうだ。それでも無理に会いに来てくれたのを素直に喜ぶべきか、非常に悩む。
けれど、きっと良かったのだろう。幸せそうに手を繋いでいる二人を見て、祐巳はそう思う事にした。
「あ、ねえ、最後にもう一つ聞いておきたいんだけど」
それは、とてもとても大切な事だ。
しかし、
「もう滅ぼしに来たりはしないと思うわよ」
読まれていたらしく、尋ねる前に答えられた。
「そうなの?」
「世界は可能性に満ちていて、あなたの生まれ育った世界は滅びる可能性もあれば滅びない可能性もあった」
ずっと滅びるしかないと思っていたから、少女の言葉を聞いて少し驚いた。もっとも、可能性を量る事ができる天秤があったなら、滅びる方へ大幅に傾いていたと思うのだけれど。
「あなたの世界は滅びたけれど、あなたと藤堂志摩子はそれを跳ね除けて滅びを免れた。それが、結果なのよ。もしもあなたたちがこの世界の人間を大量虐殺でもすれば、もう一度滅びの対象となる事も可能だとは思うのだけれど、さすがにそんな事はやらないでしょう?」
当たり前だ。やるわけがない。
「でも……」
人ではないけれど、たくさん殺した。人だって、たくさん傷付けたのだ。そんな自分が滅びを免れても良いのだろうか。
「そうしなければ、あなたは殺されていた。そうしなければ、あなたは生き残れなかった。生きるという事は、本来それほど重い事なのよ。様々なものを犠牲にして、あなたたちは生きているの」
それに、と少女が続ける。
「私と、桂や可南子といった私の部下たちはあらゆる世界の様々な可能性を観察しているの。そして、私が一番嫌いな事は諦める事よ。だって、そうでしょう? 良い方向へと向かう可能性があるのに、自ら放棄しているのだもの。その点、あなたは諦めなかった。藤堂志摩子と共に生き残り、この子も救ってくれた」
神様の少女が愛しそうに隣にいる少女の頭を撫でて、撫でられた少女がくすぐったそうに目を細めた。
「自分で掴み取った命、大切にしなさい。それは決して、悔やむ事ではないはずよ」
「そうね」
「それと、ついでだから言っておくわ。悲しい時には無理に我慢なんてしたりしないで、素直に泣いても良いと思うわ。あなたには、あなたを支えてくれる大切な人がいるのでしょう?」
「それでも私は泣かないわ。それが私だもの」
「意地っ張りね」
「意地っ張りなのよ」
そう言ってやると、呆れたように少女が溜息を吐いた。隣の少女に、こんな馬鹿になっては駄目よ、なんて言っている。
「その子の事、大切にしなさいよ」
「あなたに言われなくても大切にするわ。なにしろ姉妹だもの」
胸を張って言う少女の言葉を聞いて、思わず吹き出しそうになった。
「それ、あの時の私の言葉じゃない?」
少女が悪戯っぽく唇の端を少しだけ歪める。
「あの時、あなたは最後まで言わなかったわ。だから、これは私の言葉よ」
「こうなるって分かっていれば、間違いなく言ってたわよ。でも、まあ良いわ。その言葉はあなたにあげる」
ありがたく頂いておくわね、と少女は笑った。
「では、これで本当にお別れね。それでは、ごきげんよう」
「あのっ、ごきげんよう」
ぺこり、と頭を下げてくるもう一人の少女に、思わず頭を撫でてやりたくなる衝動に駆られながら言ってやる。
「あなたの世界の私は怖いらしいけど、仲良くしてやってね」
「はいっ!」
瞳子ちゃんの面影を持つ笑顔で本当に嬉しそうに、少女が元気良く返事をした。
二人の神様が去り、再び静寂が訪れた部屋で祐巳はここに来た時と同じように椅子に座った。
この季節特有の冷たい空気の中、頬杖を突いて瞼を閉じる。
あの神様の瞳子ちゃんが、『世界』によって再び生み出されたのは確かだ。けれど、以前の記憶がないようだった。
果たして、新しく創られた別人なのか、それとも、以前の記憶がない同一人物なのか。どちらにせよ、祐巳があの少女を殺した事は紛れもない事実で、それが自分の中から消えるわけではない。
けれど、心に重く圧しかかっていたものが、ほんの少しだけ晴れたような気がする。
あの少女、今度は神様の祐巳の下で働くらしい。こき使われて泣かなきゃ良いんだけど、と少し心配だ。
ハッピーエンドには程遠いのだけれど、それでもギリギリの所でハッピーエンドになるのだろうか。
そんな事を考えて、一人苦笑いを零す。
(ハッピーエンドだなんて……)
祐巳は椅子に座ったまま大きく伸びをした。
(まだまだ、これからだよね)
らしくない。
らしくないよね。
いつまでも下を向いているなんて、私らしくない。
今こうやって生きているんだから、どうせなら未来へと目を向けよう。
そして未来へと目を向けるのなら、幸せになってやろう。
後悔する時もあるだろう。泣きたくなる事もあるだろう。
お姉さまの事。他人を傷付けた事。あの少女の事。忘れるわけではなく、全部背負って尚幸せになってやる。
生きて、生きて、誰よりも強く生き抜いてやる。
(それが、生きるって事じゃない?)
バチーン、と両手で自分の頬を叩く。
「よしっ!」
瞳子ちゃんの所に戻ろう。きっと、まだ講堂にいるはずだ。そして、会ったらまず「おめでとう」と言ってやろう。
そんな事を考えながら椅子から立ち上がろうとして、
「お姉さまっ!!」
「うわああぁぁぁぁああっ!?」
勢いよく開かれる扉の音と部屋に響いた大きな声に、祐巳はもの凄い勢いで飛び跳ねた。ガターン、と激しい音を立てて椅子が倒れる。
(こっ、今度こそ止まったかと思った……)
激しく鼓動する左胸に手を当てながら睨むようにそちらを見ると、そこでは扉を開けた瞳子ちゃんが肩で息をしていた。
「あのさ、心臓に悪いから扉を急に開いたり大声で叫んだりするのは――」
やめて欲しいんだけど、と言いかけて祐巳は口を噤んだ。瞳子ちゃんの目尻に、小さく光るものが見えたからだ。
「良か……った。良かった良かった良かった……」
「瞳子? いったいどうしたのよ」
良かった、を何度も繰り返し、両手で顔を覆って泣き始めた瞳子ちゃんに慌てて駆け寄る。
もしかして誰かに苛められたりしたのだろうか? 酷い事を言われた、とか? もしそうなら、二度と馬鹿な事を言えないようにしてやる。思い付く限りの痛め付け方を頭の中で繰り広げていると、瞳子ちゃんが嗚咽交じりに言ってきた。
「先に帰ったって聞いて……。お姉さまがどこかに行っちゃうんじゃないかって……」
「……馬鹿ね。そんな事で泣いてるの?」
どうやら、それだけでここまで急いで来たらしい。まったく――と呆れながら、できるだけ優しい声で言ってやる。
「私の居場所は、あなたのいる所。そう言ったじゃない」
瞳子ちゃんが頷く。
「それとも、私の事が信じられない?」
両手で顔を覆ったまま、瞳子ちゃんが首を振る。
「あなたとの約束、そんなにしてるわけじゃないけど全部守っているよね?」
もう一度、こくん、と瞳子ちゃんが頷いた。
「だよね。良い子、良い子」
瞳子ちゃんに手を伸ばすと彼女は顔を覆っていた手を下ろし、赤くなった目で祐巳を見上げてきた。
「ぁ……」
普段なら払い除けられていたのだろうけれど、今の瞳子ちゃんは大人しく祐巳にされるがままだった。
どこの世界でも自分と瞳子ちゃんの組み合わせは苦労してそうだなぁ、と頭を撫でてやりながら祐巳は思った。
*
「だよね。良い子、良い子」
そう言いながら頭を撫でる祐巳さまの手を、その姿を確認した事によって段々と冷静になってきた瞳子は急に恥ずかしくなり払い除けようとした。
でも、その顔を間近で捉えた瞬間、瞳子の上げかけた手は止まってしまった。
「ぁ……」
本人は気付いていないのかもしれないのだけれど、祐巳さまは微笑んでいた。それは、瞳子が今までに見た祐巳さまのどの笑顔よりも輝いて見えた。出会ってから初めて目にした笑顔だった。
作って見せていた笑顔と、それほど違いがあるわけではない。けれど、明らかに違った。
なぜ急に? そんな事、どうでもいい。どこかに行ってしまうかも? それも、もうどうでもいい。
気が付けば瞳子の不安なんて、どこかへ吹き飛んでしまっていた。
おそらくこれが、世界がおかしくなってしまう前に志摩子さまがいつも見ていたという祐巳さまの本当の笑顔だろう。
それは、春の日差しのように暖かで、晴れ空のように穏やかで、母親のような深い慈愛に満ちている。
そう感じられる笑顔が瞳子の前にあった。
*
祐巳が撫でていた手を下ろすと、瞳子ちゃんは熱に浮かされたようにその場でぽーっとしていた。
「ねえ、瞳子」
呼びかけると数度瞬きをした後、
「……え? あ、何でしょうか?」
名前を呼ばれた事に気が付いて慌てながら返事をしてくる。
そんな瞳子ちゃんに向かって、笑みを深めながら祐巳は言った。
「私ね、幸せになりたい」
その言葉に瞳子ちゃんが視線をあちこちへと彷徨わせる。
窓から天井へ、天井から机の上へ、机の上から床へ、そして床から再び窓へ。その動作をもう一度繰り返した後、瞳子ちゃんは再び祐巳へと視線を戻して「こほん」と咳払いをした。
「そうですね。それでは」
微かに頬を赤らめて。
僅かに瞳を潤ませて。
祐巳の顔を真っ直ぐに見て。
「私と一緒に幸せになりましょうか」
「いや、冗談だったんだけど。まさか本気で答えてくれるとは思わなかったわ」
「……」
祐巳の視線の先で、瞳子ちゃんの肩がプルプルと震えだした。
爆発寸前にしか見えないので、大爆発して文句を言われるより先に瞳子ちゃんを強く抱きしめる。
「やっ、離してっ!」
瞳子ちゃんが腕の中で暴れた。
「ごめん。本当はあなたの前から消えるつもりだった」
身を捩って逃れようとする瞳子ちゃんの耳元で囁くと、彼女が小さく肩を震わせた。
「でも、もう二度とそんな事は考えないよ」
腕の中で、瞳子ちゃんが目をいっぱいに見開いて祐巳を見上げてくる。
そういえば、まだ言った事なかったよね。
誤魔化してばかりで、意地っ張りで、捻くれ者の私にはなかなか伝える事ができないかもしれないけど……。
「一緒に幸せになろうね」
あなたの事、大好きなんだ。
「約束ですよ?」
可愛らしく少しだけ首を傾けながら、世界で一番大切な少女が言ってくる。
「うん、約束する」
頷いて祐巳がもう一度微笑むと、瞳子ちゃんも負けじと微笑んだ。
私の笑顔が彼女に力を与えるのなら、彼女の笑顔もまた私に生きる力を与えてくれる。
だからさ、
きっと、幸せになれるよ――。
お姉さまを失った時と同じ季節なのに、瞳子ちゃんが笑顔でいるからだろうか。
今は、ほんのりと暖かく感じられた。
『マリア様もお断り!?』シリーズ
これは『思春期未満お断り・完結編』とのクロスオーバーです。元ネタを知らなくても読めます。
多分に女の子同士の恋愛要素を含みますので、苦手だという方は回避して下さい。
【No:1923】→【No:1935】→これ
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
志摩子がM駅の改札口に着いた時ちょうど入れ違いになるように改札を通っていった親子が、何やら楽しそうに話している。
「――ママ、約束だよ。絶対…絶対だからねっ!」
「はいはい。明日の晩ご飯はグラタンね――」
微笑ましい会話に志摩子の顔も自然と優しくなる。
(約束…ね。祐巳は覚えているかしら?)
『志摩子!これからもずっと一緒にいようね。一緒に暮らして一緒にお婆ちゃんになって…ずっと、ずーっと!約束だよ?』
『ええ、約束。私たちはずっと一緒よ…』
「何ぼーっとしてるの?」
「きゃっ」
「志摩子?」
どうやら思い出に浸っているうちに祐巳が来ていたようだ。急に顔を覗き込まれて思わず悲鳴を上げてしまった。
「な、何でもないわ」
「?」
まだ心臓がドキドキ言ってる。
「変なの…まぁいいや。じゃあ行こう?」
「ええ」
差し出されたその手に志摩子は自分の手を重ねた。
夕日に照らされた祐巳の笑顔に、先ほどとは違う種類のドキドキが胸を駆け抜けていった。
***
「お邪魔します」
「はい、おいでやすぅ」
「あはっ」
祐巳の言葉と口調に志摩子は堪らず吹き出していた。つられて祐巳も吹き出す。そのまま二人、顔を見合わせて笑い続けた。
「…祐巳ったらおかしなこと言うんだから」
「だってさ。志摩子の可愛い笑顔が見たかったんだもん」
「…っ……もう…祐巳なんて知らないわ」
憎まれ口を言うその顔はほんの少し笑っていた。
玄関に靴を揃えて上がると祐巳は先に行っていたらしくキッチンの方から物音がする。
「ご家族の方はいらっしゃらないのよね?」
「うん。皆出掛けてるよ」
「そう…あ、手伝うわ」
「いいよ、もう終わるし。先に部屋行ってて?すぐ行くから」
「わかった」
勝手知ったる他人の家…とはよく言ったもので、もう何度も福沢家にお邪魔している志摩子は祐巳の案内なしでも部屋に行ける。
扉を開けて中に入るとなぜかベッドが目についた。
(………)
志摩子はじっとベッドを見つめる。だが祐巳が階段を上がってくる音に気付いて慌てて目を逸らした。
「お待たせ…ってあれ?何してるの?座ってればいいのに」
「あ…勝手に部屋に上がって勝手に座るのは、何だか祐巳に申し訳ない気がして」
簡単に意識が捕われてしまいそうになるベッドから無理矢理に視線を外す。
(こんなにベッドばかり見たりして…はしたないわね)
「申し訳ないって…今更じゃない」
あはは、と笑う祐巳に志摩子も不自然にならないよう笑い返した。
「はい。ミルクティーね」
「ありがとう」
カップを受け取って一口飲んでみる。そんな志摩子を見て祐巳も自分のカップに口を付けた。
「とってもおいしいわ」
「…それは良かった」
「「でも…いい加減座らない?」」
志摩子と祐巳。同じ言葉が同じ間で…正に異口同音、以心伝心だ。
「「………ぷっ」」
「あははっ…志摩子ってば」
「ふふっ…祐巳ったら」
そして、また…二人はぴったり重なった。
***
「――それにしても…何か久しぶりだね。こうやって二人で過ごすのって」
暫くの間妹たちの話や由乃のこと…そんな他愛もない雑談をしていたが、祐巳は唐突にそう言って改めて志摩子を見る。
「そうね。でもそれはお互いに忙しかったんだから仕方ないわ」
「…うん」
祐巳は何か感慨深げに目を細めた。
「私も色々とあったけれど…祐巳は特によね」
「うーごめんなさい…」
「ふふ……でも。やっと受験も終わったんだし、これからは二人で過ごせる時間なんてたくさんあるわ」
「…そっ…か。うん…そうだよね!」
一瞬、祐巳の顔が曇ったような気がした。しかし今は屈託ない笑顔を浮かべている。
(気のせい…かしら?)
「志摩子は大好きな銀杏並木とさよならせずに済んで嬉しいでしょう?」
「え?ええ」
祐巳は相変わらず笑顔を見せている。その笑顔を眺めているうちに、志摩子もさっきの曇り顔は気のせいだったのだと思い始めた。
「でも…祐巳ったら…今日も休みかと思っていたら急に来るんだもの。しかも私服で。びっくりしちゃったわ」
「………」
「それに会った途端に『うちに来ない?』って…私たちのこと、知っている人も知らない人も皆驚いていたわね」
「…決まっているでしょう?」
「え?」
ぼそっと呟いた祐巳が立ち上がったのを見て志摩子は首を傾げた。
「志摩子とこうしたかったからだよ」
「きゃあっ!」
――ドサッ
ベッドを意識しないよう努めていたはずなのに、無意識のうちに意識していたのか志摩子はベッドに腰を下ろしていた。それが仇となったようで祐巳が覆いかぶさってきて、そのままベッドに押し倒された。
「ゆ、祐巳!」
「んー志摩子ってふわふわだね」
祐巳にそっと抱きしめられる。まるで壊れ物に触れるかのように。
「志摩子…好きだよ」
「……っ」
耳元で囁かれて志摩子は大きく肩を震わせた。
「好き」
「ゆ…み…」
もう一度、今度は真っ直ぐに目を見て言われ…優しく口付けられた。
祐巳の柔らかい唇が志摩子を甘い世界へと誘(いざな)う。
その誘(さそ)いに乗ってふわふわと漂うように、口付けに酔っていると祐巳がタイに手をかけた。
「………っ!?」
唇を離すと絡み付くような熱っぽい瞳に見つめられる。
「ちょっ…ちょっと祐巳……ねぇ…待って!」
「…ダメ。待てない…」
その間にもタイはしゅるっと音を立てて解かれ胸元が露になる。
「で、でもっ!まだ心の準備が…っ」
「だいたい止まれって方が無理だよ…18歳の健康な女の子が一ヶ月もお預けだったんだし?」
「……本当に?」
志摩子のその言葉に祐巳の動きが止まった。
「あー何それ?まさか会えない間に私が浮気してたって?」
「そう…じゃないけれど。でもほら…祐巳ってモテるでしょう?例えば…」
そこでなぜか鮮明なビジョンが志摩子の脳裏に浮かんできた。
「…そう。あんな風に金髪で…胸も私より大きくて…抜けるように白くて綺麗な肌をしている……」
「私みたいナ?」
「「!?」」
突然、降って湧いてきた声と目の前にいる人物の姿に二人は文字通り跳び起きた。
「あ、あなたはっ…昨日のっ!」
志摩子たちの目の前に立っていた人物――それは昨日薔薇の館に来た、あの外国人女性だった。
慌てて服の乱れを直した志摩子は、珍しく動揺して声を荒げていた。
「…シンディ!」
(えっ!?)
「え、え?…な、何でここに…」
「迎えに来たノヨ。ユミを」
「か、鍵はどうしたの!?」
「…それは途中でユーキと会ったし?」
「祐麒っ!?」
「……は、はい」
祐巳に呼ばれておずおずと扉の陰から祐麒が出てくる。
「…シンディ!今は私に干渉しないでって…」
「祐巳っ!」
志摩子が叫ぶような形で祐巳の名前を呼んだ。
祐巳と女性――シンディが何やら話し出してから今の今まで、志摩子はただ呆然とやり取りを見ていることしかできなかった。祐麒が登場したことでやっと我に返ったのだ。
そしてシンディの存在が知らず志摩子に大声を出させていた。
「へ?…あ……し、志摩子?」
「…こちらはどなた?」
「こ、この人はっ!お父さんの…えーっと…建築の先生のお子さんなのっ!今はカナダから日本に来てて、うちの…そう!お客様ってやつかなっ」
「シンディ・ライアン…アナタより一つ上のナインティーンよ」
(…カナダ!)
「サ、ユミ!行きマショ。パパたちが話の続きがしたいってホテルで待ってるワ」
「ちょっとシンディ!離して…っ」
またもや志摩子を置き去りにして祐巳とシンディが言い合いを始める。
「No!パパには貴重なプライベートタイムなのヨ。アナタもわかってるデショ!」
「…っ!……わかった……志摩子…ごめん…また明日、いつもの時間にね…」
祐巳がとても苦しそうな顔で言う。そんな顔をされれば志摩子には強く引き止めることはできない。
「一ヶ月ブリのお楽しみのトコロ、残念ダッタワネ……シマコさん!」
(なっ…)
――バタン
「………」
二人がいなくなった部屋はとても静かだった。その中で祐麒が志摩子に躊躇いがちに声をかける。
「あの…バス停まで送ります」
「志摩子さん」
バス停までの道すがら、ずっと沈黙を守っていた祐麒が突然話しかけてきた。
「はい?」
「祐巳から何か聞いてます?」
「……いえ」
志摩子が答えると祐麒から溜息が漏れた。
「シンディ…ライアン家とは昔からの付き合いなんです」
志摩子は祐麒の言葉を邪魔せずじっと聴き入る。
「シンディの小父さん…ジョン・ライアンさんは父に建築の道を教えた人で…父にとっては師匠で兄貴で…そんな人らしいです。父が学生の頃から日本にいて家族同然の付き合いで、ジョンがカナダに戻った後もずっと」
祐麒は静かに話す。
「シンディと初めて会ったのは俺たちが小学生の時で…その時から俺たちには姉貴みたいな存在なんです」
ただ前を向いて。
「あいつもジョンも昔から強引な人だったけど、いい人でした。ただ…最近は…ジョンは少し人柄が変わってしまったみたいで…」
そこまで祐麒が言ったところで、大通り沿いのバス停に着いた。肝心のバスはあと2、3分で来るらしい。
「そう…だったんですか」
「…嫌な思いさせちゃってごめんね」
「祐麒さんが謝ることじゃないですから」
自分の非でもないのに頭を下げる祐麒に志摩子は微笑んで首を振る。
「シンディは…さっきはあんな感じだったけど、本当はいいやつなんです」
真剣な顔でそう言った祐麒に志摩子は小さく頷いた。
いつの間にか時間は経ったのか、角を曲がってバスが近付いて…そして二人の前に停車した。
「送って下さってありがとうございます」
「いえ…それじゃ、気をつけて」
「ええ。ごきげんよう」
バスが静かに発車する。
志摩子はM駅に着くまでの間ずっと窓の外を見ていた。
***
一台のタクシーが大通りを走っている。その中で言葉を交わすのは二人の少女――祐巳とシンディ。
「…一体どういうつもりなの?何で志摩子に…」
「興味あったノヨ。アナタの恋人がドンナ子か」
「………」
「アラ違った…恋人ダッタ子、ヨネ?」
シンディはクスクス笑いながら足を組み替える。
祐巳はその笑い声を辛そうな表情で聞いていたが、徐に鞄から小さな箱を取り出した。
蓋を開けて中の物に視線を落とす。
「シンディ」
パコッと音がして小箱の蓋は閉じられた。
「…今は私の好きにさせてほしいの…お願い。これは……これは私と志摩子の問題だから」
それ以上、祐巳は何も喋らずただ窓の外を見ていた。
街のネオンが次から次へと後ろに流れていく。きらきらと…まるで流れ星のように。
To be continued...
もちもちぽんぽんしりーず。
【No:1878】ー【No:1868】ー【No:1875】ー【No:1883】ー【No:1892】ー【No:1901】ー【No:1915】ー【No:1930】ー【No:1929】ーこれ
「由乃からロザリオ返されたことを報告しただけなんですけど。」
「えーーー!」
時計の針を少し巻き戻す。
新聞部に所属する『山口真美』は今日もリリアンかわら版の発行に追われていた。
とりあえず、まずすべきは目の前の人物を現実に戻すこと。
「美しいわ。このレイアウト、自分の才能が恐ろしい。」
ため息が出る。
この人の才能は認めるがこの癖だけはどうにかならないだろうか。
「お姉さま、さっさと現実の戻りませんと、明日までに刷り上りませんよ。」
陶酔する築山三奈子の目の前に、さっき刷り上ったばかりの試し刷りを突きつけた。
「わ、わかってるわよ。・・・せめて島津由乃の半分くらい。」
「何か言いました?」
ぼそぼそと何か言ったようだけど、今はそれどころじゃない。
なにせ締め切り前なのだ。
「あれ?」
席に戻ろうとすると、お姉さまが声を上げた。
「これ間違ってない?黄薔薇さまの趣味が編み物、好きな本が少女小説?」
確かに自分の中の黄薔薇さまのイメージと異なる。
「誰かと入れ替わってしまったんでしょうか?」
「ああ、たぶんこれよ。」
近づいた私に指でさして示した。
「島津由乃さんの趣味がスポーツ観戦、好きな本が剣客ものって書いてあるもの。」
「黄薔薇さまの好きな言葉は『まごころ』、由乃さんが『先手必勝』。」
なるほど、入れ替わってるとすれば納得できる。
「え?でも、見てください。」
話を聞いていた他の部員がアンケート用紙を掲げると、端をクリップで留められている。
それでは混ざるわけはない。
「たぶん、お二人が一緒に書いて、その時混じってしまったんじゃないかしら?」
「では、どうしましょう?」
私の問いにお姉さまは少し考えると
「一応確認しないといけないわね。真美は薔薇の館に行って。私は武道館に行くから。」
「はい。」
愛用のメモ帳とペンをつかむと、部屋を飛び出した。
同時刻
武嶋蔦子はカメラ片手にふらふらと歩いていた。
文化祭までは展示をするために、ある程度気をつけて撮っていたが、終わってしまったので適当に被写体を探していた。
女の子とか、女の子とか、女の子とか。
どこに行こうか考えていると、前方に見知った顔を見つけた。
「江利子さま。」
黄薔薇の蕾、鳥居江利子さま。・・・けど。
足取りがなぜか安定していない。
「ごきげんよう、どうかなさったんですか?」
「・・・別に、何も無いわ。それより何か用?」
軽くため息をつきながら、物憂げな姿が艶っぽい。
「いえ、単にお見かけしただけですから。」
「・・・そう、もう良いかしら。」
基本的に笑顔を振りまくこと無い方だが、今日はさらに無愛想。
気だるげと言うのがぴったりかもしれない。
何があったのだろうか?
好奇心がうずく。
「ええ、失礼しました。」
一応、別れようとすると
「ねぇ、あなた。」
「はい?」
踏み出そうとした状態で顔を向けた。
「川をね、ボートで流されていて、その先に大きな滝があるの。でも、滝を下りないと我が家に帰れないの。」
「えーと?」
何かの例え話なのだろうか?
「オールはあるのよ。どっちへ行けば良いと思う?」
話は続いているらしい。
「帰る方法がそれしかないんでしたら降りるしかないんじゃないですか?」
特に裏を読むことなく、普通に答える。
「そう、ありがとう。」
何を言うわけでもなく、そのまま歩いていってしまった。
「?」
一体なんだったのだろうか?
まぁ、何であろうと構わない。
少しその場に留まると、笑みを浮かべて江利子さまの後を追った。
「あら?」
蔦子と真美は同時に声をあげた。
「なんで蔦子さんがここに?」
「それはこっちも聞きたいけど、今はそれより。」
「そうね、それより。」
2人は今、薔薇の館の陰に隠れている。
目の前では、黄薔薇さまと江利子さまが話しをしている。
「〜〜〜〜〜。」
声が小さすぎてここまで聞こえない。
それでも、黄薔薇さまが江利子さまを問い詰めているよう。
ついには江利子さまの二の腕を掴んで壁に押し付ける。
おかげで、少し近づいた上に黄薔薇さまが激昂したおかげで声が大きくなった。
「『約束』したはずよ。」
「私は確かに約束を果たしたはずですが。」
「・・・・・・ロザリオを返して。私が由乃を妹にする。」
「それは出来ません。由乃にも、それはするな。と言われました。」
江利子さまの言葉に黄薔薇さまは掴んでいた手を離すと、ふらふらと歩き出した。
ちょっとした凹凸に足をとられると、そのままひざをついてそのまま横に寝てしまった。
江利子さまは歩み寄ると、周囲をぐるっと見渡した。
陰に隠れていた2人はあわてて顔を引っ込める。
「呼んでくるか。」
そう残して薔薇の館の中に入っていく。
「スクープよ。急がないと明日に間に合わない!」
真美はメモを片手に走り出した。
その姿は、淑女と言うよりは新聞記者で。
「やれやれ、真美さんったら。」
そうは言いながらも、倒れている黄薔薇さまの写真を撮る蔦子もやっぱり蔦子だった。
「令、令。」
肩を揺さぶられる振動に目を開くと、祥子をはじめとした面々が私を覗き込んでいた。
「あれ?私。」
何でこんなところに寝てるんだろう?
「貴女、江利子ちゃんから由乃ちゃんがロザリオを返したことを聞いてショックで倒れたのよ。」
ため息と一緒に出た言葉に、何があったか思い出す。
「江利子は?」
慌てて上半身を起こすと、祥子は小さく悲鳴を上げて尻餅をついた。
「帰ってもらったわ。」
スカートについた砂をはたく祥子の代わりに静かが教えてくれる。
「何で!?」
聞きたいことが山ほどあるのに。
「貴女がそんなだからよ。」
「・・・。」
何も言い返せない。
「祐巳ちゃん、先に上がってお茶入れ直してくれない?」
「あ、はい。」
「待って、私も行くわ。」
蓉子ちゃんと祐巳ちゃんが薔薇の館に向かって歩いていく。
いつか、祐巳ちゃんもロザリオを返したくなるんだろうか?
「黄薔薇さま。」
聖ちゃんが手を貸してくれた。
「ありがとう。」
立ち上がると、パラパラと砂が落ちる。
「令ったら、背中が砂まみれよ。ちゃんと落として入って頂戴。」
文句を言いながらも祥子と静が叩いてくれる。
「ごめん。」
それしか言えなかった。
2階に上がると、先に上がった2人が紅茶を配っていた。
「今、丁度入れ直し終わったところです。」
「ありがとう。令、これを飲んだらもう帰りなさい。」
蓉子ちゃんには笑顔で、私にはちょっと怒った顔で。
「えっ?でも、まだ仕事が・・・。」
たいした量ではないけど、まだ少し残ってるはず。
「そんな顔でいられたんじゃ、こっちが迷惑よ。」
ばっさりと。
それでも、どこか気を使っているのが感じられて。
「ごめん。」
素直にそうすることにした。
自分の席に戻ると、やりかけの書類をまとめて祥子に手渡す。
蓉子ちゃん、祐巳ちゃん、いつもならどっちが入れたか分かるのに、今はどちらか分からない。
「は〜。」
無意識にため息をついたことに気付く。
これは、確かにいるだけで迷惑になりそうだ。
さっさと居なくなろうと、まだ熱いのに出来る限り早く飲み干した。
帰ってまず向かったのは、自分の家じゃなくて隣の家。
「こんばんわ。」
しばらくしてパタパタとスリッパを鳴らして由乃のお母さんが出てきた。
「おかえり、令ちゃん。どうしたのかしら?鞄も置かずに。」
「いえ、今日は姿を見なかったので心配になりまして。」
嘘じゃない。
確かに姿は見ていない。
私の心配そうな言葉に叔母さんは嬉しそうな顔をした。
「これから言いに行くって、本人が言ってたんだけど。」
「はぁ。」
何があるか分からないけど、この表情からすると良い事のようだ。
「由乃の手術の日取りが決まったの。」
「え!?」
予想していなかった。・・・とまではいかないけど、まさか本人が突然言い出すなんて。
「い、何時ですか?」
「聞いてなかったの?」
私のあまりの驚きぶりに叔母さんは不思議そうな顔をした。
「はい。」
「私はてっきり・・・。」
「とりあえず、上がらせてもらっていいでしょうか?」
「ええ、由乃なら自分の部屋よ。・・・あら、いけない。」
火をかけっ放しだったのか、急いで台所に戻っていった。
いまさらながらだけど、今日は夕飯は由乃の好物の肉じゃがらしい。
「おかえり〜。」
私の顔を見た由乃の第一声がそれだった。
「おかえり〜、じゃなくて、手術が決まったって本当?」
「本当よ。」
言うと、自分の周囲を示した。
「明日から入院。」
「明日!?」
入ってきてから由乃しか見ていなかったけど、改めて見ると大きな鞄に着替えやら小物を詰めていた。
「何で急に?」
由乃の前に座り込むと、由乃もこちらを向いて座りなおした。
「だって、昨日決まったんだもん。」
「そういう意味じゃなくて。」
畳んでいたパジャマを隣に置くと、ため息をついた。
「令ちゃんは、駄目だって言うの?」
まっすぐに私の目を見て。
「・・・そういう訳じゃないけど。」
相談くらい・・・。
私は目をそらして、由乃の視線から逃げた。
「令ちゃんもう卒業でしょう。その前に、手術をしたかったのよ。」
「・・・じゃあ、何でロザリオを返したの?」
本来ここに来た目的はそれを聞くため。
「それは、もう一度考えたかったから。」
横に置いたパジャマを取って、また折りたたみ始めた。
「考える?」
「そうよ。『約束』で姉妹になったけど、私にそれが相応しいか考えたいの。」
「でも、何も返すことは・・・。」
「丁度良い機会だから、リセットしたかったの。」
「・・・でも。」
「令ちゃん。
・・・解って。」
もう何も言えない。
そう言われてしまっては
「うん。」
そう言うしかないじゃない。
「多分、2週間はかからないと思うから、会いに来ないで。」
「そんな!?」
「ほんの一寸の間だから。」
宥めるような口調で。
これじゃ、どっちが年上か分からない。
「うん、ごめん。」
続ける会話も無く、私は部屋を出て行く。
帰り際、叔母さんから多く作ったと言う肉じゃがをもらった。
確かうちの味付けより甘めだったような気がする。
今、薔薇の館の中に居るのは水野蓉子と佐藤聖だけだった。
黄薔薇ファミリーで騒動があって、明けて次の日。
朝から号外が配られた。
―――黄薔薇革命―――
そう銘うった一連のあらすじが推測交じりで書かれている。
曰く、私が居るせいでお姉さま方がギクシャクしてしまった。
強く責任を感じた由乃ちゃんは、二人の仲が戻ることを祈って泣く泣く身を引いた。
・・・感想としては、うまく書けた小説。
すべて「〜であるようだ。」とか「〜と思われる。」なのに、全体で見ると由乃ちゃんの心境まで書かれていて、これを書いた人は良い小説家になれそうだ。
おかげで、朝から視線が感じられて仕方ない。
薔薇さま方は全員聞き辛いし、志摩子ちゃんもそう。
江利子は何時にもましてアンニュイで。
「祐巳ちゃんは大丈夫かしら?」
お弁当を食べながら、ふと思った。
「そんな心配なら連れて来れば良かったのに。」
隣では、聖がマスタード・タラモサラダ・サンドをほおばっている。
「もう山百合会の一員なのよ。そんなことは出来ないわ。」
「蓉子らしい。」
どこか笑っているような言葉だけど、当たってる。
「これから色々起こるかもしれないわね。」
「多分ね、でも私たちはスーパーマンじゃない。」
「解ってるわ。何も出来ないわ。」
俵型のおにぎりを転がした。
「でも、何があっても自業自得でしょう。」
「・・・そうね。」
最後の一口を食べながら、吐き出すような言葉を否定する力を私は持たない。
そして、黄薔薇さまがおそらく無意識下でこぼしたであろう。
「・・・『約束』したのに。」
『約束』という言葉は、まだ彼女を縛っている。
支倉令は、食事を終えるとふらふらと歩き回っていた。
本当なら学校にも来ず、病室で由乃の傍に居たい。
でも、「来ないで。」と言われた。
見上げれば秋晴れの空。
あの時の由乃を思い出す。
まっすぐな瞳。
小さいころから一緒だった。
いつかこんな日が来るとは思ってた。
何時までも一緒に居ることは出来ない。
それでも
寂しいって思うのは
私の我侭なんだろうか。
はい。騒動起こしました。?白薔薇なんとかしないとなぁ。その前にテスト勉強頑張らないとな。笑(オキ)
最近体力が落ちてます。テストは良いんですが、テスト勉強がいつの間にか酒飲みながら徹麻になるのがきついなぁ。(ハル)
もちもちぽんぽんしりーず。超外伝。
【No:1868】の激裏話。
「はい。」
沈黙
「はい、OKでーす。」
「恵美さーーーん、この後何かあります?」
カーテンによって仕切られた控え室に首だけ突っ込んで聞いてみる。
「何も無いわよ。」
苦笑いを浮かべていた。
心の中でガッツポーズ。
「飲みに行きましょう。」
「収録中ちらちら見ていたのはそれ?」
腰に手を当てて、ちょっと呆れている御様子。
「・・・はい。」
子供っぽいのは分かってる。
でも、「仕方ないじゃない!!」と言えるほど子供でもない。
「駄目でしょ、仕事中はきちんとしないと。」
私の方に歩いてくると、頭をぐしゃぐしゃされた。
頭だけ出してるものだから、無抵抗でぐしゃぐしゃ。
「あー、せっかく直してきたのに。」
天然パーマだから、アイロン使って真っ直ぐにしてきたのに。
「まぁ、私も期待してたんだけどね。」
「え?」
ぐしゃぐしゃする手から逃れた直後に聞こえた声に恵美さんの顔を見た。
「次から利奈ちゃんとか麻美子ちゃん来るし、しばらく一緒って無いじゃない。
それに今日なら2人っきりだしね。」
「はい。」
あんまりに嬉しいせいか、言い終わる前に返事をしてしまった。
しかも、首まで振って。
「くすくす。髪を直したら行きましょう。佳奈ちゃん。」
あんまりにも笑うものだからささやかな嫌味。
「うー、恵美さんがやったのに〜。」
私の言葉に少し考えると。
「確かにそうね。じゃあ、持ってきてくれたら私がやってあげる。」
「本当ですか?」
声が2オクターブくらい上がった気がする。
「ええ。すぐ持ってきたらやってあげる。」
まるでいたずらっ子のような笑顔で。
「はい。」
私は小走りで、出来る限り早く自分の鞄に向かった。
私はまるでボールを投げられた犬のようだったと、後日その場に居たスタッフに言われてみたり。
完全に趣味です。連載が10に届いたので。遊び半分で。また、気が向いたらやりたいな。っていうか、向くと思います。笑(オキ)
ねーずみーの世界を作った会社じゃないので、これくらいは大丈夫だとは思いますが。(ハル)
久々の投稿は未使用キー限定タイトル1発決めキャンペーン第5弾です
分かる人には分かるネタがちらほらと。。(笑)
☆
トゥルルルル トゥルルルル
休日の支倉家に電話の音が鳴り響く。
試験勉強を行っていた令は、電話は家族に任せて勉強に打ち込んでいたのだが。
「令ー、鳥居さんから電話ー」
そう言われては手を止めないわけにはいかなかった。
1.祥子
「……で、何か面白い料理はないかってことなんだけど」
お姉さまからの電話はシンプルな内容だった。要するに普通の料理に飽きたから何か面白いレシピを教えて欲しいとのこと。お姉さまらしいといえばらしいけれど、料理が得意な令にもそれは少し難しい課題だった。
「悪いけど、私は普通の料理しか作れないわ」
「まあそうだろうね」
親友の返答はあっさりしたものだった。でも祥子にそういった方向で意外性を求めるのは難しい。もちろん令もそれは承知の上、狙いは祥子本人ではなかった。
「清子小母さまは? こう言ったら失礼かもしれないけど小母さまなら何かあるかもって思ったんだけど」
「別に失礼とか言う仲でもないでしょうに」
「でも、親しき仲にも礼儀ありって言うじゃない」
「それもそうね。でも残念ながら物はまともなのよね。過程や量はとんでもない事が多いけれど」
「そっか、ありがと」
「力になれなくてごめんなさい」
「気にしなくていいよ。それに変な料理を作れる人がごろごろ居たら大変だし」
「それもそうね」
ふふっと微笑んで仕事に戻る親友を横目に、令は次の人に話を振るのだった。
2.志摩子
「志摩子は何かない?」
「そうですね……面白いかどうかはわかりませんけれど、精進料理なんかでは野菜などで肉に見立てた物を作ったりはしますね」
「なるほど」
次に令は志摩子に声をかけた。祥子同様あまり変な物は作りそうになかったのだけれど、そこはお寺の娘だからか和食方面で使えそうな知識を幾つか教えてもらう事が出来た。ただ、訊くのはそこで止めておいた方がよかったかもしれない。
「参考になったよ。ありがとう、志摩子」
「いえ。あと、ちょっと作ってみたいなって思っている物もあるんですけど」
「へぇ、どんなの?」
「たこ焼き風銀杏とか、梅干し風銀杏とか、毬藻風銀杏とか……」
「ごめん志摩子、それくらいでいいわ」
「そうですか……」
少し残念そうな顔をする志摩子だったけれど、さすがに銀杏フルコースをお姉さまに提案する気にはなれなかった。気を取り直して仕事に戻った志摩子を横目に、令は次の人に話を振るのだった。
3.祐巳
「祐巳ちゃんは何か知らない?」
「そうですねー……」
次に令は祐巳ちゃんに声をかけた。祥子や志摩子と違って案外変わったものを作っているかもしれないし、そうでなくても一般家庭にはその家独自の料理があったりするので少しは期待できそうだ。
「あ、そういえば」
「なになに?」
「前に刻んだニンニクとショウガを同じ皿に入れて冷蔵庫に入れちゃった事があるんですけど、次の日出してみたらエメラルドグリーンになってました」
「へぇ」
「味は特に問題なかったんですけどあれには少し驚きましたね」
「そうなんだ」
それは知らなかった。料理上手な令はその手の失敗をする事が少ないのでこういったエピソードは持っていない。ある意味祐巳ちゃんならではのレシピと言えるかも知れない。他にも炊くのに失敗した(炊飯と保温を押し間違えたらしい)ご飯をお好み焼き風やかき揚げ風に料理する方法や白身魚の唐揚げ粉ムニエルとかも教えてもらう事が出来た。このあたりは庶民ならではの知恵というか、祐巳ちゃんなにげに料理上手だったりするのかもしれない。ただ失敗したご飯のレシピは出来ればやる機会がない事を祈りたい。手間がかかる上に後片づけも大変らしいから。
「ありがとう祐巳ちゃん」
「いえいえ。あっ、味を気にしないのならもう1つあるんですけど」
味を気にしないなら……お姉さまならありかもしれない。
「一応教えてくれる?」
「はい。えっと、ホットミルクの苺牛乳割りです」
言われて想像してみたけれど、かなり微妙な気がする。祐巳ちゃんはそんなことをしてみた事があるのだろうか? でもそれはあまり気にする事ではないだろうと、もう一度簡単にお礼を言ってから令は次の人に話を振るのだった。
4.乃梨子
「乃梨子ちゃんはどう?」
最後に令は乃梨子ちゃんに声をかけた。乃梨子ちゃんも祐巳ちゃんと同じ庶民派な上に、仏像鑑賞で色々なところに行ってもいるから実は一番の期待株だったりする。
「そうですね、色々ありますよー」
乃梨子ちゃんは待ってましたとばかりに色々なレシピを教えてくれた。各地の少し変わった名産から闇鍋で出てきた変な料理、旅先で偶然やっていたおかず風スイーツからインターネットで見つけたものや某喫茶店の甘味麺に辛味氷などなど。祐巳ちゃんの時に味を気にしなくても良いと言ってしまったから結構変な味のものも混ざってそうだけど。
「色々知ってるね」
「まあ、あちこち行ったりしてますから。ああそれと、見た目や味は普通ですが名前が面白いものも幾つか」
それは令にとって盲点だった。確かにお姉さまは面白い料理としか言ってないわけだから、名前が面白いというのもありかもしれない。
「へぇ。どんなのがあるの?」
「まず、偽たらスパ」
「偽?」
「ええ、正確に言えば糸こんにゃくのタラコ和えですから」
確かに糸こんにゃくをスパゲティと見立てればたらこスパゲティと言えなくもない。乃梨子ちゃん曰く、この偽スパ系は麺と具材の組み合わせが非常に多いらしい。
「次に、豚肉の黒こげ」
「は?」
名前だけ聞くとなんかまずそうだ。周りを見渡すといい感じに仕事は片づいていて、聞き耳を立てていた面々が少し引いている。乃梨子ちゃんは名前だけと言っていたから普通の料理の事なんだろうけれど、考えてみても何か分からないのは令以外も同じらしい。
「えーと、それは何なのかな」
「豚肉の黒胡椒揚げの略です」
「変な略し方しないでよ……」
乃梨子ちゃんの答えに由乃がツッコミを入れた。でも、インパクトはかなりあると思う。
「あとは、伝説のうなぎどんぶりと伝説のうにどんぶりですね」
「伝説の?」
これには祐巳ちゃんが反応した。確かに名前だけ聞くとかなり凄そうだけれど、今までのパターンから考えてそのままという事は有り得ない。
「その心は?」
由乃、それじゃ落語だよ。心の中で思わずつっこんだけれど、乃梨子ちゃんの答えは思わず吹き出してしまうものだった。
「まず、うなぎのほうですけど……」
一同が頷くのを見てから乃梨子ちゃんは続けた。
「うなぎが乗ってないうなぎどんぶりです」
これにまず2年生3人が。
「そしてうにのほうですけど、栗ご飯です」
そしてこれに3年生2人が、文字通り紅茶を吹いた。
乃梨子ちゃんの話によれば、これが伝説と表される理由はいずれもある伝説の少女にまつわる話だからだそうだ。その少女は貧しくて不幸で優しい人物で、うなぎのほうはある時おごってもらったうな丼を上司の頼みで半分譲った時に「上半分」を食べられた事から。うにのほうはとある高級丼物専門店で出されたうに丼に「これはうにじゃない」と言って栗ご飯を出させた事に由来するらしい(ちなみにこの時の栗ご飯は「LV7うに(byエリアト)」を使用していたのである意味本当に伝説のうにどんぶりかもしれない)。
とにかく、色々教えてくれた乃梨子ちゃんにお礼を言って令は話を切り上げることにした。もっとも、ずっと炊いておいた緑色のご飯だけは絶対にやらないと思うけれど(というかそれは腐っているだけ)。
5.由乃
「お姉さまは甘いわ」
切り上げるつもりだった話を何故か由乃が引き継いだ。
「あの江利子さまがそれくらいで納得するわけないじゃないですか」
それくらいって、かなり色々出た気がするけれど。まだ何か出ていない物があるのだろうか?
「由乃、何かあるの?」
由乃は元々余り料理をしないし、家も隣同士で基本的に仲がいいから令が知らない料理を由乃が知っているのか疑問だったが、反面自分も知らなかった一面を知る事が出来るかもしれないと思い直してとりあえず訊いてみることにした。
直後、令は訊いたことを思い切り後悔することになる。なぜなら……
「江利子さまでも手を出していないだろう料理。それは、げてものよっ」
由乃の解答はあまりに予想外かつ自分が苦手な物だったのだ。
「祐巳、帰るわよ」
「は、はい、お姉さま」
この解答に、紅薔薇姉妹は即座に逃げ出した。
「あら、由乃さまもそちらに興味がおありなんですか?」
そして逆に食いついてきたのは乃梨子ちゃん。
「蛙の唐揚げって……」
「ヤモリの……」
「そう言えばネズミって……」
「カマキリとかは……」
そのまま熱い議論を始めた2人に、乃梨子の予想外の行動で逃げ遅れた志摩子と話を振った立場上逃げられない令は揃って小さくため息をついたのだった。
後日、由乃がお姉さまからげてもの料理店に誘われて一緒に行くのを断ったらぶっ飛ばされたのはまた別のお話。
(おまけ)
拝啓
志摩子さん、お元気かしら? この前の薔薇の館の騒動、楽しく読ませて貰ったわ。そうそう、イタリアでもこの前ヴェネツィアで創作料理コンテストがあって水路風の水色スパゲティとかゴンドラチーズケーキなんてのがあったわ。創作料理も結構奥が深いようね。面白そうなのはレシピを書いて送るからもしよかったら作ってみるといいわ。但し味は保証しないけどね。
皆さん元気そうで何よりね。来年度も白薔薇さまをやるらしいけれど、志摩子さんなら大丈夫よ。そうそう、この前フィレンツェのお店に聖さまっぽいインコが居たのだけれど聖さまって最近イタリア旅行したのかしら? もし何か知っていたら教えてね。
もちろん私は元気よ。大学受験もあるから少し大変だけど、塾の先生も大丈夫って言って下さっているから次の手紙ではきっと合格の報告が出来ると思うわ。楽しみにしていてね。
それでは。まだまだ寒い日が続きますがお体おいとい下さい。
蟹名 静
※完全オリジナルです。
高梨 優介(たかなし ゆうすけ)が幼馴染の一人である三木 美香(みき みか)への恋心に気が付いたのは、あろうことか当日彼が彼女の正面に立った正にその瞬間だった。
それはもう皮肉や数奇な運命などという次元の話ではない、笑い話の領域だ。
しかし笑えればまだ多少は気も楽になれようにも、彼と彼女の立ち位置・関係が愛らしいまでに滑稽過ぎて笑えない。
精々彼の口元を微かに歪めさせたくらいで、当然、誰もそんな彼の小さな所作には気付かない。
苦笑よりも更に小さく彼は安堵の息を吐いた。
恋の成立に関して、大衆は「落雷のような衝撃を受ける」だの「強い何かを感じる」だのいう。
しかし生憎と、その際の優介はそんなものは微塵も感じなかった。
ただ漫然と、ごく漠然と。
ああ。
俺、美香が好きだ。
ああ、ああ。
すげー、好きだ。
と胸中で感じただけで、それは心に染み入るように静かに、そしてスムーズに彼の中へと溶け込んだ。
好きだ。堪らなく彼女が好きだ。
極々シンプルで原始的なその感情は、彼の中に根付くが早いか蕩けるような温かみを発し始める。
目を伏せてその想いに浸れば、自覚したばかりの恋はいよいよ彼の頬を火照らせ胸の鼓動を高めてくれた。
足が微かに震える。いつの間にか緊張していた。
それもその筈、何故なら彼は今、恋をしている相手の正面に立っているのだ。それで平静に居られるわけがない。
興奮と緊張と、あとそれ以外の浮き足立つ感情の諸々は際限なく高まってゆく。
目を開けて、抱き締めて、甘い永遠を約束できればどれだけ幸せなことだろう。
微笑まれて、手を取られ、遠い未来を展望できればどれだけ安らぐことだろう。
そんな、妄想かも知れない願望に引き摺られるようにして伏せていた彼の瞼が持ち上がる。
眩い光に世界が瞬き、美香は変わらずそこに居た。
はにかんだ、彼女独特の笑顔を浮かべて。
美香はいつものように、そこに居た。
〜〜〜
はにかんだ、彼女独特の笑顔を浮かべて。
美香はいつものように、そこに居た。
「な、何でここにいるんだよ」
それがあんまりにも唐突で、思い掛けなくて、優介は口篭りながらも彼女に抗議する。
聞いていなかった、彼女がここに来ることなんて知らなかった。
見られて恥ずかしい姿だとは思わないが、誰かに見られたい姿だとも思わなかった。
幼き子供のそんな些細な矜持に突き動かされるようにして、立ち上がった優介は慌てて泥と土塗れの制服を叩く。
けれども大乱闘を演じたお陰でズタボロだった制服は、そんな簡単には整ってくれたりしない。
美香の優しい視線に晒されているお陰で覚束ない手付きの優介によるのだから尚更だ。
わたわたと傍目にも判りやすく狼狽する彼に、美香はやがて言った。
「ゆ−すけ、だっせー」
微笑んで、端的に投げられたそんな気安い雑言に、優介は顔を紅く染める。
うるせい、と返した言葉にも力が篭らなかった。
高梨 優介八歳。
小学三年生、夏のことだった。
発端は些細なことだ――昼休みの運動場、ドッヂボールをしていた優介ら三組の領域を隣の四組の連中が侵犯した。正確には、遠くで高鬼(たかおに。地面より少しでも高いところに居ると鬼にタッチされない)をしていた者達がエキサイティングしすぎた結果、優介らの陣地に雪崩れ込んできたのだった。
雪崩れ込んでただけならまだ良かったのかも知れないが、それは運悪く優介が敵陣目掛けて渾身の一球を放った丁度のタイミングで、投げた必殺球は見事四組一のスポーツマンであった藤田 誠(ふじた まこと)の顔面を直撃した。
助走までつけて投げた必殺の一投、優介の目にはボールの纏うオーラすら見ることが出来た。
その割には速度が微妙だったその玉は誠の顔面にぶち当たって軽く跳ね上がり、誰しもが呆然とした一瞬の浮遊時間を持った後、てーん、てんてん……とパンパンに空気の詰まったボールらしい音を響かせて退場する。
後に残されたのはフォロースルーをしっかり取って固まる優介と、仰け反るように上向いた姿勢のまま硬化した誠。それに三組四組のその他諸々の姿。所謂モブというやつだ。
ひゅうと小さく吹いた風がどこからか空しさを運んでくる。
「顔面だからセーフだ。アウトじゃないね」
フォローに困った優介はここぞとばかりに渾身のギャグを放ったが、勿論そんな論理は通じる訳もなく。
瞬く間に烈火の如く怒った誠は、「ってーじゃねーかーっ!」と絶叫するが早いか優介に掴み掛かった。
初めは「ご、ゴメンって! ゴメンってば!」と殊勝な態度を見せていた優介も、揺さぶられ罵倒され殴られる内にキレ、「そっちが勝手に入ってきたんだろ!」と遂に握り締めた拳を彼の胸に見舞う。それで本当に収拾が付かなくなった。
両軍入り乱れての乱闘にこそならなかったが、逆に優介と誠の取っ組み合いを止める者も居らず、彼らは五分以上も砂埃を上げながら地面を転がりあった。
殴ったり殴られたり、転がったり揺さぶられたりして体は痛くて仕方がない。
それに体の奥底で爆発している怒りだか苦痛だかが入り混じった激情が辛くて、持て余して、気を抜けばその瞬間にも優介は泣いてしまいそうだった。
でも泣かない。泣かない。泣かないったら泣かない。
顔を真っ赤にして圧し掛かってくる誠を押し退けながら、優介はひたすら心の中でそう念じていた。
「このっ! くそっ!」
「でぇ! あぁっ!」
罵る気力も語録も尽きて、口をついて出るのはそんな気合の声ばかり。聞こえてくる声のどっちがどっちの声なのだか、殴りあう二人にこそ判らなくなって。何故に二人してごろごろ目を回しながら相手の服を掴んでいるのかも忘れてしまって。
ただただ、そうするしかないように。
ただただ、優介は拳を振るった。
ただただ、誠は制服を捻り上げた。
優介は勿論、恐らくは誠にとってすらも不幸だったのは。
誠には兄が居たことだった。しかも同じ小学校に通う六年生。児童ヒエラルキーの最上位に位置する存在である。
名は宗司(そうじ)といった。
彼もまた誠同様、昼休みは級友を誘ってドッヂボールやら缶蹴りに明け暮れる元気印であり、その日も優介らの領地を挟んで誠らとは反対方向の位置で三角ベースに興じていた。
校内の揉め事は許さんといった風の正義感に突き動かされたというより、単なる野次馬根性の発露であったが兎も角として、宗司はやおらその場に現れた。ご丁寧に三角ベースの両軍を引き連れての正に”推参”である。
丁度誠に対して馬乗り体制で拳を振り下ろしていた優介が再び固まる。不利なマウントポジションからの脱却を必死で目論んでいた誠もまた、ぴたりと動きを止めた。
「てめー、誠に何やってんだー!」
そうして上がる鬨の声。兄の絶叫。
勝負は正に一瞬でついた。
小学三年と六年では、どう足掻いても前者は後者に勝てないようになっている。
そこには体格差であったり体重差であったり、胆力やら人生経験等々の様々な理由が関連しているのだろうが、そんな小難しいことを考えるまでもなく「三年生は六年生に勝てないようになっている」。そう納得してしまうのが手っ取り早く、また、大勢的な事実である。
優介も勿論それに習った。
一対一でも話にならないというのに相手は六年生の集団、全員が具体的に参戦した訳ではないとはいえ、脇に存在しているだけでも三年生からしてみれば非常なプレッシャーを受けることになる。足が竦み、腰が引け、圧し掛かったまま振り上げた拳を下ろすことも出来ず、優介は飛来した宗司の跳び蹴りによって2mも吹っ飛んだ。
ずしゃっと砂煙を上げて転がる優介。蹴られた痛みと地を擦った痛みが二重で押し寄せ、それで限界を迎えていた涙の堤防が遂に破れる。ぼろぼろぼろぼろと大粒の涙が頬を転がっていく、誠とどれだけ殴り合っても零れなかった涙が、それまでの分を取り返すかのように溢れてくる。
悔しかった。
蹴り飛ばされたことより、体中が痛むことより、訳も判らず涙が零れたこと自体が何より悔しかった。
優介は泣きたくなかったのだ。それは喧嘩相手に泣き顔を見られるのが恥ずかしいとか、喧嘩に負けることが嫌だとかそんなことではなくて、単に、優介は泣きたくなかったのだ。
誠との意地の張り合い、拳を振り合った中で自分へ課した決まりごと。泣かない。それが破られたことにこそ、優介は恥じ入った。悔しがった。それがまた涙を生んだ。
ぐいっと涙を拭って立ち上がる。
気付けば、優介を除いて三年三組の仲間はその場から居なくなっていた、先生を呼びに行ったのだろう。それが誠と殴り合っていた間からなのか、宗司らがやってきてからなのかは判らない。クラスでは優介と一番仲の良かった辰野 氷一(たつの ひょういち)の姿もなかった。
でもそんなことはもう、どうでも良かった。
「うあああっ!!」
そうして叫んだ優介は己が激情に背中を押されるまま、誠を引き起こしていた宗司へと突進したのだった。
優介は勿論再び地面に転がされた、三度地面を這わされた。四度土を舐めて立ち上がったその時には、しかし、宗司らは彼に背を向けて走り出していた。それは勿論撤退などではない、ただの放置だ。もう構っていられない、面倒臭いから捨てておけ。それだけだ。
雀の涙ほども残っていなかった優介の体力では彼らを追いかけることなど叶わず、獣のような荒い息を吐きながらそれを見送る。
そうして彼らがただの一度も振り返ることなく校舎に消えていくのを見届けた優介は、くず折れるようにその場に座り込んだのだった。
一人、体の節々が上げる悲鳴と擦り傷切り傷の上げる苦悶の声に耳を傾けながら、蹲った優介は鼻をすする。ボロボロだった。肉体的にも精神的にも、ボロボロだった。
元々宗司らが介入してきた段階で対等な喧嘩ではなくなったし、そもそもの非は優介にある。全面的なそれではないにしろ、被害者面ができるほど軽いものでもない。悪いのは――彼だ。事故とはいえ。
しかしながら、かといってそれで受けた苦痛と侮辱に納得できるほど小学三年の精神などというものは発達していない。転がされたことも蹴られたことも、そもそも投げたボールが誠にぶつかったことすら理不尽なことだ。ありえない。
勿論そんな論理は彼の中だけで生滅するより理不尽なものだが、それでも彼に取っては唯一の真実。自分は被害者で、誠と宗司が加害者に他ならなかった。
そんな暗く深い憎悪の念を胸中でゆらゆらと燃やしながら、三角座りの体勢のまま爪先で地面を抉っていた頃。
彼女は唐突に現れた。
現れたタイミングを、方向を、優介は知らない。
だたその時、彼がそろそろに昼休み終了のチャイムなどが気になり始めて我に返ったその時、彼女、三木 美香はそこに居たのだ。
いつもと変わらぬ筈の彼女の笑顔、けれどその時の優介には何故だかそれが輝いているようにすら見え、体の痛みを寸時忘れる。半月ほど前の道徳で習った「笑顔には力がある」ということの意味が、少しだけ判った気がした。
「な、何でここにいるんだよ」
しかしそんな感慨は即座に襲い来た羞恥と行き場のない怒りに取って代わられ、優介は立ち上がりながら彼女に抗議する。そうして涙を拭い、何度も拭い、力強く服を叩いたお陰で体の痛みがぶり返した。
今まで、優介は美香と色んなことをして遊んできた。格好良いところを見せてきたし、みっともないところを見せてきた。また、可愛いところを見てきたし、可愛くないところも見てきた。お互い、後者の割合の方が大きい筈だ。
だから今更何をしても恥ずかしがるような仲ではないが、もし。もしここで、美香が「大丈夫?」やら「頑張ったね」やら、気遣うような姿勢を見せれば優介はきっと深い傷を負ったに違いない。それは多分に同情だからだ、対等な立場からの声ではないからだ。
だが、美香から掛けられた言葉はそのどちらでもなかった。
「ゆ−すけ、だっせー」
ある種の残酷さすら伴って、美香はそう言ってのけたのだ。笑いながら。いつもの笑みと、いつもよりは幾許か優しい目をして。
「うるせい――っ」
そう返せたのは殆ど奇跡にも近かった。それでも、後数秒”彼”がやってくるのが遅れればきっと優介は彼女の前でも泣いてしまっていただろう。情けなくて、嬉しくて、悔しくて、そして救われて。そんな複雑すぎる感情を表現するには泣くしかないから。
けれどそうはならなかった。緩やかに、短くとも過ぎるまでに優しい時間を満たしていた彼らに大声が飛んできたからだ。
「おーい、ゆーすけーっ!」
見れば、担任とさっきまで一緒にドッヂをしていたクラスメイトを引き連れて駆けてくる、氷一がいた。
恥ずかしげもなく大声を上げて、ぶんぶんと手を振って。
氷一は真っ直ぐ、真っ直ぐ、優介と美香のもとまで走っていた。
〜〜〜
恥ずかしげもなく大声を上げて、ぶんぶんと手を振って。
氷一は真っ直ぐ、真っ直ぐ、優介と美香のもとまで走っていた。
軽いデジャブを覚えた優介の頬が緩む。横目で盗み見た隣の美香も思い出したようで、くすりと笑った。
学ランを振り回して、溢れ出る歓喜を包み隠さずに爆発させて走る氷一の表情はあの時とは全く違う。勿論、待ち構える優介も美香も、あの時とは全く違う。
けれど彼が一所懸命に駆けてくるという僅かその一点にのみ存在する符合性、随分と遠い昔のように思えた。
「あった! あったぜ! ユースケ! ミカミカ! 俺達、また一緒だ!」
そう叫ぶや否や、がっしりと洋風の抱擁――というよりハグと表現すべきか、あるいはベアハッグか。氷一はがっしりと優介を抱き締めた。その際「ぐぇ」と情けない声が優介の口から漏れたが、幸運にも歓喜に沸く氷一にそれは聞こえない。不幸にも、隣の美香にはしっかり聞こえたようであったけれども。
だが嬉しいのは勿論優介も一緒だ。寸時後れて、彼も華奢な氷一の体を抱き締め返した。
「よーしよしよし、やったじゃねーか! 感謝しろよヒョウー!」
とはいえ、男同士でいつまでも抱き合えるほど彼らの性癖は常から逸脱してはいない。お互い一度肩を掴んで距離を作り、にぃっと唇を吊り上げて喜びを分かち合った。
高梨 優介十五歳。
中学三年生、冬のことだった。
この日は氷一の高校受験、その結果発表の日。場所は市立中央高等学校の正門だ。
市立中央高等学校とは市内はおろか、県内でも有数の新学校。国立私立を問わない高い大学の進学率を誇り、六大学への合格者も毎年数多く輩出している優秀な学校である。
中学に入り学問の方向でめきめきと頭角を現していた優介と美香の二人は、既に推薦で入学を決めていた。しかし氷一は――仲良し三人組+1が基本構成だった彼らの中で唯一、学が不得意だった氷一は一般試験で受験したのだった。
ちなみに+1とは恋多き優介の恋人のことで、三ヶ月や二週間といった短いスパンでころころと変わっている女子のことだ。この時期は一学年下の高橋 都(たかはし みやこ)がそれに当たる。
氷一の合格率は、初め絶望的だった。二年終了時に志望校の調査があったが、自信満々に中央高等学校と第一志望に書いた彼はその日のうちに職員室へ連行され、懇々と説得を受けたくらいには、分不相応だった。
しかし彼はめげなかった。
寸暇を惜しんで底上げした基礎学力を優介と美香がフォローし、本気だった彼をどうにか同門に仕立て上げようと強いた更なる特訓をこなした。
その結果が遂に、合格というこれ以上ない最高の一意解を得て返って来たのだ。
それは氷一の勝利であり、また、優介と美香の勝利でもあった。
「ミカミカもマジありがとな、俺、超嬉しいよ。おめーらのお陰だ」
歓喜冷め遣らぬ氷一は、優介を解放すると今度は美香へと右手を差し伸べる。流石に性差か、無理矢理抱擁するよな真似はしなかった彼のフェミニズムに苦笑して、美香はその手をそっと握った。
はにかんだ、いつもの笑顔を浮かべて彼女は賛辞を送る。
「おめでとう。何だかんだ言っても努力の成果ね、ヒョウなら出来るって思ってたわ」
「何言ってんだ、帰ってくるまで大丈夫かしら、大丈夫よね、大丈夫に決まってるわ、って散々不安がってたくせに」
賛辞紛れに調子の良いことを言った美香を優介がからかいながら突っ込むと、彼女は彼に向けてにっこりと笑った。
いや、にっこりと哂った。
食肉目の瞳がぎらりと煌く。
「か……カラオケ行っか!」
その壮絶な笑み――生存本能が警鐘をガンガンに鳴らす笑顔から無理矢理に顔を背け、再び氷一との感動シーンに舞い戻った優介がそう言うと、浮かれる氷一は素直に「おうよ、パーっと行くぜパーっと!」と賛同した。
びしびしと突き刺さる鋭利な視線を撥ね退けるように、優介はやや強引に氷一の肩に腕を回して、引き摺るように歩き始める。一番近いカラオケまでは中央高等学校から歩いて十分程だ。そして兼ねてからの約束に拠ると、合格時の代金は全て氷一持ちとおうことになっている。
氷一としてはその出費すらも嬉しいらしく、歩き始めて三歩を待たずに引き摺るのは彼、引き摺られるのが優介、という図式に摩り替わった。
その道程。
何だか肩を組んだ体勢を解くタイミングを逃し、仲睦まじく(少々不気味に)優介と氷一は美香の前を行っていた。
後ろを気にしながら、優介は小声で言う。
「馬鹿だな、ヒョウ。お前、あの時は俺に抱きついた勢いでミカミカにもいっとけよ。違和感なかったって」
すると氷一は歓喜に満ちた表情から一転、苦虫を噛み潰したように顔を顰めた。
「いや、実は俺もそう思ったんだ。でもな……無理だってやっぱ。ノリと勢いで出来ることと出来ないことがある」
「お前、忘れてんじゃないだろな? 気合、あんのか? 出来んのか?」
「うー、実はな。実は……」
「おいヒョウまさか」
「悪ぃ。無理だ」
氷一が分不相応な学校への進学を決めた理由。
優介がその心意気に打たれて本気のフォローを決めた切っ掛け。
つまりが、そういうことだった。
氷一は、美香に恋をしている。だから美香の傍に居るため、居続けるために勉強したのだ。中央高等学校に入学を決めたのだ。
そして、結果の合否に関わりなく、この日氷一は美香に告白をするのだ、と。一年ほど前から優介に宣言していた。
宣言していた、のだか。
「何かな……合格した、って判った瞬間にイロイロ折れてさ。気合とか何か、覚悟とか。今告白したら、俺絶対駄目だ。何言うかわかんねぇよ」
「馬っ鹿。お前そう言って今まで何回も逃してきたんじゃねぇか。告白なんて一瞬だ、大丈夫だって」
「お前と一緒にすんなよ色男。都ちゃんだってお前コクられた側だろ?」
「望(のぞみ)の時は俺がコクったぞ」
「だからお前とは違うんだって。俺はシャイボーイなんだよ」
「そんなこと言ってるとお前一生チェリーボーイだぞ」
「詰まんねぇし最悪だお前」
と、男二人の密談は茶々を挟みながら徐々に本線から外れていく。
そろそろに背後の美香もくっついて離れない彼らに不審感を覚え始めたようで、少しずつ、しかし確実に距離を詰めてきているのが優介には知れた。それは氷一にも感じ取れたようで、口早に彼はこう締め括る。
「ま、じっくりやるさ。何せあと三年の執行猶予が付いたんだからな」
がばっ! と。
丁度台詞が終わった正にその瞬間、美香は二人の間に割り込むようにして彼らの背後に圧し掛かった。
ずしりと掛かる人体の重みと温かさ、それにふわりと香る柔らかな匂いが二人の心拍数を急上昇させる。幼馴染とはいえ、二人はこういう時いつも美香が女子なのだと痛感するのだった。逆をいうと、こういう時にしか女子だと思わない(特に優介)のはかなり失礼なのだろうけれども。
「内緒話なんて水臭いわよー、私だって当事者の一人だって忘れてないー?」
優介は優しく鼻で笑った。
「忘れてる訳ないだろ? でもま、ほら、野郎には野郎の話ってものもあるもんなのだよミカミカ君」
すると美香は一瞬寂しそうな顔をしたが、けれどすぐに取り直して言う。
「良いわよ、別に。ユースケなんかに聞かないもん、ヒョウは優しいから私が何を聞いても答えてくれるから」
「お、俺かよ」
頼られて嬉しい気持ち半分、何があろうと絶対に話せない事情から苦しさ半分、わたわたと慌てる氷一が微笑ましくて。
清々しい思いで、優介は雲一つなく晴れ渡った青空を見上げる。
細く長い飛行機雲が、空の彼方へと伸びていた。どこまでも――見えない場所まで。
〜〜〜
清々しい思いで、優介は雲一つなく晴れ渡った青空を見上げる。
細く長い飛行機雲が、空の彼方へと伸びていた。どこまでも――見えない場所まで。
大学の屋上を取り囲む金網で細切れにされた空は蒼くて、遠くて。
いっそ潔いまでに描かれた飛行機雲の白線がその遠さを痛感させる。
元々空なんて手の届かない場所だ、金網があろうとなかろうとそれは関係ない。
でも何故だか、眼前の金網は彼と空の間にそそり立つ絶対の隔壁のようで、胸にわだかまった寂寥感を一層に募らせた。
「行かなかったのか」
不意に、背後から掛けられた馴染みの声に優介は沈黙を持って肯定する。
高梨 優介二十一歳。
大学三年生、春のことだった。
彼の隣でがしゃ、と金網が音を立てる。
空を見上げる、遠い飛行機雲に視線を乗せる彼と同じ姿勢で氷一が金網を掴んでいた。
屋上の強過ぎる風が二人の間をすり抜ける。何かが足りない。広い隙間が空いている。それを象徴するかのように。
「行かなかったさ」
優介は端的に答えた。「そうか」と神妙に頷いた氷一はそれを最後に口を閉ざす。
名詞も目的語もない会話だったが、二人が通じ合うには十分過ぎた。
二人。そう、二人。
三木 美香はもう、彼らの間に居なかった。
この日、美香は飛行機に乗って遠い海の向こうに旅立っていった。大学で専攻していた語学の更なる研究の勉強の為という名目の留学だ。
行き先はイギリス、尖塔の町オックスフォード。ホームステイで二年の予定、しかし美香は三年になるかも、と楽しげに笑っていた。
相談は勿論随分前から受けていた、三人揃って同じ大学に入学した頃から留学したいと彼女は口を酸っぱくして言っていた。
いわばそれは彼女の夢だった。彼女は夢を実現させたのだ、友として幼馴染として喜び祝いこそすれ引きとめたり駄々を捏ねたりすることは出来ない。
だが実際に留学の話が持ち上がり、実現に向けて着々と話が進んでいくに連れて優介と氷一は慌て始めた。
氷一は兎も角、優介は自分がこんなにも慌て、うろたえたことに驚きを禁じえなかったが――事実として、彼は日々磨り減っていく己が精神を感じていた。
寂しかった。
恋だったのか、幼馴染としての情だったのか、それは判らない。ただ寂しかったし、可能ならば引き止めたかった。
しかし氷一が――今尚告げられていない叶わぬ想いを胸に秘める氷一が何も言わない以上、彼に彼女を説得することは出来なかった。
物理的に離れ離れになるからといって精神的に疎遠になる、とは思いたくない。
小学校から続いていた二人、いや、三人の関係がこんなことで散り散りになってしまうなんて、あってはならないことだ。
あってはならないことだ、けれども。
「二年、か」
呟いた優介のそんな言葉を強風が掻っ攫ってゆく。
ばたばたと音を立てる春着用のコートがうざったるかった。
二年。
それは――きっと長い。長い、期間だ。
二年。二十四ヵ月。七百三十日。一万七千五百二十時間。百五万一千二百分。六千三百七万二千秒。
そんな期間よりもきっと、もっと、長い。
「二年なんて、すぐさ。美香はすぐ帰ってくる」
けれどそんな彼の思惑を否定するように、すぐ、と繰り返した氷一の声はまるで泣き言を呟く時のように弱く小さなもの。それが何より彼の胸中を雄弁に語っていた。
彼はまたしても、機会を逃してしまったのだ。
「発表は上手いこといったのか? まさか、気が散ってそれどころじゃなかったとか言わないよな」
優介がそう問うと、氷一は小さく頷いた。
「大丈夫だった。驚くほど落ち着いてたよ、桑野(くわの)助教授からも褒められた。自分でも信じられねぇくらいにさ……完璧だった」
まるでそれが罪だと言わんばかりに。
肉に食い込むほど金網を強く握り締めて、氷一はそう”告解”した。
この日、美香旅立ちの当日。氷一は今度こそ、という覚悟を決めていた。
即ち、美香に告白すると。
今まで何度も、本当に何度も生まれながも目前で手放したり見逃してしまったりしていた告白のチャンス、今度が本当に最後だと氷一は何となく悟っていた。
だから今回こそは、今までの関係を例え崩す結果になったとしても、それでも、告白するのだと決めていた。優介はその覚悟を知っていた。
しかし運悪くゼミの合同発表会がその日に組まれた。他校からの学生、教授、一般参加すらも含めての大発表会だ。
大学に入り、いつのまにか好きになっていた情報処理を専攻していた彼は、三年次の今や院生と肩を並べるほどゼミの筆頭に位置し、欠席は許されなかったのだ。
それを知った美香は、さも当然の如く見送りを断った。
そうして、だから、彼の機会は失われた。
最後の止めを刺したのが美香だった、その事実が彼の胸をどれほどまで抉ったのか。それは優介をして知れない。
だから。
この日、優介は見送りには行かなかった。理由は、氷一が見送りに行かなかったからだ。それだけだ。それ以上でも以下でもない。
氷一の告解に「そうか」と頷いた彼は、それで黙り込んだ。
春の陽気は穏やかで。
けれど春の風は冷たい。
がしゃん、とどこかで金網が鳴った。
本当は、本当に、見送りに行きたかった。
彼女の門出を少しでも彩ってやりたかった。
もう当分会えなくなる――もしかしたらずっと会えなくなる彼女の背中を押してやりたかった。
だがもう彼女は行ってしまった。
胸を抉るこの後悔はなんだ?
ぽっかりと空いた心の穴はなんだ?
美香は。すぐ傍に居た美香は。優介の隣で、氷一のそして隣で、はにかんでいた美香は何だったんだ?
その答えは彼に見つけること叶わない。
きっと氷一はすでに見つけているその答え、優介には判らない。きっと、判っていない。
「俺、馬鹿だよな。俺、馬鹿だよ」
空を見上げ続ける優介の隣で、氷一は言った。
「なぁユースケ。俺。俺さ。好きなんだよ。美香。美香のこと、好きなんだよ。マジで好きなんだ。今でも、昔からも、なぁ、俺好きなんだよ」
蒼と白のコントラストが目に痛くて瞳を潤ませる優介の隣で、氷一は言った。
「俺馬鹿だよ。何年抱えてんだよ。何で美香そのまま行かせてんだよ。なぁ、俺、馬鹿だよ。俺、俺」
やがて目を伏せ、慟哭に心を奮わせる優介の隣で氷一は言った、けれど。
「俺、俺――っ」
がしゃん、という金網の悲鳴と共に、彼はもう、何も言えなくなった。
「馬鹿だな。お前」
氷一が落ち着いた頃を見計らって、ひいては自分が落ち着いた頃を見計らって、優介は言った。
「まだ終わってねぇよ。美香は死んだ訳じゃない。二年経てば帰って来る。メールすりゃ良い、バイトして金稼いで、電話すりゃ良い。そうだろ? 向こうだって思ってるに決まってるぜ。ああ、あの二人が居ないとやっぱり寂しいわ、ってな」
空を見上げて、そして続けた。
「その間ばっちり男、磨いてよーぜ。美香が帰ってきた時にビビるくらいにさ。向こうでカレシ作ってても、それを捨てて惚れちまうくらいに男磨いて待ってよーぜ」
びゅうびゅうと吹き荒ぶ春風の中でそう宣言した彼の表情は諦観した風にも決意に満ちた風にも取れる、微妙な表情で。
氷一は数秒じっとその横顔を見続けた後。
「そう……だな」
と、だけ、呟いた。
”男、磨いてよーぜ”。
その言葉が氷一だけに向けられていたのではなかった、ということに優介が気付くのはそれからずっと後のことになる。
瞼の裏にいつものはにかんだ笑みを浮かべた美香の顔を思い描いて。
美化されすぎだよな、と自嘲できるくらいには可愛らしく描けた顔に苦笑して。
じっと、観て。
そうして、優介はそっと瞼を開けた。
〜〜〜
そうして、優介はそっと瞼を開けた。
眩い光に世界が瞬き、美香は変わらずそこに居た。
美香は――変わらずそこに居た。
変わらない、変わっていない、あの、美香だ。
小学校の頃から変わらない、はにかんだ笑み。
今まで何度も癒され救われてきた笑み。
優介の大好きな笑み。
優介の――大好きな美香。
非現実的な光景で、非現実的な衣装を身に纏って、いつにも増して輝いて。
優介は思った。
可愛い。
綺麗だ。
それ以外の感想が浮かばない、それほどまでに端的に可愛らしく、綺麗だった。
だから愚直にも彼は再度思ってしまった。
ああ。
俺、美香が好きだ。
ああ、ああ。
すげー、好きだ。
今までに彼が告白し、告白され、付き合ってきた様々な女性に相対した時と似たような、そうでないような、不思議な昂揚が身を満たした。
好きだ。堪らなく彼女が好きだ。
ただ、好きだ。
傍に居たい。
傍に居させたい。
触れたい。
触れられたい。
時々刻々と思考が幼稚化していく。
優介のあらゆるベクトルが美香に向いていた。まるで本当に告白するかのようだった。
息を吐く。
めちゃくちゃに足が震えた。
息を吸う。
途方もなく心臓がバクバクした。
真正面から彼女を見合った。
とてつもなく胸がドキドキした。
そして彼はゆっくりと口を開く。
言うべき言葉を言うために――今日この時この場所でキメる言葉を口にするために。
一週間、考えに考え抜いた。昨日もこの瞬間のことだけを考えて殆ど眠れなかった。
それでも思いついたのは僅か殆ど一言だった、けれどだからこそ万感の思いがその一字一句に乗っている。
それを今。
幼馴染であり、元クラスメイトであり、愛すべき親友である彼女らに向けて言うのだ。
――言うのだ。
「結婚おめでとう――美香。ヒョウ……氷一と末永く仲良くな」
新郎、辰野 氷一。
新婦、辰野 美香。
その二人へ。
式に中盤、友人代表としてそう口にした高梨 優介の目には、涙の粒が光っていた。
高梨 優介二十五歳。
社会人二年生、秋のことだった。