【注意】テレビアニメ版を基にしております。
「白薔薇さまメリークリスマス。」
「もう一声。」
「え?」
「今日は私の誕生日なんだ。」
「マイハッピーバースデー。」
次の日。
「お邪魔します。」
「どうぞ。何もない部屋ですが。」
そう言って蓉子を招き入れると、彼女はきょろきょろと私の部屋を見回した。
「本当に物が無いわね。」
室内には、机とベッド、大き目のタンス位しかない。
「物が多いと落ち着かないの。」
わざわざリビングから2つ持ってきたクッションの片方を渡すと、蓉子はフローリングの上に座った。
「相変わらずね。」
ちらりと見えた目がそう言った気がした。
「で、何のよう?冬休み早々行っても良い?だなんて。」
私も床に置いたクッションの上に座る。
「迷惑だった?」
「別に。」
「一応聞いたわよ。ご両親に迷惑はかからない?って。」
確かに聞かれたけど、うちは放任主義もいいところ。
この時期になっても、家には寝るためだけに帰ってくる。そんな感じ。
だから、大事を起こさない限り迷惑なんてかからないし、蓉子が大事を起こすとも思えない。
「私は聞かれなかったわよ?」
皮肉交じりの問いかけ。
「貴女は嫌なら嫌と言うでしょ。」
「よくご存知で。」
「長い付き合いですもの。」
「で、最初の問いの答えは?」
「大したようじゃないわ。」
こーゆー頭の回転の速いところは、私の蓉子の好きなところでもあり、嫌いなところでもある。
「去年、3人で誕生会をやったでしょう?」
「ああ。」
去年。
まるで相当昔のことのようだ。
もう栞もお姉さまもいない。
いるのは目の前の蓉子だけ。
「まぁ、今年は山百合会でやったから良いかなと思ったんだけど。」
駅のホームと薔薇の館。
「私が誕生日だって蓉子が言ったんだって?」
彼女は少し目を見開いた。
「誰から聞いたの?」
「志摩子。」
蓉子が知られていないと思っていたであろうことを知っていたことに、子供じみた感情を込めて答えた。
「ふふっ。」
「何?急に笑い出して。」
訝しげに蓉子を見た。
「聖は変わったわね。去年はそんな顔を見せてはくれなかった。」
「そう?」
「ええ、もっと意地の悪そうな顔をしてた。」
「ひどいな。意地の悪そうな顔なら、今年の蓉子には負けるね。」
「あら、心外よ。」
苦笑を浮かべながら肩をひそめた。
ふと、もう一人の薔薇さまが浮かんだ。
「じゃあ、江利子は?」
問いに、蓉子はしばらく考えると口を開いた。
それに合わせて、私も口を開く。
「「企んでそうな顔。」」
見事にハモった。
私たちは、顔を見合わせると同時に笑い出した。
「あはは、蓉子も結構言うね。」
「くすくす、同じことを言ったあなたには言われたくないわ。」
こんな風に蓉子と笑いあう時が来るなんて、去年の私は絶対に信じないだろう。
「志摩子ちゃんと祐巳ちゃんのおかげね。」
「・・・そうかもね。」
ふわふわ髪の少女とツインテールの少女。
「あの2人には感謝しているわ。」
ポツリと漏らした蓉子の言葉は、そのまま私の言葉だった。
「・・・なにか飲み物もって来るけど、コーヒーでいい?」
「ええ。」
なんか照れくさくなって、逃げるように部屋の外へ出た。
こんな空気は私の柄じゃない。
ポットのお湯とインスタントの粉で出来たコーヒーを持ってあがると、蓉子は窓の外を見ていた。
「雪が降りそうね。」
こちらを見ずに。
暖房の音だけが響く。
先の雰囲気が残っていて、引きづられた。
「蓉子にも感謝してる。ありがとう。」
蓉子が呟いたときより、もっと小さな声で。
「ん?」
こっちを向かれて気恥ずかしくなり、
「さ、砂糖いる?」
慌てて誤魔化した。
「ありがとう。」
蓉子は笑顔で一本だけ持ってきたスティックシュガーを受け取った。
それ以降は、お互いの進路やら思い出話とか、たわいも無い話をした。
暗くなり、ちらちら雪が降り出すと、蓉子は「帰るわ。」と言った。
玄関まで送る。
「本当に何しに来た?って感じね。」
苦笑交じりに、私がつぶやくと
「目的なら果たしたわよ。」
「え?」
「聖が変われたか、見に来たんだもの。」
きっと私は、とても驚いた顔をしていたに違いない。
蓉子は、とても楽しそうに笑っていたから。
「貴女変わったわよ。」
「自分のためでもないのに、ご苦労なことで。」
かろうじて言い返す。
「いいえ、私のためよ。」
そこで一度区切ると、本当に本当に楽しそうに笑った。
「おかげで安心して、したいことが出来るもの。」
「は?」
「こっちの話よ。」
くるりと回って、ドアノブを手にした。
「それと、ありがとう。」
「今度は何?」
「スティックシュガーの分よ。」
何のことかわからずにいる私を置いて、ドアが蓉子を隠していく。
「あれは、貴女に返したのよ。」
ガチャン
「・・・やられた。」
私は、天を仰いだ。
「蓉子にも感謝してる。ありがとう。」
「(こちらこそ)ありがとう。」
ドアの外の蓉子のしてやったりの顔が浮かんだ。
さらに、その日の夜。
江利子から電話があった。
珍しいことがあるものだと思いながらも、話を聞く。
「蓉子と祐巳ちゃん付き合いだしたんですって。」
「え?」
「クリスマス会の帰り際に、2人がこっそり話してるのを見たのよ。
で、その後、祐巳ちゃんがすごい幸せってオーラ出してたから問い詰めたの。
そしたら吐いたわ。」
「・・・やられた。」
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。」
今日の目的は、『もう祐巳ちゃんを貸さなくても良いか?』の確認だったと気付く。
まったく蓉子には敵わない。
「あ、祐巳ちゃんデートしない?」
「デート?」
「別名、山百合会年始会とも言う。」
「行きます。行かせていただきます。」
ささやかな反撃は恋人の方にすることにした。
「ゆーみちゃん。」
「ぎゃう。」
お久しぶりです。今年も祐蓉です。笑(オキ)
忙しい時期ですね。(ハル)
【注意】キャラ設定
3 2 1
紅 祥子 祐巳 蓉子
黄 由乃 令
白 志摩子
「いくらお姉さまの言葉でも、従えないものは従えません。」
「なんですって。」
今日も薔薇の館には、祥子と祐巳の声が響き渡る。
由乃は、やってられないとばかりにため息をつくと、妹の令を手招きで呼んだ。
いそいそと寄ってくる令。
「令、お茶入れなおして。」
「はい。白薔薇さまもいかがですか?」
「お願いできるかしら?」
志摩子さんが優雅な手つきでカップを渡すのを、執事のように受け取る令。
最初の頃は我慢できなかったけど、もう慣れた。
「令、さっさとしてね。」
ほら、口だけに済ましている。
ずいぶん忍耐力がついたものだ。自分でもびっくりするくらい。
「あ、はい。」
令は、早足で流しへ向かった。
「何故、素直に首を縦に振らないの。」
「私だって、色々考えがあるんです。」
祥子のヒステリーにも怯まずに応酬。
祐巳ちゃん成長したなー。
去年の春に祥子の妹になってからだから、一年ぐらいしか見ていないけど。
時の流れは早いものだ。
こんなことを思うなんて、年寄りの気分。
「どうしたの、由乃?腰なんて叩いて。」
「ん?あと一年で卒業だなんて、時の流れって一瞬ねって、おばあちゃんの気分なの。」
わざと疲れたような声で言うと志摩子はくすくすと笑った。
「確か、私のほうが由乃より誕生日が早いわ。私はもっとおばあちゃんよ。」
あーそういえばそうだ。
「卒業しておばあちゃんになっても、こうやってお茶を飲めたらいいわね。」
「そうね。」
2人で頬杖をついて、ふーっと息を吐いた。
なんとなくアンニュイな感じ。
いや、今は春だけど。アンニュイってなんか秋な感じ?
「お姉さま、失礼します。」
令が紅茶を置く。
手が震えているのは気のせいだろうか?
そっと顔を見れば、目元が潤んでいるように見える。
私たちの話を聞いていたのだろう。
卒業まであと一年。
令にとっては、あと一年しかなのだろう。
なんて可愛いのだろうか。『私の』令は。
あんまりにも可愛いから、褒美として頭をなでてやろう。
「何でそう頑ななのですか?」
「それは貴女のほうでしょう。」
ひとしきり撫でてやると、令の顔は真っ赤だ。
そんな令も可愛くてもっと撫でてやろうとするが、薔薇さまとして公平やら何やらを守らなくてはいけないので、泣く泣く止めた。
「でさ〜、飽きない?」
「何が(ですか)?」
私に問いにそろってこちらを向く。
こんなとこは息ぴったりなのに。
「最近ずっと押し問答してるけど、何が理由なの?」
志摩子にも聞いたことはあったけど、彼女も知らないらしい。
祥子は「はー。」とため息をつくと
「言ってあげて、祐巳。」
「あ、はい。」
2人は一旦椅子に座ると、冷めかけの紅茶でのどを潤した。
「私の妹についてなんですけど。」
「あー、なるほどね。祥子、そんな焦る必要は無いって。」
「あっと、そうじゃなくてですね、私も妹が欲しいことは欲しいんですよ。」
「じゃあ、何?」
「で、妹をつくるなら、運命的な出会いをした人にしようって。」
「あー、それで祥子が反対してるわけだ。」
「なんで、私が反対するの?」
「それで喧嘩してたんじゃないの?」
「違うわ、私は運命は自分から繰り寄せるモノだって言うのに、祐巳ったら来るのをおとなしく待つって言うのよ。」
「果報は寝て待てって言うじゃないですか。」
「そんな考えで成功した人なんて、ほとんどいないわ。人事を尽くさなければ駄目なのよ。」
「白雪姫だって、寝て待ってたら王子様が来たんですよ。」
「シンデレラはお城に行ったわ。」
「さて、志摩子さん。アホ共は置いといて仕事しようか。」
振り返って、なるべくさわやかな笑顔で志摩子さんを見ると、うつむいてる姿。
「どうしたの?」
「難しい問題ね。行くべきか待つべきか。それが問題ね。」
「志摩子、お前もか!!」
某戯曲作家のような口調の志摩子を某武将の口調で返すと、やりかけの書類を突きつけた。
「さっさとやって帰りましょう。」
「怖いわ、由乃。栞にだってそんな言い方されなかった。」
「一番最初のキャラ設定表に無いキャラ出すな!!」
渋々ながら、書類に向かわせた。
その間も、祥子と祐巳ちゃんの無駄な、ほんとーーに無駄な激論は続いた。
そして、祥子は切り札を出した。
「そんな頑固だなんて、良いわ。もう一緒に帰ってあげないから。」
「子供かよ。」
我慢できずに小さく突っ込む。
「えー、そんなのずるいです。嫌です。」
「効果あるのかよ。」
我慢以下略。
「私だって、辛いわ。でも、祐巳のためだもの。」
「・・・。」
突っ込むのすら嫌になった。
「・・・・・・傲慢です!お姉さまのわからずや!」
言い残すと祐巳ちゃんは、部屋を飛び出そうとする。
「あ、祐巳!」
祥子の叫びと、廊下の悲鳴はほぼ同時だった。
全員で慌ててドアの周辺に集まると、祐巳ちゃんは入って来ようとした生徒とぶつかったらしく、2人は絡み合うように倒れていた。
「大丈夫?」
姉である祥子の声に反応して、祐巳ちゃんが体を起こすと、現状を認識したらしい。
「ああ、ごめんなさい。大丈夫?」
その子も意識を取り戻したのか、上半身を起こす。
「いたたた。」
腰を打ったのかさすりながら、周囲を見回す。
祐巳ちゃんが小柄だったのが不幸中の幸いだったようだ。
とりあえず、胸をなでおろす。
が、しかし、その子は祐巳ちゃんと視線が合った瞬間、口元に手を当てて目をそらした。
祐巳ちゃんも、それを見た瞬間同じようにする。
そして、2人とも頬が赤い。
「まさか、祐巳!」
何があったのか察したのか、祥子が悲鳴のような声を上げる。
その声を聞くと、祐巳ちゃんはいきなりその子の両腕をつかんだ。
「貴女、見覚えが無いわ。一年生よね。」
「あ、はい。一年椿組の水野蓉子です。」
「お姉さまはいて?」
「いませんけど?」
「私の妹になりなさい。」
「ちょっと祐巳ちゃんいきなりすぎよ。」
「そうよ、祐巳。」
お、さすが姉。・・・と思った途端。
「私だって、祐巳と会ったのは、曲がり角でぶつかって、鞄を間違えたなのよ。」
「設定が古いわ!80年代か!」
「・・・分かりました。妹になります。」
「受けるのかよ!」
「だって、姉になる人は運命的な出会いをした人にしようって。」
「おまえもか!」
なんか嫌になってきた。
さっきから、私の横にしゃがみこんだ志摩子と令が私が突っ込むたびに
「おーー。」と言う歓声と拍手を送ってくるし。
まあ、良い。
紅薔薇には紅薔薇のスールの関係ってものもあるし。
「ところで、蓉子ちゃん、館には何の用事かしら?」
「猫を追ってきたら着いたんです。」
蓉子ちゃんの言葉に祥子と祐巳ちゃんも声を上げた。
「あら、私もよ。」
「あ、私もそうだった。」
「耳○まか!お前ら全員帰れ!」
「おーー。」パチパチ
「おーー。」パチパチ
まとまりが無い。笑(オキ)
会話のテンポってどこで区切ればいいんですかね。完全に手探りでした。(ハル)
この話は【No:2149】の続きでパラレルな話です。
私は今涅槃にいる。
現代に蘇ったマリア様こと藤堂志摩子さん。
その志摩子さんが私の腕に抱かれて真っ赤になっている。
昨日まで確かに志摩子さんは私の姉だった。
そう…………昨日までは。
目が覚めるとそこはいつもの部屋だった。
しかしなんだか違和感がある。
肩が重い。
鏡に向かってみると何が違うのかは分かる。分かるのだが私の脳が認識できない。
…あれがでかくなってる……。
し、志摩子さんくらいあるんじゃ……。つまりこれを揉めば志摩子さんの…………ぶふぅ!
ってこれじゃただの変態じゃないか!
と自分にツッコミいれる私の足元は真っ赤に染まっていた。
とりあえずリリアンに向かう私。
どうやら身長ものびたようで制服のサイズが大きくなっていた。
……どー考えてもおかしい。可南子だってまさか1日でこんなには成長しないだろう。
ひとまずリリアンについた私。そのままいつものように教室に向かう私。
「ごきげんよう」
ととりあえずクラスメートたちに挨拶してみるのだが…
「ごきげんよう、白薔薇さま」
ととんでもない言葉が返ってきた。
え? 私が白薔薇さま?
志摩子さんは?
も、もしやあのことがバレて振られたのか?
蔦子さまに頼んで入浴シーンを盗撮してもらったことか? それとも志摩子さんの家に泊まりにいったとき志摩子さんの下着をちょろまかしたことか? はたまた寝ている志摩子さんにキスしたことかいやいやまさか……………。
ってこんなに心当たりあるんか私。と一人ツッコミを一通りしたところで事態が好転するわけでもない。
「どうかなさったんですか?」
と百面相でもしていたのか元祖百面相の祐巳さまにいわれてしまった……………。
「って、祐巳さま!」
と思わず声を荒げてしまった。
「やるじゃん祐巳。現役三年の白薔薇さまにさま付けでよばれるなんて」
「ふぇ?私なにも知らないよ!?というか白薔薇さまとお話するのだって今日が初めてだし」
と百面相を炸裂させる祐巳さま………っていうか祐巳ちゃん?
……おーけーおーけー。まずは状況を確認しようじゃないかジェニファー。ってジェニファーって誰じゃ。
まず私白薔薇さま。祐巳さま一年。
ああきっとこれ夢だそうに違いない。
むぎゅ……痛い。夢じゃない。
「はっ!」
意識が戻るとなぜか三年の教室にいた。
私の隣が由乃さまだった。
……どーいうわけだ?
壮大なドッキリか?
でも、ドッキリであれは大きくならない。
これはパラレルか? パラレルなのか?
「どうしたの乃梨子?さっきから落ち着きないけど」
「え?な、なんでもないで……ないよ」
タメ口でいいのか?
由乃と呼び捨てでもいいのだろうか? 向こうも乃梨子って呼び捨てだし……うわなんかやりずら。
「変な乃梨子」
てかまさか……いややっぱり由乃さまが黄薔薇さまなのだろうか?
一応白薔薇さまらしい私を呼び捨てってことは其の可能性が高そうだ。
…………しかし……。
「どうしたの乃梨子?そんなに私をじろじろ見て」
私がこれだけ成長したのに由乃さまは……。
ぴくっ
「ねえ乃梨子?今とっても失礼なこと考えなかった?」
こーほーこーほーとどこぞの黒仮面のような息をする由乃さま。
「なんでもないよ……由乃」
ととっさにごまかした。
だけど身長だけは伸びてるから余計に無いちちに……。
ぎろり!!
……もうこのことを考えるのはよそう。まだ生きて志摩子さんに会いたいし。
……志摩子さん!?そういえば志摩子さんはどうなってるんだろ。
「ねえ、志摩子さんって何組?」
とわたしがそう言うと由乃さまは心底呆れたような顔をした。
「ホントに今日のあなた変よ。自分の妹をさん付けで呼ぶ姉がどこにいるのよ。志摩子ちゃんが聞いたら泣くわよ?」
な、な、な、なんだってぇっ!
し、志摩子しゃんが私の妹?
パラダイスか? パラダイスなのか!?
志摩子しゃんが私の妹ってことは家に連れ込めたりそのあとまでおーけーってことか?
うっ……!
くっ! なんて火力とパワーだよ!
「乃梨子大丈夫?鼻血でてるよ」
なんだか由乃さまが言っているようだけどもう私には聞こえない。
「志摩子はいるかしら?」
クラスメートにごまかしながら志摩子さんのクラスをきき一時限目が終わり次第、私は弾丸のごとく教室を飛び出し、志摩子さんのもとへ急ぐ。
「乃梨子さまごきげぶふぅ!」
途中どこかでみたようなドリルにぶつかった気もするが今の私を止められる者はいない。
待っててね志摩子さん! あなたの乃梨子が今行きます!
「お姉さまどうかなさったんですか?」
ああ志摩子さん! いいえあえて志摩子と呼びましょう。……はぁはぁ…。
「お姉さま?」
ぶはぁ! くぅ……さすがは志摩子たん。 私の方が今は背が高いから自然と志摩子ちゃんが上目遣いに……はぁはぁ…。
うんやっぱり志摩子って呼ぶことにしよう。
「あ、貴方に愛に…いいえ会いに来たのよ」
「え?」
頬を赤くする志摩子に私は思わず抱きついてしまった。
「あ、あん……お姉さまぁ…」
ぽたっ…ぽたぽたっ……。
私はいま猛烈に感動している!
「お、お姉さま。その嬉しいのですけど次の授業が始まってしまいます」
「ええ……そうね」
くぅ〜! 名残惜しい。
いや、でも妹ってことはいつ抱きついてもあわよくば手が滑ってあんなとこやこんなとこまで触ったりもんだ………。
バタッ。
↑ついに貧血で乃梨子ダウン。
だがその顔はこれから乃梨子が志摩子にするであろう口には出来ないことを夢みているのだろう。乃梨子はとても幸せそうだった。
※この記事は削除されました。
それは小さな事件だった。
1つの行為がもたらしたもの
その行動は他へと波及し
いくつもの結果へ影響を及ぼす
交錯する想い
交錯する行い
人と人とが織り成す行為で
世界はどこに導かれるのか
『真・マリア転生 リリアン黙示録』 【No:2122】から続きます。
ロウの施設の一つが壊滅したとの報を受けて、志摩子は思わず腰を浮かせた。
「志摩子さん」
報告をもたらした乃梨子は慌てて志摩子を抑えた。ついこの間も自分で悪魔を討ちに動いたばかりなのだ。
「とりあえず手近の部隊を向かわせたから。今から志摩子さんが行っても仕方ないし、あまり大将が前線に出るものじゃないでしょう?」
「大将?」
乃梨子の言い様がおかしかったのか、志摩子は少し笑った。それで落ち着きを取り戻したのか、浮かせた腰を椅子に落とす。
「それで、やったのが由乃さんということなのね」
「そのようです」
「やってくれるわね」
ため息をつく志摩子を見て、乃梨子も同じようにやってくれたなと思う。志摩子さんにため息をつかせるなんて、由乃さまも本当にやってくれる。
ふと、志摩子は傍らに寝そべっている猫に視線を向けた。
「ゴロンタ」
ぴくりと反応したゴロンタは、一度まわりを見回して他の人影が無いのを確認すると二本足で立ち上がった。
「様子を見てきてもらえるかしら?」
「承知」
胸に手を当て一礼すると、ゴロンタはトンボを切って後ろの影に頭から飛び込んだ。そのまま影の中にずぶりと沈みこんでいく。
「お願いね」
ケット・シーには影から影へ渡るという特殊能力がある。それは偵察や伝令に便利な能力だった。くわえて普段は普通の猫のフリをしての情報収集。どうやら情報戦に向いている種族らしかった。
「それにしても」
ゴロンタを見送った志摩子はもう一度ため息を付く。
「不便なものね」
「仕方ないよ」
地上におけるロウの勢力の代表格となり、メシア教を導く立場になった志摩子は『メシア』、『神に捧げられし者』などとも呼ばれていた。
志摩子は御輿だ。だから自由に動けない。それは確かに仕方ないことだが。由乃が動いている。志摩子自身がけりをつけねばならないこともある。
「紅茶入れるね」
「そうね。お願い」
乃梨子の言葉に志摩子はふっと笑顔を見せた。
いざとなったら。と志摩子は思う。乃梨子は止めるだろうか。それとも………。
「やはりおかしいですよね」
「何が?」
菜々の突然の言葉に由乃は怪訝そうな顔をして振り返った。
「最初からメシア教徒ならああいう反応でも不思議はありませんが、悪魔からの庇護を願い出ただけの人達があの反応というのはやっぱり変だと思うんですよ」
強制労働をさせられているらしいと聞いて見に行ってみれば、誰もが働かされていることに不満を持つどころか、それこそが喜びなのだなどと言って由乃達を煙たがっていたのだ。
「メシア教徒と一緒にいて染まったんじゃない」
「あそこまで極端に染まるものでしょうか? いえ、そういった人間がいても不思議はありませんが、皆が皆あの反応というのはやはりおかしいですよ」
「何が言いたいのよ」
「例えば洗脳とか」
「………怖いこと言うわね」
由乃は少し考えるそぶりを見せた。
「まあ、理想の為にはどんな犠牲を払ってもかまわないっていうイカレた連中だし、ありえるか」
「……………」
由乃さまが言いますか、と思った菜々だった。
「今何か失礼なこと考えてなかった?」
「いいえ? そんなことはありませんよ」
胡散臭げに見る由乃に、にっこり笑って即答した菜々は話を戻した。
「少し調べてみましょうか」
「なんで?」
「なんでって……」
「メシア教に身を寄せるってのはそういうことでしょ。理想に身を捧げる神の下僕。洗脳なんてどうでもいいことよ」
「でも、知っていたらメシア教には行かない人も多いでしょう」
「殉じる覚悟もなしに身を寄せる方が悪い。第一、メシア教に走った時点で私達にとっては敵だよ」
実は微妙にまだ怒っていたのか、思い出して腹が立ったのか、切り捨てるように言う由乃の言い分には、菜々はあえて触れなかった。
「それはそうなんですが、それによってメシア教は労働力を確保しているわけですから、手を打っておいた方がよいかと」
「ならそういう噂でも流せば? どうせ証拠なんてあっても握りつぶすか、正当化するよ。あの連中は」
「ではそうします」
即答する菜々に、由乃は少し笑顔を見せた。それから今度は少し考える表情になって呟いた。
「けど、本当にそうだとしたら志摩子さんは知ってたのかな」
「メシア教を導く立場の方ですから、知っていて当然ではないですか?」
「私だってガイア教が下の方でどんなことしてるかなんて全然知らないわよ?」
「確かに由乃さまの場合はもう少し知るべきだと思いますが……」
「あなたね」
「ガイア教はメシア教のような組織としてのまとまりがありませんから」
「カオスだものね」
そう言って、由乃は笑った。だからこそ、由乃と菜々はわりと好き勝手に動いていられるのだ。
「ここ、だよね?」
「そのはずですが」
決まった目的の無い祐巳は、瞳子と可南子を連れてあちこち見てまわりながら、いろいろトラブルに首を突っ込む結果になっていた。
悪魔に襲われている人を助けたり、過酷な労働に従事する人々を解放しようとして煙たがられたりと、志摩子や由乃が体験したのと同じような状況にも遭遇していた。
ここへはロウの施設がカオスの襲撃があったらしいと聞いて来たのだが、そこにあるのはひたすら瓦礫の山だった。
「酷いね」
祐巳はうめくように呟いた。
「祐巳さま」
可南子の警戒した声にはっとして見回せば、瓦礫の陰から蝙蝠のような羽を持つ不気味な人型が現れた。人型といっても頭部も肌の色も明らかに人とは異なるもの。
悪魔だ。
続いて姿を現したのは雪だるまだった。
「は?」
手足の生えた雪だるまがのっしのっしと歩いてくる。
「ちょっとかわいかも?」
「悪魔ですよ」
「わかってるってば」
祐巳と瞳子ののんきな会話の間にも、可南子が攻撃を開始していた。
大抵の場合、悪魔は問答無用で襲ってくるから、可南子は真っ先に自分から攻撃を仕掛けるようになっていた。番犬役と言いながら、番よりむしろ先に戦闘を仕掛けていく可南子である。
「か、可南子ちゃん」
祐巳もあわてて後を追うように戦いに参加する。可南子一人を戦わせるわけにはいかないから、やむなくの参戦ではあったが。
可南子にしてみれば、祐巳をなるべく危険な目にあわせたくない一心から自分が一人ででも先に戦って倒してしまえばいいと思っているのだが、結果的に、本来なら回避できたかもしれない戦闘に祐巳を巻き込むことになっていたりすることに、可南子は気付いていなかった。
一方で、瞳子は巻き込まれないかぎりは直接戦わず、見ていて時々口を挟むくらいだった。
瞳子は瞳子で、祐巳に戦いに慣れておいて欲しいという思いがある。それはいずれ必要になることだ。
今回もさがった位置から二人の戦いを見ていた瞳子は、ハンドヘルドコンピュータからデビルアナライズシステムを立ち上げた。堕天使ガギソン、妖精ジャックフロスト、堕天使ウコバク……さらに何体かの悪魔が現れたが、いずれも大したレベルではない。少なくとも、今の祐巳が苦戦するような相手ではないはずだった。スペック的には圧倒してしかるべきはずなのだが、問題は、祐巳自身がそれに気付いていないことだ。だからこんなザコでもいい勝負になってしまう。もういっそ強い相手ぶつけてしまった方がよいのかもしれない。それはそれでいい勝負をしてしまいそうな気がした。
「瞳子ちゃん後ろ!」
突然の叫び声に瞳子ははっとして後を振り返る。考え事をしていたせいか、それに気付くのが遅れた。
半魚人?
見た目はそのままのそれが右腕を振り上げたところだった。だが動き自体は早くない。むしろ緩慢といってよく、充分よけられるタイミングだった。
魚が陸に上がるから。見た目に一瞬固まったものの、瞳子は落ちついてひょいと一歩飛び退いた。
その目の前を、もの凄い勢いで何かが通り過ぎた。
「え?」
祐巳だった。
戦いについては相変わらずのド素人の祐巳は、突っ込んできた勢いをそのままにその悪魔に体当たりをかけた。見事なぶちかましに地面に叩きつけられ、もんどりうって転がる半魚人。祐巳もそのまま顔から地面に突っ込んだのはご愛嬌だ。
と、やにわにがばっと両手をついて顔上げた祐巳がその顔を瞳子に向けた。
「瞳子ちゃん、大丈夫?」
「え、ええ、私はなんともありませんが」
祐巳さまの方が余程ひどい有様です。と言うのはさすがに酷に思えた。
「よかったあ」
ほっとした表情の祐巳に近づきながら、瞳子は表情を引き締める。
「祐巳さま、まだです」
「え?」
いつの間にか瞳子の手には拳銃が握られていた。それを両手でしっかりとホールドして2度トリガーを引き絞る。
祐巳が突き飛ばした悪魔は、それだけで倒されたわけではもちろんなく、立ち上がりかけていたところに銃撃を浴びてのたうった。
「と、瞳子ちゃん? それって何?」
「ベレッタM92Fです。ちなみにあの半魚人は妖鬼アズミですね」
「そうじゃなくて、なんでそんなもの持ってるの?」
「護身用にですが?」
当たり前のようにいわれて祐巳は絶句した。お嬢様ってそういうものなの?
あわてて近づいてきた可南子が、祐巳の代わりにというわけでもないのだろうが瞳子にかみついた。
「そんなものがあるなら何故さっさと使わないのよ!」
「あまり得意ではありませんので。距離が開いたり相手が動いていたら当たりませんし、間違って味方に当たったら大変でしょう」
「それは……」
「……使えないわね」
思わず射線から大きく横にずれる祐巳と毒づく可南子。
「だからあまり使いたくないのです。どうせ悪魔に銃は効きにくいですし」
そう言うと、今度は続けて3発撃った。そのうちの1発が外れて地面を抉る。これだけ撃ち込まれてもまだその悪魔は立ち上がろうとしていた。
「祐巳さま、早くトドメを。倒すまで気を抜かないようにといつも言っているでしょう」
「うぇ、はい」
祐巳が手にした鉄パイプを握り直してフルスウィングした。
ちなみに、可南子は悪魔が落とした剣を使っていたが、いまだに祐巳が鉄パイプ装備なのは祐巳に刃物を持たせるのがなんとなく不安だったからだ。その点については、めずらしく瞳子と可南子の意見は一致していた。
「拳銃より鉄パイプの方が効くって、なんか変な感じだよね」
「理由はわかりませんが、そういうものだと納得してください。悪魔との戦いに剣が主体なのはその為です。種族にもよるようですし、ザコにはそれなりに有効ではありますけれども」
そこで瞳子は苦笑する。
「先程も言いましたが、私はあまり使う気はありません」
「まあ、使わなくて正解ね」
「うん、そうかも」
可南子の言葉に、祐巳は深く頷いていた。
「優お兄さまはお上手なんですけどね」
「え、柏木さんが?」
それは、ちょっと意外だった。
「荒事には無縁そうに見えるけど」
「荒事というか、銃に関しては技術の問題だと思いますけど、優お兄さま、お強いですよ」
「ええ!? そうなの?」
それは、かなり意外だった。
「ええ。そういえば、柏木の家には鬼の血が流れているという言い伝えがあるんです」
「おにって、あの鬼?」
「……どの鬼だかわかりませんが、旧家にはよくある話ですよ。貴族とか将軍家の傍系とか」
「鬼と貴族って全然違うんじゃ……」
「ようするに、自分達は普通ではない、特別な存在なんだと言いたいんでしょう?」
横から口を挟んできた可南子に、瞳子は一瞬だけ視線を向けると、特に否定もせずに頷いた。
「ええ、そういうことでしょうね。バカバカしいと思っていましたけど、こういう状況になってみると、ひょっとしたらと思わないこともないですね」
「えええ? まさかぁ」
「さあ、どうでしょうね」
そう言って、瞳子は笑った。
「可南子ちゃんはどう思う?」
「さあ、どうでしょうね」
「ええええ」
あいかわらずのんきな3人だった。
【No:1962】→【No:1982】→【No:2117】→これ
クロスオーバー 『 自殺の楽しみ方 』
5、中庭
薔薇の館から飛び出した三人は、祐巳を先頭にして中庭から普段は高等部の生徒はほとんど訪れることがない大学部の校舎の方へやってきた。
「飛び降りはいいんだけれど、まさか大学部の校舎の屋上ということはないわよね?」
「ふふふふふふふふふ、その辺はちゃ〜〜んと考えてるわ。 ほら、あそこのマンション」
そう言って祐巳は大学校舎側の校門からさらに向こう、通りを二つほど隔てた所にあるベージュのタイルで彩られた高い建物を指差した。
「15階建てだから高すぎて現実味が無くなるよりどうなるか想像できていいでしょ」
「あそこか〜、いいわね、うまい具合に外側に螺旋階段があって誰にも会わずに上れそうじゃない」
「ふふふ、天国への階段があそこにあるのね。 屋上のフェンスが低いから乗り越えやすさも”○”ね」
「あのマンションは確か日照権のことで問題になった所よね。 でも、今はあの高さに立ててくれたマンションのオーナーに感謝しましょう」
「ほら急ごう! あんな絶好の飛び降りポイント、誰かに先こされたら勿体ないわよ!」
「おぉぉ〜祐巳ちゃん! 私に会いにき…ぐはっ!!」
祐巳に促されて由乃と志摩子は嬉々として駆け出した。 誰かが後ろから抱き着いてきたような気がしたが、志摩子が何かしたらしく、その気配は一瞬で消えたので祐巳は気にしないことにしたが、『そう言えば』と祐巳の頭の片隅でビスケット扉を出た直後に見覚えのある者を突き飛ばした光景がチラッとよぎった。 縦ロール‥‥?‥‥。
「まっ、いいか」
6、ラ○オン▼マンション●△屋上
「ねえっねえっ祐巳さん志摩子さん! こっち来てみなよ! いいながめだよぉ〜!」
屋上まで来ると由乃は早速フェンスに向かって駆けて行く、螺旋階段を16階分上ってきたとは思えないほど軽やかな足取りである。 由乃に習って祐巳もフェンスに近づいてくる。 二人から少し遅れて屋上に到着した志摩子はゆっくりと二人の後に続くがフェンスには近づかず、左右を見渡して少し落ち着きがないように見える。
「わあぁぁ〜ほんとだ〜! あの辺って新宿よね? まるでお墓が立ってるみたいね」
「見える見える! 高層建築だらけの東京はお墓だらけってことね!」
「このマンションはさながら私たちの墓標ね。 ほらほらあそこ、歩道歩いてる人もよく見えるわ。 誰かの頭の上に落ちてあげればきっと喜ばれるわ」
祐巳は胸の前で手を組んで、まるで祥子を見ている時のような表情ですぐ下のマンションの遊歩道を歩いている人を見ている、手摺に手をかけている由乃が、祐巳の視線を追って遊歩道に目を向けるとある施設を目にして指差した。
「それより祐巳さんあそこ! あそこのプールみたいなとこ! 貯水池かな? このくらいの角度で飛び込めばジャストミート出来そうじゃない? 高層ビルから飛び降りてペッチャンコになって、ピザみたいになるのもいいかと思ってたけど、こっちだったらおいしそうな麻婆豆腐になれそうじゃない?」「いいわねぇ〜麻婆豆腐! 私あれだけは、ちょ〜っと辛目が好きなのよねぇ〜」
「うっそだ〜、黒砂糖にグラニュー糖をかけてハチミツ茶漬けにして粉砂糖トッピングにするような人が”ちょ〜っと辛口”?」
「ハチミツの代わりにメープルシロップを使うとちょっと大人風味よ」
とろけるような笑顔で言った祐巳の一言に、由乃と志摩子の片頬が引きつる。
「……志摩子さん…どう思う?」
「えっ? 私は……ちょっと遠慮したいわ……太るのを通り越して糖尿病になりそう…」
「まあまあ、いいじゃない! さ〜て、それじゃあ」
「うん! そろそろ…」
「………」
「君たち!!」
「え?」
「なに?」
「あら?」
手摺を持ち直してさ〜飛び降りようとしたとき、突然後ろから声をかけられて三人は後ろ、ちょうど登って来た螺旋階段の方へと振り返った。 ライトグレーのスーツを着た二十台と思われるちょっと伸びたスポーツ刈りの男が肩で息をしながら立っていた。 日光月光程ではないが190cmはあろうかという大男で、肩と一緒に上下する太い眉毛が印象的だ。
「ま、間に合ったか……よかった…」
「なんの用でしょうか?」
「そこの商店街を歩いてたら…ハァ…階段を昇っていくのが見えたから…まさかと思って駆けつけたんだけど。 そんなところに手をかけて、君たち変なこと考えてないだろうね?」
階段登りで膝が笑っているのだろう、肩で息をしながら少し重い足取りで三人に近づいて来た男は諭すように努めてやさしく語りかけた。
「変なことなんてそんなこと考えていません」
「そうよそうよ」
「ええ、と〜〜〜っても楽しいことをしようと思って!」
「楽しいこと?」
「「「飛び降りようと思って!!」」」
あかるくハモった三人の声に三回ほどまばたきをして、上を見て眉毛をピコッと動かし、下を見て眉毛をピコッと動かし、右を見て右の眉毛をピコッと動かし、左を見て左の眉毛をピコッと動かし、再び三人を見て、両の眉毛をピコピコ動かした。
救いの神が通りかかる気配は無かった。
ようやく三人の声が頭の中で反芻されたらしい男は声を上げた。
「ええぇっ?! き、君たちそれのどこが楽しいの?! そんな若いみそらで死ぬなんて考えちゃだめだ!!」
『飛び降りる』という三人の言葉にようやく反応できた男は、普通ならびっくりするくらいの大きさの声を上げるが、三人の関心事は別な所にあるようだった。 しかもその事も自殺の前では些細なことのようだった。
「ふふふふふ、でもよくそんなに眉毛が器用に動くわねぇ〜、で・も〜…」
「死に恋している今の私達には、そんなパフォーマンスで心を動かされたりはしないわ!」
「今とても充実しているんです。 こんなにすばらしいことがあったなんて」
由乃は得意げにそして無意味に胸をそらし、祐巳と志摩子は両手を合わせてマリア様にお祈りするように目をきらきら輝かせた。
「そうだ、ここから落ちたらやっぱり痛いと思いますか?」
「ばっ、ばっ、ば、バカ!! 痛いに決まってるじゃないか!! 悪いことは言わないから、とにかく自殺なんかやめるんだ! どんな悩みでも俺が聞いてあげるから。 俺もまだ23才、若いからどれだけ力になれるか分からないけど、ねっ? 4人で解決法を考えよう。 ねっ」
そう言いながら、やさしげに祐巳と由乃の肩に手を置いてフェンスの傍から引き戻そうとしながら、男は三人の顔を、まるで小さい子に話しかけるように覗き込む。
「は、離してください!」
「そうよ離して! この気持ちは誰にも止められないのよ!」
祐巳と由乃はセクハラ親父から逃れる時のような表情で大きくかぶりを振って、肩に乗った男の手を振りほどく。
「わかった! あなた私たちと一緒に死にたいんでしょ?」
「あ〜、そうなんだ! も〜〜、一緒に死にたいなら死にたいでそう言えばいいのに。 まぁ〜、頼み方によっちゃ〜混ぜてやってもいいわよ」
「はぁ〜?」
由乃に指差されながらそう決め付けられた男は、二人の言葉に口をポカ〜ンっと開けてしまう。 三人の背後に地獄の門が見えた気がした。
そして、男はこの場を立ち去れたであろう最後のチャンスを見逃した。
祐巳と由乃のすぐ後ろにいた志摩子がす〜っと前に出てきた。
「あの〜、悪いのですけれど、先に飛び降りて見せてくれませんか? じつは私ちょっと足がすくんでいるんですよ」
「え〜〜?! ちょ、ちょっと…」
「あれ? そうなの志摩子さん?」
「ええ…恥ずかしいのだけれど……自分では気がつかなかったのだけれど軽い高所恐怖症なのかしら? でも、この人が見事に本懐を遂げたのを見届ければ………決心がつくと思うの…」
「あ…の、いや……え〜〜と……き、君たちって、ひょっとしてタ○イ病院から抜け出してきたの?」
「そんな地元民しか知らないローカルな精神病院の名前出さなくても」
「ごちゃごちゃ言ってんじゃないわよ!」
由乃はグッと男のベルトを掴むと、さして力を入れているふうに見えないのに、男を片手で頭上に軽々と持ち上げる、クルリと向きを変えると先ほど話していた貯水池に向かってポイッと放り投げた。
「うっぎゃあぁぁ〜〜〜〜〜〜〜っ ゆみさ〜〜〜〜んっっ」
ゴスッ
パッシャ〜〜〜ン
「呼んでるわよ祐巳さん」
「あら知り合いだったの?」
「ん〜〜、知らない人だけどなぁ〜」
「じゃあ、ストーカーだったりして」
「え〜、やめてよ。 でも……」
心底いやそうな顔をした祐巳は、一旦澱んだ水底に沈んで”ユぅラァぁぁ〜〜…”っと浮き上がってきた男の体に目を向けた。 コンクリートのヘリに頭を打ち付けたため頭の付近から水が赤く染まりだしている。
「なんか、かなり痛そうね…」
「そうね、落ちるかっこうも私の美的感覚からすると少し許せないわ」
「少しじゃないと思うわ、カエルみたいに手足を広げて……二、三度裏返ったりして…よく見てみればあの水、なんか粘り気があるように見えるわ」
「いやだわそんな不潔な水……そうなの……やっぱり人間には”向き””不向き”があると思うの、高い所が苦手な私には飛び降りは向いていないと思うわ。 ごめんなさい祐巳さん由乃さん」
「そ〜ねぇ〜。 それにしても彼、さっさと死ねてうらやましいわ」
「ホントね、一人でいい思いしてさ。 あの世でお礼してもらわなくっちゃ」
「でもそうすると祐巳さん、どうするの? 死にたくて死にたくてやるせないこの気持ちは…」
「しかたないわね〜、ここはオーソドックスだけど電車に飛び込もうか」
〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 つづく・・・・
※この記事は削除されました。
題名keyから連想してしまいました。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「志摩子?」
「あ、お姉さま」
「ご無沙汰〜。元気だった?」
ぎゅっ。
「お、お姉さま?」
「志摩子志摩子志摩子〜」
ぐりぐり。
「おおおお姉さま、乃梨子が見ています」
「いいじゃない〜。久しぶりに会ったんだから。いいよね〜乃梨子ちゃん」
「ダメです。離れてください。聖さま」
「う〜ん、手厳しいなあ。じゃあ次に乃梨子ちゃんを」
「結構です。お断りします」
「そんなにつんけんしなくっても。」
ぐっすん。
「乃梨子、聖さまに失礼よ」
「ああ、志摩子はこんなに優しいのに」
「どうせ私は優しくないです」
「乃梨子!」
・・・・・・・・・・・・・・・・
「きらい」
「え?」
「聖さまの笑顔も、志摩子さんの嬉しそうな顔も」
「乃梨子・・・」
「志摩子さんに触れる手も、志摩子さんに話しかける声も」
「そんな事・・・」
「やきもちだって分かってるけど!嫉妬だって分かってるけど!」
ぎゅっ。
「ししし志摩子さん?」
「ごめんなさい。でも、今は乃梨子だけなの。それはだめ?」
ぼっっ。
「・・・反則だよ。そんなの」
「乃梨子」
「反則だよ。もう何も言えないじゃない、私」
「でも、本当よ?」
「ううううう」
ちゅっ。
「これでも信じてもらえない?」
嬉しいけど、嬉しいけど!やっぱり私、今日も勝てない・・・。
家を出てから何かしらの違和感は感じていたのだ
そう、それがなんの違和感か分からなかったのだが……
「なんだろう?」
そんな事を考えながら祐巳はマリア像にあわせていた。
「ごきげんよう。お姉さま」
後ろの方でそんな言葉を聞いて、
私にも、妹が出来るか少し不安になりながらも祐巳はいいなと思っていた。
「お姉さま」
言われたいなーと心の中で祐巳は呟きながら両手を離して校舎に向かおうと動こうとしたが、
「お姉さま」
と、後ろでまだ言っているので、ここはお姉さまのようにビシッと山百合会の一員として、言った方が良いと思い、自分のことは棚に上げて振り返ったが、言葉が出なかった。
「聖さま」
そう、後ろに立っていたのは去年卒業したはずの聖さまだったの。
「っえ、なに言ってるんですか?お姉さま」
「っへ!私がお姉さま?」
意味が分かっていない顔で聖さまは返してきて、よく分かっていない祐巳もなんだか分からない言葉を返すことになった。
「そうですよ!お姉さまです。」
「でも、卒業してますよね???」
言いながら祐巳は混乱していた。だが、答えはすぐ返ってきた。
「何言ってるんですか!私はまだ、1年生ですよ。」
「まさか、私が嫌いになったんですか?」
「そ、そんなことないよ。」
と、すごく不安そうに聖さまもとい聖ちゃんに見つめられ、祐巳の頭は混乱しながらも聖ちゃんを安心させるため少し引きつりながらも微笑んだ。
少しは安心した聖ちゃんと別れクラスへ向かっている時に、混乱している頭の片隅で聖ちゃんのキャラが変わってないか、と気になった。
そう、祐巳が感じていた違和感とは着替えの時ロザリオを身に付けていないことだった。
クラスの席について少し冷静になった祐巳は、さっきの出来事を思い返しいくつか不思議に思えることがあることに気づいたのです。
あの、1年生は聖さまか。
本当に妹か。
でも、どうすれば良いのだろうと、悩んだ末誰かに聞いてみることにした。まあ、変だと思われない程度にだが。
「ごきげんよう。由乃さん、少し良い?」
そこで、今ちょうど入ってきた親友のはずの由乃さんにあたることにした。
「ごきげんよう。祐巳さん、いいけど、どうしたの?」
「私たち親友だよね」
「う、うん。親友だよ。」
もう、無理かも。変だと思われてるよ。
「あのね、私の妹知ってる?」
「っへ。何言ってるの祐巳さん。大丈夫?」
「ちょっとね」
本気で由乃さんに心配されちゃった。ごめんね。
「聖ちゃんでしょ。そりゃ、紅薔薇の蕾の妹だからねー」
「ちょっと確認だけど黄薔薇は令さまと由乃さんで紅薔薇は祥子さまと私と聖ちゃんだよね」
「そうだけど、ホントに大丈夫?風邪でも引いた? もしかして、別次元の祐巳さんとか。なんて」
うっ否定できない。現在似たような状況だから。
「うん。今、すこしおかしいかもしれない」
「少しではないのは確かだね」
ズバッと斬り返された。酷いの由乃さん。もう少し言いようってものがあるんじゃないですか。と、思いながら考えていたら
ふとあることに気づいた。
「由乃さん白薔薇は志摩子さん?」
「何言ってるの?志摩子さんは妹でしょ。白薔薇さまは静さまでしょ。」
「っえ。静さま!」
「そうだよ。いや本当に大丈夫?保健室行く?それとも病院にする?」
いや、そこまでは。でも、私の妹が聖さまだとすると志摩子さんはどうなるかと思ったけど静さまの妹になったか。あれ、だったら、静さまのお姉さまは?
「じゃあ、」
「いや。もういいから、保健室行こう」
「あ、わ、分かった。大丈夫だから、いや、ホント」
そう言いながら席を立った由乃さんを止めながらこれ以上聞くと本当に保健室に連れて行かれてしまうことが必至なので、ここで諦めなければならなくなってしまった。
続く?
※未使用キー限定タイトル1発決めキャンペーン第11弾です
ところどころ抽象的な部分は想像にお任せします(何
☆
とある放課後、まだ紅薔薇姉妹2人だけの薔薇の館に珍しい客がやってきた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう。さっそく来たのね」
「ええ」
「あの、お姉さま。なぜ手芸部の部長がここに?」
「うふふ。それはね……」
「ごきげんよう……って、祐巳さん?」
「うぅ、恥ずかしい……」
程なくやってきた志摩子と乃梨子が目にしたのは、手芸部部長手作りの妖精風ワンピースを着た祐巳の姿だった。
「似合ってますよ、祐巳さま」
「そうね、とっても似合っているわ」
「そ、そう?」
「そうよね、やっぱり白薔薇姉妹は話が分かるわ」
恥ずかしがる祐巳を横に早口でまくし立てる祥子に微かな不安を抱いた2人。
「ということで、お二人にはこれを」
そして案の定、その不安は現実になるのだった。
「ごきげんよう……わっ、どうしたのこれ」
「志摩子さん、凄く似合ってますよ」
「乃梨子もよく似合っているわ」
少し遅れてやってきた令が見たのは妖精祐巳に西洋人形志摩子と日本人形乃梨子だった。
「ごきげんよう、黄薔薇さま」
「あ、手芸部の部長じゃない。あなたがこれを?」
「ええ。紅薔薇さまに相談したら是非にと言われたので」
「そういうことよ。ところで令」
「んっ、なに?」
目をきらんとさせて令に密談を持ちかける2人。ちなみに白薔薇姉妹は2人の口八丁に簡単に乗せられて、そのまま2人の世界に突入していた。
「私はいつまでこの格好をしていればいいんですかぁ」
なので祐巳のつぶやきに答える人はその場には1人もいなかった。
「ごきげんよう……おわっ、なんじゃこりゃ」
「蔦子さん、まだ撮るの?」
「後で焼き増しお願いしてもいいかしら?」
「ええ、それはもちろん」
部活に行っていたのでかなり遅れてきた由乃が見たのは妖精祐巳と西洋人形志摩子に日本人形乃梨子、そして3人を激写している蔦子さんに何やら怪しげな視線を送ってくる薔薇さま2人+手芸部部長だった。
「待っていたわ、由乃ちゃん」
「さあ、由乃もこれに着替えて」
そしてさっそく差し出された衣装はというと……。
「えーと、何でメイド服に猫耳なのですか?」
「由乃さんに似合うと思って」
「あ、お仕事はもう終わっているんですね。じゃあ先に帰らせて……」
「だーめ。これもお仕事よ、由乃ちゃん」
「そんな、横暴ですよ」
「由乃さん、諦めて着ちゃいなさいな」
「そうだよ、私達だって着てるんだし」
「うーっ、分かったわよ」
抵抗してみたものの多勢に無勢、諦めて着替えた結果どうなったかというと。
「なんかものすごく似合ってますね」
「あんまり嬉しくないなぁ」
「もう、素直に喜べばいいのに」
「祐巳さん、恥ずかしくないの?」
「うーん、最初だけだよ」
4人の中で一番好評だったらしくて。内心まんざらでもなかったのだけれど、令ちゃんが変なことを言い出したからとりあえず踏んでおいた。というか令ちゃん、その発言の瞬間みんな引いてたよ?
「……と、このように薔薇さま方をメロメロにさせられるくらい魅力的な衣装を作ることを1つの目標として頑張って欲しいということを部長として最後の挨拶にかえさせて頂きます」
手芸部員からひときわ大きな拍手が上がる。受験のために早めに部長交代をしたいというお姉さまの願いを受けて今日から私が部長になるわけだけれど。
(でもお姉さま、それは個人的な願望だったのでは……)
以前2人で話していたときに、この2年弱は概ね満足しているけれど祐巳さま達に自分が1から作った衣装を着て欲しいというのが心残りと言っていたのを私は覚えている。いつの間に実現させたのかは知らないけれど、それを部の目標にするのはどうなんだろう? まあ、目標としては良いのかもしれないけれど。
さて、次は私の挨拶だ。とりあえず大体何を言うかは考えてきたのだけれど、今の発言に突っ込みを入れるかどうか。それが私の最初の試練なのかもしれない。
(……って、それどんな試練だ私ー)
なんとなく、心の中で泣いてみた。
「フィガロの結婚」クロスオーバー。
サブタイトル:「真里菜の結婚・なんでそ〜なるの!?」
【No:2114】の続きです。
大幅にアップが遅れましたことを、この場を借りてお詫び申し上げます。
(第2幕・裁判沙汰です、お姉さま)
「どういうことなんですか、祐巳さま」
「そこに書いてあるとおりよ、美咲ちゃん」
1枚の書類を手に、美咲さんは祐巳さんとの間に見えない火花を散らしています。
「どこまで卑怯なんですか、あなたは」
「あら、借金のときには担保がつきものなのよ」
その書類は真里菜さん直筆の借用書。
そこにはなんと、「借金が返せなかったときには福沢祐巳と結婚する」と
書いてあったからさあ大変。
真里菜さんが止めるのも聞かずに、怒って祐巳さんの部屋まで乗り込んでいった美咲さんですが…。
「そんなことは百も承知です!本人の意思とは関係なしに強要された借用書は
無効であると、わが国の民法はちゃんと定めているではありませんか!」
「じゃあ借りたものを返すのは、民法ではどうなっているのかしら?」
「うっ…」
頑張れ美咲さん。
ここで諦めたら、真里菜さまとの結婚がボツになっちゃいますよ。
「…祐巳さま。あなたいつからそんなヤミ金もどきの取立てなんてするようになったんですか」
祐巳さんはまったく動じていません。
「ヤミ金なんて人聞きの悪いことを…私は遊びすぎて金に困ってたあの娘を援助しただけよ」
「その『援助』の見返りがこれですか…やっぱり私の思ったとおりでしたわね」
「思ったとおり?」
一瞬、祐巳さんの表情が変わったのを、美咲さんは見逃しませんでした。
「なんだか嫌な予感がして、少し調べてみたんです…どんな手段かはお話できませんが。
そしたら、どうなったと思います?」
「…どうなったというのかしら」
美咲さんはわが意を得たりとばかりに叫びました。
「真里菜さまは、最初から、借金なんてしていなかったんですよ!」
青ざめる祐巳さんの前で、テープレコーダーが回ります。
そこから聞こえるのは、明らかに自分と聖さんの声。
『ねえ聖さま、昔のよしみで相談があるんだけど』
『別れた人間に、いまさら何の用なの?』
『そんな冷たいこと言わないで。どうしてもあなたの力が必要なの』
『今まで何度それで煮え湯を飲まされたと思っているのよ。もう私のもとに現れないで』
『…分かったわ。じゃあこれで最後にする。ねえ、祐巳の最後のわがまま、聞いてくれる?』
『…なんだよ』
『あなた、ちあきちゃんと結婚したがっていたでしょう?』
『それが何?』
『ちあきちゃんを今のご領主さまに奪われたのは、真里菜のせいでしょう?』
『話が見えないね』
『だったら真里菜に復讐してやるチャンスよ。まずは適当な口実をつけてあの子を呼び出して。
それでたっぷりとお酒を飲ませて、したたかに酔っ払わせるのよ。
その上で、ありもしない借金話をでっち上げて、酔った勢いで借用書を書かせるの。
もちろん真里菜自身にね。
そうすれば私は真里菜と結婚できるし、あなたは真里菜に復讐できる。
悪い話じゃないでしょう?』
『祐巳、あんたいつからそんなに黒くなったの』
『嫌だわ聖さま、生きるためにはこういう技術も必要よ』
『…参ったね、君には』
『どこに?』
『君のすべてにさ』
『じゃあ、協力してくださるのね?』
『ああ。でもこれが終わったら…そのときは私たちも終わりだよ』
『私たちの、最初で最後の共同作業に、乾杯』
テープはここで止まりました。
おやおや、先ほどまで優勢だった祐巳さんが、今や自分の足で立つのも精一杯。
美咲さんはそんな祐巳さんに、相変わらず強気な態度です。
「…分かったわ。そこまでやるなら、すべて法廷で明らかにしましょう!」
「望むところです。ただし祐巳さま、1つ覚えておいてください」
部屋を立ち去る寸前、美咲さんは意味深なセリフを吐きました。
「真実というのは、ときに私たちの予想の斜め上をいくものなんですよ」
やたら長い。後味悪し。続けられるか様子見。
「巫女さんの格好?」
「ええ、乃梨子なら条件も合うのだけど」
志摩子さんがアルバイトの話を持ってきたのは、とある放課後のことだった。
アルバイトと言うのは志摩子さんの話によると、もうすぐ小寓寺で執り行なっている四年に一度の法要があるとかで、その中で、乃梨子に巫女の役をやって欲しいということだった。
「あ、あの、二つ聞いて良い?」
「ええ、二つといわずに、私で答えられることならいくらでも良いわよ」
「うん、でもとりあえず、一つ目はお寺の法要なのに何で巫女なの?」
巫女は神道。でも小寓寺は生粋の仏教のお寺のはずだ。
「今回の行事は『御祓いの法要』っていってね、小寓寺に縁のある神社の神様が仏教に帰依したことに由来するお祭りなのよ。だから巫女役が必要なのよ」
「ふうん」
なにやら判ったような判らないような。とにかくそういうものだと思うしかなさそうだ。
「でもさ、それなら、その神社の巫女さんがやったらいいような気がするけど」
「その神社はもう廃棄されていて神主さんも巫女さんも居ないのよ」
「そうなんだ……」
既に廃棄された神社との縁のお祭りと聞いて、乃梨子はちょっと奇異な印象を受けた。
「乃梨子、もう一つは?」
「え? ああ、どうして志摩子さんじゃ駄目なのかなって」
わざわざ乃梨子に頼む理由がわからない。志摩子さんには何か別の役割があるのだろうか?
「四年前の時は私がやったのよ。でも今年は年齢制限に引っかかってしまったから」
「年齢制限? でも私に頼むってことはぎりぎりで?」
「ええ、そうなの。無理にとは言わないわ。嫌だったら他を探すから」
その法要の日は特に予定も無く、ましては志摩子さんからのお願いなので、乃梨子に断る理由は無かった。
でも、折角だからもう少し聞いてみることにする。
「ええと、条件って年齢だけ?」
そう聞くと、
「条件は、性別と年齢と、その……」
と、志摩子さんはちょっと口ごもって視線を彷徨わせた。
なにやら頬を赤くしているけど……。
その挙動不審な志摩子さんを見て乃梨子はピンと来た。
「あっ! いいよ、何となく予想してたから。巫女だもんね?」
「そ、そうなのよ」
もう一つの条件は多分『処女であること』だ。
というか、乃梨子は処女なんて言葉を口にするのに恥らうものでもないと思うのだけど、志摩子さん的には乃梨子に面と向かって聞くのは憚られることだったらしい。
が、次の言葉でその理由がなんとなく判った。
「でも、乃梨子、どうして……まさか?」
「どうして」で志摩子さんの表情が曇り、三点リーダーのところで真剣な目で乃梨子を見つめたのだ。
「いやいや、無い無い! 無いってば!」
志摩子さん勘ぐりすぎ。乃梨子ならありうるとでも思ったのだろうか?
そりゃ、共学だったから仲の良い異性の友達くらいは居たけれど、中学だし、そんな生々しい話は全然無かったし聞かなかった。
「そうじゃなくって、瞳子とかでもいいのかなって。ほらあの子、演劇部だし」
「あら、そうね……乃梨子はやっぱり気が進まない?」
そう聞き返されて、乃梨子は「断る理由が無い」と思いつつも、“自分より上手く出来る人”を挙げて自然に自分がやらなくて済むような流れにしようとしていたことに気づいた。
人前で目立つことに対する苦手意識からだろうか?
自分では判らなかったけど志摩子さんには見抜かれてしまったのだ。
「あ、うん……」
ここは正直になるべきだ。
そう思い、乃梨子は言った。
「……私は人前に出るのはちょっと苦手かも」
「あら、お御堂では誰に言われたのでもないのにみんなの前に出たでしょう?」
「うっ」
ここでそれを言いますか?
というか志摩子さん、それは思い出したくない記憶じゃないんですか?
「あ、あれは、志摩子さんのためだったから」
「あら、じゃあ私がお願いすればやってくれるのかしら?」
微笑みながらそんなことを言ってくれる志摩子さん。
最近、お姉さまらしくなったというか、乃梨子をいじめるようになったというか。
とりあえず乃梨子が墓穴を掘ったってことで、負けを認めるしかなさそうだ。
「し、志摩子さんのお願いなら……」
乃梨子がそういうと志摩子さんは微笑んで言った。
「うふふ。ありがとう。でももう少し当たってみるわ」
どうやら、今のは軽いじゃれあいで、本気で乃梨子に決めようとしていたわけではなさそう。
「そうだわ。乃梨子もやってくれそうな人に心当たりがあったら聞いてみてくれるかしら?」
「うん。それなら。でも知り合いの方が良いんだよね?」
いきなり初対面の人を持ってくるよりは知り合いで信頼できる人に頼めるのならその方が良いに決まってる。
「そうね。面識があったほうが話はしやすいでしょうけど、条件に合う人ってそんなにいたかしら?」
まず、年齢制限で志摩子さんの学年は、ほぼ全員アウトだ。となると乃梨子の学年以下で、志摩子さんとも一方的でなくある程度面識がある人か。
そうなると、対象はかなり限られてくる。
まず、瞳子と可南子さんは基本として、あとは新聞部の日出美さんくらい。
日出美さんは出演するより取材したいって言いそうだけど。
翌日、早速、瞳子と可南子さんにアプローチした。
「ごめんなさい。その日は親善試合があって」
可南子さんは申し訳なさそうに頭を下げた。
「ううん、謝ることないよ。で、瞳子は?」
「私も残念ながらその日は空いてません」
「そうか……」
結局、同じクラスの候補者は二人とも駄目だった。
「乃梨子さんはやるの? その巫女って?」
「え? いや、やってくれる人が居なかったらそうなるかも。まだ判らないわ」
「そうですか。都合がつけば見に行きたいですね乃梨子さんの巫女姿」
「いや、あんまり広めないで。万が一やることになったら恥ずかしいから……」
知り合いがギャラリーに居るとなると恥ずかしさが倍増する気がする。
そういえば、一般の人も見に行ける行事かどうかは聞いていなかった。
その後、休み時間に日出美さんのクラスに行ったけど、彼女からは「そういうのは性に合わないから」ときっぱり断られた。
「……え? 二人なんだ?」
昼休みになって、薔薇の館で志摩子さんに結果を報告したのだけど。
「ええ。でも、お父様も知人を当たっているから、心配しなくていいわ」
巫女役は実は二人とのこと。
「じゃ、最悪、私と小父様の方で都合した誰かがやることになるのかな?」
「乃梨子は良いの?」
「うん。苦手って言ったけど、志摩子さんの役に立てるんだから嫌じゃないよ」
それは最初から思っていたことだ。
「そう。判ったわ。最終的にやってもらうかどうかは、お父様に話してから、後で返事をすることになるから」
「うん」
乃梨子が覚悟を決めた所で、扉のほうから階段を登る足音が聞こえてきた。
そして、茶色い扉を開けて中に入ってきたのは由乃さまと祐巳さまだった。
「ごきげんよう」と挨拶して、乃梨子がお茶の為に席を立つと、由乃さまの声が聞こえた。
「あの話ね、菜々が『面白そうだから是非やらせて』だって」
「あら」
どうやら巫女の件は由乃さま経由で菜々ちゃんにも打診が行っていたようだ。
志摩子さんが流しの所に居た乃梨子に向かって言った。
「乃梨子、聞いていた?」
「はい」
「どうする? 菜々ちゃんと乃梨子ってことでお父様にお話しする? それとも……」
志摩子さんは乃梨子が『苦手だ』って言ったことに気を遣って、やる気満々の菜々ちゃんが居るから乃梨子は辞退しても良いって言っているのだ。
でも、もう覚悟を決めたのでいまさら断る気はない。
「うん、私と菜々ちゃんってことでいいよ」
「そう。判ったわ」
結局、この決断自体は分岐点でもなんでもなかったのだけど、でも、この時から運命の歯車は狂いだしていたのだ。
†
「なんか、こう血が騒ぐわね」
「由乃さんったら」
「はぁ……」
お祭りの当日、乃梨子は由乃さまと祐巳さまと一緒に、人ごみで混雑した道を歩いていた。
甘い香りや醤油やソースの焦げたような香ばしいにおいがごちゃ混ぜになったような独特の空気が辺りを覆う。
乃梨子がここを歩いていることでも判る通り、結局、巫女役をやるのは菜々ちゃんと、もう一人は乃梨子ではなく別の子がやることに決まっていた。
理由は「若い方が良い」とか何とか。向こうで用意した子は小学生だそうだ。
ついでに『お祭り』と言っている位で、行事は一般に公開されていて、お寺周辺の道には夜店が立ち並び、結構な人手で賑わっていた。
賑やかな雰囲気に当てられたのか、テンション高めの由乃さまは言った。
「私、志摩子さんの家に行くのって初めて」
「あ、私もだ」
由乃さまと祐巳さまは付き合いは乃梨子より長い筈なのに志摩子さんの家に行ったことはこれまで一度も無かったそうだ。
「普段はもっと静かなんですよ」
「そうなんだ」
とはいっても乃梨子もここへは数えるくらいしか来ていないのだけど。
今日、乃梨子がここに来たのは、由乃さまに「菜々の勇姿を見たくないの?」と詰め寄られ、結局、押し切られてしまったから。
本当は、志摩子さんは手伝いがあって乃梨子の相手をしている暇は無いし、夜店が出てるからって遊びに来るには遠すぎたので、巫女役をやらないことになった時点で乃梨子は来ないつもりだったのだ。
ちなみに祐巳さまは祥子さまを誘ったみたいだけど、祥子さまは人ごみが苦手だそうで、それを押して来るほどの理由が無いと辞退されたそうだ。
令さまは「来るかもしれない」とのこと。一応、支倉家は小寓寺の檀家だから。でもまだ姿を見かけていない。
さて問題の菜々ちゃんの演技(でいいのか?)までまだ結構時間があった。
午前中にリハーサルとかがあって、菜々ちゃんは早々にここに来ているのだけど、実演は夕方と聞いている。
「じゃ、時間もあるし、遊んでいこう」
と、由乃さまが元気よく提案した。
「良いけど、何する?」
「何って、全部よ。輪投げ・射的・金魚すくいは基本でしょ。あと、焼きそばたこ焼きお好み焼き、鯛焼き綿菓子りんご飴、チョコバナナも外せないわ」
「……前半はともかく、後半な胃がもたれそうなんですけど」
「由乃さんって小さいころはこういう所に来れなかったんだよね?」
「うん、手術してからも、高校生じゃそうそう来る機会なかったしね」
ああ、そうか。由乃さまは一年生の秋までは心臓の病を患っていたんだっけ。
なるほど、妙にテンションが高いのも頷ける。
「判りました。私も大切な志摩子さんの親友のために協力しちゃいます」
「おお、良く言った!」
「あー、私もだよ?」
「よし、じゃあ出店全種類制覇を目指して!」
「「おー!」」
と、盛り上がったものの、由乃さまはお正月には初詣でこういうところに来たのでは?
それを口にしたら、由乃さまは、
「家族と一緒じゃこんなことできないでしょ?」
「なるほど」
由乃さまは、露店がたくさん出ることを志摩子さんから聞いていたのだろう。
菜々ちゃんの出番が夕方だって判っているのに、昼前に待ち合わせたのはそういうわけだったのか。
「金魚すくいと射的発見!」
由乃さまがターゲットを発見する一方で、祐巳さまは反対の方向を指して言った。
「由乃さん、あっちの食堂に焼きそばとかあるけど、あそこで食べていかない?」
食堂といってもイベント用の仮設テントが並んだ休憩所みたいなところだ。
「なんか食べ物系が集まってますね」
焼きそば、お好み焼き、なんとうどんや蕎麦まであった。
露店というより、本当にしっかり食べる為の食堂だ。おそらく周辺に飲食店がないがゆえの出店であろう。
「駄目よ、こういうのは歩き食いが醍醐味なんじゃない」
「えー、そうなの?」
「決まってるじゃない」
由乃さま的には決定事項のようだ。
リリアン生徒会の要人が出店巡って歩き食いなんて、シスターが知ったら熱出して寝込みそうだ。
でも。
「良いですね」
乃梨子はこういうの、嫌いじゃない。
ひとつだけ残念なことがあるとすれば、志摩子さんが法要の手伝いで一緒に回れないことくらい。
「じゃ、ちゃんと付き合いなさいよ?」
「もちろんです」
「えー、多数決なのー?」
折角ここまで来たのだし、楽しまなければ損だ。志摩子さんとなら最高だけど、この二人の先輩と一緒というのも、悪くない。いまさら先輩だからって気兼ねする仲でも無いし。
そして、テント食堂に未練を残す祐巳さまを両側から捕らえて、三人は先ず、遊戯系露店に向かったのだった。
射的、たこ焼き、金魚すくいと手当たり次第って感じで露店をこなして行き、お寺の山門に至った頃には、三人ともお持ち帰り袋をぶら下げていた。たこ焼きを全員一皿づつ買ったのが敗因だろうか? でも当初の予定通り、買うものはしっかり買っていた。
「お好み焼きの後の鯛焼きがきつかったわ」
「無理しないでお持ち帰りにすれば良かったのに」
「祐巳さまは甘いもの系コンプリートですね」
「そういう乃梨子ちゃんだって、残ってるのりんご飴と綿菓子だけじゃない」
たこ焼き一皿、お好み焼き一人前、綿菓子一つ、りんご飴一個、杏飴一個、鯛焼き1匹、カルメ焼きは一枚っていうのか? あと、チョコバナナは丸一本じゃなくてカットしてある一口サイズが3個、あんまりお祭りっぽくないけどポップコーン一カップ。基本的に皆同じだけ買った。まあ完食がノルマじゃないから途中からお持ち帰り袋の出番となったのだけど。
勿論、食べ物だけじゃなく、金魚すくいや、輪投げ、射的等の遊戯系も殆ど回った。
でも、乃梨子は由乃さまと張り合って難しいのばかり狙ったため全敗。小物ばかり狙っていて、何の役にも立たないような良く判らない安っぽい置物を獲得した祐巳さまが今回の優勝者となった。
雑多な匂いが渦巻く露店を離れ、お寺の敷地内に入ると、本堂の前に、行事のためのスペースと観客を区切る囲いが出来ているものの、人はまだまばらだった。
それもそのはず。一般に公開している法要が始まるのはまだ数時間後だった。
「ねえ、菜々と志摩子さん、家に居るかな?」
「どうでしょう? 菜々ちゃんはリハーサルが終わったら本番までは空いてると聞いてますけど」
そんな会話をしつつ、三人で母屋の方へ向かっていた。
でも、志摩子さんはお手伝いがあるからとしか聞いていないのでまだ忙しいかもしれない。
なんて思っていたら、母屋と本堂をつなぐ渡り廊下の所で手を振る人影が。
「菜々ちゃんだー」
祐巳さまが声を上げる。
「おー、菜々、それ似合ってるわよ」
「可愛い可愛い」
「ありがとうございます。由乃さま、祐巳さま」
菜々ちゃんは上は白で下は鮮やかな紅色の袴。いわゆる巫女装束姿だった。
「本番はまだの筈だけど、もう着ているの?」
「いえ、衣装合わせがありまして」
「ここに居たのは、やっぱり由乃さんに見せるためだったりして?」
この言葉は祐巳さまだけど、由乃さまが神妙な面持ちで菜々ちゃんを見つめているのが見えた。
「いえ、偶々です」
きっぱりと言い放つ菜々ちゃんにがっくり来る由乃さま。こういうときは由乃さまって判りやすい。
「でも志摩子さまからそろそろ来る頃だからって聞いてましたから」
居るかな? と思って眺めたら丁度会えたってことらしい。
「でもやっぱり、お寺に巫女は違和感がありますね」
「そうかな? 乃梨子ちゃんはお寺慣れしてるからそう感じるんじゃない?」
「寺慣れって、私は何者ですか」
「何って、仏像が好きな乃梨子ちゃん」
祐巳さまは即答してくれた。
「……皆さん、楽しまれたようですね」
菜々ちゃんが物欲しそうな目でみんなのお持ち帰り袋に視線を向けていた。
「菜々も今から行ってみる?」
「いえ、そのお誘いはとても魅力的なのですが、実はこれから最後の打ち合わせがあるので」
「そっか。残念。チョコバナナ要る?」
そう言って由乃さまは袋から串の付いたチョコバナナ(一口サイズ)を取り出した。
「いえ、では一口だけ」
「じゃ、手汚さないように、あーんして」
「あ、はい」
菜々ちゃんは、由乃さまのチョコバナナを一口齧ってから、「それでは」と、建物の中に戻っていった。
「志摩子さんも打ち合わせかな……」
「まあ、家の人は大忙しでしょうね」
さて。
「まだ回るんですか?」
由乃さまは元気が尽きないようだ。
「乃梨子ちゃんは休んでて良いよ」
「じゃあ荷物お願い」
「はぁ、判りました」
結局、乃梨子は境内に残り、由乃さまと祐巳さまは行事が始まるまでってことで、また露店の方へ遊びに行ってしまった。
「ごきげんよう。久しぶりね。ええと乃梨子ちゃんだっけ?」
「お久しぶりです。お話しするのは初めてのような気がしますが」
境内の隅で乃梨子が休んでいる所へ、先代黄薔薇さまの鳥居江利子さまがやってきたのは、由乃さまたちが去ってしばらくしてからのことだった。
「どうも、山辺です。会うのは初めてですかな?」
江利子さまは無精ひげを生やした熊のような風体の男の人を伴っていた。
「この人、花寺の講師なのよ」
「あ、どうも。はじめまして。ええと、江利子さまの?」
恋人さんかな? と思ったら、
「まだ恋人じゃ無いのよ。残念ながら」
まだ、だそうだ。
「今日はどうしたんですか? 由乃さまに誘われて?」
「ううん、令よ。令が教えてくれたの。それと、この人は一応仏教系の学校の教師だから」
「いえ、それはあまり関係ありませんよ」
誘ったというか、山辺氏の反応を見るとどうやら江利子さまが強引に連れてきた様子。
「令さまは来られないのですか?」
「今日は来ないそうよ」
そうか。
由乃さま、がっかりするかな。
「ところで乃梨子ちゃん、今暇なの?」
「ええ。行事が始まるまでは荷物番ですから」
「じゃ、暇つぶしに、この『御祓いの日』に関する噂知ってる?」
「『みはらいの日』?」
「そう。この地域の人や檀家さんは今日の『御祓いの法要』ことをそう呼ぶのよ。じゃあ知らないのね?」
「はい」
「檀家さんの間では結構有名な話なんだけど、まあ志摩子はそんな話しないか」
「なんですか?」
そういう言い方をされると気になる。
「江利子さん。あまり言いふらすような話ではないでしょう?」
「うん、まあそうなんだけど、乃梨子ちゃんには知っておいて欲しいから。だって志摩子の妹だしね」
「だから、なんの話ですか?」
なにか非常に持って回った言い方をして好奇心を煽ってる気がするのだけど、乃梨子はしっかり煽られてしまった。
「……そうですか。では話すのなら私からお話しますが、その前に」
そういって、山辺さんは真剣な顔で乃梨子の目を見て続けた。
「あまり愉快な類の話ではありませんが、かまいませんか?」
そんなこと聞いてみなければ判らないではないか。
「ええ、構いませんよ」
そう答えた。
「実は小寓寺で四年に一度行われるこの『御祓いの法要』の晩に、毎回人が死んでいるんです」
「人が!?」
いきなり、なんというか胡散臭い話になった。
「はい。これは噂ではなくて本当に毎回二人以上の人が亡くなっています」
「でも、そんな話、志摩子さんからは何も……」
乃梨子がそういうと江利子さまが口を挟んだ。
「それはそうでしょ? 自分の家のお寺でやっている行事の晩に人が死ぬなんて縁起でもない話するわけ無いじゃない」
「それで、なにが噂なんですか?」
「その死に方が奇妙なんです」
「え?」
「最初は16年前。この山の裏側でバラバラ死体が発見さた事件がありました。結構有名な事件ですよ。僕はそのころ学生でしたから良く覚えていますが、最終的にその事件は精神異常者の通り魔的殺人事件ってことで幕を閉じました」
そして、山辺さんの話は続いた。
12年前、裏山の所有者夫婦が山中で渓谷に転落死。奥さんの遺体はいまだに見つかっていないそうだ。
次は8年前。今度はこのお祭りの起源の神社の支社の神主さんが原因不明の突発死。主を失った神主さん一家は離散して息子さんが行方不明。
最後は4年前。この近くの山道でバイクの転落事故があったそうだ。バイクを運転していた少年は即死。後ろに乗っていたと言われる後輩の女の子は行方不明。
「あの、それって偶々では?」
四年の間に事故や病気で死ぬ人間っていったらここH市に限っても一人や二人では済まないはずだ。
「そうでしょうか? それらは必ず『御祓いの日』の晩に起こっているんですよ。しかも全て『魅祓神社』に関係した人ばかり」
「えっと、『みはらい神社』って、今回の法要に関係した神社のことですよね?」
「『鬼』に『未』と書いて『魅』に祓うで『魅祓』です。鬼の字が含まれるのは字面が悪いとして、法要は『御(おん)』の字で『御祓い』と表記しますが、こちらが本来の書き方なんです」
「今日はその神社の神様が仏教に帰依したっていうお祭りなんですよね?」
「表向きはね」
「はい?」
「人が死ぬのは『魅祓い様』の祟りだっていう噂です」
「祟り? その『みはらいさま』ってなんですか?」
「神様の本当の名前は失われてしまってます。だから神社の名前からそう呼んでいるんです」
「この『魅祓いの法要』は、跡継ぎがいなくて廃止されてしまった神社に代わってその神様を鎮める為に行われてるって話。その筋では有名な話よ」
「じゃ、じゃあ、祟りは? ちゃんと鎮めているんでしょ?」
「最初の犠牲者は山に進入して聖域を汚しました。次の夫婦は山を外部の資産家に売り払おうとした。結局、契約前にその夫婦が亡くなって、もともと小寓寺が管理していた神社を含む一部は小寓寺に贈与されました。遺言があったんですね。次の神主さんは魅祓神社を復興しようと活動していましたが、その活動というのが収益活動の一環として、小寓寺と袂を分かって観光化するというものだったんです。最後の少年というのは噂によると最初の山を所有していた夫婦の息子だという話です。彼は普通に行ったら山を相続するはずだった。彼は小寓寺への贈与に異議を申し立てられる唯一の人物でした」
「えっと、つまり?」
「魅祓い様に仇なそうとした人やその関係者ばかりが死んだり行方不明になっているってこと」
「だから祟りですか?」
にわかには信じがたいけど、本当だとしたら気味の悪い話だ。
「乃梨子ちゃんはどう思う?」
「どうって……」
この科学万能の時代に神様の祟りだなんて非科学的な話を、皆が本気で信じてるとは思えないのだけど。
「祟りなんてありえない?」
「率直に言ってそうですね」
乃梨子の答えに、江利子さまは微笑んで言った。
「うふふ、私もそう思うわ。でも、じゃあこの奇妙な符合をどう説明する?」
「どうって……」
「神様の仕業じゃなければ、偶然でもない。江利子さんはこの一連の事件に一貫した人の意思が介在していると考えているんですよ」
「人の意思?」
「そう。乃梨子ちゃんは頭が良いからすぐ判ると思うけど。この一連の事件全てに介在できる立場にいるのは誰か」
「……まさか」
もともと魅祓神社に神主は居ない。
土地の元所有者は死んだ。
復興を狙う支社の神主も今は居ない。
相続権を巡っていざこざを起こす可能性があった所有者の息子も消えた。
そして、神社を含む土地は小寓寺に寄贈されている……。
そんなまさか。
あれ? だとすると、最初の山を汚したって人はどうして死んだのだろう?
一番悲惨な死に方をしているのに、その行動は山に侵入しただけで小寓寺にとっては何の不利益も無かったみたいだけど。
「この付近の住人や小寓寺の檀家さん達はこう思ってるわ。『魅祓神社に近づいてはいけない』って」
「そりゃ、祟りがあるって聞けば……」
「そうよね。噂は人を近づけない為の防波堤。その神社になにがあるのかしらね?」
裏山にあるというその神社に、人を殺してでも隠さなければならない何かがあるってこと?
「防波堤を保つ為に、今年も誰かが死ぬのかしら?」
今日、これから誰かが死ぬ?
それも魅祓い様の祟りってことで?
「おっと、僕たちはこれから行く所があるから」
「もう人が集まり始めてるわね」
山門の方から人が流れて本堂の前に設営された会場は人で埋まり始めていた。
「乃梨子ちゃんは法要見に行く?」
「いえ、私は由乃さまと祐巳さまを待ってから行きます」
「そっか、じゃあまた」
江利子さまは山辺さんを伴って人ごみの中に消えていった。
乃梨子は怪談やその手の話を怖がる人間ではないが、夕暮れ時にあんな話をされたあと、一人にされればやっぱり心細くなると言うものだ。
「祐巳さま達、早く帰ってこないかな……」
結局、二人は戻ってこなかった。
心細さも通り過ぎて苛々するほど待ったのにぜんぜん帰ってこないのだ。
結局、法要も始まってしまい、由乃さまと祐巳さまは、遊びすぎてぎりぎりになってしまい、乃梨子を迎えに来ないで直接見に行ったのだろうと判断した。
「はぁ、こんなことなら律儀に待たなくてよかったな」
そんな風にぼやきつつ、乃梨子は人垣の後ろから菜々ちゃんの姿を探した。
「……これ無理。見えないよ」
うろうろしてもぴょんぴょん飛び跳ねてもぜんぜん見えなかった。
三人分のお持ち帰り袋も重いし、自分は何をやっているのだろう?
可愛いとは思ったけど、考えてみれば、乃梨子は別に菜々ちゃんの晴れ姿を楽しみにしていたわけでも無いし、無理に見る義務もないのでは?
と、腹立ち紛れの思考が不穏な方向に傾いてきたころ、背後からよく知った声が聞こえた。
「乃梨子?」
「え? 志摩子さん!」
志摩子さんだった。
志摩子さんはどういうわけか和服じゃなくてハイキングに行くようなパンツルックだった。
「もうお手伝いは終わったの?」
「ええ。まずは荷物を置いてきましょう?」
志摩子さんは乃梨子の手引いて歩き出した。
母屋の玄関にお持ち帰り袋を置かせてもらったあと、乃梨子は志摩子さんと一緒に玄関を出た。
でも志摩子さんは本堂と反対側に向かっていた。
「あの、法要が良く見えるところに行くんじゃないの?」
「あら、そんなことは一言も言っていないわよ?」
「じゃあ、なに?」
乃梨子は先にも述べたとおり、菜々ちゃんを見ることにそれほど拘っていなかった。
むしろ、今日は諦めていた志摩子さんとのランデブーが実現して浮かれていたくらいだ。
志摩子さんは乃梨子の前を歩きながら言った。
「うふふ、きっと乃梨子なら興味があると思うの」
「もしかして、小寓寺の秘仏とかかな?」
「惜しいわ。見てのお楽しみよ」
惜しい? 仏像の類なのかな? なんだろう?
疑問半分、期待半分で乃梨子は志摩子の後をついて行った。
珍しくラフな格好をしているせいか、志摩子さんの歩調は、どことなくいつもと違って軽快に見えた。
二人は家の裏手から森の中に続いている山の斜面に伸びた小さな道に入っていった。
ここまで来ると表の喧騒はほとんど聞こえなくて、森の中は薄暗く、日が落ちかけているせいもあって不気味な静けさが辺りを覆っていた。
「足元に気をつけてね」
「うん」
二人は枯葉の積もる道は山の斜面を回り込むように横に突っ切っていたが、やがて前方に少し開けたところが見えてきた。
「きゃっ!」
「乃梨子!?」
開けたところの手前がちょっと急な坂になっていて、道に浮き出していた木の根っこに足をとられ、乃梨子はバランスを崩して両手を地面についてしまった。
「大丈夫?」
「うん」
幸い、膝を付くことは無く、手も汚れただけで擦りむいたりはしなかった。
「ここは参道なのよ」
「参道?」
開けているように見えたのは、今まで歩いていた細い道が山頂方向に伸びるちょっと広い道にぶつかったからだった。
なるほど道に出て見ると半分土に埋まった石段らしきものが見え隠れしている。参道といってもずいぶん長い間手入れがされていないようだった。
「この先よ」
志摩子さんに付いて、その参道を登っていくと、やがて古びた木の鳥居が見えてきた。
そして、さらにその先に、手洗所や社務所、そして正面に社殿があった。
つまりここは、江利子さまの話にあった……。
「神社、だよね?」
「そうよ」
「ここって、今日の法要の?」
「ここはね、明治時代の始めの神仏分離の時に小寓寺と分かれた神社だったのよ」
「だった?」
「ええ、でも今は小寓寺が管理しているわ」
元々一体化していたのが神仏分離で一時分かれていたってことらしい。
それにしてもこんな近くにあったとは。
この神社で、例の事件が……。
さっきの不穏な話を思い出してしまった。
暗い森の影に白い志摩子さんの姿が不気味に浮かび上がって見える。
慌てて、首を振って変な思考を振り払った。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
乃梨子は神社の境内を見渡した。
「この神社はね、小寓寺が建つ以前からこの山に祭られていたのよ」
そこは、荒れ放題という程ではないけど、社殿の灰色に変色した木の手すりなどを見ると長い間人の手が入っていないようだった。
「私も詳しいことは知らないのだけど、神主さんを継ぐ人が途絶えて以来、ここは代々藤堂家が管理しているという話よ。でも、見ての通り殆ど放置していて、所有しているだけなのだけど……」
「ふーん」
と呟きつつ、地面を見ると枯葉が多少散らばっているものの、森の中程は積もっていなかった。
おそらく定期的に掃き清めているのだろう。
「手を洗いましょ。汚れたでしょ?」
石で出来た手洗所は苔むしているもののまだ水が湧き出していた。
掃除に来る人が使うのか、先が金属のちゃんとした柄杓が置いてあった。乃梨子はそれで水をすくって片手ずつ洗った。
「この先よ」
「この建物じゃないの?」
「ええ、ここには何も無いのよ」
志摩子さんは社殿の横を通って更に奥に進んで行った。
社殿の裏手にはまた道があり、少し登ると蔵のような建物が見えてきた。
「あれは?」
「祭具殿よ」
「祭具殿?」
「そう。神仏分離の際に家に古くから伝わる神具を全てこちらに移したって話を……」
そこまで言って、何故か志摩子さんは立ち止まった。
「どうしたの?」
「しっ!」
「え!?」
志摩子さんは乃梨子の手を掴んで道の横の茂みに引き込んだ。
低木の枝葉が、静まり返った周囲にがさがさとした音を響かせた。
「誰!」
つい最近聞いたような女性の声が響いた。
しかし、こんな誰も居ない山の中だ。
隠れてやり過ごすなんて、土台無理な話だった。
恐る恐る志摩子さんと一緒に立ち上がり、建物の方を振り返ると、薄暗い中に二人の人影が浮かび上がった。
「あら、乃梨子ちゃんと、それから……」
ワンレングスの髪にヘアバンドでおでこを出した、乃梨子より三、四歳年上の、さっきも会った女性。
「えっと、江利子さま?」
「そうよ。奇遇ね、こんなところで再開するなんて」
それは先ほど会った鳥居江利子さまだった。
もう一人は無精ひげを生やした熊のような風体の。
「どうも。また会いましたね」
山辺さんだ。
普通にしているところを見ると、どうやら志摩子さんも面識があるらしい。
志摩子さんは言った。
「それで、ここで何をされていたんですか? 扉の鍵を触っていたように見えましたが」
「いやあ、見られてしまいましたか」
と熊男は悪びれもせず頭をかいた。
そして、江利子さまに至っては、それが当然であるような口ぶりで言った。
「この中に、忍び込むのよ」
「ええっ!?」
乃梨子は思わず声を上げてしまったけど、志摩子さんは江利子さまをしっかりを睨んだまま言った。
「江利子さま。ここは藤堂家でも本家の限られた人間しか入ることが許されない聖域です」
「知ってるわよ。何が入っているんでしょうね?」
なにやら不穏な空気が。
でも江利子さま対志摩子さんなんて滅多に見られない対決に、乃梨子は不謹慎ながら少し期待してしまった。
「乃梨子」
「え?」
急に名前を呼ばれて一瞬、考えてたことを咎められたかと思った。
でも、ちょっと違ってた。
「私は藤堂家の人間です。だからこの中に入っているものは大体想像が付きます」
「あ、あの志摩子さん?」
「そしてそれは、乃梨子に見てもらいたいもの。丁度良いわ。一緒に行きましょう」
その時、祭具殿の扉に向っていた山辺さんの方から、カチリと少し鈍い金属音が響いた。
「江利子さん、開きましたよ」
って、家の人の前で鍵破りなんてしちゃまずいでしょうに……。
でも、志摩子さんはそれを見ても何故か黙っていた。
というか、うっすら笑っているように見えるんだけど?
「さ、折角だから乃梨子ちゃんも見ていきなさい。朝姫ちゃんもね」
それは、最初から見せてもらうって話だったけど、……って、朝姫さん?
「えええっ!?」
乃梨子は慌てて隣に立っている志摩子さん(?)の方に振り返った。
そして、恐る恐る言った。
「あ、朝姫さん、……なんですか?」
そういえば歩き方が軽快と言うか、落ち着きが無いというか、確かに思い当たることはあったのだけど……。
「……ばれちゃったわね?」
「どどど……」
「どうしてって? それはね志摩子さんじゃないと一緒に来てくれないと思ったからよ」
「な、なんで……」
「なんでかって? それはさっきも言った通り、この中の物を乃梨子ちゃんに見せたかったからよ」
「しっ、志摩子さんは?」
「志摩子さんならまだ法事の手伝いをしてると思うわ。あっちは手一杯だから今のうちなのよ」
つまり、法要をやっている隙にってこと?
乃梨子は最初反対した。
でも鍵は既に開いていたし、結局、神像があるっていう言葉の誘惑に負けて一緒に中に入ってしまった。
江利子さまの言葉通り、祭具殿の中には、大きな木彫りの立像が鎮座していた。
「これは、立派な……」
乃梨子は思わずそれに目を奪われた。
高さは四メートル位はあるだろうか、荒削りながらも、その立像には製作者のモチーフに対する畏怖のようなものが感じられた。静かに佇むその姿は神々しさは感じられなかったが、その迫力には感動をおぼえる程だった。
江利子さまが立像を見上げながら言った。
「残念ながらこれが元々なんて呼ばれていた神様なのかは判らないのよ」
「今は『魅祓い様』でしたっけ?」
「ええ。明治以降の宗教的な混乱の中で神主の居ないこの神社の伝承は失われてしまったらしいわ」
「あれ、でも支社があるのでは?」
「偶々似た名前だから支社だって主張してたらしいわ。だから伝承なんてないの」
「そうでしたか……」
乃梨子はその立派な像から目を離しその周りに目をやった。
両側や前方の壁には鎌や鍬などの刃物や動物の罠だろうか、赤く錆びた良く判らない道具が並んでいた。
「農具ですか?」
「豊穣の神様とかそんなところと考えればね?」
「なるほど」
つまり農具とか狩猟の罠とかだろう。農具を用いて神事を行うとかなら確かにありそうだ。
「でもね。もっと面白い話もあるのよ」
「え?」
「この神社の名前……」
意味ありげに江利子さまは言葉を止めた。
そして、志摩子さんの振りをしていた朝姫さんが続けた。
「魅祓神社」
再び江利子さま。
「ねえ『魅』って字の意味知ってる?」
「魅力とか魅入られるとか、使いますよね」
「そう。『魅祓』っていうのはね、邪なものに魅入られた人間の邪気を祓うって意味なのよ」
「邪なもの?」
「鬼よ」
「鬼?」
「そう」
「でも伝承は失われたって……」
「ええ、確かに失われているわ。でも『魅祓い』に関してはとある田舎に同じ名前の伝説が残っていたわ」
「伝説ですか?」
「そう……」
……それが何処からやってきたのかはわからない。でもその村は突然人食い鬼に襲われた。
鬼に襲われて生き残った人間は鬼になる。
鬼になって人を食う。
それはもしかしたら精神を狂わせる伝染病のようなものだったのかもしれない。
『魅祓い』というのは『鬼憑き』になった人間の中に宿る鬼を鎮める儀式だった。
「かなり残酷なものだったらしいわ」
「えっと、じゃあ憑かれた人は?」
「死ぬでしょ? 内臓引き出されちゃね」
「うぇ……」
「でもね、伝染病って話は信憑性あるのよ? 儀式の中で『鬼憑き』の内臓(はらわた)を食らうってのがあったから」
「それって、免疫抗体?」
「そうね。でも当時の人は鬼の力を宿したから鬼に襲われなくなるって考えていたらしいわ」
そこから悲劇の歴史が始まった。
『鬼の力』を宿すということは『鬼憑き』になることと紙一重。
『鬼憑き』が出なくなってからも、『鬼の力』が『鬼憑き』に変わらないように、数年に一回『魅祓い』の儀式を行った。
儀式では一族の中で一番古い『鬼の力を宿した者』が犠牲となった。
この儀式を欠かすと溢れ出した鬼が村を襲うとされていた。
「……まあ、物証のない伝承なんだけどね」
と、軽い調子で言う江利子さまだけど、こんな薄暗い森の中でそんな不気味な話をして欲しくなかった。
乃梨子は朝姫さんの腕にすがり付きながら言った。いや、志摩子さんが居たら志摩子さんにすがり付きたかったのだけど。
「それとこの祭具殿がどう関係するというんですか?」
江利子さまは重々しい口調で言った。
「この周りにある農具とか罠が、実は『魅祓い』の儀式の道具だったら?」
妙に柄が長く奇妙に折れ曲がった鎌。
黒く変色した染みの付いた人の背丈ほどの木の板。
祭具殿の淀んだ空気に生臭い匂いを感じたのは錯覚だろうか?
「鬼が出て、生贄を捧げてそれを鎮めたっていう話はこの近辺にも残っているのよね。それも江戸時代っていうから御伽噺って感じじゃなくて……」
「そ、それが?」
「魅祓の儀式」
「え?」
朝姫さんが言った。
「江利子さんは江戸時代だけでなく、16年前にもその儀式が行われたんじゃないかって考えてるのよね」
「うふふ、祟りではね、一人が鬼に殺されて、一人がそれを鎮める生贄として消えるのよ。だから……」
「……16年前から四年毎に毎回?」
「乃梨子ちゃん、理解が早くて良いわね」
「で、でも最初の事件は」
「言ってなかったっけ? 犯人は入院先の精神病院から逃げ出して行方不明よ」
江利子さま、そこは笑うところじゃないですよ。
「江利子さん」
扉の方で見張りをしていた山辺さんの声が響いた。
「そろそろ法要が終わります。戻らないといけません」
「あら、そうね。じゃあ帰りましょ?」
「あ、あの……」
乃梨子は朝姫さんにすがり付いたまま離れられられなくなっていた。
「いいのよ。一緒に行きましょ」
朝姫さんは志摩子さんみたいに優しく守るように乃梨子の肩に手を回してくれた。
「じゃ、今日のことは藤堂家にはもちろん、誰にも内緒だからね」
「誰にも、ですか?」
そう聞くと江利子さまは言った。
「聖域を侵したのよ? ばらしたら私達、祟りにあっちゃうかもしれないじゃない」
「なっ、なんで……」
「乃梨子ちゃんも運命共同体よ?」
「あ、朝姫さん、まさかあなたまで……」
「志摩子さんには内緒よ?」
朝姫さんは、わざとだろうか、志摩子さんみたいな笑顔で笑って見せた。
「じゃ、私たちはここで」
江利子さんと山辺さんは参道をまっすぐ降りたところに車を停めているとかで、小寓寺へ続く細い道のところで乃梨子たちと別れた。
「さ、私たちも戻りましょ」
「う、うん」
もう日は落ちて辺りは薄暗くなっていた。
「でも朝姫さん、いつ来たんですか?」
「いつって?」
「私、志摩子さんの家に朝姫さんが来てるなんて全然知らなかったから」
「んー、ちょっと用があってね」
「用? 何の用ですか?」
「内緒よ」
内緒か。なんだろう?
プライベートな話だったったら追求したら悪いので、話はそこまでにした。
来る時はちょっと長く感じた森の中の道は戻ってみると大した距離ではなかった。
行きよりだいぶ暗くなり足元が良く見えない道を乃梨子は朝姫さんの手を握り締めて通り抜けた。
「じゃ、私はこれで」
「え?」
玄関のところで朝姫さんは家に入らず手を振った。
「私が居たことは志摩子さんには内緒にしてね?」
「別に良いんじゃないの?」
「駄目よ。あなたもあそこに入ったことは絶対話しちゃ駄目」
「えっと、どうして……」
と、聞き返す問いに朝姫さんの言葉が重なった。
「……命が惜しかったら」
その時、家の奥で物音がした。法事が終わって家の人が戻ってきたのだろう。
「じゃ! 私はこれで消えるから!」
「あ、ちょっと……」
どうやら本気で志摩子さんに内緒でここに来ていたようだった。
(でも、どういうつもりであんなことを言ったのだろう?)
魅祓の儀式の生贄にされるとでもいいたいのだろうか?
三人分のお持ち帰り袋を抱えて乃梨子は耳に残った朝姫さんの最後に言った言葉がどうしても冗談に聞こえなくて困惑していた。
「あら、乃梨子、法要は見れたかしら?」
しばらくして、玄関の奥から和服姿の志摩子さんが姿を見せた。
「う、うん。見れた……かな? それよりお疲れさま。もう全部終わったの?」
なんとなく嘘をついてしまった。いや、『言わない事』を嘘とは言わないけど、良心の呵責は同じだから。
「私の仕事はもう無いわ。それより祐巳さんと由乃さんは? 一緒じゃなかったの?」
「ううん。ちょっと行き違いがあってはぐれちゃった。でも終わったらここに来るように言ってあるんだよね?」
「ええ」
志摩子さんからは終わってから母屋の玄関に集合って聞いていた。
ここで菜々ちゃんと合流して一緒に帰る約束なのだ。
「菜々ちゃんはどうしてる?」
「まだ、お父様たちと話をしてるわ。もうじき来ると思うけれど」
いつもなら志摩子さんと二人きりでうれしい筈なのに、今は早くここから離れたかった。
何時までも居るともっと嘘をついてしまいそうだから。
「ああ、そうだわ」
志摩子さんは何かを思い出したように言った。
「な、なあに?」
今の乃梨子には志摩子さんの笑顔さえも胸にグサグサ突き刺さって来る気がする。
……やっぱり駄目だ。志摩子さんに隠し事だなんて。
乃梨子は勇気を振り絞って切り出した。
「あ、あのね、志摩子さん、この母屋の裏に……」
志摩子さんは乃梨子の言葉を遮って言った。
「乃梨子に聞きたいことがあったのよ」
「え?」
「何処かで朝姫さんに、会わなかった?」
「……」
どうして?
志摩子さんは朝姫さんが来たこと知らないんじゃ?
「会ったの?」
「ど、どうしてそんなこと聞くの?」
「知らないのなら別にいいのよ」
『私が居たことは志摩子さんには内緒にしてね?』
乃梨子は先ほどの朝姫さんの言葉を思い出した。
「あ、うん、知らない」
また嘘を付いてしまった。
志摩子さんと会うのが辛くなるって判ってるのに。
朝姫さんのせいだ。後で責任を取ってもらおう。ちゃんと志摩子さんの前で釈明してもらえばいいのだ。
志摩子さんはそれ以上、聞いてくることは無かった。
しばらくして菜々ちゃんも姿を見せ、祐巳さまと由乃さまも戻ってきた。
「もう、乃梨子ちゃん何処行ってたのよ? ちゃんと菜々の晴れ姿見た?」
「え、うん、ちゃんと見たよ。失敗も無く立派にこなしてたじゃない」
ああ、嘘の上塗りだ。
乃梨子の言葉を聞いた菜々ちゃんが何故か表情を曇らせた。
それを見た由乃さまは言った。
「ほら見なさい。あんなの失敗のうちに入らないんだから」
「……でも失敗は失敗です」
「菜々ちゃんって意外と完璧主義?」
三人のやり取りを聞きながら、乃梨子は見てなかったことが判ってしまうんじゃないかって、内心ドキドキだった。
――志摩子さんの前でこれ以上喋ったらだめだ。
†
翌日のことだった。
朝、乃梨子はマリア様の庭を過ぎたところで志摩子さんと鉢合わせた。
「ごきげんよう、乃梨子」
「ごきげんよう、志摩子さん?」
と、ちょっと疑問形になったのは、志摩子さんの様子がちょっと。
「なあに?」
「もしかして、志摩子さん疲れてる?」
「あら、判る? 実は行事の後はいつも反省会って言って、両親と協力してくれた檀家さんの方々で宴会みたいなことをするのだけど……」
「もしかして、そのお手伝い?」
「ええ」
みたい、じゃ無くて宴会でしょうに。
「大きい声ではいえないのだけど、少しだけ……、それでちょっと頭が痛くて」
「って、飲んだの!?」
「乃梨子、声が大きいわ」
「あ、ごめん」
幸い人影は無く、話は誰にも聞かれていない。
にしても、あの破戒坊主め。
「でも心配しないで、もう無いから。四年に一度のことですもの」
「そんなのそうそうあったら困るよ」
「大丈夫よ。次は二十歳過ぎてるのだし」
いや、そういう問題じゃないでしょ?
でも、志摩子さん変わったな。以前はこういう家の話は恥ずかしがってしなかったのに。
これはいい変化だと思う。
いつもと違ってちょっとだけくたびれた雰囲気が漂う志摩子さんを眺めながらそんなことを考えたていた。
志摩子さんは言った。
「あ、そうそう、乃梨子」
「なあに?」
「昨日の晩なのだけど、何処かで江利子さまと山辺さんに会わなかった?」
「……え?」
なに?
なんで志摩子さんがそんなことを聞くの?
「ああ、山辺さんって言っても乃梨子は知らないかしら? 江利子さまと付き合ってる方なのだけど……」
「あ、あの……」
「会ってない?」
「えっと……どうかな?」
答えられなかった。
昨日、隠し事をしてそのままだったから。
正直に話すとなると、朝姫さんを志摩子さんと間違えてたことから全部話さなければならなくなるし、それに朝姫さんにどういうつもりだったのかまだ問いただしていないのだ。
志摩子さんは、乃梨子が口ごもっても特に気にしない様子で続けた。
「そう。じゃあもう一つ。昨日の晩、何処かで朝姫さんに会わなかった?」
「そ、それ、昨日も聞いたよ?」
「あら、そうだったかしら?」
「……」
「また改めて聞いたら、違う答えが返ってくるかもって思って」
どういう意味?
まさか、志摩子さん、知ってるの?
「でも、誰とも会ってなくて良かったわ。私から乃梨子は悪いことには何も関わってなかったって言っておくわね」
「え!? 言っておくって……?」
志摩子さんからの話はそれきりだった。
乃梨子は聞き返そうにも、墓穴を掘りそうで聞き返せなかったし、お昼休みに薔薇の館で会ってもその話は出なかったし出来なかった。
そして放課後。
「面会ですか?」
職員室に呼び出されてみれば、大学部の喫茶室で乃梨子を待ってると、朝姫さんからの伝言だった。どうやら学校に電話をしてきたみたいだ。
お昼に志摩子さんから今日は皆都合が悪くて薔薇の館で集まりはないと聞いていたので、乃梨子はまっすぐ大学部へ向かった。
朝姫さんは自分の高校の制服姿で堂々と喫茶室に入り込んでいた。
「あー、乃梨子ちゃん」
「どうしたんですか? こんなところに」
「うん、学校から呼び出すのにあまり遠くじゃ悪いと思って」
そう言って微笑む朝姫さんは、喫茶室の隅の丸テーブルのところに窓を背にして座っていた。
対面では遠いので乃梨子は隣に座って言った。
「で、なんですか? というか私も朝姫さんに聞きたい事が……」
と、そこまで言って乃梨子は言葉を止めた。
「乃梨子ちゃん」
朝姫さんが、急にシリアスな顔をしたからだ。
「……なに?」
「じつは……」
「あれー、乃梨子ちゃんと、ええと、朝姫ちゃん? すごい偶然じゃない」
「せ、聖さま?」
能天気な声で、シリアスな雰囲気は一瞬で終わった。
元白薔薇さまで志摩子さんのお姉さま、佐藤聖さまだ。
なんの断りも無く二人に相対する席にどっかり腰をおろした聖さま。
乃梨子は言った。
「偶然は偶然ですけど、すごくも無いですよ?」
聖さまはここリリアンの大学部に通ってるのだし。乃梨子達がここに来た時点でこの展開は不自然ではないだろう。
乃梨子は言葉で牽制したつもりなのに、これくらいはいつもの挨拶くらいにしか考えていないのか、普通に受け流して聖さまは言った。
「そうじゃなくって、私、あなたと話がしたいなーって思っていた所だから」
「話って……?」
「でも、乃梨子ちゃんもなかなかタフねぇ?」
とニヤニヤ笑いを浮かべる聖さま。
「な、何ですか?」
「志摩子と朝姫ちゃんを二股にかけるなんて」
「ふた……そ、そんなんじゃありません!」
と、乃梨子が叫んだところで、朝姫さんは腰を浮かして言った。
「乃梨子ちゃん、私、バイトの時間だから」
「ええ? でも……」
「夜に電話するから、その時にね?」
そう言い残してさっさと朝姫さんは行ってしまった。
「もう、なんなのよ、朝姫さんの方から呼び出したのに……」
乃梨子が朝姫さんの後姿を見送っている間も、聖さまは視線を乃梨子の方に向けていた。
朝姫さんが見えなくなった頃、聖さまはおもむろに口を開いた。
「……ところで、乃梨子ちゃん」
打って変わって聖さまはシリアスな雰囲気に変わっていた。
「はい?」
「あなた、朝姫ちゃんのこと、どの位知ってるのかしら?」
「どの位って……」
どの位と言われても、乃梨子が知っていることは、戸籍上他人なのに志摩子さんとは双子みたいにそっくりだってことと、リリアンの近所の女子高に通ってることくらいだ。
「いや、言い方を変えようか、藤堂家についてどのくらいご存知かな?」
「質問の意味が判りませんが」
最初、朝姫さんのことを聞いたのに、言い方を変えたら何で志摩子さんの家についてになるのか?
それじゃ、まるで朝姫さんが志摩子さんの家と何か関係があるみたいな……、まさか?
「志摩子は話してないのね?」
「何の話ですか?」
そりゃ、志摩子さんは家のことはあまり話さない人だし。でもこの人は志摩子さんの家の何を知っているというのだ?
聖さまはテーブルに両肘をついて顔の前で手を組んだ。
「……藤堂家はね、あんな田舎のお寺を経営してるだけの家系じゃないのよ」
「でも、親父さんは小寓寺の住職ですよね?」
「まあね。でも婿養子なのよ」
「はぁ?」
「今、藤堂家の実権を握っているのは母方のお婆ちゃんよ。藤堂一族は代々女性が頭首を勤めてきたの。次期頭首は志摩子なの」
「ちょ、ちょっと待ってください。そんな話は聞いたことありません」
そんな実権だの、一族だの、それに頭首ってなに?
「そりゃ話さないわよね、そんなこと。私だって志摩子から聞いたわけじゃないし」
「え……?」
じゃあいったい誰からそんな話を?
「そんな顔しないの。その筋では有名な話よ。藤堂家っていうのはあの周辺を牛耳る影のヤクザ屋さんだって」
「や、やく……嘘!?」
信じられない。志摩子さんの家が影のヤクザ屋さんだなんて。
「まあ、信じる信じないは乃梨子ちゃんの自由だけど。ちなみに現在の小寓寺はまっとうなお寺よ?」
「そ、それって?」
「志摩子のお母さんは頭首になること拒んだのよ。旦那さんはあれでも堅気の人間だし。多分ヤクザ稼業が嫌だったのね」
ええと、つまり、堅気でないのは志摩子さんのお母さんの実家で、今の志摩子さんの家庭は普通だって事?
「安心した?」
「いえ、じゃあ、志摩子さんが次期頭首っていうのは?」
「それでね、志摩子のお母さんは勘当同然で次期頭首の権利は剥奪。さらに頭首を継がないことを認める条件として、子供が女の子だったら次期頭首を継がせるって約束までさせて。拒めば、旦那さんの命は無いって脅かして」
「……それって、むちゃくちゃじゃないですか。本当なんですか?」
勘当同然にしておいて、娘はよこせって、そんな理不尽な話はない。
「お母さんは、逆らえば実際そうなるって判ってたから拒めなかったの。藤堂家はその力を持っていることを知っていたからね」
「じゃあ、しっ、志摩子さんは?」
「中学にあがる直前に本家に連れて行かれそうになったらしいわ。家がお寺なのにリリアンに入ったのは志摩子なりの抵抗だったみたいね」
「で、でも」
「そう、表向きの理由は乃梨子ちゃんも知ってるとおりよ。でも本当は、小寓寺から決別する姿勢を見せることで志摩子は自由を獲得したってことなの。本当なら次期頭首としての教育のために本家に拘束される所だった。志摩子は今でも家の用事って言って時々学校を休むでしょう?」
「え? うん、でもまさか」
「そう。本家に行って頭首の何たるかを学んでるの。いいえ、もういい歳のお婆さんに代わって頭首代行を勤めてるって話も聞くわ」
そんな……。
「……う、うそだ」
「さあ?」
「出任せ言って私を騙そうとしてるんだ」
「そう思ってくれても構わないわ。でも、ここまで聞いて朝姫ちゃんの立場って想像がついたんじゃない?」
「……」
なんとなく判った。
でも、一度にいろいろなことを聞いたせいで、思考が働かなかった。
「まあ、この話は予備知識として知っておいて欲しかったことなんだけど、本題はここから」
少し表情を緩めていた聖さまは、再び組んだ手の向こうから乃梨子に射すくめるような視線を向けた。
本題って、これ以上どんな話があるというのか?
でも、この次の聖さまの言葉は乃梨子には本当に予想外だった。
「……昨日の晩、何処かで江利子と山辺さんに会わなかった?」
……え?
どうなっているのか? どうして、みんなして同じ事を聞いてくるのか?
確かに昨日は江利子さんと山辺さんに会っている。でも会ったのは『晩』という時間帯ではない。
「えっと……」
乃梨子が、どう答えようかと思索していると聖さまは、
「ああ、山辺さんは知らないか」
「いえ、江利子さまの恋人の方ですよね?」
「……知ってるんだ?」
「はい」
「まあ、良いわ。もう一つ。同じく昨日の晩、何処かで朝姫ちゃんに会わなかった?」
まただ。
志摩子さんにも同じ事を聞かれた。
「あ、あの、昨日は……」
その時、ポップな感じのイントロ(?)が鳴り響いた。
「おっと、失礼」
携帯の着メロだった。
聖さまはポケットから携帯を取り出して開き、耳に当てた。
といか着メロ、ポップ調の『まりあ様のこころ』だよ。ふざけてるというか、この人らしいというか。
「……え? うん判った。……うん、……うん、……了解」
電話が終わって、聖さまは携帯をポケットに戻した。
そして、話の続きを聞かれるかと思っていたら、こう言った。
「ごめんね、急用が出来ちゃったから、話は改めて」
「……は、はい」
なんとなくホッとした乃梨子だった。
そして聖さまは席を立ち背中を見せて一歩歩いたところで立ち止まって言った。
「そうそう、乃梨子ちゃん」
聖さまは振り返って続けた。
「昨日、志摩子の家の近くを歩いていたわよね……」
「え?」
「……四人で、仲良さそうに」
「!!」
聖さま、知ってる?
四人といえば、全部終わって帰りは祐巳さまと由乃さまと菜々ちゃんと一緒だったから四人だけど……。
でも、あの神社で祭具殿に入ったのも4人だったのだ。
†
その晩、昼間の予告どおり、朝姫さんから家に電話があった。
菫子さんはまだ帰っていなくて、家には乃梨子一人だった。
『もしもし?』
「はい、二条です」
『あ、乃梨子ちゃん? 朝姫だけど』
「朝姫さん?」
『昼間はゴメンね』
「そうですよ、逃げましたね?」
『あはは、ホントごめん。埋め合わせはいつかするから』
「まあ、期待しておきます。それより何ですか? 昼間しようとした話ですよね?」
そう聞くと、
『……』
朝姫さんは少しの間沈黙した。
「……朝姫さん?」
乃梨子が促すとようやくといった感じで話が続いた。
『その……、乃梨子ちゃん、知ってる?』
どこか、またシリアスな口調だった。
「何をですか?」
『知らないみたいね……』
何だろうか、妙に間を空けて言いにくそうに話している。
『……実は、昨日の『御払いの法要』の時、私達4人で、ほら、あの祭具殿に入ったじゃない』
「ええ、入りましたね」
『あの後、何処かで江利子さんと山辺さんに会った?』
またその話だ。
いい加減、うんざりしてきた乃梨子は少しぶっきらぼうに言った。
「……朝姫さんはどうなんですか? 会ったんですか?」
『勿論、会ってないわ。あの後、合流した友達が証明してくれるし』
証明? おかしなことを言う朝姫さんだ。
まあ、そういうことなら乃梨子も証拠を提出しよう。
「私だって、証明っていうのなら、一緒に帰った祐巳さまとか由乃さまがしてくれますよ」
あと、菜々ちゃんもだ。
『そう。……じゃあ、言うわね、昨日の晩、江利子さんと山辺さんが死んだそうです』
「……」
一瞬、思考がついていかなかった。
いまなんって?
死んだ?
誰が?
『……江利子さんは焼死体で、山辺さんは自殺みたいな形で喉を掻きむしって』
「うっ……嘘!?」
『私も今朝聞いたのよ……それで……』
江利子さまが? 山辺さんが?
もしかして昼間聖さまが挙動不審だったのって……。
朝姫さんは続けた。
『魅祓い様の祟りってことになると思う』
「それって……」
『私ら、祟られるのに十分な資格があるし』
聖域である祭具殿に侵入したってこと?
でも……。
「でも!」
『でも、よく考えてみて。今回の魅祓い様の祟りっておかしくない?』
「おかしい?」
『そう、前回までの祟りでは一人が死んで一人は行方不明。でも今回のは二人死んでるのよ』
ちょっと待って、祟りって言うけど、確かそれは祟りなんかじゃなくて……。
そうだ。
ここで、法要の日に聞いた16年前からの祟りの話と、聖さまの話が結びついた。
……つまり、藤堂の本家が?
『二人が祟りで死んだって事は、それを襲った鬼を鎮めるために生贄もまた二人必要だって事なのよ』
「ふ、二人?」
『……まだ、誰も行方不明になってないと思うわ。二人が失踪するのはこれからだと思う』
祟りのロジックが働くわけじゃない。
そう見せるために誰かがまた犠牲になるのだ。
人を近寄らせないための防波堤。
そして、今回の最有力候補は?
「まさか、一緒に祭具殿に入った……」
乃梨子と朝姫さん。
「じょ、冗談じゃないわ! だって見ただけじゃない! 何かを壊したり、持ち出したりしたわけじゃないのにどうしてよ!」
『……』
「第一、私は別にあんなの見たくなかった、菜々ちゃんの演技を見たかったのに、そうだよ! 志摩子さんの振りして私をあそこに連れて行ったのはあんたじゃないか! 私は見たいなんて思ってなかった! 無理に進入して見るほどの物じゃなかった! どうしてくれるんだよ! どう責任取るつもりだよ!!」
その次の瞬間、電話は切れた――。
クリスクロスP38より
「それ、笙子ちゃんから?」
「あ、……うん」
蔦子さんは、嬉しいというより困惑した表情でうなずいた。
「どうしたの?それ、チョコじゃないの?」
「うん」
うん、というのはチョコなのか、違うのか。
蔦子さんは、紙袋を前に置いたままため息をつき、答えた。
「あのさ、私も、くれるんだったらチョコレートだろうって、思い込んでいたんだよね」
「違ったんだ。もらって困る物だったの?」
笙子ちゃんが、蔦子さんに「困る物」をプレゼントするとは思えないけれど、一応聞いた。
「ううん。すごくうれしい物だった。
ただ、悩んでいるのよ」
「え?」
「バレンタインデーに写真のフィルムを大量にプレゼントされたら、ホワイトデーに何をお返ししたらいいんだろう、って」
「そんなの簡単じゃない。笙子ちゃんの写真を撮って、ホワイトデーにプレゼントすればいいじゃない」
祐巳がそう言うと、蔦子さんはちっちと指を振りながら言った。
「祐巳さん、わかってないわね」
「なにが?」
「いい、今は冬なのよ!夏じゃないのよ?
冬だから、半袖夏服じゃなくて、長袖冬服コートにマフラーまでしてるのよ!?
冬だから、体操服の上にジャージ着てるのよ!?
冬だから、水泳の授業も無いのよ!?
夏服も体操服姿も水着姿も無しでこんなにたくさん写真撮らなくちゃいけないなんて、拷問よ!?」
悩んでる原因はそこかよ!?
「うぉおおおおおおおお!!!!!」
花寺学院生徒会室、通称“ガラクタ小屋”にて、唐突に雄叫びを放ったのは、役員メンバーの一人、高田鉄だった。
はっきり言って、今現在の花寺生徒会はヒマだった。
妙なクラブが乱立しては淘汰されていく春先はゴールデンウィークまでの期間並びに体育祭、文化祭の時期は結構忙しいのだが、基本的にここは独立独歩の気風なので、直接生徒会が関わる部分は意外と少ない。
それ故に、ヒマを持て余した一同、生徒会長を始めとする所謂花寺四天王、すなわち福沢祐麒、小林正念、高田鉄、有栖川金太郎の四人は、特にやることも無く、帰っても特にやることも無いので、いつものように生徒会室に集まっては、適当に時間をつぶしているのだった。
ちなみに薬師寺兄弟は、受験のため、最近はあまり顔を見せない。
そんな中、手持ち無沙汰を解消するべく、宿題をする者、明日の予習をしている者、ぬべらぼ〜としている者と、四者三様の状態。
で、話は最初に戻って、明日の予習で世界史の教科書を見ていた高田が、叫び声を上げたのだ。
「なんだよ鉄っちん、急に大声だして」
胡乱な目付きで、高田を見る祐麒。
そんな視線もものとせず、教科書の一部を指差しては、興奮している高田。
「見ろよココ、すげーなぁ、俺もこんな国に生まれたかったぜオイ」
まるで要領を得ないが、高田の興奮は収まらない模様。
「何のこった?」
「だってよ、“オトコ帝国”だぜ、“オトコ帝国”、“オトコ王朝”とも言うらしいけどな。ここでは、“オトコの皇帝”が支配してて、なんとビックリ“オトコの武帝”なんて人が居たってんだからタマランぜ。ちくしょー、もっと昔に生まれるんだったよ、こりゃもう一生の不覚ってヤツだな」
結局何のことだかサッパリだが、高田が指差したページを見た一同は、彼が何故ハイテンションなのか、ようやく理解できた。
「なぁ鉄っちん……」
「なんだ? お前もここに生まれたかったのか?」
「そうじゃなくてだな。いいか、よく聞いてくれ」
「うん?」
聞く態勢になった高田に、祐麒が言った。
「それは、“漢帝国(かんていこく)”って読むんだ」
夕日に染まる窓の外、シラケ鳥が南の空へミジメに飛んでいった。
※漢帝国:前202年(高祖皇帝劉邦)〜後220年(献帝劉協)のおよそ400年(一度王莽によって15年ほど断絶、光武帝劉秀によって再興)に渡って、中国を支配していた統一王朝の一つ。
※前回【No:2162】程じゃないにしても、やたら長くて後味の悪い話。
「祥子、祥子がそんなじゃ、祐巳ちゃんが落ち込んじゃうよ」
「そうね……」
「でも、どうして……」
早朝の薔薇の館は、普段と違い、重々しい雰囲気が漂っていた。
最後に来た乃利子は、「ごきげんよう」と挨拶をして会議室を見回した。
祥子さまはいつもの席に座り、俯いていて、見るからに落ち込んでいるように見えた。
令さまはそのすぐそばに立ち、祥子さまを慰めるように声をかけている。
でも、乃梨子は、祥子さまが落ち込んで、令さまがどちらかというと平然としているのには、ちょっと違和感を覚えた。
妹(つぼみ)の方も祥子さまの様子に祐巳さまがおろおろしているのに対して、由乃さまはそれに構うだけの余裕があるように見える。
亡くなったのは、令さまの姉である元黄薔薇さまの江利子さまの筈だ。
少々不謹慎ではあるが、落ち込むなら令さまや由乃さまの方じゃないだろうか?
そう思いつつ、乃梨子は誰に話を聞こうか迷ったが、結局、志摩子さんに話しかけた。
「あ、あの、志摩子さん?」
「ああ、乃梨子はまだ知らないのね」
「何かあったんですか?」
変だ、江利子さまの件じゃないのだろうか?
志摩子さんは声のトーンを落として言った。
「蓉子さまが、居なくなったのよ」
「え?」
居なくなったって?
「昨日の晩から行方不明で、祥子さまの所にも問い合わせがあったんですって」
「行方不明!?」
思わず声を上げてしまった乃梨子に皆の視線が集まる。
「あ、すみません……」
目が合った祥子さまは目の下にクマが出来ていた。
昨日は眠っていないのだろうか?
(でも、江利子さまのことは誰も知らないの?)
ニュースになっていなかったし、何らかの理由で警察が非公開にして捜査してるってこと?
ならば、日常的に会っていた人や、警察から接触があった人以外はまだ知らなくてもおかしくは無い。
乃梨子もそのことは朝姫さんから電話で聞いただけだし、軽々しく言いふらすべきではないだろう。
それにしても……。
昼休み。いろいろ抱え込んでいて考えることが多い乃梨子は、薔薇の館には行かず、教室で早々にお弁当を食べ終わって、校庭でもあまり人の来ない場所まで来て座り込んでいた。
ちなみには志摩子さんは午前中に早引きしていた。別に体調が悪いわけじゃなくて、話によると緊急で『家の用事』だそうだ。
あの話を聞く前の乃梨子なら「不自然だ」って思ったろうが、これは『実家』の関係だろうって思い当たって気分が悪かった。
(……にしても、蓉子さまが行方不明ってどういうことなんだろう?)
一人が祟りで死に、一人はそれを鎮めるために消えるというのなら、消えるべきは一緒に祭具殿に入り込んだ乃梨子達のはずなのに。
確かに蓉子さまは江利子さまとは元薔薇様つながりで関係者だ。
彼女が例の『魅祓い様』にどう関わっていたかは不明だけど、江利子さまの件はいち早く知っていた可能性は高い。
もう一人の元薔薇様である佐藤聖さまは、今考えるとあの時、既に知っていたように思えるし。
でも、それが『魅祓い様』に目をつけられた理由だったら弱すぎる気がする。
他にも何か理由があるのだろうか?
聖域を侵した乃梨子や朝姫さんを差し置いて、消されなければならないような理由が。
乃梨子は視線を目の前の地面に向けた。
ここの日当たりは良く、目の前には耕された土の露出してる花壇があった。
その時、
「……っ!?」
突然黒いものが視界の隅に侵入してきた。
「ひやぁっ!」
「……乃梨子さま?」
「あ……、菜々ちゃん?」
黒いのは紺のハイソックスと革靴を履いた足と黒い制服だった。
「ごきげんよう」
見上げると菜々ちゃんが隣に立って微笑んでいた。
「ごきげんよう、脅かさないでよ」
「申し訳ありません。でも、こんな所で何をなさっているのですか?」
確かに、言われてみれば『こんな所』だ。
でも、それを言うなら菜々ちゃんも同じ。
乃梨子は聞き返した。
「菜々ちゃんは?」
「いえ、ここは私の校内散策コースなので良く通るんですけど」
「そうなんだ……」
その途中で知り合いを見かけたから寄って来たってところだろう。
「なにか、お悩みですか?」
菜々ちゃんはそう聞いてきた。
悩みというか、彼女には関係ないし。いや、巫女のアルバイトをしたからないことはないけど。
「時間、あるの?」
折角のお昼休みを、こんな所でいじけている先輩の相手で費やすより、こんな良い天気の下、散策を楽しんだ方が良いような気がしたからそう言った。
でも菜々ちゃんは、
「ええ。悩める先輩のお話を聞くくらいは」
そう言って、おどけるように首を傾げた。
菜々ちゃんは面白い。
それに良い子だ。
「……悩んでるように見えたかしら?」
「……」
どういうつもりなのか、菜々ちゃんからの答えはなく、日当たりのよい花壇の前を沈黙が支配した。
でも、その沈黙は心地よい類の沈黙で、なんとなく安らいだ乃梨子は、もっと会話がしたくなって口を開いた。
「あ、あのさ……」
そう言いかけたところで、唐突に菜々ちゃんが言った。
「乃梨子さま」
「なあに?」
「いえ、……一昨日のお祭りの日、乃梨子さまはなにか悪いことをされましたか?」
安らいだ気分が、一気に反転した。
――何で菜々ちゃんが、それを聞くの?
「わ、悪いことって……?」
「してないのなら別に良いんです」
そう言って菜々ちゃんは一歩下がって、
「変なこと聞いてしまいましたね? それでは……」
踵を返して並木の方へ去っていこうとした。
「まって!」
乃梨子は思わず立ち上がり、呼び止めていた。
立ち止まった菜々ちゃんは、振り返って乃梨子に顔を見せた。
その瞳はまっすぐこちらを見つめていた。
「……話、聞いてくれるんでしょ?」
正直、誰かに洗いざらい話して楽になりたいと思っていた。理屈ではなく直感的に、乃梨子は「この子なら話しても良いかも」って思ったのだ。
菜々ちゃんは表情を変えず、何も言わないでまた乃梨子の隣に戻ってきた。
話を聞いてくれるというサインだ。
乃梨子は切り出した。
「ええと……」
でも、本当のことを言うのは、やはりためらわれた。
なので、具体的なところをぼやかしてこう言った。
「……その気は無かったのに、いけない事をしてしまった人がいてね。その人が、それを正直に言えなくて困ってるのよ」
菜々ちゃんを面倒に巻き込んてしまいそうで怖かった。だからこの位なら良いだろうと言うところまでを話すことにしたのだ。
でも、その認識が甘かった、と後で嫌というほど思い知ることになるとは、この時思ってもいなかった。
菜々ちゃんは言った。
「どうして言えないのですか?」
何処までもまっすぐな視線に乃梨子は思わず目を逸らし、花壇の方を見た。
「それが、すごく大切なものだって知ってしまったから」
「……」
判りにくすぎただろうか?
菜々ちゃんは少しの間、沈黙した。
恐る恐る視線を戻し、表情を見ても何を考えてるのか判らなかった。
やがて菜々ちゃんは、口を開いて言った。
「猫さんがですね」
「猫?」
「はい、猫さんです。にゃんにゃん」
菜々ちゃんは手を丸めて猫っぽいポーズをし、可愛らしく微笑んだ。
どうもこの子の思考は読めない。
でも菜々ちゃんの猫のマネは可愛いかったのでそのまま話を聞いた。
「猫さんはですね、怯えてるんです」
「怯えて?」
「はい。実はその猫さんはですね、入ってはいけない所に入ってしまったんですけど、そこで恐ろしいものを見て怖くなって逃げ出しちゃったんです」
(……え?)
乃梨子は『何処かに入った』とは一言も言っていない。
菜々ちゃんは知っている? そういえば最初も「悪いことをしましたか?」って聞いてきたし。
でも、単に小寓寺で巫女さん役をアルバイトでやっただけの菜々ちゃんがどうして? そもそも乃梨子が『悪いこと』をしたのは、そのアルバイトの最中だ。
菜々ちゃんが『知っている』わけが無い。
じゃあ、単なる偶然? 彼女が考えた喩え話か?
「それでですね、怖くて怖くてがたがたぶるぶるにゃあにゃあで猫さんは大変なことになってしまったんです」
乃梨子はゴクリとつばを飲み込んだ。
「そ、その猫さんはこれから、どうしたらいいと思う? その、いけない事をしたところを犬さんが見ていたのよ。それで、代わる代わる猫さんのところにやってきては『あそこに入っただろう』って問いただして来るの」
「悪いことをしたら『ごめんなさい』ですよ?」
「で、でも、猫さんは怖くて謝れないのよ」
「大丈夫です」
「え……?」
「猫さんは私が守ってあげますから」
どういう意味だろう?
「きっと何匹かの犬さんが勘違いしてるだけだと思います。ちょっと大変ですけど何とかなりますよ」
そう言って菜々ちゃんはまた微笑んだ。
それは単なるたとえ話の回答とは思えなかった。
――何とかなる?
菜々ちゃんが、何としてくれるの?
「でも……」
付け加えるように、菜々ちゃんは言った。
「……姉猫はとても怒っています。妹猫が悪いことをしたので、とても怒っています」
「……」
これ以上は聞けなかった。
本当に洗いざらい話してしまいたかった。
菜々ちゃんが乃梨子の知らない何かを知っているのならそれを聞きたかった。
でも、怖くて聞けなかったのだ。
「じゃあ、私はもう行きますね?」
「う、うん、お散歩の途中なのに、つき合わせちゃってごめんね」
「いえいえ、困ったときはお互い様ですから」
そんな、おばさんくさいことを言った菜々ちゃんは、
「あ、そうそう……」
去り際に立ち止まって言った。
「元紅薔薇さまを噛んだ犬さんが、猫さんに噛み付こうとしたら知らせてくださいね」
え!?
――菜々ちゃん、あなた何者なの?
†
乃梨子はその晩、昼間菜々ちゃんと話をしたことを後悔していた。
菜々ちゃんの話は不可解だった。
それだけでなく、乃梨子は核心をぼやかして相談したと言うのに、彼女はまるでそこに居たかのように具体的なたとえ話で返してきたのだ。
早い時間から乃梨子は、部屋の明かりも点けずにベッドの上で毛布を被って蹲っていた。
(怖い……)
『悪いことをしたら「ごめんなさい」ですよ』
菜々ちゃんの言葉。
(でも、誰に謝れっていうの?)
その時、ガタガタと、ドアを叩く音が聞こえ、乃梨子はぎょっとした。
「……リコ、電話だよ。藤沢さんって人から」
(朝姫さん!)
慌てて毛布を投げ捨て、乃梨子はベッドから飛び降りた。
「もしもし、乃梨子です」
『あ、乃梨子ちゃん? 私、朝姫』
子機で話をしつつ部屋に向かい、
「その……、」
『なに?』
部屋に入ってドアを閉め、ベッドの上まで戻ってから乃梨子は一気にまくし立てた。
「あ、あのっ! 昨日はごめんなさい! つい興奮して、あんなきついこと言っちゃって。考えてみたら朝姫さんも立場は同じなのに、一方的に責めるようなこと言ちゃって、私どうかしてたの。本当にごめん。ごめんなさい」
実は、昼間、菜々ちゃんに『悪いことをしたら「ごめんなさい」ですよ』と言われて、乃梨子が最初に連想したのは朝姫さんだった。
『うん、後悔したのなら許してあげる』
朝姫さんはそう答えてくれた。
「……ありがとう」
『私達は運命共同体だからね。これから何か気になることがあったら連絡しあうようにしましょう?』
「うん、わかった」
『それで、……蓉子さんが居なくなったって本当?』
「え? あ、うん、私は今朝、聞いたんだけど……」
朝姫さんは、
『……私のせいだ』
悲壮な声でそう言った。
「え? どういうことですか?」
『私、相談したの。蓉子さんに相談したのよ。祭具殿に入ったこと相談したの』
「なんで?」
『蓉子さん、お祭りの晩の事件と藤堂の家のこと調べていたから。私「あの時、私も一緒に居たから」って話しちゃったの』
調べていた?
やっぱり蓉子さまは江利子さまと山辺さんのことはいち早く知っていたんだ。
「で、でも、話したくらいで……」
『でも直後なのよ。私が相談したあとすぐ居なくなったのよ』
「それは偶々じゃないの?」
『ううん、事件のことを疑っている人はたくさん居る。藤堂の家が関係しているって睨んでる人はたくさん居るの。でもあの話をしたのは蓉子さんだけなのよ。私が話したから蓉子さんだけが居なくなったの。私が話したから。私が話したから居なくなったのよ。私が話したから居なくなったんだ、居なくなったんだ……』
「ちょっと、朝姫さん落ち着いて」
『私のせいだわ、私のせい。そうだ、私が話したから居なくなった、私が話したから居なくなった、私が話したから居なくなった、私が話したから居なくなった、私が話したから居なくなった、私が話したから居なくなった、私が話したから居なくなった……』
「朝姫さん! 朝姫さんっ!」
そんな、打ち明けたくらいでなんでそんな事に……。
『猫さんです。にゃんにゃん』
そういえば。
話したといえば、昼間、間接的とはいえ、菜々ちゃんの前で『悪いことをした』って乃梨子は認めている。
つまりこれは、菜々ちゃんに『相談』し、『打ち明け』てしまったことにならないか?
乃梨子は急に不安になった。
「私、菜々ちゃんに話したわ……」
『え?』
「どうしよう、私も菜々ちゃんに打ち明けたのよ!」
乃梨子はまず由乃さまに連絡をして、緊急に菜々ちゃんと話がしたいから連絡先を教えて欲しいと伝えた。
幸いにして、菜々ちゃん直通の電話番号を知っていた由乃さまは、折り返しかけさせるからと言って一旦電話を切った。
そして、乃梨子はしばらく待ったのだけど、十分待っても二十分待っても菜々ちゃんからの電話は掛かってこなかった。
「長すぎるな」
もう一度由乃さまにかけようと受話器に手をかけたとき、電話の受信音が鳴り響いた。
乃梨子は食いつくように受話器を取りあげた。
「もしもし!」
『あ、乃梨子ちゃん?』
電話は由乃さまからだった。
『……菜々、出ないのよ。実家の方にも掛けてみたんだけど留守みたいで』
「家族で何処かに出かけたのでしょうか?」
『こんな夜中に?』
「泊りがけとか」
『そんな筈は無いわ。今日は昼間菜々と会って話してるけどそんな話何も聞いてないし、普通に「また明日」って言って別れたから』
「ええと、他に連絡方法は?」
『知らないわ。でもなんだろう? 胸騒ぎがするわ』
「あの、菜々ちゃんの家判りますか?」
『うん、私行って見る。取り越し苦労かもしれないけど、ちょっと心配だから』
「私も行きます!」
『じゃあN駅に来て! 南口よ』
「はい! 二十分で行きます」
二十数分後、乃梨子はN駅前に立っていた。
出かける直前に朝姫さんの携帯にも連絡をしておいた。朝姫さんは「何か判ったら連絡して」と言い、「くれぐれも気をつけて」とも言っていた。
あまり待たないで、由乃さまが自転車に乗って現れた。
「家から直接来たんですか?」
「うん、大体、乃梨子ちゃんと同時に着くと思って」
由乃さまは息を切らしていた。かなり急いで来たらしい。
「ここから電車ですか?」
「ううん、後ろに乗って」
「二人乗りは不味いのでは?」
「見つからなければ大丈夫よ! 早く!」
「だったら私が前に乗ります」
二十分全力で漕いで来たせいだろう、由乃さまの運転はよろよろしていた。
「そう? じゃあお願い」
そう言って由乃さまはすんなり交代を受け入れた。
「ナビゲーションお願いしますね」
「勿論よ」
そして、駅前交番から見えない所まで歩いて移動してから、二人乗りで自転車を走らせた。
乃梨子は風を切って思い切りペダルを漕いでいた。
「そこ右に曲がって」
由乃さまは乃梨子の背中に張り付いて、右だ左だと道案内をしていた。
「はい。あとどのくらいですか?」
「次曲がったら見えてくるわ」
本当に曲がったら見えた。
そこは延々とでっかいお屋敷の壁だった。
「菜々の部屋は道場の側の離れよ」
塀に沿って少し走ると、通用門があった。
「この先に道場の入り口があるの」
「でも、中に入れますかね?」
「乗り越えてでも入るわよ」
「それは止めた方が……」
これだけの家だ、防犯装置くらいついているだろう。
結局、通用門も道場の入り口も鍵が閉まっていて、有馬と田中の表札のある玄関まで回って、正面から堂々と訪問することになった。
有馬の方のインターホンはいくら押しても反応が無かった。
「しょうがないわね」
そう言って由乃さまは今度は田中って方のインターホンに手を伸ばした。
「大丈夫ですかね?」
「平気よ」
そして、呼び鈴の音が鳴って、今度は家の人が返事をした。
『はい、どちら様?』
「すみません、私、有馬菜々さんの友達でリリアン学園の島津由乃と申します」
由乃さまの対応はどこまでも直球だった。
『え……』
でも、それに対して、なにやら微妙な返事が返ってきた。
結局、菜々ちゃんは居ないとのことだった。
何処に行ったのか、連絡先を教えてくれるように頼むと、少し待つように言われた。
そして、しばらくすると女の子が三人、対応に出てきたが、彼女らは挙動不審もいいところだった。
「どちら様?」
三人の中で一番年長と思われる子――といっても由乃さまより二つ三つ年上っぽかった――が、訝しげにそう言った。
「だから、菜々さんの友人で……」
「あなた、高等部でしょ? 二年松組、剣道部所属の島津由乃さん」
「……そこまで知ってるなら、『どちら様』じゃないでしょ?」
っと、由乃さま、タメ口になってますよ。
「これは失礼。でも中等部と高等部は交流無いはずよ。どうして菜々と知り合いなの?」
「剣道の交流試合のとき知り合ったのよ。そんなことどうでもいいでしょ? 菜々は何処にいるの?」
「由乃さま、そんな喧嘩腰じゃ……」
彼女のいきなり人を馬鹿にしたような態度も態度だけど、乃梨子は完全に対決モードに移行してしまった由乃さまを抑えるべく口を挟んだ。
「そちらは?」
「二条です。リリアン高等部一年生の」
「二条さん?」
乃梨子の名前を聞いた彼女と、それを聞いていた後ろの二人が、何故か微妙に表情を変えた。
後ろの一人が応対していた彼女の肩をつつき、彼女は振り返って、三人で顔を寄せて何か内緒話を始めた。
明瞭ではないが『二条乃梨子』がどうのと言っているのが漏れ聞こえてくる。
ちらちらと乃梨子の方に視線を向けながら、目の前でそんなことをされるのは不愉快と同時に、不気味でもあった。
「ちょっと、結局、菜々とは連絡取れないの?」
「由乃さま、一応こちらが訪問者なんですから……」
話は終わったようで、彼女は再びこちらを向いて言った。
「どうも失礼いたしました。折角来ていただいた所、申し訳ありません、ただいま菜々は出かけておりまして、いつ戻るのかは聞いておりません」
「は、はぁ……」
さっきと打って変わって馬鹿丁寧な言い方に毒気を抜かれて、由乃さまはそんな間が抜けた返事をした。
「戻りましたら連絡をするように伝えますので、今日の所は、お引取り願えますか?」
「まあ、そういうことなら仕方ないわね……じゃ、乃梨子ちゃん帰るわよ」
「あ、はい……」
と返事をしつつ、乃梨子はまだ偉そうな態度の由乃さまの背中をつついた。
「なに?」
そして、田中家の娘達に向かって、
「夜分遅く失礼しました」
そう言って頭を下げた。
いくら失礼な態度をされたからといって、礼節を欠かすのはリリアン生としてあるまじき失態なのでは?
と思ったのだけど、生粋のリリアンっ子の筈の由乃さまが、受験組の乃梨子に注意されるあたり、お嬢様学校リリアンといえど中の生徒は人それぞれってことなのだろう。
一応、由乃さまも頭を下げ、そして二人は有馬・田中邸を後にした。
自転車を押して歩き、門から十数メートル離れたところで自転車に乗ろうとして、一回振り返ったらまだ田中姉妹の影が中からの明かりに浮かび上がっていた。
暗くて顔は良く見えなかったけど、その視線が二人ではなく乃梨子だけに向けられているような気がして薄気味悪かった。
由乃さまには何か判ったら連絡してくれるようにお願いして、N駅前で別れた。
そして、家に帰って乃梨子は朝姫さんの携帯に電話をした。
『……田中?』
「はい。太仲の田中姉妹って剣道で有名らしいんですけど、菜々ちゃんは、その四姉妹の末っ子で、お祖父さんの養子になったから苗字が違うんだそうです」
『待って、その田中さんって、確か小寓寺の檀家じゃない?』
「えっ?」
『何処で聞いたか忘れたんだけど、確か剣道の話題からそんな話になって……』
「じゃあ菜々ちゃんも?」
『さあ、そこまでは。でも……』
そして、朝姫さんは声のトーンを落として言った。
『……菜々ちゃん、もう駄目かも』
「……」
乃梨子は言葉を返せなかった。
†
翌日、登校してすぐ、薔薇の館で由乃さまから菜々ちゃんが学校に来ていないことを聞いた。
由乃さまがどうやったのか担任の先生に確認した所によると、熱があるから休むと連絡があったそうだ。
昨日のことは取り越し苦労だったってこと?
熱ってことなら由乃さまを誘ってお見舞いに行ってみようか? などと思ったが、由乃さまには「放課後部活で遅くなるから行けない」と言われた。
『来てない』と言えば、今日は志摩子さんの姿も見えなかった。
「お休みですか?」
「うん、昨日に引き続いて、家の用事なんだって。志摩子さん、仕事の心配して私に連絡してくれたんだ」
「そうでしたか……」
「なんだか今、志摩子さんの家忙しいみたい。志摩子さん白薔薇さまもやってるのに大変だよね」
『家の用事』か。
――志摩子は今でも家の用事って言って時々学校を休むでしょ?
今までもそういうことはあったが、理由を知ってしまったことで志摩子さんが疎遠に感じられて、なんだか寂しかった。
結局、三年生も今日は薔薇の館に姿を見せず、放課後は祐巳さまと二人きりだった。
由乃さまは今日は部活だ。
「……今日は帰っちゃおうか?」
昨日は祥子さまが落ち込んでいるのに何も出来ないと、一緒に落ち込んでいた祐巳さまも、今日はだいぶ落ち着いていた。
「そうですね。急ぐ仕事も無いですし……」
「ああ、そういえば乃梨子ちゃんと二人になるのってちょっと珍しいかも」
祐巳さまが復活したのは、もしかしたら、祥子さまと何か話をした結果なのかもしれないけど、乃梨子には知りようが無かった。
だから乃梨子は、また祐巳さまを落ち込ませてしまいかねない話題は避け、調子を合わせるように明るく振舞っていた。
二人で簡単に片付けをして、戸締りをし、薔薇の館を出た。
そのあと下足室で一旦別れて校舎の外でまた合流し、今はゆっくりと銀杏並木を校門に向かって歩いるところだ。
「……それにしても、乃梨子ちゃん、つぼみらしくなったよね」
「そうですか?」
「うん、だって、私や由乃さんと肩を並べてるのがぜんぜん違和感無いし」
「一応、褒め言葉に取っておきますね」
「えー、ほめてるんだよ?」
「でも、来年度は祐巳さま薔薇さまですよ? 肩を並べてちゃ駄目なんじゃないですか?」
「あはは、言われちゃったね」
志摩子さんがしっかりしすぎているというのもあるのだろうけど。
三年生の薔薇様に囲まれて一人だけ二年生で薔薇さまだった志摩子さんは、それでも三年生が普通に出てくる頃はどちらかというと控えめだったけど、受験等で三年生があまり出てこなくなってからの志摩子さんの働きには目を見張るものがあった。
今にして思うと、頭首としての教育の賜物なのかも知れない。
並木道もマリア様のお庭に至って、二人で並んで手を合わせた後、祐巳さまが何気なく言った。
「ねえ、乃梨子ちゃん」
「なんでしょう?」
「私は乃梨子ちゃんの味方だからね?」
「どういう意味でしょうか?」
いきなり味方といわれても。
山百合会関係では現在対立した問題などないし。
「私は乃梨子ちゃんが悪くないってちゃんと知ってるから」
「え?」
『悪くない』って? 『知ってる』って?
「だから元気出して?」
「あ、あの……」
祐巳さまが、乃梨子を労わっていることは判る。
でも、何を指して『悪くない』と言っているのか?
祐巳さまは何を『知ってる』というのか?
それを考えると素直に喜べないばかりか、その言葉に不気味な響きすら感じた。
乃梨子は祐巳さまに問いただそうかどうか迷っていた。
その様子を見た祐巳さまはなにを勘違いしたのかこう言った。
「もしかして、私や志摩子さんまで居なくなっちゃうとか思ってない?」
「え? そんなことは……」
どうだろう?
「大丈夫だから。私は絶対いなくならないよ。志摩子さんだって由乃さんだって絶対」
「絶対だなんて、……どうして絶対なんて言えるんですか?」
でも、祐巳さまの答えは聞くことが出来なかった。
「あれ? あれって……」
校門を出た所で、祐巳さまが何か見つけたように声をあげたからだ。
「聖さま?」
見まごうはずも無い、校門のそばに車を停めて、歩道のところで人を待つように佇んでいたのは、元白薔薇さま、志摩子さんのお姉さまたる佐藤聖さまだった。
聖さまはこちらに気づいて手を振っていた。
「やあ、祐巳ちゃんに乃梨子ちゃん」
祐巳さまは小走りに聖さまに駆け寄って、言った。
「どうしたんですか? 自動車、買い替えたんですか?」
聖さまの傍には、四ドアの濃いグレーの乗用車があった。確か以前に見たときは黄色い軽乗用車だった気がする。
それにしても、祐巳さまの関心ごとは、何故「どうしてここに?」じゃないのだろう?
聖さまはそんな祐巳さまに微笑みながら答えて言った。
「ううん、これは代車。いま修理に出してるの」
「修理? 事故ですか?」
「そんなとこ。私はあっちの方が可愛いから早く直ってほしいんだけど」
ぶつけたのかな?
聖さまの運転技術がどの位だったかいまひとつ記憶に無い。
乃梨子がそんなことを考えていると、
「ところで、乃梨子ちゃん」
そういって聖さまは車の後ろのドアを開けた。車に乗れということらしい。
「私を何処かに連れて行くんですか?」
「ううん、お話があるだけ。立ち話するのもアレだから、中で話しましょうってことよ」
「……えーと?」
唐突にカヤの外にされてしまった祐巳さまが困っていた。
「祐巳ちゃん、ごめんね、今日はデート出来ないの」
「で、でえと? いえ、私はそんな……」
なにやら祐巳さま慌ててる。
「祐巳さま、そういうことらしいのでここで」
「あ、そう? じゃあ、ごきげんよう、また明日ね?」
「ごきげんよう」
「じゃーねー? 今度デートしようね?」
「し、しませんよ!」
短い間に面白い程いろんな表情を見せて祐巳さまは去って行った。
「やっぱり祐巳ちゃんは最高よね」
聖さまは運転席に乗り込みながらそんなことを言った。
「……それで、話って何ですか? というか知ってるんですよね?」
「知っている? 何の話?」
「事件です」
「『事件』ね。……事件といっても、最近いろいろありすぎて、何の事件やら」
「全部ですよ」
「全部……?」
聖さまは車のハンドルの上に両手を置いて、少し考えてから話を続けた。
「……そうね、江利子と山辺さんは非公開で今も捜査中。聞いた所ではさっぱりみたいね。蓉子は足取りだけは掴めたみたいだけど、まだ見つかっていないわ。それから有馬菜々って娘も目下捜索中で……」
乃梨子は思わず口を挟んだ。
「菜々ちゃん、やっぱり居なくなってたんですね?」
『熱で休み』というのは秘匿捜査のための嘘だったらしい。
「やっぱりって?」
「あ、いえ、由乃さまが……」
失言だと思ったが、『乃梨子が話したから居なくなった』とかいう話は、非常に説明しづらい。
とにかく話題を変えないと、と思い、乃梨子はこの前、聖さまと話して以来気になっていたことを聞いた。
「それより、どうしてそんなにお詳しいんですか?」
「私の知り合いに警察関係者が居てね、私は江利子の関係者だから捜査に協力してるのよ」
警察関係者?
だとすると、いずれ乃梨子の所にも警察の人が話を聞きに来るのか?
「聖さまは参考人ですか?」
「それもあるけど、私は犯人じゃないわよ?」
「そんなことは言ってません。蓉子さまの足取りが掴めたって言いましたね」
「ああ、蓉子ね。蓉子は御祓いのお祭りに来てたみたいよ」
「え?」
「以前から小寓寺のあのお祭りには興味があったみたいで江利子と一緒に調べていたらしいの。それで、当日は話が出来なかったからって翌日、居なくなった日ね、蓉子はまた小寓寺に赴いているわ」
「小寓寺に……?」
「蓉子はその日大学には行かないで朝早く出かけたの。家の人にはちゃんと『小寓寺へ行く』って言ってね。でもまっすぐ向かわずに午前中は郊外のある婦人科の医院に立ち寄ってる。ああ、婦人科って言っても誤解しないでね。最近蓉子便秘で悩んでたのよ」
「便秘、ですか?」
「恥ずかしいから確実に女医さんに診てもらえる婦人科を選んだらしいわ。家の人に言わなかったのも恥ずかしかったからね」
「でも、病院なんて……」
そんなに重かったのだろうか?
「ほら、ちょっと前に便秘で死亡ってニュースあったじゃない?」
「ああ、それで心配になって病院へ?」
そういえばそんな記事をインターネットで見た覚えがある。
「そう。で、話を戻すけど、その後、小寓寺に向かう電車が車両故障で大幅に遅れて、着いたのは午後の三時ごろ。そこで志摩子のお父さんに会って、結構長く話をしたみたいね、なんか親父さんが古い資料を持ち出して遅くまで調べていたそうよ。それの後、夕飯まで頂いてから帰ったって話だけど、その後の足取りはぷっつりと途絶えているの」
「じゃあ、居なくなったのは?」
ここで乃梨子は奇妙な違和感を感じた。
「そうね。帰りの電車に乗っている最中に何者かに連れ去られたか……乃梨子ちゃん?」
おかしい。
じゃあ、朝姫さんはいつ蓉子さまに相談を持ちかけたんだ?
その日は夜に朝姫さんから電話が掛かってきた。
その時、江利子さまと山辺さんが死んだって聞いたのだ。
志摩子さんの家の夕飯って何時頃?
朝姫さんが相談したのは、その後ってこと?
「なにか気になることでもあるの?」
「あの、蓉子さまが志摩子さんの家を出たのって何時頃かわかりますか?」
「夕飯の後も少し居たみたいね。遅くなったら危ないからって帰らせたそうだから、7時か8時位かしら?」
朝姫さんが江利子さまと山辺さんの死を知ったのは祭りの翌日の朝だ。
蓉子さまは朝から家の人にも言わないで婦人科の医院に行って、その後小寓寺に向かっている。
昼間、朝姫さんが蓉子さまに相談することは不可能だ。
聖さまの話通りなら、蓉子さまが帰ったのは早くても午後8時。
朝姫さんは相談した直後いなくなったって言ってた。
その話からすれば本当に失踪直前。警察も掴んでいない足取りの中で会っていたことになる。
「警察は別に乃梨子ちゃんが犯人だなんって思っていないわよ?」
「え? は、はい」
乃梨子が長いこと沈黙するものだから、不安がってると思ったようだ。
聖さまは続けて言った。
「乃梨子ちゃん達四人があの日、神社の祭具殿に入ったってことは私も知ってるわ。翌日にはもう檀家さんの間で噂になってたから」
――え?
『誰かが見てた』とかじゃなくて噂にまで?
「それ自体は不法侵入で罪に問われることだけど、そんなことより問題なのは、あの中に何があったかってこと。忍び込んだ人間が次々に犠牲になるようなヤバイ何かが」
バックミラー越しに聖さまの目が乃梨子の方を見た。
このミラー、どういうわけか運転席から後部座席の人の顔が見える角度にしてある。
「……神社で祭っている神様の神像と、古い農具や家畜の解体道具みたいなものがありましたけど」
「それだけ?」
「ええ、古いといっても、それこそ考古学的価値があるんじゃないかって感じの」
「口封じをされるような、とんでもない物が隠してあったんじゃないの?」
「いいえ。本当に他には何も……」
「ふうん、じゃあ、乃梨子ちゃんだけが見ていない、何かがあったってことかしら?」
「ええ?」
「あのね、警察の人が知りたがっているのは、あの祭具殿に入った三人までが被害にあって、あなただけが無事だった。そこにどんな違いがあるのかってことなのよ」
「え? ちょっと待ってください!」
乃梨子は身を乗り出して言った。
「『あなただけは』って、『三人までが』って……?」
「警察はあなたに直接尋問したいって言ってたわ。でも、私がお願いして間に入らせて貰ったのよ。あの人たちは強引だから、下手したら乃梨子ちゃんが犯人にされかねないしね」
「いえ、そうではなくて、被害にあったって、江利子さまと山辺さんと……」
そこで、聖さまは体を捩って乃梨子に顔を向け。言った。
「……江利子と山辺さんは死に、朝姫ちゃんは失踪した。乃梨子ちゃん、あなただけが今日まで無事に過ごしてるのよ」
ええっ!?
「あ、朝姫さんが失踪!?」
†
夜――。
同居人はまた不在だった。
乃梨子は応接室のソファの上で膝を抱えて、額を膝につけるようにして蹲っていた。
『江利子と山辺さんは死に、朝姫ちゃんは失踪した』
――じゃあ、昨日電話で話したのは?
『朝姫ちゃんは失踪した』
――一昨日の夜も話をした。
『失踪した』
――。
不意に電話の呼出音が鳴り響いた。
乃梨子は顔を上げた。
そして、ゆっくりとソファを降り、電話機の前に行った。
緊張に、受話器を取る手が震える。
乃梨子は慎重に受話器を耳に当てた。先方はまだ何も言わない。
「はい、もしもし」
一瞬の沈黙。
『……あ、乃梨子ちゃん? 朝姫です』
志摩子さんと良く似た声質の、甲高い朝姫さんの声が耳に響いた。
乃梨子は気を落ち着かせて、昨日話したことを思い出して、言った。
「……あの、菜々ちゃんの件だけど」
『うん、あの後、どうなったの? 見つかったの?』
「……警察が、捜索中だって」
『やっぱり、居なくなっちゃったんだ……』
「うん」
『あの、乃梨子ちゃん、気を落とさないでね……』
弱々しい声の後、泣いているような、しゃくり上げるような嗚咽が聞こえてきた。
普通ならば、自分のせいで人が消えて、更に自分も狙われているのではないかという恐怖から、心細くて泣いているんだって思うだろう。
でも、この受話器の向こうのこの人が、完璧に朝姫さんであればあるほど、恐ろしさが募っていく。
この人は朝姫さんじゃない。
こいつは誰だ?
乃梨子は言った。
「い、いつ、……いつ打ち明けたの?」
『え?』
「蓉子さまは、あの日朝早く出かけた。小寓寺に行くって言って」
『それが、なに?』
「朝姫さんは蓉子さまが便秘で悩んでいたことは知ってる?」
『う、うん、食事療法で好きなものが食べられないって言ってたからそのことだと思う』
「じゃあ、病院にかかったのは?」
『いよいよだったら病院に行くとか言ってたわ』
「じゃ、どこの病院かは?」
『ごめんなさい、そこまでは知らないわ……』
「そう」
『でも、乃梨子ちゃん、それがいったいなんなの……?』
朝姫さんは病院を知らない。
ということは、蓉子さまの行った病院に押しかけるか、その前後で捕まえて打ち明けるなんてことは不可能だ。
そしてそのまま蓉子さまは小寓寺に向かった。
朝姫さんが小寓寺に行ったのでなければ、蓉子さまが朝姫さんの打ち明け話を聞く機会は無いはず。
「……朝姫さんはいつ蓉子さまに打ち明けたの?」
『乃梨子ちゃん、どうしてそんなことを?』
「朝に蓉子さまを捕まえるのは無理だ。……朝姫さんは小寓寺に行ってたの? でもそれはあり得ない」
あそこは真っ当なお寺とはいうものの、魅祓神社のことを考えれば確実に藤堂本家のお膝元だ。
そんなところに今の朝姫さんが近づくわけがない。
それに。
「だって、朝姫さんは……」
そんなことより、
「朝姫さんは、」
そう――。
「――藤沢朝姫は魅祓いの日の翌日失踪したのよ!!」
『……っ、』
受話器の向こうからは、すすり泣く声。
「お願いよ、朝姫さん、私の言ってることが間違ってるならそう言って!」
『……』
「朝姫さん、お願いだから!」
『……』
「ねえ、朝姫さんっ!」
受話器のスピーカーからは絶え間なく嗚咽が聞こえていた。
「……朝姫さんは蓉子さまに会っていないよね? もし会っているとしたら、蓉子さまが志摩子さんの家から帰った後だ。つまり、失踪する直前、もしくは、失踪した後しかあり得ないのよっ!」
『……っ、……ぅっ』
聞こえてきたのは息が漏れるような声。
(なに?)
『……ふふっ』
『ふはははははっ、あはははははっ! あははははははははははは! あははははははははははははははははははははは! あははははははははははははははははははははは! あははははははははははははははははははははは!』
そして、狂気を思わせるけたたましい笑い声――。
フィガロの結婚クロスオーバー。
サブタイトル:「真里菜の結婚・なんでそ〜なるの!?」
(第3幕・嘘と真実と奇跡の法廷)
祐巳・聖ペア対真里菜・美咲ペアの争いは、とうとう法廷にまで持ち込まれてしまいました。
この国の裁判制度はちょっと変わっていて、毎週水曜日に首都にある競技場で公開法廷というものが開かれます。
この公開法廷には国民全員が参加することができ、望めば裁判員として自ら裁きを下すこともできます。
また、重大な犯罪や事件の裁判の場合は、裁判官の判決とは別に被害者が判決を下すこともでき、意見が分かれた場合には、
傍聴する人々の投票によって決められます。
まあ今回は、ご領主の家で起こったちょっとした揉め事の裁判なので、傍聴人も少なく、競技場は閑散としたもの。
ところがここで、予期せぬ出来事が起こります。
「まず被告人への人定質問を行います。被告人は氏名と住所、年齢、職業を答えなさい」
「岡本真里菜。港町通り12番地。24歳、職業は領主公邸使用人です」
「被告側弁護人。出生証明書の内容を説明してください」
真里菜さん側の弁護に立ったのは、敏腕弁護士として知られる水野蓉子さんです。
しかし、蓉子さんの表情にわずかながら戸惑いがみられます。
なぜなら、証明書に記入されていたのは…
「被告人、岡本真里菜は聖帝暦3027年第6月の第26日、医師佐藤聖と領主公邸使用人福沢祐巳の長女として誕生しました。
しかしながら、佐藤聖と福沢祐巳は正式に婚姻届を出しておらず、それが原因で家族や親族に養育を反対されたため、
港町通り12番地在住の岡本夫妻の養女として、養子縁組の手続きを行っております。
これは被告人出生後3日目のことです」
つまりはこういうことです。
24年前の6月26日、若き医師佐藤聖とご領主の屋敷の使用人福沢祐巳の間に女の子が生まれました。
しかしながら2人は正式に結婚したわけではなく、真里菜さんが生まれた当時はまだ20歳と18歳。
あまりにも若すぎると周囲が反対したため、子どものいなかった岡本夫妻の娘として育てられることになったのです。
それが原因で2人は別れてしまいました。
「佐藤さん、福沢さん、間違いありませんか」
裁判官の質問に、祐巳さんは涙声で答えます。
「間違いありません。岡本真里菜の実の両親は私どもです」
「真里菜…許して。あなたが憎くて捨てたわけじゃない」
初めて聞く実の両親の声。
「美咲ちゃん…ごめんなさいね。あなたが昨夜あの部屋にきたとき、
私にはすべてが分かってしまった…あの子の許婚なんだってことが。
でも、せっかく真里菜ともう一度一緒の場所で生きることが許されたのだから、
せめて母親として最後の悪あがきをしたかった」
美咲さんはやはり、といった表情でうなずきました。
「確かに予想の斜め上を行く真実ではありましたが…私たちが祐巳さまと聖さまに初めてお目にかかったとき、
明らかに真里菜さまと祐巳さまの反応がおかしかったのです。
聖さまも一見無表情でしたが、目は口ほどにものを言いましたね。
動揺しているのが手に取るように分かりました。
でも私は、それを敢えてその場で指摘するのはやめようと思っていました。
いずれは明らかになるべきことなのだし。
…ここまで大騒ぎになるとは、思ってもみませんでしたけれど」
裁判官が、持っていた木槌で机をたたく音が響きます。
「静粛に!これより被告人の罪状認否に入ります。
被告人岡本真里菜は、福沢祐巳より20万円の借金をしていながら、これを返さず、
福沢祐巳に損害を与えた。認めますか」
「裁判長!」
今度は聖さんが叫びました。
「娘は借金などしていません。本来ならその被告席に立つのは、私たちのはずです。
私たちのせいでこんなことになってしまった…
裁判長。お願いです。どうか、どうかこの訴訟を取り下げることをお許しください。
そして、真里菜と美咲ちゃんの結婚をお認めください。
私たちも、これまでの生き方を悔い改め、正式に夫婦として暮らします。
祐巳ちゃん…遅くなってごめんね。もう一度夫婦としてやり直そう」
「はい…」
聖さんは真里菜さんに改めて向かい合いました。
「真里菜…私たちを、告訴したい?」
真里菜さんの瞳に、なんともいえぬ色が浮かびます。
しばらく沈黙したあと、きっぱりと真里菜さんは言い放ちました。
「それは今後のあなたたちの態度次第です。
今まで育ててくださった岡本夫妻への思いもありますし、何より私はあなたたちの
奔放な生き方の犠牲になったんですよ。
もし自分たちを私の両親だというのなら…もう2度とこういうことをなさらないで下さい。
これは私からの切なる願いです」
「分かった…もう絶対しないから」
「それと。岡本のお父様、お母様はこれから先、私という娘を1人失うことになります。
それは今まで培ってきた家族の絆を失うのと同じです。
あなたがたにはその意味を深くかみしめていただきます」
「もちろん、できる限りのことはさせていただくつもりよ。
岡本さん、どうも本当に申し訳ございませんでした…」
そろって土下座する実の両親を見て、ようやく真里菜さんも許す気持ちになったようです。
「もういいでしょう、真里菜さま…お義父さま、お義母さま、ふつつかな嫁では
ございますが、どうぞよろしくお願いいたします」
「大歓迎だよ、美咲ちゃん…」
固く抱き合う4人。
その姿を見た裁判長は判決を出しました。
「今回の訴訟を無効とし、佐藤聖と福沢祐巳、岡本真里菜と大願寺美咲の2組の結婚を許可する」
大きな拍手が沸き起こる中で、1人がっくりと肩を落とす人間が。
「あてがはずれたわね…これじゃ何のために初夜権を復活させたのか分からないわ」
そう、ご領主の瀬戸山智子さんです。
傍目から見ても分かるほどに、彼女は落ち込んで帰っていったのでした。
そして落ち込んでいる人がもう1人。
「ちくしょう…どうして俺がクビ食らわなくちゃならねぇんだ」
ご領主の秘書、小野寺涼子さんです。
なぜ彼女がクビになったのか?
それはまた次回にお話することに致します。
島津祐巳と島津由乃は双子の姉妹である。
祐巳はお父さん似、由乃はお母さん似、顔が似ていないのは二卵性だからだ。
二人には共通の幼馴染であり従妹の支倉令は、由乃のリリアンでの姉妹。
そして、一方の祐巳は、紅薔薇のつぼみである祥子さまからロザリオを受け取った。
その一【No:2045】その二【No:2058】その三【No:2098】【No:2101】【No:2109】【No:2123】―今回
「で、ロザリオ受け取ったんだ」
「う、うん」
「ふ〜ん」
祥子さまとのデートが終わり帰ってきた祐巳を待っていたのは、白いゴスロリを着込んで憮然とした表情の由乃&ニコニコ令姉ちゃんだった。
祐巳が出かけた後、何があったのかは知らないが珍しく由乃が負け、令姉ちゃんが勝ったのだろう。
そして、それで更に機嫌を損ねた由乃の恨みが、今朝のことと祥子さまにロザリオを受け取ったことで倍増され祐巳に向かってきているようだ。
……面倒だよね。
そうは思っても付き合わないといけない。
由乃は祥子さまを認めていないからだ。
祐巳は性格からか、自分達だけがよければそれで良いとは思えないからだ。
「それで、祥子さまの別荘まで行ったのに、ロザリオは倒れられた祥子さまに付き添っていたとき受け取った……だっけ?」
「……そうだよ」
「バカ!!じゃない?!」
由乃のその言葉には流石に祐巳も少しムッと来た。
「なんでよ、それなら由乃だってバカじゃない。ここで横に成っているときに令姉ちゃんから貰ったんだし」
「だから、バカって言っているのよ!!」
由乃は祐巳に更に食って掛かる。
「なんでそんなに素敵な場所に行って、ロザリオ受け取ったのがベッドの横なのよ!!全然、素敵じゃないじゃない!!」
「うっ!!」
由乃の言葉に反応したのは祐巳以上に令姉ちゃんの方だった。
「違うよ……由乃にはそうは思えないかもしれないけど、私は十分に素敵なロザリオの授受だったよ。自分が渡したいからって急いで差し出したわけじゃないもん!!」
「おぉ!!」
祐巳の言葉に再び令姉ちゃんが反応する。
「ムードが無いじゃない!!」
「うっ!!」←令姉ちゃん悶える。
「由乃とは違う!!祥子さまは素敵だった!!」
「あぁ!!」←令姉ちゃん苦しむ。
「何が素敵よ!!ベッドの横なんて、もう少し雰囲気を考えないとダメ!!」
「ごっ!!」←令姉ちゃん飛ぶ。
「令ちゃんと同じじゃない、バカ!!」
「ひぃぃぃ!!!」←令ね……跳ねる。
「令姉ちゃんとは違うもん!!意気地なし!!」
「あっあぁぁぁ!!」←頭を抱える。
「令姉「令ちゃんのムードなし!!」」
「ごめんなさい!!……て?!何で私が怒られているのよ!?」←半泣き。
「「だって、ねぇ」」
祐巳と由乃は顔を見合わせる。
「「こんな服を送るから問題になるのよ」」
祐巳と由乃は声合わせ、ステレオで令姉ちゃんに迫る。
「令ちゃん」
「令姉ちゃん」
「「どっちが似合っている?」」
祐巳と由乃に迫られて令姉ちゃんが出した結論は……。
「どっちも可愛いよ♪」
――それは、言っては成らない言葉だった。
「あっぎゃぁぁぁ!!!!!」
祐巳と由乃による制裁の後。
由乃は憮然としたまま呟いた。
「……認めないから」
それに対して祐巳は笑い。
「認めさせて見せるから」
と、お互いに宣戦布告をしていた。
結局、祐巳と由乃の気まずい関係は翌朝も続いていた。
一先ず昨夜は令姉ちゃんがクッションに成ってくれたし……まぁ、本人は堪らないだろうが、この役目は昔から令姉ちゃんにしか務まらないから仕方がない……気まずいとは言っても並んでの登校は何時も通り。
何も変わらない。
「「ごきげんよう」」
「ごきげんよう」
「ごきげんよう、黄薔薇のつぼみに祐巳さん、由乃さん」
挨拶も変わらないからよほどの人でないと、祐巳と由乃の喧嘩は分からないだろう。
だが、嵐は近づいていた。
「祐巳さ〜ん!!」
プリーツを乱れまくり、セーラーカラーを翻しながら駆けて来るのは剣道部で祐巳の仲良しのちさとさん。その手には何か紙が握られ手いるようだが……。
「祐巳さん!!紅薔薇のつぼみの妹に成ったって本当なの!?」
ちさとさんの言葉に周囲の生徒達の視線が一瞬で祐巳に集中した。
「ど、どどどど」
慌てる祐巳に向かって、ちさとさんが手にした紙を差し出す。
それは、リリアン高等部の新聞部が発行するリリアン瓦版だった。
見出しは『紅薔薇のつぼみ秘密デート!!』
「なによコレ!!」
『紅薔薇のつぼみの妹誕生!!……………………………………ヵ?』
どこぞのスポーツ新聞のような見出し。
しかもそこに載せられていた写真は……ゴスロリを着込んだ祐巳と祥子さまが駅前で落ち合った時のモノだった。
「あっあぁぁぁぁ!!!!!!」
祐巳の悲鳴が木霊する。
祥子さまの事以上に祐巳にはゴスロリ姿が写真で載った事の方が一大事だった。
すぐさま原因を探る。
……菜々!!
祐巳は一目散に中等部の方に駆け出した。
菜々と会ったのは別荘地だったのだから犯人ではないのだが、今の祐巳に冷静な理性は存在しなかった。
もの凄い勢いで走っていく祐巳を、由乃たちは呆然と見送っていた。
何が起きたのかは理解できなかったようだ。
「ぷっ!!あははは!!!」
そして、その姿を見て由乃だけが楽しそうに笑った。
菜々のタイミングは非常に悪かった。
今日は厄日ではないかと思うほど悪かった。
友人がたまたまリリアン瓦版を入手して、皆で見ているところに菜々が来た。その上、祐巳の写真を見て別荘で見たことを口にしてしまった瞬間。
祐巳がそこに辿り着いた。
「菜々!!!!!」
「……あは」
「菜々、貴女のその軽い口にはキャンディーではダメだったようね」
「ゆ、祐巳さま、ごきげんよう」
「ごきげんよう、菜々」
何時しか周囲の中等部の生徒達は菜々の側から逃げていた。
祐巳から放たれるオーラは、一般生徒でさえ感じられる鬼そのものような恐ろしいものだった。
「キャンディーよりも、竹刀の方が好みだったなんて長い付き合いだけど知らなくってごめんね」
「キャンディーですか?……もしかして飴と鞭の駄洒落ですか?祐巳さまは笑いのセン……いえ!!甘いものの方が好みです!!」
菜々は祐巳の表情に気がつき慌てて言い直す……が、遅い。
「いいのよ、貴女と私の中じゃない……沢山、可愛がってあげるわ!!」
既に火に油は注がれていた。
「心の奥底からお断りします!!」
「遠慮はいらないよ……菜々!!」
「ひやぁぁぁぁ!!!!!祐巳さま、顔が怖いです!!」
菜々の悲鳴が響き渡り、周囲の生徒達はとばっちりが来ないようにと菜々に手を合わせ拝んでいた。
結局、祐巳は勘違いのまま菜々を粛清しのだが……そんな事をしているものだから遅刻し、先生に怒られ更なる恥の上塗りと成った。
「まったく、笑わせてくれるよね。祐巳は」
「あの服にさせたのは由乃じゃない」
お昼休み。
リリアン瓦版のおかげですっかり有名に成ってしまった祐巳は、由乃と一緒に中庭で昼食を取っていた。
祥子さまとのロザリオの件は、嘘をついても仕方がないので、素直に置け取ったと言うと以外に皆祝福してくれた。ただ、問題はあの服。
祥子さまの妹のことと共に広まった祐巳の服装。
お昼にはすっかり祐巳の私服=ゴスロリが定着し、中にはゴスロリファン(祐巳の知る限り手芸部の生徒)から誘われたり。ヨーロッパで買ったのかと祥子さま張りの素っ頓狂なことを聞いてくる生徒たちまでいて、祐巳は騒動の張本人とも言える由乃を連れこうして昼食を食べていた。
「あっ」
「むぅ!!」
そこについに騒動の当事者である祥子さまが祐巳の方に向かってきた。
「ごきげんよう、祐巳、由乃ちゃん」
「ごきげんよう、祥子さま」
「ごきげんよう、紅薔薇のつぼみ」
―――ばっち!!
笑顔の祥子さまと由乃が顔を合わせ、火花が散る。
……うわぁ、怖いよ。
その火花の原因である祐巳は二人の様子に少し及び腰。
そして、笑顔で睨み合った祥子さまと由乃はゆっくりと戦いを開始した。
「……ようやく、祐巳を妹になされたそうですね。祥子さま」
「えぇ、本当にようやくだったわ。祐巳を口説き落とすのに大変だったのよ」
「そうですか、それは大変だったみたいですね。いっそのこと諦めた方が良かったのでは?」
「そうは行かないわ、私は祐巳が良かったのよ。祐巳以外に妹は考えられないほどにね」
「そうなのですか?祥子さまなら祐巳以外なんかではなく、より取り見取りのような気がしますが?」
「あら、人の妹に対してなんかとは聞き捨てならないわね。実の双子のお姉さんでも言ってはいけない言葉はあるのよ?」
「大丈夫です。祐巳とは生まれたときから一緒ですから、この程度なら笑って済ませられますわ」
「あら?祐巳のことではなくって姉である私には謝罪が欲しいのだけれど?」
「祐巳のお姉ちゃんは私ですけれど?」
「あぁ、そうなのですか?それはすみません、まだ妹からお姉さまと呼ばれていないようなので姉妹とは思えなかったものですから、おほほほ」
「そう、そうね。祐巳には言い聞かせないといけないわね。おほほほほほ」
「無理強いはいけないと思いますが?おほほほ」
「「おほほほほほほ」」
ドッバチバチバチ!!!!!!
笑顔のまま更に激しい火花が散る。
……どうしよう。
睨み合う祥子さまと由乃を目の前に祐巳は困っていたが、その様子を楽しそうに傍観している人たちもいた。
「あはははは、祐巳ちゃん困ってるよ」
「本当に楽しそうね」
「アレが楽しそうといえるなら既に人間終わりね。黄薔薇さま?」
ここは薔薇の館。
その二階から笑って眺める人影が三つ。
いわずと知れた薔薇さま方は、祐巳たちの様子を楽しそうに眺めていた。その後ろには、困り顔の志摩子さんと祐巳と由乃の危機に駆けつけようとして薔薇さま……主に黄薔薇さま……に邪魔をさせないと縛られ床に転がされた令姉ちゃんが泣いていた。
「それなら仲裁に行けばよろしいのでは?紅薔薇さま」
「そうそう、妹と孫の一大事よ?」
「う〜ん……やめておくわ」
「そう?」
「えぇ、私も楽しんで見ている事にするわ」
「人間として終わりね」
「そうね、ふふふ」
結局、三人の薔薇さま方は仲裁には向かわず。ただ、眺め。
令姉ちゃんはシクシクと泣いていた。
祥子さまと由乃は、まだ、睨み合っていた。
「そろそろ止めてくれるかしら?由乃ちゃん……私は、祐巳と話がしたいのよ」
「ふふふ、それは残念でしたね。もうすぐ授業開始ですよ、時間切れですわね」
「それでは放課後にリベンジかしらね」
「……受けて立ちましょう!!」
「「ふふふふふ」」
睨み合い笑う祥子さまと由乃。
「「そう言うことだから、祐巳……?」」
だが、フッと横を見れば確かにそこにいた祐巳の姿が消えていた。
「「祐巳?」」
「祥子さま!!由乃!!授業始りますよ!!」
祐巳は既に校舎に戻っていて廊下から二人に声をかけてくる。祐巳は、二人の喧嘩に呆れて、さっさと祥子さまも由乃も置いて一人だけ教室へと向かったのだ。
そして、午後の授業開始のチャイムが容赦なく鳴り響いた。
「……祐巳ってこういう時は、薄情ですよ」
「……そのようね」
無常なチャイムを聞きながら、祥子さまと由乃はヤルセナイ気持ちのまま同時に溜め息をついた。
「「……はぁ」」
「「はぁ」」
放課後、薔薇の館でも同時に溜め息をつく祥子さまと由乃。
原因は、午後の授業に遅れたことだ。その事が薔薇さまの耳に入り怒られていた。
祥子さまと由乃は頭を下げ俯いているので分からないだろうが、祐巳や志摩子さんに令姉ちゃんは笑いながら怒っている薔薇さまたちを見ていた。
明らかに、三人の薔薇さま方は楽しんでいた。
「はぁ」
「大丈夫ですか、祥子さま」
「祐巳、ありがとう」
祐巳は薔薇さまたちのお小言が終わるのを見計らって、祥子さまと由乃に飲み物を差し出す。
「姉妹に成った早々に貴女に恥ずかしいところを見られたわね」
「ふふふ、そうですね。でも、祥子さまの妹に成れたからこそ見られた姿ですから」
少し俯いて微笑む祥子さま。祐巳も楽しそうに笑う。
「……なに、アレ?」
「ホットケーキに砂糖蜂蜜をかけたくらいに甘い空気ね」
「潰す!!」
「こらこら」
物騒なことを言って、祐巳と祥子さまの間に割って入ろうとした由乃を、令姉ちゃんが抑える。
「……令ちゃん放してよ」
「まぁまぁ、祐巳は楽しそうだから余り邪魔をすると馬に蹴られるよ?」
「……むぅ」
由乃は不満な表情のまま祐巳と祥子さまを見た。
「ほら、祐巳」
祥子さまは少し乱れた祐巳のタイに手をかけ整え、一方の祐巳は少し気恥ずかしそうに俯いていた。
「はい、これでいいわ」
祥子さまは祐巳のタイが綺麗に揃えられ嬉しそうだ。
「す、すみません。祥子さま」
「いいのよ。それよりも祐巳」
「はい?」
「その祥子さまと言うのもうお止めなさい。貴女は私の妹なのだから」
「……は、はい」
祥子さまの言葉一つ一つに、少し照れくさそうに頷く祐巳。
「……あっ」
それを見た由乃は、自身の手を握り締める。
誰も由乃の様子に気がつかない。
「まったく、あの二人は本当に楽しそうだよね。些細なことにも反応してさぁ」
令姉ちゃんの何気ない感想、由乃は顔を上げ笑う。
それを見て、令姉ちゃんは安心をしたようだが、由乃の目は笑っていなかった。
何時もなら気がつくであろう由乃の反応、だが祐巳の視線は祥子さまへと向き。
令姉ちゃんの視線は、初々しい祥子さまと祐巳の方に向いていた。
だから、誰も気がつかない。
そう、気がつかない。
と、言うことでようやく、島津祐巳その三終わりです。
色々、厄介ごとが収まったので、少しは書ける時間が取れそう……ここまで読んでくださった方に感謝。
今回は、その三のまとめという感じです。最後の方は、まぁ、ここに来る人にとっては周知の展開に成りますかね……あはは。
『クゥ〜』
【No:2162】【No:2165】『後味が悪いシリーズ』※一部暴力的な表現が含まれています。苦手な方はご注意ください。
翌朝。
最近夜遅く、朝も遅い菫子さんに「行ってきます」と声をかけ、乃梨子は家を出た。
そしてエレベータで降りて、マンションのエントランスから出たところで、
「乃梨子ちゃん」
聞き覚えのある、でもこの場所では初めての聞く声を聞いた。
「え? ……祐巳さま?」
「ごきげんよう。いい朝だね?」
良く晴れた空の下、祐巳さまは朗らかに微笑んでいた。
「ど、どうして祐巳さまが居るんですか?」
「え? えっと、その……」
乃梨子の疑いの目に祐巳さまはうろたえていた。
「ほ、ほら、昨日話が途中だったし、なんか乃梨子ちゃん不安そうだったからね……」
「それで、わざわざ迎えに来てくれたんですか?」
「そうなのよ」
あからさまに怪しかった。
どういうこと?
昨日の様子では、聖さまが何かいろいろ調べていることを、祐巳さまは知らないようだった。
でも、だとすると、何でここに?
朝っぱらから祐巳さまが乃梨子の家の前に居なければならない理由ってなに?
――監視。
すぐにその言葉が浮かんだ。
でも誰が?
警察と繋がってる聖さまに仲間外れにされ、それでも乃梨子を監視するとしたら答えは一つ。
背後にいるのは『藤堂本家』だ。
「さ、早く行こう?」
「は、はい」
でも、監視するって事は、今すぐに消そうとか考えていないってこと?
それとも――。
祐巳さまと駅までの道を歩きながら乃梨子は言った。
「祐巳さまは、ご存知なんですか?」
「ん? 何のこと?」
「志摩子さんの家のこと」
「うん、実はお寺だってことを、初めて聞いたのは令さまからだったかな?」
「祐巳さま……」
ここでボケるか? 普通。
「な、なあに?」
祐巳さまの笑いは引きつっていた。
「……わざとですね?」
「わ、判っちゃった? ちょっと緊張をほぐそうと思ったのよ。なんか乃梨子ちゃん笑ってくれないから」
「仏頂面はもともとです」
「怒らないでよ……」
話す気があるのか無いのか?
流石、次期紅薔薇さまか。その意図は今ひとつ読めなかった。
でも、今ので判った。
祐巳さまがここに来たのは『心配だから』なんて単純な理由ではない。
何らかの使命をおびて乃梨子の前に現れたのだ。
やがて駅に近づいて、同じ方向に歩いて行く通勤通学の人々が目に入ってきた。
祐巳さまは言った。
「志摩子さんさ……今、大変なんだよね」
「『藤堂本家』のことですか?」
「うん……」
「やっぱりご存知だったんですね?」
「うん。黙っててごめん」
「いいえ、祐巳さまに聞いたのは今が初めてですから」
「私も最初聞いた時はびっくりしたんだよ。志摩子さんが次期頭首だなんて」
何処まで知っているのだろう?
志摩子さんが頭首代行を務めていることや、本家が裏のやくざ屋さんと言われてることまで判ってるのだろうか?
いや、そんな感じではない。
ということは、利用されて?
「……祐巳さま。誰に言われてここに来ましたか?」
「え? 私は……」
「祐巳さまが一人で思いついて私の家まで来たなんて、私に信じろとか言うんじゃないでしょうね?」
「え、ええと」
「口止めされてますか?」
「ううん、なんで口止めなんてしなきゃいけないの? 言われたのは令さまだよ」
令さま?
「祥子さまじゃないんですか?」
祐巳さまが言うことを聞くとしたら祥子さまだから、最初そう思ったのだ。
でも、その答えを聞いて確信した。
令さまの家は、『小寓寺の檀家』だ。
聖さまの話からすれば、小寓寺は間違いなく藤堂本家の配下にある。
小寓寺の檀家の一部、あるいはその多くは藤堂のコントロール下だろう。
それは、魅祓神社の伝説や祟りの噂が小寓寺の檀家に広まっていることを考えれば容易に想像がつく。それらは宗教的脅しとして作用するのだ。
そう考えれば、昨日の田中姉妹が乃梨子の名前を聞いてあんな反応をしたことも説明が付く。
そして今日、令さまに言われて祐巳さまがここに居る。
つまり、この祐巳さまも藤堂本家の尖兵ってことだ。
祐巳さまはそんな様子も見せずに言った。
「勿論、祥子さまも知ってるけど……『乃梨子ちゃんの側に居てあげて』って言ってくれたのは令さまなんだよ」
乃梨子は立ち止まって言った。
「……大きなお世話ですね」
乃梨子に遅れて、数歩歩いてから立ち止まり、祐巳さまは振り返った。
「乃梨子ちゃん?」
「大方、逃げ出さずにちゃんと学校に向かうように仕向けたってところでしょうけど」
「え? 仕向けたって?」
「祐巳さまは利用されてるんですよ。いいえ、もしかしたら自覚してますか? 私の監視役ってことを」
それを聞いた祐巳さまは、困惑の表情を浮かべた。
「わたし、乃梨子ちゃんの言ってることが判らないよ。利用されてるって? 監視役って何のこと?」
「自覚は無いようですね。ならば教えてあげます。私は藤堂家に狙われているんですよ。令さまは藤堂本家の意思で動いています」
「狙われて!? の、乃梨子ちゃん、何か大変な誤解をしてない?」
「誤解? 『リリアンは安全だ、山百合会は大丈夫』って思ってたことですか?」
「それは誤解じゃないよ。みんな乃梨子ちゃんの味方なんだよ?」
「……みんな?」
「そうだよ。志摩子さんが家のことであまり関われないから乃梨子ちゃんが心配だって話してて……」
祐巳さまはおめでたい。
いつか瞳子の言ってたことが判った気がした。
令さまが『みんな』を騙していない保障なんて何処にもないのに。
「……それを、一番気にしてたのは令さまなんだよ?」
「 嘘だ ! ! 」
祐巳さまが怯えた顔をした。
「祐巳さまは聞かされていないだけです」
「乃梨子ちゃん!」
通学の知らない学生が何事かと振り返っている。
「私は思い通りにはならない! 絶対生き残ってやるんだ!」
「乃梨子ちゃ、きゃっ!」
乃梨子は祐巳さまを突き飛ばして、駅に向かって走った。
祐巳さまを振り切った後、走って電車に駆け込んだ乃梨子は、満員電車の中で鞄を抱えてこの先の行動を考えていた。
まず祭具殿に忍び込んだ江利子さまと山辺さんが死に、そして魅祓神社と藤堂家について調べていた蓉子さまは、その祟りに便乗する形で消された。
乃梨子の話を聞いて、これは想像だが、なんらかのアクションを起こした菜々ちゃんも消えた。
朝姫さんは祭具殿に忍び込んだ翌日行方不明。じゃあ、そのあと朝姫さんを演じて乃梨子の様子を探っていたのは志摩子さん?
――『姉猫はとても怒っています』
菜々ちゃんが言っていた。
『悪いこと』をした朝姫さんが妹猫なら、姉猫とは志摩子さんのことだ。
すなわち、私達が祭具殿に忍び込んだことを一番怒っているのは志摩子さんだってこと。
そして、全ての事件は糸を辿れば藤堂本家に行き着く。
祭具殿に本当に何があったのかは判らない。
でも、もはや、謝って済むような話ではないことは明らかだ。
このまま何処かに身を隠してしまおうか?
お金なら銀行のカードを持っている。しばらく生活するくらいの貯金はある。
でも、藤堂本家は乃梨子が身を隠した時から、祟りで消えたことにして、秘密裏に始末しようとするだろう。
「武器が必要だな……」
乃梨子の呟きは不躾な車内アナウンスに紛れて誰の耳にも届かなかった。
乃梨子は電車の中で考えぬいた末、結局リリアンに向かうことを選択した。
平日の昼間、制服で街中をうろつくのは目立ちすぎる。『襲ってくれ』とアピールするようなものだ。
かといって着替えに家に戻るのは却下。待ち伏せされていない保障は何処にも無い。
服を買おうにも、この時間では、お店は何処も開いていないし。
だからといって、店が開くまで街中で制服姿のまま時間を潰すのでは本末転倒だ。
木を隠すなら森の中。
相手の思う壷なのかも知れないが、一番目立たなく、紛れやすいのはこのままリリアンに登校することだった。
学校の中で上手く立ち回り、脱出のチャンスを待つしかない。
いつ何処で襲われるか判らないから、学校でも油断は禁物だ。
校舎に向かう制服たちに紛れて、乃梨子は銀杏並木を歩いていった。
そして、毎朝みんなが手を合わせてお祈りするマリア像が見えてきた所で声をかけられた。
「ごきげんよう、乃梨子ちゃん?」
立ち止まって振り返ると、長身でベリーショートの髪が美少年風の美少女。
「……令さま?」
乃梨子は、サーっと血の気が引くのを感じた。
令さまは、いつの間にか乃梨子のすぐ後ろに立っていたのだ。
「どうしたの気分でも悪いの?」
乃梨子は慌てて一歩退いたが、令さまは、近付いて乃梨子の肩に手をのばした。
「嫌っ!」
乃梨子は思わずその手を跳ね除けていた。
腕を弾かれて、少し驚いた顔をした令さまは、あたりを見回した。
こんな往来の中だ。二人は何気に通学中の生徒達から注目の視線を集めていた。
「……ちょっと場所を変えようか?」
「嫌です」
即答した。
冗談じゃない。危険を押してまで普通に登校した意味が無くなる。
幸い乃梨子は白薔薇のつぼみとして存在を殆どの生徒に知られている。
だから一人きりにさえならなければ、乃梨子はほぼ安全なのだ。
両手で鞄を抱えて拒絶の意を全身で表す乃梨子に、令さまは頭を掻いて言った。
「まいったな、別に取って食おうって言うんじゃないから、そんなに警戒しないでよ」
「近づかないでください」
「判ったよ、じゃ、ちょっとだけ付き合って。大事な話なんだ」
「話ならここで」
「ここじゃ、ちょっと目立ちすぎる」
「……何処なら良いんですか?」
「人気の無いところじゃ心配? じゃあ、ちょっと道から外れたところなら良いかな?」
そう言って、令さまはマリア様の前の二股の、講堂へ向かう方へ歩いていった。
乃梨子は立ち止まったままそれを見送っていたが、
「どうしたの? そんなに時間は取らせないわよ」
「……」
仕方なく、乃梨子は数メートルの間を空けて令さまに付いていった。
そして、講堂の脇まで行って令さまは立ち止まった。
もし講堂の裏まで行くようなら乃梨子は逃げ出すつもりだった。
ここなら一応、並木道からも見える場所だ。
だから、乃梨子は油断した。
「話っていうのはね……」
講堂の壁を背に、令さまは手に提げていた鞄を持ち上げて、反対の手でロック外した。
慌てていたのか、立ったまま鞄を開けたことが無かったのか、取っ手は鞄の蓋についているのに、その取っ手を持ったままロックを外したもんだから本体が横になり中に入っていたものが飛び出して地面にぶちまけられた。
「ああ、ごめんごめん、ちょっと待ってね……」
令さまは、慌ててノートや教科書を拾い集め始めた。
でも、乃梨子は、ぶちまけられた勉強道具に混じって、見慣れない黒光りする塊が落下するのを見ていた。
(あれは……!)
令さまがその黒い『何か』に手を伸ばしたとき、乃梨子はその手を足で踏みつけた。
「痛っ! 乃梨子ちゃん?」
「令さま……」
令さまは唖然とした顔をして乃梨子を見上げていた。
乃梨子はその『何か』を拾い上げ、抑揚の無い口調で言った。
「これは、何ですか?」
そういいながら、その『何か』のトリガを押して、それをバチッと放電させた。
「それは……」
「スタンガン、ですね」
そう、これは昇圧トランスで乾電池の電圧を十数万ボルトにまで上げて相手に瞬間的に流し、一時的に行動不能にする護身用具だ。
「そうよ。扱ったことあるのね?」
「令さまは、どうしてこんなものを鞄に忍ばせていたのですか?」
そして、これは手っ取り早く人に危害を与える武器にもなる。
「乃梨子ちゃん、今、説明するから足をどけてくれる?」
「もう判りました」
「いや、判ってないと思うわ。きっと誤解してる。だから……」
「黙れ!」
令さまの手の甲を踏んだ足に体重をかける。
「うっ……。良いわ、じゃあ、そのままで聞いて。今日は乃梨子ちゃんにそれを渡すつもりだったの」
「私に?」
「そうよ、あなたの身が危ないからよ。でも身辺警護にも限界があるし、いざという時はあなた自身でも身を守ってもらいたくて……」
「嘘だ!!」
「う、嘘じゃないわ!」
「じゃあ、聞きますけど、何故、今まで私にそれを言わなかったんですか? どうして隠れて警護する必要があるんですか?」
「それは……その……」
令さまは目を逸らした。
やはり嘘だ。
「……令さまのことは尊敬してました」
「え?」
「でも。わたしが間違ってました」
乃梨子は踏みつけた令さまの手をしっかりホールドして、スタンガンを令さまの背中に当て、トリガを押す指に力を入れた。
「乃梨子ちゃん!」
その放電が始まる刹那、乃梨子は弾き飛ばされてしりもちをついた。
令さまは踏まれたのと反対の肘を地面に付けていたので簡単に体勢は変えられないだろうと思っていたが、少し甘かったようだ。
相手が乃梨子だからと、令さまは本気を出していなかったのだ。
流石に剣道で鍛えた体だけある。あんな不安定な体勢からの体当たりなのに乃梨子は易々と飛ばされてしまった。
「ふふっ……本性を現しましたね?」
まだ、スタンガンは乃梨子の手のあった。
乃梨子は注意深く立ち上がり、スタンガンを令さまの方に向けた。
「……」
令さまは表情を変え、鋭い目つきで乃梨子を睨んだ。
それで良い。
懐柔しようが、強引にしようが、やることは一緒なのだ。
悪者は悪者らしくしてもらわないと。
でも、乃梨子はやられはしない。
チャンスは一度。
丸腰とはいえ令さまは剣道の上級者だ。こんなものを持っていても、まともにやりあって勝てる相手ではない。
「くっ……」
そう呻いて、乃梨子は腹を抱えるように蹲った。
「の、乃梨子ちゃん?」
「来るな!」
蹲ったまま乃梨子は令さまに背を向けた。
「ちょっと、大丈夫?」
不用意に近付いて来た令さまは、乃梨子の肩に手を置いた。
(――掛かった!)
振り向き様に、腰を浮かせて脇の下から手を伸ばし、トリガを押したまま令さまの腹にスタンガンを押し付けた。
「うっ……」
令さまはうめき声をあげてその場に倒れこんだ。
意識はあって、乃梨子の方を睨んでいる。
令さまを見下ろし、乃梨子は抑揚の無い冷淡な声で言った。
「ごきげんよう。令さま――」
†
乃梨子は教室には行かず、鍵が壊れて開いていた校庭の隅にある用具倉庫に身を隠していた。
もう学校にも来れなくなった。
乃梨子は、店の開く時間まで身を隠して、学校を抜け出すつもりだった。
そして、いろいろ準備をして本格的に身を隠すのだ。
預金に不安もあったが、潜伏先で年齢を偽って働く位はする覚悟があった。
その前に聖さまに連絡を取ろうかとも思った。
聖さまの大学は同じ敷地内だし、不可能ではないだろう。
でも、聖さまは警察と繋がっている。警察が乃梨子の味方をしてくれる保障は何処にも無いのだ。
むしろ、さっきのことを傷害事件として扱い、乃梨子を逮捕する可能性だってある。
令さまに『被害者』という隠れ蓑を与えるわけにはいかない。
だから聖さまにも会えない。
このまま一人で身を隠すべきだ。
とにかく身の安全を確保してからその後の対応を考えよう。
「……学校の中に居るのかな?」
その時、用具倉庫の外から話し声が聞こえてきた。
「制服じゃ目立つから絶対まだ中に居るわ」
「そうかな……」
祐巳さまと由乃さまだ。
「もっとやる気を出しなさいよ」
「だって……」
「だってじゃないでしょ、令ちゃんが襲われたのよ! 一刻も早く見つけ出さないと」
乃梨子を探しているようだ。
(まずいな)
用具倉庫に踏み込まれたら隠れる場所が無い。
一人だけなら不意打ちで何とかなるだろう。
でも二人となると……。
(何かないか? 何か……)
乃梨子は辺りを見回した。
用具倉庫というのは要するに物置で、梯子やらバケツやら囲いを作る網やら、主に造園用品が格納してあった。
そんな中に、目を引くものがあった。
折りたたみ式の剪定用の鉈――。
「ねえ、あそこは?」
「物置?」
祐巳さま達が用具倉庫に気づいた。
「……用具倉庫って書いてあるよ?」
「つまり物置でしょ。でもあそこはいつも鍵が掛かってるから入れないわよ?」
「そうなんだ。あ、でも見て?」
足音が近付いてくる。
「なあに?」
「鍵、壊れてる」
(来た)
乃梨子は息を潜めて、ドアの内側――扉が開いても見えない位置に――に立った。
「あー、本当だ。無用心ねぇ……」
ガチャガチャと音がする。壊れた錠を弄っているのだろう。
「にしても、こんな『探してください』と言わんばっかりのところに隠れるかな? あの乃梨子ちゃんだよ?」
「まあ、そうね。この鍵、前から壊れてたみたいだし……」
そう、乃梨子が壊した訳ではない。
「……てことは、これはブラフ? 捜査をかく乱するための罠ね? きっとこの中に仕掛けた罠に掛かっている隙に逃げ出すつもりなんだわ。中に居ると見せかけて実は裏とか屋根の上に隠れているのね?」
「由乃さん、考えすぎ。何処のアクション漫画よ?」
「でも、菜々だったらそのくらいやるわよ……」
そこで、由乃さまの言葉に勢いが無くなる。
「あー、菜々ちゃん、何処いったんだろうね? 気を落とさないで、きっとどこかで元気してるよ」
「うん、それね、足取りはつかめたそうよ」
――足取りが掴めた?
乃梨子は思わず聞き耳を立てた。
「本当?」
「うん、令ちゃんが教えてくれた」
令さまが?
やはり令さまはそっちと繋がってるからか……。
きっと、隠し切れないで、由乃さまに話してしまったのだ。
「ど、どうだったの?」
「捜査上の秘密だから誰にも話しちゃだめよ。令ちゃんにもそう言われたから」
だったら、祐巳さまにも話したら駄目じゃないですか。と、乃梨子は思わず心の中で突っ込んだ。
でも、そのおかげで乃梨子はその話を聞くことが出来るのだ。
「わ、わかった。それで?」
「あの日ね、菜々、志摩子さんの家に行ったらしいの」
「ええ? 志摩子さん? 何で?」
「判らないわ。でもね、小寓寺まで行って志摩子さんに会って、そこから二人で何処かに行ったらしいわ」
「それって確かなの?」
「うん。令ちゃんが嘘言うとは思えないし」
藤堂本家の仕業とは思っていたが、志摩子さんが直接手を下したと聞いて乃梨子はショックを受けた。
やはり、志摩子さんは藤堂本家の頭首の立場に居る。
今までは、『仕方なく』だとか『形だけ』とか思っていたが、それは乃梨子の希望的観測に過ぎなかった。
実質のトップかどうかはまだ判らないが、志摩子さんは確実に『あっち側』の人間だ。
「……でも、志摩子さんあの日休んでたよね?」
「だから不思議なのよ。でも志摩子さん今日も休んでて電話にも出ないから判らないのよね」
「うーん、謎だね……あ、お祭りの日に忘れ物して取りに行ったとか」
「わざわざ夜中に、一時間もかけて小寓寺まで行く?」
「うん、だからどうしてもその晩のうちに必要だったのよ」
「それって、どんな物よ?」
「たとえば次の日提出する宿題のノートか」
「お祭りのアルバイトするのになんで宿題のノートなんか持って行くのよ」
「えー、でも朝早かったし、本番まで結構空き時間あるって言ってたよ?」
祐巳さまたちの雑談を遠くに聞きながら。
俯いた乃梨子の顔から水滴が滴り落ちて埃っぽい用具倉庫の床に染みを作っていった。
「……さん」
無意識に、乃梨子の口からその名前がこぼれ落ちていた。
「ねえ、何か聞こえなかった?」
「え?」
「この中からよ!」
(まずい……)
気づかれた。
改めて乃梨子は左右それぞれの手に力を入れ、その感触を確かめた。
「乃梨子ちゃんなの?」
右手にスタンガン。
「少し離れて。……開けるわよ」
左手に鉈。
その手は振り上げたままだ。
「う、うん……」
引き戸を滑らす音が響き、用具倉庫内に外の光が差し込んてきた。
(まだ……)
「居ないわね?」
由乃さまが恐る恐る顔を覗かせる。
(もう少しだ。祐巳さまも入って来るまで……)
由乃さまが見回すように首を動かして、やがてこちらを向く……。
由乃さまの目が恐怖に見開かれ、奇妙にゆがんで開かれた口から息を吸い込む音がヒューっと鳴った。
が、次の瞬間、悲鳴が上がる前にそのお腹にスタンガンを押し当てた。
「由乃さん?」
続いて、祐巳さまの声。
脅かしすぎたようで、由乃さまはスタンガンを当てた直後気絶した。
流石に天然といおうか、由乃さまが倒れて、扉の影から鉈を担いだ乃梨子が現れても、祐巳さまは何が起きたか理解できないようにポカンと突っ立っていた。
乃梨子は、祐巳さまを由乃さまの時と同じように声を出される前に動けなくして、気絶した由乃さま共々、扉の内側に引きずり込んだ。
そして、内側から扉を閉めて、先に体が動かせるようになりそうな祐巳さまの手足を縛り、口にテープを張った。
造園用品の揃った倉庫内では捕縛する材料には事欠かなかった。
意識がある祐巳さまは『どうして?』としきりに目で訴えていた。でも無視した。
由乃さまにも同じ処置を施したあと、外の様子を伺い、誰も見てないことを確認して外に出て用具倉庫の扉を閉めた。
鍵は開いているし、二人はすぐに誰かが見つけてくれることだろう。
†
もう一刻の猶予も無かった。
乃梨子はポケットにスタンガンを、学生鞄の中には剪定用の鉈を忍ばせて学校を出た。
鞄の中身を全部出したら鉈はぎりぎりで鞄に納まった。
これからの行き先も決まっていた。
(……志摩子さん)
全てから逃げてひとりで生活するなんて無理だ。そんなの今の乃梨子には絶えられない。
冷静に考えれば、初めから身を隠すなんて選択肢は無かったのだ。
本気で警察と藤堂本家の追っ手から逃れられると思っていた自分が滑稽だった。
決着を付ける方法は一つしかない――。
校門を出ると、濃いグレーの乗用車が停まっていた。
「聖さま……」
聖さまはサイドの窓を開けて乃梨子に話しかけた。
「やあ、ごきげんよう。乃梨子ちゃん」
「……」
黙っている乃梨子に聖さまは続けて言った。
「乃梨子ちゃんは私に聞きたいことがあるんじゃない?」
「何の、ことですか?」
「志摩子の居場所。藤堂本家の所在地とか」
まさにタイムリーだった。
小寓寺に行って志摩子さんのお父さんに聞くつもりだったのだ。
「どうしてですか?」
「うん?」
「どうして私がそれを聞きたいって思ったんですか?」
「うーん、なんとなく、かな?」
「真面目に答えてください」
「まあ、良いじゃない。乃梨子ちゃんは聞きたい。私はそれを知ってる。それだけのことよ」
「……教えてくれるんですか?」
「勿論よ。はい。ここに住所と行きかたが書いたあるわ」
そう言って聖さまはノートを千切った紙を乃梨子に渡した。
何故そんなに用意周到なのだろう?
でも乃梨子には、怪しんでいる余裕が無かった。
こんなことは早く終わりにしてしまいたい。ただ、そう思っていたからだ。
「ありがとうございます」
そう言って乃梨子が去ろうとした時、聖さまは言った。
「乃梨子ちゃん、一つだけ」
「はい?」
「私は志摩子にとって悪い姉だったわ」
何のこと?
学年の関係で、聖さまと志摩子さんの間に何があったのか、乃梨子は殆ど知らない。
「だから、志摩子に会ったら伝えておいて」
伝言か。
「なんて伝えればいいのですか?」
「『ごめんなさい』って」
「判りました。伝えておきます」
聖さまとの会話はそれきりだった。
藤堂の本家は志摩子さんの家より遠かった。
聖さまに貰った『行きかた』に従って、H駅より先の駅まで電車で行って、駅前でタクシーを捕まえ、「藤堂の本家へ」というと運転手はちょっと訝しげに乃梨子を一瞥したが、何も言わずに車を走らせた。
行く道中、乃梨子は鉈の入った鞄をずっと両手で抱えていた。
志摩子さんに会ってどうするかなんて具体的には何も考えていなかった。
謝るのか、問いただすのか、とにかく全てを終わらすんだ、ってそれだけを考えていたのだ。
その結果、志摩子さんの手に掛かるのならそれもやむなし。
でも、納得がいかないまま消されるなんて絶対嫌だった。
やがてタクシーは舗装されていない道路に入ったらしくガタガタ揺れた。
そして、片側森が広がる道をしばらく行ってタクシーは停まった。
「お客さん、着きましたよ」
「え?」
周りを見るとどう見ても田舎道の途中だった。
運転手は訛りのあるイントネーションで言った。
「本家はこの先で、ここから先は藤堂家の土地だ。歩けばすぐわかる」
どうやらタクシーはここまでらしい。
その時、黒塗りの車がタクシーの進行方向へ追い越していった。
「……」
乃梨子がそれを目で追っているとタクシーの運転手は言った。
「ありゃ本家の車か、他所者だな。タクシーはここまでだ」
どうやらこの辺りの人間はこれ以上近付かないらしい。
乃梨子は料金を支払ってタクシーを降りた。
運転手は乃梨子に何も聞かなかったが、帰りがけにもう一度興味深げな視線を乃梨子に向けていた。
(まあ、セーラー服の女子高生がそんなところに向かうなんて珍しいんでしょうけど)
舗装されていない砂利道を少し歩くと、森の向こうに大きなお屋敷が見えてきた。
屋敷の周りには黒塗りの車が十数台泊まっているのが見えた。
なんだろう?
近付いていくと、どの車にも中には屈強そうな男が複数乗り込んでいるのが見えた。
警備だろうか?
他に道を歩く人が居ない中、乃梨子が一人、そこを抜けていくのに彼らは全く無関心だった。
藤堂本家の大きな門は開いていた。
中にも数台車が停まっていてこちらは人は乗っていなかった。
「ええと、玄関は……」
と、乃梨子が門から一歩入ったところで、周囲を見回していると、母屋と思われる大きな建物から数人の男が出てくるのが見えた。
男といってもどちらかというと年の行った人が多く、外の車に乗っていた厳つい男達とは雰囲気が違っていた。
やがて、その男の人たちが出てきた出入り口から和服を着た女性が現れた。
男の人たちが車に乗り込むので、見送りかと思ったら、その女性は、男達にかまわず、乃梨子の方に向かってきた。
そして、その女性は乃梨子のよく知った人物だった。
「……志摩子さん」
「乃梨子。待ってたわ」
乃梨子は、抱えていた鉈の入った鞄を、ぎゅっと抱きしめた。
「ねえ祐樹。ゲーム貸して?」
「いいけど、珍しいな祐巳がゲームなんて」
「えへへ。ちょっとね」
祐樹は腑に落ちないという顔をしたが、黙って祐巳の言ったゲーム機を渡してくれた。
それにしても、いつ見ても凄い。祐樹の部屋のテレビの前には黒とかカラフルなコードがあれこれ絡まっていて、もう何がなんだか分からないのだが祐樹はその複雑に入り組んだコードの中から祐巳の言ったゲーム機のコードだけを的確に選んで外してくれたのだ。
「どうしてあんなにコードがあるのに、すぐ外せたわけ?」
「ん?あぁ、形が微妙に違うんだよ。で?ソフトはどれがいいわけ?」
「あの、マリオのレースのやつ!」
「ほらよ」
またしても祐樹は沢山あるゲームの中から間違わずにお目当てのゲームだけを取り出してよこしてくれた。エスパーなんじゃないだろうか。
「ありがとね」
そう告げて部屋を出て行こうとしたが、両手が塞がっていて上手く歩けない。
「ドアはあけっぱなしでいいよ」
それを悟ってか、祐樹がフォローしてくれたのでありがたく甘える事にした。
「ちょっといい、祐樹?」
「今度は何?」
またしても祐巳が部屋に入ってきた。さっきから10分ぐらいしかたってない。
「うん、あのさ。ゲームのやり方が分かんなくて」
申し訳無さそうに祐巳が言った。
「分かった」
大体予想はついていたため、祐樹は一緒に祐巳の部屋へと向かった。
「このコードはどこにつないだらいいの?」
祐巳はコードをつかみながら困った顔をして聞いてきた。
「いや、その前にさ。なんで?」
「なんで?って?」
「いや、だからどうして祐巳の部屋に由乃さんと志摩子さんがいるわけよ」
「あぁ」
祐樹は完全に戸惑っている。
「遊びに来てるんだよ。言わなかったっけ?」
「聞いてないよ」
祐樹の顔が真っ赤になった。恥ずかしがってるのだろう。
「まぁいいじゃない。で?これはどこに差し込めばいいの?」
そう言うと、祐樹はしぶしぶ祐巳の手からちょっと乱暴にコードを奪うと、あっと言う間にセットしてくれた。照れちゃって、かわいい。
「ありがとう祐樹」
「ありがとう祐樹さん」
「これって四人まで一緒に出来るのよね?祐樹君も一緒に、どう?」
「いや、俺はいいです。やらないといけない事あるし」
祐樹はそう言うとそそくさと部屋を出て行ってしまった。
「あらまぁ。祐樹君意外とシャイなんだ」
由乃さんが楽しそうに笑った。
ところで、なぜ祐巳の部屋に由乃さんと志摩子さんがいるのかというと。
ある日のお昼休み、同じクラスの祐巳と由乃は連れ立って薔薇の館へと向かっていた。一年生の視線が痛い。
「あら祐巳さん。愛想の一個や二個振り撒いてあげたら?」
そういうと、由乃さんは教室からこっそり覗いている一年生に「ごきげんよう」と言いながら軽く手を振った。すると、一年生から小さい歓声が起こった。凄い、由乃さん。
「ほら、祐巳さんも」
「えぇ、私は無理だよ」
そうだ、学年、いや学校全体でもトップクラスの可愛さを誇る由乃さんと、平均点の祐巳とではわけが違うのだ。やったって、愛想笑いで返されるのが落ちだろう。
「大丈夫よ。祐巳さんももうつぼみで、立派な全校生徒の憧れよ?」
そうは言っても、未だにつぼみになった実感なんてわかないのであった。
「ごきげんよう」
薔薇の館へ入ると、中には志摩子さんがいた。
「ごきげんよう志摩子さん。今日は薔薇の館でお昼なんだ」
「えぇ、なんだか紅茶が飲みたくなったものだから」
そういって志摩子さんは、カップを軽く掲げ微笑んだ。
「そっか。じゃあ一緒に食べよ」
そう言って、テーブルの端の三つの席にそれぞれ座った。
「ねぇ、今度祐巳さん家行こうよ」
三人で談笑しながらお昼を食べていると、思いついたように由乃さんが言った。
「え?私の家?」
「そう、祐巳さん家にはまだ行った事ないんだもの。志摩子さんのお家はなんか敷居高そうだし」
「あら?そんな事ないわよ?父も今度お友達を連れてきなさいってよく言ってくれるし。あ、でも、たしかに祐巳さんのお家には興味があるわね」
そういって、志摩子さんはコロコロ笑った。
「う〜ん、別に断る理由もないしいいんだけど」
「はい。じゃあ決まり!今度の日曜なんてどう?」
由乃さんがいきいきしている。これはもう逃れようがないだろう。
「別にいいけど」
「えぇ、私も予定がないわ」
「じゃあK駅に11時ね!よっしゃ!」
って由乃さん。立ち上がってガッツポーズまでしちゃって。
「そんなに私の家に来たかったわけ?」
「うん!祐巳さんってだけで興味あるし。それに、私達来年は山百合会を共に引っ張ってくのよ。ここいらで一層結束を固めておこうじゃない」
「素敵な案だわ」
志摩子さんも由乃さんの意見に頷いて賛成した。まぁ、そういう理由じゃしょうがない。
「じゃ、部屋掃除しとかなくちゃ」
「あら?普段そんな散らかっているの?」
「まさか。いつもピカピカよ」
「じゃあ掃除する必要無いんじゃなくて?」
「あ、そっか」
三人同時に噴出して笑いあった。
祐巳の部屋を飛び出して祐樹はすぐ自分の部屋へと引き返した。
「なんで由乃さんと志摩子さんがうちにいるんだよ。全然気付かなかった」
今でも胸がドキドキしている。そりゃそうだ、リリアンでもトップクラスの美人二人が私服で何故か我が家にいたんだから。その姿うを祐樹は鮮明に記憶した。
そりゃ、祐巳も山百合会の一人だからいつかは連れてくるだろうとは思ってたけど、いざ現れるともう困惑してしまってわけが分からなくなった。
でも、この機会にあの人達と仲良くなれないだろうか。テレビに出ていても可笑しくないぐらいの美人を一度に二人も着ているのだから、この機会を逃す手はないだろう。
とは言っても、悲しいかな、生まれついてのタヌキ顔。身長もあまり高くないこんなルックスじゃ、あの二人には見向きもされないのがオチだろう。
「でも、まてよ・・・」
同じタヌキ顔の祐巳は、兄弟だから贔屓目に見てとかいうのは全然抜きに、普通に花寺で人気があるのだ。それこそ由乃さんや志摩子さんと並ぶほどに。
理由はよく分からないが、生徒会でも可愛い可愛い言ってるやつだっている。
果てには、「祐樹にソックリな祐巳ちゃんなら、ありかもしれないな」なんて柏木が冗談塗れに言っていたぐらいだ。
じゃあ、同じタヌキ顔の祐樹にも希望があるんじゃ!…そこまで考えて、あほらしくなったのでやめた。
さっき、一緒にゲームやっとけば良かったかななんて思ったけど後の祭り。仕方ないから宿題をする事にした。
由乃と祐巳はお腹を抱えて笑っていた。
「もう、そんなに笑わなくても」
そう言う志摩子さんも、照れ笑いをしている。
「だって、志摩子さん「よっ」とか「ほっ」ってずっと言ってるんだもの。しかも志摩子さんってもう薔薇さまじゃない。それがゲームに一生懸命になってるのがまたツボに入っちゃって」
そう言って由乃さんはまた笑い出した。
「私ゲームとか持ってないから今日やるの初めてで、なんかどうしても声が出ちゃうのよ」
「志摩子さんの意外な一面も見れたね」
それからも志摩子さんのおかげで、ゲーム大会は凄く盛り上がった。
「そろそろお腹すかない?」
時計を見たらもう午後1時を回っていた。
「あら、ゲームに夢中になってたから」
お腹空いたわね、って志摩子さん。
「どうしよっか?どこか食べに行く?」
「祐巳さんの家のキッチンは使えないのかしら?」
「今日はお父さんはお仕事で、お母さんは近所のおばさんと買い物行ってるから使えるけど・・・」
「じゃあ、借りていいわよね?」
「いいけど、作るの?」
「だって、そっちの方が楽しそうじゃない」
って由乃さん。それに祐巳と志摩子さんも賛成して、近所のスーパーへと買い物へ行く事となった。
「キャベツは4分の1サイズでいいんじゃない?」
「あとは、お肉は豚肉よね?」
「せっかくだからジュースとかも買っておきましょ」
そんなこんなで、三人で次から次へとカゴへ品を入れていき、あっと言う間にお会計となった。
「いいわね祐巳さん。歩いて5分のとこにスーパーがあるなんて」
「え?志摩子さんのとこはないの?」
「えぇ。うちはお寺だから周りは田舎だから、スーパーなんてなくて買い物するにもバスに乗って商店街まで行かないといけないの」
「それはまた大変ね。私の家は10分ぐらいのとこにあるわよ」
なんて話してるうちに会計の順番が回ってきたから、三人お金を出し合ってお会計をすませた。
祐巳の家へつくと、すぐさま料理へと取り掛かった。
といっても、簡単に出来るって理由で焼きそばを作る事となったからするのは野菜を切る事ぐらいだった。
そうこうしてるうちに簡単に出来上がってしまった。中々美味しそうに仕上がった。
「にしても、ちょっと作りすぎちゃったかしらね?」
「仕方ないよ」
3人だと割りが合わず、4人前の麺とかキャベツ4分の1全部使ったりしたから結構な量になってしまったのだ。
「そうだ名案!」
「なーに由乃さん?」
「祐樹君よ!」
「あぁ!その手があった!じゃ、呼んでくるね!」
コンコン。またしても祐樹の部屋がノックされた。
「祐樹!お昼にしよ!」
そう言って祐巳がズンズン部屋に入ってきた。
そういえばまだ昼ごはん食べてなかったっけ。
「友達は帰ったのか?」
「まさか!さぁ早く早く!」
そう言って祐巳は祐樹の手を取って一階へと引っ張っていった。
居間へ入ると、テーブルにはお皿に乗った焼きそばが四つ。
うち二つはテーブルに座る由乃さんと志摩子さんの前へ。
なるほど。これを一緒に食べましょうということか。やけに一つだけ量が多いのだが。
「じゃあ祐樹はこっち座って」
そう言って祐巳に背中を押され、大量の焼きそばの前へと座らされた。
「作りすぎてしまったの。祐樹さんは男の子だからいっぱい食べられるだろうから」
そう言って、志摩子さんがごめんなさいねって感じで優しく微笑んだ。
「いえ!このぐらい全然食べられますよ!」
祐樹はあわててフォローした。志摩子さんにそんな顔されたら、いやでも食べないわけにはいかないだろう。というか、祐樹自身お腹が空いていたから、これは願ったり適ったりだったのだ。
「じゃ、食べましょ。いただきま〜す」
そう由乃さんが言って一口食べた。
「うん。美味しい美味しい」
「本当?・・・あ、ほんとだ。ソースがまた絶妙だね」
「えぇ。美味しいわ。さぁ、祐樹さんもどうぞ」
「あ、あぁ。じゃあ、いただきます」
パクり。
「あ、ほんとだ美味い」
お腹が空いているからだろうか、その焼きそばは凄く美味しかった。
「目玉焼きとかも添えたかったわね。ぬかったわ」
なんて女の子三人は楽しそうに談笑している。ときたま由乃さんが祐樹にも話を振ってくれて、部外者感なく美味しくお昼をいただけた。
それにしても、まさかこんな美少女とテーブル一つ囲んでお昼を食べることになるとは夢にも思わなかった。
「ごちそうさま。あと片付けは俺がやるよ。焼きそばのお礼とでも思って下さい」
「あら?いいの?」
「ありがとね祐樹」
「ありがとう祐樹さん」
「いえいえ」
そう言って祐樹はお皿を束ねて流しへと向かった。
「じゃ、私達は祐樹のお言葉に甘えて部屋いこっか」
ここは身内の祐巳が祐樹の好意を生かすためにも引っ張っていくべきだろうと、二人を連れて祐巳の部屋へと引き返した。
時計は午後3時を指そうかという頃合だった。
「さて。じゃあお次は何しますか」
って事で三人で何をするか考えようって事で一時休憩。
由乃さんと志摩子さんは雑誌を広げてなにやら笑っている。祐巳はというと、パソコンでネットサーフィンをしていた。
こういうまったりした時間も結構いいものだなぁって思う。
そうこうしてたらあっという間に4時になってしまった。
「ねぇ、じゃあ駅の方へ行かない?」
祐巳は思いつきで提案した。
「いいけど、どうして?」
「志摩子さんも由乃さんもどうせ帰りに駅行くじゃない?それに私の家よりかショッピングでもしてた方が面白いものもあると思ってさ」
「そうね、その方が帰りも楽か」
「そうしましょうか」
って事で、三人仲良く駅へと向かった。
駅ビルへ入ると、日曜の良い時間帯なだけあって人がごった返していた。
「どこいこっか?」
「あ、私本屋さん行きたいな。ほしい本があるんだ」
って事で由乃さんの買い物を済ますべく本屋へと向かった。
「あったあった。このシリーズもの面白いのよ」
と振り返って由乃さんは文庫を嬉しそうに見せてきた。
「百人斬りの・・・武蔵?」
志摩子さんが不思議そうに首をかしげた。きっと志摩子さんは由乃さんの変わった趣味とかは知らないんだろう。
祐巳には分かる。いかにも由乃さんが好きそうな本のタイトルだ。
という事で本のお会計を済ませ、とりあえずビルの中をうろついた。
「で、どうしよっかね、あれ」
と言ってちらっと後ろを見る由乃さん。
祐巳と志摩子もつられて後ろを見る。でも何のことを言っているのか分からない。
「どういう意味かしら?」
それは志摩子さんも同じらしく、由乃さんに尋ねた。
「気付かなかったの?私達、背後霊しょってるわよ・・・」
え?ともう一回後ろを振り返る。そうすると段々見えてきた。
同じ年ぐらいの女の子が数人。きっとリリアンの生徒だろう。それに、数人の男の人。
「背後霊・・・ね」
「とりあえず撒こうか」
って事で曲がり角を曲がったらダッシュした。
すると後ろからも数人、いや、なんだかんだ十人ぐらいいるだろうか。駆け足で追いかけてきた。
「ひぇぇ。まだついてくる」
きっと、休みって事で友達と連れ立ってショッピングに来たら、なぜかつぼみと白薔薇さまが三人仲良く歩いてるものだから、ショッピングという本来の目的を捨て去って追いかけるのに夢中になってしまった人達と、単にテレビでも見ないような可愛い子が三人歩いていたものだから、思わずついてきて話しかけるキッカケを探っている男の人達だろう。
なぜ分かるかって?それは昔の自分に置き換えてみればわかることだ。
もし祥子さまが道を歩いていたら、きっとこっそり付いて行ったりしちゃうだろうし、祐巳がもし男なら、やはり祥子さまが歩いていたら気になってあとをつけたりしちゃいそうだから。
三人は滑り込みでエレベーターへと飛び乗って、なんとか背後霊達を撒いた。
「な、なんなのよ、あれ」
息を切らしながら由乃さんが毒づいた。
「はぁ、はぁ、どうなるかと思ったわ」
「右に、同じ」
でもなんだか可笑しくなって、三人で大笑いした。さながら、ファンから逃げる有名人になった気分になって。
三人はそのまま屋上へと行った。
「あ、アイスクリーム」
「ほんとだ。ね、食べてこうよ」
甘い物大好きな祐巳や、クリーミー大好きな由乃にとってそれは共に大好物の一つだった。
ってことで三人並んでベンチに座りアイスクリームを食べる事となった。
由乃さんはブルーベリー、志摩子さんは抹茶、祐巳は苺だ。
「あっれー、祐巳ちゃんじゃない。それに志摩子に由乃ちゃんまで」
「ロ、ロサキネンシス!」
なぜか、目の前には紅薔薇さまが一人たっていた。
「今はただの水野蓉子よ」
蓉子さまは上品にコロコロ笑った。
「ど、どうしたんですかこんなところで?」
「どうしたって、別に私だって買い物ぐらいするわよ」
そう言って、袋を掲げて見せてくれた。何かの参考書のようだ。
「あと、ついでだからここのクレープでも買って帰ろうと思ったら祐巳ちゃん達を発見したってわけ。久しぶりね」
「お久しぶりです」
三人同時に返事をした。まさかこんなとこで蓉子さまに会えるなんて思ってなかったから、なんだか三人とも嬉しくなってしまった。
「大学の方は、どうですか?」
由乃さんが尋ねた。
「ボチボチよ。そろそろボーイフレンドの一人でもほしいところなんだけどね」
「いらっしゃらないんですか?」
言ってからすぐしまったと思った。見えないように横から由乃さんが肘でこついてきた。
「いらっしゃらないわね。私って魅力ないのかしら」
「そんな事はないです!」
あわてて否定した。蓉子さまで魅力無いとか言われては、祐巳なんて一生結婚できないだろう。頭が良くて、顔も整ってて、身長も結構あってとにかく優しい。ってむしろ完璧じゃなかろうか。
「そう?じゃ、もうちょっと頑張ってみようかな。それじゃ、祥子や令にも宜しくね」
そう言って、三人の頭をなでなですると蓉子さまは帰っていった。
「まさかこんなとこで蓉子さまに会うなんてね」
「ビックリしたわ」
「でも、やっぱり雰囲気あるよね蓉子さま。私も来年あの蓉子さまと同じ紅薔薇さまになるのか。自身ないなぁ」
「あら嫌だ。そしたら志摩子さんなんてもうすでに薔薇さまなのよ?」
「蓉子さまみたいに、上手く薔薇さまを勤められているかしら」
「何言ってるの。志摩子さんはもう十分薔薇さまよ。それに志摩子さんの場合聖さまでしょ?心配無用よ」
「じゃ、私は江利子さまだから、いつもつまんなさそうにしてたらいいのかしら?」
「時々凄い興味を示したりね」
二人で大笑いしてしまった。
「由乃さんも祐巳さんも、失礼よ」
そう言っても志摩子さんも笑っている。
時計を見たら、もう6時になろうかという頃合だった。日も落ちかけている。
「そろそろ帰ろっか」
由乃さんの一言で、今日はお開きとなった。
「それじゃ、また明日学校で」
「えぇ、また明日」
「うん。気をつけてね」
駅で別れ、それぞれの家路へとついた。
帰りのバスの中で、祐巳は一人考えた。
今日は相変わらず由乃さんはイケイケ青信号で、志摩子さんはよく笑っていた。
そんな祐巳達三人も、来年はそろって薔薇さまという立場になる。
当然、今の祐巳には蓉子さまや祥子さまのような薔薇さまにはとてもじゃないが成れそうにない。
けど、逃れることは出来ないし、そんなことしたくない。
大丈夫、この三人ならきっと出来る。
確実に皆変わってきてるし、お姉さまがいなくなったリリアンでも、お姉さまと同じぐらい大事な心から笑い合える心強い友ができた今ならきっと大丈夫。
赤、白、黄色。きっと花咲く山百合会。
今はまだつぼみだけど、綺麗に咲いてみせましょう。
※このSSは、がちゃS許容限界付近(およそR15指定?)のエロスを含んでおります。
あと、調子に乗って作中で由乃をイジリ倒していたら無駄に長くなったので、前編後編に分けました。
それでは前編をどうぞ。
咲き誇っていた梅の花も、そろそろ桃に春の主役の座を譲ろうかというのどかな朝。
支倉道場には、早朝からぴんと張り詰めた空気が漂っていた。
張り詰めた空気を醸し出しているのは、剣道着姿のふたりの少女。
「 えぇぇい!! 」
裂帛の気合と共に、剣道の基本である中段から面を打ち込むのは、今や次期黄薔薇さまとなることが決まった島津由乃。
「 ・・・体が前に泳いでる。軸がぶれてきているよ 」
そんな由乃に指導しているのはもちろん、先代黄薔薇さまこと支倉令。
リリアン剣道部に在籍中は、由乃へのひいきになりかねないと、個人的な指導は一切しなかった令だが、正式に剣道部を引退してからというもの、こうして由乃に請われて個人指導をしてくれるようになったのだ。
「 正中線を乱すことは、隙につながるからね 」
「 はい 」
由乃は素直にうなづき、正中線を保つことを意識し、また面を打ち込むべく中段に構える。
由乃と令では実力差がありすぎるので、かえって練習の妨げになるからと、令は実際に剣を交えることはしてくれないが、自分の素振りを見てもらい、間違いを正してもらえるだけでも大きな収穫になると思い、由乃は黙々と素振りを繰り返していたのだ。
「 えぇぇい! 」
「 うん。良くなった 」
最近、令の指導を受けるようになってから、由乃は自分の動きに無駄が無くなってきているような気がしていた。
こうして無駄を削ぎ落とした先に、令のような強さがあるのかも知れないと考え、竹刀を握る由乃の手には、いっそう熱がこもる。
由乃がさらに面を打ち込もうと再び中段に構えた時、そんな彼女の気合に水を差すように、支倉道場の電話の音が鳴り響いた。
「 あ、今日、家のほうに誰もいないんだっけ・・・ 」
令が呟き、電話のあるほうへと向かう。
道場の電話は支倉家の電話の“子機”であり、“親機”のある支倉家に誰もいなければ、道場のほうで“子機”の電話を取る必要があるからだ。
「 丁度良いから休憩にしようか。ちょっと家のほうで電話に出てくるから、きちんと礼をしてから休憩するんだよ 」
支倉道場備え付けの古式ゆかしい神棚を見ながら由乃に言いつける令に、由乃も素直に「 はい 」と返す。
道場にいる時は、師匠である令を敬う由乃なのだ。
・・・学校などでは「 令ちゃんのバカ! 」だけど。
令に言われたとおり、神棚に向かい正座して礼をすると、由乃はふぅと一息ついた。そこで初めて、汗のにじんでいる自分に気付く。どうやら自分の疲労に気付かぬほどに素振りに熱中していたらしい。
由乃はそんな自分に薄く笑うと、水でも飲もうと立ち上がる。
その時、突如支倉道場の玄関先に、威勢の良い声が響き渡った。
「 たのもーう!! 」
「こんにちは」でも「ごめんください」でもなく「たのもう」。
まるで時代劇に出てくる侍のような挨拶に、由乃は首を傾げる。
「 ・・・誰かしら? 」
だいぶ特殊な挨拶だが、声の主は女性のようだ。
由乃はなんだかその声に聞き覚えがあるような気がして、声のするほうへと顔を向ける。
「 た の も ー う ! ! 」
お約束の「 どーれ 」という返事が無いのが気に入らなかったのか、声の主は更にボリュームを上げて叫んでいた。
「 ・・・・・・まさか、道場破り? 」
「 たのもーう!! たのもーう!!」
いくらなんでも今どき道場破りは無いだろう。そんな由乃の自嘲をよそに、声の主は更にヒートアップしていた。
「 たのもーう!! たーのーもーうー!! 」
何の用かは解からないが、このまま気持ち良く叫ばせていたら近所迷惑だ。
由乃は疲れた体で道場の玄関へと向かった。
「 たのもーう!! たのもーう!! たのもうったらたのもーう!! たの・・・ 」
「 うるさいわね!! 聞こえてるわよ!! 」
がらりと玄関の戸を開けながら怒鳴り返した由乃だったが、そこで動きが止まってしまう。
「 ・・・菜々? どうしたのよいきなり 」
先程から玄関先で絶叫していたのは、由乃が今最も気になる自分の妹候補、有馬菜々その人であった。
春らしい薄緑のカーディガンと白いミニスカートを纏う可愛らしいその姿からは、とても先程の絶叫の主とは思えない。
玄関先で迷惑な大声を上げていたのが自分の妹候補だと知り、由乃は戸惑った。
彼女が今日尋ねてくるなんて話は聞いていなかったし、何より彼女が剣道をする時以外に大声を出すのなんて初めて見たから。
だが、戸惑う由乃を見た菜々も、何やらコメカミに指を当てて「 え〜と・・・ 」と悩んでいる。
「 ちょっと、どうしたのよ菜々? 今日は何の用で来たの? 」
てゆーか何で私の家でなくて令ちゃんの家、しかも道場の方へ来るんだ。
由乃がちょっとすねかけていると、菜々は急にぽんとひとつ手を打ち、笑顔になった。そして、由乃を指差しこう言った。
「 島田由乃! 」
「 ・・・“島田”と“呼び捨て”とどっちに突っ込んで欲しいのよ 」
眉間にシワを寄せ、軽くメンチを切りながら問う由乃に、菜々は「 あれ? 」と呟き、再び人差し指をコメカミに当てて考えだした。
「 ん〜・・・ ああ、島津由乃か。何でひとりの人間に対して二つも名前を記憶してるんだろう? この地球人 」
「 は? アンタ何言ってんの? 」
菜々の呟きの意味が解からず、由乃は気味の悪いモノを見る目で彼女を凝視する。
「 ああ、気にしないで下さい。まだ接続が上手くいってないだけだと思いますから 」
「 ・・・接続? 」
益々困惑する由乃に、菜々はにっこり笑いながら告げる。
「 え〜・・・ 初めましてになるのかな? いや、この体の持ち主は初対面ではないし・・・ まあ良いか、どうせ喋るのは私なんだし 」
「 ・・・ちょっと菜々、本気で意味が解からないわよ? 大丈夫? 」
もしかしたら熱でおかしくなっているのかと思い、由乃は菜々の額に手を当てようとした。
「 いやいや、この体は正常に機能してますよ。別に熱がある訳でもどっか壊れちゃった訳でもありませんからご心配無く! 」
にこやかにそう言いながら、菜々は由乃の手を押し戻す。
「 実は私、いわゆる宇宙人という存在なのです! 」
「 ・・・ホントに頭大丈夫? 」
笑顔で元気良く宣言する菜々の様子に、由乃は本気で心配になってきた。
だが、菜々はそんな由乃の気持ちなど1ミリも気にせず続けた。
「 地球人の貴方にも解かり易いように言うと、私の本体は現在この体の脳に寄生してまして・・・ 」
「 うん、解かった 」
「 やあ、理解が早いですね! それで、今日私が何故この体に寄生したかと言いますと・・・ 」
「 解かったから病院行こうね 」
「 一度地球人の言う剣道というモノを体験してみたかっ・・・て、ああっ! 理解してくれてない!? いや、もしかして病院に連れて行くのがこの星の歓迎の方法とか? 」
由乃は「 そんな奇妙な風習は地球上のどこにも無ぇ! 」と突っ込みたかったが、とりあえず菜々を医者に診せるべく、グイグイと無言で彼女の手を引っ張った。
「 あの、歓迎してくれるのはありがたいのですが医者に脳内を調べられるのは私としては非常に迷惑というか私本体に悪影響を及ぼしかねないので食事なりなんなりもう少し穏便な歓迎の方法を行なってもらうとありがたいのですが! 」
あくまでも自分は“宇宙人”と言い張り、病院への連行を“歓迎の一種”として拒む菜々に、由乃はもはや一刻の猶予も無いとばかりに益々手を引く力を強めた。
「 あの、私の話し聞いてますか? 」
「 うん、聞いてるから早く病院に行きましょうね 」
「 ああっ! やっぱり聞いてない!! てゆーか理解してない?! えっと、日本語通じてますか?! 」
「 あなたの日本語が理解できるからこそ、一刻も早く病院に連れて行こうとしてるんじゃないのよ! 」
そう怒鳴り返す由乃に、菜々は溜息を吐きながら「 仕方ないですね・・・ 」と呟いた。
「 筋力を70%限定解放。活動限界まで残り30秒 」
やけに無機質な声で菜々がそう宣言すると、由乃に引っ張られていたはずの彼女の足がピタリと止まった。
「 ?! ちょっと菜々、抵抗しないでおとなしく一緒に病院に行くのよ! 」
由乃はそう言いながら菜々の手を強く引くが、彼女はまるで足に根が生えたようにびくともしなかった。
「 あまりこの体に負荷を掛けたくなかったのですが、このまま病院に行く訳にも行かないので、筋力を操作させてもらいました 」
「 訳の解からないこと言ってないで素直に・・・ 」
菜々のセリフを聞き流そうとした由乃だったが、そこで言葉が途切れる。
由乃は更に強い力で菜々の手を引いたが、彼女の上半身を揺らすことさえできなかったのだ。
普通、手を引っ張られれば、頑張ってその場に留まることはできても、上半身などが揺らぐはずなのだが、今の菜々にはそんな揺らぎすら無かった。
「 な、何で急にこんな力が・・・ 」
「 これで解かってくれましたか? 今私は、後遺症の残らないレベルでこの体の筋力を解放しているのです 」
落ち着き払った菜々の声に、由乃も思わず手を引くのをやめる。
「 筋力を・・・解放? 」
「 そうです。この星・・・ あなた方が言う地球の人類は、自らの筋力による肉体の破損を防ぐために、筋力を全開にすることはありませんが、私が操作することにより、この体は今、本来の70%の筋力を使っています 」
「 肉体を操作してる? 本来全開にならないはずの筋力を操作してるってこと? 」
呆然と呟く由乃に、菜々は微笑んでみせる。
「 解かりましたか? つまり私が操作していなければ、こんな筋力はありえないということです 」
「 そんな馬鹿な・・・ 宇宙人だなんて・・・ 」
いきなり宇宙人ですと言われて信じる由乃ではなかったが、実際に押しても引いてもビクともしない菜々を前にしては、ちょっと自信が無くなってきていた。
「 私が・・・ 現在この体に寄生している私が宇宙人であると理解できましたか? 」
菜々の顔で、菜々の声で、由乃に問い掛ける“自称”宇宙人。
だが、由乃はまだ信じられなかった。
「 脳に寄生するなんて、そんな馬鹿なことがあるはずが・・・ 」
先程の勢いを失いつつも、未だ自分の言うことを信じようとしない由乃に、“自称”宇宙人の菜々は「やれやれ」とでも言いたげに首を振ると、再び由乃の説得にかかる。
「 仕方ありませんね・・・ これだけはやりたくなかったのですが 」
真剣な表情でそう言いながら、みずからの腰に手を掛ける菜々の様子に、由乃はゴクリと息を呑む。
「 これでアナタも信じざるをえないでしょう! 」
自信満々でそう言い放つと、“自称”宇宙人は恐るべき行動に出た。
「 ・・・・・・ちょ! 何してんのアンタ?! 」
驚く由乃の眼前で、“自称”宇宙人は勢い良くスカートを脱ぎ、それを「すぱーん」と投げ捨てた。
「 地球人は肉体を衣服で包む習性がありますが、寄生体である私にはそんな概念はありません。よって、こんなことをしても恥ずかしくなんかありません 」
叫ぶ訳でもなく、むしろ厳かとも言える口調で宣言するが、ぱんつ丸出しでは威厳も説得力も何も無かった。
「 いきなり何してんのよ! 」
「 これで私が宇宙人だと理解できましたか? 」
「 やかましい! いいからスカートはきなさいよ! 」
もはや目の前にいるのが宇宙人かどうかなど関係無く、由乃はただ、ぱんつ丸出しの菜々を放置できなくなっていた。
由乃は菜々の投げ捨てたスカートを拾いに走る。
「 前々からおかしいと思ってたんですよ。何故、地球上で人類と呼ばれる種だけが、肉体の上にさらに何かを纏うのか 」
菜々のスカートを握り締め慌てて戻ってくる由乃に構わず、“自称”宇宙人は何やら主張をしている。
「 恐らく体毛という毛皮を失い、体温調節機能を失った人類の、肉体を防御するための行動なのでしょうけど・・・ 」
「 ちょっと! 」
「 本来ならば失った機能を回復すべきなのに、衣服に頼ることで人類は益々毛皮という保温機能を退化させることになる訳で・・・ 」
「 とりあえずスカートはきなさい!! 」
ぱんつ丸出しで偉そうに自説を語る“自称”宇宙人に、由乃はとにかくスカートをはかせようと、彼女の足を持ち上げようとする。
・・・が、先程言っていた「筋力の解放」のせいなのか、由乃はその足を持ち上げることができない。
「 この・・・ 足を上げなさいってば 」
必死に彼女の足を持ち上げようとして顔が真っ赤な由乃に、突然彼女は問い掛ける。
「 アナタもおかしいとは思いませんか? 」
「 おかしいのは今のアンタの格好よ! おとなしくスカートはきなさいってば!! 」
「 いや、これは大切なことなんですよ? 人類が毛皮という肉体の保温機能を取り戻せば、もう衣服の必要が無くなる訳で・・・ 」
「 今大切なのはアンタがスカートをはくこと! とにかく足を上げなさいってば!! 」
支倉道場は支倉家の敷地内にあるが、塀をひとつへだてた向こうは、普通に人の行き交う道路だ。つまり、ぱんつ丸出しな彼女の姿は、何時通行人に見られてもおかしくないのだ。
由乃は一刻も早く彼女にスカートをはかせるべく、更に手に力を込めた。
「 う〜、足を上げなさいってば〜 」
もはや首まで赤くなるほど力む由乃だったが、彼女の足は相変わらずビクともしなかった。
「 そうだ! 」
何やら思いついたらしい“自称”宇宙人が、急に足元の由乃に笑顔を向けた。
「 ここで知り合ったのも何かの縁。アナタ、地球人に毛皮を取り戻す実験をしてみませんか? 」
「 ・・・は? 」
彼女の言った意味が解からず困惑する由乃の脇に手を入れ、“自称”宇宙人はヒョイと由乃を立たせた。
「 幸い、人類にとってはまだ寒い季節のようですし、上手くいけば、アナタは毛皮という保温機能を取り戻せるかも知れませんよ? 」
笑顔でそんな提案をする“自称”宇宙人。
彼女の言っている意味が解からず固まる由乃だったが、そんな由乃にお構いなしに、“自称”宇宙人はさっそく笑顔で「実験」に取り掛かった。
「 寒さを感じれば、肉体が防御反応を起こすと思うんですよね〜 」
「 いったい何を・・・ キャアァァァァァァァァァ!! 」
肉体が寒さを感じる。それはつまり、保温のための衣服を脱ぐことに他ならない訳で。
“自称”宇宙人は嬉しそうに由乃の袴の腰紐を解き、脱がしにかかった。
「 ちょちょちょちょっと!! アンタ何してくれちゃってんのよ!! 」
袴の腰紐を解かれ、危うくぱんつが露出する寸前で袴を押さえることに成功した由乃だったが、“自称”宇宙人は不服そうな顔をしている。
「 おとなしく脱いでくれないと実験にならないじゃないですか〜 」
「 バカ言ってんじゃないわよ! 誰がこんなところで・・・ イヤアァァァァァァ!!! 」
由乃が文句を言おうとした瞬間、彼女は素早くしゃがみ込みながら、一気に由乃の袴を「すぽーん」とずり下ろした。
「 な・な・な・な・何を・・・ 」
ぱんつ丸出しになり慌てながらも、降ろされた袴を拾いはき直そうとしゃがみ込む由乃。
「 何で私まで・・・ うひぁあ! 」
由乃が袴をつかもうとしゃがんだ瞬間、“自称”宇宙人は由乃を背後から羽交い絞めにする。
プロレスで言うところの「フルネルソン」の体勢だ。
「 着てしまったら実験にならないじゃないですか〜 」
呑気な口調で言いながら、フルネルソンを決めたまま、何故か由乃共々ごろんと床に転がる“自称”宇宙人。
「 わ、私が何時! 実験に協力するなんて言ったのよ! 」
そう叫びながら、なんとか拘束から逃れようとジタバタもがく由乃だったが、相変わらず彼女の手はビクともしない。ぱんつ丸出しのまま“自称”宇宙人に拘束されたまま、ふたりで仰向けに床に転がったままだ。
ぱんつ丸出しのまま剣道道場の玄関先にころがる美少女ふたり。それはもはや、エロいを通り越してシュールな情景だった。
「 これは、人類が失った機能を回復させる重要な実験なんですよ? 何故嫌がるんですか? 」
「 こんなとこで脱がされてたまるか!! 」
「 ここじゃなければ良いんですか? 」
「 そういう話しじゃない!! 」
「 やれやれ、地球人の羞恥心というものは理解できませんねぇ・・・ 」
「 こんなとこで脱ごうってほうが理解できないわよ! いいからその手を離しなさいよ!! 」
(あたりまえだが)非協力的な由乃に、“自称”宇宙人は困った顔をしていたが、再び何か思いついたらしく、由乃を羽交い絞めにしたまま背後から囁く。
「 解かりました。ひとりで脱ぐから嫌なんですね? 」
「 ・・・はい? 」
またも意味が解からず固まる由乃を置き去りに、“自称”宇宙人は次なる行動に出た。
「 私も・・・ と言うか、この肉体の持ち主も脱げば、恥ずかしさも薄れるでしょう? 」
「 な、何よその強引な理論?! 」
「 地球には“赤信号、みんなで渡れば怖くない”という格言もあるくらいですし・・・ 」
「 何でそんな昔のネタを知って・・・ ちょっと?! アンタ何してんの?! 」
両足と片腕を使い、上手いこと由乃を羽交い絞めにしたまま、“自称”宇宙人は器用にカーディガンを片腕づつ脱ぎ始めた。
絶妙なテクニックでカーディガンを脱ぎ終えた“自称”宇宙人は、カーディガンをスカート同様「すぱーん」と投げ捨てる。その結果、上は白のブラウスで下はぱんつ丸出しという、なんとも艶かしい姿になってしまった。靴を履いたままなのが妙にシュールだが。
「 そ、それ以上脱ぐんじゃない!! 」
大切な菜々を、こんなところで全裸にする訳にはいかないと、由乃は“自称”宇宙人に必死で待ったをかける。
「 う〜ん・・・ これ以上はボタンとか面倒なモノがあるから、アナタを拘束しながら脱ぐのは無理っぽいですねぇ・・・ 」
“自称”宇宙人の言葉に思わずホッとする由乃だったが、事態はまだ解決していなかった。
「 仕方ない。アナタから先に脱がしましょうか 」
いや、事態はむしろ、由乃にとって更に過酷な展開となりそうだった。
「 ふざけんな! これ以上私に何かしたら・・・ うわやめてやめてやめて!!! 」
とうとう由乃の上着の紐を解きにかかる“自称”宇宙人。
片腕と両足で由乃の自由を奪いつつ、器用に脱がしにかかる彼女の技は、桜庭和志あたりが寝技の一種として採用しそうな程、無駄にテクニカルな動きを見せていた。
「 ふっふっふっ。おとなしく実験に協力してください 」
「 いぃぃぃぃぃやぁぁぁぁぁぁぁぁ!! 」
由乃は全力で抵抗するが、やはり彼女の拘束から抜け出すことはできなかった。
「 え〜と・・・ あれ? ・・・・・・う〜ん、やっぱり密着した状態だと脱がしにくいなぁ 」
上着の紐も解け、由乃はもはやブラまで見えそうなほどの状態だったが、そこから先は難しいらしい。
「 む、難しいようなら、今日の実験はこの辺で終わりという方向で! 」
力ではかなわないと悟り、今度は懐柔する作戦に出た由乃だったが、その程度で諦める“自称”宇宙人では無かった。
「 アナタ、自分で脱いでくれませんか? 」
「 なるほど、アンタが脱がすのは無理だけど私が自分から脱げばOK・・・ってそんなことできるかぁぁぁ!!! 」
極限状態が由乃のノリ突っ込み能力を開花させたようだが、今、そんな能力は何の役にも立たなかった。
「 うふふふふふふ。おとなしく脱いでくれないなら、宇宙人らしくインプラントとかしちゃおうかな〜 」
なんだかとても嬉しそうに、由乃のぱんつに手を滑り込ませようとする“自称”宇宙人。
「 ど・ど・ど・ど・ど・ど・ど 」
何処に何をインプラントする気だオマエは。
そう突っ込もうにも、あまりの事態に祐巳クラスの道路工事を始める由乃。
( くっ・・・ 落ち着け、落ち着くのよ島津由乃。こんな時は・・・ )
混乱しながらも、事態の解決策を考える由乃。
しかし、相手は基本的に人の話を聞かないヤツ。しかも、今まともに動かせるのは首から上くらいのものだ。
( これじゃ振りほどくことも・・・ ん? まてよ、首が動くなら・・・ )
勢い良く頭を振れば、もしかしたら上手く頭突きをかませるかも知れない。
( そうよ! ここで一発逆転よ! )
女の子の顔に、ましてや大切な菜々の顔に頭突きをするのは気が引けるが、今はそんなことにこだわっていられないほどの緊急事態だ。
( 悪く思わないでね菜々 )
決意を固めた由乃は、できる限り首を前に振りかぶる。後は勢い良く後ろに振りぬくだけだ。
由乃は、後頭部に来るであろう衝撃にそなえ、歯を食いしばった。
( せ〜の・・・ )
ふぅ
「 うひやぁぁぁぁぁぁ?! 」
衝撃は、由乃の予想していなかった角度から来た。
具体的に言うと、耳に熱い吐息を吹きかけるという形で。
「 な・な・な・な・何すんのよ!! 」
「 いやぁ・・・ 息を吹きかければ、もっと寒さを感じて実験の結果が出やすいかと 」
真っ赤な顔で抗議する由乃に向かって、いけしゃあしゃあと笑顔で言い訳する“自称”宇宙人。
「 ついでに言えば、余計な攻撃を受けたくありませんでしたから 」
「 うっ! 」
ニヤリと笑いながら言う“自称”宇宙人。どうやら由乃の企みなど、お見通しだったらしい。
万策尽きた由乃は、がっくりとうなだれる。
( くっ・・・ こうなったら、令ちゃんが戻ってくるのを待つしかないのか・・・ )
ふぅぅぅぅ
「 ひぃぃぃぃあぁぁぁぁ!? 」
熱い吐息再び。
「 や、やめなさいってば!! 」
「 しかし、アナタが自分から脱いでくれない以上、こうやって寒さを増幅させるくらいしか実験の継続が・・・ 」
「 継続すんな!! その無駄な熱意を別の方向に・・・ 」
ふぅぅぅぅ
「 ひぇぇぇぇぇ?! 」
ふぅぅぅぅ
「 うひぁぁ?! 」
ふぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ
「 いぃぃぃぃやぁぁぁぁぁ!!! 助けて令ちゃぁぁぁん!! 」
外は、呆れる程の春の陽射しで輝いているというのに。
支倉道場には、由乃の悲鳴と、“自称”宇宙人の熱い吐息だけが木霊し続けるのであった。
※このSSは、がちゃS許容限界(以下略)
要は前編である【No:2170】の続きです。それでは後編をどうぞ。
「 ・・・ええ。・・・・・・ええ、それで? 」
支倉令は、憂いを帯びた表情で電話の向こうの人物の話しを聞いていた。
「 ・・・・・・そう。解かったわ、わざわざありがとう。それじゃあ 」
ふぅと溜息を一つ吐き、令は受話器を置いた。
そして、何やら思案顔のまま、由乃のいる道場に戻るべく踵を返す。
「 彼女がねぇ・・・ 」
そう呟く顔には、「信じられない」といった表情が浮かんでいた。
「 人は見かけによらないって言うけど、本当にそういうことがあるものなのね・・・ あれ? 」
道場へと向かう途中、ふと目に入った情景に、違和感を覚えて立ち止まる令。
「 ・・・ああ、本当にここへ来てるみたいね。でも、アレがあそこに転がってるってことは、あっちに行ってるんじゃないのかな? 」
独り言をぶつぶつと呟きながら何やら推察しているらしく、令は首を傾げた。
「 またどこかへ行っちゃったってことなのかなぁ・・・ 」
ぽりぽりと頭をかきつつ、令は道場への扉を開いた。
「 ・・・・・・え? 」
開いた扉の先に展開していた光景に、令は一瞬、脳が反応しきれなかった。
それは別に、令が鈍い訳では無く。むしろ、その光景に即座に反応しろと言うほうが無茶というものだろう。
なにせ・・・
「 ・・・・・・・・・何してるの? 」
呆然とそう呟いた令の目の前には、一人の少女がもう一人の少女をフルネルソンで羽交い絞めにして、尚且つ二人とも床に転がっているという意味不明な光景が展開していたのだから。
しかも、その少女達の服装が更に問題だった。
片や、白いブラウスと靴を身に着けてはいるが、ぱんつ丸出し。
片や、白い剣道着の上着(脱げかけ)しか着ていないうえに、ぱんつ丸出し。
そんな光景を目撃してしまった支倉令の脳裏に最初に浮かんだのは、「エロい」でもなく、「はしたない」でもなく、「何コレ?」という疑問だけだった。
「 何してるのって・・・ 見れば解かるでしょ!! 」
無理。
涙目で叫ぶ由乃の言葉に、令は素直にそう思ったが、それを口に出すという愚挙だけはかろうじて避けた。
由乃の表情を見た瞬間、「 ああん?! ケンカ売っとんのかワレ!! 」という、由乃の心の声が聞こえたから。
姉妹の絆って、素敵ですね。
「 いや・・・ 見ても解からないんだけど 」
このまま眺めていても埒が明かないと思い、素直にそう答えてみた令に、由乃は再び憤怒の表情で叫ぶ。
「 なんで解からないのよ?! 令ちゃんのばかー!! 」
いやだから無理。
あと馬鹿じゃないもん。
いつものこととは言え、由乃のあまりに我がままな言い分に内心傷つきつつ、令は呆然と立ち尽くす。
「 もう! ぼーっと突っ立ってないで、とにかくこの子をなんとかしてよ!! 」
切羽詰った由乃の声で我に返り、令は慌てて由乃の言う“この子”を引き剥がしにかかった。
“自称”宇宙人である菜々を。
「 酒乱?! 菜々が? 」
「 うん 」
ふたりがかりで何とか菜々を引き剥がすことに成功した後、服装を整えた由乃は、令から聞かされた話しに驚きの声を上げた。
「 じゃあ、さっきからおかしな行動してたのは・・・ 」
「 酔っ払いに不条理な行動はつき物じゃない? 」
「 そういうことか・・・ “私は宇宙人です”なんて言い出すから、どうしようかとおもったわよ 」
「 ・・・それもしかして信じたの? 」
「 そ! そんな訳ないでしょ!! 」
さっき、押しても引いてもビクともしない菜々の剛力に、一瞬信じかけたのは内緒だ。
「 ただこの子、信じられないくらいの力を出すから、それでどうしようかと・・・ 」
「 あ、それ、有馬氏が教えた古武術のせいらしいよ 」
「 古武術? 」
「 うん。なんか剣道よりもそっちの才能がスゴイらしくて、前に菜々ちゃんが暴れた時も取り押さえるのが大変だったらしいよ? なんでも体の使い方・・・って言うか、関節の使い方が特殊だとかで、大人の男が取り押さえようとしても、ビクともしなかったって 」
「 確かにビクともしなかったわ・・・ 」
令の話しが先程の菜々の様子と重なり、深く納得する由乃だった。
「 古武道って凄いのね。全力で引っ張ったのに、揺らぎもしないんだもの 」
それは菜々が凄いだけではなくて、いくら最近は鍛えているとはいえ由乃が非力なのが原因じゃないのかなーと思ったが、心優しいお姉さまは、そのことについては言及しなかった。
「 それにしても菜々が酒乱だったなんて・・・ あれ? そう言えば令ちゃん、なんでそんなに菜々のことに詳しいの? 」
「 電話で聞いたんだよ 」
令は未だ軽い興奮状態にある由乃をなだめるように、ゆっくりと説明し出した。
先程の電話が、令に剣道の試合で敗れたこともある田中家の次女からだったこと。(有馬氏経由で道場の電話番号を聞いたらしい)
今日、田中家で行なわれた雛祭りに菜々も参加していて、そこで彼女が甘酒と白酒を間違えて飲んでしまったこと。
酔った菜々が、何やら「 由乃さまはだいたい・・・ 」などと、何故か由乃に対する愚痴をこぼし始めたこと。(田中家の人間は、その時初めて令と由乃のつながりを聞かされたらしい)
徐々に目つきのすわってきた菜々に危機感を覚え、とりあえず水でも飲ませれば落ち着くかと思い、台所へ行ったわずかな隙に、菜々が姿を消したこと。
どうやら以前にも同じことがあったらしく、その時も菜々の大暴れに大迷惑をこうむった田中家は、被害を食い止めるために慌てて島津家に連絡を取ろうとしたが、当然連絡先など解からず、とりあえず支倉道場に連絡を取ったこと。
「 まったく・・・ なんて迷惑な酔っ払いなのかしら 」
事情は解かったものの、迷惑をこうむったことには変わりないので憤慨する由乃。
「 まあ、本人も飲もうと思って飲んだ訳じゃなく、事故だったらしいから 」
「 むー 」
「 だいたい田中家も、何かしでかすのが解かってたなら、もう少ししっかり見張ってなさいよ! 」
「 むー 」
「 まあまあ、田中さんも心配して連絡を入れてくれたことだし・・・ 」
「 むー むー 」
「 ああもう! さっきからむーむーうるさい!! 」
そう怒鳴る由乃の視線の先には、縄でぐるぐる巻きにされてさるぐつわまで噛まされた菜々が転がっていた。
取り押さえに入った令まで脱がそうとする菜々に危機感を覚えたふたりに、厳重に拘束されたのだ。(ちなみに、服はちゃんと着せなおしてある)
「 少しは反省してるの?! 」
「 むー 」
「 むーじゃ解からないわよ!! 」
「 むー 」
「 いや由乃・・・ さるぐつわしたままなんだから無茶言わないで。てゆーかさるぐつわまで必要だったの? 」
「 こういう時、荒縄とさるぐつわのセットは基本じゃない! 」
「 ・・・そうかなぁ 」
なんでそんな基本的なことが解からないんだとでも言いたげな由乃のセリフに、首を傾げる令。
おおかた由乃の脳内では、「時代劇の中で悪者に囚われた町娘が縛り上げられている図」でも浮かんでいるのであろう。
それをそのまま現実で実行してしまうのは人としてどうかと思われるが。
「 ほんとにもう! あんたって子はどうして・・・ 」
「 まあまあ。菜々ちゃんも悪気があってやった訳じゃなく、酔ったうえでのことなんだから、そんなに怒らなくても 」
いらいらと菜々を睨みつける由乃をなだめる令。だが、由乃はどうしてもおさまりがつかないといった顔をしていた。
「 解かってるわよ! って言うか私は別に脱がされかけたことを怒ってるんじゃないわよ! 」
「 じゃあ、何がそんなに気に入らないのよ? 」
何が由乃をそんなにいらつかせているのか解からず、令は素直に問いかけたが、由乃はそこで、珍しく口ごもる。
「 それは・・・ その・・・ 」
令が由乃のセリフの続きを待っていると、由乃は観念したようにボソボソと話し始めた。
「 来るんならなにも、支倉道場じゃなくても・・・ 」
「 ・・・ああ 」
令は、由乃の言わんとするところがようやく解かった。
つまり、由乃は菜々が尋ねて来たのが「島津家」ではなく「支倉道場」だったのが悔しいのだ。
まるで、菜々が自分よりも令に会いたくてここへ来たような気がして。
令は、子供のように拗ねる由乃の様子に、ふっと微笑む。
「 何よ! 何がおかしいのよ! 」
「 いや・・・ ぷふっ! だって 」
「 な、なに笑ってるのよ! 」
「 あはっ、だ、だって・・・あはははっ 」
「 笑うなー! 令ちゃんのばかー! 」
悔し紛れにべしべしと令を叩き始めた由乃がまたおかしくて、令がしばらく笑い続けたが、なんとか笑いを押し殺した。
「 ごめんごめん。いや、由乃が私にヤキモチ妬くなんて、は、初めて見・・・ あははははっ! 」
いや、押し殺せていなかったようだ。
さっきよりも激しく、令は笑いだした。
「 だから笑うなって言ってるでしょ!! 」
由乃はヤキモチを妬いた自分を見透かされたのが恥ずかしいのと、それを笑われたのが悔しくて、令にげしげしとケリを入れ始めたが、それでも令は、しばらく発作のように笑い続けた。
「 もう! 令ちゃんなんて大っ嫌い!! 」
いくら怒っても笑い続ける令に背を向け、由乃は本格的に拗ねてしまったが、その仕草すら子供っぽく見えて、令は笑いをおさめるのに一苦労だった。
どうにか笑いの発作を押さえ、令は真面目に由乃に話しかける。
「 由乃 」
「 知らない! 」
「 菜々ちゃんがここへ来た時って、どんな様子だった? 」
「 え? どんな様子って・・・ 」
唐突な令の質問に、由乃は一瞬、拗ねていたのも忘れて菜々が現れた時の様子を思い返した。
「 え〜と・・・ なんだか道場破りにでも来たみたいな剣幕で“たのもう!”って・・・ 」
由乃のセリフに、令は「 やっぱりね 」とうなずいた。
「 何が“やっぱり”なのよ? 」
訳が解からないといった由乃に、令は道場へ来る途中に見たことを話し始めた。
「 さっき私の家から道場へ戻る途中にね、由乃の家の玄関先に雛あられが散乱してるのを見たのよ 」
「 雛あられ? 何でそんなものが私の家の玄関先に? 」
益々訳が解からないといった由乃の顔に、令はいたずらっぽく微笑みながら続きを話す。
「 菜々ちゃんは、田中家の雛祭りに参加してたって言ったでしょ? 」
「 それがどうしたの? 」
「 きっと、お土産を持って来たんじゃないかな? 」
「 お土産? 誰が・・・・・・ あ! もしかして・・・ 」
ここまでヒントを出されて、由乃も令の見たモノにどんな意味があるのか気付いたらしい。
「 きっと菜々ちゃんは、真っ直ぐ由乃の家に行ったのよ。雛あられをお土産にね。でも、由乃が不在だったから・・・ 」
「 ・・・それが面白くなくて、こっち(道場)へ憂さ晴らししに来たってこと? 」
「 道場破りみたいな剣幕で来たってことは、たぶん、それが正解なんじゃないかな 」
実は今日、支倉家だけでなく、島津家も人がいない。
雛祭りを口実に、会合好きな両家の人間は揃って外出していたのだ。夜には令と由乃も合流して、食事会をする予定だった。
そんな無人の島津家に、酔った菜々がたずねて来ても誰も出てこない。
そんな時、酔った人間がどんな行動に出るかを考えれば、おそらく令の推測どおりになるだろう。
「 もう、来るなら来るって言ってくれれば、ちゃんと迎えてあげられたのに・・・ 」
現金なもので、由乃は菜々が自分を訪ねて来たと解かったとたんに、さっきまでの鬼のような顔から、急に優しい顔に変わっていた。
そんな由乃の顔を見た令は、呆れるよりも、むしろ少し寂しい気分になっていた。
由乃の浮かべた優しい顔。それは、自分や江利子が妹を見守るまなざしと同じだと気付いたから。
( ・・・由乃も変わっていくんだね )
寂しさの中にも、少しの嬉しさを感じ、令は複雑な思いで微笑む。
きっと、江利子も自分のことを、こんな気持ちで見守っていたのだろうなと思いながら。
「 菜々。来るなら来るって言ってくれれば、こんなことにはならなかったんだからね? 」
優しく菜々に語りかける由乃。
だが
「 ・・・・・・・・・あれ? 菜々? 」
菜々から反応が無い。
「 菜々?! 」
さるぐつわを噛まされたまま、目を閉じてぐったりと動かない菜々に、由乃の脳裏に嫌な知識が思い浮かぶ。
酔った人間の死因に、吐瀉物による窒息死が多いという知識が。
「 菜々!! 」
さるぐつわが吐瀉物の流出を塞いでいるのか?
嫌な予感に、由乃は全速力で菜々に駆け寄り、さるぐつわを解く。
令も由乃と同じことに思い当たり、二人のそばへと駆け寄った。
「 菜々! 聞こえる?! しっかりしなさい菜々!! 」
由乃は菜々を拘束していた荒縄も急いで解く。
その時、由乃の背後から菜々の様子を見ていた令は、確かに見た。
拘束を完全に解かれた菜々が目を明け、ニヤリと哂うのを。
「 菜々、だいじょう・・・ きゃあ!! 」
由乃は完全に油断していた。
その油断が、虎の拘束を解くという暴挙を許したのだ。
( ・・・ああ。そう言えば、いったん酔うと、なかなかシラフに戻らないって言ってたっけ )
素早く起き上がり、再び由乃を羽交い絞めにして仲良く床に転がる菜々を見て、令は、今頃田中家の次女に言われたことを思い出していた。
( 絡み上戸だって言ってたけど、それって肉体的なモノも含めてなのかなぁ・・・ )
嬉しそうに哂う菜々を見ながら、令はそんなどうでも良いような疑問を感じていた。
確かに菜々は由乃に“絡んで”いるが。
「 な、菜々?! 」
「 ふっふっふっ。由乃さま、油断しましたね? 」
「 あ、アンタまさか、ぐったりしてたのは・・・ 」
「 当然、演技です。由乃さまが油断して戒めを解きにくるのを待ってました 」
「 くっ! なんて狡猾な・・・ とりあえずこの手を放しなさい! 」
「 嫌ですよ。せっかく捕まえたんだから 」
「 はーなーせー!! 」
令に自分の酔態をバラされたせいか、どうやら菜々は宇宙人のフリは止めたようだが、どちらにせよ由乃を解放する気は無いらしい。
( 酔うとタチが悪いって言ってたけど、ホントだなぁ )
とりあえず菜々は大丈夫らしいので、令は二人の様子を呑気に観察し始めた。
「 菜々! 」
「 何ですか? 」
「 離しなさい!! 」
「 だから嫌ですってば。さ〜て、と。今度は何処から脱がして欲しいですか? 」
「 脱がすなぁ!! 」
「 じゃあ、耳に熱い吐息を・・・ 」
「 吹きかけるな!! 」
「 もう、さっきから文句ばかり。脱がすのも耳を攻めるのもダメだなんて、由乃さまは私にどうしろと言うんですか? 」
「 だーかーらー、離しなさいって言ってるでしょうが!! 」
「 そんな我がままを言われましても・・・ 」
「 我がままじゃねぇぇぇぇ!!! 」
( うわぁ・・・ 意味不明なオレ様理論で行動するって言ってたのは、こういうことか )
令は、田中家次女から言われたことが目の前で現実となっているのを目の当たりにし、田中家の人間達の苦労をしのんで、そっと涙した。
「 もう! いいから離し・・・ 袴の紐を緩めるなぁぁぁ!! 」
「 じゃあ、上着のほうから・・・ 」
「 “じゃあ”じゃねぇ! アンタいい加減にしなさいよ!? 」
「 解かりました。それでは“いい加減”に半裸という方向で 」
「 ぬぁああなああああ!! (菜々と叫んでいるらしい) 」
“半裸”というキーワードに、ちょっと心を動かされた令も、怒り心頭といった由乃の叫びに、「さすがにそろそろ助けに入るべきかな?」とか思い始める。
「 菜々! アンタなんだって今日はそんなにやりたい放題なのよ!! 」
ここまでは正に“やりたい放題”だった菜々。
だが、由乃のこの叫びに、彼女は意外にもその動きを止めた。
「 ・・・やりたい放題は由乃さまじゃありませんか 」
「 は? 」
菜々の意外なセリフに、由乃も思わず動きを止める。
「 人を勝手に妹だとか紹介して 」
「 うっ 」
江利子に菜々を“妹候補だ”と紹介した時のことを思い出し、由乃は何も言い返せなかった。
「 ケーキをご馳走してくれるって言っておいて、令さまを追いかけるのに夢中だったし 」
「 あれは、その・・・ アナタが後押ししてくれたと言うかなんと言うか・・・ 」
「 クリスマス会に誘っておいて、私のことはほったらかしだったし 」
「 あれは席が・・・ って、もしかして寂しかったの? 」
だとしたら、申し訳ないことをしてしまったかも。由乃は素直に反省した。
「 私が令さまと互格稽古した時、私の応援もしてくれなかったし 」
「 あれは・・・ 」
「 令さまがそう仰ったから。ですか? 」
「 う・・・ 」
まるで、自分より令さまが大切なのですねと菜々に言われた気がして、由乃は返す言葉を失う。
「 今日だって・・・ 」
由乃を責め続けた菜々のセリフは、唐突にそこで途切れた。
「 菜々? どうしたの? 」
「 今日だって・・・ 会いにきたのに・・・ 」
「 え? ちょっと菜々、泣いてるの? 」
背後からの声に、微かに混じる涙の気配に、由乃はどうして良いか解からなくなった。
「 私・・・ 会いに・・・・・・ 由乃さまに・・・ 会いたかっ・・・ 」
「 菜々・・・ ごめんね 」
菜々は今日、予告も無く勝手に来た。由乃の都合などお構い無しに。
本来なら、謝らねばならないのは、菜々のほうだろう。
それでも由乃は、心から菜々に詫びた。
「会いたかった」と涙混じりに言ってくれた菜々に、応えられなかった自分を詫びた。
( そうやって、少しずつ距離を縮めていけば良いわ )
未だ姉妹ではないけれど、確かにそこに“絆”が生まれつつある二人に、令は心の中でエールを送った。
少しずつ。少しずつ距離を縮めてゆけば、やがてその距離は、手をつなげるほど近くなる。そんな思いを込めて。
「 ごめんね、菜々。雛あられ、持って来てくれたんだよね? 」
「 そうです・・・ 私、由乃さまと一緒に食べようと・・・ 」
泣いている菜々をなだめるように、優しく語りかける由乃。
「 そうよね。なのに肝心の私がいなくて、寂しかったのね? 」
応える声は無かったが、由乃は確かに背後でうなずく気配を感じていた。
会えない寂しさを、道場で暴れて紛らす。
それは決して誉められた行動ではないが、由乃はそんな菜々の暴挙が、どこか嬉しかった。
自分に会えないというだけで、勝手にひと暴れした挙句に泣き出すという菜々の我がままな行動が、何だかやけに嬉しかった。
それほどまでに、菜々の中で自分の存在が大きくなっているのだと解かったから。
「 会いに来たのに・・・ うっく・・・ いなくて・・・ 」
「 ごめんね。でも今度からは、来る時は私に言ってね? いつでも歓迎するから 」
「 私・・・ 独りぼっちな気がして寂しかっ・・・ 」
「 菜々、もう泣かないで。私の部屋で、一緒に雛あられ食べよう? 」
寂しかったと泣く菜々と、それをなぐさめるように優しく語りかける由乃。
だが、このリリアンの姉妹を体現したかのような美しい光景を見ながら、令はある疑問を感じていた。
( ・・・寂しかったは良いけど、なんで菜々ちゃんは由乃を離さないんだろう? )
そう。なんか話しだけ聞けば、姉妹の心の触れあいみたいな感じだが、未だ菜々は、由乃をフルネルソンの体勢で羽交い絞めにしたままなのだ。
そして、令の疑問は、直後に菜々自身のセリフによって解決された。
「 この寂しさはもう・・・ 」
「 え? 」
「 由乃さまを脱がすことでしか埋められないのです 」
「 ちょ! なんでそっちに戻る?! 」
「 ぬくもりが欲しいのです 」
「 だから雛あひゃひゃひゃひゃ!! 襟元から手を入れるな!!! 」
ああ、まだ酔いが醒めてないだけか。
令は、思わず納得した。
「 由乃さまが悪いんですよ? 私に寂しい思いをさせるから 」
「 それは悪かったわ! でも何も脱がさなくたって!! 」
「 だから寂しさを埋めるには・・・ 」
「 他に方法があるでしょうが!! 」
「 他に? 」
「 だから一緒に雛あられを食べようと・・・ 上着を脱がそうとするなぁ!! アンタそろそろ酔いを醒ましなさいよ!! 」
「 失礼な。酔ってなんかいません 」
「 うわぁぁぁぁぁ!! 典型的な酔っ払いの言い訳出たぁぁぁ!! 」
酔っ払い特有のループする行動。
酔っ払い特有の「酔ってない」発言。
事態は未だ、解決の兆しを見せようとはしなかった。
「 令ちゃん! 」
「 ・・・え? 何? 」
「 “何?” じゃない!! ぼーっと見てないで助けてよ!! 」
由乃を羽交い絞めにしたままで、よく道着を脱がしにかかれるなぁ・・・ とか変なところに感心していた令に、由乃の怒声が飛ぶ。
だが、普段なら由乃のピンチには一も二も無く助けに入る令なのに、今回は何故か動こうとしなかった。
「 由乃 」
「 何よ! 」
「 いずれ姉妹になるつもりなら、菜々ちゃんのことは、自分でなんとかするべきだと思うの 」
「 はあ?! 」
「 私も3月いっぱいでリリアンを去る身。そんな私の助けをいつまでも求めていては・・・ 」
「 まてコラ! 誰がそんな先の話しをしてるのよ?! 今! 今助けてって言ってるのよ!! 」
「 だから、私の助けがいつまでもある訳じゃ・・・ 」
「 人の話しを聞けぇぇぇ!! このバカ令!! 」
確かに令は、リリアンを卒業する身。
その令がいつまでも助けに入っていては、由乃のためにならない。
理屈は解かる。解かるが、明らかに令の思いやりは間違った方向へ向かっている。
由乃のためならいくらでも暴走できる令の性格が、こんな斜め上へ向かった考えを引き出してしまったのだろうか。
「 令ちゃん! これは姉妹の問題とかじゃなくて! たんに脱がされてる私を助けてって言ってるの! 」
再度説得を試みる由乃に、令は「 でも・・・ 」と何故か頬を染めて口ごもる。
「 “でも”何よ? 」
「 由乃が誰かに襲われてる場面なんて、滅多に見られないし・・・ 」
「 なっ! 」
そのセリフを聞いた瞬間、由乃はある事実を思い出した。
普段は由乃を含め、令の周辺の人間は忘れているのだ。
普段は頼りがいのある“山百合会の良心”的存在である支倉令。しかし、彼女は“あの”鳥居江利子の妹だったのだ。
自分の興味があることには喰い付いて離れない、「すっぽん」の異名を持つ“あの”江利子の。
孫をイジるためだけに、剣道の交流試合という衆人環視の中、大声をあげながら由乃を追い詰めた“あの”江利子の。
支倉令は、そんな江利子の妹を、2年間も続けていたのだ。
面白いと思ったことにはとことん喰らい付く。そんな姉に、影響を受けていないはずがない。
「 令ちゃん、まさかこの状況を楽しんで・・・ 」
愕然と呟く由乃に対し、令はどことなくウキウキした口調で語り出す。
「 他の誰かならともかく、幸い相手は菜々ちゃんだし 」
「 な・・・ 」
「 かわいい“孫”のすることならば、私も安心して見ていられるかなぁ・・・ って 」
「 何 考 え て ん の よ !!! 」
本日何度目かの爆発をおこした由乃の絶叫もしかし、何やら妄想の世界にトリップしだした令には届かなかった。
つまり、令はただ単に、“襲われる由乃”の艶かしい姿を堪能したいだけだったのだ。
「 ああ・・・ 美しい少女二人の、艶かしくも美しいカップリング・・・ 」
「 ・・・・・・令ちゃん、ソッチ方面の小説にも手を出し始めたの? 」
「 しかも、病弱な少女と体育会系少女の絡み 」
「 病弱だったのは去年まで! 今はどっちも体育会系だから!! 」
「 素敵・・・ 」
「 戻ってこーい!! もしもーし!! 妖しげな妄想の世界から帰還ぷりーず!! 」
由乃の懸命な呼びかけにも、令は「うふふふふ」と笑いながら、イヤな期待に満ちた視線でこちらを見つめるばかりだった。
「 それでは令さまのリクエストにお応えして・・・ 」
「 応えなくていい!! 」
令の妄想100%なセリフを聞いていたらしく、再びもぞもぞと動き出す菜々。
「 あ、できれば袴から脱がし始めてくれると・・・ 」
「 オマエも更にリクエストすんな!! 」
「 御意 」
「 “御意”じゃねぇぇぇぇぇ!!! 」
「 ああ・・・ とても素敵な思い出になりそう 」
「 私もそう思います 」
「 誰かこのアホどもを何とかしてぇぇぇぇ!!! 」
ヤバイ。これはマジでヤバイ。
由乃は冷たい汗が流れ始めるのを感じていた。
菜々だけならばまだ、酔いが醒めれば説得に応じて、自分を解放してくれるかも知れないが、酔っぱらいの蛮行を煽る協力者がいるとなれば話は別だ。
しかも、その二人の利害が一致してるときてる。
どうしよう。どうすればこの煩悩アホアホシスターズを撃退できるのだろう?
由乃は必死で打開策を探る。
だが、過酷な運命の荒波は、由乃の耳に、更に厳しい未来を伝えてきた。
「 令さま 」
「 何? 」
「 思い出を形に残してみませんか? 」
「 ・・・形に? 」
まさか・・・
由乃のイヤな予感は、次の瞬間、現実のものとなった。
「 具体的に言うとデジカメとか 」
「 なるほど! 」
「 “なるほど”じゃない! 何いきなり結託してんのよ、このアホアホシスターズは!! 」
「 じゃあ菜々ちゃん、デジカメ取ってくるまで由乃押さえといてね 」
「 まかせて下さい。全力で死守します 」
「 いやぁぁぁぁ!! 写真は勘弁してぇぇぇぇぇぇ!!! 」
必死に令を止めるべく、その手を伸ばしてみるけれど、走り去ってくあの人は、呼べど叫べど戻らない。
混乱のあまり、脳内でそんな演歌の紹介みたいな一文が浮かぶ由乃を置き去りに、令はやたらと嬉しそうに道場を出て行った。
「 待って!! 本気で待って!! こんな姿を撮られたら・・・ 」
由乃は全力で菜々の拘束からの脱出を試みるが、やはり上手いこと関節を押さえられていて、まるで動けなかった。
「 うぅ・・・ なんで私だけがこんな目に・・・ 」
もはや、自分が主役の“煩悩炸裂撮影会”は避けられないのか。
由乃が暗然たる思いに沈んでいると、後ろから菜々に話しかけられた。
「 あの・・・ 由乃さま? 」
「 ・・・何よ 」
「 えっと・・・ その・・・ 私、何でここにいるんでしょうか? ここ、支倉道場ですよね?」
「 !! 」
よっしゃぁぁぁぁぁ!!!
由乃は思わず拳を握り締め、心の中で叫んでいた。
どうやらここに来て、菜々の酔いが急速に醒めたらしい。
だが、まだ油断はできないと、由乃は思った。なにせ、自分の運命は未だ、文字通り菜々の手に“捕まえられて”いるのだから。
由乃は菜々を刺激しないように、慎重に言葉を選ぶ。
「 菜々? 」
「 はい 」
「 詳しく説明してあげるから、とりあえず離してくれると助かるんだけど 」
「 え? ・・・あ! わ、私なんで由乃さまを羽交い絞めに?! 」
自分のしていることに驚き、慌てて由乃を解放する菜々。
( よっしゃぁぁぁぁぁ!!! )
再び、心の中で雄叫びを上げる由乃。
だが、まだだ。まだ、もう一人の敵を無力化していない。
てゆーか、裏切り者に死を!!
急いで着衣の乱れを整えた由乃は、菜々に気取られないように、裏切り者を迅速に抹殺する方法を思案する。
「 あの、私なんでここで由乃さまを・・・ 」
完全に酔いは醒めたようだが、まだ意識がはっきりしないのか、自分が何故ここにいるのかも解からずオロオロする菜々。
そんな菜々の手を取り、道場の入り口へと連れてゆく由乃。菜々はまだ状況が解からないせいか、素直について来た。
「 菜々、とりあえず状況説明は後回しよ 」
「 はぁ・・・ 」
「 それよりも、今からここに、女性の敵である一人の色魔が来るわ 」
「 はい? 」
「 とりあえずこれ持って 」
道場の壁に掛けてあった竹刀を菜々に手渡し、自分も同じものを構える。
「 えっと・・・ 色魔っていったい? 」
まだ思考がはっきりとしない菜々を、由乃は「 良いから構える! 」と、急き立てる。
訳が解からないまま、菜々は言われたとおりに道場の入り口に向かって構えた。
「 くっくっくっ。あんの煩悩爆裂色魔めぇ、思い知るが良いわ 」
悪役そのものの顔と声で哂う由乃に、さすがに菜々も不安になる。
「 あの、由乃さま? 色魔っていったい誰・・・ 」
「 しっ! 来るわよ! 構えて! 」
「 えっ? 」
「 扉が開いたら、容赦無く一撃で仕留めるのよ! 」
「 え? いえ、ですから誰・・・ 」
「 返事! 」
「 あ、は、はい! 」
由乃の剣幕に乗せられ、菜々は思わず道場の入り口に向かって構えた。
数秒後。支倉道場に、二つの気合の声と、一つの悲鳴が響き渡ったのだった。
後日談。
菜々の暴挙は酒のせいではあったけれど、突き詰めて考えれば「由乃に放置されて寂しかったから」でもあったという結論に達した由乃。
由乃は菜々に、そんな寂しい思いを二度とさせまいと誓ったが、そこは手加減ができない青信号な由乃。
あまりに過剰なスキンシップに、見事白薔薇姉妹を押さえ、「クイーン・オブ・ガチ」の称号を手にしてしまうのだが、本人達は幸せそうだからと、山百合会の面々は、ナマ暖かく見守ったそうである。
ちなみに、酔って凶行に及んだ有馬菜々嬢。
騒動が一段落した後で、由乃に自分の凶行を聞くに及び、その場で由乃に土下座し、二度と酒は飲まないと誓った。
・・・が、酔っぱらいの「もう飲まない」は、蕎麦屋の出前の「今、出ました」並にあてにならないのだと由乃が思い知るまでに、そう時間は掛からなかったのであった。
※この記事は削除されました。
【No:2162】【No:2165】【No:2168】『後味の悪さ』MAXです。暴力的表現こそありませんが覚悟が出来た方のみお読みください。
間取りを広く取られた玄関から入り、乃梨子はぴかぴかに磨かれた廊下を歩いていた。
前を歩く志摩子さんが言った。
「ごめんなさいね。家の者は立て込んでいて、お客様のお相手ができなくて」
玄関からここまで志摩子さん以外の人は見かけていなかった。
乃梨子はただ黙って、志摩子さんの後を歩いていた。
やがて、乃梨子は広い客間に通され、すすめられるがまま上座に座った。
志摩子さんは座卓を挟んで反対側に相対して座った。
部屋には二人きり。辺りは静まり返り、鳥の囀りさえ聞こえない。
この数日間、実に色々なことがあって、志摩子さんに会うのは久しぶりのように思えた。
正直、こんな風にすんなり志摩子さんに会えるとは思っていなかったのだ。
乃梨子は改めて志摩子さんをよく観察した。
志摩子さんの着物と髪が少しだけ乱れている。
その乱れが、ピンと背筋の伸びた綺麗な姿勢と対称的で、乃梨子はどこか違和感を感じた。
「志摩子さん……その……」
「はい」
志摩子さんは静かに返事をした。
(……話をしなければ。早く終わらせるんだ)
そんな想いに突き動かされて、乃梨子は話を切り出した。
「志摩子さんは知ってるんだよね? 私が御祓いの日にあの神社の祭具殿に入ったって」
少し間を空けて、志摩子さんは言った。
「……知ってるわ」
「その、……ごめんなさい!」
そう言いながら頭をうな垂れて、土下座できるまで膝で後退して、頭を床につけた。
「知らなかったんです。あそこが入っちゃいけない場所だったなんて。あれから何日も経っちゃって、今更だけど、謝ります。本当にごめんなさい!」
「……」
言い終わっても、志摩子さんは何も言わなかった。
しばらく待って、返事が無いので乃梨子は恐る恐る頭を上げた。
「志摩子さん?」
乃梨子が顔を上げると志摩子さんは言った。
「乃梨子」
「は、はいっ」
「あなたが悪いと思って謝ったのならそれで良いわ」
「え?」
「乃梨子は別に悪いことしていないもの」
「していないって……?」
その時、乃梨子は志摩子さんに奇妙な違和感を感じていた。
なんというか、『柔らかさ』が無いというか、まるで上辺だけで話しているような掴みどころの無さというか。
「祭具殿のことは気にしなくていいのよ。確かに入ってはいけない所だったけれど、それは古いしきたりが在るからなの。別に中に見られて困るものがあるわけじゃないから……」
覇気の無い、志摩子さんの話し方を聞きながら、乃梨子は気づいた。
「志摩子さん」
「なあに?」
「どうしてさっきから私の目を見ないの?」
最初はちゃんとまっすぐ乃梨子の目を見ていた。
でも乃梨子が土下座して顔を上げてから志摩子は乃梨子の目を見ず、座卓の上に視線を向けていたのだ。
「……そんなことは無いわよ?」
そういって乃梨子の方を見る志摩子さんだけど、その視線は落ち着かなかった。
乃梨子は、そんな志摩子さんを見たくなくて自ら視線を逸らして俯いた。
「菜々ちゃんが居なくなった日、」
俯いたまま、乃梨子は話を続けた。
「志摩子さん菜々ちゃんに会ってるよね?」
志摩子さんは少し間を置いて返事をした。
「ええ。夜遅く訪ねて来たわ」
「何をしに?」
「……忘れ物を取りに来たの。翌日までにどうしても必要なものだからって」
「お祭りの日の?」
「ええ、課題のノートよ」
「課題の? 何日も経ってるのに?」
「忘れていたんですって。提出前になってやっと思い出したそうよ」
それは本当なのかも知れない。祐巳さまの推理とも合致するし。
でも。
「でも、その後何処かに出かけたよね」
乃梨子は上目遣いに様子を伺いながらそういった。
その時、志摩子さんは驚いたように目を見開いたのだ。
「夜中なのに、たった二人きりで」
「……」
志摩子さんが緊張するのが判った。
でも、やがて「ふぅ」と力を抜き、言った。
「そこまで知っていたのね」
「志摩子さんが直接手を掛けるなんて……」
「乃梨子はもう知っているのね。私が藤堂の本家を取り仕切っているって」
「うん。話は聞いた」
「そう……」
重々しく、応接室に沈黙が流れる。
「……どうして?」
乃梨子がそう聞くと志摩子さんは
「確かに、藤堂本家は今まで人道に反したことをやって来たわ」
「その本家を志摩子さんは継いだんでしょ?」
「ええ」
そう言って、また志摩子さんは黙った。
(志摩子さんはキリストの教えに傾倒していたんじゃないの?)
どうして、そんな家の跡を継いだのか?
乃梨子は志摩子に裏切られた気持ちで一杯だった。
「でも、乃梨子。これは信じて」
「なに?」
「江利子さまや山辺さん、それから蓉子さまのことは知らないのよ。藤堂家は関わっていない」
何を言うかと思えば。
「……言い訳に聞こえるかも知れないけど菜々ちゃんだって今何処にいるか判らないのよ」
乃梨子なら騙せるとでも?
本家に関わりすぎて志摩子さんは頭が悪くなってしまったのだろうか?
それとも、ここで『何か』をされたから? まさか薬?
そう思うと、さっきからおどおとしている志摩子さんがますます遠く見えてくる。
「……どうして、そんな嘘をつくの?」
「嘘じゃないわ。信じて」
いまさら、そんなこと信じろなんて言われても。
どうしてこんなになっちゃったんだろう。
こんなの志摩子さんじゃないよ……。
「……志摩子さんはもうここを離れられないの?」
「それは無理よ」
「どうしても?」
「ええ」
弱々しくはあるけど、志摩子さんは、それだけはきっぱり言い切った。
どんな理由で嘘を言うのか判らないけど、本家の人間で居つづけることは志摩子さんの意思に思えた。
乃梨子は無意識に、ロザリオを握り締めていた。
「もう、終わりにしよう」
「乃梨子?」
「これ、返します」
俯いたまま、ロザリオを外し、それを座卓の上に置いた。
「私、志摩子さんには正直に話して欲しかった……」
そう言って乃梨子はまた俯き、制服のスカートに覆われた自分の膝を見つめた。
志摩子さんが座を立つ気配がした。
話は終わった。
志摩子さんに会って話が出来て、こんな結果になって。
もう、生きてここを出られないとか、そんなことはどうでも良くなった。
乃梨子は客間で座ったままずっと俯いていた。
涙も出ない。
何で自分は存在しているのだろうって思った。
自分の存在を跡形もなく消してしまいたいって思った。
でも、乃梨子はここに居る。
ここに居るだけで、何の気力も沸かない。
顔を上げることも、立ち上がることも、鞄を取って中の物で自分の命を絶つことばかりか、志摩子さんを脅して無理やり連れ帰ることさえも。
何もかもする気になれなかった。
「……本当なの?」
「はい、どういう訳か外の連中が邪魔をしていまして、まだ二人しか……」
「私服じゃなかったの?」
なにやら緊迫したやり取りが聞こえてきた。
志摩子さんの声も、さっきと違って、張りがある。
ゆっくりと顔を上げると、話している相手は見えないが廊下の所に志摩子さんの和服と髪の毛が見えた。
「……対応はしてる?」
「何とか引き伸ばしてますが、時間の問題です」
「判ったわ。紳士的に対応して。変に妨害するとそれを理由に突入されるから。準備は大丈夫?」
「それは、前々からしてますので問題ないかと」
「幹部は中に何人?」
「葛西を含めて五人かと」
「葛西は出せない。立会いは四人。捜索はその四人の目の届く所って交渉。すぐ行って!」
「はい」
「あ、待って、若い衆にはくれぐれも手を出すなって徹底して」
「承知しました」
よくわからないが、何か起こっているようだ。
それに志摩子さんの毅然とした対応。
話に聞いていたけれど、本当に本家のトップなんだって思って、嫌になった。
と同時に、そんなことを考える気力が残っていた自分に驚いた。
「乃梨子」
「……はい?」
話が終わって志摩子さんは廊下から乃梨子に向かって言った。
「そのロザリオは保留にしてもらえる? ちょっと立て込んでしまったから」
さっきまでの志摩子さんと全然違ってた。
これが、志摩子さんの『頭首としての顔』なのだろうか。
「あなたも巻き込まれるといけないから、一緒に来て」
「うん……」
乃梨子を始末するの?
でも、どこか遠いところで起こっていることのようで、全然実感が無かった。
乃梨子は殆ど事務的に座卓の上に置いたロザリオを取ってポケットに仕舞い、志摩子さんに付いていった。
でも。
(……違う)
身体から浮遊した意識が乃梨子と一緒に歩く志摩子さんを観察していた。
和服を着て、ふわふわの巻き毛で、西洋人形のような容姿。
でも歩き方が違う。立ち振る舞いが違う。
(これは志摩子さんじゃない)
「……誰」
口をついて言葉が漏れ出した。
「なに?」
『その志摩子さん』は立ち止まらずに返事をした。
「あなたは志摩子さんじゃない」
そういうと、『それ』は平然と言った。
「……あら? 判っちゃった?」
……誰だ、こいつは?
さっきまでは様子が変でも『まだ志摩子さんだった』。
少なくとも乃梨子がロザリオを差し出す前までは。
浮遊していた意識が急激に体に戻ってきた。
乃梨子はそいつに向かって言った。
「おまえが志摩子さんをこんなにしたのか!」
「こんな? どんなよ?」
「私にあんな嘘をつくような……あんな風にっ……!」
「……」
乃梨子を観察するような視線。
志摩子さんでも朝姫さんでもない誰かがそこに居た。
「……ここで立ち話してたら不味いわ。来て」
そう言って、『そいつ』は壁の一部に見える細い隠し扉を開いた。
「おまえは誰だ! 志摩子さんを何処へやった!」
「早くして! 警察が来るわ。志摩子なら『ここ』に居る」
『ここ』に?
どういうこと?
体を横にしないと入れないような、細い階段を降りて乃梨子は地下室のような場所に案内された。
そこは畳敷きの結構広い部屋で、床の間があるのに、なぜか大型のテレビやゲーム機、漫画や週刊誌、そしてお菓子袋まで散らばっていた。
(誰かを軟禁していたの?)
それはついさっきまで誰かがいたような有様だった。
(まさか、菜々ちゃん!?)
部屋の隅には背広を着て、室内だというのにサングラスを掛けた長身の大男が携帯電話で何か話していた。
男はがっちりした体格で口髭を生やし、いかにも『その道の人』という雰囲気だった。
「葛西」
長身の男のことを、志摩子さんの姿をしたそいつはそう呼んだ。
「『お嬢』は先に逃がしました」
男は低い声でそう言った。応接室の前で聞いたのとは違う声だった。
「そう。容疑は聞いた?」
「誘拐です。容疑者は実行犯複数。不特定です」
見た目と違って話し方はとても丁寧だ。
「じゃあ、私が引っ張られるわけね」
「まさか。させません。あなたは無関係です」
「私は構わないわ。時間は稼げるでしょう?」
男はやれやれという表情をして言った。
「あなたという人は。うちの若いもんに見習わせたいですよ」
そんな会話を乃梨子の目の前でした。
全然話が見えなかった。
「……説明して。どういうことなの?」
志摩子さんの顔をして『そいつ』は乃梨子に言った。
「乃梨子ちゃん。今は説明している暇は無いの。あなたは葛西と一緒にここから脱出してもらいます」
「嫌だ!」
「どうして?」
「志摩子さんを返して!」
そう。思い出した。乃梨子は志摩子さんに会いにきたのだ。
嘘つきじゃない、偽者なんかじゃない、親友で姉で、乃梨子が一番大好きな志摩子さんに、ただ会いたかったのだ。
涙があふれてきた。
「あなたが誰だかなんてもうどうでもいい。 志摩子さんを返して! 志摩子さんに会わせて!」
そう叫んだ直後、乃梨子は志摩子さんと同じ匂いに包まれた。
「……乃梨子」
彼女が抱きしめたのだ。
「辛かったでしょう?」
乃梨子の背中を抱き、頭を撫でながら、彼女は優しい声でそう言った。
(……志摩子さんなの?)
「……もう、大丈夫だから。心配しなくていいから」
「志摩子さん、志摩子さん……」
額を彼女の肩に押し付けながら、乃梨子はその名を呼び続けた。
「葛西、乃梨子ちゃんをお願い」
「お任せください」
乃梨子は判らなくなっていた。
この人は志摩子さんなのか、志摩子さんの体に宿った別の人格なのか、それとも志摩子さんは他に居るのか。
「あ、あの!」
「なあに?」
「その、また会えますよね?」
そういうと彼女は『にぱっ』と今までで一番『良い笑顔』を見せて親指を立てた。
「私も志摩子も大丈夫さっ! ノリっちは心配しないっ!」
(やめてー)
志摩子さんの姿でそう言われて、眩暈がした。
「では。姉(あね)さんもご無事で!」
「グッドラック!」
その『姉さん』に見送られて、地下室の奥にある隠し扉から更に地下道に降りた。
そして、葛西と呼ばれた男の人の掲げる懐中電灯を頼りにそこを歩いていった。
地下道は下がむき出しの地面であまり平坦ではなかった。
しばらく無言で歩いていた男の人が言った。
「……姉さんは容疑者じゃありません。事情聴取はされても逮捕は無いでしょう」
「……?」
顔を上げて頭二つ分くらい上にあるその横顔を見上げたけど、ただ前を向いて歩いているだけでサングラスの奥の表情は判らなかった。
でも、どうやら乃梨子を安心させる為に言ってくれたことだけは判った。
また暫く黙々と歩き続けたが、乃梨子は思い切って聞いてみた。
「……あの、聞いていいですか?」
「話せることと話せないことがありますがそれで良ろしければ」
聞いてみたのは恐る恐るだったが、男はとても丁寧で紳士的だった。
「『姉さん』って何者ですか? 志摩子さんじゃ無いんですか?」
「それは私よりもお嬢ちゃんの方が良くご存知の筈です」
よく判らない。
「……それしか教えてくれないんですか」
「はい。私が姉さんに叱られてしまいます。ここを出てから『お嬢』に聞いてください」
「え? お嬢って?」
「……着きました」
そこは地下道の行き止まりだった。行き止まりは来た反対側と同じ隠し扉になっていた。
扉を出ると、ちょっと先に外の光が見えた。
「こんな所に繋がってるんだ」
「ここは抜け道の一つです」
そこには木々が生い茂った斜面で、山腹の自然の洞穴のようだった。
洞穴から出てすぐの所に誰か人が居た。
和服を着た女の人。
……いや、
「お嬢」
『お嬢』と呼ばれた彼女は顔を上げた。
「葛西さん」
「お待たせしてすみません。『姉さん』は残りました」
「そう……」
そして、彼女は乃梨子の方へ目を向けた。
「……乃梨子」
「志摩子さん……」
ゆっくりと頷く彼女は髪が乱れ、着ている着物も土で汚れていた。
でも志摩子さんだった。
「葛西さん、乃梨子と二人きりで話がしたいの」
「判りました。が、あまり時間を取れません。連絡が取れるところに行きませんと」
「五分で良いわ」
「判りました」
葛西さんは洞窟の中に戻っていった。
「あの、志摩子さん? だよね?」
「ええ」
「なんで?」
「……ごめんなさい」
まただ。『この』志摩子さんも、そんな顔をする。
「謝って欲しくない」
「ううん、私は乃梨子を追い詰めてしまった。私が悪いのよ。私の責任なの、私が……」
志摩子さんの顔が悲痛に歪む。
「志摩子さん!!」
「……ごめんなさい」
乃梨子は志摩子さんの肩を掴んで言った。
「どうしてなの? なんで謝るの? 私わからないよ! 志摩子さんなんでしょ? 本物の志摩子さんならそんな顔しないでよ!」
「……」
俯いたまま、志摩子さんは返事をしてくれなかった。
「ねえ、志摩子さん。私、志摩子さんを責めに来たんじゃ無いんだよ。本当のことを知りたかったから。志摩子さんがどうなっちゃてるのか知りたかったから」
「……して」
「え?」
「どうして?」
「どうしてって?」
「身の危険があるかもしれないのに」
「そんなの関係ないよ」
「私が乃梨子に危害を加えるって思わなかったの?」
「それは……」
そう思ってた。まだ信用しきれない要素はある。蓉子さまや菜々ちゃん、そして江利子さま……。
「そうよね。そういう風に追い詰めてしまったのは私なのだから……」
「でも! 違ったんでしょ? 私は何もされなかった。警察が来たら私をここまで逃がしてくれた! 何か事情があるんでしょ? 話してよ、それを私に教えてよ!」
志摩子さんは俯いたまま顔を横に振った。
「志摩子さん!」
「嬢ちゃん、そのくらいにしてやってくれませんか?」
葛西さんが戻ってきていた。
もう5分経ったらしい。
志摩子さんとの話は中断して、山を降りることになった。
「ここは手入れがなされていないので移動に時間が掛かります」
辺りは鬱蒼と茂った森林で、洞穴の周りの岩が露出した狭い空間以外は、蔦やら枝やら倒木やらに阻まれて道らしきものが見えなった。
「何か切り払う道具があれば良いのですが、生憎なにも……」
「あ、あります!」
乃梨子はここまで抱えてきた鞄のロックを解いて蓋を開けた。
「これは?」
サングラスで表情は判らないが、乃梨子の鞄の中を見た葛西さんがそう聞いた。
「み、見ての通りですけど……」
志摩子さんがまた悲しそうな顔をした。
葛西さんも、こんなものを隠し持って、何をしに来たと思ったであろう。
でもこう言われた。
「……流石、お嬢の見込んだお方だ。単身で乗り込んでくるだけでも肝の据わった良い娘さんだと皆で話していたのに、これ程とは」
「あ、あの?」
これ程って?
葛西さんは折り畳まれた鉈を広げ、刃を確認するように目の高さに掲げて言った。
「藤堂本家に乗り込むならこれくらい用意しませんと」
あろう事か、感心されてしまった。
「いやはや、将来が楽しみですな」
というか気に入られてしまったようだ。
葛西さんが前を歩き、鉈を振り回して道を切り開いていった。
「志摩子さん」
「……」
乃梨子は志摩子さんとしっかり手を繋ぎ、葛西さんが切り開く道を歩いていった。
志摩子さんは俯いたままだったけど、手だけは握り返してくれていた。
「よっ! はっ!」
でも、両手で鉈を持ち、ブンと空気を切る音を響かせて鉈を振るう葛西さんはどこか楽しげで、乃梨子は引き気味だった。
森を抜けると車が通れる程の山道に出た。でも道は両側森でまだ山の中だった。
葛西さんは森を抜けたところ鉈を乃梨子返してくれた。もういらないのに、とも思ったが、学校の備品なので元通り鞄の中に収めた。
「志摩子さん、大丈夫? 疲れてない?」
「……ええ」
元気が無い志摩子さんだけど、足取りはしっかりしていた。
道に出てから、葛西さんは携帯電話を取り出して何処かに電話をした。
「もしもし……葛西です。……はい、はい。……ええ!?」
どうやら、電話が通じないのはあの洞穴の周辺だけのようだった。おそらく山の影になっているとかであろう。
電話を終えて、葛西さんは志摩子さんに言った。
「お嬢、捜索は中止されたそうです」
「中止?」
「はい、捜索が始まる前に本署から連絡があったようで、お客さんは敷居を跨がず終いだそうです」
「そうだったの……」
なにやら目まぐるしい展開だったけど、情報を整理すると、さっき警察が誘拐の容疑で藤堂本家に強制捜索に来て、今、それが急に中止になったってことらしい。
「ただ、ちょっと良くないことも判りました」
「良くないことって?」
「数日前から本家の前に張ってた連中、ありゃ、小笠原です」
「小笠原?」
小笠原って言ったら祥子さまの?
前に張っていたというのは、来る時に見た、表に停まってた黒塗りの車?
「はい、捜索の中止は小笠原融の仕業のようです」
「……もしかして、祥子さまのお父様?」
思わず乃梨子はそう口を挟んだ。
「ええ、そうよ」
「おや、小笠原の一人娘をご存知で?」
「ええ、乃梨子も私も学校ではとてもお世話になってます」
「そうでしたか……しかし今回の件で藤堂本家は小笠原に大きな借りが出来てしまいました。今までは藤堂は裏の世界、小笠原は表の世界と住み分けて互いに干渉しないのが暗黙の了解でしたが、これからはそうも言ってられなくなります」
「ええと、そんなに大きな借りなんですか?」
何も知らない乃梨子は思わずまた聞いてしまった。
「それはそうです。今まで一度たりとも権力の介入を許さなかった藤堂本家の始まって以来の危機ですから」
「ええと、誰かが捕まって『お勤め』してきて『ご苦労さん』って話じゃないんですか?」
詳しいわけではないが、そっちの世界ではそういうものだという話をよく聞く。
「いいえ、今回警察は本家潰しを目論んでいました。捜査員の数が半端じゃない。おそらく今回を切欠に世論を誘導して、なし崩しに幹部から頭首まで全員逮捕を狙っていたのでしょう。連中はその辺のヤクザよりたちが悪いんですよ」
「そんなに……」
なんか凄まじい世界だ。
「今回で小笠原は貸しを作っただけでなく、さじ加減一つでいつでも藤堂を潰せることえを明示してきました」
「じゃあ、事あるごとに干渉してくる?」
「これからはやりにくくなります……」
そこで、志摩子さんが割り込んで言った。
「葛西さん止めてください。乃梨子もこれ以上藤堂に関わらないで」
「志摩子さん……」
「いや、すみません。出すぎた真似をしました」
屈強な大の男が志摩子さんにぺこぺこしている。
この男の話を聞いて、なんとなく志摩子さんの背負っているものの大きさが見えた気がした。
志摩子さんは言った。
「迎えは?」
「向かっているそうです」
「そう……」
まだ時間はありそうだ。
乃梨子は言った。
「志摩子さん」
「はい」
「まだ、答えを聞いていないよ?」
「そうだったわね……」
また、志摩子さんは悲しそうな辛そうな顔をした。
でも聞かないわけにはいかなかった。ここで聞かなければ先に進めない。
志摩子さんに辿りつけない。志摩子さんはここに居るのに、そんな気がしていた。
「……江利子さんと山辺さんを殺したの? 蓉子さま何処かに隠したのは? 菜々ちゃんは?」
志摩子さんは俯き、黙って首を横に振った。
「じゃあ誰が!」
ここで葛西さんが口を挟んだ。
「お嬢、これは私の考えですが……」
「葛西さん、それは言わないで」
志摩子さんは強い口調で制止した。
「はい、じゃあお嬢も、そう思ってるんですね」
「葛西さん!」
「いや、失礼しました」
「なに?」
乃梨子には話が見えない。
「乃梨子は知らなくても良い事よ」
「どうして! なんで志摩子さんは私に隠し事をするの?」
志摩子さんは辛そうな顔をした。
でも言ってくれなきゃ判らないよ。
「私、志摩子さんと親友だよね? 姉妹(スール)だよね?」
志摩子さんから返事は無かった。
そんな泣きそうな顔をしているのになんで?
「隠し事なんてよそうよ。私のこともっと信用してよ!」
「……親友だから。私は乃梨子の姉だからよ」
「判らないよ。私、志摩子さんがわからない!!」
やっぱり、もう駄目なの?
乃梨子は走り出した。
誰も居ない、全然車も通らなかった道だったけど、乃梨子の走る前方からに濃いグレーの車がやってきて、乃梨子のすぐ側で停まった。
乃梨子は車の横を駆け抜けようとして、
「乃梨子ちゃん」
車の中から声をかけられ立ち止まった。
「聖さま……」
聖さまは乃梨子の泣き顔を見て言った。
「伝言は、伝えられなかったみたいね」
「……直接伝えてください。すぐそこに居ますから」
「乗って」
「……はい」
スモークがかかってよく見えなかったが車には聖さまの他にも人が乗っていた。
後部座席は満員のようなので、乃梨子は聖さまの車の助手席に乗り込んだ。
興味も無かったので、乃梨子は後ろの人物には注意を払わなかった。
何もかもが嫌になった。
このまま消えてなくなりたい。そんな気持ちがまた沸き起こっていた。
「志摩子に何か言わなくて良いの?」
志摩子さんは道の向こうでこちらを見つめていた。
「聖さまは伝言がありますよね」
「私は良いわ」
そして、車が徐行して、葛西さんと志摩子さんの前を通過する時、志摩子さんは聖さまに向かって深々と頭を下げていた。
† † †
一日目、某年、御払いの法要の日。
鳥居江利子・山辺氏
二日目、法要の翌日、時刻不明。
藤沢朝姫
同日、夜。
水野蓉子
三日目、同じく夜。
有馬菜々
五日目、正午過ぎ。
二条乃梨子
(乃梨子編 完)
それは小さな不安だった。
求めたものは小さな幸せ
背負ったものは大きな十字架
小さな胸に秘められた
小さな想いと大きな枷と
『真・マリア転生 リリアン黙示録』 【No:2155】から続きます。
「祐巳さま、また何か来ます」
既に一戦闘終わった後で、微妙にまったりムードに入りかけていた矢先、可南子が空を見上げて言った。その視線を追った瞳子の顔が引き締まる。
3人の前にふわりと舞い降りたのは、白い翼を持つ女性の姿をした存在だった。
「わ、天使だ」
祐巳が感嘆の声をあげる。
天使『エンジェル』。天使の中では最下級とはいえ、人間にとっては畏怖すべき存在であることに変わりはない。その天使が、祐巳達に問うた。
「ここを襲ったのはお前達ですか?」
ここ、とはすなわちロウの施設があった場所だ。
「ち、違います。私たちが来た時にはもう、」
「いずれにしろ、志を違える者のようですね。この地はロウの統べる地。それ以外の存在は許されません」
問答無用!?
「まあ、元々天使は頭が固いですし。今日は満月ですからね。私もちょっと血が騒ぎます」
そう言って瞳子は薄く笑った。
「可南子さんも血が騒いでいるらしいですわね」
「って、可南子ちゃん!」
襲いかかろうとしていた天使の気勢を制するように、可南子は自らしかけていた。いつものことではあるが。
「先制防衛です」
それはどこの由乃さんだ。
「っていうかそんな言葉無いよ! 専守防衛だから! それ先に手を出しちゃいけないっていうのだから!」
「いずれにしろ、向こうはヤル気ですから同じことですよ」
瞳子がとりなすように口をはさんだ。
「だって天使だよ?」
「悪魔ですよ」
「う、いや、そうなんだけど」
本来この世界の存在ではないもの、人ならざるものの総称を悪魔という。言葉の問題だとはわかってはいても、天使を悪魔と呼ぶのにいまだ抵抗のある祐巳である。
「祐巳さまに仇なすものなど悪魔で充分です」
そう言って、天使とのタイマンに突入する可南子。
「あああああああ……」
「では祐巳さまは、」
あたふたする祐巳に対し、瞳子はいつも通り、戦いに参加する気をまったく見せずに祐巳に問いかけた。
「どんなものなら悪魔と呼んでも気にならないのですか?」
「え? えーと、だから……魔王とか? ほら、由乃さんのところに現れた明日ハレルヤ? とかなんとか」
「アスタロトです! 似ても似つかないじゃないですか!」
「そ、そうそう、それそれ」
はあ、とため息をついて、瞳子は言った。
「アスタロトの由来をご存知ですか?」
「へ? 由来?」
「こういった神話や伝承の類については、いろいろな説がありますから一概には言えませんけれど、アスタロトは元々バビロニアの美と戦の女神イシュタルが凋落した姿だと言われています」
「め、女神?」
「魔界に堕とされる際、パレスチナの男神アシュタルと合体させられた姿がアスタロトだという説もあります」
「それって単に間違えたんじゃ……」
「さらにその前身はフェニキアの女神アスタルテであり、シュメールに渡るとイナンナと呼ばれることになります」
「えっ? えっ?」
「ギリシャ神話のアフロディーテと同一視されることもあります。ローマ神話ではウェヌスで、その英語名がヴィーナスです。名前が変わった段階で別の存在になったと考えるべきなのかもしれませんけど、このへんの解釈はいろいろあって……」
祐巳が???な表情からもはやまったく話についてこれずにほけーっとした表情になっていることに気付いて、瞳子は言葉を切った。
「祐巳さま?」
「うぁ? うん、く、詳しいね」
「常識です」
「そ、そう? どこの常識――」
メガテンの常識?
こほん、と咳払いをして瞳子は話を続けた。
「つまりです。アスタロトが本来は美の女神であったように、現在悪魔と呼ばれているものにはかつては神や天使だったものが少なくないんです」
「な、なんでそんなことに?」
「神は唯一にして絶対の存在。ですから他に神と呼ばれるものが存在しては都合が悪いと考えた者がいたのかもしれませんね」
「……………宗教戦争?」
祐巳の表情を見て、瞳子はひょいと肩をすくめると、ことさら軽い調子で言った。
「神を追われたものの中には、生贄を要求するような、神は神でも邪神と呼ばれるようなものもいましたし、いまだに悪魔とされたものを自分たちの神として崇めている人達も少なくないんです。悪魔、邪神の類を神と崇めることも、天使を悪魔と呼ぶことも大した違いはありません。というお話でした」
ぱんっと手を打ち話を切り上げる瞳子。
「あまり二人で話していると、可南子さんがうるさそうですし」
「あっ」
二人がおしゃべりをしている間に一人で天使を倒してしまった可南子が憮然とした表情で近づいて来ていた。
「ご、ごめんね、可南子ちゃん」
「いえ、祐巳さまはいいんですよ、祐巳さまは」
「そうですよ。祐巳さまの為に戦えて可南子さんも本望でしょうから」
「そのとおりだけど、戦闘で役立たずのあなたに言われると何だか腹が立つわね」
「なんですって?」
「え、えーと………」
とりあえず声をかけたもののそこで言葉をとぎらせる祐巳だったが、突然ぽんと手を打った。
「そ、そうだ瞳子ちゃん。気になってたんだけど、その呼び方」
「は?」
「だからもうそろそろ呼び方をね?」
「なんですか?」
何か言いたげな顔をしていた祐巳は、突然何か良いことを思い付いたという表情をして瞳子にすごく嬉しそうな笑顔を向けた。
きっとろくでもないことに違いない、と瞳子は思った。
「私、今後、瞳子に『祐巳さま』と呼ばれても返事をしないことにしたから」
祐巳はなぜか少し得意げに胸をはった。
「はあ? 何、わけわからないことを言ってるんですか?」
あれ? という表情になる祐巳。何かひどく当てが外れたという顔だ。
「え、いや、だからね。ほら、呼び方――」
「もう暗いですし、またやっかいなのが来ないうちに早くここを離れましょう」
そう言って瞳子はくるりと背を向けた。
瞳子は胸元に手をやった。それに手を当てて気を落ち着ける。
それは瞳子にとっては大切なお守りになっていた。
瞳子の首には祐巳から貰ったロザリオがかかっている。それは祐巳に同行する際、報酬として受け取ったものだ。
だからいわゆるスールの契りとしてのロザリオの授受なんていうものではなかったし、二人が姉妹だ、ということにはならないのだ。
それでも、それは瞳子にとっては大切なものだった。
それでよかった。
それだけでよかった。
それなのに。
「ちょっと待ってよ」
意を決したように祐巳は言った。
「ロザリオを渡してからもう結構立つんだよ。いいかげん、ちゃんとお姉さまって呼んでちょうだい」
「さっきから何を言っているんですか?」
「ちょっとあなた……」
瞳子の言い様に、思わず口をはさむ可南子。
「これは私が祐巳さまに同行する際にその報酬としていただいた物です。妹になった憶えなどありませんわ」
「え?」
……………そういえば、確かにあの時祐巳も瞳子も妹という言葉は一度も使っていなかった。
「あれぇ?」
今更気付く驚愕の事実。
さすがに可南子も驚いた顔をしていた。あるいは呆れていたのかもしれないが。
「じゃ、じゃあ瞳子ちゃん。妹になってください」
「おことわりします」
慌てて言った祐巳に、つい、条件反射で否定してしまった瞳子である。
「ちょっと、松平瞳子!」
なぜかフルネームで呼ぶ可南子。
「これは私と祐巳さまの問題です。口を出さないでください!」
「っ!」
口を出さないと二人して自爆大会になりそうなのだが、瞳子のその言葉はまさしく正論だったから可南子は仕方なく口をつぐんだ。
代わってへこんだ様子の祐巳が言う。
「瞳子ちゃん私のこと嫌ってる?」
「……………」
バカじゃないだろうかこの人は。
嫌っている人間にわざわざ付いてくると本気で思っているのだろうか。
まったく、何を考えているのかわからない。
何故、よりによって瞳子を選ぶのか。
「私には、祐巳さまの妹になる資格はありません」
「資格? 私が妹になって欲しいと思うこと以外に何か必要なものがあるの?」
「そういう次元の問題ではありません」
「どういう次元の問題?」
「………とにかく、私にはそんな価値はありませんから」
「だから価値って、」
激昂しかけて、祐巳は大きく息をはいた。
「瞳子ちゃんの言う資格とか価値とかよくわからないし、何か事情があるのかもしれないけど、それは私にとってはどうでもいいの」
「私の事情はおかまいなしですか?」
「かまうし、話してくれるなら聞くよ?」
「……………」
「私は、瞳子ちゃんが瞳子ちゃんでありさえすれば、それでいい」
おめでたい。
私が私でありさえすれば?
瞳子は嗤った。
私のことなんて何にも知らないくせに。
「祐巳さまの言う私とはどんな私ですか? いったい私の何がわかると言うのですか」
「なんでもいいの! 瞳子ちゃんなら! だって瞳子ちゃんは瞳子ちゃんなんだもん」
……………ああ、つまり何も考えてないんですね。
そういう問題じゃないんです。
いや、まさにそれこそが問題なのだけれど。
私が私でありさえすればいい。
本当にそれだけで? そのことに意味なんてあるのだろうか。
「あのね、いろいろあったから私も姉妹についていろいろ考えたんだけど、結局姉妹になるのに一番大切なことって、お互いがお互いを好きっていう、それだけだと思うの」
信じていいのだろうか。その言葉を。
信じられる。と理性は言った。この人はまっすぐなひとだから。
信じたくない。と感情は言った。信じることが怖かったから。
「私は瞳子ちゃんが好き。大好き。妹になって欲しいのは瞳子ちゃんだけなの」
応えていいのだろうか。この想いに。
私はなんの為について来たのか。祐巳さまのそばで、その行く末を見届けたいと思ったから? 違う。そんな理由どうでもいい。
私はただ、祐巳さまと一緒にいたかっただけだ。
「だから、これはすごく単純な2択だよ。私のことを好きでいてくれるなら応えて。そうでないなら断って」
そう言って、祐巳は大きく息を吸うとまっすぐに瞳子を目を見て、そして言った。
「瞳子ちゃん。私の妹になってください」
そんな言い方はずるいと思う。
これでは、断ったら好きではないということになってしまうではないか。
祐巳さまを好きか? そんなの選ぶまでもない。
お姉さまになって欲しい人? 2択ですらなかった。
本当に私でいいのだろうかという想いは常にある。けれど選んだのは祐巳さまなのだ。付いて来たのは瞳子の意思だ。
だから信じろ。祐巳さまを。そして信じろ。祐巳さまが選んでくれた瞳子自身を。
「お受けします」
「ありがとう」
祐巳は、とても嬉しそうに微笑んだ。
瞳子に手を伸ばしかけて、ふと動きを止めて少し気まずそうな顔をした。
「どうしたんですか?」
「もうロザリオ渡しちゃってたんだっけ」
それを聞いて、瞳子は思わず笑ったしまった。
そして首からかかっていたロザリオを外して祐巳へと差し出す。
「?」
わけがわからないという表情の祐巳に、笑顔で言った。
「かけてください」
「あ、うん!」
あの時は手渡しだった。
だから、今度はちゃんと。
ドリルにひっかからないように、と思った言葉をあわてて頭の中で打ち消して、祐巳は細心の注意を払って瞳子の首にロザリオをかけた。
瞳子はロザリオの十字架の部分にそっと手を添える。
「これからもよろしくね。瞳子」
「はい。こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。………お姉さま」
祐巳はそっと手を伸ばして瞳子の頬に触れた。
瞳子はその手に頬をゆだねて、目を閉じた。
たとえこの先何があろうとも、この瞬間だけは絶対に忘れない。
それは瞳子が祐巳の妹になった日。
月と、細川可南子だけが二人を見ていた。
「……………というか、私のこと、完全に忘れてますよね?」
「祐巳、ご飯だよ」
ドアの向こうから祐麒の声が聞こえた。
「食べたくない」
「でも、」
「食べたくないのっ」
「わ、わかった。置いておくから食べたくなったら食べなよ」
そのすこし後に階段を下りていく音が聞こえた。
「ごめんなさい」
祐巳は、写真立てを抱きしめながら、そう呟いた。
「私は人を殺した」
葬儀から何日たったのだろう?
あの時からの記憶があまりない。
どうやって帰ったのだろう?
いつ寝たのだろう?
いつ着替えたのだろう?
いつ・・・・・・?
・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・
でも、これだけは覚えてる。
いや、忘れなれない。
そう、あの・・・・・・音は。
何が悪かったのだろう?
私があの時走らなければよかったんだ。
私は、瞳子ちゃんに嫉妬していたのかもしれない。
それ以上に信じていたものに裏切られた、そう思った。
でも、でも。
私はどうすればよかったのだろう。
あの時もっと遅く玄関に行ってれば。
あの時走らなければ。
会っていなければ。
リリアンに行っていなければ。
いや、私が生まれてこなければよかったのだ。
なんで、あの時走ってしまったの。
走らなければ追いかけてくることも無かったのに。
そう、そうすればあの人が車にぶつかる音が聞こえなかったのに。
投げ飛ばされた鞄
紅く染まっていく制服
ねじ曲がった腕
擦られた足
裂けた体
広がっていく血だまり
どす黒く染まった私の手
服
髪
私の手は血に染まった。
私は人を殺した
最愛の人を殺した。
私はどうすれは良いのですか?
「お姉さま」
ロザリオは手から滑り落ちた。。
ト書き
微妙。ホントは動作の描写を入れたかったんですが書いてるうちに祐巳の独想に
になってしまいました。
いや、力不足をひしひしと感じてしまいました。
話は変わりますが、がちゃがちゃSS内で何かイベントをしませんか。
たとえば題目小説とかリレー小説とか。
ご意見お願いします
【No:2153】の続きになります。
キャラやや壊れ気味。
細川祐巳、彼女には最愛の姉細川可南子がいる。
今日も今日とて可南子はその長身を生かし祐巳を膝にのせ抱きかかえている。
祐巳からその顔は見えないがはっきりいってイタい人にしか見えない。
それでも祐巳も幸せそうなのでいいとしよう。
………そう、ここが薔薇の館でなければ。
「可南子、ここは薔薇の館よ。遊びにくるところじゃなくってよ」
こめかみのあたりを震わせながら可南子を睨みつける祥子だが
「ご、ごめんなさい祥子さま」
と勘違いした祐巳に泣かれる始末である。
「よしよし。これで怖い怖い祥子は見えないわよ」
と可南子は祐巳の体を180度入れ替えて正面から抱きつく。
祐巳を抱きしめる可南子の口もとがつり上がったのは幻覚では無いだろう。
そしてそんな仲のよい姉妹の姿を見せ付けられる形になった祥子は本日最初のハンカチを破くことになった。
可南子と祥子は何も初めから仲が悪かったわけではない。むしろ仲良しさん、親友さんなのだ。
二人とも極度の男嫌いのためか高校からの可南子と生粋のリリアンっ子の祥子とでもかなり気があったのだ。
しかし、今年になってそれも変わった。
祐巳の入学だ。
一目惚れだった。一撃だった。最高だった。
祥子はどうして一年遅く生まれてこなかったのかこの時ほど自分の身を嘆いた時は無かった。
祥子は祐巳を妹にしようとしているがそれは無理だ。
なぜなら祥子にはもう妹がいるからである。
「ごきげんよう。祥子お姉さま」
紅薔薇である祥子の妹、紅薔薇の蕾、松平瞳子である。
「ごきげんよう、瞳子」
「ごきげんよう、瞳子ちゃん」
「ごきげんよう、瞳子さま」
順に祥子、可南子、祐巳である。
瞳子は顔を紅くしながら祐巳を見つけて一言
「祐巳、瞳子のいもうとバァッ!!」
瞳子は言い切る前に祥子に飛ばされ。
「どうしたの瞳子。そんなところで寝ていると……」
「ごきげんよう」
ばたん!
ごきん
「暴走列車にひかれるわよ」
瞳子の首は突如現れたリリアンの暴走列車、ブレーキの壊れたダンプ、核弾頭という不名誉極まりない二つ名をもつ黄薔薇である島津由乃によって曲がってはいけない方向に曲がっている。
「大丈夫ですか瞳子さま」
祐巳が心配そうに瞳子に声をかけると
「大丈夫ですわ!」
と強がってしまうも、顔がにやけてしまうほぼツンなしデレだけな瞳子だった。
そうはいいながらも首のあたりをさする祐巳を止めないあたりいかに祐巳に入れ込んでいるかが分かる所である。
「祐巳、そんなことはしなくてもいいのよ」
「そうよ、瞳子ちゃんの首は超合金ニューZ並なんだから」
「さっさと祐巳ちゃんから離れなさい!瞳子!」
しかし、そこは既に祐巳に魅了されてしまった山百合会、2年の瞳子は三年たちに逆らう力はないため、すぐさま可南子に祐巳をひっぺがされてしまった。
「いい祐巳?あんな髪型がどりるな子と一緒にいたらあなたまでどりるになってしまうのよ」
「なっ!可南子様は人を酷く言うような方なのですわね。こうまで姉妹で違うものなのですわね。祐巳、そんな人を姉に持つとロクな大人になれませんわ!ということで私のろざりぶぉっ!」
再び祥子に吹き飛ばされる瞳子。
というかあの二人は本当に姉妹なのだろうか?
「いやー本当ににおもしろいわね〜」
「笑いごとじゃなくってよ、由乃」
いつのまにやら由乃が全員分の紅茶を淹れていたのか祥子や可南子も紅茶を飲んでいる。可南子は当然祐巳抱っこ状態で、祥子は瞳子放置の方向で。
体が痙攣し始めている瞳子を見て祐巳はおろおろするばかりだが、みな口を揃えてどりるが動いているだけといい、押し切られてしまった。
「「ごきげんよう」」
瞳子がいまだ痙攣し続けるなか薔薇の館に続けてやって来たのは白薔薇姉妹、二条乃梨子と藤堂志摩子だ。
「と、瞳子、一体どうしたのよ…」
地べたに伏せて痙攣している瞳子をみてかけよる乃梨子。
唯一自分を真面目に心配してくれる乃梨子の姿に感極まったのか涙声で
「乃梨子さま…」
と言う瞳子だが
「そんなにどりるをぎゅいんぎゅいん言わせてどうしたのよ」
という一言によって完全に動かなくなった。
それでもやっぱり山百合会は彼女を放置の方向で。
そんな紆余曲折があって会議は順調?(てか会議してたのか?)におわり皆で紅茶を飲みながら雑談に興じていた。
そして、そこで核弾頭がうちこまれた。
「ねえ、祐巳ちゃんはお姉さまは欲しくないの?」
由乃の何気ない…いや限りなく悪意に満ちた一言によって山百合会は世界のどこよりも危険な戦場になることが決定した。
「祐巳の姉は私一人で十分よ」
「あら、そんなことはなくってよ。いつもとは違う環境にいることも大切よ祐巳ちゃん」
可南子と祥子は祐巳を挟んで視線をぶつけ合う。
「ねえ、志摩子は誰か妹候補はいるの?」
「妹候補ですか?まだこれといっては…今はお姉さまがいますから」
「し、志摩子…!」
まだ妹ばなれ…というか実際彼女が彼女を妹にしたのは1ヶ月にもみたないのだから(前話参照)それも仕方ないだろう。
「でも、少しだけ気になる子はいますわ」
そう言って穏やかに微笑む志摩子に乃梨子は心中穏やかではない。
「ねえ、その子の名前は?」
「佐藤聖という子です」
がーんという音が聞こえそうなほど乃梨子は落ち込んでいた。
「祐巳は私の妹よ!」
「いいえ、私が祐巳ちゃんの姉になるわ」
果てなき二人の言い争いに怯える祐巳は由乃に抱きかかえられていた。
妹の令が部活で居ないためか手持ち無沙汰でからかう相手が欲しかったのだろう。
まるでどこかの世界の黄薔薇さまそっくりだ。
「ねえ、祐巳ちゃんは令の妹になる気はないの?」
「由乃、あなた抜け駆けする気?」
「そうよ、祐巳ちゃんを妹にしたいなら正々堂々と勝負よ」
いつの間にか争いを止め、由乃にくってかかる二人。
「私は遠慮するわ。それより、結局どうなったのよ?」
「「…………」」
数秒の沈黙があって再び祐巳争奪戦が始まってしまった。
「あの子は紅薔薇家(というか私のもの)にふさわしい子よ」
「なにを根拠に…片腹痛いわね」
「な、何ですって?」
ハンカチを今にも破こうとする祥子に可南子は意地の悪い笑みを浮かべた。
「ふっ、祥子敗れたり。あなたは祐巳と一緒にお風呂に入ったことはあるかしら?」
「な!祐巳ちゃんとお風呂ですって…!な、なんてうらやましい!」
「あまつさえ体を洗いっこしたことは?」
「洗いっこ…ずるいわよ」
少しずつ祥子の声が小さくなっていく。「祐巳と同じ布団で寝たことは?祐巳の着替えを手伝ってあげたことは?祐巳を看病したことは?されたことはあるかしら?」
「布団…着替え…看病……」
がくりと地面に崩れ落ちる祥子。
「ふ…虚しい勝利ね」
「当たり前じゃない。可南子は祐巳ちゃんの実姉なんだから。まあ、勝負に乗った祥子がわるいか…」
「あの…祥子さま大丈夫ですか?」
心配した祐巳が祥子に駆け寄る。
「ありがとう。祐巳ちゃんは優しいのね」
なでなで
ぎゅむ
ごちん!
「なに調子に乗ってるのよ祥子!」
「まあ、可南子は怖いわね祐巳ちゃん、ああいう人になってはだめよ」
「祥子ぉっ!」
どたばたどたばた
ぎゃーすぎゃーす
…………………
「「はぁ……はぁっ…」」
「で、結局決着つかないのね。さっさとケリつけなさいよ祥子、可南子」
「ええ、そうね。まあどちらが勝かは目に見えているけど」
「ほざきなさい、祥子。自分の無能さをしるだけよ」
互いに不敵に笑う。
「「祐巳(ちゃん)どちらがいいの?」」
「えっ?そんなどちらっていわれても…」
もはや由乃並にブレーキが効かなくなってしまった二人は祐巳を挟む形のまま、上から見下ろすように言った。
そんな二人の姿に驚く祐巳だがそこは我らが狸姫。ニコニコしながらマスドライバーを打ち込む。
「お姉ちゃんも祥子さまも大好きですよ」
ばたっ!×2
「ど、どどど、どうしたんですか!?」
「あ〜祐巳ちゃんは自分の破壊力を分かってないわね」
床を真っ赤液体で染める祥子と可南子をみてかたをすくめながら由乃は呟いた。
祐巳争奪戦
祥子VS可南子
勝者、祐巳
決め手、上目遣いで好き発言。
うーん、間が空きすぎ…てか一回投稿したのに反映されないてなに?
携帯でやってるからコピーできなくて結局新しい話になってもうた…orz
※未使用キー限定タイトル1発決めキャンペーン第12弾
タイトルからして少しおかしいですが気にしてはいけません(何
☆
最近の令ちゃんは連日受験勉強を頑張っている。ならばやはり応援したりするのが妹の務めではないだろうか。
ということで。
「令ちゃん、夜食作ってきたよ」
「あ、由乃。わざわざありがとう……って、何これ?」
「グラタンよ」
「グラタンねぇ……」
疑いの目を向ける令ちゃん。まあ確かに由乃もこんな赤いものを出されてグラタンと言われれば首をかしげるかもしれないけれど。
「ちょっと分量間違えちゃったけど、ちゃんとしたミートグラタンよ。お母さんにも見てもらったし」
「そう。なら大丈夫ね」
「なら大丈夫って何よ」
「ごめんごめん。じゃあ早速……」
「どうぞ召し上がれ」
そりゃ確かに由乃は料理が得意な方じゃないけれど、仮にも妹の作ってきた料理なんだから。まずは素直に一口食べてみるのが姉じゃないのとか思ったのだけれど。
「どう、令ちゃん」
「……からーい」
「ええっ……うわっ、これ失敗作の方だ」
「そ、そうだったの……」
「ごめん令ちゃん、すぐに成功した方持ってくるから」
「う、うん」
令ちゃんの言うとおり、真っ赤なグラタンはとんでもなく辛かった。思い立ったら即行動の由乃が最初に作ったこの失敗作はお肉に大量の豆板醤を入れてしまって、成功作は見かねたお母さんに手伝ってもらってどうにか完成したのだった。どちらもお肉を大量に入れてしまったから見た目では判断が付きにくい。
「ということで今度は成功作の方よ。はい、あーん」
「ち、ちょっと由乃。恥ずかしいってば」
「どうして? 誰も見てないわよ」
「見て無くても恥ずかしいものは恥ずかしいの」
「いいじゃない、減るもんじゃないし。それとも私の作った料理は食べられないとでも言うつもり」
「そんなことないよ。食べる、食べるから」
「じゃ、あーん」
「だから、自分で食べられるってば」
「令ちゃん、私のこと嫌い?」
「そんなことないから。ああもう、分かったよ」
怒っている風に言われても、表情を見れば照れてるのは丸わかり。なんだかんだ言ってもこういうところは可愛いんだから。
「どう?」
「うん、おいしい」
「よかったぁ」
こっちも不味いって言われたらどうしようかとも思ったけれど、そこはお母さんパワーのおかげもあって大丈夫だったようだ。
でもって最近受験勉強で構ってもらえないから本当はもう少し甘えたかったけど、邪魔したらいけないから食べ終わったお皿を持って早々に引き下がった。でも今日のことで不安になったのか、今後時間があるときに料理を教えてもらえることになった。これでこそ失敗作を「わざと」持って行った甲斐があるというもの。令ちゃんにもう少し甘えられると思うと、思わず顔がにやけてしまう由乃だった。だって、なんだかんだ言ってもやっぱり由乃は令ちゃんが大好きだから。
銃弾が飛び込んできた。
どすどすという轟音で蹂躙し、バンと扉を叩き付け、突入してきたその後輩は鬼気迫る顔であった。
そしてその突撃兵から飛び出た言葉は爆弾に等しく、また端から見ると無謀な突撃だった。
「妹にしていただけませんか?」
その直撃を食らった戦友は目を白黒させて唖然とするばかり。周りの親衛隊が先に我に返り、何言ってるの、この娘、という表情をするが、場の空気に飲まれ微動だにできずにいた。状況把握が正常にできないなりに今こそ天王山ということは判るらしい。張り詰めた静寂の中、後ろ手で速記する記者の筆記音だけが木霊する。
「うん、いいよ」
戦友が頷く。短い答礼であったが、その重さは食らった者のみ知るのだろう。
その突撃兵はぽろぽろと涙を零した。涙に混じって何かを伝達しようとするが重症を負ったかのごとく、やっと口を開いても声にならない空気が漏れるばかり。友はそれでも意思を捕捉可能らしく、肩を抱いて優しい笑顔で頷く。
ぽろぽろぽろぽろ。
友が掌で背を摩擦しようとも、友の敬愛する上官が宥めても、突撃兵の戦友が駆け付け渇を入れても。いや突撃兵の戦友は戦力になっていない。友の胸中が判るのか、励ましてるうちに共に感涙に咽びだしてしまったのだから。
いずれにせよ、緊張していた親衛隊も含め当該エリアの全員が無力化してしまった。
その後、戦線復帰に多大な時間を消費したのは言うまでもない。
私は呆れて、由乃の日記帳を閉じた。
時代小説や推理小説によって本棚の端に追いやられていた由乃の日記帳が、珍しく一週間ものあいだ机の上にあったのだ。気にせずにいられる訳があろうはずもない。
それで、ちょっと読ませて貰ったら、こんな日記である。
私は溜息をついて日記帳を机に戻すと、ベッドにちょこんと腰掛けた由乃の隣に座った。
「由乃は祐巳ちゃんの佳き日が嬉しくて、それを思い出に残そうと思ったんでしょう? だったら、こんな茶化して書くのはよくないよ」
「……んだもん」
由乃は下を向いて、ごにょごにょと言った。
とりあえず反発してくるだろうと覚悟していたので、少し拍子抜けだった。それどころか、なんだかすごく力ない様子に心配になってしまう。
由乃は最初、顔を見られまいと顔を背けていたが、私がしつこく「どうしたの?」とか、「ひょっとして身体の調子が悪いの?」とか聞いてしまったものだから、とうとう仕方なく理由を白状した。
「だって普通に書こうとしたら思い出しちゃって。涙が止まらなくなって1文字も書けなかったんだもん。悪い?!」
口をへの字にしてそっぽを向く、由乃の顔は真っ赤だった。私は戸惑って思わず呟いてしまった。
「ひょっとして……ずっと?」
「どうして令ちゃんは、そうデリカシー無いこと聞くの? そうよ。先週からずっとよ。令ちゃんのバカ!!」
その後、由乃の機嫌を取るのに多大な時間を消費したのは言うまでもない。
乃梨子編【No:2162】【No:2165】【No:2168】【No:2173】
『後味悪い』朝姫編:序章/『志摩子のそっくりさん』第三章の1
そっくりさんの方は読んでなくても判ると思います。オリキャラ視点ですのでマリみてキャラ以外読みたくない方はご注意ください。
「朝姫(あさひ)ちゃん! 朝姫ちゃんよね、あなた」
「え?」
街中で声をかけられるこのパターンは、以前もあった気がした。
「私よ。わ・た・し」
とある日曜日、朝姫がK駅の繁華街をひとりで歩いていたのは、会う約束だった友人との約束が流れたせいだった。
その友人とは、最近何かと関わりのあるリリアンの人たちではなく、朝姫の通う“坂女”の方の悪友の一人。
美容師志望で、朝姫の髪型を志摩子さんと同じにしてくれたクラスメイトだ。
これは志摩子さんと知り合った後で知ったことだが、その美容師志望の彼女は、朝姫の髪をいじる前に志摩子さんを見たことがあったそうだ。
いくら顔がそっくりといっても髪型まで同じなんて話が出来すぎてると思っていたのだけど、それを聞いて朝姫は納得したものだった。
今日はその美容師の練習台になるために彼女の家に行くはずだったのだ。
その彼女から「都合が悪くなった」と連絡を受けたのは待ち合わせの駅へ向かう電車の中のことだった。
ここまで来たのにそれはないでしょう、と思ったが、余程の事なのであろう、必ず埋め合わせはするから今日のところは許してほしいと言ってきた。
そして、電話を切ってから、どうしたものかと思っていた時、『次はK駅』と知らせる車内アナウンスが聞こえてきたのだ。
直線距離でリリアンに近いとはいえ、坂女に通う学生達は皆、私鉄の駅を利用する。例に違わず朝姫も私鉄で通学しているので、あまりK駅には来たことが無かった。
とはいえ、朝姫は隣接して大きな公園もあるこの駅は一度ゆっくり散策してみたいと思っていたのだ。
だから、友人との約束が不意に無くなってしまった今、電車を降りない理由は無かった。
「……江利子さん?」
「そーよ」
朝姫の目の前には、全開にした額が眩しい江利子さんが居た。
この人とは、一度会ったことがあった。
乃梨子ちゃんや志摩子さんと出会ってから、この『元黄薔薇さま』と呼ばれる人物と会うまでの経緯は、とても長くなってしまうのでここでは割愛するしかないのだけど、とにかく、そのとき、志摩子さんとそっくりな朝姫のことを痛く気に入った様子だったのが、この江利子さんだった。
「暇でしょ? 暇なら付き合いなさいよ」
江利子さんは、いきなりそんなことを言い出した。
朝姫の都合なんてお構いなしだ。
「え、まあ、良いですけど……丁度暇だったし」
朝姫はそう答えた。
折角の天気のよい休日に、こんな賑やかな所で一日中一人寂しくショッピングをすることに比べたら、予期せぬ江利子女史との出会いはとても喜ばしいことであるはずだった。
「あー、貴方が女神に見えるわぁ〜」
「はぁ」
なにが嬉しいのか、江利子さんは妙にハイテンションだった。
こういうときは先に舞い上がった方が勝ちである。
「もー、暇で退屈で死にそうだったのよ。あなたは命の恩人よ!」
なんだか必要以上に喜んでるように見える江利子さんに、朝姫はちょっと引き気味だった。
「ええと、江利子さんも良くここに来るんですか?」
「聞いてよ、実はね……」
話を聞くと、江利子さんも約束を反故にされて仕方なくここらへんをぶらついていたんだそうだ。
結局、人が暇や退屈で死ねるかどうかはともかく、暇な者同士、今日一日仲良く暇つぶししましょうってことになった。
朝姫は江利子さんと近くの喫茶店に入った。
「でさ、早速だけど」
「はい?」
「志摩子とはいつどうやって知り合ったの?」
いきなりその話題だった。
まあ、志摩子さんの関係者なら興味の中心はそっちになることは予想できたのだけど。
「えーと、最初、乃梨子さんと偶然会って。知ってますよね、乃梨子さん」
暇つぶしってことなのでざっくばらんに話をした。
「乃梨子ちゃん? 志摩子の妹ね」
「そうそれ、最初、その乃梨子ちゃんと都内の本屋で偶然出会ったんですよ。その時なんかすごい驚かれちゃて、私何でそんなに驚くのか不思議に思って……」
時間もあることだし、聞かれるままに、朝姫がテレビに写ってたのがリリアンで問題になりそうになった話や、志摩子さんがお友達と一緒に朝姫の通う高校にやって来た話などを話した。
そして話が一段落したところで江利子さんは言った。
「一番聞きたかったことなんだけど、あなたって志摩子と血縁?」
「さあ?」
「さあって、判らないの?」
「うん、知らないし」
「父親か母親が藤堂家と親戚とかないの?」
「わかんないよ。あと父親はいないわ」
朝姫があっさりとそう言うと、江利子さんはちょっとだけ気まずそうな顔をして言った。
「あ、ごめん……」
「べつに良いけど」
「いいの?」
「うん、気にしないし」
「じゃあ、聞くけど、いつから居ないの?」
おっと。
普通はここでこの話題は避けるんだけど、ストレートに聞いてきた人は初めてだ。
その方が朝姫としては話しやすいのだけど。
「父親は記憶に無いわ。物心ついたときから居なかったみたい」
「未婚の母か離婚か死別か」
「わかんない」
「全然知らないのね」
「うん。そのへんはさっぱり」
父親のことは昔、小学生の頃だと思うが、一度母親に聞いたことがあった。
そのとき母がとても悲しそうな顔をしたことを覚えている。
それ以来、朝姫は父親の話を母の前ですることは避けてきた。それは意識的にも、無意識的にも。
「そうか……」
なんだろう?
江利子さんは考え込んでしまった。
「江利子さん?」
「あのさ、調べてみない?」
「はあ? 調べるって何を?」
「父親の名前」
「どうやって?」
「そんなの戸籍を見れば判るでしょ?」
「わざわざ戸籍を見ようなんて思わなかったわ」
思えば受験の時、その手の書類を用意したのは母だった。確か封筒に入っていてその中身は朝姫の目に触れていない。
「じゃあ、見てこない?」
「え?」
いきなりアグレッシブというか、何と言うか。
でも、それを聞いて朝姫は、今の自分が父親に関してそれほどタブー視してしないことに気付いた。
江利子の提案にさほど抵抗を感じない、いやむしろ興味が湧いてきたのだ。
「日曜はお役所休みでしょ?」
「ばかね、見てくるのは平日に決まってるでしょ」
そういうわけで、次は平日の放課後に会う約束をした。
といっても、まだまだ時間はあるので、そのあと一緒に映画を見たり買い物をしたりしたのだけど。
†
この人は暇人だ。
数日後、朝姫は校門前で待っていた江利子さんを見てそう思った。
まあ、約束はしていたわけなのだけど、本気で江利子さんは朝姫の本籍地の役所まで行くつもりらしい。
もっとも朝姫の本籍地は都内でそんな遠くないのだけど。
そして。
「……知って驚く意外な事実?」
父親の欄は空白だった。 いわゆる非嫡出子ってやつだ。
「あんまりショックじゃなさそう」
「そりゃ、実際父親いないし」
実は朝姫はむしろほっとしていた。
やはり興味が湧いたといっても、なにやら意味深な父親の名前が出てきても困ってしまうし、知ることでもしかしたら母親との『友達同士のような気兼ねの無い関係』が崩れてしまうのではないかという不安も多少なりとはあったのだ。
でも書いてなければ知りようも無い。
「それはそうと江利子さんも遠慮ないのね」
「私は自分の好奇心に忠実なのよ」
「それはそれは」
「それに貴方みたいなタイプなら変に気を遣うより、聞きたいことは堂々と聞いた方が良いと思ったから」
「いい判断ね」
「当然」
なんか江利子さんは偉そうだった。
しかし、堂々と聞くばかりか、役所まで行って確認してしまうのはいかがなものか。
江利子さんは言った。
「あとは志摩子の方ね」
「え? 志摩子さん?」
「そうよ。志摩子の親父さんがあなたの父親って可能性あるし」
「えーっ、アレが?」
「あら、会ったことあるの?」
「この間泊まって来たから」
そういえば、先日志摩子さんの家でお泊りして来たことまでは話していなかった。
江利子さんは興味津々に聞いてきた。
「じゃあ、志摩子の両親に会ったんだ?」
「うん」
「どうだった?」
「濃い親父だったわ」
「濃い? お坊さんよね?」
「うん、なかなか個性的(ユニーク)」
「ふうん、見たことあったかしら……」
なにやら、江利子さん、こちらにも興味ありそうな気配。
「……お母さんは志摩子さんに似てたかな」
朝姫がそう言うと、江利子さんは言った。
「そう。貴方はどうなの? 貴方の母親と志摩子の母親どっちに似てる?」
「あー、そういうこと言って私がそれで思い悩んじゃったらどうするの?」
『実は本当の母親はあの人だった』っていう物語の主人公にありがちな悩みだ。
江利子さんは即答で聞き返してきた。
「悩むの?」
「悩まないけど」
朝姫も即答した。残念ながら朝姫はそういうことで悩むほどナイーブな感性は持ち合わせて居ない。
「じゃ、いいじゃない」
あっさりそう言われて、なにやら黒いものがふつふつと湧き上がってくる気がするのは気のせいであろうか?
「とりあえず、お母さんとは性格とか雰囲気がそっくりって言われたことがあるわ」
そういうわけで、江利子さんは志摩子さんも巻き込んだ。
「これから行くから待ってなさい」と志摩子さんに電話したのだ。学校に電話して呼び出してもらって。
なんかものすごく強引だ。
それに応じちゃう志摩子さんも志摩子さんなんだけど。
そして『呼び出すならここでしょ』と江利子さんが選んだリリアン大学部の喫茶室に、志摩子さんは制服姿で現れた。
会って早々に志摩子さんに「何で応じちゃうかな」って聞いたら、「だって、朝姫さんが居るっていうから」だそうだ。
江利子さんは、朝姫と志摩子さんが並んだのを見てまず言った。
「あんたたち本当に他人?」
「他人に見えませんか」
「だってねぇ……」
江利子さんが言うには、『他人の空似』だったらどんなに似てても並べてみれば違うんだそうだ。
そして早速の江利子さんの「本当に両親の娘か」という質問に、志摩子さんは答えた。
「お父さまとは本当に親子なのか悩んだこともあります。でも、ちゃんと親子ですよ」
「戸籍も見たの?」
「ええ、一度お父さまに聞いたことがあって、そのときに戸籍の写しを見せてもらいました」
「ふむ……」
江利子さんはそう言って、先日と同じように考え込んだ。
「江利子さま?」
そう、リリアンの人は先輩のこと名前に『さま』付けで呼ぶのだ。
志摩子さんが江利子さんを『江利子さま』って呼ぶのを聞いて「このアグレッシブな人もリリアン人なんだなー」と、朝姫は認識を新たにしたものだった。
にしても。
「なんか、また変なこと考えてる?」
「つまんないわね」
江利子さんは本当に表情がつまらなそうな顔をした。
額の輝きも3割ダウン(当社比)だ。
「……退屈しのぎにされる方の身にもなってよ」
「あら、志摩子は楽しそうだけど」
「そうなの?」
と朝姫が聞くと、
「え? いえ、私は朝姫さんにまた会えたから」
そっちか。
いや、そう言ってもらえるのは嬉しいのだけど。
そんな会話を朝姫が志摩子さんとしている間、江利子さんは飲み干してしまった自販機コーヒーの紙コップをもてあそんでいた。
ちなみに、ここは『喫茶室』とはいうものの自販機とテーブルがあるだけのセルフサービスだったりする。
江利子さんは言った。
「これ以上やって波風立てるのもアレよね」
「波風? 私の父親があの志摩子さんの親父さんってアレ?」
「そうよ」
「でも戸籍が違うじゃない」
「出生届けさえ受理されれば戸籍なんてどうとでもなるのよ」
「そういうものなんだ」
「でもこれ以上はDNA鑑定でもしない限り無理かしらね」
「DNA鑑定?」
「そうよ。子供の認知とかで法的に効力があるアレよ」
「なんか話が大きくなってきたような」
「うーん、鑑定ならコネが無いことも無いのよね。でも下手にやったら薮蛇だから……」
「親を巻き込んでまでそんなこと出来ないでしょ?」
「さすがにね。 好奇心で出来る範囲を超えちゃうわ」
興味が無いことは無いんだけど、戸籍調査がぎりぎりって気がする。
いくら興味があってもこれで江利子さんはこの件から手を引くだろう。
志摩子さんのお父さんが実の父親なのかもしれない。
朝姫はそのへんの実感がさっぱり湧かなかった。
志摩子さんと姉妹かも知れない、ってのはすごく面白そうで興味を引くことではあるのだけど。
「そうだ、志摩子さん」
朝姫は、泊まりに行って以来ちょっと久しぶりだった志摩子さんに言った。
「はい?」
「今度は私の家に招待しないと」
「あら、それは楽しみだわ」
思えばこの朝姫の提案から始まったのだ。
いやもしかしたら、あの日、書店で乃梨子ちゃんに会ったときからその運命は既に決められていたのかもしれない。
† †
朝姫の家でのお泊り会は恙無く執り行われる運びとなった。
当日は、とある駅の近くで志摩子さんと待ち合わせて、一緒に朝姫の家へ向かった。
その道中、乗換えのターミナル駅で朝姫は悪戯を思いついた。
「ねえ、志摩子さん、ちょっと寄っていこ?」
「えっと、どちらまで?」
「うーんと、場所より、そこですることの方が大事なの」
「はい?」
というわけで、一旦改札から出て駅ビルに寄り、あるところであることをした。
そして、朝姫の住む家のある二階建てのアパートの前に到着した。
朝姫は志摩子さんに言った。
「ごめん、買い物頼まれてたの忘れてたから。先行ってて。鍵、これだから」
「え!? でも……このままじゃ」
「大丈夫よ。友達が泊まりに来るってちゃんと言ってあるし、お母さんはこういう冗談通じる人だから」
「そうですか?」
「どういう反応だったか後で聞かせて」
そう言って朝姫は、階段の所で志摩子さんに家の鍵を渡し、道を引き返して一旦見えないところに隠れた。
そして、階段を上って行った音を確認してからまた戻ってきた。
(あー、階段上る時は鞄で隠さないと……)
などと、一瞬、志摩子さんのパンツを目撃しながら、見つからないように朝姫はあとをつけた。
そう、実は悪戯とは服を交換することだった。
先ほど駅ビルのトイレに寄った時、志摩子さんの制服と朝姫の制服を交換したのだ。
これだけ良く似ている朝姫と志摩子さん、これで母が志摩子さんと朝姫を間違えたら、笑ってやるつもりだった。
実に朝姫とその母親はそんな関係だった。
朝姫はブレザーとミニスカートの制服に身を包んだ志摩子さんが家のドアの中に入ったのを確認してからドアの前に駆け寄った。
そしてドアポストを押して隙間を空けて耳を寄せ、中の様子を伺った。
ちなみに志摩子さんは朝姫の悪戯にはちゃんと乗ってくれていた。その証拠に、朝姫の振りをしているのに呼び鈴を鳴らすなんていうボケはしなかった。
「朝姫、帰ったのー?」
母の声が聞こえた。
普段、帰りが遅い母もこの週末は朝姫より早く帰っていることは確認済みだ。
そんな日に志摩子さんを家に呼べたのは幸運としか言いようがない。
「あ、はい……その……」
志摩子さんは困っているようだ。
家の中を歩く足音が近づいてきた。
母が玄関に来たようだ。
「どうしたのよ? 具合でも悪いの?」
「あ、いえ、『ただいま帰りました』」
志摩子さんのその声の後、一拍おいてゴトッという音が聞こえて来た。
母が、レードルか何か、持っていた物を取り落としたのだろう。
そのあとたっぷりの空白の時間があり、恐る恐るという感じで志摩子さんの声が聞こえた。
「あ、あの……『お母様』?」
志摩子さんはやってくれる。ちなみに朝姫は普段は『お母さん』だ。
(これは、予想以上に面白いかも)
次の瞬間、今度はがしゃんと皿でも割ったような音がした。
「ああっ! 大変……」
志摩子さんが慌てて靴を脱いで上がったのだろう。そんな音が聞こえて、ちょっとしてから、
「……あ、朝姫?」
「あの、踏まれたら危ないですから……」
「朝姫っ! ちょっと何か悪いものでも食べたのね!?」
「あっ、あのっ!」
「気を確かにしなさい! あれほど『拾い食いはするな』って言い聞かせたのにあんたって子は!」
動転しているとはいえ、失礼な物言いの母に憤慨しつつ朝姫が登場するタイミングを計っていると、
「……痛っ!」
と、母の声のあと、ドン、ガタガタとなにやら転んだらしい音がした。
「ああっ! 動かないでください! 足、切ってます! 今、手当てをしますから!」
(げっ、ちょっとやりすぎた……)
流石に朝姫も母に怪我までさせるつもりは無かったので焦った。
朝姫は玄関のドアを開けて中に入った。
玄関の先の廊下では、手前に志摩子さんが背中を見せて座り込んでいて、その傍らに割れた皿の破片と炒飯らしき物が散らばっていた。
母はその向こうの台所に居るらしく姿は見えない。
「志摩子さん!」
「あ、朝姫さん、あの、救急箱は何処にありますか?」
「待って、取ってくる!」
救急箱はダイニングとリビングの間の棚の上。
朝姫は志摩子さんを跨ぐようにして救急箱を取りに台所に入った。
そこに母は尻餅をつくようにして座り込んでいた。
志摩子さんは母の足を見ている。
破片で切ったのだろう。心配だったけど、手当ての道具がないことには話にならないので母がすごい顔で朝姫の方を見ているのはとりあえず置いといて、救急箱のある場所へ急いだ。
朝姫と並んで志摩子さんが傷の応急手当をしている間も母はぽかんとその様子を眺めていた。
幸い傷は小さく浅く、血もすぐに止まった。
志摩子さんは後で医者に見せた方が良いと言ったが、とりあえず絆創膏だけも良さそうな感じ。
でも、手当てが終わって、朝姫が母の方を向いて、
「あの、ごめんなさい。怪我しちゃうなんて思ってなくて」
というと、何故か母はびくっと反応して、それから、何か言おうと口を開いた。
「……」
でも言葉が出ない。
というか、その、ホラー映画のやられ役のような表情はなんなのだ?
「あ、あの、すみません私……」
と、志摩子さんが喋りだすと、お尻を滑らせてバタバタと流しの前まで後退した。
「ちょっと、お母さん驚きすぎ」
「……あ、朝姫なの?」
今度は朝姫の方を見てそう言った。
「ああ、この制服? 交換したのよ。これリリアン学園の制服。似合うでしょ?」
「リリアン? それじゃ?」
「うん、こちら藤堂志摩子さん。この前泊まりに行ったお友達なの」
「……と、藤堂?」
母の反応はこれまた奇妙だった。
少し震えて口に手を当てたと思ったら、
「お母さん!?」
あろう事か、俯いて泣き出したのだ。
「お、お母さん!? 怪我、痛いの? ごめんなさい、本当にちょっと悪戯のつもりだったのよ? 謝るからもう泣かないで」
朝姫がそう言ってすがり付くと、母は首を横に振った。
「違うの……違うのよ……」
「お母さん?」
母は顔を上げ、泣きそうになっている朝姫の頭を撫でながら言った。
「そう、驚いちゃったわ。こんなに朝姫に似てるなんて」
もう表情はいつもの母に戻っていた。
「痛くない?」
「そりゃ痛かったけど、大したこと無いわ。立てない程じゃないし」
「あ、あの、ごめんなさい」
志摩子さんがそう謝ると、母は微笑んでこう言った。
「いいのよ。騙された私も悪いんだから。でも、『喧嘩両成敗』だからあなたにも落としてしまった分作り直すの手伝ってもらうから。いいわね?」
「は、はい!」
「お母さんそれ違うと思うよ……」
言葉の使い方はともかく、志摩子さんが申し訳ない気持ちで過ごさないようにと、食事の用意を手伝わせることにした母の裁定は冴えてると思った。
あの後、落とした皿の後片付けは母がやるからと台所を追い出された。
そして、朝姫の部屋に行って、朝姫は着替えて志摩子さんに制服を返し、志摩子さんも持ってきた普段着に着替えた。
ちなみに普段着といっても、志摩子さんの家で見た和服ではなく……、
「あの、おかしいかしら?」
「ううん、志摩子さんらしくて可愛いよ」
志摩子さんの普段着はタートルネックの長袖ニットに、長めのフレアスカートだった。
『可愛い』なんて言ったけど、ちょっと大人びた雰囲気だ。
着替え終わって台所に戻ってから、朝姫はそんな志摩子さんと母が並んで台所に立っているのを後ろから眺めていた。
というか元々朝姫の企みだったから朝姫も手伝うべきなんだろうけど、流石に三人働くには台所は狭すぎたし、夕飯の支度はもう三人分も仕事が残っていなかった。
「躾の行き届いた良い娘さんね」
「いえ、そんな……」
食事の支度も出来て、揃って三人で食卓での会話だ。
志摩子さんは、さっきのことがまだ尾を引いているのか、畏まって小さくなっていた。
「本当よ、朝姫に見習わせたいわ」
「その私を躾けたのは何処の誰だったかな?」
「こんな時に揚げ足を取るなんて、本当に粗忽な娘なんだから、まったく……」
次の台詞に朝姫は言葉を合わせて言った。
「「親の顔が見たいわ!」」
「って、そりゃアンタでしょうが!」
「くっ、ボケをダブらせた上で、セルフ突っ込みの機会を奪うなんて高度な技を!」
「ふっふっふっ、私の勝ちね?」
ちなみに解説すると「まったく親の顔が見たいもんだね、ってそりゃアタシじゃん!」っていうセルフ突っ込みは母の十八番である。
志摩子さんが目を白黒させていた。
まあ、このノリは、普通の女子高生たる朝姫のクラスメイトでも面食らうらしいから、お嬢様学校リリアンの志摩子さんにはちょっとしたカルチャーショックだったかも知れない。
「志摩子さん、志摩子さん」
「は、はい?」
「ここ、笑うとこ」
「あ、すみません」
「うーん、やっぱり志摩子さんには難易度高すぎたか」
母が言った。
「馬鹿な娘で、ごめんなさいね」
「馬鹿っていうな。志摩子さん、アホな母親でごめんね」
「ふふん、私がアホならあんたはアホの子よ」
「うっ、しまった!」
「やーい、アホの子〜」
志摩子さんが今度は困惑している。
「ほら、志摩子さんが呆れてるじゃない」
「あんたが馬鹿なこと言うからよ」
「だから馬鹿いうなって。ごめんね志摩子さん」
そう言うと、志摩子さんは困惑気味に言った。
「い、いえ、仲がおよろしいんですね?」
それには母が答えた。
「そうなのよ、会うたびにこれだから生傷が絶えなくて」
「は?」
「ほら、志摩子さん困ってるじゃない。もうこんなの無視してご飯食べよ。ほら志摩子さんも遠慮しないで」
「あ、はい……」
志摩子さんの手伝った作り直しと母のオリジナルがブレンドされた炒飯を、志摩子さんはレンゲで一口すくって口に入れた。
「どう? おいしい?」
そう聞くと、志摩子さんは味わって飲み込んでから、
「……美味しい」
「良かった。せっかく作ったんだから、沢山食べてね?」
「っていうか、アンタ何も手伝ってないじゃない」
「だから、家庭の味がさ、リリアンに通うお嬢様の上品な口に合ったってことで」
「そう、なら良かったわ」
「でしょ?」
「アンタが手伝わなくって」
「……どういう意味?」
「そのまんまよ。言って欲しい?」
また、志摩子さんが口をもぐもぐさせながら困惑してる。
「うるさくてごめんね、うちの母親いつもこんななのよ」
「『こんな』って何よ」
「ずばり『アホ』」
「ふーん。なら、あんたはアホの子ね」
「し、しまった!」
「やーい、アホの子〜」
「……ぐふっ」
志摩子さん、むせた。
「だ、大丈夫? 水?」
「……っ、いえ」
立ち直ったようだ。
どうやら、朝姫の家の日常会話は志摩子さんにはハードだった模様。
「もう静かに食べよう。お母さんももう変なこと言わないで」
「言ってないわよ。朝姫が変に煽るのがいけないんじゃない」
「煽ってないわよ。何で私のせいにするかな?」
「じゃあ母が悪いっていうの?」
「有体に言えばそう」
「『自分の事を棚に上げと』はこのことね。まったく誰に似たんだか……」
「……」
期待してたみたいだけど『親の顔が見たい』は今度は乗ってあげない。
これも『スルー』という高度な返し技だ。だが、された側が上手くフォローしないと滑りまくるという諸刃の剣でもある。
というか滑った。
食卓を白けた空気が覆う。
「……ってそりゃアタシじゃん!」
っと、無理やり落とす母であった。
「……アホだ」
「誰がアホか」
「アンタだよアンタ」
「親に向かってアンタ呼ばわりかい」
「こんなアホな親、『アンタ』で十分さ」
「なにスカした言い方してるのさ。私がアホならアンタはアホの子よ」
「うぐっ、しまった!」
「やーい、アホの子〜」
「「ってまた同じやん!」」
そう言って、ドツキ合う。息はぴったりだ。
ゴンッ、と音がした。
「「え?」」
と、母と一緒に振り返ると、志摩子さんが突っ伏していた。
音は志摩子さんの額がテーブルの端に当たった音だ。
「の、喉に詰まった?」
「大変! 水よ! 水っ!」
「いや、背中を叩いた方が!」
親娘してパニクっていると、志摩子さんは少し顔を上げて頭を横に振った。
『大丈夫』と言いたいらしい。
それにしては顔が真っ赤で口元を押さえて震えている。
そして朝姫は、こんな志摩子さんを前に一度見たことがあった。
「……ほっ」
「ちょっと朝姫、なに一人で安心してるのよ!」
「ああ、大丈夫」
「だ、だって」
母は朝姫との掛け合いで志摩子さんが食べ物を喉に詰まらせてしまったんじゃないかって焦ってるのだ。
まあ、つまり笑かせてるって自覚はあったわけだけど。
そう、だからこれは。
「笑ってるのよ。ね? そうでしょ?」
うんうんと俯いたままだけど志摩子さんは首を今度は縦に振った。
「笑って……?」
腑に落ちない感じではあるけど、母は浮かせていた腰を落とした。
「志摩子さん、遠慮しないで思い切り笑って良いんだよ?」
「……い、いえ」
こちらがパニックしてしまったせいか、志摩子さんの笑いも収まったようだ。
「あー、びっくりした」
母がそんなことをぼやいた。
「す、すみません。ご心配をおかけしまして」
「そうだよ、志摩子さん。笑うんだったらもっと思い切って、あははははははははっ、あははははははははっ! ってさ!」
「ちょっと、そんな猟奇的な笑い方志摩子ちゃんがするわけ無いでしょ?」
「猟奇的って酷い。会心の笑いなのに」
何もかも放り出して思い切り笑うのがコツだ。
「夜中にそんな笑いかたしてたら、生ごみにして捨てるからね」
「ううむ、夜中に笑う生ごみはちょっと嫌かも」
「ホラー映画ね」
「それもB級作品の」
「どんな映画よ」
「……っ」
志摩子さんがまた突っ伏していた。
「合格よ」
「はい?」
食事の終わりの方で母は志摩子さんに言った。
「朝姫をお願いね」
「なんか、里子に出されるみたい」
「茶化さないの。里子になんか出したら引き受けた側がかわいそうだわ」
「なんせ『アホの子』ですから」
「ごめんね、私なんかが育てちゃって」
「なにやら、一見謙遜しているようで、実は言外に私がアホだって言われているような気が……」
「おお、良く判ったわね」
「やっぱりそうか」
「よくぞそこまで頑張った。もう私の教えることは何も無いわ」
「どんな修行よ」
「これでアンタは何処に出しても恥ずかしくない立派な『アホ』に……」
「それかい! ってそろそろ志摩子さんが再起不能になりそうだから」
志摩子さんはおなかを抱えて背中を丸め、今にも椅子から転げ落ちそうだった。
「まあ、それはともかく、志摩子ちゃん、朝姫とは末永く仲良くしてあげてちょうだいね?」
「……は、はい」
笑いすぎてこぼれた涙を擦りつつ、なんとかそう返事をした志摩子さんは、どこかすっきりした笑顔だった。
三人で後片付けをして、その後、朝姫の部屋に志摩子さんと二人で戻った。
「楽しいお母様ですね」
「え、いや、今日はちょっと飛ばしてたかな?」
志摩子さんが来たからか?
でも、以前に同じ高校の友達が来た時はあんなにハイテンションじゃなかった気がする。
このとき、朝姫が『アホの子』なんかなじゃなくてもっと思慮深かったら、母が何を考えていたのかが判ったのかもしれない。
でも朝姫は「会社で何かあったのかな?」位にしか考えていなかった。
母が食卓で、『志摩子さんが服を替えたくらいで見間違えるほど自分の娘に似ている』ということを全く話題にしなかったことは、後で考えれば異常なことだったのだ。
† † †
志摩子さんが「可愛い部屋ですね」とか言いながら、部屋の真ん中のクッションに座ったところで、朝姫はその前に座って言った。
「とりあえず、今日はやることが出来たね」
「え? やることですか?」
「うん」
そう答えて、朝姫は志摩子さんに擦り寄った。
「あの?」
そして背中から抱きついてホールドした。
「うふふ」
「な、なにを?」
「こうするのよ!」
抱きつくのを片手だけにしてもう片方の手でわき腹をくすぐった。
「……っ」
やっぱり、志摩子さんは俯いて耐えながら抵抗する。
「笑わないわね?」
「……そ、そんな…」
「もっとかしら?」
「ちょ、やめっ……」
ニットの下に手を入れてわき腹からお腹にかけてくすぐりまくった。
でも、油断して両手でくすぐり始めたら、志摩子さんが体を捻って、次の瞬間朝姫の体は横倒しになった。
「あれ?」
気が付くとうつ伏せで志摩子さんは背中でマウントポジション。
「い、痛っ! ちょ、ギブギブ!」
いつの間にか腕を極められていた。
開放されて、とりあえず最初に座っていたところに戻ってから朝姫は言った。
「志摩子さん、何か武術習ってる?」
「いえ、護身術をすこし」
「あんな強烈な反撃をされるとは思って無かったわ」
「すみません、つい……」
「ちょっとやり方を考えないといけないわね」
「いえ、そういうのは遠慮したいんですけど……」
「だめよ。志摩子さんはもっと心から笑わないと。あんな笑い方じゃストレス溜まっちゃうわ」
そう言って、朝姫は手をワキワキと動かした。
志摩子さんはそれを見てお腹を庇うようにして身を縮こまらせた。
「やっぱりその辺が弱点なのね?」
「え? そ、そんなことはありませんよ?」
「私とおんなじだ」
「だ、だから……」
「まあ、目的はくすぐることじゃないから良いんだけど」
そう言うと志摩子さんはホッとした。
朝姫は言った。
「じゃあ、声を出して笑ってみてよ」
「え? あの、何も無いのにいきなりはちょっと……」
「んー、じゃあ私がお手本を見せるから。志摩子さんの場合、控えめになっちゃうから大げさすぎるくらいで。よく見ててね」
「は、はい」
真面目な志摩子さん。背筋を伸ばして朝姫に注目した。
そして朝姫はスーっと息を吸い込んで、
「あははははははは、あははははははは! ……Repeat after me?」
むっ、志摩子さんちょっと引いてる。
「あの……」
「何? 言ってみな?」
「その笑い方、ちょっと怖いです」
「言ってくれるわね? ほら、とりあえずやってみなよ」
「でも」
「やっぱくすぐってみる?」
そう言ってまた両手をワキワキと。
「や、やります」
「よろしい」
そして志摩子さんもスーっと息を吸い込んで、
「あははははははは……は……」(棒読み)
尻つぼみになって、目線だけでこちらを伺う志摩子さんに、朝姫は額に手を当てて首を横に振った。
「全然だめね」
「すみません」
なんかしゅんとなる志摩子さん。
「うん、でもまあ、やってるうちに出来るようになるわよ」
「そうですか?」
「じゃあ、お手本をもう一回」
そして、息をスーっと吸い込んで、
「あははははははは、あははははははは! あははははははは! あははははははは! あーっははははははは!」
あごを上げて『ゲラゲラ』って形容できるような笑い方をする。
また志摩子さんは思い切り引いていた。
「あの、どうしてそんな笑い方なんですか? もっと普通に笑っても……」
「えー、だって普段大人しい志摩子さんだったらこのくらいの方がインパクトが」
「笑うのにインパクトなんて要りません!」
「おおっ、良い突込みよ。志摩子さんも判って来たね?」
「……はぁ」
なにやら疲れた様子。
「じゃあ、もう一回やってみようか?」
朝姫がそう言うと、ドアの方から声が。
「朝姫、あんた、今日、外の集積所で寝るか?」
「えー? 生ゴミは嫌」
「まったく、人が聞いたら何事かと思うわよ?」
「聞いてないよ。ここ防音でしょ」
「私の神経に障るのよ。それより風呂出来たから入っちゃって」
「お母さんは?」
「後でいいわ」
「判った。じゃ志摩子さん、一緒に入ろ!」
「え?」
志摩子さんの家では叶わなかったけど、今度こそ。
ちなみに家の風呂もユニットバスでそんなに広くない。
でも湯船と洗い場で交代交代にすれば余裕だ。
「ちょっと狭いかな?」
「そうですね……」
交代で身体を洗ったあと、結局、狭い湯船で横並びに二人で湯に浸かっていた。
「でさあ、志摩子さんはどう思う?」
「なんでしょうか?」
「この際、ぶっちゃけて言うけど、私達って遺伝子同じだよね」
「……それでじろじろ見てたんですね」
そう。実は「一緒に」と誘ったのは、それが目的だった。
『それ』とはすなわち、産まれたままの姿の志摩子さんをじっくり観察することだ。
「嫌だった?」
「恥ずかしいです」
「でもさ。ここまで似てちゃ、血の繋がり無いって言う方が無理があるよ」
そういいながら、朝姫は右手を湯から出して志摩子さんの目の前にかざした。
それを見て、志摩子さんも自分の右手をそれに並べた。
手の形なんて、よく見れば顔以上に個性があるものなのだけど、志摩子さんと朝姫のそれは大きさも形も良く似ている、というか殆ど同じだった。
「そうですね」
「やっぱ、志摩子さんもそう思うんだ」
「はい」
「人は環境で変わるって言うけど、私らの遺伝子は頑張っちゃったみたいね」
「うふふ、そうみたいですね」
志摩子さんは微笑んでいた。朝姫と違って、志摩子さんはとても自然にこういう柔らかい笑い方が出来るのだ。
「江利子さんがさ、言ってたじゃない」
「江利子さま?」
「双子判定」
「ああ」
実は戸籍の時ではなく、今日待ち合わせの場所で偶然、江利子さんにまた会っていた。
いや、先に会ったのは元紅薔薇さまの蓉子さんなんだけど、その話はまた別に語ることにして。
その時、親を巻き込まない、当人だけで出来る『双子判定』というDNA判定があることを聞かされていた。
「どうする? 私はするまでも無いって気がしてるんだけど」
「朝姫さんがそう言うのなら私は……」
「っていうかさ、結果が形になるじゃない。それがちょっと」
「不安ですか?」
「……うん」
なんとなく、朝姫は判定することが後々の火種になるような予感がしてならなった。
だから、こうして一緒にお風呂に入って互いに確認しあって納得したから、これでもう良いじゃないかって。
そんなもの無くたって、朝姫は志摩子さんともっともっと仲良くなれるって。
そう思っていた――。
フィガロの結婚クロスオーバー。
サブタイトル:「真里菜の結婚・なんでそ〜なるの!?」
(第4幕・それぞれの夜)
ここは奥方さまのお部屋。
窓辺に差し込む月の光を見ながら、ひとり涙にくれるのは、
この部屋の主、佐伯ちあきさま。
そう、ご領主の瀬戸山智子さまの奥方さまであり、かつては「お姉さま」と
呼ばれたお方でございます。
「いったいどうしてこんなことに…」
自分の教育が厳しすぎたのか。
あるいは、智子の選んだ妹への嫉妬か。
奥方さまはご自分のお心をもてあまし、どうすることもできません。
「思えば初めて会ったときの智子は初々しかった…
『この国の領主としては至らないところもあるかもしれませんが、
お姉さまのお力があれば必ずやりとげられると信じております。
どうぞよろしくお願いいたします』と、深く頭を下げてくれたのが忘れられない…
ああ!愛の神さま、どうかお助けください!
私の何がいけなかったのか…」
ちあきさまはとうとう、泣き崩れてしまいました。
普段ご自分でお掃除なさるはずのこのお部屋も、今は足の踏み場さえありません。
それはまるで、今のちあきさまの心を表しているかのようです。
そのビスケットのような扉の前で、涼子さんがドアをノックしようかどうか、
決めあぐねておりました。
その頃。
無事に裁判を終え、自分の部屋でほっとくつろぐ美咲さん。
「やれやれ…考えてみれば聖さまと祐巳さまもかわいそうよね。
周囲に流されて子どもと引き離されただけだったんだから」
しみじみと述懐にふける美咲さんの目に、とまったものがありました。
ドアと床の隙間に、何か白いものがはさまっています。
「今夜はお疲れさま。明日の夜、私の部屋へ来なさい」
それはご領主、智子さまからの誘いの手紙でした。
智子さまはあくまでも、美咲さんをあきらめないつもりです。
「お姉さま…あなたは冷酷すぎます。どうしてちあきさまのお気持ちを
考えられないんですか」
美咲さんは溜息をつきました。
窓辺には月の光が、優しく微笑むように早春の夜を照らしています。
(第5幕・恋とはどんなものかしら)
ためらいがちにドアをノックする音が、夜中の沈黙を破ります。
「どなたかしら?」
「夜分遅くにすいません。涼子です」
その気取らない話しかたと少し低めの声に、ちあきさんの表情はわずかにゆるみます。
「ごきげん…よくはないのよね、きっと」
「…バレちまいましたか」
涼子さんは少し苦笑いをしています。
でもその瞳が、うっすらと潤んでいるように見えるのは、気のせいではありません。
「…ちあきさまに、お別れを…」
「なぜ」
突然聞こえたセリフに、ちあきさまは驚きを隠せません。
「昨夜理沙と会ってたのが…ご領主さまに見つかったんです。
それで軍隊に行けって言われて…」
「…気でも狂ったのかしら、智子は」
理沙というのは、美咲さんの従姉妹にあたる安西理沙さん。
涼子さんとは以前から仲がよく、2人一緒にいることも多いのですが、
自分の態度を棚の一番上に放置して、智子さまは2人の関係を思い切り邪推しまくってくれたのです。
「俺…人を好きになるっていうのがどういうことなのか、自分でもよく分からないんです…きっとちあきさまならご存知だと思って。
教えてくださいちあきさま、人を好きになると顔が赤くなったり、
胸が苦しくなってドキドキしたりするものなんですか?
…どうしてあなたとお別れするのが、こんなにも淋しいんでしょうか…」
切々と胸の内を訴える涼子さん。
その姿を見るちあきさまの胸は痛みます。
なんとかしてやりたいと思っても、領主夫人の立場はそれほど強くはありません。
あくまでご領主さまは絶対の存在なのですから。
(私のことをこんなにも思ってくれる人がいるなんて…)
すっかり冷え切ってしまった智子さまとの仲。
疲れ果てたちあきさまの心に、涼子さんの素直な言葉はじんわりとしみてゆきます。
「それでは、これで本当にお別れです、ちあきさま。
…今までのご恩は決して忘れません」
振り向くことなく去ってゆく涼子さんに、
「涼子ちゃん!」
ただ呼びかけることしかできず。
ぼうぜんと見送るちあきさま。
そのままおよそ20分が過ぎたころ、ちあきさまは美咲さんの部屋へと向かうのでした。
そのころ、何も知らない智子さまは。
「うっく、もう一杯!」
今日も今日とて歓楽街にお忍びで現れ、夜の女たちと飲めや食え、歌えや踊れの大騒ぎ。
このあときつ〜いお仕置きが待っていることなど、まったく頭になかったのです…。
【No:2176】の続きです。
主は私に試練を与えた。
また、私に苦難の道を歩めというのか…。
初めは私はそう思った。
明らかにおかしい世界。
私はリリアンの高等部2年になっていた。
そんなことは有り得ない。
有り得ないからこそ、このふざけた世界で好き勝手する事にする。
勿論、人あまり迷惑かけない程度に。
それが主の教えに反していても。
この世界であなたはどこにいるのだろう?
思えばこれまでは後悔ばかりの人生だったのかもしれない。
あの人の悲しげな顔を見る度、幾度も幾度も自分を責めた。
もっとあの人が悲しまなくてもいい選択肢があったのではないか? それが自分には出来たのでないか。
そんなことばかり、答え無き問いを主に繰り返した私への試練……あるいは私の願いを叶えてくださったのか。
今はそんなことはどうでもいい。
私はこの世界を存分に謳歌する。
「栞、どうかしたの?」
私の親友の一人、蟹名静がぼーっとしていた私を心配したのか訝しんでいたのか顔を覗き込んでくる。
私の視線先をたどる彼女もまた私同様固まってしまった。
私がこの世界ーーといって良いものかーーに来てからまだ3日だが私はまだあの人は見つけられないでいた。
私が2年ということはあの人は3年、白薔薇になっているはずでクラスメイトに白薔薇の蕾がいたときには少なからずショックをうけたが、白薔薇はあの人ではなかった。
元いた世界の紅薔薇の蕾であった水野蓉子さまに似た雰囲気を持った白薔薇さまだった。
むしろ彼女の妹、白薔薇の蕾の藤堂志摩子の方があの人に似ていると思ったくらいだ。
さらに驚いたのはその白薔薇の蕾と呼び捨てで呼び合うほど彼女とも親しかったことだ。
この世界の私も無意識のうちにあの人を求めていたのかもしれない。
「ごきげんよう、聖」
そんな風に優しく聖に微笑む志摩子。
「ごきげんよう、志摩子さま」
と穏やかな微笑みを浮かべる聖。
そんな二人は正直悔しいくらい絵になっていた。
どうやら、聖は一年生のようだった。
どことなく以前よりも幼く見える部分もある。
聖は志摩子の妹になるのだろうか?
私は未だに顔を赤くしたまま動かない静をほうって置いて聖と志摩子の元に駆け寄る。
「ごきげんよう」
自分では顔が引きつっていないか心配なほどぎこちない笑顔だったと思う。
「ごきげんよう」
志摩子は即座に返してくれたが聖は返してくれない。
志摩子といい雰囲気だったのに壊されてへそを曲げているのだろうか?
うつむいたその顔は伺い知れない。
今思えば、少し言い過ぎたかも知れない。
「ごめんなさいね。お姉さまとの一時を邪魔しちゃって」
それだけいって、ごきげんようも言わずに立ち去った。
私のそんな行動に志摩子は困ったような顔をして聖と別れた。また明日と付け加えて。
「ちょっと栞、聖ちゃんと知り合いなの?」
放課後なのにも未だに帰らない私は静にそんなことを聞かれた。
なんとも返答に困る質問だ。
聖を知っているがこの聖は知らない。
「ひょっとして、あなたも聖ちゃん狙い?」
お前もかブルートゥス。
彼女の顔をみれば一目瞭然。聖に惚れてるのが分かる。
私も聖のことは好きだが、どうなのだろう? 今の私の好きは聖の好きに等しいのだろうか?
「あ、あの…」
教室の入り口から消え入りそうな声が聞こえる。
か、可愛い…。
教室には私と静しかいない。
私がこれだけキテルのにあの様子の静が耐えられる筈がない。
「聖ちゃん!私の妹に!」
「えっとその、静さまごめんなさい」
困った顔で静の誘いを断る聖。
そんな聖が可愛い過ぎてもっと困った聖がみたくなった。
「その、えっと……」
「どうかしたのかしら。用があるならさっさと言いなさい」
と冷たくいってしまった。
心無しか聖の目には涙がうっすらと浮かんでいる。
あまりの可愛さに私は顔がにやけるのを必死に我慢した。
「あの、名前を聞いてもよろしいですか?」
それでも涙を堪えながら必死に私に向かう聖。
私はもうどうにかなりそうだった。
静はもう倒れて真っ赤な海を作り始めていた。
泣きそうでここまでの破壊力があるなら泣き顔は…
「名前を聞く前に自分から名乗ってはどうなの?」
考えるより口が先だった。
もっと伝えたい言葉がある筈なのに気恥ずかしくて言葉は届かない。後悔しないと決めたのに…。
「…一年生の…佐藤聖です」
もう、泣いているに等しい。
一筋の涙が聖の頬を流れ落ちる。
うぅっ…反則よ聖。あなたいつからそんなしおらしい萌えキャラになったのよ!って萌えキャラってなに?
「あの、名前…」
こんなことならあの時もいってしまわないで聖をいぢめて…げふんげふん…可愛がっていれば良かった。
「名前…」
半ばわざと無視していると聖は情けない顔をして声がどんどん小さくなる。
「久保栞よ」
「…栞さま」
ーーー艦長! これ以上は危険です!
ーーーばかもの、敵を目の前にしてにげるやつがいるか!
ーーー艦長! 1番から108番までの理性が全て乗っ取られました!
ーーーええい! せめて一矢報いるぞ! お前たち、私について来てくれるか?
ーーー勿論です艦長!
ーーー理性艦、反応消えました。
ーーーなんという破壊力だ!佐藤聖は!
な、なんてこと! なんて破壊力! 聖は甘やかすよりもいぢめたほうが可愛いなんて。
今なら理解出来る。男は好きなのは女の子をいぢめるというアレが。
私は真理に達した。
古の僧侶や司祭達もこのように真理に達したに違いない。(違います)
「それで、何か用かしら?」
今すぐ静のあとを追ってしまいそうな私はなんとか新しい理性ができるまで耐えるためにとりあえず用件を聞くことにした。
「わ、私のお姉さまになってくれませんか?」
ばたり…
「せ、聖…泣き顔で上目遣いは……反則よ」
「し、栞さま!?」
結局、静と同じ末路をたどる事になった私は教室に忘れ物を取りに来た志摩子がくるまで聖を泣かせたままだったらしく、泣き止ませたのも志摩子らしかった。
…ずるいわよ志摩子…私も聖の泣き顔もっとみたかったのに。
目を開けると知らない天井…ではなく、ま、眩しいっ!
「あ、起きましたか栞さま」
あ、あの頼れるお凸がキラリと光る彼女は…誰だっけ?
………そうだ、鳥居江利子さま。黄薔薇の蕾だった人だ。
「栞さま、聖をからかうのはいいですけど、さっさと自分の気持ちを伝えたほうが良いですよ。」
「なっ!」
なぜ彼女がそんなことを知っているのか?
「なぜ知っているのか?って顔してますよ。多分、あなたと同じですよ。久保栞さま」
くすくす笑いながら保健室を後にする彼女はとても楽しそうだった。
私は急いでいた。
彼女の言う通りだ。両想いかどうかとか好きの相違など気にする必要は無い。
大切なのは私が聖のことが好きだという事実のみ。
伝えよう。いや、伝えなければならないのだ。
「はぁっ……はぁ………」
聖がどこにいるかなんて分からない。
それでも走る。シスターに見つかっても止まらないし、止まる気も無い。
こんなに解放された気持ちになるのは一体何時以来なのだろう。
だからこそわかる。あの時、聖は私を受け入れ求めたことが私は理解出来なかったのは、私が自分の殻に閉じこもっていたから。差し出された聖の手を私の殻で挟んで縛りつけ、恐怖を覚えると手を追い出したのだ。
なんてひどい女だろか……。
だから、今度は、笑顔で聖を私の手で引っ張りたい。
はやる気持ちと反対に体は動かなくなって行く。
校舎を一通り見て回り、聖がいなかった。
校門へとかける。
息は切れている、呼吸が上手く出来ない。舌が乾く、上手く声は出ない。
それでも、この想いを伝えるのにどっちも必要なんてない。
誰かを愛するのに資格が要るような世界を造る神ならば、私はそんな神は要らない。
誰かが愛しいという想いが間違いなんかじゃないから。
主に祈ることしか出来なかった私でも、今はそれだけは解るから。
校門に聖が見えた。
だから、私は…………
結果から言うと私は聖を妹に出来なかった。
志摩子に先をこされていた
だが、それは仕方無い。私は姉だなんて器じゃ無い。
自分の道すら決め倦ねる私が聖を導くだなんて傲慢もいいところだ。
それに、姉じゃなければ聖のそばにいる資格が無いわけじゃない。
静はまだ悔しがっていたけど、親友の妹なら自分が思い切り甘やかそう、と言っていた。
私は聖と一緒に行く道を探したい。
「栞さま」と呼ぶ可愛らしい聖も好きだけれど、やっぱり私は「栞」と呼び捨てにして欲しい。
聖を狙っている人は多い。
姉になった志摩子や、美人で歌も上手くて優しい静、世話上手で聖とクラスも同じの水野蓉子さまーーーいまは蓉子ちゃんと呼ぶべきかーーーを筆頭に全学年で聖は人気がある。
それでも、私は負けない。負けてやる気もさらさらない。
このチャンスを逃したら私はきっと後悔する。
……もう、後悔はしないってきめたから。
「ふふっ……」
だから、今私の腕の中にいる聖を思い切り抱きしめる。
「あ、あの、栞さま?」
困惑しながらも真っ赤になる聖が可愛らしくて仕方がない。「栞」
「え?」
「栞と呼び捨てにしてって言ったでしょう、聖」
「し、栞…」
最高ね。
「可愛いわ。聖」
「あ、あう…」
先ほどよりもずっときつく聖を抱きしめる。
「明日は二人で何処か行かない?」
「そ、それって、で、デートですか?」
「勿論よ。志摩子には内緒よ」
「はい、栞さ……栞」
まだまだ壁は全部取り払えないけど、それはこれからゆっくりやって行けばいい。
ーーー聖、私の妹になって欲しいの
ーーー志摩子さまのですか?
でも…。
ーーーそうよ
ーーーで、でも…
そう、私には好きな人がいる。
ーーー私の妹になれば聖に会いに行けるわよ。あなたはまだ栞とロクに話した事もないのでしょう? それに姉以外の人と仲良くすることが私は悪い事とは思わないわ
志摩子さまはまるで人の心を呼んでいるようだ。
ーーー…わ、分かりました。志摩子さま、私のお姉さまになってくれませんか?
ーーーええ、喜んでーーーはぁ……はぁ……聖…
ーーーし、栞さま
ーーー栞、私たち姉妹になったから
ーーーそう……聖
栞さまが私の耳元でこういった。
ーーー聖、妹になって欲しかったのよ
その一言に私は感動してしまった。でも、私は志摩子さまの妹、後悔はしていない。
だって…
ーーーだからね、聖、私の恋人になって欲しいわ。私あなたのことがずっと好きだったから
なんて嬉しい台詞を私に囁いてくれたのだから。
だから、私はもう何も言えなくなってしまった。
「リリアンを受験したい?」
乃梨子が千葉の実家から小笠原家へ向かった日の夜。
妹の友梨子はずっと前から密かに決めていた希望を母に告げた。
まったく予想外の一言だったのが分かる。
昼食の支度をしていた母の包丁が手から離れカランカランという音とともにまな板に転がった。
「駄目なの?」
「う〜ん駄目じゃないけど」
口先ではそう言ってはいるが、母はあまりよろしく思っていないような顔を見せている。
「地元の学校じゃ駄目なの? 友梨子の成績なら結構自由に行けるじゃない」
「地元じゃなくてリリアンがいいの」
友梨子はしぶる母に少し強めに主張してみる。
確かに、友梨子は乃梨子ほどでなくともそれなりに優秀な成績を持っていて、姉妹揃って両親の自慢であった。
「A校はどうしたのよ、一年生の頃から希望していた学校じゃない」
「去年は去年。 今年は今年よ!」
母は信じて疑わなかったに違いない。
乃梨子の第一志望の学校であるA校。 受験戦争に敗れた乃梨子に代わって必ずや友梨子がそこへ行くに違いないと。
「どういう心変わりよ、まさかリコの学校だからって理由じゃないわよね?」
「そんなことないよ」
友梨子は近くにあった好物のカントリーマァムを口の中に放り込む。
不二家のお菓子は本当に美味しい。
これこそ日本のお菓子、うん。 正しい。
「リリアンだったらA校より難易度低いし大学に推薦枠あるじゃん。 下手に良い学校出るよりランク下の学校をトップクラスで出たほうがいいかなって」
それに、付属の寮へ入れば生活能力も身につくしね。
友梨子は口の中にカントリーマァムが残ったまま話を続けた。
「でもね、寮生活ならB校があるわけだし付属学校ならC付属校だって」
「B校はレベル低すぎだから寧ろ脳が腐る。 C付属は逆に大学のレベルが高すぎ。 その点リリアンならそこの条件もカバーできるし女子高だから下手な心配もしなくていいし」
友梨子はとどめとばかりにマシンガントークを発してみる。
こうやって最後に口先を爆発させてみれば母の反応が投げ槍になるからだ。
「あー、もう分かったわ。 でも菫子さんのところに下宿は駄目だからね。 すでにリコがいるのだから」
「ガッテン了解」
無理矢理母の意見を折らせた友梨子は、上機嫌でその場を離れた。
先ほどの言葉のほぼ全部が嘘なことなど母の前では全く見せないまま。
姉の乃梨子こそそこまで気にかけた様子はないのだが、友梨子は極度のお姉ちゃんっ子だ。
いつからかは分からないが、気付いたら乃梨子に異様に懐いていて。
そのレベルは小学校の頃、乃梨子が修学旅行に出かけた途端寂しさで熱を出した程だ。
けれど、そのレベルがどのレベルかは、多分両親も乃梨子も知らないことだろう。
例えば、友梨子は元々成績は平均を少し下回るレベルだった。
それが何故いまのような成績になったかというと、関わるのは乃梨子だった。
最初は塾だった。 乃梨子が塾に通うと友梨子も通おうと思った。
だが、その塾は低成績者を入れないエリート志向だったため、いまの友梨子では無理だった。
それからだった。 その塾へ入るために勉強をはじめて、次第に成績というものが姉と共通点になり、勉強にこだわりはじめた。
実をいうとA校の希望というのも乃梨子を追いかける目的以外なかったのだ。
その後、しばらくは自室でのんびりしていたが、 母が買い物に出かけたのを確認した友梨子は、そのまま昨日までひとときの間主のいた姉の部屋へ直行した。
扉を開けると、香るわ香るわ血の繋がった姉の香り。
「はふぅ〜お姉ちゃんの匂いパラダイスぅ〜〜」
扉を閉めると途端、友梨子は現実をトリップしたかのような崩れた顔で体をくねらせる。
ハートマークが飛び散るようなこの光景は、幸せそうではあるが人には見せられないものだ。
かなり長い間乃梨子分を補充できなかった鬱憤だろうか。
それは乃梨子がいなくなった瞬間爆発したかのように友梨子のリミッターが解除されていた。
「おっ、おっ、おっ、お姉ちゃんが昨日まで使ったベベ……ベッド。 ダーイブ!」
友梨子は姉のベッドに飛びつくと、鼻いっぱいに姉の残り香をかいでからクロールで泳ぐように暴れる。
かつて友梨子のここまで幸せな顔を見た者はいるのだろうか?
今の友梨子を見た者は十中八九こう思うだろう。 “彼女は誰ですか?”と。
「はぁっ、はぁっ! 君はピンク色の小宇宙を感じたことがあるかっ! 震えるぞハート、萌えつきるほどヒート!」
友梨子は、少し前に古本屋で見た漫画の数々のフレーズをアレンジして叫んでみる。
しかも本来の意味はともかくとして少々細工をするだけで今の友梨子の状況にピッタリ合うのが不思議だ。
ひととおり運動した後、今度はベッドの中に潜り込む。
乃梨子の香りに全身を包まれた気がしてたまらない。
「でも……」
ふと友梨子の脳裏に一筋の不安が残る。
このベッドの中で、お姉ちゃんは「シマコサン」のことを考えていたのだろうか?
リリアンに行ってから、会うたび会うたびその志摩子さんという人物に毒されてゆく姉の姿。
それに比例するかのように、中学を出たときは貧相だったバストは、今回少し膨らみが強くなった気がする。
「お姉ちゃんの平原を守るのは私の役目なのに……」
姉がどんどん遠くにいくそうで、悲しさがこみ上げる。
泣いてはいけない。 分かっているのに瞼が熱くなる。
それもこれも……原因はお姉ちゃんを奪った「シマコサン」のせいだ。
お姉ちゃんを洗脳した「シマコサン」は許せない。
友梨子は起き上がり、机の上の一枚の写真を覗く。
そこには中学の制服を着た乃梨子と友梨子がツーショットで映った写真が置いてある。
「お姉ちゃん、待っててね。 友梨子も今すぐそっちに行くから」
写真の中の愛しの姉に語りかけた友梨子は、次に窓越しの空を見上げる。
まだ会わない宿敵、志摩子。
どんな人なのだろうか。
不細工な人だったら許さない。 姉の心を奪ったことが納得できる人でないと宿敵なんて呼びたくない。
「シマコサン……あなたがどんな人であろうと私のお姉ちゃんは渡しません!」
太陽が沈みかけた空に浮かび上がる姿なき宿敵。
友梨子は心の中で一足先に宣戦布告をするのであった。
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初めまして、Mr.Kといいます。
放浪中は「通りすがりのK」で2・3回コメント打ったことがあると思います。
いままでは通りすがりでしたが、これからは参加したいと思いますので宜しくお願いします。
自分が好きな人たちがいないのならば、ここに留まっている意味はない。
社会科準備室を飛び出した瞳子は、廊下を駆け出した。
演劇部の部室の扉を開けたら、部長が驚いた顔をしていた。
ここまで全速力で走ってきた。だから今の瞳子は、息が乱れ、タイも曲がり、只ならぬ雰囲気なのだ。部長が驚くのも無理はない。
「ど、どうしたの?」
瞳子は荒い息でごきげんようと挨拶をして部室に入る。
部長は先日、瞳子が来たときと同じく、ただ一人、事務仕事をしていた。
「これを返しに来ました」
四つ折りにして生徒手帳に挟んであった退部届を差し出した。部長があの日、お守り代わりに渡してくれた一片の紙。
部長は一瞬硬直していたが、瞳子の差し出した無記入の退部届を受けとると書類棚に戻した。
「そう……決めたのね」
部長は瞳子がこれから何をするつもりなのか理解したようだった。と、同時に、やっぱり瞳子はこの人が好きなんだと自覚した。もし祐巳さまがいなければ、未来は変わっていたかも知れない。
でも祐巳さまはいる。だからこそ、瞳子は祐巳さまの所に行く前に、あの時の返事をしておく必要があった。
「すいません。私はやっぱり、祐巳さまのことが――」
「ストップ!!」
「……」
「それ以上は言わなくていいわ」
部長は寂しそうに微笑んだ。こうなるって、わかってたって。
でも瞳子にはもう一つ言わなければならないことがあった。瞳子はガバッと頭を下げる。
「それから三年生を送る会、できれば部長と一緒に演じさせてください」
「……え?」
部長にとって辛いお願いをしていることは自覚している。もし部長が嫌というなら、瞳子は諦めるしかない。でも一本一本断ち切ってきた絆の中で、それは部長が繋ぎとめていてくれた大切な絆だった。それを、瞳子自身の手で裁ち切ることだけは、もうしたくなかった。
部長はふっと笑うと。
「あたりまえじゃない。見る人が嫉妬するぐらいに息のあった素晴らしい劇にしましょう」
部長にとって『見る人』とはきっと祐巳さまだけなのだろうけど、それを言わないのは大人だった。その瞬間、部長はまさしく瞳子の姉だった。でもその瞬間はうたかたのごとく消えていく。
「さ、行きなさい」
部長のボールペンは部室の扉、方向はまるで違うが、その先にいるであろう祐巳さまの方向を指した。
「はい!」
瞳子はもう一度ガバッと頭を下げる。ここにも手を取ってくれる人がいたことに感謝する。
瞳子が顔を上げたとき、部長は眩しそうに目を細めていた。
「その顔を引き出したのが共演者である私じゃなくて、祐巳さんっていうのは少し癪だけど……」
部長はそこで言葉を止め、瞳子のためにとっても優しい笑顔を浮かべてくれた。
「いい顔してるわよ。とびきりの――」
だから瞳子は踵を返し、部長の目の端から転がり落ちた雫を見なかったことにした。
「細川可南子! ……さん」
体育館中に響き渡る声でフルネームで呼ばれてしまった当人は、フリースローの姿勢で振り返り、そのまま硬直した。手から離れたボールはゴールに嫌われ跳ね返る。
体育館を使用していたすべての部員の視線が、大声を上げた瞳子と可南子さんに注がれる。ただ勢いで呼びつけてしまったものの、リリアンの生徒としていくらなんでも不躾すぎた。
その大失態に狼狽する瞳子よりも先に我に返った可南子さんは、仕方ないわねと肩をすくめると少し小柄な上級生に声をかける。
「キャプテン、すいません。少しだけ抜けさせてください」
声をかけられた先輩が頷くと、可南子さんは急いで寄ってきて、瞳子の腕を掴んで体育館の外に連れ出す。
「ちょっと、なんの嫌がらせ?」
人通りの少ない渡り廊下で可南子さんは腰に手を当て文句を言った。
「ごめんなさい」
瞳子は素直に謝った。それに少し驚きの表情を見せた可南子さんだったが、それで瞳子が何か大事な話しに来たことを察して、怒りを納めてくれた。
「どうしたのよ、あなたらしくもない」
「今から祐巳さまに会ってくる」
瞳子は自分の決意を正直に告げた。
「……そう、か。とうとう……なのね。でもどうして私に?」
「友達だから」
可南子さんは一瞬言葉に詰まった。でもすぐに「なに言ってんだか」と、苦笑いを浮かべる。でも、そんな可南子さんの頬は真っ赤だったから、きっとその気持ちは伝わっているはずだ。
可南子さんは少し真面目な顔になって、でもどこか素っ気なく瞳子に聞いた。
「考えてある? 祐巳さまになんて言うか?」
「ううん、素手でぶつかってみる。うまくいかないかもしれないけど。でも、一人で燻っていても、いつまでも祐巳さまには届かないから」
瞳子は不安を打ち消すように、自分に言い聞かせていく。
突然視界が真っ暗になる。可南子さんの体温と香りが瞳子を包み込む。可南子さんは、ぎゅうっと瞳子を抱きしめていた。
「ちょ、苦しい」
バスケ部で鍛えた筋力で力任せに抱きしめられ、息苦しくて瞳子がもがくと、可南子さんの囁き声が上から振ってきた。
「頑張れ。頑張れ、瞳子」
それは可南子さんが初めて呼び捨てでかけてくれた言葉だから、瞳子はもがくのを止めて頷く。
「うん……」
「頑張れ、瞳子」
「うん」
「頑張れ」
「うん。判った」
「頑張れ」
「ちょ、判ったってば」
「頑張れ」
「ちょっと、いくらなんでもしつこいわよ」
「よし、いつものあなたね。それなら、ばっちり祐巳さまに気に入って貰えるわよ」
ばしばしっと背中を叩く。
瞳子は大げさに痛がりながら、いつも通りの形で絆を繋いでいてくれたこの友人を見上げる。交流試合、クリスマス、選挙……いつから私を最後の一線で支えててくれたのだろう。そして今も、こんなに力をくれる。
そんな友人を安心させるように、いつも通りの素直じゃない瞳子を見せる。
「もう。髪の毛、ぐちゃぐちゃになっちゃったじゃない」
「そんなこと気にする祐巳さまじゃないわよ。さ、早く行ってきたら。宝探しの終了時間まで、もう時間無いわよ」
可南子さんは、ぽんっと瞳子の背中を押し、送り出してくれた。
宝探しイベントはもうすぐ終了だけど、瞳子はもう宝を見つけていた。
――部長、可南子さん、それに乃梨子さん。三人の絆。
そして今、一番の宝の元に、瞳子は走る。
「ごきげんよう。お邪魔します」
そこにいたのは、瞳子ちゃん。
電動ドリルのような縦ロールを揺らして、にこやかにほほえんだのだった。
「瞳子ちゃんが、どうして───」
隣の席に着く、演劇部員の松平瞳子を目で追いながら、やっとのことで声を絞り出した紅薔薇のつぼみ福沢祐巳。
「説明会に出た方が、選挙のためになりますもの」
やはり見学者ではなく、立候補予定者ということだ。
「でも、一年生なのに」
「あら、志摩子さまだって去年は一年生でいらしたでしょ。何も不思議ではありませんわ」
と、澄ました顔で答える瞳子。
「……あぁそっか。考えてみれば、無理に薔薇さまになる必要はないんだよね」
「……へ?」
瞳子は、祐巳の呟きに、思わず間抜けな声を出してしまった。
「それもそうね。私も一年間薔薇さまを体験したのだし、無理に二年も続ける必要は無いわ。むしろ、環境整備委員会に専念できて良いかも」
「……は?」
続く白薔薇さま藤堂志摩子の言葉に、再び間抜けな声をあげる。
「なるほど。他に立候補してくれる人がいるんだから、任せてしまってもいいのよね。そうすれば私も、剣道部一本で行けるし」
「……えーと?」
更に、黄薔薇のつぼみ島津由乃が続き、瞳子の思考が停止してしまった。
「志摩子さんいいの? 乃梨子ちゃんは?」
「乃梨子なら大丈夫よ。別に薔薇さまやブゥトンに拘るような子じゃないから」
「由乃さんも?」
「うん。菜々だって、私が薔薇さまだろう何だろうと、関係ないって思ってるだろうから。令ちゃんも、何か言いたいかもしれないけど、何も言わないだろうし。そう言う祐巳さんは?」
「私みたいな平均点が無理に薔薇さまをするよりは、瞳子ちゃんの方が適任だと思うのよね」
「祥子さまはいいの? それに、蓉子さまとの約束は?」
「私は、小笠原祥子さまの妹ってことだけで充分だから。お姉さまだって、分かってくれると思うの。蓉子さまの約束だって、山百合会が無くなったら、薔薇の館を使うも必要なくなるし、多目的ホールみたいにすれば、自然と人が溢れるようになるんじゃないかな」
「じゃぁ、問題なしね」
「そうね。そんなわけで英恵さん、突然で申し訳ないけれど……」
「私たち三人は、立候補を辞退しますので、ここは失礼させていただきますね」
「お騒がせしてごめんなさいね」
「ま、そーゆーことで」
何やら三人だけで完結してしまった祐巳、由乃、志摩子たちは、英恵と瞳子をそのままに、ぞろぞろと選挙管理委員会事務所を出て行った。
「あのー、えーと、あれ?」
呆然とした顔の実行委員英恵と、頬に一筋の汗を流したままの瞳子は、黙って見送ることしか出来なかった。
結局立候補者が一人だけだったので、然したる混乱も起きることなく、松平瞳子が生徒会長となった。
たった一人だけでは生徒会の仕事が出来ないので、瞳子はクラスメイトの『元』白薔薇のつぼみ二条乃梨子と、バスケットボール部の細川可南子、他敦子や美幸らに土下座して頼み込み、ようやく体裁を整えることができた。
一人で三薔薇さまを兼ねるということで、三色が混ざったサーモンピンクの薔薇さま、すなわち“鮭桃薔薇さま”という、なんとも呼びにくい通称が付いてしまったのはまた後の話……。
一部歌詞が欠けていますが仕様です。
♪Y○UはSH○CK
蓉子の真紅の携帯電話が着歌を鳴らし始めた。
♪愛で空が落ちてくる
この曲は・・・確認するまでもない。クリスタルキングの愛をとりもどせ。
この曲は、先日とある事情により着歌を登録しなおした人物専用の曲だ。
この曲が鳴った時、蓉子は本当は携帯電話を受けたくなかった。
しかし、蓉子は元紅薔薇さまにして中等部および高等部の入学式及び卒業式の挨拶をした首席、超々優等生である。着信拒否などという不義理な事はしたくなかった。
だが。
♪誰も二人の安らぎ壊すこと出来はしないさ
いかに超々優等生の蓉子といえど、全く対処できない事もある。例え銃を持っていても、一子相伝の暗殺拳の前には何の役にも立たないのと同じ。戦っても必ず負ける相手である。せいぜい必殺技で一矢報いるのがやっとである。
しかし。
元紅薔薇さま水野蓉子には負けるとわかっていても闘わなければならない時がある。
蓉子は全力を以って電話を受けた。
「はい、水野です」
『あ、蓉子!私よ私。わかる?』
わかってる。しかし現在の相手はそれでは満足してくれない。
「何の用、江利子」
『蓉子ってば。違うでしょ?』
相手はとても楽しそうだ。しかし蓉子はなぜか全く楽しくとも何とも無い。
「江利子は江利子でしょ」
『残念!山辺江利子でーす☆』
そう。
鳥居江利子は山辺江利子になった。
昨年11月の剣道大会では「正真正銘ただのお友達」で全く進展しない関係を悩んでいたのに、あれから半年、何があったのか全くわからないが先日電撃結婚。それ以来毎日昼夜を問わず電話をしてくる。
『ね、聞いて蓉子。今日ね、初めて“江利子”って呼んでくれたの』
「そう」
内容は、150%ののろけ話と120%の愚痴。
『結婚したのに未だに“江利子さん”って呼ぶから、『イヤ、江利子って名前で呼んで』って言い続けてたんだけど♭』
「ふーん」
昨日は初めて娘さんとお風呂に入ったと言って喜んでいた。
『今朝ようやく呼んでくれたのよ♪』
「よかったわね」
一昨日は・・・なんだっただろう。江利子から電話がかかってきた事は覚えているが、内容は既に覚えていない。
『だけど結婚前に約束した『おはようのCHU』、守られてないのよ。弁護士の卵としてどう思う?』
「履行すべきね」
皆嘘吐きだ。蓉子は弁護士ではなく警察官(もちろんキャリア)になろうと思った。
『そうだ蓉子、聖、どうしたか知らない?』
「聖?」
聖・・・最後に会ったのはこの凸の結婚式だった。
『さっき電話かけたらさー、『お客様のおかけになった電話番号は現在使われておりません』っていうメッセージが流れてきたのよ?』
「チッ」
その手があったか。聖も考えたわね。
『それで、話は戻るんだけど(^^ゞ』
電話で話しているのに蓉子には顔文字が見え始めた。どうも疲れているようだ。
『ダーリン♥、意外と好き嫌いが多いのよ(゚レ゚)』
今日ほどWindowsにハートマークが無い事を感謝した日は無い。
『sunny side upにはsauceしか認めないとか言い出すのよ(T_T)』
線形文字Aまで混ざり始めた。このままではまた負けてしまう。せめて一矢報いねば。
『でも、納豆は大好きなのよ\(^o^)/』
薄型軽量の携帯電話が重く感じ始めた。蓉子は携帯を机の上に置いた。
『やっぱり目玉焼きにはsoy sauceでしょ(^_-)』
武器は必要か・・・否、自分も素手であるべきだ。頼るは己の力のみ。
『そういえば令に聞いたんだけど、祐巳ちゃんの妹になったのって、剣道大会で見た電動ドリルちゃん§^0_0^§だったのね』
昔、祐巳ちゃんが何かの拍子に漫画を持ってきた事があった。その漫画はずばり“北斗の拳”。
『あの人、小さな子供と2人暮らししてきたわりに、料理駄目なのよ(゚_゚>)』
祥子は知らなかったが、皆おおよその内容は知っていた。
『塩と砂糖間違えるし(?_?)』
話の流れで、山百合会のメンバーを登場キャラに例えるとどうなるか、という話になった。
『包丁を持たせたら指切っちゃって(>_<)』
聖は雲のジュウザ。妹分との悲恋の後、自由奔放に生きているから。
『あの人の指から血が出てくるのを見たら∩;』
令はレイ。律儀で、妹に弱いから。
『思わず指を銜えちゃった<^!^>』
そして蓉子はトキ。理由は言うまでもない。
『あの人、顔真っ赤にして(*~_~*)』
しかし。今の蓉子は絶対トキではない。気分的にはUD。
『私達もう他人じゃないんだから、って言ったらあの人、さらに顔真っ赤にして(*~。~*)』
今の蓉子の気分は、水攻めをして江利子の自由を奪いたい気分である。
『もう、可愛いんだから〜(^。^)/~~~~』
プチン。蓉子の中で何かが切れた。
『それでね―』
「南斗紅鶴拳 奥義 血粧嘴!!!」
砕ける蓉子の携帯電話。
無惨に飛び散る破片。
「ハッ!?」
そこで蓉子は目が覚めた。
いつのまにか机に伏して寝ていた。
あわてて周囲を見渡す。
とりあえず、携帯の破片は落ちていない。確かめると、蓉子の真紅の携帯は無事であった。
(夢、か)
机に向かって勉強していたはずの蓉子がいつのまにか眠っていたなんて、何年ぶりだろう。
それにしても随分リアルな夢だった。
(あんな夢を見るなんて)
蓉子は軽く嫌悪感に襲われた。
蓉子は最近少々寝不足気味だ。いろいろと心労も溜まっている。それゆえ江利子の電話に対してあんな行動に出る夢を見てしまったのだろう。
(親友失格ね)
親友の幸せを素直に祝ってやれないような夢を見てしまうのでは。
蓉子は頭を振り、眠気と共に追い払った。
その時。
♪Y○UはSH○CK
蓉子の真紅の携帯電話が着歌を鳴らし始めた。
♪愛で空が落ちてくる
この曲は・・・確認するまでもない。クリスタルキングの愛を・・・
昔々、薔薇の館に一人の紅薔薇さまがおりました。
紅薔薇さまは、一般生徒たちとも仲良くしたい、薔薇の館を一般生徒のあふれる場所にしたいと考えて、薔薇の館の前に立て札を立てました。
心のやさしい薔薇さまのうちです。
おいしいお茶とお菓子を用意してお待ちしています。
どなたでもお気軽においでください。
けれども、やはり畏れ多いのか、あるいは単に怖いのか、はたまた自分でやさしいと言う人が優しかったためしがないと思われたのか、一般生徒たちは誰一人遊びにきませんでした。
紅薔薇さまは悲しみ、嘆き、悔しがり、しまいには腹を立てて、ハンカチを引き裂いたり、立て札を引き抜いたりしてしまいました。
そんなおり、友達の青薔薇さま……………なんてのはいないので、白薔薇さまと黄薔薇さまが訪ねて来ました。
話を聞いた二人の薔薇さまは、ある計画を思い付きました。
白薔薇さまと黄薔薇さまが一般生徒の中へ出かけて悪さをする。
そこへ紅薔薇さまがやってきて二人をこらしめる。
そうすれば、一般生徒たちにも紅薔薇さまがやさしい薔薇さまだということがわかるだろう、というものでした。
しかし、それでは二人にもうしわけない、っていうか薔薇さまが問題起こしたらダメだろうとしぶる紅薔薇さまでしたが、
「よし、まかせとけっ!」
「ちょっと、」
止める間もなく飛び出していった白薔薇さまの後を、紅薔薇さまはあわてて追いました。
紅薔薇さまが追いついてみると、白薔薇さまはさっそくやらかしていました。
「ご、ごきげんよう、白薔薇さま」
「ごきげんよう、天使たち」
きゃーとさざめく下級生達に、白薔薇さまはあろうことかタイを直してあげ始めました。
「なにやっとんじゃー!」
「ぐばぁっ」
条件反射でいきなり延髄蹴りをかます紅薔薇さまです。
なにかごきりと嫌な音が聞こえたような気がしましたが、それどころではありません。
「薔薇の館の品位を貶めるようなマネをするなー!」
怒りに顔を真っ赤に染めて白薔薇さまをこらしめる紅薔薇さまはまさに鬼の形相だったといいます。
首をありえない方向に曲げたまま返事もしない白薔薇さまの態度に埒が明かないと思ったのか、紅薔薇さまはその場にいた他の生徒達の方にぐるりと首をめぐらしました。
「あなたたち」
「ひぃっ!」
恐怖に顔を引き攣らせ、一般生徒達は逃げるようにその場を後にしました。というか、死に物狂いで逃げ出しました。
「薔薇の館にって、ああっ!? なぜ逃げるのっ!」
「そりゃ逃げるでしょ」
腹を抱えて笑う黄薔薇さまの横で、紅薔薇さまは目の幅いっぱいの涙を流して泣いたのでした。
数日後、ようやく笑いの収まった黄薔薇さまは、当初の計画通り悪者役をやることにしました。
「それじゃあ、ちょっくら大暴れしてくるかな」
「ちょ、待ちなさい。大暴れって何する気!? そもそも『ちょっくら大暴れ』って日本語変よ?」
止める間もあらばこそ、黄薔薇さまは意気揚々と出陣し、言葉通り大暴れをして見せました。それはもう、黄薔薇さまのことですから大変な大暴れでした。
「えーかげんにしなさいっ!!!」
あやういところでどつき漫才のようにわって入った紅薔薇さまが阻止しなかったらどうなっていたことか。
こうして、紅薔薇さまは意外にひょうきんだという話が広まったおかげか(?)、一般生徒達は安心して薔薇の館に遊びにくるようになりました。
薔薇の館は生徒たちが溢れる場所となり、紅薔薇さまは大喜びです。その結果仕事が滞るようになったのは別の話ですが。
しばらくすると、あの事件以来薔薇の館に顔を出さなくなった黄薔薇さまのことが気になってきました。
紅薔薇さまが黄薔薇さまの教室を訪ねてみると、そこには黄薔薇さまの姿は見あたらず、紅薔薇さまへの手紙が残されていました。
「そろそろ来る頃だと思っていたわ」
取次ぎに出た内藤克美さまがそう言って差し出した手紙を、紅薔薇さまは驚きながらもさっそく開いて読んでみました。
旅に出ます。探さないでください。
くしゃ
紅薔薇さまは思わずそれを握り潰していました。
なにこれ。ギャグ?
1枚目に書いてあるのはそれだけでした。
丸めた紙をもう一度開いて見ましたがもちろん内容は変わりません。
裏返して見るとさらに一言だけ何か書いてありました。
『うけた?』
ぐしゃり
………いや、落ち着け。アレはそういうヤツだ。手紙はまだ終わっていない。
手紙は2枚目に続いていました。
紅薔薇さまは2枚目に目を通しました。
追伸
紅薔薇さま
わかってはいると思うけど、もし私がこのままあなたと付き合っていると、紅薔薇さまに悪い噂が立つことになるでしょう。
おいしいところはおおむね終わったようだし、私は旅に出るけれども、悪役を押し付けられたことはいつまでも忘れません。
一般生徒たちと楽しく暮らしてください。そして仕事もちゃんとやっておいてください。
あの事件の被害の弁償代は生徒会予算から必要経費として計上しておきました。
お茶代、お菓子代はもちろん紅薔薇さまが招いたお客様なので紅薔薇さまのポケットマネーで計上しておいてあげました。
ほとぼりがさめるまでは帰れませんが、協力してあげた礼金も紅薔薇さまのポケットマネーから貰っておきました。
それではさようなら。体を大事にして、一人で仕事がんばってください。
いつまでもあなたの友達、黄薔薇さま。
紅薔薇さまは、黙ってそれを読みました。突っ込みどころ満載でした。
読み進めるうちにぷるぷると手が震えだしました。
読み終わった紅薔薇さまは薔薇の館に走り、そのまま1階の物置に飛び込むとそこらじゅうをひっくり返し始めました。
「ないないないないない!!!」
はらりと落ちた手紙の3枚目にはこう書いてありました。
追伸2
学校にヘソクリを隠すのはどうかと思います。
悪い人見つけられたら大変だぞ(はあと)
ひとしきりひっかきまわしたあと、紅薔薇さまはがっくりと肩を落としてうなだれると、しくしくとなみだを流して泣きました。
血の涙だったといいます。
必ず見つけ出してLH 大トo o-s 廿廿T s=| sトやる。
紅薔薇さまは血の涙を流しながら心に誓ったのでした。
おしまい
フィガロの結婚クロスオーバー。
サブタイトル:「真里菜の結婚・なんでそ〜なるの!?」
(第6幕・今夜、姉が浮気します…か?)
「今、なんとおっしゃったのですか、ちあきさま」
「その手紙にOKの返事を出しなさいと言ったのよ」
すらりと背が高く髪の長い女性と、彼女よりは少し背の小さいかわいらしい女性が
言葉も少なく向かい合います。
「…まさか、ちあきさま…」
一瞬の沈黙。
そのあとに続く言葉を、お互い探しあぐねていると。
「ぷっ…くくく…あ〜っはははは!」
ちあきさまは突然笑い出しました。
「もう!何がおかしいんです!」
「美咲ちゃん、人の話は最後まで聞くものよ」
怒る美咲さんに、ちあきさまはなおも笑いながら言います。
やがて笑いも落ち着いたころ、改めて美咲さんの目を見つめました。
「智子の部屋には私が行きます。あなたは私と入れ替わってちょうだい」
「???」
「どうせ智子は酔っ払って千鳥足でご帰還なのだから、たとえ入れ替わっていたって区別はつかないわ。
まずは『しばらく外で酔いをお覚ましになったほうがよろしいのでは?』かなんか、
適当なことを言って智子を中庭に引き止めておいて。
あの子は一度酔うとかなり後まで冷めないから、その間にいくらでも盛り上げられるわ」
ちあきさまがニヤリと笑っています。
「なるほど…」
美咲さんもちあきさまの意図を察したのか、笑顔になります。
「部屋の前まで来たら、智子に先に部屋に入って待っているように言って。
その間に私と入れ替わればすべてOKよ」
「で、頃合を見計らって正体をばらす、というわけですね」
「そういうこと」
うふふ、と笑いあう2人。
「…でも、あのお姉さまのことだから、逆ギレすると大変なことに…」
その瞬間、ちあきさまの笑顔に底知れぬ邪悪なものが宿りました。
「大丈夫よ。そうなったらなったで、ワインの樽にでもぶち込むわ。
もちろん中身は別のものだけど…そう、たとえば、汚物とか…」
「…ちあきさま…」
小さいとはいえ一国一城の主が、自らの浮気が原因で汚物の樽に投げ込まれる。
それを想像した美咲さんは、さすがに少し青ざめています。
「心配ないわよ、美咲ちゃん。智子にそんな真似はできないし、させないわ。
あれはあくまで最後の手段」
なんだかちあきさまが言うと最後の手段に聞こえません。
その他にも様々な手段を講じていそうで、よけいな口出しができなくなってしまった美咲さん。
「くれぐれも智子にはナイショでね」
「はい、かしこまりました」
しかし、一見完璧に見えるこの計画も、思わぬところからほころび始めたのです。
「どういうことよ…美咲が智子と会うって!?」
別の部屋では、真里菜さんがメイドの1人を問い詰めています。
「ええ、確かに美咲さんが、中庭に向かうのを見ました…あの中庭はご領主さまのお気に入りの場所で、
普段はご領主さまと奥様以外は入れない場所のはずですが…」
「それで!?美咲はなんか話してた!?」
「それが…ただ、笑ってらっしゃるだけで…あっ、真里菜さま!?」
(冗談じゃない…よりによって初夜に裏切られるなんて!)
真里菜さんはこのあと起こることも知らずに、さっさと中庭へ向かったのでありました…。
(第7幕・危機一髪!)
さて、走り出してはみたものの、具体的に誰とどういう話し合いをするかまでは
何一つ決めていない真里菜さん。
無理もありません、ちあきさまと美咲さんの密約については何も知らないのですから。
(とりあえず隠れて様子見るか…)
中庭の真ん中にある東屋近くの植え込みに隠れて、あたりに人がいないか見回していると。
「やっとあなたと結ばれるのね…早くここへきて、愛しい人よ」
なんと、美咲さんが真里菜さんの存在に気づいたようで、古い時代のラブソングを
歌い始めてしまいました。
(ちょ、ちょっと、あれ、ちあき…じゃないの!?)
もちろん真里菜さんは、美咲さんとちあきさまが入れ替わっていることに、まったく気づいていません。
「今夜は月もきれいだし、2人愛し合うなら今しかないわ…」
(…何が愛し合うならよ!)
たまりかねて飛び出す真里菜さん。
「ちょっと!何が愛し合うならよ!よりによってあんた、初夜にいきなりそれはないでしょう!?」
「ま…真里菜さま。落ち着いて。私です」
ここにきて真里菜さまは、目の前にいる奥方さま似の人の背が低いことと声が違うことに、ようやく気づいたのでした。
「…美咲。そんなところで何やってんの」
「実はね」
ひそひそと耳打ちをする美咲さん。
「なるほど、そういうことだったのね。さすがは美咲」
「もちろん、私には真里菜さましかおりませんもの」
「私にだって、美咲しかいないわよ。頭も良くて美人で優しくて、私なんかには
もったいないくらい」
「あら、真里菜さまだってかっこよくて優しくて強くて。あなたは女の中の女ですわ」
「美咲…」
「真里菜さま…」
向かい合って互いに目を閉じ、顔がキスできる距離にまで近づいたところで。
「ふ〜ん…そういうことだったんですか、真里菜さま」
なんと、すでに酔いも冷めてすっかりまじめな顔になったご領主の智子さまが、
鬼の形相で仁王立ちしているではありませんか。
「智子…どうしてあんたがここにいるのよ」
「なんとなく嫌な予感がして…今日は早めに切り上げてきたんですよ」
さあ、どうなる!?
相変わらず、いつものようにヒマを持て余した花寺生徒会の面々は、退屈をしのぐ為、ガラクタ小屋と呼ばれる生徒会室にて、ツマンナイ雑談に花を咲かせていた。
「やっぱり、『遅刻しちゃう〜!?』と叫びながら、食パンを銜えて走る女子生徒と、曲がり角で正面衝突して、『痛〜い、何すんのよ!?』って言われるシチュエーションが最高だな。しかも相手は転校生でさ」
「おぅおぅ、アリアリ! 漫画でしか有り得ない状態だけど、現実だったら確かに最高だよな」
小林正念の案に、高田鉄が同意と言わんばかりに頷いた。
「他には、タイトミニのスーツを着たナイスバデーの美人英語教師、けど実はドジっ娘が、持ちきれない大量のプリントを廊下にブチまけて、しゃがみこんで必死に拾っているところに出くわし、手伝っていると胸の谷間や下着が見えてラッキー! と言うのも捨てがたい」
「それもイイな。でも、生徒の反応を見るためにワザとやってる数学教師か養護教諭ってパターンもお勧めだな」
今度は高田が挙げた例に、小林も興奮が収まらず、バリエーションを増やす始末。
「眼鏡を外して体育の授業に出ようとしている可愛い女子生徒が、階段で足を滑らした時に、たまたまその場に出くわして、胸に飛び込んで来られたら別の意味で困るよな。体操服だぜ体操服、しかもブルマだったらもうダメだ」
「それだ! 一緒に踊り場まで落ちるんだけど、どちらも幸い怪我がなくて、イイ雰囲気になだれ込むってヤツだな」
通常では決して“ありえねー”状況を想像しては、ひたすら興奮する二人に、同室していた生徒会長福沢祐麒は、苦笑いするばかり。
有栖川金太郎も、同じような表情だった。
「ユキチはどうよ? 何かいいネタはないのか?」
突然話を振られて、目をパチクリさせる祐麒。
「…い、いや、そりゃ無いことも無いけど」
「じゃぁ言えよ。遠慮なんて要らないぜ。ホラ、さぁ」
小林と高田が、左右から祐麒を肘で突っつきまくる。
「分かった、分かったよ。ええとな、風呂に入ろうとして、当然ながら裸になってガラガラと入り口を開けると、そこには既に入っていた姉がいてだな。お互い素っ裸で、固まったまま数分間見詰め合うことしか出来なかった、ってのはどうだ?」
『うるせぇこのシスコン野郎!!』
同時に声を上げた小林と高田は、羨ましいぞこん畜生、とか、お前には実際に姉がいるもんな、などと叫びながら、祐麒をガシガシと小突きまくる。
「そんな場合は逆だろ!? 先に入っているのは自分のハズだろうがよ」
「そうだ、後で姉が入ってきてだな、『ゴメンナサイ、入ってるなんて気付かなかったの』と慌てて照れつつも弁解するのがイイんじゃねぇか!?」
「痛ぇ! 本気で殴るなよ!?」
三人で、手加減はしているだろうがボコスカ殴りあう祐麒たち。
「何をほたえてるんだか……」
と思いながらも、アリスは黙って見守ることしか出来なかった。
祐巳は忘れない。
聖なるクリスマスイヴの夜、マリア様の像を挟んで向かい合った時のこと。
正確にはその少し前。
一人馬鹿みたいに浮かれて、瞳子ちゃんの隣を歩いていた頃からのことを、祐巳は決して忘れない。
祐巳は、祥子さまのことが今までもこれからも大好きだ。
由乃さんのことも志摩子のことも大好きだし、令さま、乃梨子ちゃん、瞳子ちゃん、可南子ちゃんのことも勿論好き。
続いて真美さん、蔦子さん、お父さんお母さん祐麒。
他にも聖さまや蓉子さまなど等、好きな人を挙げればキリがない。大変である。
みんなみんな大好き、みんなみんな大切。
順番なんて付けられない。
……ごめんなさい、祐巳は今ちょっと嘘をつきました。
お姉さまは別格です。はい。
とにかく、そんな好きな人いっぱいの(この表現もイヤだな)祐巳は、ある頃一つ気付いたことがあった。
知り合った中に一人。
近づけば近づくだけ、祐巳を不安にさせる子が居る。
祥子さまの親戚、一年椿組在籍の演劇部、気が強い割には可愛らしい縦ロールが似合う少女。
名前は松平 瞳子。
彼女がリリアン高等部に入学してきてもうすぐ一年、その間に祐巳が良くも悪くも深く関わりあった子だった。
祐巳は初め、瞳子ちゃんが苦手だった。
それは瞳子ちゃんが祥子さまにやたら馴れ馴れしいからとか、妙に口が悪くていつも責められている気になるからとかじゃない。
祥子さまの傍に居る瞳子ちゃんを見ると、嫉妬という暗い感情を抱く自分に気付かされる。
瞳子ちゃんに言い負かされると、自分がどうしようもなく馬鹿で無力なんだと理解させられる。
つまり瞳子ちゃんは、祐巳の嫌な部分だけを写す鏡のようなもの。
好ましく思えという方が無理な話だ。
祐巳はそれまでずっと劣等感を抱えていた。
祥子さまのロザリオを受け取った時、吹っ切ったと思っていたそれは殆ど錯覚で。
何でもできる先輩や、気の利く同級生に囲まれてのほほんと笑っているだけだった祐巳にとって、瞳子ちゃんの突きつけてくる痛いほどの現実は、祐巳の首から一時とはいえロザリオを外させるまでに辛いものだった。
その中で、人を信じるということの難しさ。辛さ。そしてその尊さ。
いっぱい泣いて、色んな人の力を借りて。
再び定位置に戻ってきたロザリオと一緒に祐巳はそれらを知った。
知ることができた。
それから、祐巳の世界は一変したんだろうと思う。
劣等感はなくなった。
瞳子ちゃんが写す弱い自分を、祐巳は苦笑いしながらも受け入れることができるようになった。
そうして祐巳はようやく、鏡の向こうに瞳子ちゃん本人を見ることができるようになったのだ。
それからも体育祭やら文化祭やら色々あって、祐巳はどんどんと自分の世界を広げていけた。
祥子さまの良いところ悪いところ、いっぱい見つけた。
由乃さんや志摩子さんに関しても同様で、それらを全部ひっくるめて祐巳はみんなみんな大好きになった。
けれども。
瞳子ちゃんだけは違っていた。
いや、勿論瞳子ちゃんのこともどんどん好きになっていった。好きになっていったのだけれども。
瞳子ちゃんも、祐巳のことを少しずつでも好きになってくれていたとは自惚れている。
祐巳の前ではぷりぷり怒ることが多い子だけれど、本当に嫌いなら顔をあわせることも避けるはずだ。
上級生にも遠慮なくズバズバ言ってくる瞳子ちゃんのこと、顔を立てるために我慢するなんてことはきっとしない。
でもその瞳子ちゃんは、祐巳が好きになって祐巳をほんの少しでも好きになってくれた瞳子ちゃんは。
果たして本当の瞳子ちゃんなのだろうか、という疑問が常に付きまとっていた。
可南子ちゃんとの賭けの時。
数珠リオ選びの時。
そして、家出の時。
祐巳は瞳子ちゃんの色んな表情を見た。
色んな感情をぶつけられた。
一緒に居る間はそれが瞳子ちゃんの表情であって感情だと信じられるのに、いざ瞳子ちゃんが居なくなるとそれが随分と薄っぺらいものに感じられてしまう。
瞳子ちゃん役者だ。表情を作り、感情を演じるのがとても上手い。
だから、その時の表情も感情も、ただの演技だったのではないかと思ってしまうのだ。
勿論そんなことを考えること自体、瞳子ちゃんに対してとても失礼なことだとはわかっているつもりだけど。
考えてしまう自分は止められなかった。
変わったといっても祐巳は相変わらず、弱かったから。
祐巳が瞳子ちゃんに向ける厚意。または好意。
それが演じられた瞳子ちゃんに向けているものだとしたら?
そして同時に、瞳子ちゃんが祐巳に向ける表情。掛ける言葉。
それが瞳子ちゃんが書いた台本の一部に過ぎないとしたら?
とても辛いことだ。とてもとても悲しいことだ。
だから祐巳は躍起になって瞳子ちゃんを知ろうとしてしまった。
何もかもが独り善がりかもしれないという不安から逃げるように、瞳子ちゃんを追いかけた。
あの、クリスマスイヴの夜も。
「待って」
「うん、そうだった」
「ちょっと、瞳子ちゃんと一緒に歩きたいと思っただけ」
「ああ、お話ね。うん、お話しようか」
「三年生は、自分の思い描く未来に向けて着実に歩みだしているというか……ね?」
「何か、あったの?」
「私の妹にならない?」
祐巳は、忘れない。
思わず放ったその一言が、瞳子ちゃんを打ちのめしたことを。
理由はわからない。
ただ、決して踏み込んではならなかった領域へ強引に踏み込んでしまったことだけは間違いがなかった。
祥子さまの胸で泣くまで、夜気よりも冷たい瞳子ちゃんの声が頭の中でずっと反響していた。
〜〜〜
それから、祐巳と瞳子ちゃんの距離は急速に開いていった。
物理的な距離は変わらなくても瞳子ちゃん自身は那由他の彼方まで遠ざかってしまったようで、もう、偶然なり必然で出会っても、瞳子ちゃんは祐巳の嫌な部分すらも写してはくれない。
どれだけ覗いてもそれはくもったガラスのように、ぼんやりとした影を写すだけ。
その向こうに瞳子ちゃん本人が居るともう知ってしまっているからこそ、祐巳には堪えた。
堪えたけれどもどうしようもなく、悶々とした日々が続いて。
祐巳はその中で一人じっくりゆっくりと考えて。
そして――祐巳は開いた距離を僅かにでも縮めることなく、その日を迎えた。
生徒会役員選挙、投票結果発表の日。
講堂の掲示板に張られた、白い紙には名前が四つ並んでいた。
祐巳、由乃さん、志摩子さんの名前には当選を意味する赤いシールが貼られていて。
そして、瞳子ちゃんの名前には何もなかった。
祐巳は愕然とする。
いざ結果を目の前にして、そうして瞳子ちゃんの丁寧なお辞儀を目にして、瞳子ちゃんのことを何もかも見失っていたことに気が付いて。
瞳子ちゃんが選挙に立候補した後から、もちろんその前からもだけれど、祐巳は瞳子ちゃんのことを考えていた。
嫌がらせかも、いやいや、役員になるのが本当に夢だったからかも。
もし、瞳子ちゃんが当選したら。
もし、瞳子ちゃんが落選したら。
祐巳と瞳子ちゃんはどうなってしまうんだろう。
これから二人は、二人の関係はどうなってしまうんだろう。
一生懸命、色々、いっぱい、考えた。
その全てがまったくの的外れだったんだ、と目の前の結果用紙とあのお辞儀は告げているような気がした。
違った。
何もかもが違っていた。
「瞳子の目的は、負けることだったんです」
呆然とした最中に聞こえてきた、乃梨子ちゃんの声が遠い。
顔面を蒼白にした祐巳は、すがる様に乃梨子ちゃんの手をぎゅっと握って「やっぱり」と思わず呟いていた。
瞳子ちゃんは勝ちたかったんじゃない。
嫌がらせをしたかったわけでも、役員になりたかったわけでもなかったんだ。
でもそれならどうして?
瞳子ちゃん、瞳子ちゃんはこの選挙で一体何がしたかったの?
何を言いたかったの?
私に? 祥子さまに? それともここには居ない誰かに……?
色んな疑問が一斉に浮かんで、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
お祝いの言葉と喜びの賛辞が降り注ぐ中、祐巳はただ一人瞳子ちゃんのことだけを考えていた。
一番の親友である乃梨子ちゃんなら何か知っているだろうか。
知らないまでも、何か気付いたことはあるだろうか。
助けを求めるように祐巳は乃梨子ちゃんの顔を見たけれど、その小さな唇が紡いだ言葉は色よいものではなかった。
「でも、何のために」
その行き場のない問い掛けが意味することは、乃梨子ちゃんも祐巳と同じ立場だということで。
「そっか。乃梨子ちゃんもわからないんだ」
乃梨子ちゃんがわからないなら、きっと世界の誰もわからない。
瞳子ちゃん以外には、その真意を知る術なんてないんだ。
そう思った瞬間に肩の力が一気に抜けた。
「……ということは」
祐巳さまにもわからないんですか?
言葉にならなかったそんな問いに、祐巳は力なく頷く。
知れない。
どんなに頑張っても知れない。
それはとても辛い事実だった。
悲しい結果だった。
乃梨子ちゃんもわからないっていうことが、もう追いすがる気力すら根こそぎ奪ってしまっていた。
今まで祐巳が瞳子ちゃんのことを知ろうとして空回りしてきたことが、酷く空しい。
何とはなく、気付いていたはずだった。空回りだって。そんなことをしても瞳子ちゃんには近づけない、って。
でもそれでも、瞳子ちゃんを想うことは止められなかった。
知りたい欲求を抑えることなんてできなかった。
何故って、瞳子ちゃんのことが好きだから。
好きだから知りたい、それだけ。
それだけなのに――と。
ふと、祐巳は思った。
好きだから知りたい、でも知れない。
でもそれは、知れない相手は好きになれないということなのだろうか。
追いかけて追いかけて、それでも届かない相手は好きじゃないということなのだろうか。
それは違う。絶対に違う。
祐巳は知っている。
決して手の届くような相手ではなかったお方を、祐巳はずっと好きでいれたことを。
傍に居たいとか、支えてあげたいとか、そんな気持ちではなくて。
ただ、好きでいられたことを。
そんなことを思い出していた祐巳は、だからだろうか。
瞳子ちゃんを追おう、と誘ってくれた乃梨子ちゃんに対して首を横に振っていた。
「私は行かない」
追って、仮に教えてくれたとしてそれを知って、だから何だっていうんだろう。
祐巳は瞳子ちゃんが好きだ。
その事実が変わるだろうか。好きな想いが増える? 減る?
そんなことはきっとない。
そんなことがあってはならない。
何を知ろうと、何を知らなかろうと。
祐巳は祐巳で、瞳子ちゃんは瞳子ちゃんで。
その大前提がもしかして全部なんじゃないだろうか。
祐巳と瞳子ちゃんの、全部。
そんな気がした。
けれどそんな思いは(口にしたわけじゃないから当たり前だけど)乃梨子ちゃんには通じなかったみたいで。
「瞳子を見捨てるおつもりですか」
なんて、冷静になった祐巳とは反対にヒートアップした言葉を投げてきた。
「そうみえる?」
「はい」
「正直者」
思わず苦笑する、今年の一年生は本当に上級生に向かってズバズバものを言う。
祐巳は再び首を横に振った。
見捨てるつもりなんて全くない。
それどころか、祐巳は俄然瞳子ちゃんのことが好きなのだ。
たった今再確認したばかりで、この想いはきっと乃梨子ちゃんにも負けない自信がある。
「逆なんだけどな。むしろ」
「逆?」
得心が行かない表情の乃梨子ちゃんに、はっきりと頷いて見せた。
祐巳はこれからも、まだまだ瞳子ちゃんのことで考えなければならない。
祐巳と瞳子ちゃんの歩むべき道のり。
より良い関係の構築。
目標は祥子さまから頂いた首のロザリオを握らせることなんかじゃ決してなくて。
今度こそ離れてしまった距離をもう一度詰め直す、その為に自分は何を為すべきか。
自分はどう在るべきか。
考えなければならない、実践しなければならない。
祐巳と瞳子ちゃんの関係は、終わってしまったわけではないのだから。
〜〜〜
選挙結果発表の日からしばらく経って。
祐巳は昇降口の窓から覗く空をじっと見上げていた。
綺麗に晴れた青空だった。思わず頬が緩んでしまうくらい。
祐巳の手には学生鞄、羽織ったコートはしっかりとボタンが掛けられている。
万全の帰り支度を整えて、下足場までやってきて、それで足を止めていることにはもちろん理由がある。
祐巳は目下、とある賭けの真っ最中なのだ。
帰り際に偶然、本当に偶然、一人だった瞳子ちゃんと奇跡みたいに鉢合わせた。
頑張って頑張って、無理やりに会いに行こうとする自分を我慢していた祐巳だからそれは嬉しかった。
瞳子ちゃんだ! うわー、生瞳子ちゃん!
と、まぁ浮かれて迷わず「駅まで一緒に」と誘ったものの、考えてみれば靴箱前で別れた瞬間に逃げられてもおかしくはない。
祐巳的にはもう停戦交渉の準備は整っているけれど、瞳子ちゃん的にはまだまだ冷戦状態かも知れないからだ。
だから、賭けた。
瞳子ちゃんが少なくとも、その交渉の場についてくれるくらいには落ち着いているか。
あるいは、そんな場を持つ必要性を感じないくらいに祐巳を避けているか。
ぼうと狭い窓から空を見上げる祐巳を待っていてくれたなら前者で、待っていなければ後者ということだ。
「分の悪い賭けかもしれないけどね」
一人呟いた祐巳は小さく笑う。
だって、誘ったは良いけれど「良いですよ」とも「わかりました」とも返事を貰っていないのだ。
「お断りします」と言われていないだけマシだけれど、後者であればその返事をするかどうかも怪しい。
上下関係が厳しいリリアンとはいえ、別に上級生として別に命令したわけでもない。
祐巳の勝手なお誘いなんてシビアに切り捨てて、さっさと帰ってしまうかも知れない。
家に帰れば用事があって、のらりくらりと靴を履き替えて遅い先輩を待っている暇がない可能性だってある。
でも、だからこその賭けなのだ。
大勝負に勝つためには、その前哨戦なんかで負けるわけにはいかない。
小さなところからこつこつと。
先ずはこの賭けに勝って、勢いをつけていきたいところだ。
よし、と。
腕時計の秒針が何度も回るくらいに十分な間を作ってから、祐巳は昇降口を出た。
果たして瞳子ちゃんは、ちゃんとそこで待っていてくれていた。
「お待たせ。行こうか」
「はい」
久しぶりに聞いた瞳子ちゃんの肉声に、祐巳は内心飛び上がらんばかりに嬉しくなる。
祐巳よりちょっとだけ低い身長も、滑舌な言葉の数々も、ちょっとツンツンしてる態度も何もかも。
ああやっぱりこの子のこと好きだなぁ、なんて、思った。
で、も。
「何だろう。わからないな」
「無理言ってごめんね」
「私たちクリスマス以前の関係に戻れないかな」
「私なんか、って卑下するのやめてくれない?」
「私と瞳子ちゃん、どうなっていくんだろう、って」
「ずっと考えていたらわかっちゃったんだ」
「究極、私は、瞳子ちゃんが瞳子ちゃんであればいいんだ、って」
マリア様のお庭で口にしたその一言がきっかけになって、瞳子ちゃんは爆発した。
今度もやっぱり祐巳にはその理由はわからなかった。
「そうですか。そういうことですか――おかしいと思っていたんです――でも、やっと謎が解けました」
その言葉をどう捉えたのか、楽しそうに哂いながら瞳子ちゃんはどんどんと台詞を紡いでゆく。
理解不能な怒りを辺りに撒き散らす瞳子ちゃんの激昂に、祐巳が口を挟む間なんてない。
自嘲か、祐巳への嘲りか。
瞳子ちゃんはどこかで見たような、そうあのクリスマスイブの夜と同じ顔と口調で、瞳子ちゃんは猛った。
「何を言っているのか、わからないわ」
台詞の隙間を付いてどうにか言えたその一言も、「無意識にされていたことなら、尚のこと始末が悪いです」とにべもない。
祐巳の脳裏にあの夜がフラッシュバックした、差し出したロザリオと瞳子ちゃんの冷笑。
何の因果か、場所までぴたりと一致している。
ぞくりと、気温のせいではない悪寒が背筋を駆け上った。
けれど祐巳はそこで以前と同じ過ちを犯すようなことはしなかった。
何故なら、祐巳にはもう焦りがないから。
瞳子ちゃんは瞳子ちゃんであれば良い。
その一つの事柄を強く信じている祐巳だから、瞳子ちゃんの急変にも自分で意外なほど動じなかった。
「ねぇ、何か誤解していない?」
「来ないでください! それ以上、近づかないで!」
努めて冷静に問うた祐巳に、瞳子ちゃんは激しく反発する。
そこにある温度差がより一層祐巳の心を静めてゆく。
敵意を剥き出しに睨めつけてくる瞳子ちゃんを前に、祐巳は小さく息を吐いた。
参った。正直、参った。
祐巳としては殆ど白旗を振っているつもりだったのだが、まさかそれを攻撃の合図として取られるとは。
いや、違うか。
もしかしたら祐巳は自分で攻撃の合図を振ってしまっていたのかもしれない。
わからない。
だって、瞳子ちゃんのことは瞳子ちゃんにしかわからないから。
少なくとも、今はまだ。
「わかった。頭に血が上っているみたいだから、今は何を言っても耳に入らなそうだもんね」
だから祐巳はすぐ折れることにした。ここで突っついても火に油を注ぐだけだ。
点火したのは祐巳なのだろうが、どこで火を点けたのかがわからない以上は何を言っても墓穴を掘りかねない。
今日はここまでかな。
背を向けた祐巳は、溜息を悟られないようにそっと吐いて歩き出す。
残念だけれど、仕方がない。
せめてお別れの挨拶だけでも、と祐巳は振り返ったけれど、瞳子ちゃんの睨視はちっとも和らいでくれていなかった。
単に祐巳が折れるだけでは不満らしい。
らしいと言えばらしいけれど、そのまま諦めて逃げるのは何とも無責任な気がした。
もしこの後、瞳子ちゃんが乃梨子ちゃんや可南子ちゃんに遭遇しようものなら拙いことになる。
どうしたものかと一瞬思考が飛んだ祐巳は、遠い昔にお母さんから教わった気持ちが落ち着くおまじないを思い出した。
祐巳もほとんど忘れていたけれど、今の瞳子ちゃんにはきっとそれが必要だ。
「その場で百数えなさい」
お母さんの言葉をそのままなぞったので、ちょっぴり命令口調で祐巳は言う。
何を馬鹿な、と切り返されるかなと一瞬不安にもなったけれど、今更口にした言葉は取り返せない。
「数え終わるまで動いちゃ駄目よ」
注意事項を一つ残して、改めて祐巳は正門目指して歩き始めた。
歩きながら背後の気配を気にしていた祐巳だったが、罵声が飛んで来たり、瞳子ちゃんが追いかけてくるようなことはなかった。
しばらく歩いてそれが全くないことに安心すると、祐巳はがっくりとうなだれる。
「何でこうなっちゃうんだろ」
一人ごちる問い掛けに答えてくれる人は居るはずもなくて、ぴゅうと吹いた寒風が一人の帰路を実感させてくれただけだった。
本当なら、瞳子ちゃんと和気藹々とまでは言わなくても一緒に帰っていたはずの道程。
バス亭までの決して長いとは言えないけれどそれでも大切な距離を、今祐巳は一人で歩いている。
祐巳に奇跡をもたらせた幸運は、下足場前の廊下で瞳子ちゃんと出会った時に使い果たしてしまったのだろうか。
それとも、その後の小さな賭けに勝った時点で無くなってしまったのか。
どちらにしろ、祐巳はまた瞳子ちゃんとの距離を詰めることに失敗したことには違いなかった。
「失敗、失敗……か。はぁ」
一人寂しく笑ってみても、慰めてくれる人も叱ってくれる人もいない。
それが空しくて、祐巳は口を噤んだ。
清清しく晴れ渡った空の下に伸びる枯れた銀杏並木は、一人で歩くには少し寂しい。
嘘。
凄く寂しい。
少し前まで瞳子ちゃんと一緒に帰っていたという事実が、寂しさをどこまでも助長した。
祐巳が何か言って、瞳子ちゃんが突っ込んで、祐巳がたははと笑い、瞳子ちゃんが全くもうと呆れる。
そんな他愛のない有り触れた家路は、今の祐巳には高値の花に過ぎなかったということだろうか。
祐巳は一度首を横に振った。
他愛のない有り触れた家路は、結局のところ、有り触れてなんていないということだ。
でもそれはまだその段階ではなかったというだけのこと、諦めるには早すぎる。
今頃、瞳子ちゃんは数を数えてくれているのかな。
寂しさを忘れるように、見上げた空に問い掛ける。
お願いとは違って名目上、上級生の言い付けだ。リリアンっ子なら無下にできるものじゃない。
きっと瞳子ちゃんは意味もわからず数を数えてくれているだろう。
数え終わる頃には、頭に上った血も幾ばくか下がっている筈だ。
少しはお姉さんらしいことができたかな、と。
くすっと笑って前を向いた祐巳の視界がぼやける。
何だろうと目を瞑った途端、一粒の涙が零れたのがわかった。
「あれ」
目を開ける。
頬を伝った涙の跡が風に吹かれて冷たい。
目尻を拭えば、端っこに残っていた涙の欠片が指についた。
寂しかったからじゃない。いくらなんでも寂しくて泣くような歳でもない。
人が涙を流すのは悲しいから。
拭った涙をぼうと眺めながら、祐巳はそれでようやく、今自分が悲しいんだってことに気付いた。
拒絶されたのはこれで二度目。
二度目とはいえ差し出した手を叩き落されたことは同じで、悲しくないわけがなかった。
苦しくないはずが、なかった。
「駄目だね……私。しゃんとしないと瞳子ちゃんに笑われるぞ」
呟き、祐巳はぱちんと音を立てて頬を挟む。
ちょっと強くしすぎて顔がひりひりと痺れた。
でもそれで、涙の跡は気にならなくなる。
そうだ、そうだ、そうだとも。
祐巳は祐巳、瞳子ちゃんは瞳子ちゃんであれば良いって気付いたんだ。
それを祐巳が守れなくてどうする、くよくよめそめそは祐巳らしくないぞ。
しゃんとしよう。
強くなろう。
さっき爆発した瞳子ちゃんも、祐巳の大好きな瞳子ちゃんなんだ。
その爆発を無理に抑えることなんてない。
逃げることも、もうしない。
その爆発を真正面から受け止めるんだ。
だって祐巳は瞳子ちゃんのことが大好きだから。
それ以外の理由は要らないし、それが祐巳の全部なんだから。
晴れ渡る空をもう一度見上げた祐巳は呟く。
「また、明日ね。瞳子ちゃん」
前途多難にして遼遠なり。
それでも、突き進むと決めた祐巳の顔は、空に負けじと清清しく晴れていた。
ARIAクロスです!!思いっきりごちゃ混ぜ状態だったりします。
【No:1328】【No:1342】【No:1346】【No:1373】【No:1424】【No:1473】【No:1670】【No:2010】【No:2044】―今回
まつのめさま―【No:2079】
「嘘!?」
それがリリアン女学園に着いた祐巳の第一声だった。
今はマンホームと呼ばれる地球に、ARIAカンパニーの社員旅行としてやってきた祐巳はハッキリ言って後悔していた。
そこに祐巳が知るものは何も無かったからだ。
海にも空にも巨大な都市が建造され、目に映るのは都市の姿だけ。
まぁ社長ではないが気分は沈んでいくばかりだ。
その、まぁ社長はどうやら火星猫の性質がマンホームと合わないのか体調を崩し、一緒に来たオレンジぷらねっとの期待のルーキーで祐巳の親友であるアリスさんと一日先にAQUAへと帰っている。
祐巳もこのリリアン女学園を見たら再びAQUAへと帰る。
どうして、先にリリアンへ来なかったのかと言えば怖かったからだ。
知っている姿が、全て知らないというのは恐怖しか生まない。
『変わった』では、すまないその変化に祐巳は嫌悪感を覚えていた。
だから、リリアンに来るのが怖かった。
祐巳にとってどこよりも大事な場所。
今の祐巳と過去の祐巳を繋ぐ思い出がある場所。
そこが変わっていたら祐巳は本当に自分自身耐えられないと思っていたのだ。
だが、祐巳たちアリアカンパニーが来るということで案内をかってくれたアイちゃんが自信を持って大丈夫ですというのでようやく最後に来たのだ。
そして、祐巳は声を上げたのだ。
そこには祐巳の記憶と殆ど変わらない景色が残っていた。
確かに新しい校舎や体育館などは見えるし、銀杏並木の木々も驚くほど大木に成ってはいたが、それでもマリアさまはそこにいて、祐巳が過ごした校舎も未だに残っていて使用もされていると知った。
そして、薔薇の館。
確かに今は使われていないのかも知れないが、祐巳の記憶のままにそこにあった。
「祐巳さん、入りますか?」
そう言ってアイちゃんは薔薇の館の古びた扉を開く。
一歩、中に入る。
「……」
階段のステンドグラスから差し込む光。
そこには蔦子さんと一緒に、志摩子さんに案内されて初めて感じた薔薇の館の空気がそのまま残っているような感じさえ受けた。
「上がってもいいかな?」
「どうぞ、見学は出来ますから」
アイちゃんに促され祐巳は階段を上る。
――ギシギシ。
今にも壊れそうな音が響く。
「ここに薔薇さま方はいらっしゃいませんが、山百合会の別室として管理されているんです」
「それじゃ、今の薔薇さまたちが管理しているんだ」
「正確にはつぼみの方々ですね。つぼみの業務としてあるようです……山百合会が開く茶話会などの会場としても使われているようです」
「えっ?使われているの?」
祐巳の言葉にアイちゃんは頷く。
少し驚きだ、祐巳は使われていないと思っていたからだ。それに……。
「……茶話会?」
祐巳は階段の途中で止まり、後ろのアイちゃんを見る。
「はい?どうかしましたか」
「ううん」
あの当時の茶話会が、まだ続いているとは考えられない。今の薔薇さまたちが始めたと思った方が自然だろう。……だが、もしも続いていたのなら過去の多くの薔薇さまたちに感謝したい気分だ。
その中には、勿論、志摩子さんや由乃さん、志摩子さんの後を継いだであろう乃梨子ちゃんも含まれている。
「開けるね」
「どうぞ」
祐巳はゆっくりと手に力を込めた。
ビスケット扉がゆっくりと開いていく。
……。
…………。
宇宙船がマンホームから離れていく。
小さくなっていくマンホームを、祐巳は眺めていた。
「地球……綺麗ですね」
「……祐巳ちゃん?」
一つ本当に良い事があると人の思い出は本当に素敵なものになる。
終わりよければ全て良しではないが、まぁ、そんな所だ。
「祐巳ちゃん、旅行どうだった?」
「楽しかったですよ、本当に灯里さんとアリシアさんには感謝しています。来て良かったと思えますから」
「そう、それは良かったわ」
祐巳は、灯里さんとアリシアさんの笑顔に笑顔で帰す。
「それにしても、マンホームの東京にあんな学校が残っていたなんて知らなかった。私も通いたかったな」
「ふふふ、そうですね」
シミジミ呟く灯里さんに祐巳は笑い。もう一度、リリアンに思いを馳せる。
薔薇の館の二階、今は茶話会の会場として使われている場所もまた、祐巳がいたときと何も変わってはいなかった。
窓から差し込む優しい光。
少し古びた木の香り。
ビスケット扉を開けば、そこに祥子さまや仲間達が待っているようなそんな錯角さえ覚えた。
涙腺が弱くなる。
祐巳は泣かないようにと思いを別のことに移そうとして、一つのことを思い出す。
……そういえば。
祐巳が思い出したのは、薔薇の館の窓辺に書かれた悪戯書き。
窓辺の柱に掘り込まれそれは、長い年月の間に読みにくく成ってはいたが傷跡はまだ残っていた。
そんなものを祐巳がどうして見つけ出せたのかは分からないが、こんな事を過去の薔薇さまがしたのかと思うと少し悲しくなった。
柱に刻まれた傷跡。
読めなかったが、この傷跡の話は有名らしく。アイちゃんの話では、病気で来られなくなった薔薇さまに妹が宛てたメッセージだとも、その逆だとも言われているようで本当のところは分からないと笑いながら伝わっているメッセージを教えてくれた。
『私は貴女の側にいます』
たった、それだけのメッセージ。
何時誰が誰に宛てたのかも分からない言葉。
アイちゃんの話では、謎めいたメッセージはリリアンの乙女達の格好の話の話題に成りやすいらしい。
確かにリリアンの乙女達にとっては楽しい話題の一つになるだろう。
彼女達にとって、このメッセージは昔話の物語なのかも知れないが、祐巳にとっては……。
「これってもしかすると祐巳さんに宛てた手紙なのかも知れませんね」
アイちゃんの言葉が頭に響く。
祐巳も、もしかしたらとも思うが、違うのかも知れない。
……お姉さまが、そんなこと許すかな?
祐巳が違うと思う理由、それは祐巳のお姉さまである祥子さまのことを考えると有りえないとしか考えられないからだ。
……お姉さまなら、どんな理由があっても許さないだろうなぁ。ふふふ。
その様子は簡単に頭に思い浮かべることが出来た。
「お姉さま」
今の祐巳と祥子さまの距離は信じられないほど遠い。
それでも繋がっていると感じられるのは祐巳の勝手な思い込みだろうか?
窓の外に目を向けると、もう地球は見えなかった。
祐巳は目を閉じて体重を座席に預ける。
少し、眠ることにした。
「祐巳ちゃん、祐巳ちゃん」
祐巳は自分を呼ぶ声で目を覚ます。
「ふぁぁ」
「AQUA見えてきたよ」
祐巳を起こしたのは灯里さんだ。
「AQUA……」
窓の外を見ると青い星が見えた。
地球――マンホームではないAQUAだ。
「なんでしょう?何だかホッとしますよね」
「あっ、やっぱりそう?私も同じだよ」
「「……あははは」」
マンホーム出身の二人がホッとするのがAQUAの方なのだから笑うしかない。
だが、それが本当に気持ち。
しかも、ネオ・ヴェネツィアが見えてくれば尚更で、降り立ったときには本当に帰ってきたと言う気分だった。
「ん〜っあ!!」
背筋を伸ばしAQUAの空気をおもいっきり吸い込む。
胸いっぱいに広がる潮を含んだ空気、帰ってきたって感じる。
祐巳の横では、灯里さんも同じ事をしていた。
「あらあら、それじゃ私も」
それを見てアリシアさんも空気を吸い込む。
「すっわ!!……お前達は何をやっているんだ?」
後ろからかけられた声に振り向くと、姫屋の晃さんが立っていた。
「人が朝早くから迎えに来てやったというのに」
晃さんの言葉に近くの時計を見れば、まだ、朝の九時。
「あらあら、ありがとう。晃ちゃん」
「ごきげんよう。晃さん……AQUAを感じていたんです」
「AQUAはホッとするんですね」
「……あのなぁ……まったく、大ボケ三人組が……でもまぁ、お前達らしいよ」
笑う晃さんと一緒に船着場に向かう。
船着場には姫屋の晃さんの白いゴンドラが停留されていた。
「さっ、乗りな。送っていくから」
晃さんの漕ぐゴンドラで今や我が家であるARIAカンパニーに戻っていく。
「ところでマンホームはどうだった?楽しかったか」
晃さんの質問に祐巳は灯里さんとアリシアさんと顔を合わせ、ニッぱっと笑った。
「ほぉぉ、楽しかったようだな」
「はい、とっても」
「それは良かった。だが、お前達がいない間、こっちでも楽しいことがあったぞ」
ニヤニヤと何やら楽しそうな晃さん。
「楽しいことですか?」
「そうだ、楽しいことだ」
「あらあら、晃ちゃんが楽しそう」
「何なんですか?」
晃さんはまた笑って……。
「今は秘密だ!!」
ハッキリと楽しそうにそう言って、また、笑った。
「帰ってきた〜!!」
晃さんに送ってもらい数日振りの我が家。
「祐巳ちゃん、窓を開けてくれる?」
「は〜い」
祐巳は先にARIAカンパニーに入り、窓を開いていく。
濁った室内の空気が、潮を含んだ新しい空気に入れ替わっていく。
「祐巳ちゃ〜ん!!」
「はーい!!」
窓を開けて快晴のAQUAの空を見ていた祐巳は、アリシアさんの声に急いで戻る。
「あっ、アリシアさん、どうしたんですか?」
一階に降りた祐巳は、ARIAカンパニーの制服に着替えたアリシアさんを見つけた。
「アリア社長を迎えに行ってくるから」
「えっ、あぁ、それなら私も」
「あぁ、祐巳ちゃんはゆっくりしていていいわよ」
「ですが……」
そういった雑用は祐巳の仕事だ。
「あらあら、本当にいいのよ。グランマにも少しお話があるしね」
「そうですか」
「それじゃ、船着場まで送ってやろう」
祐巳が頷くと、アリシアさんは晃さんのゴンドラに乗り出かけていった。
「いってらっしゃ〜い」
祐巳はアリシアさんを送り出して、灯里さんが居ない事に気がつく。
「灯里さ〜ん」
「はーい!!」
少し探すと灯里さんも制服姿で二階から下りてきた。
「灯里さんも着替えたんですか?」
「うん、お土産を配ってこようと思って」
「それなら私も」
「祐巳ちゃんはゆっくりしていてよ。それじゃぁ、少し行ってくるから」
「行ってらっしゃい」
灯里さんを見送ると、ARIAカンパニーには祐巳一人だけが残ることになる。
……ゆっくりしていて良いと言われてもなぁ。
祐巳はそんな事を思いながらプライベートルームに上がり、下りて来たときにはARIAカンパニーの制服に着替えていた。
「うん!!」
祐巳は気合をいれ船着場に向かい、手馴れた感じで準備を終えるとゴンドラを漕ぎ出す。
祐巳の操るゴンドラは、ゆっくりとARIAカンパニーの前の海に漕ぎ出す。
祐巳のオールだけでゴンドラは緩やかに進む。
「……これで落ち着けるんだから、すっかり慣れちゃったよね」
頬を潮風が撫でていく。
ゴンドラを止めただ波に揺られる。
マンホームに行って良かったと思う。
祐巳にとって大事な繋がりがそこにあることを確認できたから……。
薔薇の館も。
リリアンも。
本当に祐巳の大事な場所。
そして、あのメッセージ。
「……私の側にいるかぁ」
祐巳はロザリオを握り締める。
「でも、こちらも今では大事な場所なんだよね」
ここで不意に、祐巳の本来の世界に戻ることが出来るとしても祐巳には答えは出ないだろう。
だから、戻れないというのは逃げかもしれないが選択肢が無いことに祐巳は少しだけ安堵していた。
ただ、心残りがあるとすれば……。
「……瞳子ちゃん」
最初の出会いは最悪だった。
それでも今では瞳子ちゃんにロザリオを渡さなかったことを後悔している。勝手な願いだが、瞳子ちゃんが紅薔薇さまを継いでくれていると、祐巳は嬉しい。
「ふふふ、こんなんじゃまた由乃さんに怒られちゃうなぁ」
祐巳は会えない友人の事を思い出す。
以前、由乃さんに『祐巳さんは後から考えてウジウジと悩むタイプよね』とか言われたことがある。
本当にそうだと思う。
「……てっ、また考えているし」
人間、環境が変わったくらいではそうそう変わらないということか?
「困ったものだ……ん?」
ARIAカンパニーに戻ろうとした祐巳は少し離れた岸側をフラフラ進む黒いゴンドラを見つけた。
乗っているのはどうやら二人。
白い服からして水先案内人=ウンディーネ見習いといったところか?
流石に距離があるので、制服のラインの色までは分からないからどの会社所属かまでは分からないが、少し羨ましい。
ARIAカンパニーは少数の小さな小さな会社。
同僚はいない。
アリシアさんも灯里さんも優しく立派な先輩だし、アリスさんのような友人もいるが、それでも時々お邪魔する姫屋やオレンジぷらねっとで同じ同僚らしいウンディーネ見習いが話しているところなんか見ているとやっぱり羨ましい。
見習いのウンディーネが漕ぐゴンドラは、フラフラしながら祐巳の方に気がつくこともなく離れていった。
「さて、お昼でも準備しとこうかな」
祐巳は、危なっかしいゴンドラを見送り。ARIAカンパニーへと戻っていく。
アリシアさんも灯里さんもお昼に戻ってくるかは知らないけど、まぁ、残ったら夕食で食べればいいだけのことだと考え。
祐巳は自分の好みで昼食のメニューを決めたのだった。
結局、お昼はアリシアさんも灯里さんも戻って来たし、アリシアさんと一緒にアリア社長も戻ってきたので、少し昼食の量が足りなくなった程だった。
「それじゃ、私は一度、家に戻るわね」
「はい」
「灯里ちゃんと祐巳ちゃんはどうする?」
「ほえ〜、私は少しお昼寝します」
灯里さんは疲れたところにお腹が膨れたためか、少し眠そうだ。
「それじゃぁ、私は少し行きたい所があるので出かけてきます」
祐巳は眠そうな灯里さんに確認を取る。
「いいよ。でも、どこに行くの?」
「私もお土産を渡したい人がいるので」
そう言って祐巳は、白い包装紙に赤いリボンがついた小さな箱を見せる。
「あれ、そんなお土産何時買ったの?」
「えへへ、リリアンの購買部で……本当はお土産用ではないんですけどね。大事な友人は喜んでくれると思って、アリア社長!!」
「ぷいにゅ?」
「すみません、付き合ってもらえますか?」
「ぷいにゅ!!」
祐巳の言葉に大きく頷くアリア社長。
「それじゃ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
アリア社長を乗せてた祐巳のゴンドラはゆっくりとARIAカンパニーを離れる。
目的地は今は誰も使っていない古びた水路の奥。
祐巳の秘密の場所……と言うほどでもない。
灯里さんもアリスさんも知っている。それどころか藍華さんも知っているらしい。
でも、誰も積極的に行くことはしない。
祐巳も本当に用事のとき以外は行こうとは思っていない。
あそこは猫たちのテリトリーだから、人が荒らすことは許されない場所。
ただ、今回は手渡しが出来なくても、祐巳自身の手で届けたいのだ。
細い水路を抜けると今は水の中に浸かった体育館のような廃墟に出る。
シンと澄んだ冷たい空気がそこは支配していた。
……ここの空気って。
それは薔薇の館に似ていた。
祐巳はここが本当に大事な場所だと感じ、祐巳はゴロンタを呼ぶのを止め。静かにお土産を小さな瓦礫が水の上に顔を出していた場所に置く。
「……この方が良いですよね」
祐巳は確認を取るようにアリア社長を見るが、アリア社長は小さく首を傾げただけだった。
祐巳はゴンドラをUターンさせ、水路に戻っていく。
「それじゃ、またね」
そこでようやく祐巳は姿が見えない友人に呟いた。
祐巳は振り向かずゴンドラを自分達の場所へと進めていった。
ARIAカンパニーの社員旅行も終わり。日常が戻ってくると思いきや、祐巳は右手にデッキブラシ。左手にホースを持って、目の前には陸に揚げられた祐巳のゴンドラがデン!!と鎮座していた。
何でもARIAカンパニーのお休みは今日まで取ってあり、今日はゴンドラを陸に上げて普段水中に使っている部分の掃除とメンテナンスをやるのだ。
「うっ!!」
ゴンドラの船底には、よく海で見かけた貝などが取り付いていた。
「祐巳ちゃん!!やるわよ!!」
灯里さんも自分の白いゴンドラを前にして気合を入れている。
「はい!!」
当然祐巳も気合をいれ掃除に取り掛かる。
まずはコテで貝を剥ぎ取る。
――ぱこ、ぱこぱこ。
面白いように取れていく。
貝を取ったらブラシでゴシゴシ。
「う、うでが〜!!」
ゴンドラ漕ぎで体力はついている筈だが、この作業はやたらと疲れるし肩が痛い。
「灯里さ〜ん、腕痛いです!!」
「ほぇ〜、私も同じ〜」
祐巳も灯里さんもそんな事を言いながら顔は笑っているので、実際としては楽しい作業なのだ。
ちなみにアリシアさんはARIAカンパニーのゴンドラの許可の更新に行っているのでココにはいない。
アリシアさんのゴンドラはまた後日清掃と言うことで、今は泡だらけにした二つのゴンドラを水で洗い流し、乾いたタオルで隅々まで水を拭き取っていく。
「よし、拭き終わった!!」
「それじゃ、次はコレだよ」
「はい?」
「まずは防水コートオイルで、次にコレが水滑り用オイルと仕上げのアリシアさんお手製スペシャルワックス!!」
「おぉ!!これ三種類とも塗るんですか?!」
祐巳の言葉に灯里さんは嬉しそうに頷いた。
祐巳はゴンドラを洗っているとき、父が車を洗っているのを思い出したがそれ以上に手間隙をかけて大事にするんだなぁと感じたが、やり始めるとついつい凝ってしまうもので……。
「二度塗り終わりました!!」
「こっちも終わり!!」
ゴンドラはピカピカに成りました。
「綺麗ですね」
「綺麗だね」
「ピカピカですね」
「ピカピカだね」
綺麗になったゴンドラを灯里さんと眺めている。
秋の暖かい日差しが、一仕事終えて疲れた体に心地よい。
――チリ〜ン。
「……」
――チリンチリン。
「あっ、この鈴の音……ゴロンタ?」
それは祐巳がリリアンのお土産としてリリアンの購買部で買った鈴の音。まぁ、鈴の音の聞き分けなど、祐巳には出来ないが。
祐巳はゆっくりと鈴の音の方に顔を向ける。
いつの間にか赤い夕日が海を照らしていた。
その夕日の中を、一艘のゴンドラがスーと……。
スーと……。
……ゆっくりと進んでいく。
鈴の音は、そのゴンドラの方から聞こえてくるようだ。
ゴンドラには二人の人影のシルエット。
祐巳はゆっくりと立ち上がり背を伸ばす。
潮が満ち始めゴンドラが浸かりだしていた。
「行きますか灯里さん」
「そうだね、アリア社長行きますよ!!」
「ぷいにゅう」
祐巳は綺麗になったゴンドラを海に出し、灯里さんもゴンドラの下から這い出してきたアリア社長を乗せ白いゴンドラを海に出す。
「祐巳ちゃ〜ん、灯里ちゃ〜ん」
「あっ、アリシアさん」
祐巳と灯里さんがゴンドラを漕ぎ出したところにアリシアさんも戻ってきた。
それから祐巳はアリシアさんと灯里さんと一緒に、夕焼けの海でゴンドラを遊ばせ。
何時しか、鈴の音は止み。
あのゴンドラも居なくなっていた。
〜おまけ〜正しいアリア社長の遊び方(嘘)
今日はゴンドラを洗っている。
アリア社長も手伝っている。
「ぷいにゅ?」
ふとゴンドラの下を見れば、真ん丸のアリア社長でも通り向けられるくらいの隙間を発見した。
「……」
見習いの祐巳とARIAカンパニーのホープである灯里は、ゴンドラを洗うのに夢中のようだ。
――ドキドキ。
以前、一度だけ行ってしまったパラレルワールド。
男女あべこべの世界。
そこに祐巳は居るのだろうかと好奇心が生まれる。
「にゅっにゅっ」
お腹がつかえて中々進めない。
「ぽにゅう!!」
お腹が抜け、コロンコロンと転がっていく。
無事抜けれたようだ。
「もう、アリア社長何しているんですか?」
そこはアリア社長の願いでは、男女あべこべの世界だったはずだ。
だが、アリア社長は知っている声に、顔を上げ固まった。
祐巳がいた。
いつものツインテールに、ARIAカンパニーの制服を着込んでいる。
「……」
どうやら失敗だったようだ。
「ぷいにゅ」
アリア社長はがっかりと項垂れる。
「アリア社長、そんなところにいると濡れますよ?」
アリア社長はその声に振り向く。
短パン姿の灯里がいた。
男の子の灯里、でも祐巳は女の子。
「????」
アリア社長の頭の中は大混乱。
「祐麒ちゃん、アリア社長を連れて離れていて」
「はい」
祐麒?
祐巳ではないのかとアリア社長は思った。
やっぱりここはこの前とは違うけれどパラレルワールドのようだ。
アリア社長は逃げ出すことにした。
「あっ、アリア社長!!」
祐麒の腕から逃げ出したアリア社長はゴンドラの下に逃げ込む。
「アリア社長!!ダメですってば!!」
祐麒が追いかけてくる。
掴まる前に逃げなくては!!
アリア社長は間一髪逃げ出し、ゴンドラの下を潜り抜けた。
「ぷいにゅ〜」
「アリア社長、どうしたんですか?」
そこには女の子の灯里がいた。
「灯里さ〜ん!!」
「祐巳くんが待ってますから行きましょう」
どうやら祐巳らしい。
アリア社長は安堵して、灯里のゴンドラに乗り込んだ。
アリア社長の今回の小冒険も無事終わったのであった。
先に出た祐巳のゴンドラが近づいてくる。
祐巳は、短パンのARIAカンパニーの制服を着ていた。
「ぷいにゅ〜う!!!!」
マンホームは最初、リリアンも変わってしまって祐巳の思い出など無い方向で進めていたのですが、どうも違うだろうと残す方にしました。
コレ以降は、あまり、まつのめさまの方とは絡まないので、まつのめさまご自由に楽しんでください。
あと、おまけは今回ARIAの絡みが少なかったので、前からやりたかった小ネタなのでやってしまいました。
ここまで読んでくださった方々に感謝。
『クゥ〜』
フィガロの結婚クロスオーバー。
サブタイトル:「真里菜の結婚・なんでそ〜なるの!?」
最終回でございます。
(第8幕・修羅場のあとには大団円)
お屋敷の中庭は、大変なことになっています。
その瞳に激しい怒りを込めて、ご領主さまは真里菜さんをにらみすえます。
急を聞いて集まってきたお屋敷の使用人たちが、不安そうに見守っています。
「真里菜さま…あなたもやってくれますよね」
「それはこっちのセリフだ」
突如として冷たい風が一陣、吹き抜けたあと。
ご領主さまと真里菜さんは、手にした剣を激しくぶつけあいました。
「ああっ!」
悲鳴とも驚きともつかない声が、まわりから上がります。
ご領主さまの攻撃をすばやくかわしながら、真里菜さんも攻撃の手をゆるめません。
剣の腕においては、智子さまも真里菜さんもまったくの互角。
今回は特に、それぞれに大事な人への思いがかかっている分、手加減するわけには
いかないのです。
(討ちてし止まむ…!)
その一念のみが、2人をここまで駆り立てているのです。
しかし…ここで智子さまが真里菜さんのわずかな隙をついて右手首に強烈な一撃!
思わず剣を落とした真里菜さんの胸に、剣の切っ先が迫ってきました。
「負けを認めなさい。そしたら命だけは助けてやるわ」
「冗談じゃないね。誰があんたなんかに」
智子さまの顔色が土気色になり、さらに剣が迫ってきます。
(もうだめかも…)
真里菜さんの脳裏に、これまでの日々がよみがえってきました。
優しい育ての親とともに過ごした日々。
ご領主さまのお屋敷に働きに出て、そこで美咲さんと知り合ったとき。
恋する気持ちが結婚にまで高まった瞬間。
そして…今目の前にいる領主の横恋慕とともに、終わろうとする命。
静かに目を閉じる真里菜さん。
「さあ、やりなよ」
目を閉じたままで最後の言葉をかけたとき。
「いい加減にしなさい、智子」
それは聞き間違いようもない、領主夫人ちあきさまの声。
驚いて目を見開く真里菜さんと、手にした剣を落とす智子さま。
「…お姉さま…じゃぁ、ここにいるのは…!」
あたりを見回して、ようやく自分の犯した罪に気づいた様子です。
「すべてはあなたの浮気心が起こしたことよ」
智子さまはがたがたと震えだし、ついにその場にへたりこみました。
「許して…!お姉さま、お願い、許して…!」
その姿を見た真里菜さんは、その場に立ち上がって一言。
「智子。自分の家族を幸せにできない女に、国を治めることなんてできないよ…
美咲やちあきの気持ち、考えたことある?」
地面にひざまずき、智子さまの目をしっかり見据えて話しかける真里菜さん。
そこにはもう、先ほどまでのような激しい感情はなく、あるのはただ穏やかな色のみ。
その目を見た智子さまの目から、とめどなく涙があふれます。
「…お姉さま…申し訳ありませんでした。これほどお姉さまに愛されていながら…」
「もういいの。気づいてくれたなら」
ちあきさまは優しく許してくださいました。
「美咲…今まで邪魔してごめんなさい。もう私のことは大丈夫だから…
真里菜さま。この子は私の大切な妹です。
どうか、どうか幸せにしてあげてください…」
ようやく美咲さんを送り出す決心がついた智子さま。
その表情はとても明るく、慈愛に満ちています。
これから先はどんなことがあっても、ちあきさまと一緒に幸せを築くことができるでしょう。
「あとさ、涼子ちゃんのことだけど…この国の兵役は確か2年だったよね?」
「はい。本人側によほどの事情がない限り、原則2年が法で定められておりますが…」
すると先ほどから沈黙を守っていた美咲さんが、一枚の書類を智子さまに差し出しました。
「これは…!」
「まぎれもなくお姉さまの字ですよね?」
そこに書かれていたのは、自分の屋敷の使用人は兵役期間を短縮、または免除するという内容の決定。
軍隊にとられて公邸内の人材が減るのを恐れた智子さまが、裁判所にかけあって自分の名前で通達を出したものです。
「…分かりました。涼子ちゃんの軍隊行きはなかったことにします」
「だってさ、涼子ちゃん。よかったね」
パチンと指を鳴らす音が響いたかと思うと、次の瞬間そこに見えたのは、
自分がかつて追放した秘書の姿。
「理沙ちゃんが智子のお部屋を掃除したときに見つけたんだってさ。
大事な書類はちゃんとしまっとかなきゃだめだよ?」
ぼうぜんとする智子さま。
「もう…これだから智子さまは放っておけないんだ」
涼子さんは苦笑いしながら、再び主人となった人に向かい合いました。
「ごめんね涼子ちゃん…これからまたよろしくね」
「もちろんですよ」
その瞬間、一部始終を見守っていた人々の中から大きな拍手と歓声が沸き起こりました。
「さあ、みんな宴会の準備をしてちょうだい!今夜は朝まで祝宴よ!」
パンパンと勢いのいい手拍子の音と、ちあきさまの張りのある声が中庭に響き、
和やかな宴は朝日が昇るまで続いたのでした…
騙し騙され、嘘つきつかれ、いろいろあった一夜の出来事。
お楽しみいただけたなら、この上もない喜びでございます。
『マリア様もお断り!?』シリーズ
これは[思春期未満お断り・完結編]とのクロスオーバーです。
多分に女の子同士の恋愛要素を含みますので、苦手だという方は回避して下さい。
【No:1923】→【No:1935】→【No:1946】→【No:1969】→【No:1985】→これ
しとしとと…控えめに降る雨の中、志摩子は夢中で走り続けていた。
ここがどこか、とか。誰かに見られるかもしれない、とか。そんなことはどうでも良かった。
(悔しい…悔しい………悔しいっ!!)
細かい霧雨は一瞬で志摩子をずぶ濡れにすることはなかったが、それでもすぐに髪が、制服が雨を吸って重くなってくる。
(だって…仕方ないじゃない!あの人は祐巳のことを私よりも…ずっと前から知ってるっ)
祐麒からシンディの話を聞かされた時、どす黒い感情が渦を巻いた。志摩子はそれが何なのか知っている。
(この一ヶ月だってあの人は……それなのに私はっ!…あの人の知ってる祐巳を…私は知らない……っ)
それは『嫉妬』。祥子にも瞳子にも、祐麒にすら抱いた醜い感情。
「…はぁっ……はっ………あっ!!」
――バシャッッ!!
「…つぅ……っ」
泥濘に足を取られて地面に大きく投げ出された。その際、足を挫いたようで立とうとすると右足に激痛が走る。
痛みはあるが立てないほどではないと志摩子は判断した。
(…暫く冷やしていれば大丈夫そうね)
蹲って小さく溜息をついた。何か捕まる物を…と思い辺りを見回していると。
「……志摩子っ!?」
志摩子を追いかけてきたのか、少し離れた場所にいる祐巳の悲鳴に近い声が聞こえた。
(傘もささずに…追いかけてきてくれたの?)
祐巳もこの雨の中を走ってきたのか、全身濡れていて二つに結わえた髪からは雫が滴っていた。
「…右足?捻ったの?…大丈夫?」
「…大丈夫。平気よ、これくらい……っ…きゃぁっ!」
「志摩子!?」
祐巳の手を借りて立ち上がった志摩子はそのまま歩こうとしたが、また、今度は小さく痛みが走りバランスを崩した。
幸い祐巳が抱き留めてくれたので大事には至らなかった。
「ばかっ!捻挫を甘く見ないの!…もしアキレス腱とかに何かあったらどうするの!?」
温厚な祐巳が珍しく声を荒げて怒鳴った。
祐巳は志摩子の制服に軽くついていた泥を払って――芝生の上で転んしまったのだ――から徐にしゃがみ込んだ。
「ほら、乗って」
「え?」
「おんぶ。無理するのは良くないから」
「で、でも…」
「保健室、行こう?ね?」
渋る志摩子に祐巳は穏やかな笑みを見せた。優しいその笑顔に、志摩子は頷いておずおずと祐巳の首に腕を回す。
「立つよ?ちゃんと捕まっててね」
『よっ』という掛け声と共に立ち上がって、志摩子を抱え直す。
「大丈夫?落ちそうじゃない?」
「ええ」
(祐巳…あったかい)
祐巳の背中は志摩子と同じくらいのはずなのに、なぜかとても大きくて、そして温かかった。
(この温もりを…誰よりも…私が一番知ってるのにね…)
「…ごめんなさい」
「へ?」
「たった一ヶ月すれ違っていただけなのに…何だか不安になってしまって…ばかよね」
「志摩子…」
祐巳が歩く度に伝わってくる振動が心地いい。
志摩子は祐巳の声を聞いていたくて、どうでもいい――本当は良くないが――ことを聞いていた。
「あの…今更だけど、重く…ないかしら?」
「ううん、全然。それどころか…背中の辺りがふかふかで気持ちいいよん」
「…っ……ばか!」
(もうっ!祐巳ったら…本当にお姉さまそっくりになってきたんだからっ)
志摩子は最初こそ悪態をついていたものの、すぐに一緒になって笑っていた。
***
ほどなくして渡り廊下が見えてきた。
どうやら志摩子は知らないうちに体育館の近くまで来ていたらしい。
「し…」
「ねぇ、見て。体育館、卒業式の用意も完全に整ってるわね」
「え?あ…うん。そうだね」
渡り廊下に上がったところで祐巳が話しかけようとしたのだが、そのことには気付かず志摩子は続けた。
「春から…春からはリリアン女子大なのよね…」
(そうよ。シスターになることは忘れなくては…私は…リリアンに進むのだから)
「…私ね、大学でも皆と一緒に過ごせるのがすごく楽しみなの」
祐巳は何も言わずに志摩子の話に耳を傾けている。
「高等部にいた頃と変わらずに皆でお弁当を食べたり遊びに出掛けたり……もちろん祐巳とずっと一緒にいられることが一番の楽しみよ」
シスターになることを忘れ『大学』というそう遠くない未来に思いを馳せるその一方で。
もし、大学での四年が経って…忘れるどころか、シスターになりたいという気持ちの方が強くなっていたら…自分はどうなるのだろうか。祐巳ではなく、シスターになることを選ぶのだろうか。
それはあまりにも自分本位な考えではないだろうか。
「…志摩子は」
「え?」
今まで黙っていた祐巳が唐突に話しだした。
「志摩子はいつも、何にでも真剣で、辛いことでも全部受け入れてしまえるくらい靭(つよ)い。だから…好きになったの」
「祐巳?」
突然何を言い出すのか…志摩子からは前を向いている祐巳の表情は見えない。
「ううん。きっと、初めて会った時から私は志摩子に恋してたんだ。…本当にマリア様みたいに綺麗だったから。だからシスターになりたいって聞いたとき、志摩子にぴったりだなって思ったの」
祐巳の言葉に頬が熱くなる。鼓動も早くなっていく。
「…志摩子が好き」
(祐巳っ…)
「私も!好きよ…祐巳」
志摩子は堪らなくなって降ろしてほしいとせがんだ。元々軽く捻っただけなので自分で歩くこともできる。
どうしても祐巳の顔が見たかったのだ。
「好き」
「…志摩子」
二人は静かに口付けを交わした。
「…あのね。実は志摩子に受け取ってほしいものがあるの」
「なぁに?」
「ちょっとここで待ってて。鞄の中に…」
「アレならココにあるワっ」
突如、響いた声に振り返ると、そこにはシンディが立っていた。その手には何か小さな箱を持っている。
「シ、シンディ…いつの間に……あっ!返してっ!!」
「イヤ!!」
シンディが手に持っていた箱を祐巳は取り返そうとする――あの小箱は祐巳の物らしい――が、一瞬早くシンディが身を躱した。
「コレを貰える権利は私にダッテ50:50(フィフティ・フィフティ)あるのヨ!…そのシマコさんの返事次第だケド」
祐巳と志摩子、交互に見て最後にもう一度志摩子を見る。
(…?……何?)
シンディは厳しい表情をして志摩子の前に立った。
「ユミが言いヅラそーダカラ私が代わりに言ってアゲル!……イイ?卒業式ガ終わっタラ、ユミはまたカナダへ行くノヨっ!ソレデ、もう二度と…日本ニハ戻って来ないノ」
(戻って…来な…い?)
志摩子は呆然と祐巳を見る。逆に祐巳は俯いて視線を合わせようとしない。
「祐巳…ど…ういうこと…なの?」
「私のパパ…ジョン・ライアンとこういう約束ナノヨ」
「あなたには聞いていませんっ!!」
志摩子の絶叫ががらんとした渡り廊下に木霊する。
「志摩子」
祐巳は漸く顔を上げた。眉根を寄せて奥歯をぐっと噛み締めているのか、シンディが祐巳を迎えに来たあの日以上に苦しそうな顔をしている。
「…私ね。リリアンには進まないんだ」
「!?」
志摩子の目をしっかりと見据えて祐巳は話しだした。
「カナダで一年間勉強して向こうの大学に入って…その後、ジョンの跡を継ぐの。これが私の決まった進路…」
「あ、跡って?…何、それ…」
話についていけない。どうして祐巳がシンディの父親の跡を継ぐのか。なぜカナダへ行かなければならないのか。志摩子には理解できない。
「夏休みに…私、カナダへ行ったよね?あれはね、去年の春頃にジョンが仕事で成功したお祝いだったの。あの時には、もうジョンは世間からも認められていて、会社も軌道に乗って大きくなる一方でね」
膝が震える。気を抜けばその場に崩れ落ちてしまいそうだ。
「重役とかと、会議とか話し合いとか色々あって。それで…それで先月、私がジョンの後継者に指名されたの」
「ソウ…つまりユミは次期社長ナノ!輝かしい未来ってやつネ」
シンディが祐巳の言葉を引き継いでそう言った。
「……嘘、でしょう?」
祐巳は何も答えない。
(どうして…嘘だよって、冗談だよって…言ってくれないの……あの『約束』は…?)
しかし、祐巳の志摩子を映すその瞳は、ほんの少しさえも揺らぐことはない。それが真実だということを痛いほど物語っていた。
「……ジョンはネ」
シンディが押し黙った二人を横目に口を開いた。
「ユミをライアン家の跡取りに…つまり“私と結婚サセタイ”って言ってるノ。どうしてユミなのかは、難しい問題らシーから私ハ知らないケド。まぁカナダは同性婚が認められてるシネ」
「…結婚……」
志摩子がぽつりと呟く。刺激が強すぎたのか、どこか朦朧としていてシンディの声が耳の中で反響している。それでもしっかりと言葉は理解できた。
「私ハその気ヨ…ユミが好きダカラ!何ヨリ彼女の将来ニとってコンナ、イイ話ないデショ?」
(祐巳の…将来…)
シンディは微笑んだ。彼女はただ微笑んだだけなのに、その姿はマリア様のように美しく神々しい。
(この人は本当に祐巳を…祐巳の将来を考えているのね。自分のことしか考えていない私とは違って…)
シンディが祐巳を見る目は常に愛情に満ち溢れている。志摩子は今更ながらにそのことに気付いた。
だから、祐巳もこんな自分ではなく彼女を選んだのだろうか。
先ほどの愛の言葉も、口付けも…今から捨てられる自分への、せめてもの哀れみだったのだろうか。
「違うの、志摩子!私は…」
「そ…うね……そうよね」
祐巳が何か言いかけたが多分、謝罪の言葉だろう。そんなもの聞きたくなかった。自分の惨めさをより大きくするだけ…志摩子はそう思った。
「…わかったわ」
「え…」
「まだシスターを諦めきれていない…私なんかと一緒にいるより…」
涙が込み上げてきた。思わず鳴咽を漏らしてしまいそうになったが、ぐっと堪える。
(泣いてはダメ…よ…)
「祐巳の将来や幸せを一番に考えている…その方と一緒にいる方が…きっと…きっと!祐巳は幸せになれる…わ…っ!」
言い終わらないうちに志摩子は走りだした。右足が僅かに痛んだが、もう限界だった。
(さよなら…祐巳っ…)
***
どれくらい時間が経っただろうか。祐巳はぼんやりと、志摩子が走り去って行った方を眺めて立ち尽くしていた。
「…Why?」
シンディが眉間に皺を寄せている。まるで痛みに堪えるようにその顔は歪んでいた。
『ナゼ』?
――なぜ、彼女がそんな顔をする。
感覚か感情か、とにかくどこかが麻痺している。祐巳はただ億劫そうにシンディを見ているだけだった。
「ナゼ黙ってたノ?ナゼ彼女に言わなかったノ!?……何のタメに卒業式が終わるマデ延ばしたノカ…」
「いいの」
矢継ぎ早に問い質すシンディを遮る。聞いているうちに祐巳の胸に鈍い痛みが疼いてきた。
「…やっぱり私…志摩子を困らせたくないから」
「ユミ……コレ、私が貰っちゃうワヨ?イイノ?」
シンディが小箱を突き出して聞いてくる。祐巳はそれには視線をやらず、目を閉じた。
(…志摩子……)
「好きにしていいよ…」
雨が激しさを増す。全てを押し流すように激しく。
この胸の痛みを悲しみを、押し流してくれればどんなにいいだろうか…
To be continued...
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夏休みも終わりに近づいたある日。今日は山百合会での集まりは無い。
だから祐巳は、なぜここにいるのか分からなかった。
勘違いをしていたわけでは無い。その証拠に、朝はたっぷりと寝て、昼過ぎになってから
ふらりと学校に訪れたのだ。
まだ8月のうだるような日差しの下を、人気の無い桜並木を縫ってぼんやりと校舎へ向かう。
なぜここに来たのか。強いて言うならば「なんとなく」
あまり体育系の部活動が盛んではないリリアンでは、夏休みの前半にこそ練習はしていても
後半のこの時期、活動している部活動はない。
また夏の大会が終わった部活にとってはこの時期は唯一の休息日にもなっていた。
蝉の鳴声が喧しいのだけれど、酷く寂かだった。
普段、無垢な乙女たちの囁きに満ちている桜並木も、校舎も、森と静まり返って、まるで別世界のようだった。
だから校舎の入り口の近くで祐巳が「その人」を見つけたとき
やはり「その人」もまた、別世界の住人であるかのように錯覚する。
美しき異邦人は祐巳の知っている、藤堂志摩子という人によく似ていた。
「ごきげんよう、志摩子さん」
祐巳が後ろから声を掛けると、彼女はゆっくりと振り返った。
「あら、祐巳さん、ごきげんよう」
少し驚いた表情のあとに、志摩子はふわりと笑った。
祐巳が、どうしてここにいるのかを訊ねると、彼女もまた「なんとなく」と答えた。
それで祐巳は何だか愉快になって、小さく笑う。志摩子もまた、祐巳が自分と同じように
「なんとなく」学校に来てしまったことを知ってコロコロと笑った。
二人は連れ立って、薔薇の館で一寸休憩することにした。
今日は少し風があって、ときどき焼けるように差す日差しが和らぐことがある。
薔薇の館でアイスティーを嗜みながら、祐巳と志摩子は何を話すでもなく窓の外を見ていた。
外から吹き込む風にカーテンがサラサラと揺れる音が耳に届き、それからアイスティーの氷がカランと崩れる音が響いた。
「静かね」
志摩子が呟いた。
今年最後のチャンスを物にしようと、必死に求婚の叫びをあげている蝉たちの声を聞きながら静かといってしまうのは申し訳ない。
そんな考えを浮かべて小さく微笑みながら祐巳は「うん」とだけ答えた。
長い沈黙の後、祐巳が口を開いた。
「もうすぐ夏休み、終わっちゃうね」
その声にはどこか寂しさが滲んでいる。
「そうね」
「ずっと山百合会の仕事で来てたから、今更って感じもするけどね」
「ええ、でも…」
志摩子は祐巳が笑いながら、それでも寂しそうな理由が何となくわかって声を出した。
「うん…」
祐巳も、お互いに同じことを思っていることを了解して、小さく呟く。
カーテンがまたサラサラと揺れた。
「ねえ、志摩子さん」
祐巳の言葉に志摩子は顔を上げる。
「教室に行ってみない?」
祐巳は何か楽しいことを思いついたように笑った。
「教室?」
「うん!」
志摩子は少し考えてから「ええ、いいわ」と答えてまたふわりと笑う。
それから二人はカップを洗うと言葉少なに薔薇の館を後にした。
言葉が無くても並んで歩ける。気まずいこともなく、心地よく歩けるこの関係が
とても好ましく思えた。
校内にはやはり生徒の影は見えなかった。
守衛さんはいたし、当直の職員もいるだろうから、全くの無人でも無いだろうが。
校舎に入ると、長い長い廊下が二人を迎えた。
普段沢山の生徒が行き来して賑わう廊下も、そろそろ西に傾きかけた日差しを受けて寂しそうにしている。
リノリウム張りの廊下は二人の上履きが立てる音を何度も反響させた。
「あら、祐巳さん?どこの教室へ向かうの?」
祐巳が、普段向かうはずの二年生の教室とは違う方向へ向かおうとしていることに気付いた志摩子は訝って尋ねる。
祐巳はそんな志摩子に笑顔で向き直って答えた。
「一年桃組の教室」
祐巳が不器用なウインクをしてみせる。
「あ」
志摩子が小さく声を上げた。
それは昨年、志摩子が祐巳と共に学んだ教室だ。確かに「教室に行く」というだけなら
祐巳は二年松組に、志摩子は二年藤組に向かうことになってしまう。
特に目的があったわけではないのに二人がバラバラになってしまうのは確かにおかしな気がした。
それでも祐巳の言葉に志摩子は聊か驚いていた。
そもそも今日二人が学校に来たのは本当に偶然で、だから二人には何の約束も無かったし一緒に行動しなければならない何の理由も無い。
現にここまで過ごした時間の中でどれだけ言葉を交わしただろう。
少なくとも志摩子は、祐巳が自分を背景か、或いはBGMのような存在として過ごしていたと思っていた。
しかし実際には、祐巳も志摩子もしっかりと相手を認識し、お互いがいるこの空間を心地よいと思っていたのだ。
そのことが、祐巳の「一年桃組に向かう」という言葉がなんだかとても嬉しくて、志摩子は柄にも無く
祐巳の手を握った。
今度は祐巳が少し驚いた顔をしたが、そのすぐ後に弾けんばかりの笑顔になった。
「行こう」
「ええ」
一年桃組の教室は、二人が学んでいた頃と殆ど変わっていなかった。
例えば張り出してある時間割が変わっていたこと。日直のところに書かれたままの名前や、座席表の名前が
知らない名前になっていたこと。そんなことだけ。
二人は懐かしい思いに駆られて教室の中をくるくると歩き回った。
相変わらずの南向きの窓からは強い西日が入ってきている。
その窓を開け放つと、白いカーテンがふわりと舞い上がった。
祐巳はその窓際の一番後ろの席に座って風を浴びた。
志摩子はその隣に立って、祐巳と窓の外に見える無人の赤い校庭と、青くて赤い繊細な雲の連なる空を交互に見ていた。
「私ね、志摩子さん」
祐巳は窓の外に目を向けたまま話し出した。
「何だかこの時期の教室って好きなんだ」
「去年も夏休みの後半に、水泳の補習があってさ、その時ここに来たんだけど…」
「あら、そうなの?」
「うん。それから初等部に通っていたときもね、やっぱり夏休みの誰もいない教室に来たんだ。
なんだかね、不思議な感じがするの。あんなに賑やかで、人いきれに溢れていた学校が、こんなに静かで…」
志摩子は祐巳の側に近づいて静かに頷いた。
「まるで皆の笑い声や、先生の授業や、テストにあせっせた自分や、そんなのが全部夢の中の出来事なんじゃないかって
そんな感覚に襲われるんだよね」
祐巳は少し照れくさそうに笑って続けた。
「でも、今こうして誰もいない教室で、ふわふわ揺れるカーテンを見てるとね。ああ、やっぱりこっちが夢なのかもなって」
志摩子が「ふふ」と笑ったのを感じて祐巳が振り返る。
祐巳の視線に、ごめんなさい、と断って志摩子が話し始めた。
「私ね、本当にいつのことだったか覚えていないのだけれど…祐巳さんと同じように夏休みの学校に来たことがあってね…
そのとき――多分小学生の頃だったかしら、一人で校庭や、体育館や、誰もいない廊下で踊っていたの。
いえ、それが現実のことかはわからないの。ただそうして誰もいない学校で、一心不乱に踊る自分の姿が頭の中に焼きついているわ…。
それは本当に、夢だったのかもしれないのだけれど…」
「不思議だね…」
「ええ、そうね」
二人はクスクスと笑った。
祐巳も、志摩子も今この相手とこんな話しをしていることが不思議で、今この時間こそが夢の中なんじゃないかと思う。
そうしてゆったりとお互いの思い出の中にある、ちょっと不思議な出来事を話し合っているうちに、校庭の木々の陰がずぅっと伸びて
辺りは真っ赤になっていた。やはり日はだんだんに短くなっているらしい。
「去年志摩子さんと、学園祭の頃まで碌にお話も出来なくて凄く勿体無かったなって思うんだ」
「あら、私もよ?祐巳さんともっと早くに仲良くなれていたら、きっともっと違った学園生活を送れていたはずですもの」
「志摩子さんはただでさえ美人なのに薔薇の館に出入りしてたし…やっぱり近寄り難いイメージがあったからね…」
「うふふ。それも今だから言えることではなくて?」
「うん、その通り。でも今でも美人なのには変わりないけどね」
「祐巳さんったら…」
窓からひときわ強い風が流れ込んでいて、いつしか祐巳の前の席に腰掛けていた志摩子の長い巻き毛を
白いカーテンと一緒にはためかせる。
それを見て祐巳が小さく「あ」と呟いた。
「去年、志摩子さんのこと私見てた」
祐巳が突然言ったことの意味がいまいち掴めず、志摩子は小首を傾げる。
「去年の一学期の終業式、志摩子さん確かこの席に座っていたよね?」
志摩子は少し考えてから「ええ、そうだったわね」と答えた。
「その日も今日みたいに風が強くて、やっぱり日差しも強い日だったんだけど…
私、なんとなく志摩子さんのほうを見てたんだ。
いつも真っ直ぐ前を向いている志摩子さんが、その日は何故か物思いに耽るように窓の外の景色を見てて…」
「ああ」志摩子も思い出したように呟いた。
確かにその頃、山百合会のことや、まだ姉妹ではなかった佐藤聖さまのこと、自分の立ち位置のことで悩んでいて…
だから夏休みという、距離の出来る時間に入ることに対して思っていたのだ。それに風が気持ちよくて、少しうとうとしていたのも事実。
その時のことも今となっては懐かしく思い出せるのだが、それとは別に、その姿を祐巳に見られていたことは
聊か恥ずかしく思えた。
「その時やっぱり今みたいに風が吹き込んで、志摩子さんの髪がカーテンと一緒にふわふわ揺れてたの」
祐巳は一度言葉を切って、それから感慨を吐き出すように、搾り出すように言った。
「凄く綺麗だった…」
「そんな…」
「本当だよ。今でも目に焼きついてる。何だかやっぱり夢の中みたいな風景で、天使様がいるって思ったもの。
きっとあのまま志摩子さんと仲良くなることが無くても、たとえ志摩子さんっていう名前も思い出せなくなっても
その時の光景だけはいつまでも忘れないと思う。きっと私のリリアンでの高校生活の思い出の一ページに
夢のような一葉のレリーフとしてずっと残ってる…そんな光景だったよ」
言い切った祐巳も、それから聞かされた志摩子の頬も僅かに赤みが差している。
「それはきっと…夢の中での出来事なのではないかしら…私もあの時少しうとうとしていたし…」
赤くなった顔を俯かせて言い募る志摩子に、祐巳も
「そうかもしれないね」と照れ笑いに混ぜて言った。
「だから、去年の夏休みも、今も、ここに来てしまったのかも…」
「あら、私のことを考えてかしら…?」
志摩子が赤い顔に少し悪戯な色を混ぜて訊ねる。
「そう…。夢の中の志摩子さんに会いに…」
祐巳も、夕日に照らされたのとは別の赤い色を浮かべた頬を緩めて答える。
「それならきっと今も夢を見ているのね…」
「そうだね…。ふふ、志摩子さん、今なら志摩子さんに『付き合ってください』って言えるかも」
おどけて祐巳が言う。
「私も今なら『喜んで』って応えるわ」
夕日が赤から紫色に変わり始めると、教室は次第に暗くなり始めた。
暑さも柔らかく解け、風とカーテンの白が二人の頬を擽り、夢うつつの世界を運び込む。
薄暗い一年桃組の教室の隅で、祐巳と志摩子の間で交わされた口付け。
それは果たして夢の中の出来事だったろうか。
夏休みが終われば夢は終わり、また慌しい毎日が始まる。
しかしこの時の夢は、また一生忘れられない思い出となって二人の心に残るだろう。
柔らかく甘い、唇の感覚と共に。
「おーい、福沢」
名前を呼ばれて振り返ると、やたらと荷物を持った社会科の先生が立っていた。
「……あぁ」
普段は働かない思考がこの時だけは物凄い速度で動く。
祐巳は瞬時に呼び止められた理由を理解した。
そして、祐巳は大荷物を持って去っていく先生を見送る。
祐巳が呼び止められた理由。
『これを準備室に返しておいてくれ』だそうだ。
「うぅ〜重い」
こんなときに限って、志摩子さんも蔦子さんもいないのだから運がない。
祐巳は仕方がないと諦め、重い荷物を持って社会科準備室に向かう。
社会化準備室にここから一番近いルートは、三人の教室がある校舎を通るのが一番の近道。
「よいしょ……て、私はおばあさんか」
どっこいしょとか言うのは、歳をとった証拠らしいと聞いたのを思い出す。
ともかく、荷物を持ち直し祐巳は社会化準備室に向かう。
「おっ、とと」
荷物が不安定なのか、荷物が安定してくれない。
ちなみに祐巳が預かった荷物はダンボールと世界地図を撒いた物。
ダンボールは良いとして、もう一つの地図の方が安定せずにずり落ちてしまう。
「ふぅぅぅぅ」
肩が痛い。
祐巳は安定しない荷物を持ってどうにか三年の教室が並ぶ廊下まで来た。
廊下は静まり返っていた。
ほんの少し前まで、三年のお姉さまたちで賑わっていた廊下。
下級生の祐巳にしてみれば、少し向かうのに躊躇していた場所。
だが、三年生が卒業した今は、少し怖いくらいに不気味で寂しい。
祐巳は荷物を持ち直し、少し早歩きでこの廊下を抜けることにした。
「あっ」
急いで抜けようとして、祐巳の足が止まる。
三年椿組のプレートを見つけた。
振り向けば藤組も見える。
そこにあった楽しい時間が浮かぶ。
新学期には、お姉さまたちがここで学び、そして、こうして静かに成れば次は祐巳のたちの番。
まだまだ先のように思えるが、すぐに来そうな気もする。
静かな廊下は考えなくて良いことまで考えてしまう不思議さがあった。
校舎の外から聞こえてくる部活生の声が更に寂しさを呼ぶ。
祐巳は、今度こそ廊下を抜けようと足を大きく出した。
「あっ!!」
まぁ、なんてお約束なのか、祐巳の持った地図がスッと落ちて廊下に引っかかり祐巳はバランスを崩す。
「ひぃぃん!!」
倒れると思った。
――ぽっむ。
「ほっへ?」
「何をしているの貴女は」
祐巳は倒れることなく、見れば祐巳のお姉さまである祥子さまの腕の中。
……。
……腕?
……。
……胸?
祐巳は一気に血が頭に昇るのを感じた。
「おっ、おぉぉぉぉぉぉおおお、お姉さま!!??」
「貴女は何を騒いでいるの」
「い、いいえ!!どうしてお姉さまがココに?!」
祐巳は急いで祥子さまから離れる。
「貴女を見かけたからよ。何やら大荷物を持って危なっかしく歩いているんだもの」
「はぁ、ごめんなさい」
どうやら祐巳を心配して追って着てくれたらしい。それなら声をかけて欲しいところだが、祥子さまが大声で祐巳を呼ぶ姿というのは中々に想像出来ない。
「ほら、一つ貸しなさい」
祐巳が断るまもなく祥子さまはダンボールを祐巳から取り上げて……。
――ズッン!!
「おぅ!!」
祥子さまは淑女らしからぬ声を上げ、ダンボールに引っ張られ廊下に頭から沈んだ。
頭を廊下につけ、足を高らかに上げていて、その……下着がお見えに成っている祥子さま。祐巳は見ていないことに決めた。
「なっ!!何よコレは!!」
ダンボール一杯に書類が詰められると重い。
「だ、大丈夫ですか?お姉さま」
「だ、大丈夫よ!!これくらい……」
祥子さまは脂汗を流しながら優雅に微笑む。腕がプルプルと震えているが……。
「……お姉さまの教室ね」
「はい」
祥子さまは、今は誰も居ない三年椿組の教室を眺め、優雅に震えながら微笑んでいた。
「そ…れ…では行きましょうか!!ハァハァ」
「はい、お姉さま」
祐巳は歩くたびに次期紅薔薇さまとは思えない声を吐き出す祥子さまと、楽しそうに静かな三年生の教室が並ぶ廊下を後にした。
「アレから一年か」
実際にはまだ一年は経っていない。
受験などで人数は少ないが、三年の教室には少しだが三年のお姉さま方が見える。
ただ、祐巳はあの時と同じように社会科の先生から荷物を預けられていた。
「さて、急ごうかな……おっ!!」
再び地図が引っかかった。
――ボッス!!
「ふっぎゅ!!」
「だ、大丈夫ですか?祐巳さま」
またもや祥子さまに助けられたかと思いきや、そこに居たのは瞳子ちゃんだった。
「ありゃ、瞳子ちゃんか」
「瞳子ちゃんで悪かったですわね!!」
祐巳の言葉に瞳子ちゃんは少し怒っている様子。
「あはは、ごめんごめん。助けてくれてありがとね」
「い、いえ」
祐巳は少し拗ねている瞳子ちゃんに微笑みかける。
「別に、お礼を言われるほどでは……それよりも祐巳さま荷物持ちすぎですわ」
そう言って瞳子ちゃんは祐巳からダンボールを取り上げ。
――どっしゃ!!
沈んだ。
以上、よくある話でした。
『クゥ〜』
薔薇様になってそろそろ2ヶ月が経とうとしている。
梅雨にはまだ早くて、されとて春とももう言えない、気持ちいい陽気の昼休み。
ここは講堂の裏。銀杏の中に一本の桜の木が立っている、彼女のお気に入りの場所。
祐巳は側で静かに寝息を立てる志摩子さんをぼんやりと見ていた。
「それにしても、よく寝るなぁ…」
祐巳は、なんとも言えない表情で、溜息混じりに呟いた。
志摩子さんと祐巳は所謂恋人同士、のはずである。
それは祐巳自身も、志摩子さんも山百合会のメンバーも認識しているところではある。
だから親友の由乃さんも、妹の瞳子も、彼女の妹の乃梨子ちゃんも
私たちが昼休み薔薇の館に昼食を摂りに向かわないことを生暖かく容認してくれている。
しかし、確かに恋人のはずなのだが。
志摩子さんも、私の恋人になって欲しいという申し出を
涙ながらに(あれは感涙で間違いないと思うのだけれども…)受けてくれたのだが。
何かが違う…。
志摩子さんは時間があれば私の側に来てくれる。
微笑んでくれる。色んな、それまでに見たことの無かった表情を見せてくれるようになった。
それは嬉しい。とても嬉しい。日を追うごとに志摩子さんのことがどんどん好きになっていくのだが。
私の中にある、なんというか、こう……先に進みたいという欲求。
恋人なら多分当然あるであろう相手に求める物が、志摩子さんにはまるで無いように感じる。
キスはしたことがある。唇を触れ合わせるだけの稚いものだが
それだけでも最初は私の心臓はパンクしそうになったものだ。だが志摩子さんはというと
「なんだか照れくさいわね」
といつものように柔らかく微笑んで頬を染めたくらいで、どうにもその行為一つをとっても
私とのそれでは温度差があるように感じてしまった。
あまつさえ、このお昼休みの大切な二人きりの時間。
彼女は、寝るのだ。
私の膝に顔を埋めて、ということを考えればやはり恋人同士のなせる技なのかもしれない。
それはそれで嬉しいのだけど。
「祐巳さんといると、本当に安心出来るから…。だから眠ってしまうのね」
そう言ってふわふわと笑う彼女を、どうして咎められようか。
早い話が、私は今欲求不満なのだ。
しかも、彼女の無垢な寝顔を見つめていると、まるでそんなことを考えている自分が一方的に悪いように思えてくる。
なんとなく、わかっている。志摩子さんは自分に安らぎを、居心地のいい場所を求めているのであって
決して、そんなことを求めているのではないのだ。
やがて、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
私は志摩子さんの頭を撫でながらそっと声を掛けるのが日課になっている。
「志摩子さん、起きて。授業が始まっちゃうよ」
その言葉を聴いて、志摩子さんはゆっくりと頭を起こす。
まだ夢うつつの目を擦りながら。
「祐巳さん…ありがとう」
そして、齢よりもずっと幼く見える笑顔でそう言うのだ。
(うぐぅ…可愛い…)
だから私は何も言えない。もう骨抜きにされているのだから…。
「さ、急がないと。志摩子さんのクラス、次は数学でしょ?」
「ええ…」
彼女の時間割まで把握している私は、なんだか恋人というよりもお母さん然としている。
先に立って志摩子さんの手を引いて立たせてあげると
志摩子さんは
「うふふ」
と微笑んで私の腕をよじ登り、そのまま腕を抱え込んで
「行きましょう」
とのたまうのだ。
これが、付き合い始めてから見られるようになった『甘えん坊志摩子さん』で、その破壊力は凄まじい。
腕に密着した、かなり豊かな感触とのギャップがまた威力を倍増させている。
「で、そんなノロケ話を私に聞かせて何を期待してるわけ?」
志摩子さんと分かれて5時間目の授業を受け、その後の休み時間に二年連続でクラスメートとなれた親友の由乃さんを捕まえて
話を聞いてもらおうとしたところ、さも『つまらない話を聞かされた』というような表情で由乃さんは言った。
「いや、由乃さん…そういうつもりじゃなくてね…」
彼女には私のつく溜息も、ノロケの一環と映るらしい。まあ確かに幸せなのだから仕方ないといえば仕方ない。
「つまり祐巳さんは、あのネコ・ギガンティアともっと進んだ関係になりたいってそういうことでしょ?」
「ネコ・ギガンティア!?」
由乃さんの変な言葉に思わず声音が高まる。
「そうよ、ネコ。あれはもう猫よ。飼い主である祐巳さんに甘えてじゃれ付く猫だわ。
誰よ、ウサ・ギガンティアなんて言ったの」
由乃さんはそう言うと大仰に溜息をついてみせた。
「昔の志摩子さんはあんなんじゃなかったのになぁ…」
って。それじゃまるで今の志摩子さんが悪いみたいじゃないか。
「別に、山百合会の仕事はキチンとやってくれるし、祐巳さんがいなければ普通なんだから悪くはないけどさ」
夏を前にして暑い暑い、なんて。どうも由乃さんにとってそんな志摩子さんの様子がただ単純に面白くないらしい。
「なんか由乃さん怒ってる…?」
「何言ってるの?親友同士、三人で薔薇様として山百合会を引っ張っていこうね、なんて言ってた二人が
急に付き合いだして気がついたら置いてけぼりにされてたことなんて全然怒ってないわよ?」
………なんていうか、ごめんなさい、由乃さん。
しょぼくれる私を見て、苛めるのに満足したのか由乃さんは少し苦笑して「別にいいわよ」と言った。
二人の親友が幸せそうなのは実のところそれほど悪い気分じゃないし、って。
「ところで、話は戻るけど、つまり祐巳さんは志摩子さんとナニがしたいわけね?」
「!!!?」
由乃さんの不意うちの一言に、自分の顔が一気に沸点に達するのが分かった。
「な、な、ナニって!!そんなストレートな…」
「いや、十分遠まわしに言ってると思うけど…」
いや、でもナニってそんな…。それは確かにしたいけど…。それはあくまで最終的にであって
まずはアレをして、それからソレを…ソレに伴ってコレが来て、それを踏まえてナニが…
「そんな間抜けなこと顔面で語られても困るんだけど」
しれっと言う由乃さん。それに対する私は既にオーバーヒート寸前である。
あれこれ変なもうそ…いや想像が頭の中を跳梁している。
「無理ね」
そんな頭を一気に冷やしてくれたのは、次の由乃さんの言葉だった。
「見てる限りじゃ、志摩子さんはそんな風に祐巳さんを見てないもの。
もしそんな考えを持ってたとしても、今の祐巳さんとの関係が心地よすぎてそれを壊すなんてとんでもないって思ってる」
さすがに、由乃さんは親友。よく見てる…。
「そう…だよね」
うまい具合にテンションがアップダウンしたところで6時間目の始業ベルが鳴り始めた。
由乃さんは自分の席に帰るために立ち上がる。
「まあ、そんなに我慢できないなら強引にいってみてもいいんじゃない?
どうなっても知らないけど」
不適な笑みを浮かべて立ち去る由乃さんに、やっぱりまだ恨まれてるんじゃ無いかという思いが湧き上がった。
放課後。向かうは薔薇の館。
二人っきりでは無いとはいえ、志摩子さんに会えると思うと足取りは弾む。
由乃さんと話してから自分なりにいろいろと考えてみた。でも結局答えらしい答えも見つからず
結局は志摩子さんに早く会いたいという考えに落ち着いた。
要は、やっぱり自分も今の関係が壊れるのは怖いってことか。
薔薇の館の二階、ビスケット扉の前に来ると
中からは志摩子さんの話し声が。それともう一つ、普段は聞かない、それでも聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「ごきげんよう」
扉を開けるとそこには、愛しい志摩子さんと
「ごきげんよう、祐巳さん」
「ごきげんよう、祐巳ちゃん」
佐藤聖さまがいた。
「聖さま!今日はどうなさったんですか?」
懐かしい顔になんだか嬉しくなって私は尻尾を振りながら(無いけど)二人に近づいていく。
「薔薇さまになった祐巳ちゃん達の勇士を見にね」
聖さまがおどけた調子で言う。志摩子さんは聖さまの隣で嬉しそうに笑っていた。
「祥子にも声掛けようと思ったんだけど、なかなか捕まらなくてね。まあ、あの子のことだから行かないっていいそうだけど」
「でも祥子さまもきっと祐巳さんに会いたいと思っているのでは無いでしょうか」
「そりゃあね」
何だか懐かしい光景。
でも、そういえば聖さまが現役薔薇さまだったころは、こうやって志摩子さんと談笑することってあんまりなかったような。
暫く他愛の無いおしゃべりをしていると、由乃さんが来て、折りよくつぼみ達より先に三薔薇様のそろい踏みと相成った。
聖様は本当に私たち三人だけとおしゃべりをして帰ってしまった。
机の上には聖様の差し入れというコンビニの嚢が置いてあって、中には百円で買えるビスケットや芋かりんとうが入っていた。
以前江利子さまがメープルパーラーのバラエティギフトを差し入れてくれたことがあったけれど
なんというか、その人の人となりがよく顕れていると思う。
そんな差し入れを見て志摩子さんが
「お姉さまらしいわ」
なんて、ふわふわと笑っていた。
そのとき、その笑顔を見て、なんだか急に閃いてしまった。
私にとってあまり喜ばしくない考えが…。
聖さまと志摩子さん。志摩子さんと乃梨子ちゃん。志摩子さんと私。三つの関係は、もしかしたら同じものなのかもしれない、ってこと…
聖さまのことも志摩子さんは「側にいてくれるだけでいい、安心出来る存在」といっていた。
ただお互いがよく似ていて、だから近づきすぎないようにしていた為に志摩子さんはあまり聖さまに甘えることが出来なかった。
乃梨子ちゃんも志摩子さんにとって必要な、特別な存在。
ただ志摩子さんはやっぱり「お姉さま」だから、乃梨子ちゃんに甘えるわけにはいかない。
それで、私…。同学年で、同じ薔薇さまで…。ただの友達ならば控えたかもしれないけれど「恋人同士」という
言葉の上で特別な存在となってしまったなら、彼女がそれまで二人の大切な人にしたくても出来なかったことをする格好の相手になるんじゃないだろうか…。
私は、聖さまと乃梨子ちゃんの穴を埋め合わせるだけの存在なのでは無いだろうか…。
「どうしたの?祐巳さん…」
私の顔が何か言っていたらしい。聊か不安げな表情で志摩子さんが尋ねてきた。
由乃さんがいるというのに、そんな捨てられた仔猫みたいな顔…。
その表情を見て、ああ、やっぱりそうなんだって思った。
続かざるをえない、かな
【No:2197】の続きです
志摩子さんの、私に対する気持ちが分かったからといって、私にはどうすることも出来ない。
由乃さんが聞いたらきっと贅沢な考えだって言うだろう。
志摩子さんにとって特別な存在。聖さまや乃梨子ちゃんと並べる存在になっただけでも
以前の私からすれば大躍進ではある。
だけど、それじゃ満足できないでいる自分。
志摩子さんの一番になりたい。いつも私のことを考えていて欲しい。
我がままな自分。
実際は一番どころか、二人よりもずっと希薄な間柄だ。
志摩子さんが私に安心感を、安らぎを求めているならば、それが得られなくなった時点で私の側にいる意味は無い。
私が少し考え込んだだけで不安そうな顔をする志摩子さん。
もし、そんなことが続けば――安心出来る存在でなくなれば――彼女は私の側では眠れないし
私は彼女の側から居場所を失うのだ。
だから、私がこんなエゴを抱いているなんて、気付かせてはいけない。
私の心のうちにある煩悶を、おくびにも出してはいけない。
私は気難しい祥子さまの妹をしてきた、素直じゃない瞳子の姉をしている、そしてなにより紅薔薇さまなのだ。
私は強くなった。だから隠しておける。いつも通り、志摩子さんに笑いかけることができる。
聖さまが薔薇の館に訪れてからの数日、私はそうして志摩子さんと過ごした。
彼女は疑うことも無く私に笑顔を見せてくれる。いつものようにキスをせがんで
二人でお弁当を食べ終わると、私の膝枕で夢の世界に旅立つ。
私は必死に自分を取り繕った。
彼女を失うことに怯えながら。そうして必死な自分は、彼女といる時間を純粋に楽しめなかった。
だからより、楽しそうに振舞う努力を要した。これが、悪循環ってやつか。
今日もお昼休み、お弁当を持っていつもの場所へ向かう。
道すがら、私はぼんやり考えていた。
(なにやってるんだろう……)
何だか、疲れていた。
もし、自分の取り越し苦労だったら?
本当は志摩子さんは私のことを、私と同じように『恋人』として見てくれているとしたら?
こんな自分の状態で、どうせ長く続くはずがない。
そのうち、志摩子さんにばれて、自動的に私の居場所を失うなら、いっそ私の欲望を彼女にぶつけて見たら?
案外、受け入れてくれるかもよ?
案外…。私は自嘲した。可能性は限りなく0に近い。
ぼんやりと考えながら歩いていたせいだろう、普段よりも随分遅く約束の場所に到着していた。
「祐巳さん!」
私の姿を見て志摩子さんが駆け寄ってくる。満面に笑顔の花を咲かせて。
私も微笑む。最近の自分がどんな顔で笑っているのか、鏡を見るのが怖いな、なんて思いつつ。
そのまま志摩子さんは私に抱きついた。
柔らかい感触。心地よい体温。
「よかった…。今日は来ないのかと思っていたわ…」
志摩子さんが耳元で呟く。
「ごめんね。教室を出るとき、クラスの友達に呼び出されちゃって…」
嘘だ。いつの間にこんなにサラサラと嘘が言えるようになったのだろう。
「そうなの」
志摩子さんは少しからだを離して、私の顔を見つめた。
疑うことを知らない笑顔。
見られたくなかった。けれど、目を逸らすことも出来なかった。
既にその無垢な笑顔を向けられる資格は私には無いような気がした。
いつのまに…なんで、こんなことになってしまったんだろう…。
志摩子さんが少し首を傾けて、背丈も殆ど変わらないのに少し上目遣いに私を見つめてくる。
ほんのりと頬を染めて。これは、キスのおねだり。いつもなら眩暈をおこしそうなくらい蠢惑的なその仕草も
何だか今は心憎くさえ思える。
思えばこの行為も、彼女にとっては、母親が子供を安心させるために額にするソレと同じような意味だったのでは無いだろうか。
あくまで親愛のしるしとして…。
ふいにさっと胸を黒い風が刷いたような気がした。
志摩子さんの頬に手を添える。少し顎を引かせて、正面同士。
ダメだ。ダメだ。
私の何かが警鐘を鳴らしている。
そんなもの、まるで聞こえていないかのように私はゆっくりと志摩子さんに顔を近づけていく。
私の何かが悲痛な叫びを上げると同時に、私の唇は彼女のそれに覆いかぶさった。
ビクリと震える肩。
いつもと違って強く押し付けられる唇に彼女は驚いている。
でも、もう止められなかった。
少し開かれた彼女の唇の隙間から、強引に舌をねじ入れると
それを彼女の口腔内で暴れさせる。志摩子さんの歯の列を割って、彼女の舌を絡めとる。
彼女の体は硬直している。
私の深いキスに、答えられる余裕もないくらい。
普段のそれに比べて、永遠とも思えるような長いキスの終わりは、志摩子さんの小さな小さな抵抗によって迎えられた。
息苦しくなったのだろう。彼女は俯くと、少し荒い息をして、それから私を見上げた。
その目にある感情。それは、戸惑い、恐怖――――
ああ、やっぱり……
分かっていた。こうなることは。こんな視線を向けられるであろうことも。
それは付き合い始めてからこっち、私が見たことも無かった志摩子さんの表情。一番、恐れていた表情。
「祐巳……さん…?」
怯えた声。聞きたくなかった声。
でもその声は紛れも無く自分に向けられていて、そしてそれを出させたのもまた紛れも無い私自身。
「ごめんなさい…」
私は言った。
「ごめんなさい…志摩子さん、ごめんなさい…私じゃ、志摩子さんの居場所にはなれない、みたい…。
ごめんね…」
「っ……」
志摩子さんは声にならない声を出して口元を覆った。
私を見つめる目が、潤いを帯びてきているのが分かる。
それ以上見ていることが出来なくて、背中を向けた。
「ごきげんよう…」
それだけ言うのが精一杯で、もう私はその場から逃げるように歩き出していた。
ただ志摩子さんの気配だけ、背中の後ろにずっと感じていた。
教室に戻る途中、由乃さんに会った。
私の顔を見た由乃さんは血相を変えて、階段の踊り場へと私を連れてきた。
そんなに酷い顔をしているのだろうか。
数分前と違って、今の自分に興味が持てなかった。
もう志摩子さんの側にあった自分の場所を失ってしまった。だから自分がどんな顔をしていようが関係なかった。
「ちょっと祐巳さん…何があったのよ!?」
由乃さんが掴みかからんばかりの勢いで言う。
私はどう説明したものかも分からなくて、気の抜けた言葉を返した。
「別に…、由乃さんのアドバイスを実行したら、玉砕した…かな」
由乃さんのせいにしたら、少し気分が楽になって、物凄く虚しくなった。
「はぁ?志摩子さんに何かしたの?」
「うん…」
由乃さんが頭を抱える。一寸は罪悪感でも感じたのかな?
「バカね。無理って言ったじゃない」
違ったようだ。
「とにかくその顔、何とかしなさいよ。そんなんじゃ授業にも出れないわよ」
そう言って由乃さんがハンカチを取り出して私の目元をぬぐう。
そうされて初めて自分が泣いていたことに気付いた。
認識したとたん、私の口からも嗚咽が漏れ始めた。
それが止まらなくなって私は暫くその場で、しゃくりあげていた。
由乃さんがそっと胸を貸してくれなかったら、きっと休み時間が終わってもまだ泣いていた。
「この分じゃ白い方は5時間目はサボりね…」
由乃さんが心配そうに呟いたけれど、私にはその意味がよくわからなかった。
続く、しかないや
※この記事は削除されました。
【No:2197】【No:2198】の続きです。
祐巳さんは私の胸で暫く泣いたあと、ぽつりぽつりと、さっきあったことや、彼女の胸のうちにあったことの断片を話した。
私は黙ってそれを聞いていた。祐巳さんの体はいつもよりも小さく感じた。
やがてどうにか落ち着いた祐巳さんが言った。
「ありがとう、由乃さん…。ごめんね」
私は彼女の頭をそっと撫でながら
「そんな台詞別に聞きたくないわよ」と返す。
事実、お礼を言われるようなことをした覚えもないし、謝られるようなことをされた覚えも無いから。
自慢じゃないが、私は人の為に何かしたことなんて、生まれてこのかた一度も無い。
だから祐巳さんに胸を貸してあげたのだって私がそうしたいからしただけのこと。これから何かするにしても、そういうことだ。
祐巳さんはそんな私の、些かぶっきらぼうな物言いに少し笑って
「うん、そうだね…。ごめん」
と、また謝った。
やがて昼休みの終わりを告げる予鈴が響いて来た。
祐巳さんは、まだ少し目を赤くしていたけれど、もう涙は止まっていて、表情も幾分しっかりしている。
それを確認して、私は教室の方へと歩きだした。
「私、ちゃんと薔薇の館に行くから」
私の後ろについて歩きながら祐巳さんはそう呟いた。
志摩子さんと会っても平気だから。我慢するから。逃げないから。
そんなことを自分に言い聞かせているように見える。
「そう」
私はそれだけ返して、それから一度廊下を立ち止まった。
振り返り、祐巳さんを見る。彼女の少し上気した頬にそっと手を添え、幾分真剣な眼差しで。
「祐巳さん。あまり無理しないで」
責めるような気持ちでは無い。私の本心から出た言葉。
だから祐巳さんは、少し微笑んで「うん」と答えた。少しは気分が楽になっただろうか。
教室のそれぞれの席に戻って程なく、始業のチャイムが鳴る。
それと同時に教室に入ってくる先生に、申し訳ないが私は一瞥もくれずに考え事をしていた。
どうしようか。『私が』どうしたいか。
祐巳さんのことも気になることは気になるが、それよりも気になるのは白い方…私の、もう一人の親友――
祐巳さんの話を総合してみると、志摩子さんは今日昼休み、いつものように祐巳さんを迎え入れたのに
突然強引にキスされたかと思うと、さらに突然「さよなら」を言われた格好になる。こんな理不尽なことがあるかって。
だからという訳ではないが、私は志摩子さんの親友として、彼女の側に居たいと思った。
彼女が心開ける人は少ない。
お姉さまである佐藤聖という人は今はいない。一番に心を開いている祐巳さんと、乃梨子ちゃんもこの場合
(本人不承知のままだが)当事者ということになる。そうするともはや志摩子さんは一人になってしまう。
自分が志摩子さんの為に何か出来るなんて思っていない。したいとも思わない。
ただ、今私は志摩子さんの側にいたいと思ったから、そうすることに決めたのだ。
さすがに授業中は無理だが、どうせ今日は志摩子さんは薔薇の館に来ることは出来ない。
仕掛け人の祐巳さんと違って志摩子さんには何が起こったのかさっぱりわからないはずだから。
混乱した頭で、祐巳さんのように強がるなんて出来るわけがない。
私は勝手にそう結論付けると、放課後志摩子さんを連れ出す算段を立て始めた。
もっとも私が青信号で志摩子さんにくっついていけばいいだけだから(あの志摩子さんが追い返すなんて出来るわけないんだから)考える必要も無いんだけど。
とりあえず右から左に流れた五時間目の授業が終わると、同じくぼんやりとしていた祐巳さんを横目で見つつ私はすぐに行動を開始した。
といってもすぐに志摩子さんのところに行くわけではない。この休み時間はたったの10分。
私は黄薔薇さまとして最低限節度を守って、それでも急ぎ目に二年生の教室を目指した。
乃梨子ちゃんの教室にたどり着くと、側に居た子に取次ぎを頼むよりも先に、私に気付いた乃梨子ちゃんが出てきてくれた。
「ごきげんよう、黄薔薇さま。どうなさったのですか?」
私が彼女を訪ねるというのは珍しい。多少訝って乃梨子ちゃんは言った。
「ごきげんよう、乃梨子ちゃん。時間もないし短刀直入に言うわね。今日、私と白薔薇さま、薔薇の館に行けないかもしれないの。
だから今日の仕事は乃梨子ちゃんの主導でやって欲しいの。だいたい、やることは把握しているわよね?」
私の言葉に乃梨子ちゃんは明らかに怪訝な色を浮かべながら「はぁ」と呟いた。
なぜ自分が。黄と白がいないなら紅はどうしたか。そもそもなぜそれを伝えに来るのが姉である志摩子さんではなく私なのか。
彼女の疑問はそんなところだろう。
どうしたら完結に乃梨子ちゃんに伝えられるかを思案していたところ、廊下の向こうから折よく見慣れた縦ロールが視界に入ってきた。
「ごきげんよう、黄薔薇さま。どうかなさったんですか?」
不思議な雰囲気をかもし出している私と乃梨子ちゃんを見て、彼女もまた不思議そうな顔をして訊ねてきた。
そういえば、ここは二年生の教室の前で、黄薔薇と白薔薇のつぼみ、紅薔薇のつぼみのそろい踏みは他の生徒からの好奇の視線を既に浴び
ている。
それだけにありのままを話すなんて、とてもじゃないが出来ない。だから彼女の登場は非常に有難かった。
どうせ後でこのドリルのところにも行こうと思っていたし。
「ごきげんよう、瞳子ちゃん。丁度よかったわ。瞳子ちゃんのところにも行こうと思っていたの。お願いがあって」
乃梨子ちゃんから一旦視線をきって、瞳子ちゃんの方へ向く。
「お願い、ですか?わたくしに?」
「ええ。大したことじゃないわ。『紅薔薇さまの側にいてあげて――』それだけ」
瞳子ちゃんの頭上にハテナが飛び交っているのが見えるようだ。そのあと少しムッとした表情。
(そんなこと。あなたに言われるまでもなく、私は祐巳さまの側にいますわ!)
そんなところだろうか。表情は雄弁だ。この子は最近祐巳さんに似てきたかもしれない。
私が少し微笑んで乃梨子ちゃんに視線を戻すと、さっきまでとは表情が違っていた。何か得心したような、それでいて複雑そうな。
思惑通り、彼女は大体の事情を推理してくれたらしい。
志摩子さんが来ないということを私が伝えに来たこと。そして祐巳さんの側に居て欲しいという私の台詞。
これだけで、祐巳さんと志摩子さんの間に何かあったらしいということまで辿り着いたようだ。本当に頭の回転の速い。
「そういうわけだから、乃梨子ちゃん、奈々と瞳子ちゃんをよろしくお願いね」
言うと
「わかりました」
とだけ真剣な面持ちで返してくれた。もっと問い詰めたい、何があったのか把握していたい。志摩子さんの妹として気になるのもわかる。
けれどもここが、この短い休み時間がそんな話をするのに相応しくは無いことも分かっているのだろう。
ちなみにこれを乃梨子ちゃんに頼んだのは、ただ単に瞳子ちゃんや奈々よりもつぼみとしてのキャリアが長く、一番ノウハウが身について
いるというそれだけの理由で深い意味はない。マリア祭も終わって次の大イベントの学園祭まではまだ時間がある今の時期、それほど急を
要する仕事は無い。資料の整理なんかが主だ。
それでも指示だしをする薔薇さまの不在はつぼみになって日の浅い奈々や瞳子ちゃんを戸惑わせてしまうかもしれない。(紅は今日は使い
物にならないと思って間違いない)
それじゃあ今日は集まり自体を中止にしてしまえばよかったのだが、祐巳さんが「薔薇の館に行く」と行ったのに中止にしてしまうのも何
だかなと思ったから。それに急に今日の集まりを中止にしたら自分のせいだって思いかねないし、一度中止にしてしまうと忙しくないこの
時期には薔薇の館自体に足が向かなくなってしまうかもしれない。
そんなことを考えて、私らしくないと思わず苦笑する。
(要はあれよ!志摩子さんと私の二人っきりのムフフタイム(?)を邪魔されたくないだけよ)
心の中で呟きながら、満足した私は二人に挨拶をして教室へと踵を返した。瞳子ちゃんが再びハテナをいっぱいに浮かべて私を見ていたが
、まあ別にいいだろう。
教室に帰ると、休み時間になってすぐに飛び出していった私を不思議そうに見ていた祐巳さんと目があった。
でも何か言葉を交わす前に始業ベルがなって、そのまま六時間目の授業が始まった。
放課後、私は速攻で掃除を終わらせると教室を飛び出した。
祐巳さんが私の方を見ていたので、ウインクをしてやると変な顔をされた。
でもダメダメ。私の心は今祐巳さんより志摩子さんに傾いているのだ。
もしどっちか一人としかキス出来ないなら志摩子さんと……って違う違う。
とにかく私は祐巳さんをほったらかして、志摩子さんの教室に向かった。
祐巳さんは宣言した手前、ちゃんと薔薇の館に行くだろう。そうすれば事情も何も知らない瞳子ちゃんがちゃんと祐巳さんを受け入れてく
れるだろう。いつものお小言なんかをつけて。
私は愛しの志摩子さんを目指して彼女の教室に突入した。
もしかして早退でもされてたらどうしようとか思ったけど、すぐにそんな心配は杞憂に終わる。
志摩子さんは教室の掃除を終えて一人黙々と掃除日誌を書いていた。
なんというか悲劇のヒロイン然としたオーラ。教室に突入してもまだ私の存在に気付かない志摩子さんにちょっとイラッとしたけど、まあ
いい。
「志摩子さん」
私の言葉に、はっとしたようにこちらを振り向いた志摩子さんの目は、予想通りというか心なし赤かった。
出てくるときの祐巳さんだって、もうその目の赤みは退いていたのに。
「あら、由乃さんなの?ごきげよう…」
そう言ってぎこちなく微笑む志摩子さんに、私はまたちょっとイラッとした。
私は怖い顔でもしてたのだろうか、志摩子さんはちょっと怯えるように上目遣いで私を見てくる。
今度はちょっとドキッとしたので相殺してあげることにする。
フッと笑みを零して私は言った。
「掃除、終わったよね?ちょっと付き合わない?」
志摩子さんはちょっと小首を傾げたあと「ええ」と頷いた。
志摩子さんが帰り支度をするのを待って、二人で掃除日誌を返しに行く。
志摩子さんはぼんやり前を向いて歩いていた。
職員室を出て、校舎を出てから志摩子さんが口を開いた。
「由乃さん、どちらへ…?」
ごきげんよう、黄薔薇さま、白薔薇さま、そんな下級生の挨拶に笑顔を返してから私は口を開いた。
「薔薇の館へなんかいかないわよ。私は今日はサボるって決めたんだから。志摩子さんも付き合いなさい」
命令口調で傲慢に、私らしく。
「ええっ!?」と呟いた志摩子さんの口調は驚き半分、ほっとしたのが半分というところか。
「そうね、古い温室に行こうかしら。来るわよね?」
私の言葉は多少高圧的だろうけど、彼女の行動に関して私の意志は関係ない。志摩子さんの返事は「来る」か「来ない」で
「ついて来る、ついて来ない」ではない。志摩子さんはコクリと頷いた。
温室のベンチに並んで座る。志摩子さんは俯き加減に、私は「相変わらず荒れてるわね」なんて辺りを見回しながら感想を述べる。
「今日志摩子さん、5、6時間目の授業出たわよね?」
「ええ…」
唐突に切り出した私の話に、志摩子さんはすぐ返事をよこした。どうやらここまで連れ出した私の行動の理由も
彼女なりに思い当たっているのかもしれない。
(それにしても、出てたのか、授業。まあ白薔薇さまがサボるわけにはいかないか)
自分だったらサボっていたような気がしなくもない。でもまあ、やっぱり黄薔薇さまがサボるわけにはいかないか。
暫く沈黙が続いた。
「私は間違っていたのかしら…」
志摩子さんが、独り言とも、私に向けて発したとも取れる小さな呟きをもらす。
「祐巳さんの側に居られるのが幸せで、それさえあれば、それ以上何も望めないと思っていた。
でも私は…そんな私の、祐巳さんに依存する態度が彼女を息苦しくさせていたのかも、苦しめていたのかもしれないわ…」
ほう、そう解釈しますかこの仔猫ちゃんは。
志摩子さんの目から、またうっすらと涙が滲んでいる。
彼女なりにいろいろと考えていたんだろう。
でもこの美しいガキんちょは、とても聡明なくせに自分のことになるととことんネガティブになって
凹みスパイラルに陥りやすいことを私は知っている。
彼女の双眸からハラハラと毀れだした涙はそんな志摩子さんの気持ちを溢れ出させるかのように彼女の頬を伝い落ちる。
「私…私どうしたらいいのか、わからなく…て…」
志摩子さんの喉がつっかえ、言葉を紡ぐのも儘ならないという風。私はそんな姿を、気持ち遠くから眺めていた。
「で、どうしたいのよ?」
「え…?」
私の険のある声に志摩子さんが顔を上げて私を見つめる。
泣き顔もまた美人だね、こりゃ。なんて横っことを考えながらその視線を受け止めて、私は続けた。
「あのね、私は二人じゃないんだし二人の間に何があったかも、二人が何を考えてるかも分からないわよ。当たり前でしょ?
それに志摩子さんだって祐巳さんだって相手が何を考えてるかなんて分かりっこない。別の人間なんだから。
だったら結局自分の行動を決定するのは自分しかいないのよ。志摩子さんがどうするのかは
志摩子さんがどうしたいのかということ以外では決められないのよ。私何か間違ったこと言ってる?」
いきなりずいと身を乗り出した私に志摩子さんは些か吃驚したみたいに目を開いた。
別に、勢いに任せて志摩子さんの綺麗な泣き顔を近くで堪能しようとか、そんなんじゃない。
「いえ、間違いではない…と思うわ…でも…」
まあ志摩子さんの「でも」はよく分かる。そう単純な話じゃないことくらい単純な私でも分かってるから。
「私は祐巳さんといたいわ…。それは偽りの無い気持ち…。でも、私は祐巳さんを傷つけてしまった…。
私と居ることで傷つく、そんな祐巳さんを見たくない、それもやっぱり私の気持ちなの…」
私はその志摩子さんの切実な告白を聞いて思わず大仰に溜息を吐いた。
「あのねぇ…。何の説明もなしに無理やりキスされて捨て台詞を言われて置いていかれた志摩子さんの方が、なんで祐巳さんの心配してる
のよ」
辛うじて「あんたバカ?」という台詞は飲み込む。
志摩子さんは今度は本当に驚いた顔をした。そこまで知っていたの?って感じ。
それからまた俯いて、自嘲気味に笑った。涙は一応今は止まっている。
「そうね…私は馬鹿なのかもしれないわ。本当は祐巳さんがどんなことを考えているのか、何も分からない…。
私のことをどんな風に思ってくれていたのか、私が祐巳さんにとってどんな存在なのか…怖くて確かめることも出来ない…。
でもね、由乃さん…これだけは、あの時分かったの。祐巳さんが傷ついてるって…。
私に『ごめんなさい』と繰り返した祐巳さんが、私のせいで傷ついてるんだって、それだけはわかった、から…」
また折角止まりかけた涙が溢れてきている。
何だかバカバカしい話だけれど。でもその実、凄く切実な問題なのかもしれない。
第三者である私はもちろん、祐巳さんも志摩子さんも、二人がお互いを必要としている、惹かれ合っていることは重々分かっている。
それならそれでいいじゃないかといかないところが難しい。多分本人達よりも第三者の立場にいるほうがよくわかる。
二人は惹かれ合いながらも、お互いに求めるものが微妙に違う。
そりゃあまあ当たり前の話。一対一の人間関係で、二人がお互いに求めるものの量や質が全く同じなんて、そんな気持ち悪い
のにお目にかかったことは無い。(志摩子さんと佐藤さんちの聖さんの関係はそれに近かった気もするけど。だから不気味な姉妹だったわ
…)クローン人間じゃあるまいし。
普通そんなお互いのニーズと、それに最適な距離感を測りながら形成されていくのが人間関係ってモノで。
この二人の場合、その相手の存在が大きすぎるのか何か知らないが、距離感の測り方が分からないのだろう。
そして我武者羅に近づき過ぎた結果として、今小さなひずみから音を立てて水が漏れ出したというわけだ。
いい気味……ってまあそれは置いといて。
コレばかりは当人同士にしか、どんなポイントが最適なのかは分かりっこない。
だから、志摩子さんと祐巳さんが向き合って二人で関係を紡いでいくしかないのだ。
「ねえ志摩子さん」
ちょっと私らしくも無い優しい口調で声を掛ける。
志摩子さんは手で一度目元を拭って、私の方に向き直った。
「結局志摩子さんの中で答えは出ないんでしょ?」
「ええ…多分いくら悩んでも、そうだと、思う…」
「ならやっぱり答えは祐巳さんと二人で見つけるしかないんじゃない?」
「祐巳さんと…二人で?」
「そう。さっきから言おうと思ってたんだけどね、志摩子さん。登場人物は二人いるわけ。
志摩子さんと祐巳さん。志摩子さんがどうするかを決めるのはさっきも言ったとおり志摩子さんだけど
二人の関係を如何するかを決定するのは志摩子さんじゃないわけ。それは登場人物二人の意思が必要なの。
だから一人で考えても答えなんか出るわけ無いわ。志摩子さんには祐巳さんが何を考えているか分からないんだから。
祐巳さんの気持ちを推し量ってるだけで『これが正解』なんて答えが出るとでも思ってるの?」
志摩子さんは私の言葉を聞いてつと押し黙った。
まあ、我ながら言っていることが二転三転してるような気もするけど、言いたいことは大体言ったし
もう満足したから帰ってもいいかな。
あ、でももうちょっと志摩子さんと一緒にいたいから居よう。
まったく、祐巳さんもそうだけどこのお子ちゃま達は本当に魅力的なんだから。
それから志摩子さんは返事を返すことも無く暫く黙りこくっていた。
温室の外はいつしか赤い光に包まれている。見えないけれど、夕焼けは絶好調のようだ。
どれくらいそうして無言で座っていただろう。
志摩子さんがポツリと言った。
「由乃さん、ありがとう」
だから、私は自分の為にしたいことをしてるだけだから御礼を言われる筋合いなんて無いんだって。
そう言おうとしたけれど、そこにあった志摩子さんの笑顔があまりにも綺麗で、言うタイミングを逃した。
頬が赤くなったのが自分で分かったから。こんな状態でそんなこと言ったら、まるでどこかのドリルみたいじゃないか。
だから私は何も言わずに、つんつんと志摩子さんのほっぺたを突いてみた。
私の動作が自然だったのか志摩子さんは素直に私の謎の行動を受け入れている。
受け入れられると余計恥ずかしくなるのだけど、柔らかい頬が気持ちいいから暫くそうしていた。
これが私と志摩子さんの距離感。
私から志摩子さんへの、或いは私から祐巳さんへのベクトルは逆に比べて些か大きすぎるけれど
その代わりいろんなお零れに預かれる『親友』という役割も悪くはない。
そして無駄に長くなる